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キリスト者の栄光ある財産目録

NO. 2589

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1898年9月25日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於サザク区、ニューパーク街会堂
1856年某月、主日朝の説教


「ですから、だれも人間を誇ってはいけません。すべては、あなたがたのものです。パウロであれ、アポロであれ、ケパであれ、また世界であれ、いのちであれ、死であれ、また現在のものであれ、未来のものであれ、すべてあなたがたのものです。そして、あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のものです」。――Iコリ3:21-23


 この書簡によると、コリントのキリスト者たちは、非常な分裂に陥っていたことがわかる。その原因は、彼らの間で、それぞれ異なる時期に神のことばを宣べ伝えた教役者たちにあった。コリントの信徒たちの中のある者らは、パウロに深い愛着を感じて、「私はパウロにつく」、と云っていた[Iコリ1:12]。他の者たちはケパの方を好み、「私はケパにつく」、と叫んだ。別の一部はアポロに追随して、「私はアポロにつく」、と宣言した。それで、1つのからだであるべき教会には、異なる指導者たちに従う、いくつかの党派が林立し、悲しくも引き裂かれ、分裂していた。パウロがこのコリント人への第一の手紙を書いたのは、彼らの不和を取り除くため、そして、可能であれば、彼らを再び愛と一致の絆で結びつけ、彼らを1つの教会とし、ひとりの《主人》に仕え、聖徒にひとたび伝えられた信仰のためともに戦う[ユダ4]ものとするためであった。

 さて愛する方々。コリントにおいて起こったのと同じことは、ロンドンでも、他の場所でも、何度となく起こってきたことである。人々が自分に福音を宣べ伝えてくれる者たちに愛着を感ずるのは、何も間違いではない。だが、これが過度の崇拝となり、礼拝にさえ近くなるとき、また人々が他のいかなる教役者たちをも軽蔑するようになり、神から遣わされたと自分の信ずる人以外のだれの話も聞かなくなるとき、実際、彼らは、このコリント人たちと同じように厳粛な叱責を必要とするし、彼らにはこう云い渡さなくてはならない。「ですから、だれも人間を誇ってはいけません。すべては、あなたがたのものだからです」 <英欽定訳>。私たちに真理を知らしめる手段となった人々を愛すること、神の言葉を伝える媒介として、驚くべき言葉を語っている人に敬意をいだくことは、実際、自然なこと、全く正しいことにほかならない。だが、私たちが、その人を分不相応に持ち上げたり、その人を他のあらゆる人々の上に置き、他の教職者を軽蔑し、「私はパウロにつく。アポロの話は聞かない」、とか、「私はアポロにつく。だからケパの話は聞けない」、とか云うようになった時点で、それは罪となり、不義となり、神に対して、また、その《教会》に対して、また、神に仕える教役者たちに対して、そむきの罪を犯すこととなる。そのとき、使徒のこの厳粛な叱責は、力を込めて打ち込まれるのである。「ですから、だれも人間を誇ってはいけません。すべては、あなたがたのものです。パウロであれ、アポロであれ、ケパであれ、また世界であれ、いのちであれ、死であれ、また現在のものであれ、未来のものであれ、すべてあなたがたのものです」。パウロは賢明な叱責者であった。また、あまりにも厳しすぎる叱責はしなかった。彼が、「だれも人間を誇ってはいけません」、と云った後で、いかに彼らを叱責しているかに注目してみるがいい。「すべては、あなたがたのものだからです」 <英欽定訳>。彼は、いかなる厳しい言葉も用いなかった。ある教役者たちは、年がら年中、自分の聴衆を鞭で打ち、叱りつけていると聞く。だが、古いことわざはこう云っている。「鞭は、飼い葉桶の中に入れておくにしくはない」。これは、馬のみならず人間をも理解していた人々の語った言葉である。人々は、よく養えば、よく働くものである。健全な教理をふんだんに与えるならば、実践するようになるものである。人々に実践させたければ、実践についてだけ語るべきではない。人々は、天から降ったマナで養われ、岩からの蜜で養われることによって、常に自分たちの《主人》のために戦い、その御国の進展のために労する気持ちにさせられるのである。

 さて、キリスト者よ。今朝は立って、自分の土地を縦と横に歩き回り[創13:17]、あなたの所有するものを目にするがいい。この世の何にもまして、人々に対する不相応な崇敬を減じさせ、人間を誇らせないようにしてくれるもの、それは、自分自身にいかなる価値があるかを見てとることである。もしあなたが自分の資産や、自分の所有物を目にするなら、何か1つのことを――たとい、それ自体ではきわめて尊いものであるにせよ――そうそう過大に評価することはなくなるであろう。

 まず第一に、私たちの前にあるのは、キリスト者の所有物の目録である。「すべては、あなたがたのものです」。第二に、私たちにはその権利証書がある。「あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のものです」。そして第三に、私たちには、莫大に豊かな者として期待されるふるまいがある。「だれも人間を誇ってはいけません」。

 I. 第一に、いま述べたようにここには、《キリスト者の所有物の目録》がある。この目録の冒頭で使徒は、全体の総計を記述し、それから個々の所有物を1つずつあげている。その総量は、「すべて」である。だが、この簡単にすぎる言葉は、その意味するところがあまりにも大まかであるため、彼はその物事1つ1つを詳細に、しかるべき場所において示している。まず彼は「すべて」と云い、それから、その「すべて」の成分である物事の一覧表を示すのである。

 さて最初に彼は、すべての教役者は、あなたがたのものである、と云う。キリスト者であるあなたにとっては、いかなる種類の教役者たちも、「パウロであれ、アポロであれ、ケパであれ」、あなたのものである。すべての説教者がパウロではないし、すべての人がアポロのようではないし、すべての人がケパのように語れるわけではない。だが、あらゆる種類の教役者たちは、あなたがたのものである。彼らは、独立した個人ではない。《教会》全体に属している。そこにはパウロがいる。明晰で論理的な知力の持ち主で、健全な教理を宣べ伝え、さらに、それを力強く宣言している。彼はあなたのものである。行って彼の話を聞くがいい。そこにアポロがいる。雄弁な説教者である彼は、論理学者というよりは演説家である。論理的推断は不得手かもしれないが、自分の思想を美しい形に変えて、優雅に叙述する。そこには、荒削りなケパがいる。言葉を飾らず、ぶっきらぼうで、正直で、ずばずばものを云う人物である。彼は決して歯に衣を着せない。彼が何かを云うとき、それは心底からの、熱心なものである。彼の一言一言には魂がこもっている。彼を軽蔑してはならない。あなたはパウロの方を好んでいるであろう。また、アポロの方が趣味に合っているであろう。だが、ケパにも果たすべき務めがある。そして、そのすべてはあなたがたのものなのである。――彼らの才幹も、彼らの持ち場も、彼らの有するいかなるものも、――すべてはあなたがたのものである。

