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シオンの繁栄

NO. 2576

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1898年6月26日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於サザク区、ニューパーク街会堂
1856年前半、木曜日夜の説教


「あなたは立ち上がり、シオンをあわれんでくださいます。今やいつくしみの時です。定めの時が来たからです。まことに、あなたのしもべはシオンの石を愛し、シオンのちりをいつくしみます」。――詩102:13、14


 利己的な人が苦難に陥ったとき、その人を慰めるのはきわめて難しい。なぜなら、その人の喜びの源泉は完全にその人自身のうちにあり、その人が悲しみに落ち込むと、その人の泉はことごとく涸れてしまうからである。しかし、心の雄大な人、慈悲心とキリスト教的博愛精神に富む人には別の泉があり、そこから慰めが供給されている。その人自身の内にある泉とは別の泉がある。その人はまず第一に自分の神のもとへ行き、そこであふれるほどの助けを求めることができる。そして、その人を助けようとする私たちも、その人自身とは関わりのない別の議論を用いることができる。すなわち、世の中全体に関する議論、その人の国に関する議論、そして何にもましてキリストの教会に関する議論である。この詩篇の筆者は、きわめて深い悲しみに打ち沈んでいたように見受けられる。彼は云う。「私は荒野のペリカンのようになり、廃墟のふくろうのようになっています。私はやせ衰えて、屋根の上のひとりぼっちの鳥のようになりました」[6-7節]。そして、自分の状況の中には何の慰めもないことを見てとったため、彼が自分を慰めることのできる唯一の道は、神が立ち上がってシオンを慰めてくださるだろうと信ずることであった。たとい彼が悲しみのうちにあろうとも、シオンは繁栄するのである。彼自身の状態がいかに低かろうと、それでもシオンは立ち上がるのである。キリスト者たる人よ! あなたは常に、教会全体に対する神の恵み深いお取扱いによって自分自身を慰めることができる。だが、もしあなたの所属している教会が悲しく、病んだ状態にあるとしたら、何によってあなたは自分を慰めるだろうか? そのときは、確かにあなたは詩篇作者とともに、こう云わざるをえないであろう。「私は、パンを食べるように灰を食べ、私の飲み物に涙を混ぜ合わせました。それはあなたの憤りと怒りとのゆえに、あなたが私を持ち上げ、投げ出されたからです」*[9-10節]。

 私たちは4つのことに注目することにしよう。教会の繁栄の性質と、必要と、手段と、しるしである。

 I. 《キリスト教会の繁栄の性質》。ここで私は多くの人と意見を異にしている。というのも私は、繁栄していると呼ばれている多くの教会が、繁栄とはほど遠い状態にあると考えており、さげすまれている一部の教会が神の評価においては最も繁栄していると考えるからである。

 大会衆が集っているとき――私たちは必ずしもそれを、ある教会が繁栄しているしるしであるとは思いみなさない。私たちも、人々が神のことばを聞こうと群がっているのを見るのは嬉しく思うし、集会で大群衆がエホバを大声で賛美するのを聞くことは喜ばしいことである。だが、こうしたことをいくら目撃しても、それでその教会が繁栄していると決め込みはしない。いくつかの場所に関して私たちは、神があらゆる座席を空にしてくださるよう祈りたい気がする。というのも、そこには、ローマへと向かう脇道か、神のことばの根本的原理からさまよい出ている道があるからである。その建物は扉がはちきれんばかりに満杯かもしれないが、その内側には寒々しい葉枯れ病があるかもしれない。何千人もの会衆が、自分は正しいと考えながら、実は神の聖なるみことばに反するようなしかたで礼拝している場所よりは、キリストの真の御民が六人だけ集っている場所の方がずっと繁栄しているであろう。

