ただひとりによる征服
NO. 2567
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---- 1898年4月24日の主日朗読のために 説教者:C・H・スポルジョン
於サザク区、ニューパーク街会堂
1856年1月6日、主日夜の説教「わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ。国々の民のうちに、わたしと事を共にする者はいなかった」。――イザ63:3
人の話によると、ある種の偉観を誇る建築物は、たとい毎日眺めていても、目にするたびに驚異と賛嘆の念に打たれるという。その間近に住み、不断に目を向けていてさえ、決して人々の賞賛の念は減じることがないというのである。それほど、その均斉美は絶妙で、その技巧は比類なく、その技術は驚くべきものなのである。私は、果たしてそれが本当かどうかわからない。私の信ずるところ、定命の人間が成し遂げたものは、いかにすぐれたもの、いかに壮大なものであっても、あまりにも仔細に吟味されればその栄光を失い、見慣れたものになればなるほど、感嘆や賞賛の念は薄くなるものである。しかし、私たちの主キリスト・イエスに関しては、このことは、はっきり真実であるとわかる。――たとい主を毎日見ていようとも、むしろ主を見てとることが多ければ多いほど、主には驚嘆させられ、主を「不思議」という名で呼ぶようになるものである[士13:18; イザ9:6]。たといあなたが、一時間ごとに主と交わっていても、そうした度重なる主との会話や、主との絶えざる交流によって、あなたの畏怖や、愛や、敬意や、敬虔な崇拝の念は減少するどころか、主を知れば知るほど、主に対するあなたの驚嘆と賞賛の念は増していくであろう。
さて、キリストご自身の教会ほど、キリストについて多く知っているはずのものがあるだろうか? だが、この章の冒頭で見いだされる通り、教会でさえ、このような感嘆の叫びを発しているのである。「エドムから来る者、ボツラから深紅の衣を着て来るこの者は、だれか。その着物には威光があり、大いなる力をもって進んで来るこの者は」。教会はしばしば主を見たことがあった。こうした様子の主を目にしたことも少なくはなかった。疑いもなく教会は、強大な勇士たちの《征服者》としての主を見たことがあった。君主たちを治める《主人》、地の諸王の《主》としての主である。だが、ここで主を新たに眺めた教会は非常に驚愕し、こう叫び声を発さずにはいられなかったのである。「エドムから来る者、ボツラから深紅の衣を着て来るこの者は、だれか」。
イエスのそば近くで生きるがいい。兄弟たち。イエスとともに生きるがいい。イエスにあって生きるがいい。そうすればあなたは、イエスがこの上もなくすぐれた、尽きざる黙想の主題であることに気づくであろう。瞑想するうちに疲れて飽きがくるどころか、最初に瞑想を始めるときよりも、その瞑想を再開する方がずっとたやすいのである。主を最初に知った一時間よりも、主を知るようになってから五十年目に主について思い巡らす方がずっと興味深く、ずっと心楽しまされるであろう。主について大いに考えるがいい。そのとき、あなたは主を軽く考える理由をまず有さないであろう。絶えず主について瞑想することである。そうすれば、あなたは主のいつくしみ深さを一層あがめ、驚嘆するであろう。
ここで私たちの《救い主》は、ご自分の《教会》が驚嘆しつつ問いかけたいくつかの質問に答えておられる。「エドムから来る者、ボツラから深紅の衣を着て来るこの者は、だれか。その着物には威光があり、大いなる力をもって進んで来るこの者は」。主は云われる。「正義を語り、救うに力強い者、それがわたしだ」[イザ63:1]。そして、教会が再び主に、「なぜ、あなたの着物は赤く、あなたの衣は酒ぶねを踏む者のようなのか」[イザ63:2]、と尋ねるとき、主はお答えになる。「わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ。国々の民のうちに、わたしと事を共にする者はいなかった」。
御霊の御助けにより、私たちがごく手短に注目していきたいのは、第一に、ここで用いられた興味深い比喩であり、第二に、ここで宣言された栄光に富む事実であり、第三に、ここに叙述された、単独の《征服者》である。こうした瞑想によって、私たちは心爽やかにさせられるであろう。私たちは魂を落ちつかせ、静めた上で、この、人々の《征服者》、かつ地獄の《征服者》がおひとりで酒ぶねを踏んでいる、すさまじく厳粛で、崇高で、雄大な壮観を熟考してみよう。
I. まず第一に、ここには《1つの興味深い比喩が用いられている》。「わたしは……酒ぶねを踏んだ」。
あなたは、この言葉が物語っている状況を理解しなくてはならない。これは、ご自分の敵どもを打ち負かした後のイエスが語っておられることである。――その戦いの前のイエスではなく、その後のイエス、――これから武具をまとおうとしているイエスでも、ベツレヘムの赤子になろうとしているイエスでもなく、その戦闘を戦い抜き、勝利をかちとった後のイエスである。そこには、神の民の救いに反抗する何種類かの敵どもがいた。主の選民の解放をはばんでいた無数の敵対者がいた。だがキリストは彼らを打ち破ると請け合われた。そして今、お戻りになった主は、単に彼らを打ち負かしたと宣言するばかりでなく、この驚異的な征伐の偉功における、いくつかの事実を説き明かす、含蓄に富む比喩を用いておられる。「わたしは……酒ぶねを踏んだ」。
