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キリストとの交わり

NO. 2572

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1898年5月29日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於サザク区、ニューパーク街会堂
1856年前半の説教


「私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか」。――Iコリ10:16


 キリスト教の《創始者》としてのキリストと、何らかの宗教体系を作り出そうと試みた、ただの人間たちとの間には、1つの途方もない違いがある。その違いとは、ただ単に、キリストの創始したものが真の宗教であり、彼らのそれが偽りの宗教であった、ということだけではない。もう1つの截然たる違いがある。あらゆる偽りの預言者たちは、自分の弟子たちをある程度遠ざけておき、やけに勿体をつけるばかりか、自らの人格に対する迷信的な畏敬を彼らに印象づけようとしてきた。左様。時には、おのれの弟子たちを、だれひとり自分との交わりにあずからせまいとすることさえあった。かのにせ預言マホメットを見るがいい。いかに彼がその弟子たちから自らを超然と保っていたかがわかるであろう。彼は弟子たちに、自分を彼らよりも優越したものとみなすように教えた。今日に至るまで、イスラム教の教主たちや、マホメットの後継者との称号を名乗るすべての者たちは、荘厳な物々しさと威容を身にまとおうと努めている。彼らはいかなる者にも、それなりの額手礼だの敬礼だのを抜きにしては、自らに近づくことを禁じている。彼らは決して自分に従う者たちが、自分と交わりを持つことを許さない。古代の異教の祭司たちもそれと同じである。彼らは礼拝者たちがおのれの前にひれ伏すことを命じた。だが、決して彼らがおのれに近づくことも、おのれと交わりを持つことも許さなかった。彼らは人々を追い払った。そして事実、彼らの宗教の全体系は、他のあらゆる人間から区別された、ひとりの人物の卓越性に依存していたのである。その人物は神として仰がれ、他の有象無象を越えた偉人とみなされ、いかなる理由があろうと、何の交わりも持てない者とされていた。かの大いなる反キリストでありにせ預言者である《教皇》を見るがいい。彼は、自分と気さくな間柄になるように、だれかを励ましたりするだろうか? 千客万来を歓迎するようなことがあるだろうか? あゝ、否! 彼は枢機卿や司教らといった取り巻きを従え、おのれを他者から隔たった者としている。だれでも《教皇》に会いに行けるとか、彼が一般庶民の群衆に中に入り混じるなどということは考えられもしない。私たちが知っている、別の教会の主教たちも、それと大差はない。そのけばけばしさと、そのピカピカ光る、きらびやかな織物と、その威風によって、いかに彼らは人々を自分から遠ざけようと苦慮していることか。新しい経綸の偉大な《創始者》としてのキリストは、その弟子たちがひとりひとり、ご自分との交わりを持てるという考えを明らかにされた。そして今日も主は、ご自分に従う者たちを遠巻きにさせておこうとする代わりに、常に彼らをみもとに引き寄せようと努めておられる。主は彼らをなれなれしいと非難するのではなく、むしろ彼らがまだ気兼ねをしているといって非難なさる。彼らがかしこまって近寄ろうとしないことを称賛するのではなく、エノクが神とともに歩んだことを称賛し、自分の《救い主》の胸に頭をもたせかけていたヨハネを愛された。私たちの《主人》キリストは、ご自分に従う者たち全員が、ご自分のそば近くで生きることを愛される。彼らがご自分と心を通わせることを愛される。むろん主は、彼らの上に立つ、彼らの《王》であるが、彼らの同胞でもあり、彼らの骨の骨、肉の肉であり、血の絆によって彼らのひとりなのである。キリスト教の1つの目的は、弟子たち全員を、その偉大な《創始者》に結びつかせ、親しませることによって、彼らが御父と、その御子イエス・キリストとの交わりを持つようになることにある。

 私たちの現在の主題は、キリストとの交わりという教理にほかならない。キリストとの交わりには4つの段階があると思う。第一に、語り合う交わりである。第二に、心を通い合わせる交わりである。第三に、1つに結ばれる交わりである。そして第四は、天国の交わりであろう。

 I. キリストとの交わりの最初の部類は、あらゆる信仰者がとっかかりとして有するもの、それなしでは他のいかなる部類にも達せないもの、すなわち、《語り合う交わり》である。

 おそらく、この場にいる、《救い主》を愛する人々の大多数は、この語り合う交わりをさほど大きく越えては、私とともに進むことができないであろう。どういうことか説明させてほしい。私があなたがたの中のひとりか、ふたりの人と会うとする。私はあなたに語りかけ、私たちは互いに語り合う。聖書の言葉遣いによると、これは、私たちが「互いに交わりを持っている」ということである。「私たちは互いに交わりを保つ」。それと同じく、愛する方々。キリストとその民も、出会うときがあるのである。主が彼らに語りかけ、彼らが主に語りかけ、そのようにして「主と語り合う」。これが語り合う交わりである。いかにすれば私たちがこの交わりに入れるかを示させてほしい。