 また私たちは、人々の富が教会を繁栄させるとも思わない。ある種の貴族的な共同体に属する人々に聞いてみるがいい。「あなたの教会は繁栄していますか?」 「ええ」、とその人は云う。「先日の日曜には、十九台もの馬車が表で待っていたんですよ」。別の人に同じ問いをしてみるがいい。その人は云うであろう。「ええ。何千人分にも匹敵する、だれそれ氏が教会員になっていますからね」。私たちは、富者の魂は貧者の魂と同じくらい尊いと云うものである。だが、それと同時に、たといだれかが私たちのもとにペルーの金山すべて持ち来たったとしても、それで教会が繁栄しはしないであろう。多くの教会は、富は豊かに有していながら、信仰にはきわめて貧しい。そのような富はことごとく、メソジストの素朴な敬虔心か、古の清教徒の烈々たる熱心と交換した方がましであろう。

 また私たちが思うに、教会は、必ずしもその教役者が際立って雄弁であるからといって、繁栄しているとは限らない。現代は、いわゆる「知的説教」を重んずる傾向がある。だが私は、そこにいかなる知性も全く見てとれない。私は文学的な人々が説教するのを聞いたことがあるが、私には云えることは、ただロックの語ったこの言葉だけであった。「もしもある人が自分の意図していることを他人に理解させられないとしたら、まず間違いなくそれは、そこに何の意味もないからである」。もしあなたがその人の云いたいことを即座に理解できないとしたら、そんな人は見放すがいい。おそらくその人自身も理解していないのであろう。私たちは、知的《合理主義》が私たちの諸教会をはずかしめるのは間違いだと思う。神の講壇は、神の民のためのものである。もし人々が哲学を教えたければ、劇場や公民館に行ってそうすればよい。私たちの講壇からキリスト教を取り除いてしまえば、私たちはどうなるだろうか? 講壇は教会の中心的要塞である。――キリスト教界のテルモピュライ[紀元前480年、スパルタ軍がペルシア軍に大敗したギリシアの山道]である。ここでは、聖書の偉大な諸真理が教えられなくてはならない。そして、自分の講壇を福音宣教のために用いない者は、それを辱めているのである。たといその人の才能が超人的なものであっても、その人は神の教会を辱めたのである。イエス・キリストの福音の、《福音主義的な》諸原理をやむことなく宣言しない人はそうしているのである。

 それでは、愛する方々。あなたは私に問うであろう。いかにすれば教会が繁栄しているかどうかがわかるというのか?――答えよう。――私は、教会が何のために作られたか、その目的を考察しなくてはならない。そして、もしその特定の目標を成し遂げていないとしたら、その教会は繁栄していないのである。教会が設立された目的は2つ。第一に、迷い出ている神の羊をキリストの囲いに連れ戻すことである。そして第二に、囲いの中に連れ込まれた羊たちをはぐくむことである。

 私たちは、《天来の》真理が宣言されるのを聞くことのできる場所に入る。私たちは尋ねる。「今年、この教会には何人の人が加えられましたか?」 「ひとりも加わっていません。何の進展もありません」。別の年に再び尋ねる。同じ答えが返される。「罪人はだれも救われませんでした。だれも囲いに導き入れられませんでした」。私たちは、永遠の福音の教役者たち全員に対して非常な敬意を払うものである。私たちは、たとい悪い教役者を友人として受け入れることになりかねなくとも、善良な教役者は、ただのひとりたりともはじき出したくないと思う。だが私たちは、自分の兄弟におべっかを云うつもりはない。その人の会衆に気を遣うつもりもない。もしその人が魂をキリストのものとして獲得していないとしたら、その人の教会は繁栄してはいない。もしバプテスマ漕が回心者を受け入れるために開かれたことが一度もなく、もし教会の扉が救いを求める魂を受け入れるためにその蝶番を回転させたことが一度もなく、もし新会員として受け入れられて聖餐卓に着いた者がひとりもおらず、もし神の選民が導き入れられていないとしたら、私たちは、果たしてその人が神の教役者であるかどうか強く疑うものであり、その人が有能な教役者でないことは確信するものである。自らの真中で新しく生まれた魂の呱々の声を一度も聞くことのないような教会は、悲しい、悲しい状態にある。説教しても、ひとりも魂が獲得されないような月や週など決してあるべきではない! 何百人もキリストに導かれたことを聞かないような年を過ごすのは、死よりも悪いことだと私たちは考える。真の繁栄とは、主の子どもたちが不敬虔な者たちの間から集められているときであり、神が、そのみことばの媒介によって、かたくなな心を砕き、強情な意志を曲げ、シオンで嘆く者たちを、その《救い主》の愛によって喜ばせてくださる時である。あなたの教会は、そのように増加しつつあるだろうか? ならば、それは真に繁栄しているのである。