 あなたは時々、「私の教役者」という云い方をする。しかり、あなたには特定の教役者がいる。だが、すべての教役者はあなたのものである。その個別の教役者だけでなく、神に召されたすべての教役者がそうなのである。その説教の独特の様式がいかなるものであれ、彼らは、もし本当に神のしもべであれば、あなたに益をもたらすべき、あなたのものなのである。そこにはボアネルゲ[マコ3:17]がいる。彼は、雷のように、必ず来る御怒りについて説教する。彼の説教によってあなたは恐怖する。彼はあなたの魂の全面に砕土機をかける。彼はあたかも、神の雷鳴が鳴り轟き、稲妻が足元で閃くシナイの山頂からやって来たばかりであるかのように語る。厳粛な畏怖に打たれた人のように語る。まるで彼は、しばしの間、火と硫黄の池を横切り、地獄の深淵の中に降り、悪人たちが横たわり、自分の縛めに噛みついている、ぞっとするような穴を見てきたようである。彼の話を聞くがいい。彼はあなたのものである。ここに別の人がいる。それは、優しい慰めの言葉を語るバルナバである。あなたは、彼からめったに雷鳴を聞くことがない。彼の説教は、夕べのそよ風のようである。彼は、翼の下に癒しがある太陽[マラ4:2]のようである。心の打ち砕かれた人に優しく語りかけ、彼らの傷を包む[詩147:3]。あなたは彼の話を聞くのを愛する。彼はボアネルゲと全く同じくらい有益であり、ボアネルゲはバルナバと同じくらい有益である。そして、彼らはふたりともあなたのものなのである。ひとりは愛に満ちたヨハネであり、甘やかな気質をしている。彼の目の中には愛が記されている。彼は自分の頭をイエスの胸にもたせかけており、彼が語るときには、「お願いしたいことがあります。私たちが互いに愛し合うということです」*、と云う[IIヨハ5]。別のひとりはペテロのようである。彼は、嘲る者たちがやって来る終わりの日[IIペテ3:3]について、また不敬虔な人々を焼き尽くす火[IIペテ3:7]について、すさまじい話をする。ペテロとヨハネのふたりとも、その特有の領分があり、彼らはふたりともあなたのものである

 神がある人を祝福されるとき、――聖霊からの油注ぎがその人の上にとどまるとき、――その人が使徒たちにならい、使徒たちの教理を、使徒的なしかたで宣べ伝えることによって、使徒たちの血統に連なる者であることを示せるとき、――そのときには、実際あなたは、彼をあなたのものであると云える。というのも、「パウロであれ、アポロであれ、ケパであれ……すべてあなたがたのもの」だからである。「だとすると、私は何とちっぽけで、了見の狭い者なのだろうか」、とキリスト者は云うであろう。「あの人やこの人が、完全に私の流儀にかなっていないからといって、気にくわないというのは」。おゝ、親愛なる方々。あなたは、神に仕える教役者たちを自分の思い通りに形作りたいと思うのだろうか? もしあなたにそうできたとしたら、そうした者らは情けない連中である。神は、教役者たちをご自分の思い通りに作り、ご自分のしかたに従って世に送り、それぞれの者にご自分のしかたで行なうべきご自分のみわざを授けておられる。だが、彼らはみなあなたがたのものである。そこには、非常に甘やかな説教をする教役者がいる。よろしい。彼はあなたのものであり、あなたのしもべ、あなたの従僕である。彼はあなたの上に立つ領主でも主人でもなく、あなたのしもべである。「私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです」[IIコリ4:5]。彼が何者であれ、真に神に仕える教役者だとしたら、自分を《教会》のしもべ、まぎれもなくあなたの所有物であると告白するであろう。ならば彼を最大限に利用するがいい。彼が語るであろうあらゆる良いことを試し、想起するがいい。彼の口から出て来るいかなるえり抜きの言明も、いかなる黄金の文章も、いかなる銀の言葉も、大切に蓄えるがいい。というのも、それらはみな、パウロの言葉であれ、アポロやケパの言葉であれ、あなたがたのものだからである。これが、この目録の最初の記載事項である。

 そして次に、世界が私たちのものである。この大いなる世界、自然に考えられる際の、私たちの住まいである世界は、みな私たちのものである。人々は、それを自分たちのために開拓してきた。この世の子らは云ってきた。「これこれは私のものだ。これこれはあなたのものだ。向こうの畑は、あの金持ちに属しており、あそこの家々や、あの庭園は、別の人の持ち物だ」。彼らがそうしたければ、それを自分のものだと呼んでもよいが、この世界はあなたがたのものである。それは、この下界で、あなたがその法的所有権を持っている限り、あなたのものである。それは想像においてでも、思い込みにおいてでもなく、現実にあなたのものである。いかにしてか、とあなたは尋ねるだろうか? 教えよう。この世界は、あなたのためだけに存在しているのである。もしあなたや、あなたの同胞キリスト者たち全員が、その中から去ってしまい、もし義人が世を去ってしまったとしたら、世界はたちまち不毛の荒野となるであろう。「あなたがたは、地の塩です」[マタ5:13]。その保存剤、保護剤である。それは、あなたがたのために存続している。あなたを取り去れば、世界は一転して腐敗し、滅びてしまう。世界は、あなたの魂が救われるための足場にすぎない。それは、あなたが上にある世界へと入るために自分を備える場所でしかない。もしも義人がいなかったとしたら、この世界はとうの昔に火で焼き尽くされていたであろう。神は、ご自分の子どもたち全員を家へと連れ帰るまで、その火焔に待てと命じておられる。神が世界を存在させておられるのは、ただご自分の選民のためだけである。これは下落した世界であり、その全面にかの蛇の痕跡が残っている。それは駄目にされており、その麗しさは傷ついており、美しくはあっても偽りの世界、その栄光が去ってしまっている世界である。神は、ご自分の《教会》を荒野で養おうと意図していなかったとしたら、それを完全に滅ぼしておしまいになるはずである。だが、その荒野をご自分の民に通り抜けさせるまで、そこを一掃することをなさらないであろう。