 私たちがこの種の交わりを味わい知るのは、私たちが信仰によって、キリストをつかむときであり、キリストが信仰を尊んで私たちをつかんでくださるときである。また、悲しみや苦難の下にあって、私たちが自分の《主人》のもとに行き、自分がいかなる悲しみや苦難を受けているかをお告げするときである。私たちが主に話をしている間に、主は私たちを元気づけ、ご自分の約束を私たちに思い起こさせ、私たちの心に、あの甘やかな御声で語りかけ、それによって私たちの恐れは葬り去られ、私たちの涙は乾かされる。そのときこそ、私たちは主と語り合う交わりを保っているのである。――信仰による交流である。よく聞くがいい。これは決してつまらぬことではない。キリストの御腕をつかむことができ、その耳をとらえることができ、その心を占めることができ、自分の口が主に語りかけ、主の御口が私たちにお答えになっていると感じられるということは、大したことである。主を見上げるときに、主から照らされ、その光が、主によって自分が見られているという事実から来ているのだと感じられるということは、大したことである。自分が励まされていること、また、その励ましの理由は、主の右手が私たちの頭の上にあり、主の左手が私たちをだきしめていることにあるのだと感じられるということは、大したことである。信仰が許されているように、キリストに語りかけることを許されること、これは、御使いたちもその冠と引き替えにするであろう特権である。というのも、信仰がキリストのものを求めれば、キリストは信仰にお与えになり、信仰が数々の約束に訴えれば、キリストは約束を成就なさり、信仰が全くキリストの上で安らえば、キリストはそのすべての誉れを信仰の手に乗せてくださり、喜んで信仰にご自分の宝冠をいただかせてくださるからである。しかり。主はご自分の冠を取り去っては、その冠を信仰の頭に戴かせてくださる。あなたがた、若い信仰者たち。聖なる確信をもって、自分の《主人》に近づくことが、いかに甘やかなことであるか知るがいい。あなたの手を主のわきに差し入れて、「私の主。私の神」[ヨハ20:28]、と云うがいい。主にだきつき、かの恵み深い微笑みを主から受けることがいかなることかを知るがいい。その微笑みがなければ、あなたの霊は安らぎを得られないのである。これが信仰による交流であり、私たちが信仰によってイエス・キリストのうちに有する交わりである。

 また、祈りにおける交わりもあり、これも語り合う交わりと呼ばれる。というのも、祈りにおいて、何を私たちはするだろうか? もし私が正しく祈るとしたら、私は神に話をする。そして、もし信仰によって祈るとしたら、キリストがなさるのは、私に話をすることでなくて何だろうか? 祈りにおいて、人の心は自らを神の前で注ぎ出し、キリストはご自分の心を注ぎ出しては、ご自分のあわれな信ずる子の必要を満たしてくださる。祈りにおいて私たちはキリストに自分の足りなさを告白し、キリストは私たちにご自分の豊かさを明らかにされる。私たちは主に自分の悲しみを告げ、主は私たちにご自分の喜びをお告げになる。私たちは主に自分のもろもろの罪を告げ、主はご自分が私たちを守ることがおできになると私たちに告げてくださる。また、実際の守りとなる全能の盾について告げてくださる。――祈りは神との会話である。しかり。神とともに歩むことである。そして、祈りを大いに積む人は、イエス・キリストとの非常に多くの交わりを持つのである。

 それからさらに、語り合う交わりの1つのもととなるのは、瞑想である。私たちが座して、自分の思いにおいて、ゲツセマネにおけるキリストを見るとき、また、地面をぬらす赤い血の滴を目にするとき、また、主がなぶられ、つばを吐きかけられ、嘲られ、殴られるのを眺めるとき、また、ゴルゴタにおける主を見てとり、暗闇をも驚かせたその死の悲鳴を聞くとき、そのとき私たちの心は主のもとに引き寄せられ、私たちは主を愛する。主がその御手を差し上げ、「それはあなたのために刺し貫かれたのだ」、と仰せになる間、私たちは私たちの心を差し上げて、こう云う。「これが私たちの心です。主よ。これをお取りになって、捺印してください。これはあなたのものです。あなたの尊い血によって買い取られたのですから」、と。