 また私たちは、キリスト教会が設立された理由はもう1つあるとも述べた。すなわち、自らの徳を建て上げるためである。キリストの羊が養われている教会は幸いな教会である。愛する方々。もし神の民が養われていないとしたら、私たちはその教会が繁栄しているとは考えない。ある人々は、「養う」という言葉を笑ってきた。私たちは人々がこう云うのを聞いてきた。「養われるなど、どういう意味なのだ?」 あゝ! 子どもたちならその言葉の意味を知っており、私たちの話を聞いている方々なら、それがどういう意味か知っているであろう。彼らは、私たちの飾り細工などどうでもよい。私たちが食物をよそう大皿のことなど、また、私たちの肉の切り分け方などどうでもよい。私たちは、それをなまくらな料理刀で切るかもしれない。だが神の子どもはそれを愛する。だが、もしそこに聖徒たちのための何の食物もないとしたら、もし教会員たちが恵みにおいて成長していないとしたら、もし彼らがそのふるまいにおいて非難されるところのない者となっていないとしたら、もし彼らがキリストの霊を有していないとしたら、もし彼らがイエスとの交わりを楽しんでいないとしたら、もし彼らがキリストにある神の愛についての知識に達していないとしたら、もし彼らが信仰の安息に入っていないとしたら、もし彼らがイエスのそば近くで生きておらず、その全力を傾けてもイエスにならおうと努力していないとしたら、――私たちは云う。その教会は繁栄してはいないのだ、と。それは天下で最も富裕な教会かもしれないが、最も貧しい教会であるとも云える。それは、人間的見地からすれば最も学識のある教会かもしれないが、最も異端的な教会でもある。繁栄からほど遠く、冒涜に間近な教会である。私たちの諸教会を、しかるべきしかたで眺めてみよう。魂は救われているだろうか? 聖徒たちは徳を建て上げられ、築き上げられているだろうか? これが、私の自問する唯一のことである。私たちの教会について、人々はあれこれ取り沙汰している。だが私たちは、人々が私たちについて口にする一万もの意見のことなどこれっぽっちも気にはしない。私たちはただ云うのみである。罪人たちが救われているのだ。そうである限り、私たちは説教し続けるであろう、と。また、もし私たちが、「自分たちは霊的に養われています」、と宣言する老若男女を見いだすとしたら、私たちは自分たちの使命が成功しつつあると感ずるものである。あなたの教会についてはそうなっているだろうか? ならば、あなたの教会には、繁栄していると云えるものがある。

 II. そこでこれから、《私たちの諸教会が繁栄すべき必要》について考察したいと思う。

 ある人々にとって、それは何の意味があるだろうか? そうした人々はいやいやながら会堂にやって来て、その会衆席を占めるが、決して自らに向かって、「私たちの教会は繁栄しているだろうか?」、と問おうとはしない。おゝ、否! それは教役者の役目である。執事たちがそうした問題の面倒を見なくてはならない。そうした人は、安息日ごとに会堂にやって来る。その姿は非常に宗教的な人に見える。眠り込んだりしていないことは、私が確かに保証できる。説教によって心かき乱されてしかるべきときもあるが、そうはならない。そうした人々は、だれもが他人に干渉すべきではないという考えに賛成している。「愛は自分の家から始まる」という格言を実行してはいるが、そこ止まりにしている。時々その人は教役者のために祈る。祈祷会で指名されればそうする。だが、教役者を自分の兄弟であるとはみなさない。それで彼は、家庭礼拝では教役者のために祈らない。その人は海外宣教が成功していると聞く。だが、伝道所が閉鎖されても、全く意に介さない。その人は教会が繁栄するのを好むだろうが、その結果を確かなものとするためにわざわざ骨を折ろうとはしない。そして、淵に飛び込んだ古のクルティウスのように、身をささげて教会に奉仕することについて云えば、――おゝ、否! その人は決してそのように向こう見ずな行為を犯しはしない。その人は自分のいのちを危険にさらそうとしない。教会がこのように善良な人間を失うことによって損害をこうむるといけないからである。