まずこれが意味しているのは、この強大な《征服者》が、ご自分の打ち負かした敵たちに対していだいておられる、この上もない侮蔑の念である。あたかも主はこう仰せになったかのようである。「わたしは、わたしの民の多くの仇を打ち負かした。そしてわたしは、それらに対するわたしの勝利を、ただの酒ぶねを踏むことにしかなぞらえまい。御使いたちはわたしをほめたたえ、贖われた者たちの大群は天で崇高な合唱をふくれあがらせている。彼らは、いかにわたしが、かの竜の頭を砕き、かの圧制者の力をとりひしいだかを宣言している。彼らは、いかに強大な王たちがわたしの怒りによって、またいかなる巨人たちがわたしの憤怒によって打ち殺されたかを告げている。だが、わたしとしては、そのことについてほとんど何も云うまい。わたしはただ、こう宣言するだけである。わたしは、酒ぶねを踏んだ。わたしにとって、敵どもを征服するのは、あたかも足の下の葡萄の実を踏むかのように簡単なことであった、と。わたしの民の犯した罪悪は途方もなく、彼らの敵たちは強大であったかもしれない。だが、『ボツラから深紅の衣を着て』やって来るわたしは、彼らの仇、そしてわたしの仇を、さながら葡萄を踏む者が、葡萄を足で踏みにじるのと同じくらい簡単に踏みつぶしてきた。私は彼らを酒ぶねの中にいるかのように踏んできたのだ」。おゝ、不敬虔な罪人よ。ことによると、あなたは、神も自分を完全に破ぼすには一苦労も二苦労もするだろうと考えているかもしれない。だが、そうではない! あなたは、自分の咎ある霊を地獄の忌まわしい地下牢に送り込むには、神も渾身の力を振るう必要があるだろうと考えているかもしれない。だが、あゝ! それには、神の大能などまるで必要ない。もしあなたが神の仇であり続けるなら、神はあなたを、人が葡萄を足で踏みつけられるのと同じくらい容易に、ご自分の御足で踏みつけるであろう。葡萄搾り人の足の下にある葡萄の実はどうなるだろうか? そして、イエスの御足によって踏みつけられるとき、あなたの魂とからだはどうなるだろうか? あなたの肋骨が鋼鉄であっても無駄である。あなたの筋肉が青銅であっても無駄である。あなたの骨が鉄石であっても無駄である。――そうしたものがあなたにあればだが。もしあなたの霊がレビヤタンのような鱗で覆われていたとしても、イエスの足の下であなたは熟れた葡萄のようになるであろう。そこでは血がどくどく流れるであろう。左様! その比喩の意味は、最後の審判の日にキリストが罪人たちについてこう云われるとき、恐ろしいものとなる。「わたしは彼らを踏みつけた。葡萄を踏む者が、そこから果汁を搾り出すのと同じように、『わたしは酒ぶねを踏んだ』」。
しかし、注意するがいい。この比喩の中には、骨折りと労苦がほのめかされている。というのも、葡萄の実は、重労働なしに押しつぶすことはできないからである。それで、この強大な《征服者》は、ご自分の仇どもなど、ご自身の大能からすれば、収穫された葡萄の実のようなものにすぎないと侮蔑とともに仰せになりはするが、それでも、私たちと同じような人間としてお語りになる場合の主は、かの園の中でご自分の仇たちと戦ったとき、彼らを打ち負かすためにしなくてはならないことがあった。時として、葡萄搾り人は自分の労苦にくたびれることがある。自分の上にかけられた吊りひもをつかみ、一日中ぐいぐい動き、踊り回り、笑ったり、歌ったりしながら、葡萄から果汁を搾り出しつつも、しばしば彼は額から汗を拭い、自分の骨折り仕事にくたびれてしまう。そのように、私たちのほむべき主も、ご自分の《教会》の敵どもを指先でつまんだ蛾のように踏みつぶすことがおできになったが、かの園の中では、やっとのことで彼らを打ち負かされた。かの古い竜の頭をゲツセマネでつき砕かれたときには、並々ならぬ力を込めて踏みつけることが必要であった。そのとき主は――
「受肉(ひと)なる神の 力限(かぎり)を忍び
十全(また)きちからもて、そをふりしぼりて」。わが魂よ。この栄光に富む《葡萄搾り人》について瞑想するがいい! お前を粉みじんに粉砕していたはずの罪を、主はその御足ので踏まなくてはならなかった。そうした罪を踏むことで、いかにその御足が傷ついたに違いないことか! おゝ、いかに力強く主はお前のそうした罪悪を踏みつけたに違いないことか。粉々にした上で、さらに跡形もないまでにしたのである! 「わたしは酒ぶねを踏んだ」、と云いえたとき、いかに主は、私たちのような汗ではなく、血のしずくを振り絞らされたことか。だが、確かにそれは骨の折れる仕事であり、労苦であり、涙と呻きを発せられるものではあったものの、主はこう仰せになることができた。「わたしは、それをなし終えた。この大いなるわざは完全に成し遂げられた。『完了した』[ヨハ19:30]。『わたしは酒ぶねを踏んだ』」。
さらに、ここで用いられている比喩には、衣が汚れたことがほのめかされている。この聖句の直前の節を見るとそれがわかる。「なぜ、あなたの着物は赤く、あなたの衣は酒ぶねを踏む者のようなのか」。葡萄搾り人の衣は、足の下からはね上がった果汁によって、自然と一面にしみをつけるものである。あゝ、わが魂よ。ここに立ち、お前の《救い主》を粛然たる思いで熟視するがいい。ご自分の血に染まったこのお方を! 見るがいい。生後八日にしかならないうちから、すでにあなたのための血を流しておられるこのお方を! また、先へ進んで見るがいい。主がゲツセマネの園で再びその血を流し始められたときのことを! 注目するがいい。いかに主が血みどろの衣をまとわされたことか。地上の王たちが着る、赤紫色の衣ではなく、悲惨さの《王》のような、血のように深紅の衣を、いかに着せられたことか。行って、主のこめかみから流れる血に注目するがいい。茨の冠が、その額を切り裂いたときの血を! 泣くがいい。残酷なローマ人の呪うべき鞭打ちが、主の震える肉体から生皮を一枚一枚引き剥がしていくときに! 主の後を追って行くがいい。エルサレムの街路を踏んで行く主が、のろのろと、そのvia dolorosa[悲しみの道]を歩んでいくときに! そこに止まって、見るがいい。主の踏みしめる石畳の1つ1つがいかに主の尊い血に染まっているかを! それから注目するがいい。主の御手が、ごつごつした鉄で引き裂かれたとき、いかに血の流れを迸らせ始めたかを! 見るがいい。今や主が木にかけられ、十字架から吊り下げられ、悲惨さのどん底に沈み込んでいる姿を!