 あなたは今まで一度も、この瞑想という甘やかな交わりを感じたことがないだろうか? 多くのキリスト者たちは、これについてほとんど知らない。彼らには心をふさぐものがあまりにも多く、あまりにも仕事の渦に巻き込まれ続けているため、神についての瞑想に三十分も費やすことができない。愛する方々。あなたが《救い主》との大きな個人的交わりを保ちたければ、腰を下ろして、こう云えるようになるしかない。――

   「かの流れ、甘き眺めぞ、
    たましい贖う 主の血の河は。
    神より堅く 知らされたれば、
    神との和解 主われに得しと」。

あなたがキリストに多くの話をしたければ、あなたの思いが地上の心づかいから解き放たれるようにするしかない。おゝ、そのときこそ、キリストはお降りになり、その子どもたちと話をし、私たちとの甘やかな交わりを与え、ご自分の苦しみについての瞑想においてその交わりを給わってくださる! 神の子どもたち。あなたがたはこのことを知っている。あなたがた、主の民である全員は、神と語り合うこの交わりをある程度は味わい知っている。あなたがたは、私が告げることのできるよりもずっと多くを知っている。悲しいかな! 悲しいかな! 神の民の大部分が、この第一の、また、最も薄弱な形の、イエス・キリストとの交わりさえ理解することからはるかに遠いとは。

 この語り合う交わりから離れる前に、ここで一言か二言述べさせてほしい。これから私が言及しようとしているもう3つの交わりにあなたが達していないからといって、この交わりを軽蔑しないでほしい。むしろ、愛する方々。あなたは、キリストとの語り合いを保っているように用心するがいい。信仰者の魂と天国との間には一本の梯子がある。それを何度も登り下りするように心がけるがいい。《人霊》の町から《天の都》までの間には一本の路がある。その行路を、祈りの馬蹄で踏み固めようではないか。賛美の戦車を、栄光への大道沿いに疾走させようではないか。あなたのイエスに、一通もあなたからの便りを受け取らない日を過ごさせてはならない。またイエスからの言葉を一言も聞かずに過ごす日があったなら、幸いだと思ってはならない。私が驚かされるのは、一部の信仰告白者たちが何週間も何箇月も、このキリストとの交わりを保つことなしに全く満足していられるということである。何と! 夫から微笑みかけてもらわなくとも幸せにしていられる妻がいるとは。だがキリストは私の《夫》ではないだろうか? そして、もし主がその口をつぐみ、私に一言も語りかけないとしたら、私は嬉しがっていて良いだろうか? 気楽にしていて良いだろうか? もしも私は一日中全く微笑みかけていただかないとしたら、満ち足りていられるだろうか? もしキリストが私の《兄弟》だとしたら、自分に対する《兄弟》の愛を確信することもなしに、過ごそうとしていて良いだろうか? 私は、《兄弟》の心が今も自分に対する愛情で脈打っているということを知らずに一週間を過ごしても、満ち足りていられるだろうか? まことに、キリスト者たち。あなたがたには驚かされる。御使いたちも驚いているであろう。あなたがたが、これほど愚かで、これほど無感動で、これほど石のようであるとは。私たちの主イエス・キリストとの交わりの中でも、この最も平凡な交わりすら保たずに、数え切れないほどの日々を過ごしていられるとは。自分を奮い立たせるがいい。愛する方々。あなたには、《王》の宮廷に入ることのできる許可証があるのである。なぜ入らないのか? あなたには結婚式の祝宴への招待状があるのである。なぜ行かないのか? あなたは、酒宴の席[雅2:4]にいつでも行ける権利があるのである。なぜ行って、天来の愛を満喫しようとしないのか? そこには、「銀のかごに盛られた金のりんご」*[箴25:11参照]がある。なぜ行って手に取らないのか? そこではキリストの心が開かれている。その御手が開かれている。その御目が開かれている。その耳が開かれている。あなたは、いつでもあなたを祝福しようと、立って待ちかまえておられる主のもとに行こうとしないのだろうか? また、これはあなたについても云える。あわれな罪人よ。――私がしばしば考えてきたように、十字架上のキリストを真に迫って描き出すことは、この賛美歌を例証する見事な説教となるであろう。――