 しかし、私が思うに、あなたがたの中のある人々は、教会の繁栄を顧慮しているであろう。そうでないとしたら、そうするべきである。それがなぜか思い起こさせてほしい。私たちは利己的な者かもしれないが、私たちが教会の成功を気遣うべき理由は、第一に、私たち自身のためである。もし私たちが天来の恵みによって自分の同胞たちのために生きることも、労することもしていないとしたら、彼らの頽廃は私たち自身の敬神の念に有害な影響をもたらすであろう。私が所属する教会の冷たさは、私を冷え冷えとさせがちであり、私たちの同胞キリスト者たちのなまぬるさは、私を下落させる傾向がある。だが、もし私が恵みに富んでいる教会に所属しているとしたら、その傾向によって私の口は脂肪と髄で満たされ、私は主の道を喜ぶであろう[詩63:5]。

 あなたの家庭もまた、教会の繁栄に深い利害関係を有している。私の知るところ、多くの青年子女は自分の両親が通っている教会に出席していない。両親が彼らにそうするように求めない。彼らは、子どもたちが教会に行くのを好まないのである。「私たちにとって、それは非常に良いことです」、と彼らは云う。「ですが、子どもたちには合いません」。だとすると、何かがおかしいに違いない。親にとって良いものは、子どもとっても良いものであり、子どもにとって良いものは親にとっても良いものである。私は、ロバート・ホールがかつて語った言葉を好んでいる。彼は、自分の宣べ伝えていた教理が、老婦人にはふさわしいものだと云われて、こう答えた。――「もしそうだとしたら、ならばこれはあらゆる人にふさわしいのである。そして私はその教理をもう一度説教しよう」。さて、もしあなたが自分の家族を愛しているとしたら、また彼らがキリストの教会の中に導き入れられるのを見たいとしたら、彼らのため祈ることによって、神とともに労さなくてはならない。そして、神がシオンをあわれみ、彼女の定めの時が来るようになること、彼女のしもべたちがその石を愛し、そのちりをいつくしむようになることを求めるがいい。

 また、あなたの住んでいる近隣の地域のためにも、神のため労し、神の祝福を求め、あなたの教会が繁栄するようにするがいい。教役者の声が、その《主人》の御国の進展のために張り上げられるところでは常に、その周囲に緑の場所があるべきである。砂漠と同じく、水が見いだされる所には肥沃地がある。旅行者が安息を得られる場所がある。そのように、神の家が建てられる所には、緑の場所があって、小冊子配布者や、《日曜学校》の教師の努力がその土壌を実り多いものに耕しているべきである。

 さらには、わが国のために、シオンの繁栄を求めるがいい。もしもわが国を繁栄させたければ、それを達成するためには貿易や軍事力ではなく、わが国のキリスト教を増進させるべきである。キリスト教会がこの国で真実なものであり続ける限り、古き英国は国々の最上位にとどまっているであろう。英国は福音のゆりかごであったがために栄えたのである。真の信仰が強く成長するにつれて英国は強大になるに違いない。古き英国の旗は、わが国の水夫たちによってではなく、私たちの神によって帆柱に釘づけられている。英国は、彼女が永遠の福音の、真にプロテスタント的な原理を堅く守り続ける限り安全である。彼女の教役者たちは、決して彼女のために心配する必要はない。というのも、永遠の丘が堅固であり、山々が強固であるのと同じく、この私たちの幸いな国は、キリストに真実である限りは永遠に安らいでいるだろうからである。願わくは、教会が古き英国のためにも繁栄させられるように!