 世界はあなたがたのものである。その一片たりとも、あなたのものでないものはない。その東西南北のすべては、あなたのものである。人跡未踏の氷雪地方はあなたのものである。広大無辺の海洋はあなたのものである。彼方の紺碧の空は、その星々の宝石もろとも、あなたのものである。「すべては、あなたがたのものです」。ある人は、その特定の一部を、「これは私のものだ!」、と云う。その人は自分が何を云っているか知らないのである。それはあなたのものである。それは、ほんのしばらくの間、その人に貸し与えられているにすぎない。その人は借用人としてそれを占めているのである。その人は、あなたの家をあなたのために管理している人間にすぎない。そこにその人が住み、その慰めを享受していようと、それは、あなたの家である。その人は長椅子の上に長々と寝そべっているが、その家はあなたのものなのである。そして、やがてイエス・キリストが、罪を負うためでなく二度目に来られるとき[ヘブ9:28]、また、栄光に輝くしかたでその長老たちとともに地を統治なさるとき[イザ24:23]、世界はあなたのものとなる。そのとき、あなたは冠を戴き、神のために王とされ、祭司とされ、千年間地を治めるのである[黙5:10]。

 この世界は今あなたのものである。あなたは云うであろう。「そうはいっても、私は貧しく、世のものなどほとんど持っていません」。それにもかかわらず、世はあなたのものである。ただ、あなたが成年に達していないにすぎない。息子は、成人になる前であっても、全財産の真の相続人であることは、やがてそれを完全に所有するようになったときと全く変わらない。彼は、生活に必要なものだけは十分持っているが、それしかない。それでも、彼は云う。「これは私のものだ。そして私が二十一歳になるとき、私はそれをすべて持つことになるだろう」、と。それと同じく、キリスト者よ。あなたは現在は子どもでしかなく、あなたに、あなたの全財産を今すぐ与えても役に立たないであろう。あなたがまだ成年に達していないからである。だがあなたは、見習い期間を終えたときには、「これは私のものだ」、と云うであろう。しかし、私はあなたがこの世の必要なものをも十分持っていないと云っているのが聞こえるだろうか? シーッ! 黙っているがいい。さもないと、この約束が破られてしまう。「彼のパンは与えられ、その水は確保される」[イザ33:16]。私は、あなたに十分なものがあることを知っている。あるいは、たとい現在は十分なものがなくとも、それはあなたのもとにやって来つつある。神はあなたを離れなさらない。たとい神があなたを極度に低く貧しい状態に至らされるとしても、それでも神に信頼するがいい。というのも、神の約束は、あなたの必要を満たすとされているからである。「若い獅子も乏しくなって飢える。しかし、主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない」[詩34:10]。信仰によってあなたの主を試すがいい。もしあなたに自分を養うべき何の状況も、何の手立てもなくとも、それでも神に願うがいい。そうすれば、神は、あなたが必要とするすべてを与えてくださるであろう。もしあなたに枕する所さえなくとも、神はそれをあなたに与えてくださる。あなたの苦悩がいかに深いものであっても、神は決してあなたを滅びるままにはなさらない。神の栄誉はあなたの利益に直接に関与している。あなたがいかに貧しくとも、この世界はあなたのものである。ならば、あなたの《天の取引銀行》に要求するがいい。あなたの神のもとに行き、あなたが必要とするものを求めるがいい。そうすれば、神が神であられるのと同じくらい確実に、神は窮した者の叫びを聞き、あなたの祈りをないがしろにされないであろう[詩102:17]。

 そして次に、「いのち」が私たちのものである。あなたは一度も人がこう云うのを聞いたことがないだろうか? 「おゝ! もし私が死んで世を去り、イエスとともにいられたら、どんなに良いことか!」 またあなたは、その人が、この詩篇作者の願いを繰り返すのを聞いたこともある。「ああ、私に鳩のように翼があったなら」! さて、もしその人に鳩のような翼があったとしたら、それでその人は何をするだろうか? どこにそれをつけるだろうか? 「ああ!」、とその人は云うであろう。「私に鳩のように翼があったなら。そうしたら、飛び去って、休むものを」[詩55:6]。否。あなたは休めないであろう。もしあなたが自分の務めを果たさないまま飛び去るとしたら、そのときには安らぐことができないからである。しかし、あなたの務めが成し遂げられるとき、あなたは鳩の翼など必要としなくとも休めるであろう。それゆえ、もはやこのように愚かな願いをしてはならない。むしろ、主の時をただ待つことで満足するがいい。それだけでなく、いのちを悪しきものとみなしてはならない。それは私たちが所有する良いものの1つである。これは結局の所、人がいかにそれを楽しみ、いかに活用するかを知っているならば、栄光に富むいのちなのである。何と! 善を施し、神の栄光を現わすための手段がこれほどあり、イエスと交わる心地よい時期がこれほどあり、永遠のためにこれほど備えをすることができるというときに、下界で生きることを恥じるというのか? 何と! いのちを無とみなすというのか? これは私たちの所有する、最大の祝福の1つである。そして、私たちに割り当てられた労苦が成し遂げられるまでここにとどまることは祝福である。また、私たちは自分のいのちが一時間でも縮められることを願いはしない。というのも、神はその終わりをあらかじめ定めておられるからである。いのちを祝福とみなさないような人は、病的なものの考え方をしていると思う。いかに試練や悲しみが山積していようと、いのちは、なおも貴重な宝石である。それは鉄の指輪にはめ込まれているかもしれないが、宝石であることに変わりはない。いのちは、希有の真珠のように海の深みに隠されているかもしれない。だが、信仰によって潜水夫の役を務めることのできる人は、その真珠を拾い上げ、その価値を見てとるであろう。私が思うに、天の御使いは、地上で生きることになるとしたら、自分が施せる善のゆえに喜ぶであろう。もし私が地獄から魂を救い出す手段になれるとしたら、もし私が嘆き悲しむ者の涙を拭い去ることができるとしたら、もし私が、神の御助けによって、心の打ち砕かれた人を包み、とらわれ人を解放することができるとしたら、もし私の同胞が、私を媒介として、義の道に導かれることがありえるとしたら、もし私が地上にとどまっていることによって魂が破滅から奪い去られ、地の相続人が天の相続人とされるとしたら、ならば、おゝ、神よ。われを生かし給え! 私が思うに、メトシェラの寿命も、もし私たちが地上にとどまることによってより良く神に仕えられるとしたら、十二分に活用されたと思うし、天国に行くのをそれほど引き延ばされても容易に許せるであろう。いのちを呪いとみなしてはならない! キリスト者よ。それを祝福とみなし、祝福とするように心がけるがいい。それは、もしあなたが耕さなければ、雑草や茨だらけのものとなるであろう。だが、もしあなたが不屈の勤勉さと真剣さで耕すなら、あなたはそれを主の園のようにするであろう。あなたは荒野をエデンのように花咲かせ[イザ51:3]、砂漠は喜びのためにカルメルのようになる。そして、山や丘は、あなたがたの前で喜びの歌声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らすであろう[イザ55:12]。しかり。パウロがいのちを祝福であると書いたとき、彼は正しかった。それは確かに祝福だからである。

