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キリストにある完全

NO. 2581

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1898年7月31日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於サザク区、ニューパーク街会堂
1856年某月、木曜日夜の説教


「キリストにある完全な者」。――コロ1:28 <英欽定訳>


 キリストにある完全! もしこれが本当に私たちのものだとしたら、それはいかなる効果を私たちの心に及ぼすべきだろうか? 完全! あなたは、それについて聖書から何を知っているだろうか? 知っての通り、これはあまりにも広大な言葉であって、瞬時に口にできても、その意味の中には、ありとあらゆる言葉が含まれている。何らかの被造物を良いものとして描き出す、いかなる言葉といえども、この完全という言葉に取り込まれていないものはない。私たちの口で云うことはたやすくとも、完全という観念は、いかなる定命の精神にも把握できるものかどうか、私は疑うものである。それは、それが永遠という観念を把握できないのと同じではないかと思う。私たちが永遠について――始まりもなく、終わりもないものについて――考え出すとき、それを悟ろうとしても途方に暮れてしまう。私たちは有限な者だからである。そして私たちが、ひとたび完全について――欠陥もなく、傷もないものについて――思い描こうと努めるときも、私たちは途方に暮れてしまう。なぜなら、不完全な者だからである。それゆえ私たちは、有限な者が無限を把握できないのと同じくらい、完全を理解できない! 実際、完全は、ただ神だけの大権であるように思われる。神はあらゆることにおいて完全であられる。その属性のすべてにおいて、そこには何の欠けもない。いかなる点から神を眺めても、神には何のしみも傷もない。そして、いかなる人も、神について真実に語るならば、神のうちに何か不完全なものがあると云うことはできない。もし私たちが威光について語るなら、神の栄光は比類ないものである。力について語るなら、神の御力は全能であり、実際、無限の力である。知恵について語るなら、神の知恵は《神格》の知恵であり、神は、無限小のことから無限大のことまで、あらゆることを知っておられる。神はあらゆる秘密を悟り、あらゆる知識をその強大な精神の中で把握しておられる。実に、一見すると、完全はただ《創造主》だけにしか属することがありえないかのように思われる。だが私たちは、神のみわざもまた完全であり、神の道も完全であることを思い出す。神が地球と、太陽と、月と、星々を造られたとき、神はそれらを眺めて、「それは非常によかった」、と云われた[創1:31]。当時、自然のおもてに書き記されていたのは、この《完全》という一言であった。神のみわざはみな完全で、欠陥がなかった。この偉大な細工人は、その作品のすべてを完成させ、未完成の部分を何1つ残さなかった。彼が加工しなかった原料や材料は何もなかった。彼が手を触れながら、完全という黄金に変じなかった物質は何もなかった。すべてのものは良かった。しかり、非常に良かった。すべては完全であった。

 今でさえ、地上には完全なものが1つだけある。完全は《堕落》によってしなびさせられ、《エデンの園》が人間の罪によって荒廃させられて以来、完全は去ってしまったとはいえ、地上にあって、私たちが有する、たった1つのものだけは完全である。あなたがたはみな、それが何か知っている。それは、この《聖なる聖書》に含まれている、神の完全なみこころである。定命の者たちの言語によって、完全を綴り上げることを可能にしてみたいと願う者は、聖書を読み通さなくてはならない。そこには、そのあらゆる部分において完全が見いだされるからである。――完全に真実で、完全にあらゆる過誤から免れており、人間に知る必要のあるすべてのことにおいて完全で、私たちを至福に至らせるあらゆることにおいて完全で、その道中の危険について警告するすべてのことにおいて完全である。ここには、まだ完全なものが残されている。だが、私たちが内側を眺める場合、愛する方々。どこに完全さがあるだろうか?

 私は、人間の堕落について長々と証明しようとは思わない。私は、アダムの堕落についても、それがいかに私たちを傷つけ、私たちの性質の完全さをだいなしにしたかについても、多くを語るまい。だが、私はあなたに、この単純な質問を発したい。――あなたは、自分自身の魂において、自分のうちに完全さはない、と感じないだろうか? 日々あなたはそう教えられていないだろうか? また、時にはあなたも、キリストのようになろうと苦闘し、キリストのために仕えようと努力するときがあるとしても、それでも、そうした苦闘や努力そのものの中で、あなたが忘れていることがある。すなわち、あなたは全くキリストにより頼んで生きなくてはならず、自分のもろもろの罪を赦していただくことと同じように、自分のもろもろの義務を聖めていただくことにおいても、キリストに信頼しなくてはならない、ということである。これを忘れるとき、あなたは自分自身の完全を打ち立てようとし始めているのである。あなたが、いかにしばしば自分の心を眺めては、一瞬たりともそこに何らかの完全さがあるなどとは夢にも思えないとしても関係ない。私はこれを教理とすることはせず、ただ単に、あなたも否定しないであろう事実としてこう述べるものである。あなたのうち、すなわち、あなたの肉のうちには、不完全さがあるだけでなく、善が住んでいない[ロマ7:18]。あなたの魂の奥底から、正直にあなたはこう告白する。アダムが完全さを失ったか否かに関わらず、また、あなたが生まれたときに完全さを有していたか否かに関わらず、今のあなた、あなたのふるまい、生活、生き方には、完全さが見られない、と。あなたは、そこに完全さがありさえすればと願う。毎日の経験によってあなたは、その欠けを嘆き悲しんでいる。あなたの目から流れ落ちる涙の一滴一滴が、「不完全」、と云う。あなたの心から漏れる吐息の1つ1つが、「不完全」、と云う。あなたの口から出てくる厳しい一言一言が、「不完全」、と云う。そして、神の律法に対する最も聖く、厳密で、厳格な遵守とともに果たされることのなかった義務の1つ1つが、「不完全」、と大声で叫んでいる。あなたは、捕囚となったシオンの娘のように座り込み、完全の冠は自分の頭から失われてしまい、自分の心から離れ去ってしまった、と告白する。咎ある者として、あなたは神の前にひれ伏さなくてはならない。完全さがあなたのうちにないからである。