「見よ、主のみかしら、御手と御足を
悲しみ恵みぞ こもごも流る。
いまだかくなる 恵み悲しみ、
いばらの冠、世にぞありしか?「主の死に給う 緋は衣に似、
みからだ覆わん、木の上(え)なる主の」。おゝ、イエスよ。あなたは、頭の天辺から御足の裏まで血に濡れていました! あなたの内なる人は血に染まり、あなたの外なる人も血に染まっていました。あなたは完全に血まみれでした。私たちのもろもろの罪を御足で踏みにじられた、栄光に富む《搾り人》よ! 私たちは二度と申しません。「エドムから来る者、ボツラから深紅の衣を着て来るこの者は、だれか。その着物には威光があり、大いなる力をもって進んで来るこの者は」、と。私たちは、なぜあなたの衣が赤いのか知っています。あなたが神の怒りの酒ぶねを踏まれたからです。
このように私たちは、できる限り手短に、私たちの主によって用いられた興味深い比喩を説明してきた。
II. そこでいま私たちが考察したいのは、《ここで宣言されている栄光に富む事実》である。「わたしは……酒ぶねを踏んだ」。
キリスト者よ。しばし私につき合うがいい! 私とともに来るがいい。兄弟よ。――天国へではなく、地獄へでもなく、《救い主》が踏まれた、大いなる酒ぶねへと来るがいい。あなたは、東方の酒ぶねの形について理解しているであろう。それがいかなる作りになっているか、また、そのため、いかに大量の葡萄をその中に入れて、葡萄搾り人の足で踏まれることができるようになっているか知っているであろう。ならば、ここに来て、この大いなる酒ぶねのへりから見下ろして見るがいい。あなたの《救い主》が立って、あなたのために踏みしめておられるところを。その深みを凝視するがいい。
その酒ぶねの中で最初にあなたが見てとるのは、あなたのもろもろの罪である。一心に見下ろすがいい。その酒ぶねの真中に、あなたの若い時の罪悪が、よく茂った、熟れていない葡萄の房のように置かれている。そこには、あなたの成人してからのもろもろの罪が、ゴモラのどす暗黒の果汁によって黒々とした光を放っている。あなたはそれが見えるだろうか? ソドムの葡萄の木からもいできた葡萄の実のようである。また、シブマの葡萄の木[エレ48:32]のような、その充実した房が見えないだろうか。 そこを眺めて、見るがいい。あなたの中年の頃の実りを。また、そこに、あなたの老年の頃のもろもろの罪があることをも! それらはみなこの巨大な酒ぶねに入れられている。ならば、来るがいい。罪人のかしらよ。そこにあなたのもろもろの罪があり、そこに私のもろもろの罪があり、すべてが混じり合って、うずたかい山をなしている! しかし、待つがいい。《葡萄搾り人》が入って来て、その上に自分の足をかける。おゝ! いかに彼がそれを踏みしだくか熟視するがいい。あなたは彼がゲツセマネにおいて、あなたのもろもろの罪を粉々に踏みつぶしているのが見えるだろうか? さあ、もう一度見るがいい。そこには、あなたのあらゆる咎を包んでいた皮が落ちている。――引き破かれた皮である。――だが、そこにはいかなる咎もない。今やいかなる罪悪もない。それらは、もはやない。もはやない。もはやない! 主は云われる。「わたしは酒ぶねを踏んだ」。そうしたもろもろの罪を振り返って見て、泣くがいい。それらは、今なおあなたの罪だからである。だが、それと同時に、苦く絶望にかられた苦悶にかられて泣いてはならない。そうした罪のため自分が罰されるのだとでも云うかのように泣いてはならない。そのどす黒い果汁は――あなたの咎の毒液は――ことごとく搾り出され、流れ出ていったからである。キリストは、それをご自分の苦き杯の中に受け止め、最後の一滴まで飲み干された。私はそこを見下ろすように命ずる。あなたに信仰の目があるとしたら、あなたは自分の罪がことごとく滅ぼされたのを見てとるであろうからである。ぜひとも眺めてみるがいい。悪魔に目隠しされてはならない。見るがいい。そして、もし何か、人に告白していない暗い罪悪が、なおもあなたの胸に食い込んでいるとしたら、見るがいい。それはそこにある! そして、もし何かあなたの隣人を残酷に傷つけたことが、あるいは、あなたの《造り主》に対する極度の罪悪が、なおもあなたにとりついているとしたら、見るがいい。それはそこにある。――それは他の罪と全く同じように踏みつぶされている。小さな罪も大きな罪も、みな粉々に踏み砕かれており、いかに目をこらして探しても、その1つすら見いだすことはできない。
「よし我が罪を 捜すとも
わが罪つゆも 見いだせじ」。信仰者よ。それは、そこにある。踏みつぶされて跡形もなくなっている! それらは消え去っている。みな消え去っている! 「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです」[ロマ8:33-34]。そこを見るがいい。《告発者》よ。その酒ぶねの中を。そこに見るがいい。《良心》よ。その葡萄搾り桶の中を! そこを見るがいい。サタンよ! お前は私の以前の罪が押しつぶされたかけらでも見えるだろうか? それはみな消え去っている。私のもろもろの罪はなくなってしまった。
「わが不義の おおわれてあり
われは断罪(せめ)より 自由なり」。しかし、来るがいい。信仰者よ。次にあなたがキリストの酒ぶねの中に見てとるのは、ことによると、あなたが全く見るとは期待もしていなかったものかもしれない。そこには、頭を砕かれたサタンが横たわっている。いかにしばしば彼は、今やって来てはあなたを苦しめることか! いかに彼はあなたに向かって恐ろしい咆哮を上げ、地獄がお前の受ける報いだと告げることか! いかに彼はあなたを、あなたの《救い主》の血から遠ざけようとすることか! いかに頻繁に彼は、神があなたを愛しておられるにもかかわらず、あなたから平安を奪い去ろうと努めることか! 私は切に願う。今晩サタンに向かって、ゲツセマネの葡萄搾り桶のもとに一緒に来いと告げるがいい。彼がそこをのぞき込むとき、彼は自分自身を見るであろう。左様。サタンをとらえて、彼をその葡萄搾り桶の中に入れるがいい。そうすればキリストが彼の頭をあなたのためにもう一度砕いてくださるであろう。しかし、そこに彼はいる。キリスト者よ! 彼があなたを傷つけるのではないかと恐れてはならない。彼はあなたを苦しめるかもしれないが、あなたを滅ぼすことはできない。彼は鎖でつながれているからである。彼は吠えるかもしれないが、噛みつくことはできない。恐れさせるかもしれないが、あなたを傷つけることはできない。