 しかし何にもまして私たちは、キリストのために、教会が繁栄するのを見たいと願うべきである。キリストは私たちにとってすべてである。キリストにくらべれば、私たちの国民感情など無以下であり、つまらぬものである。しかし、おゝ! 私たちの《救い主》が、この地上で私たちのために行ない、苦しまれたすべてのことを思うとき、確かに私たちが何にもまして願い求めなくてはならないのは、主がそのいのちの激しい苦しみのあとを見て、大いに満足することにほかならない[イザ53:11]。あなたが膝をかがめて神にその教会を祝福し給えと祈るときには、キリストがゲツセマネで呻いておられると考えるがいい。かの園で主が苦しんでおられるのを見ていると思うがいい。茨がその頭にかぶせられたときの主を思うがいい。主が恥辱を受け、つばをはきかけられ、髪の毛を引き抜かれたことを思うがいい。左様。あなたが教会のために祈るときには、十字架の上でなだめの供え物となっている《神の小羊》を見ていると考えるがいい。主が、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」――「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」、と叫ばれたのを聞いていると思うがいい[マコ15:34]。こうした事がらを考えるとき、確かにあなたはこう云うであろう。「イエスがこれほど苦しんで1つの冠を得たのなら、私はその冠がその頭の上に安置されたままであるように祈るべきではないだろうか? イエスが、ご自分の子どもたちの贖いと、ご自分の選民を救う代価とのためにこのような死に方をしたのであれば、私は主がその願いを実現できるよう願うべきではないだろうか?」 ならば、あなたの《主人》のために、あなたの主のために、主の血潮と苦悶のために、私は切にあなたに願う。常にシオンのために祈るがいい。「エルサレムの平和のために祈れ。『おまえを愛する人々が栄えるように』」[詩122:6]。

 III. 次に私たちが注目したいのは、《神の教会に信仰復興をもたらす唯一の手段》である。

 それは何だろうか? 私たちは、どこかの大伝道者がこの国を行き巡っているのを聞くかもしれない。確かに彼なら諸教会に信仰復興をもたらすであろう、と。私たちであれば、聖職者たちの会議を開催し、彼らが諸教会に信仰復興をもたらす手段を考案するだろうと考えるであろう。だが、詩篇作者はそうは考えていない。彼は云う。「あなたは立ち上がり」。あたかも、神が立ち上がるほか何もしなくとも、その教会もまた立ち上がるかのようにである。というのも、神がお立ちになるとき、シオンは繁栄し始めるからである。神がその偉大なみわざを成し遂げる方法の、いかに簡単なことか! 疑いもなく、夕暮れの暗闇が最初に臨んだときに、私たちがこの地球を明るくする手段を考案しなくてはならなかったとしたら、私たちは五十万個の大きな灯火を世界中の様々な場所に吊すことを提唱したであろう。だが、神が地上を照らし出すための素晴らしい手段を見るがいい。――太陽が昇り、光が輝く、それで完了である! 神がその教会に信仰復興をもたらすご計画もそれと同じである。私たちはあれこれの計画を立てるが、神は単に立ち上がって、シオンをあわれまれるだけで、「いつくしみの時……定めの時が来」るのである。