 しかし、ここで、完全の教理について語る際に、私たちが思い起こさなくてはならないことがある。聖なる神のことばによると、完全さは、天国に入りたいと希望するあらゆる者にとって絶対に必要だということである。私たちは完全さを失ったかもしれないが、だからといって、完全さに対する神の要求が変更されることはない。私たちが自力で完全になることなど不可能であろうが、神は私たちが完全であることを要求しておられる。聖なる律法が神によって与えられた。そしてもし私たちが律法によって救われたいと願うなら、それを完全に守らなくてはならない。完全な者以外に、だれも天国に入る希望をいだける者はいない。完全さをどこかで――自分のうちになければ、他のだれかのうちに――見いだすことができなければ、その人は不可逆の滅びに陥り、神の御前から放逐されるしかない。日の下にあるいかなる者も、星をちりばめた天国の平原を歩いたり、至福のうちにある黄金の通りを踏みしめるためには、何とかして、どこかで完全さを手に入れなくてはならない。それがなぜかを告げさせてほしい。

 まず第一に、もし神が、完全でもない人間を罰さなかったとしたら、それは神の側における不正となるであろう。神はもともとすべての人に向かって、ご自分の律法を守るように要求しておられた。さて、もしある人が完全でないとしたら、理の当然として、その人は神の律法を破ってきたに違いない。さもなければ、その人は完全だったはずだからである。それを破った以上、神は仰せになる。「わたしは罪を罰する。『罪を犯した者は、その者が死ぬ』[エゼ18:4]」。そして、――《いと高き神》への畏敬の念とともに私たちは云うが、――もし神があらゆる罪を罰さないとしたら、神は正しい神ではなくなる。もし神があらゆるそむきの罪に刑罰を下さないとしたら、神の家紋の盾には汚点がつき、神の御座の純白さは汚点で染まり、神はもはや、私たちが考えてきたような、すさまじいばかりに峻厳で正しい神ではなくなる。私はあなたに云う。方々。あなたが完全でないとしたら、神のご性質そのものが、あなたを罰することを要求するのである。もしあなたの犯した罪がたった1つしかなかったとしても、あなたは神の戒めの板を破ったのであり、あなたはその全体について咎がある。あゝ! だが、あなたが犯してきたのはたった1つの罪だけではなく、一万の一万倍もの罪である。あなたは完全からほど遠く、どこかで――キリストのうちでか、自分のうちでか――完全さを獲得できないとしたら、あなたはいかなる回復の見込みも全くありえないほど失われている。というのも、正しい神として、神は完全さを持たざるをえず、それがない場合、神はあなたをあなたの罪ゆえに罰さざるをえないからである。

 さらに思い出さなくてはならないのは、私たちは、完全でなければ、決して霊において完全である者たちの仲間としてふさわしくなく、神の御座の前に立つこともできない、ということである。御使いたちは完全ではないだろうか? いまだかつて彼らのきよさを罪が汚したことがあるだろうか? 一度は、確かにそういうことがあった。「さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった」[黙12:7-8]。だが、いま神の御座の前にいる霊たちは、神と同じほどにしみなく、きよい者たちである。神は何らかのしみを帯びているだろうか? だれか神に不完全さがあるなどと云おうとする者がいるだろうか? 否。神と御使いたちは完全である。では、人間たちが不完全さを有している場合、御使いたちや神との仲間になるにふさわしいだろうか? もし人々が死ぬときに罪を有していたとしたら、彼らはこうした、罪を知らず、その胸にいかなる陰険さも入っていない霊たちとともに暮らすのにふさわしい者だろうか? 私は、口を開けば神を汚す悪態をつくような人と知己になったり、親しい会話を交わすことができるだろうか? 私自身のふるまいとは似ても似つかぬ性格をした人とともに、心穏やかに暮らせるだろうか? そして確かに、地上における私と私の同胞たちとの間の違いは、罪人とその神との間にある違いにくらべれば、微々たるものであろう。しかり。愛する方々。もしあなたがどこかで――キリストにおいてか、他のどこかで――完全さを手に入れないとしたら、あなたは天国には行けない。完全さをあなたは持たなくてはならない。というのも、神の宣言によると、汚れた者はだれもパラダイスの門に入ることがないからである[黙21:27]。