 次のことは、全く何の価値もないように見える。「死であれ」。しかし、愛する方々。もし死がなかったら、いのちに何の値打ちがあるだろうか? 本の中には、延々と平易な黒い文字が続いた後で、極彩色の「完」という字で終わるものがある。いのちもしばしばそれと同じである。それは黒い文字で印刷されているが、最後の頁に至るとき、それは栄光で照らし出されている。――その頁は死だからである! おゝ、いのちよ! 私はお前の背後に死が見えないとしたら、お前のことを呪いと呼ぼう。下界に常に生きることなど、だれが望むだろうか? この地上を永久に歩くこと、また、主から離れて下界に住み、肉体の中に存在していること、それはまぎれもなく呪いであろう。しかし、いのちは、いのちの後に死が来ればこそ、祝福である。しかり。死そのものはキリスト者にとって祝福なのである! 通常、私たちは死を、その実態としてではなく、その見かけとして眺める。死は御使いであり、被造世界で最も麗しいものである。だが、死は時として、すさまじい衣を身にまとっていることがある。それは恐ろしいものに見えるが、実はそうではない。さらに、私たちは死の全体を見てとらないがために、死をぞっとするものに思う。知っての通り、ベルシャツァルは、壁に手で書かれた文字を見たときに震えた[ダニ5:6]。手のほか何も見えず、からだが見えなかったからである。それこそ、私たちが死の手を恐れる理由である。私たちには手のほか何も見えないからである。もし私たちに死の全身が見えたとしたら、私たちはそれを智天使とみなすであろう。実際、死はイエスを信じている者にとって陰鬱なものではない。日々いかに死と交わるべきかをわきまえている人々は、決して死について語ったり考えたりすることを恐れない。それは、果てしない喜びへの門である。では私たちはそこに入っていくことに恐れおののくだろうか? それは何だろうか? 墓は、私たちのからだが、エステルのように、香料で沐浴し、主が、「目覚めよ!」、と云われるときまで浸かっている浴槽である。その後私は自分の墓からよみがえり、不死と栄光を着て、主とともに永遠に住むのである。

 死よ。私はしばしばお前の前で震えてきた! 真夜中の時、私は死ぬのは恐ろしいと考えたことがあったし、お前の青ざめた幻影におののいた。おゝ、死よ! お前の身の毛もよだつような姿は私を脅えさせたことがあった。私はお前から逃げ去ろうとした。だが、お前は今や私の奴隷である。私はもはやお前を前にして震えはしない。死よ。お前は私のものだ! 私は、お前を私の持ち物、私の家財の1つとして書き記し、私の財産の一部とする。用心するがいい。お前の主人を震えさせようとしてはならない。お前は私の主人ではない。死よ。私がお前の主人なのだ! さあ来るがいい。私にお前の手を取らせよ。おゝ、死よ! 私は日々、自分自身と語り合い、お前とも語り合うことととしよう。墓場の中で、どくろのしるしを見てとり、死すべき生の残りに注目するのは私たちにとって有益である。私たちがそれを見下ろし、自分の力がいかに高くとも、自分の頭が低く横たえられなくてはならないこと、私たちが屈伏し、私たちのからだが虫たちの謝肉祭となり、大通りのちりのように天の四方へと吹き散らされなくてはならないことを見てとるのは、私たちのためになることである。それを考え、それから、そのあらゆる陰鬱さ、それに伴うあらゆる陰惨さとともに、死が私たちのものであることを考えるのは、良いことである。

 おゝ、死に好感をいだくのは快いことである! 私が話に聞いたことのある、ひとりの善良なキリスト者は、死ぬのが怖くはありませんかと訊かれて、こう答えたという。「私は、この四十年の間ずっと、朝ごはんの前には、自分の足をヨルダン川にひたしてきたんです。今ではその流れも怖くはありませんよ」。死ぬとはいかなることかを日々知っているとき、ついに死ぬのは良いことである。パウロは、「私にとって、毎日が死の連続です」、と云った[Iコリ15:31]。よろしい。もし私たちが毎日死に続けるとしたら、私たちの最後の日に死ぬことも難しくはないであろう。あなたは主を愛しているとしたら、死を恐れないであろう。信仰者よ。もしあなたが死を知っていたとしたら、それを恐れることはなく、喜ばしいことと感じるであろう。あなたは、友人たちが自分の枕頭に集まり、自分がその全員に暇乞いをする、あの寂しい部屋のことを考えている。その痛みと呻きと争いのこと、そして、その最期の時の恐ろしい厳粛さについて考えている。だが、そうしたことを考えてはならない。主があなたを迎えに来られることを考えるがいい。というのも、主は来られるからである。そして、あなたの魂はたちまちその翼を広げ、天へと飛び去るであろう。あなたはイエスとともに死ぬことを恐れるだろうか? もしあなたが、時として私が立つ所に立ったとしたら、恐れないであろう。それは、死に行く聖徒の寝床のそばである。私はそうした人の手を取る。するとその人は私に云ったものである。「兄弟。これこそ、主が恵み深くあられる証拠となるところです。私はイエスとともにいることになります。私の意気地や力は尽きてしまいました。ですが、主は私のいのちの強さであり、私が永遠に受ける分なのです」。そして、その人の目は栄光の炎そのものを閃かせ、その人の口は詩歌を囁き、その人の顔つきは万巻の書よりも雄弁になり、その人の心からは永遠の至福があふれ出し、その人の魂全体が不死の輝きを放っているように思われる。おゝ、キリスト者が死ぬとき、そのそばに立ち、その人がいのちの断崖に立ち、その翼を打ち鳴らしてから羽ばたいていくのを見るのは心励まされることである。その人が旅立つ果てにあるのは広大な未知の領域ではなく、光と愛に満ちた海であり、そこにその人は浮かんで、ついにはパラダイスの門に至るのである! このような喜びの光景を目撃するのは二重に甘やかで、祝福されることである。死は私たちのものである。ならば、私たちはそれを恐れはしないであろう。実際、いつか死ぬことになるのは特権だからである。