ぎょっとさせるかもしれないが、あなたをむさぼり食うことはできない。彼は食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っているが[Iペテ5:8]、あなたを食い尽くすことはできない。彼は好きなだけ歩き回って捜すかもしれないが、決してあなたを見つけることはできない。主があなたについて、あなたは決して滅ぼされないと云われたからである。あなたがサタンと激しい争闘を演ずるときには常に、彼にこの葡萄搾り桶のことを告げてやり、彼のことを嘲笑するがいい。そして、ルターが云ったように、「悪魔をあざけり笑う」がいい。彼をあざ笑い、ゲツセマネの葡萄搾り桶を思い出せと云ってやるがいい。それについてどう考えるのか、そこで踏み砕かれた気分はどうか、そう彼に問うがいい。彼がゲツセマネで私たちの主にしかけたのは死に物狂いの攻撃であった。だが、それをもしのぐ一撃を私たちの主は彼に加え、彼の権力を取り上げ、彼のとげを引き抜き、彼を放置された。――なおも敵として、だが征服された敵として放り出された。というのも、キリストは彼を葡萄搾り桶の中で踏みつぶしたからである。
さらに見るがいい。キリスト者よ! あなたはそこに見えるだろうか?――あなたの罪と悪魔の間に、傷ついて横たわるもの――1つの醜い怪物が見えるだろうか? 彼は、がりがりに痩せこけた骸骨めいたしろものである。彼が何者かわかるだろうか? それはあなたの最後の敵である。「最後の敵である死も滅ぼされます」[Iコリ15:26]。彼を見るがいい。あなたは、彼の頭蓋骨が割れており、彼の骨々が折れていることに気づいただろうか? あなたは、いかに死が防備をはぎとられた君主であるかに注目しただろうか? そこに彼は横たわっている。だがしかし、あなたは彼を恐れている。そこに彼が砕かれ、踏みつぶされ、打ち壊され、傷つけられ、滅ぼされ、壊滅させられているにもかかわらず! そこに彼らはいる。――死と、悪魔と、あなたの罪が一緒になっている。地獄の三人組が、この強大な《征服者の御足》の下で永遠に踏みつけられている! 主は云われた。「死よ。おまえのとげはどこにあるのか。よみよ。おまえの針はどこにあるのか」[ホセ13:14]。そのように主は勝利された。それゆえ、今からは、私たちの敵から心乱され苦しめられるときには、常にこの葡萄搾り桶へと赴くことにしよう。
他の何があなたに刃向かうだろうか? キリスト者よ。私には見当もつかない。だが、それはみなここにある。あなたの敵が何であろうと、行くがいい。この葡萄搾り桶をのぞき込み、それがそこで死んでいるのを見るがいい。[『天路歴程』の]巨人絶望者はあの巡礼者たちをある場所に連れて行き、そこで自分が食らい尽くした何人かの巡礼者たちの骨を見せ、お前たちも確実にそうなるのだと告げた。あなたも、自分のあらゆる疑いや恐れに対して、《絶望》がこの巡礼者たちにしたようにするがいい。彼らに向かって云うがいい。「疑いと恐れよ。お前は、かつて私がいだいていた数々の疑いや恐れを見たか。それらはここで踏みにじられている。一日か二日すると、お前もそれらと一緒になるのだ」。きょうのもろもろの罪を取り上げて、それらに向かって告げるがいい。お前たちは、昨日のもろもろの罪がいるのと同じところにいることになるのだ。――イエスの血で溺死し、そのほむべき犠牲によって打ち殺されるのだ、と。そして、《良心》があなたに、あなたの罪悪について確信させるときには、彼をこの葡萄搾り桶へと連れて来るがいい。そこに連れて行きさえするなら、これはいかなる咎の幽霊をも打ち倒すであろう。「わたしは酒ぶねを踏んだ」、と記されているからである。それは成し遂げられている。完了している。罪も、疑いも、恐れも、地獄も、死も、破滅も、自我も、――すべてがこの、「ひとりで酒ぶねを踏んだ」《葡萄搾り人》、イエスの征服する足の下に踏みつけられているのである。
III. さて、キリスト者よ。《ここに叙述された、単独の征服者》について考察するがいい。「わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ」。
神が世に教えようとなさる大いなる教訓は、「わたしが神である。ほかにはいない」[イザ46:9]、ということである。そして、特に贖いにおいて、神はその栄光がことごとくご自分のものとなるようになさる。このことによりキリストは、決していかなる者にも贖いの労苦にあずかることを許さず、その栄誉が何者に分かたれることも認めないのである。そしてさらに、主を助けることができるような者はだれひとりいなかった。贖いのみわざに加われた者はひとりもしなかった。主の心にのしかかった御民の山なす咎を、その一粒でもになうことのできた者などいなかったからである。主が飲み干された杯の中の一滴の、そのまた微量でも飲めた者などいなかったからである。主はそれをみなおひとりでなされた。この章の第5節が宣言している通りである。「わたしは見回したが、だれも助ける者はなく、いぶかったが、だれもささえる者はいなかった。そこで、わたしの腕で救いをもたらし、わたしの憤りを、わたしのささえとした」。
さあ来るがいい。信仰者よ。ただひとりのイエスを眺めようではないか。主は、その公生涯のごく僅かな年月の間、いかにこの世で孤独であられたことか! これほど多くの人々に囲まれて生きていながら、これほど孤独だった人は、主イエス・キリストのほかひとりもいないと思う。主は群衆の中に立っておられ、会衆は主の説教を聞いていた。だが多くの者が喜んで聞いてはいたものの、主が必要としていたほどの共感を寄せた者はひとりもいなかった。主は寂しい所へ行き、その弟子たちと語られた。だが彼らも主に共感することはできなかった。ヨハネは多少そうした。彼は自分の頭をキリストの胸にもたせかけた。だがヨハネに与えることのできたものでさえ、貧弱な共感であった。イエスは、はなはだしいしかたで、常にこの上もなく孤独な人であった。主の汚れなききよさに匹敵するほど、きよい人がいただろうか? 無原罪の完全さと一緒にいられるほど完全な人がいただろうか? この《不思議な》助言者[イザ9:6]と語り合えるほど賢い人がいただろうか? 全時代の《預言者》と心を通い合わせることのできるほど、先見の明に富んだ人がいただろうか? 恵み深いイエスと話が通じるほど慈悲深い人がいただろうか? そして、この「悲しみの人で病を知っていた」[イザ53:3]お方にふさわしい同伴者となるほど悲しみに満ちた人がいただろうか?
