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咎ある者への恵み

NO. 2563

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1898年3月27日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於サザク区、ニューパーク街会堂
1855年11月25日、主日夜の説教


「わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ」。――イザ44:22


 この宣告を受けた相手は、敬虔で、祈り深く、自分の神のそば近くにあり続けた人々ではなく、偶像礼拝に陥っていたイスラエルであった。――湧き水の泉から飲んだ後で、それに背を向けて、こわれた水ため[エレ2:13]の中の水滴を飲んでいた人々であった。このように語られた者たちは、ひとたびは主の良きものを味わい、真の信仰の高い特権の数々を知っていたのに、世の国々とともに背をそむけ、ヤコブの神を捨てては、自分たちのために神でもない刻んだ像を造り、主のねたみを引き起こし、そのもろもろの罪ゆえに彼らに対する御怒りを引き起こしていた。この驚くべきあわれみの言葉は、神のそば近くに生きていながらも罪を犯し、そのためそれを嘆き悲しみ、赦されることになる国に対してではなく、残虐で愚劣な国に対して語られた。異教徒のあらゆる偶像と忌まわしいことを行なった淫婦のような民、――その丘々の上で偽りの神々に向かって香をたき、ベン・ヒノムの谷にあるトフェテで、自分の息子や娘に火の中をくぐらせた者たち、――忌まわしく、おぞましい、もろもろの罪に満ちた者たち、ソドムのもろもろの犯罪を犯し、バアルとアシュタロテを伏し拝んできた者たちに対して語られた。この約束は、神から遠く離れてさまよっていた者たちに対してなされた。それは、彼らが悔い改めたからでも、信じたからでもなく、ただ単に、神の主権的な恵みから出たことであった。ご自分の情愛をいったん彼らにかけておられた以上、神は彼らから目をそむけようとはなさらず、また彼らの父祖アブラハムに対して、彼の子孫を永遠に祝福すると誓っておられたために、神はなおも彼らを覚えておられた。神は、彼らが数え切れないほど長い間ご自分のことを忘れ果てていようと、彼らをお忘れにならず、彼らにひとりの《救い主》を与え、今や彼らに向かって、ご自分の預言者の口によって、この慰めに満ちた確信を与えておられる。「わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ」。

 私たちは、この聖句を取り上げて、それが自然とその意味を明らかにするにまかせたいと思う。それゆえ、そうした思想がやってくるままに、あなたに伝えていくことにしたい。

 I. 最初のことは、《ある人のもろもろの罪は、本人がそれと知るはるか以前から実は赦されていることがありえる》、ということである。こう書かれている。「わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように……ぬぐい去った」。

 もし彼らがそれを知っていたとしたら、それを彼らに告げる必要は全くなかったであろう。もし彼らが心の中で、自分たちのそむきの罪がぬぐい去られたのだと理解していたとしたら、預言者がのこのこやって来て、彼らにそれと告げる必要などあっただろうか? だが、人が自分のそむきの罪の赦しを知るはるか以前から、神はそれらを赦して、ぬぐい去っておられることがありえる。私は決して、ある人がそれと知ることなく、自分の魂の中で現実の赦しを受け取るとか、義と認められたことを実感すると云っているのではない。一部の人々とは違い、私は決して、人がそれと気づくことなしに新しく生まれていることがありえるなどとは信じられない。私は、激痛と痛みなしに自然の出生があったためしがないことを知っている。そして、それと同じくらい確実に、何らかの苦しみや苦悶なしに霊的出生が起こることは決してないだろうと思う。人は、眠っている間に新しく生まれることはない。人はそれと知るはずである。自分の人生の何らかの時点でそのことを知るはずである。全く途切れることなくそう感じ続けるわけではないかもしれない。だがそれにもかかわらず、その人は知るはずである。たといそれが一時間しか続かないとしても、自分が神の子どもであることを知るであろう。そうした確信を一分間も感じたことがないという人は、全く信仰を有したことがないのだという気が私にはする。自分が神の子どもであることを一度も感じたことがない人、一度も、「私はイエスを信じます」、と云うことができなかった人、一度も自分のもろもろの罪がぬぐい去られたことを見てとれなかった人――、こうした人は、信仰がいかなるものかわかっていないのだという気がする。それは、ごく短時間しか持ちこたえられないかもしれない。だが、もしそれが真の確信だとしたら、それは真の信仰から生じているのであり、その人は救われているのである。