   「かの聖き門扉(かど) 永劫(ゆめ)入れるまじ、
    汚れと、罪と、恥ずべきものを」。

雪よりも白く洗われた者、また《全能者》と同じくらいきよい者でない限り、《神格》の仲間になり、天界の霊たちと共同の世継ぎとなることは期待できない。天国に入りたければ、完全さを持つしかない。これは、単に神のご性質からばかりでなく、天国そのものの聖さからしても歴然としている。完全でなければ、あなたは天国に入るにふさわしくないであろう。たとい入ったとしても、幸福になれないであろう。

 「それでは、完全さはどこで見いだせるのですか?」、と再びあわれな罪人は叫ぶ。すると、おびただしい数の人々が、勇んで私たちに告げるのである。「そら、完全さはここにある」、とか、「そこにある」、と。儀式尊重主義者は云う。「私があなたに完全さを与えよう。あなたは、赤子のときに、聖なる水の滴を額に振りかけられ、神聖な言葉を唱えてもらうべきである。そうすれば、あなたは新生させられるであろう。長じてからは、聖なる聖餐卓の前に膝まずくべきである。すると、主教の手が厳粛にあなたの上に置かれ、聖餐式のパンと葡萄酒をいただくであろう。そして、あなたが死ぬときには、司祭があなたの枕元に座り、息を引き取る間際に、葡萄酒と呼ばれる素晴らしい馳走を一滴か二滴、また一切れのパンをあなたに与えるであろう。それらは、あなたが天国へ行ける許可証となるであろう。そして、そのようにしてあなたは完全になるのである」。あゝ、あわれな儀式尊重主義者よ。あなたは自分が途方もない間違いをしていたこと、とんでもなく欺かれたことに気づくであろう。目ざめの夢のように[詩73:20]、神は、あなたの手にある、無根拠な建造物をことごとくけちらすであろう。あなたが行なってきたすべてのこと、あなたが織ってきた小綺麗な衣のすべてが、びりびりに引き裂かれ、火に投げ込まれ、あなたは神の前で裸で立つことになるであろう。

 それからやって来るのは思弁的完全主義者である。その彼があなたに告げるところ、あなたはイエス・キリストを信じなくてはならない。そして、それから、厳格な献身の体系により、また、信仰的な義務を絶えず遵守することにより、あなたは3つか4つの段階に達するであろう。まず第一のこととして、あなたは義認に達し、次に聖化に達し、それから次第次第に進歩して行き、ついには完全に聖化されることとなり、人間がその肉体において有しうる最高の段階に到達する。私は、こうした「完全に聖化された」紳士たち何人かと会ったことがあるが、単に彼らの感情を害してやるだけで、彼らの完全さをだいなしにできたであろう。そして、私は実際にそうしたと信ずるものである。というのも彼らは、私が彼らの尊大な自慢を否定すると、途方もなく不機嫌になったように見えたからである。聞いた話だが、ある朝、ひとりの、ことのほか完全な男がジョン・ベリッジのもとにやって来たという。この奇抜で正直な教役者は、相手を非常に無作法にあしらった。それに対して男はたちまち顔色を変えると、ありとあらゆる罵詈雑言を浴びせかけ始めた。ジョンは彼に云った。「あんたの完全さはご立派なもんですな。わしが、ちょいといじくっただけでだいなしになるとは!」 あなたは常に、こうした「完全」と云われる紳士たちが完全からほど遠い人々であることに気づくであろう。私は、いかなることにおいてであれ、自分で自分を「完全」だなどと云う人を信用しようとは思わない。というのも、もしだれかが自分に罪はないと云うなら、その人は偽りを云っており、真理はその人のうちにないからである[Iヨハ1:8]。自分は完全だと云う人は、神のことばを誤解しており、自分を知らないのである。

 それでは、どこで完全さは見いだされるだろうか? この聖句が私たちに告げるところ、あらゆるキリスト者はキリスト・イエスにあって完全であり、主なる《全能の神》の息子や娘たちはキリスト・イエスにあって完全である。この、キリストにある完全の意味を、努めて説明させてほしい。

 I. 第一に、ここで、《神の民が「キリストの中に」ある》ことを考えるがいい。

 私が最初に言及したいのは、彼らは、ひとり残らず、選びの契約においてキリストの中にいる、ということである。神がその御民を選んだとき、神は彼らをひとりずつ、ばらばらに選んだのではなく、キリストをお選びになり、そしてキリストのうちにあって、御民は全員選ばれたのである。さながら、私が一個のどんぐりを選別するとき、その外皮の中に眠っている、いまだ生まれざる森全体を選別するのと同じように、神がイエスを選んだとき、神はイエスのうちにあるすべての民、キリストが永遠の結合によってご自分のものとして取り上げ、ご自分の人格と1つになさった者たち全員をお選びになったのである。

 第二に、その選ばれた者たちはみな、救拯によっても、キリストのうちにある。イエスが死なれたとき、私たちイエスを信ずる者たちひとりひとりは、イエスにあって死んだのであり、キリストが苦しまれたとき、私たちはキリストにあって苦しんだ。私たちの罪はキリストの頭の上に置かれ、今やキリストの功績は私たちの上に置かれている。キリストは、十字架上でその血を流すことによって、その選民全員の罪のための贖いをなさった。私たちは、主が死なれたとき、主のうちにいた。彼らが主を墓に葬ったとき、主のうちにいた。主がよみがえって、多くの捕虜を引き連れなさったとき[エペ4:8]、主のうちにいた。そして、いま主のうちにいる。