主の孤独は、その最も重苦しい悲しみが臨むにつれて、いや増していった。主は、ゲツセマネの園にいたとき、たったひとりでその酒ぶねを踏まれた。私たちの《救い主》が、真実そうあられた通りの真の人間として、ご自分の同胞に多少はすがりついている姿が目に浮かぶ。主は仰せになる。「ペテロ、ヤコブ、ヨハネ。他の八人は向こうへ行ってよい。――ユダはすでにいなくなってしまった。――八名は、園の端で休んでよいが、あなたがたは、わたしとともに来るのだ。わたしには、途方もない悲しみがあるからである」。主は彼らを連れて行く。あゝ! だが、主はご自分が葛藤しておられる間、彼らをそばに置いておいても何にもならないのを感じる。というのも、そのときの主の御顔を見たとしたら彼らは死んでしまったであろうからである。みからだが苦痛で締め上げられ、魂が私たちの咎という重荷をになっている間の主の御顔はあまりにも恐ろしいもので、その悲しみの顔を目にしたとしたら、彼らは死んでしまったに違いない。いかに重い血の汗の滴が、苦悶せる主から流れ落ちたことか! それでも主は、まるで人恋しがるかのように、この三人の弟子たちにすがりついた。だが、おゝ! 主にとっていかに悲しかったことか。お戻りになった主は、彼らがみな眠り込んでいるのを見いだされたのである! イエスがその三人の眠っている弟子たちを見下ろしている姿が目に浮かばないだろうか? そこに彼らは横たわっていた! 主は三度、彼らのところに行かれた。あたかも、人間から何らかの助けをお求めになったかのように。また、彼らがご自分を慰めてくれるのを期待したかのように。というのも、主がお悲しみになっている間、彼らにできるのはその程度のことでしかなかったからである。三度、主は彼らのところに行かれ、三度目に主は云われた。「立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました」[マタ26:46]。
確かに、今や彼らは主の回りに結集するに違いない。彼らは一瞬そうした。というのも、ペテロがその剣によってマルコスの耳を切り落としたからである[ヨハ18:10]。だが、すぐに、「弟子たちはみな、イエスを見捨てて、逃げてしまった」[マタ26:56]。主は、剣や棒を手にした人々のとりことなる。おゝ、地よ。主にはひとりも友はいないのか? おゝ、天よ。お前にはイエスのためにひとりも友がいないのか? ペテロはどこにいるのか? 彼は云ったではないか。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません」[マタ26:33]、と。ヨハネはどこにいるのか? 彼は逃げてしまった。イエスとともにいようとする者はひとりもいない。だれひとり主を助けようとはしない。人々は主を議会の前に引き出すが、主の無罪を宣言する者はひとりもいない。主は官邸に立つが、だれひとり主とともに立ちはしない。否。ひとりだけいる。だが聞くがいい! 彼は云うのである。「はっきり云うが、そんな人は知らない」*[マタ26:74]。たちまちペテロは、ほとんど自分の《師》の面前に近い場所で、呪いをかけて誓い始める! そして今、主はカルバリへと向かう。だが、なおも主に連れ立つ者はだれひとりいない。ようやく、主が十字架に吊り下げられた後になって、あのほむべき女たちがやって来て、その悲しみに満ちた目で愛する主を仰ぎ見ては、涙に暮れた。だが暗闇が寄り集まり、主の目にはだれも見えなくなった。主はただひとり、ただひとり、ただひとりで、濃い、見通しのきかない暗黒の中にあった。主が叫ぶのを聞くがいい。「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」? それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である[マコ15:34]。そのとき、主はこう叫ぶことができた。「わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ。国々の民のうちに、わたしと事を共にする者はいなかった」。主が葬られたとき、その墓で主とともに眠ることになる者はひとりもいなかった。復活の朝、それと同じ墓所から出てきた者は他にひとりもいなかった。あゝ、キリスト者よ! 贖いのみわざにおいて、いかなる者をもイエスに結びつけてはならない。むしろ、このことを大いなる枢要な真理として立っているものと考えるがいい。すなわち、イエスはこの酒ぶねをひとりでお踏みになったのであり、それゆえイエスは《すべてにおいてすべて》なのである。
IV. さて、ここから私たちが、他のいくつかの点は手短に通り過ぎた上で至らされるのは、この最もほむべき、また神聖な主題によって《示唆される、甘やかで有益な考察》のいくつかである。
最初に推察されるのは、おゝ、信仰者よ。あなたが踏むべき、天来の怒りの酒ぶねは何1つない、ということである。イエスがその酒ぶねを踏み、また、それをおひとりで踏まれたからには、あなたがそれを踏む必要は決してない。この件においてキリスト者たちは何としばしば間違いを犯すことか! あなたは、これこれというキリスト者が自分のそむきの罪のために罰を受けた、と云われるのを聞くであろう。また、私の知っているある信仰者たちは、自分たちの患難が、自分たちの罪ゆえに神から送られた罰であると考えている。そのようなことは不可能である。神は、ご自分の民である私たちを、一度限りキリストにおいて罰したのであって、決して私たちをもう一度罰することはない。神が正しい神であられる以上、そのようなことはできない。患難は父親の手から出た懲らしめだが、裁判官の下す刑罰ではない。イエスは酒ぶねを踏み、それをおひとりで踏まれた。それで、私たちがそれを踏むことはありえない。いかにしばしばあなたは、こう考えてきたことか。