 しかし、人はそのもろもろの罪がぬぐい去られていながら、まだそれを知らないことがありえる。そして罪は、その人が自分ではぬぐい去られたと信じていないときにも、ぬぐい去られていることがありえるし、その点についてその人が疑いに満ちているときにも、ぬぐい去られていることがありえる。しかり。それらは、その人が本当にそうだと納得できないときでさえ、赦されていることがありえる。私はある人々のことをあなたに告げることができる。私はその人々が天来の恵みの働きかけの下にあると心底から信じている。彼らのうちに神の力の目印を見てとることができる。――神によって彼らは、罪について確信させられ、へりくだり、悔悟し、祈りを積み、自分の咎を感じ、それを告白している。――だが、贖いに関する彼らの見方には霞みがかかっており、このことによって大きな霊の暗黒が生じている。彼らは救いの計画を見てとれず、その計画を見てとれないがために、救いそのものの喜ばしい実感を得ることがない。だが、たといこの人々がじきに死ぬことになったとしても、私は堅く確信するものである。彼らがこの世を去る前に、きっと神は、彼らに太陽の日差しを一瞥させてくださり、あらゆる黒雲が散らされ、彼らが天国に入るときには、歌いながらヨルダンの流れを歩き渡ることができるであろう、と。「キリストわれとともにあり。死は何かあらん。キリストわれとともにあり。主はわが助け、わが支え」。彼らがそれと知るはるか前から、彼らの罪は赦されているのである。

 さらに、一部の信仰告白者たちからは激しく中傷され、多くの人々から拒絶されている1つの教理があるが、私はそれを堅く信ずるものである。すなわち、あらゆる選民は、キリスト・イエスというお方によって、永遠かつ完全に義と認められている、という教理である。私が思うに、この《天来の保証人》が私たちの負債をお支払いになったとき、私たちの債務は免除されたのである。このお方が私たちの咎をご自分の頭上に負って、カルバリで私たちに代わって苦しまれたとき、私たちのもろもろの罪はその瞬間にぬぐい去られたのである。ある人は云うであろう。「しかし、そのもろもろの罪は、そのときには存在していなかったではないか」。しかり。確かにそれらは、神の予知の中以外には存在していなかった。だが、すべてを予知なさる神は、こうしたすべての罪を、それらが犯されるはるか以前から、ご自分の予知の書の中に書き記しておられ、キリストの――「世の初めからほふられた小羊」の[黙13:8 <英欽定訳>]――血によって、神は永遠に、ご自分の契約の民全員のもろもろの犯罪と罪とをぬぐい去られた。それで、最終的には救われることになるあらゆる者は、キリストにあって、キリストが死なれたときに、義と認められたのである。救われることになるあらゆる者のもろもろの罪は、キリストによって贖われた。彼らがそれを全く知らなくとも関係ない。神はそのことを、彼らが主イエス・キリストを信ずる信仰を働かせる瞬間に、ご自分の御霊を通して彼らに啓示してくださる。もし負債が支払われているとしたら、確かに完全な領収書が渡されたに違いない。もしその犯罪がそのときイエスの頭上に置かれたとしたら、また、イエスがそれゆえにそのとき罰されたとしたら、確かにそのときその犯罪は消滅したに違いない。もしあなたが、その犯罪は存在していなかったのだ、なぜならそれは犯されていなかったのだから、と云うとしたら、逆に私はあなたにこう告げたい。キリストは、それが犯される前から、そのために死んだのだ、と。それゆえ私たちは、こう云っても完全に正しいことになる。すなわち、その罪は、それが犯される前にぬぐい去られたのだ、と。私は、信じたときに自分の赦免状を受けた。だが、それはキリストが死んだときに買い取られた赦免状だったのである。キリストというお方において私は、神の御前においては、私が今あるのと全く同じくらい完全に、かつ真実に義と認められた。だが、私はそれを知らなかった。それは私に啓示されなかった。私はそのことを喜べず、それによって祝福されることができなかった。その血で買い取られた赦免は、私がそれを感じとるまでは、私を放免することができなかった。キリストの赦免は、私がそれについて知るまでは、私を罪の牢獄から贖い出すことができなかった。だがそれでも、それは実質的には与えられていた。贖いの代価が支払われたとき、その自由は実は確保されたのである。その奴隷がまだ脅えていようと、焼き印を押されていようと、鉄格子に鎖でつながれていようと、彼は買い取られた人間であり、いつの日かその解放を受け取ることになるのである。おゝ! あなたの心は喜ばされないだろうか? 目は潤まないだろうか? たとい自分が赦されたとは知らなくとも、あなたのもろもろの罪はぬぐい去られていることがありえるのである。自分が義と認められたとは知らなくとも、あなたが「愛する方にあって受け入れられている」[エペ1:6 <英欽定訳>]ことはありえるのである。「おゝ!」、とある人は云う。「もし自分にもそのようなことが可能だという希望か、ほんの見込みでもあると思えるのならば、ぜひともイエスのもとに行きたいものだ。たとい私の罪が、『山のように高くとも』」。ならば行くがいい。あわれな罪人よ。そして、もしあなたがそこにあなたの赦免を読めなかったとしたら、もしあなたを非とする手書きの布告が十字架に釘づけられているのを見なかったとしたら、戻ってきて、私が真実でないことを語ったと云うがいい。これまでにも多くの罪人が、罪に満ちたままキリストのもとに行ったが、その中のひとりとして同じ状態のまま帰ってきた者はいない。多くの者は咎あるまま主のもとに行ったが、だれひとりとして、赦しを得ずに主の扉から追い返された者はいない。主は、彼らのそむきの罪を雲のように、彼らの罪をかすみのようにぬぐい去られた。