 第三に、私たちは、主イエス・キリストを信ずるとき、現実に、明確に、また自覚的に主のうちにいる。そのときこそ、すなわち、聞くことによって、また神のことばを聞くことによって信仰がやって来るときこそ、私たちが意識的にキリストのうちにある者となるときである。私たちは、それ以前もキリストのうちにはいたが、そのことを知らなかった。私たちは、世界の基の置かれる前から[エペ1:4]、イエスのうちにあって揺るがない者とされていた。だが、私たちはそのことを知らず、その証拠は何1つなかった。私たちは未成年者のようなものであった。二十一歳になるときに、父親から与えられるであろう財産は、あるいは、父親が遺してくれる財産は、積極的に彼のものだが、成人するまでは指一本触れることを許されない。そのように、契約の財産すべては、選民が信ずる前から彼らのものであるが、彼らは、定められた時が来て、主権の恵みによって信ずるときまで、それに触れることはできない。人は、成年に達するまでは、成年者になるとき持つことになるものによって、大した慰めを得られない。それを食べて生きることはできず、それを支えとすることもできない。そのように、キリスト者は、自分が受け取っていないものに養われることはできない。信仰を有するとき、そのとき私たちは自分の相続地に入るのである。信じた途端に私たちは、成年に達する。私たちはもはや保護者や、家庭教師や、養育係の下にはいない。むしろ私たちはキリストのもとに連れて行かれる。私たちは完全な年齢になっており、「キリストのうちに」あると云われる。罪人が信ずる瞬間に、彼は「キリストのうちに」ある。だがいかなる人であれ、自分で信ずるまでは、――自分をキリストに明け渡すまでは、――自分をイエスにゆだね、イエスによって救っていただき、イエスに仕え、イエスのために死に、最後にはイエスにあって死に、イエスとともに永遠に生きるようになるまでは――、だれひとり、自分がキリストのうちにあるなどと申し立てる権利はない。

 II. 本日の聖句の教理は、《「キリストのうちに」あるあらゆる人は完全である》、ということである。

 これは私たちを吃驚させるだろうか? 本日の聖句に伴う威光の輝きには、雄弁をもって語れるだれかが必要である。しかり。この栄光に富む意味を宣言するには御使いがいなくてはならない。信仰者たちは、キリストにあって、完全なのである。――ひとり残らずそうなのである。そこに、神から新しく生まれたばかりの者がいる! 彼がその信仰をイエス・キリストに置いてから、ほんの十分しか経っていないかもしれない。それ以前の彼は酔いどれで、悪態をつく者で、冒涜する者であった。だが、それでも私はあなたに云う。もしこの男が本当に信じており、キリストのうちにあるとしたら、彼はキリストにあって完全である。別の男は信仰後退者であった! かつての彼は神の道を歩んでいたが、自分の信仰からさまよい出てしまっている。さて神は彼を立ち戻らせつつある。神は彼をつかみ、この男は泣いている。悔い改めている。大声をあげている。彼の骨は、その転落によって折れており、彼の魂は死に至るほど痛み、かつ病んでいる。悔悟の涙を滂沱と流しながら立っている彼を見るがいい! 私はあなたに云う。この男は、信仰後退者だったかもしれない、ダビデが犯したよう罪を犯してきたかもしれない、だがキリストというお方にあって完全なのである、と。別の人がいる。白髪の老人である。長いこと彼は自分の主人の戦いを戦ってきた。――多くの痛手と傷を受け、この定命の生の苦難と試練は彼を大いに弱めてしまった。もしあなたが彼に、果たしてあなたは完全かと聞いたなら、彼はあなたに云う。「いいえ。頭の天辺から足の裏まで、生まれながらに私は病んでいるのを感じます。私のうち、すなわち、私の肉のうちには、善が住んでいないのです」。彼は、自分自身ののすべてを放棄する。自分自身に対する信頼のすべて、キリストから離れた希望のすべてを放棄する。私はあなたに云う。その老人は、キリストにあって完全である。彼の短所がいかなるものであれ、彼の弱さがいかなるものであれ、私は頓着しない。ならば、おゝ、キリスト者よ。たといあなたの罪が多くとも、あなたに弱さがからみついていても、あなたが短気であろうと、ことによると、肉の情欲が時として起ころうと、そして、保護の恵みだけがあなたが道を踏み外さないようにしていようと、たといよこしまな考えがあなたの思いをよぎろうと、きょうのあなたが自分の悲しい現実を嘆き悲しみ、「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」[ロマ7:21]、と叫んでいようと、私はあなたに云う。キリスト者よ。あなたは主にあって満ち満ちており[コロ2:10]、キリスト・イエスにあって完全な者である。主の血で洗われ、主のを着せられ、主のご人格に結び合わされたあなたは、この瞬間、主にあって完全なのである。雅歌には1つの箇所がある。かつて私が、このほむべき頌歌を読んでいたとき、非常な光明をもって私の脳裡に射し込んできた箇所である。それは、こう云う。「わが愛する者よ。あなたのすべては美しく、あなたには何の汚れもない」[雅4:7]。これはイエス・キリストがその《教会》に語りかけている言葉である。彼女は云う。「私は日に焼けて、黒いのです」[雅1:6]。彼女は自分自身の不完全さと、美しさに欠けていることを認めている。だがイエス・キリストは仰せになる。「わが愛する者よ。あなたのすべては美しく、あなたには何の汚れもない」。ご自身の《教会》を、頭の天辺から足の裏までごらんになって主は何の傷も見てとることがない。なぜなら、彼女は主のうちにあるからである。彼女は自力で立っているのではない。彼女の分裂や、彼女の会員および彼女の教役者たちのもろもろの罪は、世の目、あるいはキリスト者たちの目をもって見るならば、はなはだしい欠点である。だが、もしあなたがキリストのうちにある彼女を見るならば、彼女のあらゆる欠点は消え失せてしまう。彼女は、女王のように輝いて見える長衣で覆われている。彼女の古い衣は乞食のもの、不身持ちな女のもののようであったが、彼女は今や威光と光の衣を有している。「あなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです」。しかり、あなたがたは、「キリストにある完全な者」である。