 私たちはこの教訓を学ぼうではないか。もし私たちの教会が繁栄させられるべきだとしたら、神がそれをなさなくてはならない。もし私たちがキリストにおいて成長し、こうした終わりの日の大いなる信仰復興を見たいとしたら、神がそれをしなくてはならない。教役者が教会に信仰復興をもたらせるだろうか? 人々が信仰復興をもたらせるだろうか? 確かにそのようなことはできない。神だけが、その偉大なみわざを成し遂げることがおできになる。神が立ち上がり、シオンをあわれまなくてはならない。神が御民の手に握らせ、彼らに用いさせたいとお望みになる手段はいくつかある。だが、それでも、教会が成長する究極の理由は、神が立ち上がり、教会をあわれまれるからである。もし教会の繁栄が罪人たちの救いからなっているとしたら、神が立ち上がってお救いにならなくてはならないではないだろうか? もし神の選民を建て上げることが霊的繁栄のもう1つの部分だとしたら、神が立ち上がって御民をその信仰に築き上げなくてはならないではないだろうか? というのも、「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい」[詩127:1]からである。たといあなたが私のもとに、聖霊に満たされた人、ペテロの熱心を有する人、あるいはパウロの雄弁を有する人を連れて来ようと、神ご自身がその天的な雨を授け、救いを地にもたらしてくださらない限り、神の教会にはいかなる繁栄もないであろう。今のこのとき私たちの諸教会に必要なのは、単に何人かの神の人ではない。私たちは、自分たちの真中に、より大きな神ご自身の臨在と力を必要としている。私たちは、自分たちの真中には自分たちの神がおられると考えている。だが、残念ながら私たちは、私たちの父祖たちが有していたほど大きな臨在は有していないのではないかと思う。私は、聖なるねたみをもって、古い時代を振り返って見たい気がする。――ホイットフィールドの時代、あるいはロウランド・ヒルの時代である。当時の教会には、今よりもずっと大規模に人々がなだれ込んでいた。神の聖霊のずっと明白な現われが見てとれた。私たちは、私たちの礼拝所の数を増やし、世界の福音化に向けて大いに努力しているが、私たちの真中には、かつて私たちが有していたような《王》の一喝がない。私たちは、私たちの兵士たちに鋼鉄をまとわせ、その武器をきらめき輝かせ、その剣を最上の金属から作り出しているが、そこに著しく欠けているのは、私たちがかつて有していたような《王》の臨在である。多くの教会を目にしてきた後で私が確信するところ、聖霊の影響力は悲しいほどに欠けている。生きた敬虔さと熱心な敬神の念が欠如している。いくらかの嘆願はあるが、神の耳に鳴り響き、高みからおびただしい数の祝福をもたらすような力ある祈りはない。天のかめを押し止められるエリヤたちは今どこにいるのか? 大群衆に向かい合い、そのひからびた骨々に向かって預言することのできる人々、自分が語れば魂が救われると知っている人々が、今の地上のどこにいるのか? ロンドンで開かれている多くの祈祷会に行ってみるがいい。――私も、これが国中で一般的なことだとは思いたくないが――教役者たちはこう云わざるをえない。出席者があまりにも少ないため、祈りの話題が常に同じようなものになってしまい、教役者自身、時間が余ってしまうため二度も祈らなくてはならない、と。いくら説教しても、人々に祈らせることはできない。そのような教会は恥を知るがいい! こうした事態は、神が以前のようには私たちの真中におられないことを証明している。神が立ち上がるとき、その教会は熱心かつ熱烈な祈りにおいて立ち上がる。というのも、シオンをいつくしむ時、しかり、定めの時がそのときには来ているからである。

 IV. さて、愛する方々。第四の点を考察しよう。すなわち、《神の教会が祝福されているというしるし》である。「まことに、あなたのしもべはシオンの石を愛し、シオンのちりをいつくしみます」。

 シオンの「石」とは何だろうか? 神の教会は生きた石によって建てられている。――すなわち、神の子どもたちである。そして、教会にとって良いしるしとなるのは、神のしもべたちが愛し合うことである。また、「ちりをいつくしむ」――すなわち、教役者たちではなく、執事たちではなく、貧しい教会員たちをいつくしむことである。

 この堕落した時代、私たちは、しかるべきほどには愛し合うことをしていない。キリスト者同士の交際はほとんどない。だが、教会員たちが暖かい精神によって顔を合わせ、《救い主》がこの地上で行なわれ、苦しまれたことについて語り合い出すのは幸いなしるしである。いかに妙なる音楽よりも甘やかな響きを有する、イエスの魅惑的な御名のことを語り合うのは良いしるしである。実際、キリスト者たちがしばしば語り合い出し、神ご自身がご自分の子どもたちに聞き耳をお立てになるとき、それは有益なことである。神は耳を傾けてお聞きになり、《記憶の書》が記される[マラ3:16]。主ご自身が報告者となり、ご自分を恐れ、ご自分の御名について考える者たちの会話を記録なさる。確かに、教会のあらゆる会員が愛し合っており、貧困層の会員も見過ごされていないとき、その教会は繁栄していると確信してよい。いくつかの会堂では、キリスト者の兄弟姉妹が中央にある欄干で2つに分かれており、彼らは何年もの間そこに座ってきたが、互いの名前も知らないままでいる。彼らも、だれかが遅れて来た場合には、その人に賛美歌を見せてやりはするが、決して握手をすることはない。彼らは同じ教会の会員であり、そのひとりは貧しく飢えており、もうひとりはそれについて何も知らない。なぜなら、その人は「シオンのちりをいつくし」んでいないからである。しかし、神が立ち上がり、シオンをいつくしみなさるとき、その御民は云う。――