 ならば、ある人は、それと知る前に、そのもろもろの罪が赦されていることがありえるのである。そして、主イエスのもとに来ている真のキリスト者は、自分でもそれと信じられなくとも、そのもろもろの罪をぬぐい去られているであろう。悪魔はあなたにあれこれのことを信じさせることができる。どんな弁護士も悪魔とはくらべものにならない。――もっとも、一部の弁護士は、絶対間違いなく悪魔の手ずから学んだ教訓がいくつかあるに違いないが。――悪魔は、半面の真実を全面的な真実であるように見せかけることができるばかりか、全くのうそを取り上げては真実であるかのように輝かせることができるからである。いかにしばしば悪魔は、真に義と認められた人を説き伏せて、自分など全く義と認められていないと思い込ませることか! 非常によくあることだが、神があるあわれな罪人に赦免を与えられるとき、悪魔は彼のもとにやって来て、お前は赦されてなどいないのだ、と云うものである。そして、あらん限りの理屈を尽くして、実は赦免を受けている人に、まだ赦されていないかのように信じ込ませるものである。その人のあらゆる犯罪は遠い昔に赦されているし、その人のあらゆる不義は海の深みに投げ込まれているが、サタンはその人の良心を動揺させ、魂をかき乱し、不信仰で縛り上げ、その人の食物に小石を混ぜ込み、エレミヤが語ったように、その人に苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませる[エレ23:15]。それゆえ、ついにその人は、自分が一度でも主のいつくしみ深さを味わった[Iペテ2:3]ことなどないと云い切るばかりか、絶望にかられるあまり、自分が救われることなど不可能だと思い込むほどになる。サタンは、義と認められた人がまだ、「苦い胆汁と不義のきずなの中にいる」[使8:23]のだとその人に説きつけようとするものである。あなたがたの中にだれか、かつては多くの心楽しい日々を過ごし、キリストと交わる多くの甘やかな時を過ごしたことがありながら、何らかの暗い瞬間に、自分は結局偽善者かもしれないという思いがよぎったことのある人がいるだろうか? その時から、あなたは一度も主のもとに近づくことができないでいる。そしてあなたは、主のみつばさのに身を避けはしているが、主の御顔のを見てはいない。よろしい。だが、兄弟よ。あなたに告げさせてほしい。この赦免は、視界から隠されているからといって、無効になってはいない。この赦免は、あなたに見てとれないきも、見てとれるときと全く同じくらい有効なのである。赦免は赦免である。断罪された犯罪人がその赦免状を見てとることができなくとも、それが取り消されたわけではない。神は、私たちに代わって私たちの赦免状の面倒を見ておられる。神はそれを私たちの手に握らせてはおられない。サタンがそれを私たちの手から引ったくっていくだろうからである。だが神は、その写しを私たちに持たせて読めるようにしておられる。そして、たといサタンがその写しを盗んでも、原本を手に入れることはできない。それは天国の公文書保管所の中で安全である。天高く、神が宇宙の証書類を保存しておられる、その神の箱の中に、そこに神は私たちのもろもろの罪の赦免状を保管しておられる。左様。私は自分が赦免を受けているかどうか疑うかもしれないが、もし私が本当に赦免を受けているとすれば、私は赦されているのである。また私が本当に頼りにすべきことは自分の心持ちや感情ではなく、このことである。――神はひとたび私に向かって、「わたしは、あなたの罪をぬぐい去った」、と云われた。神はそれを二度も私に云われた。それは、神のみことばの中に記されている。たといサタンがその罪は取り除かれていないと云うとしても、私はそれが取り除かれていると信じる。そして、この確信に堅く立つ。なぜなら、神は云われたからである。「わたしは、あなたのそむきの罪を雲のようにぬぐい去った」、と。