 思うに、主の民のある者たちにこのことを信じさせるのは至難の業であろう。あなたがたの中のある人々は、信仰による義認を完全には理解していないがために、奴隷となって苦役に服している。そして私の信ずるところ、私たちの時代の牧会活動の大きな欠陥は、イエス・キリストというお方における完全な義認が、余すところなく説教されてはいないことである。一部の教役者たちは、義認について説教しながら、人々を放縦に至らせかねないような事がらを何か云う。それゆえ、私たちは義認について何1つ云うことを禁じられているのである。しかし、愛する方々。私は確信しているが、キリストにある私たちの完全について私があなたに云えるすべてのことは、決してキリスト者を放縦に至らせることはない。というのも、その人は、「キリストにある完全な者」なので、自分でも、さらにキリストのようになることを望み、いやまさって、日に日に、聖霊の聖めの影響力が自分の上に及ぼされ、自分が罪から守られることを求めるようになるからである。多くの人々は、アルミニウス主義者や半カルヴァン主義者のもとに行っては、あれやこれやのことを聞かされる。彼らは、ありとあらゆる種類の神学を団子のように丸めて1つにしている。ペラギウス主義のかけらを、アルミニウス主義の切れ端に付け足し、それらをカルヴァン主義にくっつけ、それを一緒くたにしてソッツィーニ主義と結びつけては、あらゆる種類の奇妙な組み合わせが、1つの奇妙なごたまぜに混ぜ合わされ、それを彼らは飲むのである。だが、彼らに足りないのは、そうしたものではなく、純粋な、混じりけのない神のことばの乳が、信仰による義認の教理的な説教という形にされたものである。

 いかにして私たちは義と認められるのだろうか? それこそ私たちが答えるべき問いである。私たちが義と認められるのは、行ないによってだろうか? 恵みによってだろうか? 真のキリスト者であればだれしも云うであろう。「私たちは信仰によって義と認められます。私たちは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です」[ロマ3:28; 5:1; ガラ3:24; エペ2:8]。よろしい。ならば、もし私たちがキリストにあって信仰によって救われているとしたら、私たちは行ないによって救われると云えるだろうか? たとい私が今の瞬間、何の良いわざも有していないとしても、私に信仰があるとしたら、一万もの良いわざを有しているのと同じように完全に義と認められているではないだろうか? 確かに、私が信仰によって義と認められているとしたら、良いわざは必ず後からついてくるであろう。だが、良いわざは決して義認を得るための功徳にはならない。良いわざは、はしためであって、女主人ではない。キリストを信ずる信仰こそ義認の土台であり、かしら石であり、冠石である。良いわざは義認の証拠である。それは、義認を獲得することとは何の関係もない。十字架上で死んだあのあわれな強盗は、良いわざを行なうことなどほとんどなかったが、自分の《主人》に仕えて八十年を送った人と全く同じくらい確実に天国に行った。私を救うのは、私のうちにある何かではない。キリストだけである。もし私が自分のことをこの世で最も忌まわしい生き物であると感じていても、たとい私が自分自身を憎み、忌み嫌っていても、それでも、もし私がキリストを信ずる信仰を有していることを知っているとしたら、もし私が主の贖いとしてのいけにえに自分を投げかけるとしたら、私は変わっても主は変わることがなく、主は常に同じように完全であり、主のうちに罪は何もなく、それゆえ、私は、自分のあらゆる腐敗と過ちにもかかわらず、今朝、主のうちに立って完全なのである。