   「来て、迎(い)れられよ。罪人よ、来よ!」

あなたはそこに《救い主》が見えないだろうか? 主はその御腕を伸ばしては、まるで大きな罪人をかかえこもうとするかのように大きく広げておられる。主の御手は、まるであなたがみもとに連れて来られるまで待とうとでもいうかのように、きつく釘づけられている。主の頭はうなだれて、あたかもあなたに口づけしようとするかのように前屈みになっている。さらにそこで主の御足は、血の流れをしたたらせ、もしあなたがみもとにやって来なければ、その血そのものが、あなたを追いかけて来ようとしているかに見える。まことに、もしあなたが信仰によってキリストを見てとるとしたら、そうした血を流す傷口の1つ1つは、また主のからだで震えている一粒一粒の原子は、こうあなたに云うであろう。――

   「来て、迎(い)れられよ。罪人よ、来よ!」

あなたには、それよりさらに多くのことを語っているであろう。あなたがた、神の愛する子どもたち。「あなたの《救い主》のもとに来て、あなたの主、イエス・キリストとのこの語り合う交わりを保つがいい」。

 II. さて、この交わりの最も下の部類については扱ったので、次の部類に移りたい。すなわち、《心を通い合わせる交わり》である。

 この云い回しがどういうことか説明させてほしい。先に云ったように、もし私たちが二、三人の友人に出会い、ともに語り合うとしたら、それは交わりである。しかし、そこにひとりの友人がおり、その手に何か高尚な計画を携えていたとする。だが私は、その人に語りかけはしても、彼のものの見方に共感を覚えず、彼の計画が成し遂げられるのを見たいとも思わなかった。それゆえ私は、彼と、そうでなかった場合に得られたほど深い交わりを得ることはなかった。私の友人たちの中の別の人は、重病にかかっていた。だが私はそのときには苦しんでいなかった。それで、彼が自分の病について語ったとき、私は自分がそうありたいと願ったであろうほどには、彼と交わりを十分に持つことができなかった。また別の人は、厳しい批判の的となり、嘲られ、つばを吐きかけられていた。だが私は同じようなしかたでは攻撃されておらず、それゆえ、単に彼とは部分的な交わりしか持たず、それは最も深い種類の交わりではなかった。私は、彼の苦しみにおいて、彼との完全な交わりを持っているとは云えなかった。さて、キリスト者たち。あなたがたの中のある人々は、すでに天的な交わりの梯子をもう一段登っている。あなたは、キリストと心を通わせ合うような交わりを保つようになっている。

 ここで私は、いま語っている講話のこの項目を、2つか3つの点に分けて考えなくてはならない。私たちの中のある者らが、キリストと心通わせる交わりを保つとはいかなることかを知るようになったのは、キリストと全く同じように苦しんできたときであった。あなたは、今まで一度も友人から見捨てられたことがないだろうか?――あなたが、はるかに大きな期待をかけていた友人、その食卓にあなたがたびたび着いたことのある友人[詩41:9]、あなたと一緒に神の家に歩いて行ったことのある友人[詩55:14]、あなたが甘やかな会話を交わしていた友人から。あなたは、突然、彼が何の理由もなく、あなたに背いて、かかとを上げ、ありとあらゆる手を尽くしてあなたを侮辱し、傷つけようとしたことに気づかなかっただろうか? あなたは、あなたの手を自分の燃える額に当てて、こう云ったことがないだろうか? 「あゝ! キリストにはそのユダがいた。そして今、私はキリストとの交わりを保つことができる。なぜなら、私の友も私を捨てていったからだ。そして私は、人々から見捨てられることにおいてキリストに共感することができる」、と。あなたは今まで一度も、自分について偽りの噂を流されたことがないだろうか? おそらく、だれかがあなたのことを「酔いどれの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ」*[マタ11:19]、と云ったであろう。あるいは、ことによるとだれかが、これこれの夜に、あなたがこれこれの行為を犯したと云ったかもしれない。あるいは、もし彼らが、不道徳なことであなたを非難することによって、あなたの人格を汚すことができないとしたら、彼らは、あなたが正気ではないと云った。そしてあなたの霊は、最初は、激情に駆られ、こうした中傷に反駁しようと考えなかっただろうか? しかし、すぐさま、あなたは手を胸に当ててこう云った。「あゝ! 『彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない』[イザ53:7]」。そしてあなたは、腰を下ろして云わなかっただろうか? 「今や私は、口汚く非難されたキリストと交わりを保つことができる。今や私は、この戦いの一端で矢面に立つことができる。今や私は、主が感じたように感じることができる。主もまた悪人に痛めつけられたのだ」。また、あなたがたの中のある人々は、極度の貧困の中にある。そこここで、ある人はこう云うことができる。「私には枕する所もない」。そして、自分のぼろぼろの衣服を見下ろしては、こう思ったことがあるかもしれない。「あゝ! 今や私は、イエスがこう云われたとき、いかに感じておられたかがわかる。『狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません』[マタ8:20]。だから」、とあなたは思った。「私は、主の貧困において、主と心通い合う交わりを保っているのだ」。