   「汝が群れにある 子羊のうち
    われの飼わざる もの、などあらん。
    汝が仇(あだ)のうち われの恐れて
    汝が弁護(ため)黙(もだ)す もの、などあらん」。

教会の会員同士が「シオンの石を愛し、シオンのちりをいつくし」んでいるとき、それは教会にとって良いしるしである。

 この「石」という言葉に私たちがあてはめたい二番目の訳は、聖書の諸教理である。「教理」という用語で私が意味しているのは、単に3つか4つの特定の点だけではなく、キリスト教会を建て上げるすべての教理のことである。最近、人々がこう云うのを聞くのはまれではない。「教理など全く重要ではありません。あれを信じようが、これを信じようが、私たちは同じように天国に行くでしょう」。だが、そうではない。愛する方々。神は私たちに聖書と、常識と、識別力を与えておられる。そしてもし私たちが愚かにも、「私たちが何を信じようと大した問題ではない」、などと云うとしたら、それによって私たちは、神に対して罪を犯すのである。私たちが教理において正しくあることは、心において正しくあることほど重要でないとはいえ、やはり重要である。この時代は、いわゆる「愛」と呼ばれるものを過大視する傾向がある。だが私の主張するところ、愛とは私たちの種々の確信を放棄することではなく、私たちひとりひとりが大胆にそれを宣べ伝えることである。この時代の愛は、私たちの種々の見地や論点を捨て去らせようとして、こう云う。「これこれの人をつまずかせるようなことは何も云ってはいけませんよ」。馬鹿らしい! 真の愛とは、私が大胆に自分の見解を語ることであり、私に反対の意見を持つ兄弟も同じようにすることである。そして、彼がかしらなるキリスト・イエスを奉じている限りは、私が彼を愛することである。だが、私たちがみな口をつぐむことは何の愛でもない。現代の普遍的な愛には非常な悪がある。それは光の御使いに姿を変えたサタンである。彼は私たちが個々に異なる騎兵大隊に分割されているのを見て、こう云うのである。「あなたがたの旗じるしを降ろしなさい。分派主義はいけませんよ」。その真意は、「キリスト教信仰など捨ててしまえ」、ということにある。しかし、私たちはみな自分自身の連隊から離れないようにしよう。そして男らしく自分の連隊のために戦い、しかし、共通の敵のためには団結しよう。神の真理を守り、だが、それをふにゃふにゃと握ることはしないようにしよう。もしある教理が真実だとしたら、たとい地が震え天が落ちてこようと、それを堅く守ろう。キリスト者たる人たち。神の真理に対する愛があるところ、神はその教会を祝福してくださるであろう。だが、今はご都合主義的な時代であり、私たちは互いに区別すべき事がらをはっきり口に出して云うことがなかった。また、他の人々の見解にあまりにも敬意を払いすぎ、神のみことばの偉大な諸真理を大胆に宣言してこなかった。――こうしたことこそ、神がある程度まで私たちを見捨てられた理由である。