 III. さて、これからごく手短に考察したいのは、心の中で悟られる際の、キリストにある完全という《この教理の影響》である。

 まず私は、ある人々が云うであろうことを重々承知している。彼らは云うであろう。はっきり云って、この教理は必然的に、人々をして、良いわざなどほとんど何の役にも立たないものと想像させるに違いない、と。だが私は彼らに問いたい。もし彼らが一度でもルターの著作の何かを読んだことがあるとしたら、果たして彼らは、彼がいかに委細を尽くして良いわざおよび肉の義に関して語っているかに注意したことがあるだろうか、と。もし彼の著作を読むとしたら、彼らは、プロテスタント教徒として、またルターに従う者として、私が標的を踏み越えてはいないことを見いだすであろう。また、もし彼らがローマ人への手紙に目を向けるならば、彼らはパウロがいかにこう宣言しているかを見てとるであろう。「もし恵みによるのであれば、もはや行ないによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります」[ロマ11:6]。もし彼らが他の書簡を読むとしたら、私がこの主題について、いやまして多くのことを云えたはずであることを見てとるであろう。私は、この教理が人々を罪に至らせるいかなる傾向があることも否定する。自分のこととしてそう云える。私自身の生活に関する限り、私は常に、自分が最も聖くないと知っているときにこそ、最も自分が聖い者でいることに気づく。最もイエスに頼って生き、最も自分から脱して生きるときにこそ、最もイエスに似た生き方ができる。「私はキリストだけに頼って生きなくてはならない。私は救いのためには主おひとりにより頼まなくてはならない。そして、こう信じなくてはならない。いかにふさわしくなくとも、私はイエスにあって救われているのだ、と」。こう私が云うとき、感謝のための動機として、私にはこういう思いが起こってくるのである。「私はキリストに自分をささげきって生きないというのか? キリストの功績によって救われたと知っていながら、キリストを愛し、キリストに仕えようとしないのか?」 これは美徳に対する最も強固な絆であり、聖い生活に対する最も強い束縛である。

 それから、この教理の次の効果を告げさせてほしい。これによってキリスト者は、最も大きな静穏、平静、安らぎ、平安を与えられる。神の聖徒たちは、いかにしばしば意気消沈し、悲しい状態になることか! 彼らはそうなるべきではない。そうなるとも思わない。もしも彼らが常に、キリストにある自分たちの完全さを見てとることができるとしたら、そうである。私は、あなたがたが「腐敗の人々」を有していることは承知している。年がら年中、腐敗について説教し、他の何についても説教しない人々、心の堕落と、魂に染みついた悪とについてあなたがたに語る人々のことである。だが私はそれよりも少し先を行きたい。私が「キリストにある完全な者」であることを思い出したい。腐敗について常に長々と語っている人々が、あれほど悲しげに見え、あれほどみじめな様子をしているのも無理はないと思う。だが、私はこう思う。もしある人が常に、キリストにあって自分が完全なのだということを見てとれるとしたら、その人は幸せになるであろう。苦悩が私を苦しめても、それが何だろうか? 私はキリストにあって完全なのである。サタンが私に襲いかかろうと、私はキリスト・イエスにあって完全なのである。私には、天国に行き着くまでになさなくてはならない多くのことがあるが、それらは天来の恵みの契約において、私にために行なわれているのである。欠けた物は何1つない。キリストがそれをことごとく成し遂げておられる。

   「『完了せり!』
    聞けよ、死に給いし主の叫びを」。

そして、もしそれが完了しているとしたら、私は主にあって完全なのであり、「ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおど」る[Iペテ1:8]ことができるのである。

 あわれなキリスト者よ。あなたはキリストにあって完全なのである! 試練に遭っているキリスト者よ。あなたはキリストにあって完全なのである! もし聖霊がこの真理をあなたの魂にあてはめてくださりさえしたら、たといあなたが大海原の波くぼそのものの中にあるとしても、自分がキリストにあって完全であると考える、それだけで、喜びのあまり星々にも上る思いとなるであろう。ある人々は自分に何の完全さもなく、頭から足まで罪に覆われていることを意識している。そこに、今晩この会堂にこそこそもぐり込んできた、あわれでみじめな人がいる。その人は、説教を聞けさえするなら、鼠の穴にもぐりこむか、この建物のどんな片隅に押し込められてもかまわないと感じていた。座席に座るなど、自分にとってあまりにも大それたことだと感じていた。その人は、聖徒たちとともに立つことさえほとんど恥じていた。それほど、自分が取るに足りない罪人であると信じていた。私はあなたに云おう。愛する方よ。もしあなたがあわれな、裸の、律法によって罪に定められた罪人であるとしても、それでもあなたは、自分が「キリストにある完全な者」であると見てとることができるのである。人よ! これによってあなたの耳はヒクヒクしないだろうか? それを思うだけでも、あなたの心は喜びに躍り上がらないだろうか? あなたはいかにどす黒くとも、いつの日か白くなる。いかに汚れ果てていても、やがてきよめられる。いかに悪い者であっても、良い者にされる。しかり。あなたのそむきの罪がいかに巨大なものであっても、あなたの犯罪がいかに暗黒であっても、たといあなたが人殺しであったとしても、キリストの血はあなたの手から血を洗い去ることができる。あなたは泥棒だったかもしれないが、イエス・キリストは、ご自分では取らなかったものを持ち主に返し、あなたの罪すらも赦してくださる。あなたはこれまでこの地上を辱めてきた者らの中で最も邪悪な者かもしれない。あなたは、町通りでは歩く有害物かもしれない。だが私はあなたに云う。もしあなたが今晩イエス・キリストを信ずるなら、あなたは完全にきよい者となって家路につくであろう。おゝ、この救いはいかに驚くべきものであろう! キリストは虫けらを取り上げては、御使いに変えてくださる。不潔なものを取り上げては、智天使にしてくださる。どす黒い、不格好なものを取り上げては、きよく、比類ない栄光のあるもの、こよなく美しいもの、熾天使たちの仲間となるにふさわしいものとしてくださる。