 また、時としてあなたは、祈っても何の答えも得られないときがある。あなたは、苦しみ嘆く霊を悶々とさせながら、神に叫び求めるが、何の答えもない。度重なる嘆願をふりしぼる中で、あなたはほとんど、イエスがしたように、「汗がのしずくのように」流せるほどになった。だが神は、あなたにお答えにならなかった。膝まずいていた所から立ち上がっても、再び膝まづくしかなかった。そして、ついにあなたは、苦悶の中で両手を握りしめながらこう云った。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」[マタ26:39]。そのとき、あなたは、はっとした。あなたの主が、それと同じ言葉を、自分が夢にも思わなかったほど深い苦悩と、大きな苦悶の中で口にするのが聞こえたような気がしたからである。そして、あなたは云った。「あゝ! 私は、自分の乏しい経験の中でも、かの血の汗によって永遠に覚えられるべきあの方、ゲツセマネでの苦悶によって、私の《救い主》となる助けを得たあの方との交わりを持ったのだ」。そして、ことによると、やはりあなたは、神の御顔を見失うとはいかなることか知ったことがあるかもしれない。あなたはこう云っていた。「ああ、できれば、どこで神に会えるかを知り、その御座にまで行きたい」![ヨブ23:3] あなたの心は苦悶で溶けてしまった。なぜなら、神があなたに渋面を向けているように思われたからである。あなたには何の平安も、光も、愛も、喜びも、神もなく、こう叫んだ。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」?[マタ27:46] そしてそのとき、あなたはキリストも同じ言葉を口にされたことを思い出し、自分が心の通い合う交わりをキリストと保っていることを思い起こした。というのもあなたは、まさに主が感じたように感じており、主の苦悶の一部に入り込み、主が最後の一滴まで飲み干した、かの恐るべき杯の何滴かを飲み下し、キリストが飛び込まれた底なしの海に多少は潜ったからである。あなたは、心を通い合わせる交わりを得た。主とともに苦しんだからである。それは、世における最も素晴らしい交わりであり、ともに苦しむという交わりである。オックスフォードで焼き殺された、かのふたりの聖なる殉教者は、自分たちの間に永遠の絆を有している。なぜなら、彼らは同じ火で焼かれたからである。おゝ、彼らには何と甘やかな交わりがあったことか。なぜなら、彼らはともに死ぬことになったからである! 何にもまして私たちにキリストを愛させるのは、自分たちの肩に受けるのと同じ鞭を、キリストはその肩にお受けになったのだ、同じ釘で刺し貫かれのだ、同じ口からつばを吐きかけられたのだ、非常に乏しい程度ではあっても、キリストが忍ばれたのと同じ種類の苦しみを自分は受けているのだと感じることである。おゝ、驚くべき恵みよ。私たちが自分のからだにおいて、主イエス・キリストの苦しみにあずかることを許されるとは!

 私たちの中のある者らは、苦しみよりは、奉仕へと召されている。そして、やはり私たちは、労苦においてキリストとの交わりを持つ。あの《日曜学校》教師を見るがいい。小さな子どもたちを自分の膝に乗せながら、彼らを教えているあの教師は、だれかからそれを笑われても、自分の主と同じく、こう云っているように思われる。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません」[ルカ18:16]。このしもべの中にも、その《主人》のうちにあったのと同じ霊があり、彼は、労苦においてキリストとの交わりを保っているのである。あの忠実な伝道者を見るがいい。彼は野外にいる。両手を高く掲げて人々に説教している。その熱心が雄弁となって表われている。見よ! 彼は話をしめくくった。彼は甘やかな静けさをその魂に感じている。その理由はわからない。だが、それは彼がキリストとの交わりを持ったからであり、ある程度まで、キリストが感じたように感じたからである。私たちが、あなたがたのあわれな死に行く魂のために泣くとき、――膝がしびれるほど長い間、あなたがたの救いを神に祈り求めたとき、――あなたを神に近づけようと呻き叫んだとき、――この上もなく激した懇願によって、あなたがたの魂のために格闘したとき、――そのとき、愛する方々。私たちは、自分がキリストとの何がしかの交わりを有したものと思う。というのも、――