 あなたは云う。「私は結局、教理など大したものには見えません」。ならば、あなたが大きな繁栄を見ることはないであろう。私は、自分が真実だと信ずるものを大いに見てとっているがために、そのあらゆるかけらのためにも戦いたいと思う。「石」のためばかりでなく、まさに「シオンのちり」のためにも戦いたい。私は主張するが、いかなる真理であれ、それを不必要だなどと云ってはならない。それは救いにとっては必要でないかもしれないが、何か他のことのためには必要不可欠なのである。何と! そんなことをするくらいなら、女王陛下の王冠からその宝玉を1つ抜き取って、そんなもの必要ないよ、彼女は変わらず女王なのだから、と云った方がましである! だれが神に向かって、どこそこの教理は不必要ですよ、などと云おうとするだろうか? おゝ、恵み深い御霊よ。あなたは不必要なものをお書きになったのでしょうか? あなたが私にお与えになった《本》について、私はこう云うのでしょうか。「私の父や母は、これをすべて信じていた。だが私がそれを信ずる必要はない」、と。神は私に識別力を与えておられる。私は他人に右ならえすべきだろうか? 自分は間違うはずがないと考え、自分に与えられていたものが決して神から求められることなどないと考えるべきだろうか? これは、何ともお気楽なキリスト教信仰である! かの懐かしきジョン・バニヤンやベリッジの時代にはそうではなかった。彼らの態度は、それとは完全に異なっていた。しかし、今や人々は云っているのである。「私はだれそれ氏の話を聞くことも、だれそれ氏の話を聞くこともできます」。――互いに反対し合っている両者をである。私たちは対立する意見を聞いても、その双方を正しいと信じるような人々を大して評価できない。私たちが大きな成長を期待できるのは、あなたが真理を握り、シオンの石を愛し、その「ちりをいつくしむ」――そのあらゆる原子をいつくしむ――ときのほかはない。

 さらにまた、キリスト教会の石とは、その儀式である。そして神の民は、自分がシオンの「石」を愛しているかどうか、その「ちり」をいつくしんでいるかどうかに気を遣うべきである。この2つの天来の制度――バプテスマと主の晩餐――、そして使徒時代から私たちまで受け継がれてきたそれらの遵守については、神の民の心に強い愛があるべきであり、私たちは人間による新機軸から遠ざけられているべきである。私たちは常に、神が私たちに与えてくださったものを愛していようではないか。ある人々からは古臭いと思われるかもしれないが、決してそれを手放さないようにしよう。というのも、そのとき神はシオンの崩壊した城壁を築き上げてくださるからである。

 私は、このことにも言及してよいであろう。すなわち、みことばが語られる場所と祈祷会に多くの人々が出席しているとき、それは――特に後者の場合――教会が繁栄している良いしるしである、と。ある人が、別の夜にこう云ったことがある。「私は今晩の講義には行きますよ。ですが、月曜には行きませんでした。それはただの祈祷会でしたからね」。何と、それは平日の間の最高の集会なのである! もしあなたがたが集まって、あなたの教役者のために祈らないとしたら、他の集会で彼はどうなるだろうか? だが信仰を告白する多くのキリスト者たちは、決して祈りのための集会のことを考えず、その義務を古くからの会員――年がら年中、「しゃにむに戦場に駆け込む軍馬」のことばかり語る人々――にまかせる。だが、祈祷会は他のいかなる集会よりも優越したものとみなされるべきである。たといあなたが、「それはただの祈祷会ですからね」、と云うとしても、それでさえ、シオンの「ちり」なのであり、神の民は、「シオンの石を愛し、シオンのちりをいつくし」む。――その小さな集会をも、大きな集会と同じくらい大切にするのである。「あなたは立ち上がり、シオンをあわれんでくださいます。今やいつくしみの時です。定めの時が来たからです。まことに、あなたのしもべはシオンの石を愛し、シオンのちりをいつくしみます」。

 さて今、愛する方々。あなたは教会の繁栄についての私の考えに同意していないかもしれない。だがあなたにも、現代の諸教会の大いなる欠けとして目につく1つのことがあるに違いない。すなわち、より多くの祈りの必要であり、シオンの城壁に対するより堅固な愛着であり、聖書の教理に対するより大きな愛である。では私は、あなたに切に願う。今後は、倍増しで熱心に神の御霊を求めてほしい。あなたが、心も魂も、神の真理の神殿のあらゆる「石」と一粒一粒の「ちり」に結びつき、人間たちを喜ばせるために決して何も手放さないでいられるように。――神がお定めになったすべてのことを堅く守るがいい。そうすれば、神はあなたがたを繁栄させ、祝福してくださるであろう。

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《C・H・スポルジョンによる講解》

エゼ34:11-31

 

シオンの繁栄[了]

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