 それから次に、「現在のもの」が私たちのものである。さあ、愛する方々。今日、何が私たちの「現在のもの」であるか見てみよう。ある人は云うであろう。「何不自由ない暮らしが、私の現在のものの1つです。主はこの世で私を祝福しておられます。私には多くの喜び、多くの慰めがあり、何1つ不服はありません。何もかもが感謝すべきことです」。よろしい。それは、あなたのものである。だが、兄弟よ。それによって益を得られるように用心するがいい。悲しいかな! 何不自由ない暮らしには、カプアにおける休暇がローマ軍兵士に及ばしたのと同じ効果がある。それは魂を弱め、その力を取り去る。あなたがそうならないようにするがいい。そうならなくてはならない必要はない。というのも、もし、神の御霊の働きによって、あなたが聖められているとしたら、不自由のない生活はあなたの役に立つものとなりえるからである。というのも、それはあなたのものである現在のものの1つだからである。

 「あゝ!」、と別の人は云うであろう。「逆境が私にとっては現在のものです。私のからだは、耐えがたい苦痛で苦しんでいますし、私の状況は私が願っているようなものではありません。私は極度の苦痛を覚え、あちこちへと追い立てられています。私は、広々とした大海で迷子になった海鳥に似て、波くぼから波頭まで、上下に揺さぶられています」。逆境はあなたのものである。それは、あなたに善を施す。方々。それはあなたの腰に帯を締めさせる助けとなり、あなたの神経と腱とを強化する。それはあなたを労苦に対して強くする。神があなたを炉の中に入れたのは、「汝がかなかすを焼き尽くし、汝が黄金を精錬せんがため」である。逆境を祝福とみなすがいい。あらゆることにおいて、神に感謝をささげるがいい。あなたの喜びと同じようにあなたの試練についても。あなたの解放と同じようにあなたの誘惑についても。あなたの杯の甘さと同じように苦さについても。というのも、同じ愛に満ちた御手がその一方をそこに入れ、もう一方と混ぜ合わされたからである。「現在のもの」はみな、あなたのものである。

 それから、そこには摂理がある。それは常に伴っていて、あなたのものである。「神を愛する人々のためには、すべてのことが働いて益となる」[ロマ8:28 <英欽定訳>]。それから、義認がある。これは現在のあわれみである。「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています」[ロマ5:1]。それは、あなたのものである。さらにここには聖書がある。これは現在のものであり、あなたのものである。その中にある尊い約束の1つたりとも、創世記から黙示録までを通じて、あなたのものでないものはない。その中のえり抜きの一文たりとも、あなたのものでないものはない。すべての「現在のもの」はあなたに属している。他に何があるだろうか? 何と! そこには、子とされることがある。というのも、あなたがたは今、神の子どもだからである。それがあなたのものである。最終的堅忍がある。それは神が今でさえ約束しておられることである。神はご自分の子どもたちを守り、最後まで耐え抜かせてくださる。それはあなたのものであり、あなたがたが思い描くことのできる、栄光に富むいかなることも、今あなたとともにあるものはみな、あなたのものである。

 しかし、ここで絶頂に至るがいい。「未来のもの」である。これらもあなたのものである。何と! あなたは、「未来のもの」に震えているだろうか? あなたは、こう云っているだろうか? 「私は未来が恐ろしい。私のあわれな船は、非常に多くの嵐をくぐり抜けてきた。私は前進するのが怖い」。おゝ! 震えてはならない。未来はあなたのものである。そして、もしそれが嵐と暴風雨の未来、大時化と岩礁の未来、流砂と浅瀬の未来であったとしても、それはあなたのものである。あなたの《船長》が舵を取り、あなたを無事に導き出してくださる。が未来にあろうと、それがいかに陰鬱で陰気に見えても、あなたのものである。それは「未来のもの」の1つである。さらに、死の後で一時の間、墓に横たわることも、あなたのものである。その墓からあなたがよみがえる復活もあなたのものである。世界を驚愕させる恐ろしい喇叭も、開かれることになる数々の書物も、燃えるような稲妻も、恐ろしい雷鳴もあなたのものである。震えおののく宇宙も、審きに伴うすさまじい事がらすべても、あなたのものである。《審き主》ご自分もあなたのもの、あなたの《兄弟》、あなたの《友》である。かの大いなる大火災も、天地が飛び去ることも、枯れたいちじくの葉が木から落ちるように星々が天から落ちることも、こうしたすべては、あなたのものである。被造物が揺れ動き、物質が振動し、地震が起こり、惑星が動揺し、宇宙がぶるぶる震え、天体が瓦解すること、これらはみなあなたのものである。恐ろしく、厳粛で、崇高で、すさまじいものはみな、あなたのものである。あなたの想像力を結集するがいい。やがて来たるべき恐ろしいことすべては、あなたのものである。あなたの魂は、不死の中に大事に保存されていて、「これはみな、私のものだ」、と云うであろう。死後、その恐るべき完成を迎えることになる、このすさまじい一大活劇は、あなたのものである。もしも悪人にとって身の毛もよだつ地獄があるとしたら――そして、それは確実にあるに違いないが――、それは、あなたのためのものではない。だが、もし実際そうある通りに栄光に富む偉大な天国があるとしたら、それはあなたのためのものである。天国には、あなたのものである立琴があり、天国には、あなたのものである冠がある。かの黄金の通りを思うがいい。それはあなたのものである。それは、「未来のもの」だからである。《いと高き神》ご自分を思うがいい。その神はあなたのものであり、あなたは神がそうあられることを感じるであろう。おゝ、キリスト者よ! 天国はあなたのものである。愛する方々。自分の眼前に天国を描き出そうとしてみるがいい。私には、あなたがこう云うのが聞こえるような気がする。「これが天国なのか? そして、そこに私がいるのか? 私の頭には冠があるのか? 私は白い衣を着ているのか? おゝ、栄光に富む世界よ! 私は一度も天国がこのようなものだとは思い描いたことがなかった。私には、比喩があった。夢があった。想像していた。だが、これは、私が思い描いたことのあるすべてを凌駕している。おゝ、驚くべき天よ。お前は何と栄光に富んでいることか! そして、そこには私のキリストがおられるのだ!」 私はあなたがキリストについて何と云うことになるか知らない。主について何らかの言葉を発そうとするのは冒涜に近いであろう。だが、あなたが主とともにいて、永遠に主の胸の上に伏しつつ、その心臓の鼓動があなたの鼓動に重なり合うのを感じ、この《神-人》なるお方が永遠の愛で自分を愛してくださったのを知って、主の心が、ほむべき間柄というこの上もなく甘やかな絆によって、永遠に自分のものであると感じるとき、――そのとき、あなたは「未来のもの」があなたのものであることを見いだすであろう。というのも、天国はあなたの現実の持ち物となっているからである。さて、これがキリスト者の栄光ある財産目録である。実際、こうしたすべてを所有している人は、富んでいる。このような言葉遣いができる人は、富んでいる。「パウロであれ、アポロであれ、ケパであれ、また世界であれ、いのちであれ、死であれ、また現在のものであれ、未来のものであれ、すべて私のものです」。