神は自分に、これまで犯してきた罪の重みを感じさせて苦しめようとしているのだ、と! あゝ、否! イエスは、「わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ」、と云っておられる。もしあなたがそれを踏まなくてはならず、あなたが自分の不義ゆえの罰の苦悶をこれっぽっちでも耐え忍ばなくてはならないとしたら、キリストは決して、「わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ」、と云うことができなかったであろう。主はそれを完全に成し遂げたのであって、あなたのために取っておかれている罰は全くない。あなたのためには、いかなる地獄の焔もなく、あなたのためには、いかなる刑罰もなく、あなたのためには、いかなる拷問もない。あなたは無代価で放免されており、完全に赦免されている。また、二度と再び罪に定められることはない。キリストは、一度限り、あなたのもろもろの罪を御足の下で踏みつけられた。それゆえ、あなたがそれらのゆえに罰されることは決して、決してありえない。
これについてあなたは何と云うだろうか? あなたがた、真理を求めつつある人たち。もしかすると、あなたはこういう教理を聞いてきたかもしれない。キリストは万人の罪のために罰されたが、それでも、多くの人々は自分自身の罪のために罰されているのだ、と。そうした教理の中に、あなたはいかなる平安も慰めも決して見いださないであろう。これほど真実から遠く、これほど神に対して不当で、これほど人にとって安全ならざるものはない。私たちが聖書から教えられるところ、神はご自分の御子を御民すべての《身代わり》とし、「私たちのすべての咎を彼に負わせた」[イザ53:6]。そして、その「私たち」――キリストが身代わりとして罰を受けてくださった人々――の中のただひとりといえども、自ら罰を受けることになるようなことはありえない。イエスが私たちの罰を忍ばれた以上、私はこの、変わらざる正義という広やかな大地の上に立つ。すなわち、神は、ご自分のご性質と矛盾することなしには(そして神は、何事もそれと矛盾して行なうことはおできにならない)、それ以上私たちを罰することはおできにならない。おゝ、喜ぶがいい。キリスト者である兄弟たち。私たちの土台は堅固な土台である! 選民は――生きた信仰によってキリストに結びついているすべての者は――キリストにおいて罰されており、今やキリストにおいて立っている。「月のように美しい、太陽のように明るい、旗を掲げた軍勢のように恐ろしい」[雅6:10]者として立っている。何者も彼らを訴えることはできない[ロマ8:33]。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」[ロマ8:1]。栄光に富む神よ! あなたには賛美が、私たちには恥がありますように。私たちは、この代償という上なく尊い教理を――また、完全な義認というその必然的な結果を――これほど貧弱な愛し方しかできず、これほど不完全にしか評価していないからです!
「おぼえ給え、主よ イェスの血潮を。
イェスはみかしら 垂れ、死に給い、
血のしずくをば 汗と流しぬ。
わがため御怒り 呪いをしのび
みからだ木の上(え)に かけさせ給い、
払いて余らん、我れの負い目を。「確かにイェスわが 赦罪(ゆるし)かちとり
全き義をば つくり給えり、
御民(たみ)の贖い なしとげんため。
おゝ、その義のわれに
恵みによりて 転嫁(うつ)されて
わが罪イェスに うつらんがため!」もう1つのことを考えてほしい。おゝ、神の子どもよ! 罰のためではないが、あなたが踏まなくてはならない苦しみの酒ぶねはある。しかし、覚えておいてもらいたいのは、あなたは、それをひとりで踏まなくともよい、ということである。小さな子どもに、暗い夜、人気のない路地を歩いて行くよう云ったなら、その子は云うであろう。「母さん。そんなとこに行きたくないよう」。だが、「私が一緒に行ってあげますよ」、と母親が云えば、子どもは、「なら、行く」、と云うであろう。「母さんとだったらどこにでも行くよ」、と。あゝ、キリスト者よ! あなたが通るべき暗い路地は多い。だが、あなたはそこにひとりで行かなくともよいのである! あなたが踏むべき酒ぶねは多い。――神の怒りの酒ぶねではないが、神の懲らしめの御手という酒ぶねである――だが、あなたはそれをひとりで踏まなくともよい。おゝ、これは、私たちの心を陶然とさせる真理ではないだろうか? 私たちは決して酒ぶねをひとりで踏むことはない。教役者よ。あなたは自分の講壇へと向かうが、もし神があなたを遣わされたとしたら、あなたは決してひとりで行くのではない。あなたの《主人》の御足があなたの背後にあり、あなたの《主人》が自らあなたとともに立ってくださる。執事たちよ。あなたは時として《教会》を波立つ海域に進めなくてはならない。あなたには非常な知恵が必要とされる。だが、あなたのそばには、《大執事》がおられる。あなたはひとりであなたの務めに向かうことはない。日曜学校の教師よ。あなたは自分の学級に真剣にやって来る。そして、自分ひとりで教えるのだと考えている。あゝ、否! もうひとりの《教師》があなたのそばに座っていて、あなたよりも上手に教えることができるのである。というのも、そのお方は心を教えるが、あなたは頭しか教えていないからである。そのお方は魂を教えるが、あなたはからだしか教えてない。おゝ、苦しみの娘よ。病の床に横たわっている人よ。あなたはそこにひとりで横たわっているのではない! 御使いがそこであなたの頭をそのきよい翼で覆っているのではない。むしろイエスがそこに立ち、ご自身の刺し貫かれた御手をあなたのほてった額にあててくださるのである。あなたがた、死に行く聖徒たち。あなたは今にも死のうとしているが、あなたはひとりで死ぬのではない。イエスは、ご自分の民ひとりひとりの《寝室係》となってくださる。ダビデは云う。「主は病むときに彼のあらゆる寝床を整えてくださる」[詩41:3 <英欽定訳>]。