 おゝ、わが魂よ。立って、このほむべき、キリスト・イエスにある完全の教理をあがめるがいい! あなたが日増しにきよくきよくなっていくとしても、それでも完全はあなたを越えたところにある。高みは、完全さは自分のもとにないと云う。深みは、「完全さはここにはない」、と云う。地の腹わたのくぼみは私たちに、「完全さは、私たちのところにはない」、と告げる。完全さがあるのは、イエス・キリストというお方のうちだけである。おゝ、キリスト者よ。このことを考えるがいい! イエスの衣があなたの上に着せかけられているのである。キリスト・イエスの戴いていた王冠は今や、神の御目においては、あなたの頭の上にあるのである。かつては主がその肩の上に打ちかけていた空色の長衣は、今やあなたのものなのである。主の銀の履物はあなたのものである。主の栄光を締める黄金の帯はあなたのものである。主の罪なき生涯の比類ないきよさはあなたのものである。キリストがお持ちのすべてはあなたのものである。あなたは主にあって完全な者である。あなたに欠けているもので、主が与えることのおできにならないものは何1つない! もしあなたが、自分の必要を列記した長大な一覧表を持って主の貯蔵庫に行き、「私はこれがほしいです」とか、「あれがほしいです」とか云うとしても、それはみなそこにある。そして、あなたが欲する以上のものがそこにある。あなたは聖化を欲するだろうか? それはそこにある。救拯を欲するだろうか? それはそこにある。あなたを強める恵みを欲するだろうか? それはそこにある。保たれることを欲するだろうか? それはそこにある。人よ。あなたは今晩、貧しく、裸で、盲目で、みじめで、意気消沈しながら立っているだろうか? 私は云う。なろうと思えばいつでも豊かになれるというのに、自分の貧乏さとみじめさの中にひたりきってているような馬鹿をしていてはならない。何と、キリスト者よ。あなたは今、貧しく、みすぼらしく、裸にされているだろうか? あなたは、あの壁の穴が見えるだろうか? その上には1つのしるしがつけてある。十字架の形のしるしである。私はあなたに1つの鍵を貸してあげよう。「約束」という名の鍵である。行って、それをあの鍵穴に差し込むがいい。あなたがそれを開くとき、あなたが欲しているものが何であれ、それをあなたは見いだすであろう。最初に、そこには黄金の浴槽がある。その中であなたは洗われてきよくされる。その次に、そこには一枚の長衣が吊り下げられていて、今のあなたが裸であるとしても、あなたはそれを着ることになる。そこには、あなたがかぶるべき冠があり、あなたが欲することのできる何もかもがある。もしあなたがパンを欲するとしたら、それを見いだすであろう。こう云われているからである。「彼のパンは与えられ、その水は確保される」[イザ33:16]。慰めを欲するとしたら、それはそこにある。すべての事がらは、キリストのうちに隠されている。

 今朝、私は、女王の金賞盃を見て、目を奪われた。私は女王の金賞盃に、あるいは、他のだれの金賞盃であれ、大した値打ちを認めるものではないが、これほどの価値あるもの――そこここに宝石がきらめいているもの――を見るときには、その高価さに驚愕し、それをみな売り払って貧者に施すとしたら――というのも、私はそれらがむしろそうなってほしいと思うものなので――いかほどになるか見当もつかない思いになる。しかし、もし私が一度でもキリストの富のすべてを見てとることがあったとしたら、その富がいかに豊かなものであるか、あなたに告げられるだろうか? 私は驚愕のあまり両手をあげ、あわれみの1つ1つを目にするにつれて、こう云うであろう。「これは黄金のあわれみだ。この値打ちは、一体いかほどだろうか?」 私は、それらの1つの価値をもあなたに告げることができないであろう。「あゝ!」、と御使いたちは云うであろう。「こうした尊い事がらを見積もろうなどとしてはならない。というのも、それらはキリストの血によって買い取られなくてはならなかったのだから。そして、あなたは、その天来の血の値を知るまでは、こうした種々のあわれみの価値がわからないのだ」。

 さて、私の講話を終わるにあたって、こう尋ねさせてほしい。あなたがたの中のだれが、このほむべき教理を自分のものとして受け取れるだろうか? あなたがたの中に、「キリストにある完全な者」は何人くらいいるだろうか? ある人々は云うであろう。「私は自分が、今のままでも完全な者だと思っています。私は、いま生きているだれにも負けない上品な紳士のつもりです。あなたがどんなたわごとを云っても、侮辱されるつもりはありませんぞ。少なくとも私は、他の人々と同じくらいには善良だし、もしかすると、ずっと善良かもしれません。そして実際私はこう思います。もし天国がえこひいきに基づいているのでない限り、私はそこに入るに違いないとね。私は、自分が非常に善良で正しい者だと思っていますから」。ならば、イエスの御声を聞くがいい。「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいなように、あなたがたも、外側は人に正しいと見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです」[マタ23:27-28]。「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国にはいっているのです」[マタ21:31]。