 II. さて、私たちが次に目を向けるのは、《その権利証書》である。それはキリストの御名によって作成されている。「あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のものです」。

 私が生まれながらのキリストから離れている者である限り、こうした事がらの何1つとして私のものではない。これらはみな、私に反している。死はキリストから離れては私のものではない。実際それは、恐るべき破局であろう。いのちはキリストから離れては私のものではない。キリストから離れて地上で生きるのは、危険きわまりないことであろう。私の持っているすべては、イエスを通して私のもとにやって来る。ならば、ここでその権利証書を眺めて、私がそれらにあずかる権利があるか確かめさせてほしい。それは2つの部分に分かれている。最初に、「あなたがたはキリストのものです」、ということがあり、二番目に、「キリストは神のものです」、ということがある。

 「あなたがたはキリストのものです」。さあ、キリスト者よ。自分を相手に独白するがいい。「わが魂よ。お前はキリストのものか? お前は、自分が三重の意味でキリストのものであると云えるだろうか? お前は、御父がお前をキリストに贈与してくださったがゆえにキリストのものだろうか? お前は、キリストの血で買い取られたがゆえにキリストのものだろうか? お前は、自分で自分をキリストに聖別したがゆえにキリストのものだろうか? 私は、永遠の贈与により、父なる神が私を御子に与えられたがゆえにキリストのものだろうか? 私は、振り返って見るとき、自分の名前がいのちの美しい本に書き記されているのが見えるだろうか? 私は、聖なる信仰とともに振り返って、運命の巻物を見、自分の名前をその中に読みとれるだろうか? 私には、地の基が築かれ、その柱が打ち込まれるはるか以前から、自分が主に与えられていたという、謙遜で聖なる信仰があるだろうか? 私は主のものだろうか? 私はこう云えるだろうか? 『古に立てられたこの契約は、永遠に真実である』、と。私は、自分が主に与えられたと云えるだろうか? 私は、主権の選びの愛を喜んでいるだろうか? 私のうちにある、いかなる理由によってでもなく、ただ神ご自身の無代価の恵みによって私を《救い主》に引き渡したその愛を喜んでいるだろうか? もしそうなら、それは私がキリストのものであるという1つの証拠である。

 「しかし、さらに、わが魂よ。お前は振り返って、お前がキリストの血で買い取られたがゆえにキリストのものでることを見てとれるだろうか? お前がゲツセマネに行くとき、あの血糊の雫はお前のために地に落ちているのだろうか? お前がガバタに行くとき、主が辱められ、髪の毛を引き抜かれたのはお前のためだと思えるだろうか? そしてカルバリでお前は、主の苦悶と恐怖のすべてがお前のためのものだったと感じられるだろうか?」

 愛する方々。あなたは、自分がキリストの血で買い取られたがゆえに、キリストのものであると感じているだろうか? とある原始メソジスト派の祈祷会において、ある兄弟が祈れなくなったという。そこで、その集会の向こう端にいた別の人が、彼ら一流のややもすると型破りなしかたによって、こうかけ声をかけた。「兄弟。血を申し立てるんだ。血を申し立てるんだ。そうすれば祈れるぞ」。その兄弟は十分に理解した。彼はイエスの血を申し立て始めた。すると彼は実際に祈ることができた。おゝ、わが魂よ。お前はその血を申し立てることができるだろうか? 話をお聞きの方々。あなたはその血を申し立てることができるだろうか? 私の兄弟たち。姉妹たち。あなたは、イエスのいけにえは自分のためであったと云えるだろうか? あなたは、イエスが自分を買い取り、自分の代価を払い、そのいけにえがなされたのは自分の咎のためだった、イエスが死んだのは特に自分のもろもろの罪のためだった、と感じているだろうか? あなたはイエスを自分自身のものとすることができるだろうか? できるとしたら、あなたはあらゆるものを自分のものとすることができる。「あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のもの」だからである。

 しかしさらに、私たちは聖別によってキリストのものである。愛する方々。あなたはそのようにしてキリストのものとなっているだろうか? 「イエスが汝れに最初に出会いし/ところと場所をきみは思うや」? あゝ! 私たちの中のある者らは、振り返って、私たちが最初に自分の心をイエスにおささげした場所を寸分違わず告げることができるであろう。主の民の多くの者はそうすることができないし、必ずしもそうできる必要はない。だがしかし、彼らはみな、「私は私の主のもの、主は私のものです」、と云える。あなたは今朝、すでに自分で自分を主イエス・キリストにささげていると感じているだろうか? 自分は自分のものではなく、代価を払って買い取られたものであり、進んで主に自分をささげていると感じているだろうか? あなたはキリストをあなたのすべてのすべてとしており、すべてをキリストのために捨て去っているだろうか? もしキリストがこの通路をつかつかと歩いて来られ、あなたがたひとりひとりのもとに来て、「罪人よ。あなたはわたしを愛しますか?」、と云われたとしたら、あなたはいかなる答えを返すだろうか? もし主がいま会衆席から会衆席を渡り歩いて、あなたがたひとりひとりを見つめて、釘跡で傷ついた御手を示しながら、「あなたは、自分をわたしにささげますか?」、と仰せになるとしたら、あなたはいかなる答えを返すだろうか? あなたは自分自身を完全にキリストにささげたいと願うだろうか? すでにそうしているだろうか? ならば、「すべては、あなたがたのもの」である。なぜなら、あなたは、自分をキリストにささげる聖別によって、キリストのものだからである。