   「冷たき山嶺(みね)も 深夜(よふけ)の大気(いき)も
    熱き祈りを 目にしおるなり」

だからである。主もやはりエルサレムのために泣き、云われたのである。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている」[ルカ19:42]。労苦するキリスト者たちは、キリストと心を通い合わせることができる。そして、彼らが全力をあげて、良き意図と、真剣な願いと、叫びと涙とをもって働くとき、彼らはこう云うことができる。「おゝ、主よ。私たちはあなたとの交わりに入っています!」

 それと同じく私たちは、たとい主とともに苦しむことも、働くこともしなくとも、キリストとの、天的な願いの交わりを有するとき、主と心を通い合わせることができる。ことによると、あなたはあまり病気をしたことがないかもしれない。だが、あなたはしばしば情け深いあわれみや愛の交わりを感じる。あなたは迫害されてはいないが、ほとんど迫害されたらいいのにと願うほどになる。ことによると、あなたにはほとんど才能がなく、キリストのために労苦することはできない。だが、時としてあなたは、この会堂への道を踏んでくるときなど、こう云うことがあった。「私は、罪人たちが救われるのを見るためなら、何を惜しむだろう? おゝ! 私は、私の息子や娘が神に回心するというのであれば、死んでもかまわない」。あなたはそうしたことを知っているだろうか? まさにその瞬間に、あなたはキリストとの交わりを保っていたのである。というのも、あなたはキリストが感じたのと同じように感じたからである。キリストは私たちを純粋きわまりない、完璧そのものの愛で愛された。そのため、そのからだを死に引き渡してまでも、私たちを地獄から贖い出そうとされた。ことによると、あなたもまた、イエスにこう云ったことがあるかもしれない。「私には、あなたに差し上げられるものは、ほとんど何1つありません。ですが」――

   「われに千もの 心ありせば
    そをことごとく わが主にささげん。
    われに千もの 舌のありせば
    そはみな天(あま)つ 和声(うた)を奏でん」。

あゝ! あなたはそのとき、キリストとの交わりを得ていたのである。というのも、あなたは主の御国の進展のために、自分にできるすべてのことを行ないたいと願ったからである。

 私は、いかにして私たちが、私たちの意図におけるキリストとの交わりを保つかを示したいと思う。あなたが、裁判所でふたりの人を見たとする。ひとりの人は裁判を受けるためにそこに立っている。どこから見ても、彼が有罪にならずにすむ見込みはない。その法廷には、もうひとりの人がいて、これから弁論しようとしている。彼は弁護士である。だがそれに加えて、その囚人の友人でもある。裁判を受けつつある男にはその生命がかかっている。あなたに、その顔のすさまじい苦悶が見えるだろうか? しかし、そこに彼の弁護人が立ち上がる。そして、あなたが注目していると、彼は弁論をしつつある間、その目を被告席にいる囚人に向けている。そして、このあわれな男の目から涙が流れ出すのを見るとき、その雄弁には拍車がかかる。その犯罪者がため息をつくや、いかにこの弁護士の弁舌が熱くなるか見るがいい。囚人は身も世もなく泣き始め、自分の顔を覆ってしまう。するとあなたは、弁護人がいかに熱烈になり、熱心に弁じ立てていくかに気づくだろうか? また、いかにいやまさって、その弁論は哀愁に満ちたものとなっていき、いかに真剣にその舌を駆り立てて論ずることであろうか。これはなぜだろうか? 彼がこのあわれな男との交わりの中にあり、男のために同情しているからである。彼は、男に向かって話をしているのではない。――それは、単に語り合う交わりであろう。彼は、男と一緒になって感じているのであり、ふたりの心はほとんど血族となっている。たとい彼らがそれまで互いに相合うことがなかったとしても、もし彼らが互いの心を自分のものとして感じ合っているとしたら、彼らは血のつながりがあった場合にもまさる、近しい血族となっているのである。愛する方々。ある教役者が魂のために訴えているのをあなたが見るとき、まるで自分自身のために訴えているかのようである場合、――また彼がイエス・キリストの《神性》のために戦っており、それが自分の名誉のために戦っているのと同じようである場合、――その教役者はキリストとの交わりを保っているのである。そして、ある聖徒が、ひとりの罪人に《贖い主》の死について語り、その御傷を指し示しているのを見るとき、何と、カルバリの血の一滴一滴によって、その人は一層雄弁に語らされるかのように思われ、彼に聞こえるように気がする一声一声の呻きによって、より必至な真剣さとともにその訴えを人々に向かってなすようになるのである。これは、愛する方々。キリストと心を通わせ合うことであり、キリストとの交わりである。そして、私はそれを、語り合う交わりよりも高い程度の交わりと呼ぶものである。私は、あなたがたの中のある人々がこれに達しているものと思いたい。もしそうだとしたら、あなたは、語り合う交わりしか理解していない人々よりも、ずっと用いられるであろう。願わくは神が、私たちすべてに、この思いを重ねる交わり、キリストとの心通わせ合う交わりを与えてくださるように!