 II. 本日の聖句について注意したいもう1つのこととは、《この世の何物にもまして人を神に至らせるのは、罪が赦された感覚である》、ということである。「わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ」。

 熱狂的な神学者たちは、煮えたぎる大釜のシューシュー云う音によって人々が美徳に至らされると考えている。彼らの想像によると、人々には、その耳に地獄の太鼓を鳴り響かせることによって、福音を信じさせるべきなのである。シナイの山のすさまじい光景と響きによって、人々をカルバリへと駆り立てるべきなのである。彼らは年がら年中、「もしこれをしたら、地獄行きだぞ」、と説教している。彼らの説教の中では、ぞっとするような、恐ろしい声が重々しく威を振るっている。もしあなたが彼らの話を聞いたなら、まるで、かの穴の淵近くに立っていて、「不気味な呻き、陰鬱(くら)き嘆き」を耳にし、破滅のうちにあって責め苦しめらるるすべての人々の悲鳴を聞いているかのように思うであろう。人々の考えによると、こうした手段によって罪人たちは、《救い主》のもとに導かれるのである。しかしながら、私の意見ではその考えは間違っている。人々は、脅されて地獄に至らされることはあっても、天国に至らされることはない。時として人々は、力強い説教によってシナイへと追い立てられる。私たちも律法を用いることを非難しようなどとは毛頭思わない。というのも、「律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係」[ガラ3:24]となったからである。だが、もしあなたが人をキリストに導きたいと思うなら、最上の道は、キリストをその人のもとに連れてくることである。律法や恐怖を説教することによっては、人々が神を愛するようにはならない。