 もしあなたがイエスに自分を聖別しているとしたら、あなたは決して主が厳しい《主人》ではないのを見いだすであろう。私は主をそれなりの期間知っているが、主はご自分の役に立たないしもべに対して、この上もなくいつくしみ深くあられた。私は主にいかなる欠点も見いだしたことはなく、多くの欠点を自分に見いだした。主はほむべき《主人》であられる。おゝ、若者よ。若い娘よ。もしあなたが主を愛するなら、あなたは主があらゆる点であなたの愛にふさわしいお方であることに気づくであろう。何と、主の御名そのものからして、あなたが主を愛する十分な理由であるように思う。「わが《主人》よ! わが《主人》の御名は、いかに甘やかに響くことか!」 しかり。主は私の《主人》であり、あなたの《主人》である。もしあなたがそのしもべとなっており、自分を主におささげしているとしたらそうである。しかし、もしあなたがキリストのものでないとしたら、あなたには何もない。あなたはあわれで、みじめなしろものである。キリストのものでないとしたら、いかにしてあなたは生きることができるだろうか? いかにしてあなたは、厳めしい死に直面し、いかにしてキリストがその御座に着座なさるときキリストの前に立つのだろうか? あなたは、主の雷鳴のような御声が、「離れ去れ、呪われた者ども」、と云うのを聞いても平気でいられると思うだろうか? あなたの肋骨は鋼鉄で、あなたの骨々は青銅なのだろうか? そうだとしても、主が御怒りのうちにお語りになとき、それは砕けるであろう。おゝ、ならば、愛する方々。「御子に口づけせよ。主が怒り、おまえたちが道で滅びないために。怒りは、いまにも燃えようとしている。幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は」[詩2:12]。

 私は、他の部分については示唆するだけにとどめなくてはならない。私たちを神と完全に結びつけるためには、私たちがキリストのものであることの他に、別のことがある。すなわち、「キリストは神のもの」だということである。一方の手でキリストはご自分を人々に結びつけ、もう一方の手でキリストは神に結び合わされている。おゝ、このことを考えてみるがいい! あなたと《神格》との間にはつながりがあるのである。あなたが思い描くこともできない神、その御衣のすそが言語を絶する光によって翳り、人間には目にすることもできないほど壮烈であられるお方、その強大な神、無限の空間を満たし、《無限》であられるお方、万物を1つにしておられるお方が、あなたと結びついておられるのである。キリストが――あなたの《兄弟》であり、あなたと同じ血肉が――あなたに御手を与えておられ、また、神にその御手を与えておられるからである。というのも、キリストは永遠の、無限の神、まことの神のまことの神と同等のお方でありながら、だがしかし、まことの人のまことの人でもあられるからである! おゝ、何と栄光に富む思想であろう。私の証書は御父と御子によって捺印されているのである! そこには、両者の証印があるのである。「あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のものです」。そして、キリストを有しており、キリストのものである私は、すべてをキリストにあって有している。「すべてあなたがたのものです。というのも、あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のものだからです」*。

 しかし第三の点に移る前に、愛する方々。こう尋ねることによって、この件をあなたの良心に突きつけさせてほしい。あなたはキリストのものだろうか? おゝ、いかに多くの者たちが神の家に集っていながら、決して真理の個人的な適用を感ずることがないことか! あなたがたの中のいかに多くの人々が、毎週毎週、安息日に、また平日に座って説教を聞いていながら、決してそれによって益を得ないでいることか! おゝ、方々。説教は子どもの遊びではない! ある人々は云うであろう。「どれ、誰それ氏の話でも聞きに行くか」。それで彼らはやって来る。――ただ単に気晴らしをするために。しかしあなたは、真の教役者があなたの気晴らしのために説教していると思うだろうか? それが彼のなすべき務めだろうか? おゝ、嘘ではない。ここに立ち、神の代理として、神の御名によって語るのは厳粛な務めである! あなたは神のことばを宣べ伝えるのがどういうことか、一度でも考えたことがあるだろうか? おゝ! もし最後の大いなる日に、私たちがあなたに対して忠実に説教しなかったことが示されるとしたら、もし私たちが神のご計画の全体を宣言していなかったとしたら、あなたは実際滅びなくてはならないが、あなたの血の責任は私が問われるのである! また、それから、あなたは、説教を聞くことがいかに厳粛な務めであるか知っているだろうか? おゝ! もし地獄に堕ちた霊たちが地上にやって来ることができたとしたら、彼らは福音を聞くことがいかに厳粛な務めであるか、あなたに知らせるであろう。福音を聞いておきながら、自分の救いや断罪がそれによって何の影響も受けないなどと考えてはならない。ある人の耳に入った福音の一言でも、その人の責任を問うことにならないものはない。私は切に願う。聖書を信じているというなら、キリストを離れて何の救いもないと信じているというなら、こうした事がらを銘記してほしい。これらは些細なことではない。絵空事ではない。あなたのからだに関わることではない。あなたの永遠の存在に関わることなのである。あなたは富んでいるか、さもなければ貧しい。あなたはキリストのものか、さもなければ悪魔のものである。天国への路に立っているか、地獄への路に立っているかである。――どちらだろうか? おゝ、その問いをあなたの耳の中で鳴り響かせるがいい。――どちらだろうか? 天国か地獄か? どちらなのか? 《天国か地獄か》? おゝ、その言葉を、たとえ激しく語られたものであっても、退けてはならない。むしろ、あなたの魂に対するこの問いに答えるがいい。そして、もし正直にあなたが、「私は破滅への路に立っているのではないかと思う」、と云わざるをえないとしたら、そのときには、覚えておくがいい。もしあなたがそれを感じているとしたら、もしあなたが自分の罪を告白するとしたら、イエス・キリストがこの世に来られたのは罪人たちを救うためだったのである。「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです」[Iテモ1:15]。万人を救うためではない。「罪人」を救うためである。――自分の資格を認め、告白しようとするすべての人々は、天来の恵みによって救われる。もしあなたが罪人なら、また主に信頼するなら、主は間違いなく確実にあなたをお救いになる。