 III. 第三の点は、《1つに結ばれる交わり》である。

 あなたには、この手が見えるだろうか? この額が見えるだろうか? この手とこの額の結びつきは、私の兄弟の心と私の心との結びつきよりも、ずっと緊密なものである。その兄弟が心の底から私を愛し、私のためなら死に至るまで弁護しようとするとしても関係ない。だが、この手とこの額は心を重ねる交わりを有しているだけでなく、同じ感覚を有しているのである。からだの各器官は、明確に同じ感覚をしている。そのように、キリストの神秘的なからだも、キリストが感ずるのと同じ生理的な感覚を感じるのである。

 あなたは問う。「キリスト者たちがこのような交わりの段階に達することがあるものだろうか?」 しかり。確かに彼らはそこに達する。そして、主の晩餐は、このことを公に示すためのものなのである。これは、キリスト者たちが、この地上で、その《主人》と有しうる最高の部類の交わりである。これは、主の苦しみにおける主との交わりではない。主への奉仕における主との交わりではない。むしろ、主のご人格との交わりである。あなたがた、信仰者たちは、霊的にキリストの肉を食べ、霊的にキリストの血を飲むように招かれている。そして、それは私たちが先に語ったいかなる交わりよりも、格段に近しく、明確な交わりである。なぜなら、それはあなたを、主との積極的な一体性の中に導くからである。これによってあなたは、自分が単に自分の《友》である主のために弁じているのではなく、自分が主の一部であり、主のからだの器官であり、主の肉であり、主の骨であると感じる。福音を聞いている人々の多くは、この偉大な神秘を理解せず、ある者らなど、キリストとのこの同一性について語ることを冒涜であると考える。確かに、聖書の裏づけがなかったとしたら、人が、「私はキリストと1つである」、などと云うのは冒涜のきわみであったであろう。自分を「神の友」などと呼ぶのは、不敬な増上慢となったであろう。だが、聖書の語るところ、信仰者たちは神の友なのである。それゆえ、この宣告を繰り返すことは決して冒涜ではない。ある人々は、私たちが「《救い主》と1つ」であることについて語るのは馬鹿げていると考えるかもしれないが、馬鹿げたてはいない。なぜなら、それは《聖書的》だからである。私たちは確実にそうなのである。そして、この葡萄酒を飲むとき私たちは、《救い主》の血が、主ご自身のうちにあるばかりでなく、霊的に私たちの血管の中にあるのを感ずる。私たちが、血の絆で結ばれた兄弟であると感ずる。私が希望するのは、私たちがこう云えるようになることである。すなわち、主が死なれたとき、私たちは主と1つであった。主が墓に対して勝利をおさめられたとき、私たちは主と1つであった。主がいと高き所へ昇られたとき、いまの私たちは主とであり、永遠に主と1つなのである、と。私が確かに信ずるところ、私たちの中の少なからぬ者らは、キリストのそばに近づくあまり、単に自分の頭を主の胸にもたせかけるだけでなく、それ以上のことをするであろう。すなわち、自分の心を主の心にもたせかけるにとどまらず、それを主の心の中に置いてしまい、小さな露の雫が、川の流れに落ち込んだときに感ずるのと同じくらい、キリストと1つになったことを感じるのである。私は、聖餐卓を囲んで座るとき、肉の粒子がからだの一部であるのと同じくらい、自分がキリストの一部であるものと思いたい。そして、主の内側で鳴らされている鼓動の1つ1つが、私たちの体を通しても脈打っているのを感じ、キリストの血が私たちの血管を流れているのを感じ、私たちがつく吐息の1つ1つを主もつき、私たちが口にする呻きの1つ1つを主も口にしておられると思いたい。私は、主がこう云われるのを私たちが聞くものと思いたい。――