「イェスきみ我れの 死の寝床をも
むく毛の枕と かえさせたまわん。
み胸にこうべ もたせかけ
そこで甘けく 息ひきとらば」。キリスト者よ。あなたの試練は何だろうか? 「おゝ、暗いものです!」、とあなたは云うであろう。そうかもしれない。だが、主の鞭と主の杖は、あなたの慰めとなるであろう[詩23:4]。主の右の御手があなたを導くであろう[詩139:10]。キリスト者よ。あなたの悲しみは何だろうか? 「あゝ、深いものです!」、とあなたは云う。しかし、イエスはこう囁かれる。「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない」[イザ43:2]。私が祖父の家で常々読んでいた古い版の『天路歴程』の中には、川の中で有望者が基督者をかかえ上げている絵がついていたのを思い出す。彫刻師は見事な腕前を見せていた。有望者はその腕で基督者を抱きかかえ、彼の手を高く持ち上げては、「恐れてはいけません。兄弟よ。私は底に触っています」、と云っているのである。これこそ、まさに私たちが試練に遭うときイエスがしてくださることにほかならない。主は御腕で私たちをかかえ、こう仰せになるのである。「恐れてはならない! 水は深いかもしれないが、水底はしっかりしている」。そして、困難の冷たい流れが川を滔々と流れていようと恐れてはならない。キリストは、その川を渡ろうとするあなたとともにおられ、あなたはそれをひとりで渡る必要はない。主は私たちのために酒ぶねを踏んでくださった。だが私たちがそれを踏まなくてはならないことは決してない。もし私たちがそれを踏まなくてはならないことがあるとしたら、愛する方々。それは私たちにとって災厄の日となるであろう。神の民の中のある人々は、多少とも自分でそうしようと試み、ひとりでそうしようと試みたことがある。だが彼らは、悲惨な目に遭った。もし私たちが自分の力で何かをしようとするなら、一巻の終わりである。だが、イエスとともに生きている人、私とともにいてくださいとイエスに願う人は、いかなるゲツセマネにおいても、いかなるガバタ[ヨハ19:13]においても、その酒ぶねの中で主が自分とともにいてくださることに気づくであろう。たとい私たちが、カルバリで十字架につけられなくてはならなくなったとしても、キリストがカルバリで私たちとともに十字架についてくださることに気づくであろう。キリスト者よ。あなたはその川をあなたの《主人》から離れて渡る必要はない。私たちは少年時代の古い物語を覚えている。いかにして、あわれなロビンソン・クルーソーが、難破して打ち上げられた異郷の浜辺で人間の足跡を見て喜んだことか。困難の中にあるキリスト者もそれと同じである。その人は荒廃した土地で絶望しはしない。なぜなら、私たちのあらゆる誘惑や困難の上に、キリスト・イエスの足跡がつけられているからである。キリスト者よ。喜びながら進み続けるがいい。あなたは無人島にいるのではない。あなたのイエスは、あなたのあらゆる患難の中におり、あなたのあらゆる災いの中におられる。あなたは決して酒ぶねをひとりで踏む必要はない。
しかし、最後に、あなたがた、生ける神のしもべたち。イエスが酒ぶねをひとりで踏まれた以上、私の《主人》のゆえに、もうしばらく我慢してほしい。私はあなたに、すべてを主にささげるよう命じる。主はひとりで耐え忍ばれた。ではあなたは、ひとりでも主を愛さないだろうか? ひとりで主は酒ぶねを踏まれた。あなたは主に仕えないだろうか? ひとりで主はあなたの贖いを買い取られた。あなたは主の持ち物となり、主おひとりのものとならないだろうか? おゝ、あなたは自分の半分をこの世に与え、あなたの《主人》には半分しか与えていないだろうか? この世は、あなたを祝福したことがあるだろうか? あなたを贖ったことがあるだろうか? この世はあなたのために十字架にかかっただろうか? ひとりで酒ぶねを踏んだだろうか? 否。ならば、この世にあなたの心を一部分も与えてはならない。あなたには、魂の底から愛している親しい縁者がいる。だが、おゝ、キリスト者よ。それでも、あなたの心があなたの主に最も堅く据えられているように用心するがいい! その友人は、あなたのために酒ぶねを踏んでくれただろうか? あなたのために苦い杯を飲んでくれただろうか? 十字架の上であなたのために苦しんでくれただろうか? 否。ならばイエスを何にもまさる第一のお方とするがいい。主を王座の上に《王》として座らせるがいい。主以外の他のだれにもそうさせてはならない。そして、あなたが日々働きに出かけていくとき、十分に注意して、あなたが決して自分のために、あるいは快楽のために、あるいは他のこの世的な目的のため労するのではなく、イエスのため労するようにするがいい。もしもこの世が、「私とともに来るがいい。あなたに、あらゆる種類の楽しみを見せてあげよう」、と云うなら、こう答えるがいい。「おゝ、この世よ! 私にはお前と行くことはできない。私は一度もお前の足跡をあの酒ぶねの中で見たことがないのだから」。情欲があなたを誘うだろうか? 叫ぶがいい。「おゝ、情欲よ! 私にお前を愛することはできない! お前は一度も私のために血の汗を流したことがないのだから」。しかり。もし世のあらゆる住人が愛に満ちた両腕を広げて、あなたを差し招き、あなたの主を捨てるように懇願するとしても、こう答えるがいい。「否、否。あなたは酒ぶねを踏まなかった。そして、私はそのことしか意に介さないのだ。イエスはひとりで酒ぶねを踏まれた。そして私は自分を完全にイエスにおささげするのだ」。中途半端な心をしたキリスト者たち。あなたがた、二心をして、自分の半分はキリストに、半分は情欲にささげている人たち。