 III. さて最後に、《このように莫大な所有物を有する人にはいかなる義務があるだろうか?》 「だれも人間を誇ってはいけません。すべては、あなたがたのものです」。

 もしある人がすべてを有しているとしたら、その人は、何か1つの小さなものを誇りとする必要はない。もしある人がたった1つしか金の指輪を持っていないとしたら、その人はそれを毎日自分の指にはめておき、だれもがそれを見られるような格好をつけるであろう。だが、それよりもさらに多くを有している人は、ただ一個の指輪が見られるようにすることにこだわる必要がない。女王は、ウィンザー城にどれだけの食器や宝石を所蔵しているか、他の人々に知らせることに気を遣うだろうか? だれもが女王が金持ちであること、あり余るほど物持ちであることは知っている。それゆえ、女王がその一部を見せびらかす必要はない。何か小さなことを誇っている人を見いだすときには常に、あなたはその人が自分のしかるべきあり方とは正反対のふるまいをしていると確信してよい。私は、すべてを有しているキリスト者である人が、いかにして、自分にはちょっとした才質があるとか、ちょっとした富があるとか、地位があるとか、身分があるからといって、誇らしくしていられるのか、見当もつかない。そうしたことを誇るのではなく、こう云うがいい。「これは、私の地所の中にある一個の石です。これは私の広大な領地にある一筋の川の中に落ちていた、一個の小さな砂利石です。確かにこれは私のものですが、自慢するほどのものではさらさらありません」、と。「だれも人間を誇ってはいけません。すべては、あなたがたのものです」。ならば、すべてがあなたのものであるとき、1つのことについて自慢していてはならない。小さな子どもは、何か贈り物をもらうと、部屋に入ってくるあらゆる人に、それを見せたがるものである。だが、その子が大人になったときには、自分の持っている何もかもを見せはしない。だが、その人は、以前にましてずっと多くのものを所有しているのである。このように、世の子らは自分の富を大いに誇り、自分の強さを自慢する。だが、キリスト者たるあなたは、この件においてあまりにも先に進んでおり、あまりにも賢い。というのも、「すべては、あなたがたのもの」だからである。そして、確かにあなたは、その1つを過大に重要視したりすまい。

 さて、この件は、実際的にあなたに何と云っているだろうか? あなたがたの中のある人は、友人を喪った。あなたは泣いており、「私はすべてを失いました」、と云っている。否。失ってはいない。というのも、「すべては、あなたがたのもの」だからである。あなたが失ったのは、かけがえのない友人、最も愛に満ちた友だったかもしれない。それは深い試練である。だが、自分の持っているものを考えるがいい。あなたには神がおられる。あなたのもろもろの罪は赦されている。あなたにはキリストの義がある。あなたはそれを失ってはいない。なくなったのは、数枚の小銭にすぎない。あなたの黄金は安泰である。あなたの宝石類は取り去られていない。「ですが、私は自分の宝石類を失ったのです」、とあなたは云う。そうだろうか? すべてを! だとしたら、あなたはキリストを知っていないのである。知っているとしたら、この尊い主イエス以外の何かを宝石と呼ぼうなどとはしないはずだからである。「すべては、あなたがたのもの」であり、すべてを失ってもいないときに、あなたがそれほど身も世もなく嘆き悲しみ、涙に暮れるというのは間違ってはいないだろうか? 別の人は、これこれの親族が取り去られる見込みを思っては、予期される喪失を思って泣いている。さて、あなたを助けるような約束は何もない。というのも、あなたは、自分の困難がやって来る前から泣いているからである。神は、自分で自分の困難を作り上げている人々を助けるような約束はしておられない。覚えておくがいい。あなたが、あなたの所有物の権利証書を失うことはありえない。たといあなたがその写しを失ったとしても、別の写しを手に入れることができる。というのも、原本は天国の保管箱に納められているからである。

 さて、実際的な心得として、私はこう云うことができよう。もし「すべてが、あなたがたのもの」だとしたら、いかにあなたは、神の御国の進展のために、意欲的にささげ物をするようになるべきことか! 貧しくて、無一物の人には、だれもささげ物をするよう期待しはしない。だが、「すべて」を有している人は、君主のようなささげ物をすべきである。イスラエルには、すべてを所有している多くの君主たちがおり、私は彼らには、主の御国のためにささげ物をしてくれるよう依頼してよいであろうと確信している。

 しかし、もう一度私は、この最も重大な問いに立ち返る。私たちはそれを遠のけてはならない。私たちはそれに答えを返さなくてはならない。今ここでか、神の法廷において。――あなたはキリストのものだろうか? あなたがたの中のある人々は、残念ながらキリストのものではない。あなたは決してキリストのものではない。なぜなら、あなたの生き方は肉的であり、あなたの行動はこの世的であり、あなたのふるまいには裏表があり、あなたの生活には非難すべきところがあるからである。ならば、あなたはキリストのものではない。あなたがたの中のある人々はキリストのものでない。なぜなら、あなたは自分自身の義に信頼しており、キリストの血と義だけにはより頼んでいないからである。しかし、あなたがたの中のある人々は、自分のすべてを脱ぎ去り、キリストを自分の《すべてのすべて》としていると思える。もし、あらゆる善に欠けているあなたが、キリストをあなたの善としているなら、もしすべてに欠けているあなたが、キリストをすべてと受け取っているなら、キリストはあなたのものである。これにより、あなたは楽しみを覚えることができる。心において喜び踊るがいい。あなたの陰鬱さは雲散霧消させるがいい。そして、あなたの涙はみな乾き、あなたは言葉に尽くすことのできない、栄えに満ちた喜び[Iペテ1:8]に踊るであろう。というのも、この世界はあなたのものであり、来たるべき世はあなたのものであり、天国は永遠にあなたの幸いな住まいとなるからである。願わくは主が、ご自分の宝石類をお集めになるとき、あなたがたすべてをそのような者としてくださるように! アーメン。

 

キリスト者の栄光ある財産目録[了]

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