   「われ感ず、汝が 吐息と呻きを
    汝れはわが身の 骨肉なれば。
    汝が苦しみに かしらも痛まん。
    されど無駄なく、つゆ徒(あだ)ならじ」。

これを越えた境地へは、キリスト者は地上では行くことができない。これは、次のような時を迎えるまでは、最高の様式の交わりである。――

   「かのほむべき 完遂(おわり)の時ぞ、
    主の贖いし 魂(たま)を解放(はな)たん。
    その魂(たま)自由(とか)れ、土塊(み)を地に落とし、
    つばさ広げて、はるかに伸ばさん」。――

これは、キリストがお住まいの高みでなされる。そして、愛する方々。そこで私たちがキリストと得るような交わりの意味を描写しようなどと試みるのは、ただ愚者のほかいないであろう。というのも、知恵そのものも、それについては何も知らないからである。そこで私たちは、主の足元に座るであろう。主の胸にもたれかかるであろう。主のくちびるから甘やかな調べを聞くであろう。主の御口から絶えざる芳香を吸い込むであろう。その御目から神聖きわまりない光を引き出すであろう。その御手をこの手のひらで包むであろう。まさにこのくちびるで主に口づけするであろう。自分を主の御腕に投げかけるであろう。一日中、自分の《愛するお方》の間近にとどまるであろう。主と語り合うであろう。主が行く所にはどこにでもついて行き、主はその羊を「いのちの水の泉に導いてくださる……。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる」[黙14:4; 7:17]であろう。

 IV. いま私が語った交わりは、最上の、かの至福の交わりへの踏み石である。それを私たちはもう数年もしないうちに手に入れるであろう。――《天国の交わり》である。

 おゝ、キリスト者たち。あなたは今まで、あなたの主とともにいることが、いかに甘やかなものか想像したことがあるだろうか? 私は時として自分に向かってこう考える。――おゝ、これは何と奇妙に思われることか。この頭に冠をいただき、この足に黄金の履物を履き、このあわれなからだに白い衣をまとい、この指に永遠の愛の指輪が飾られることになり、その喜ばしい指を走らせるべき立琴が与えられ、イエスをほめたたえる、甘美きわまりない旋律を奏でることになり、玉座が与えられては、そこに座してイスラエルの十二部族をさばき、歌が与えられては、いまだかつて呼び覚まされたことがあるいかなる音楽にもまさって美しい旋律の歌が、不断に私の唇からこぼれ出し、私の心を満ちあふれるほどの至福で一杯にし、私の魂が愛と栄光の浸礼を受けることになるとは! 上も、下も、回りも、内側も、至る所が天国である。私は天国を呼吸する。天国を飲む。天国を感じる。天国を思う。何もかもが天国である。おゝ! 「その幸(さち)のいかばかりぞや?」 そこにいることは、キリストとともにいることである。もうほんのしばらく待っていさえすれば、いとも愛する方々。あなたは、パウロがこう云ったとき念頭に置いていたことを悟るであろう。「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です」[IIコリ5:1]。じきに、世よ。私はお前にさらばと云うであろう! じきに、愛する方々。私はあなたと最後の握手をするであろう! じきに、この目はその最後のほのかな霞を見るであろう。その最後の涙は永遠に拭われるであろう。私の最後の吐息は、神の息吹で吹き払われるであろう。そして、そこで、あゝ、そこで! 神は、それがいかに間近いかを知っておられる。そこで、――

   「嘆きと罪の 世より離れて
    永久(とわ)に神とぞ ともに閉ざさる」――

私は、主と永久にともにいるであろう。あなたは、自分についてこのことを信じているだろうか? 私の愛するキリスト者の兄弟たち。ならば、なぜあなたは死ぬことをこわがるのか? なぜあなたはそれほど、しきりに恐れを感ずるのか? 何と! 人々よ、兄弟姉妹よ。あなたは信じているだろうか? もう数日もすれば、あなたが天国にあり、あなたの愛するすべての人々を見ること、またあなたがこの地上で生きがいとしてきたすべてのものを見るだろうということを。あなたは信じているだろうか? もう何箇月か何年かすれば、あなたはあなたの《救い主》を抱きしめて、永遠に祝福されるだろうということを。何と、愛する方々。それだけでもあなたを喜びで躍り上がらせ、陶酔して両手を打ち鳴らさせるに足ることではないだろうか! 何と! あなたは悩みのうちにあり、あなたは意気消沈しているというのか? 否、さあ、喜んであなたのパンを食べ[伝9:7]、一生の間、幸せにしているがいい。というのも、あなたは知っているからである。あなたを《贖う方》は生きておられ、あなたの皮がはぎとられて後も、あなたは、あなたの肉からあなたの神を見るのだと[ヨブ19:25-26]。

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キリストとの交わり[了]

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