あなたがたは主のものではない。「あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」[マタ6:24]。ひとりの《主人》、ひとりの主しかいることはできない。なぜなら、ひとりの《贖い主》、ひとりの《友》、ひとりの《統治者》、私たちを養うひとりの《お方》しか、私たちがいのちを賭すべきお方としてはいないからである。私たちのために死んでさえくださったお方は《おひとり》しかいないからである。私は切に願う。キリスト者よ。そして、また私は自分にも願う。――というのも、私はあなたに懇願しながら、自分にも懇願しているからである。――イエスはひとりで酒ぶねを踏まれた。決して、決してこのことを忘れてはならない。そして、常に用心するがいい。あなたが主だけを、あなたの心の中の《王》としているように。
もしもあなたが今晩、私に、贖いを描き出すように求めるとしたら、私はその絵の中にはたったひとりしか人物を描けないであろう。創造を描くときなら、あれやこれやの事物を描けるであろう。そのときには明けの星々が共に喜び歌ったからである[ヨブ38:7]。復活を絵にするなら、あれやこれやを描けるであろう。御使いが石を転がしたからである。だが、購いを描くとき、そこには、ひとりしか人物はいない。そして、その人物とは、「人としてのキリスト・イエス」[Iテモ2:5]である。そのように、もしあなたが自分の心の中に1つの絵画を有したければ、私はあなたに命ずる。あなたの魂の画布に、決してあれこれの事物を描いてはならない。むしろ神の聖霊に願って、その上には1つの名前、ひとりの麗しい《お方》、ひとりの崇敬に値する《ひと》を描いていただくがいい。――すなわち、ひとりで酒ぶねを踏まれたキリストである。メアリー女王はこう云った。もしも自分が死んだなら、人は自分の心臓に「カレー」という言葉が記されているのを見いだすであろう、と[対仏戦争によりメアリーは大陸における最後の拠点カレーを失った]。あゝ、キリスト者よ! あなたが死んだときには、みながあなたの心臓に「イエス」という汝が刻印されているのを知ることになるような生き方をするがいい。というのも、あなたの名前が、主の心臓そのものに、その御手に、その額に深く刻み込まれていることは確かだからである。それは、尊い血で記されているのである。主には、あなたの心の単に最上の場所ばかりでなく、あなたの心のすべてをささげるがいい。しばしばこう歌うがいい。――
「われはしばしば 迷い出て
愛する神より 離れ行く。――
わが魂(たま)とりて 烙印(しる)しませ、
天(あま)つかたなる 王宮(みとの)より」。兄弟姉妹。あなたの主と、その食卓において親しく交わるために来ようとしている人たち。願わくは、この1つの考えがあなたの思いを全く占めるように。すなわち、――
「イエスのみなるぞ、イエスのみなるぞ
よわき罪人、救うるは」。そして、あなたがた、十字架を蔑む人たち。おゝ、あなたがたに告げさせてほしい。あなたがたは、その酒ぶねの中の葡萄になる、と! もしあなたがたが不敬虔で、救われずに、不義の者として、赦されないまま死ぬとしたら、あなたがたは、熟れきった葡萄の実のように、御使いの鎌によって刈り取られる。そして神の怒りという巨大な葡萄の大樽に入れられ、無数のあなたの同輩たちとともに地獄に叩き込まれる。そして、身の毛もよだつ日がやって来る。キリストが憤りをもってあなたを踏みつけ、憤怒に燃えてあなたを踏みにじるのである。願わくは、あなた自身がその葡萄の大樽に入れられないよう、神の救いがあるように。その代わりに、あなたが自分の罪をそこに入れることができ、キリストがそれを踏みつけてくださるように!
私は、六年前のこの日に起こった幸いな出来事について、もう一度思い起こすことなしには、この説教を閉じることができない。その日には、この私自身が、エジプトの奴隷状態からの解放を見いだし、キリストが私を解き放ってくださった自由を喜んだのである。もし私の《主人》が、私の口によって、もう1つの魂をご自分のもとに来たらせなさるとしたらどうなるだろうか? 「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない」[イザ45:22]。あなたはこの言葉を聞かなかっただろうか? ならば、もう一度聞くがいい。また、あなたは仰ぎ見ただろうか? まだそうしていないというなら、おゝ、いま仰ぎ見るがいい! あなたは神を見ただろうか? まだ神を見ていないというなら、それでも見続けるがいい。そうすれば次第に神が見えてくるであろう。しかし、いま見るがいい! 神はあなたにそれしか求めておられない。そのことすら、神があなたに授けてくださる。いま見るがいい。あわれな罪人よ。いま見るがいい。キリストのゆえに、あなたの魂のために、天国のために。もしあなたが地獄の断罪から逃れたいと思うなら! 見るがいい。そのように見ることによって、あなたは救われるのである! 茨の冠をかぶった、かの尊いかしらを一目なりともとらえるがいい。憐れみをたたえた、その甘やかな目を一瞥なりともするがいい。あの微笑みを浮かべた御顔を一目なりともとらえるがいい。さもなければ、もしあなたがそれほど高くを仰ぎ見られないというなら、その刺し貫かれた御足の裏を見るがいい。そうすればあなたは救われる。というのも、今なおこう書かれているからである。「彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた」[詩34:5]。「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ」。
ただひとりによる征服[了]
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