 別の人は云うであろう。「キリストにある完全な者ですと? いいえ、先生。私はそんな者ではありません。私は自分がキリストの血にあずかっていないことを知っています。そして、もし自分があずかっているなどと云うとしたら、それは真っ赤な嘘となるでしょうし、私の良心は私に反対して叫ぶでしょう。私の心の中にある何かかが、私の口にそう云うのを許さないのです」。ならば、愛しい心よ。そうは云わないがいい。私は、あなたに真実でないことを語ってほしくはないからだ。もしあなたが、自分はキリストに全くあずかっていないと感ずるのだとしたら、あなた自身の魂にそう云うがいい。この件は正面から向き合うに越したことはない。あなたは、キリストがあなたのために死んだことがわからないと云う。もし今晩死んだなら、自分が永遠の苦悶の中に沈み込むだろうことは確実だと云う。よろしい。そうした思いを肝に銘じて、三十分ほどよくよく考えてみるがいい。――「私はキリストから離れている。私は罪に定められた罪人である。そして、もし私が死ぬとしたら、自分が地獄に沈み込むはずだと感じている」。こうした思いを恐れてはならない。「もうそんなことは考えまい」、と云う人のようであってはならない。むしろ自分に正直になるがいい。自分をごまかして何の得があるのか? あなた自身の魂を公正に扱うがいい。自分の帳簿を調べて、掛け勘定がいかほどになっているかを調べることは決して人に害を及ぼしはしない。もし破産しているとしたら、それを知ることによって人は何も失うことはない。もし債務超過で支払い能力がなくなっているとしたら、それを自分自身に対して隠しておいても、その分金持ちになることはないであろう。あなたは云うであろう。「それは本当です。私は失われた、罪に定められた罪人です」。よろしい。そう考えることによって、あなたは膝まずき、こう叫ぶであろう。「おゝ、神よ。私をイエス・キリストの恩恵にあずからせてください!」 そして、かの偉大な神、祈りを常に聞かれるお方は、あなたをお救いになるであろう。あなたは、喜びながら、キリストにあって勝ち誇りつつ帰っていくであろう。

 さらに別の人は、私が、「あなたはキリスト・イエスにある完全な者ですか?」、と問えばこう答えるであろう。「あゝ、私はそうだと思います! へりくだった信仰によって、私は自分の手をイエスの頭に置いています。そして、私はにあって完全な者として立っていることを知っています」。ならば、私の兄弟よ。あなたの心を私に近寄せてほしい。今晩、心と心を震わせようではないか! おゝ、これは甘やかな兄弟の間柄、キリスト・イエスにあって完全な者同士の兄弟関係である! あなたは、主にあって完全である。ならば、私の兄弟よ。その涙を拭い去ってしまうがいい。あなたはキリストにあって完全なのである。あなたは、あそこにいるあわれな罪人が何と云っているか知っているだろうか? 彼は、こう云っているのである。「おゝ、主よ。もし私にそう云うことができたとしたら、健康などどうなってもかまいません。貧乏であろうが、金持ちであろうがかまいません」。この人は、もし自分が「キリストにある完全な者」であるとわかりさえすれば、生きている限り決してみじめにはならないと考えている。ならば、愛する方よ。なぜあなたは、思いの中でうなだれているのか。あなたは、「キリストにある完全な者」だというのに? なぜあなたは地に打ち伏しているのか。いいかげんに、柳の木々に掛けた立琴[詩137:2]を取り上げるべきである。私には、悲しみが入り込むべき何の余地も見えない。かりにあなたが救貧院に行くことになり、身を暖めるべき一塊の火もなくなるとしても、気にすることはない。あなたは、「私はキリストにある完全な者なのだ」、と云えるのである。ことによると、あなたは次の食事がどこからやって来るか、ほとんど見当もつかないかもしれない。――だが、「イエスにある完全な者」と思って心励まされるがいい。あなたの身をおおう襤褸服を通して、寒風が身にしみるようであっても、もしあなたが、「私はイエスにある完全な者なのだ」、と云えるとしたら、あなたは貧乏でも満足していられるであろう。あなたが痛みの中にあり、寝床の中で輾転反側しているとしても、もしあなたが、「私はイエスにある完全な者なのだ」、と云えるとしたら、それはあなたの霊を和らげる薬のように効くであろう。そして、厳めしい死が立ち現われるとき、あなたは彼を真っ正面から見据えて、「私はイエスにある完全な者なのだ」、と云うだけでよいであろう。そう云った瞬間に彼はひとりの御使いに変わり、痛みは至福に変じ、悲しみは不滅の栄光となるであろう。願わくは神が、あなたがたすべてに、あなたがイエスにあって、ただイエスだけにあって、永遠にイエスにあって完全な者であると悟らせてくださるように!

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《C・H・スポルジョンによる講解》

イザ55

 

キリストにある完全[了]

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