   「律法(おきて)も恐れも それのみにては
    人かたくなにする ほかあらず。
    されど血による 赦し悟れば
    石のこころも はや溶けなん」。

私も時々、パウロがしたように、「主を恐れること」を説教しないではない。彼はこう云っている。「こういうわけで、私たちは、主を恐れることを知っているので、人々を説得しようとするのです」[IIコリ5:11]。だが私はそれを、使徒がしたように、人々に彼らの罪を感じさせるために行なっている。人々をイエスに導き、彼らに平安を与え、喜びを与え、キリストによる救いを与える道は、神の御霊の力添えによって、キリストを宣べ伝えることである。――完全な、無代価の、全き赦免を宣べ伝えることである。おゝ、イエス・キリストを宣べ伝えることが、いかに僅かしか見られないことか! 私たちは、主の栄光に富む御名について、いくら説教しても足りるものではない。ある人々は、無味乾燥な教理を説教する。だがそこには、主イエスの満ち満ちた豊かさと尊さを啓示する《聖なるお方》の油注ぎがない。「これをすれば、生きる」式の教えは山ほどあるが、「主イエス・キリスト信じなさい。そうすれば、あなたも救われます」*[使16:31]、という教えは十分ではない。おゝ、甘やかなイエスよ。あなたの弟子たちの中には、あなたを忘れている者がいるではないでしょうか? あなたの説教者の中には、あなたの栄光に富む御名の響きをほとんど忘れてしまった者、そのほむべき発音を知らないかのような者がいるではないでしょうか? いま一度お与えください。どうか賜ってください。愛と、健全な精神との霊を。私たちがより完全に私たちの主イエス・キリストを宣べ伝えることができるように!

 しかし今、愛する方々。あなたがたに向かって真剣に尋ねさせてほしい。あなたが罪の感覚に圧倒されていたとき、最も《救い主》のもとに行きたいと思させられたのは、いかなるときだっただろうか? あなたはすぐさま答えるであろう。自分にも望みがあると感じ、主が自分のもろもろの罪をぬぐい去ってくださったと感じたときだと。だれでも、イエスに悪感情をいだいている間は、イエスのもとに行こうなどとするものではない。だが、主を甘やかなお方であると考えるとき、その人はみもとに行くであろう。あなたも、このジョン・バニヤンから借りた古いたとえを聞いたことがあるに違いない。ある町の中に一軍がおり、その町が別の軍隊によって攻撃されていたとする。外側にいる王は云った。「今すぐに町を明け渡せ。さもないと、お前たち全員を縛り首にするぞ」。「いいや」、と彼らは云った。「われわれは死ぬまで戦う。決して降伏などするものか」。「お前たちのを焼き滅ぼすぞ」、と彼は云った。「それから、それを完全に破壊し、倒壊し尽くし、お前たちの妻子を皆殺しにしてやるぞ。子孫を根絶やしにし、お前たちを絶滅させてやるぞ」。「あゝ!」、と彼らは云った。「ならばわれわれは死ぬまで戦おう。絶対に扉を開いたりするものか」。いかに脅しても何にもならないことを見てとった彼は、別の使信を送った。「もしあなたがたが門を開くなら、また私に降伏するなら、私はあなたがたを、持ち物全部を持たせて去らせよう。あなたがた全員のいのちを助けてやり、自由にしてやろう。それだけではない。ほんの少し貢ぎ物をするだけで、あなたがたの土地をもう一度持たせてやろう。そしてあなたがたを永遠に私のしもべとし、友とするであろう」。このたとえ話によると、「すぐさま彼らは門の閂を外し、飛び出して来ては、この君主のもとにまろび伏した」。これこそ、御霊の助けによって、罪人を悔悟のうちにイエスのもとに来させる道である。その人に、この主のおことばを告げることである。「わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ」。さあ来るがいい。愛する方々! なぜあなたはイエスを恐れているのか? 主は云っておられる。「わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ」。さあ来るがいい。兄弟よ。もしあなたが罪人だとしたら、主イエスのもとに来るがいい。私は、自分のことを、失われた、咎ある者だと考えている人に語っている。私とともにイエスのもとに来るがいい。主は、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去っておられる。主は、あなたを贖われた。「おゝ!」、とある人は云う。「主のもとになど行けません。主は私に眉をひそめなさるでしょう」。行って試してみるがいい。主は、あなたを赦したと云っておられる。その扉を開いて中に入るがいい。そうすれば、キリストがあなたを赦されたのは本当だとわかるであろう。私には、あなたが立って、自分を眺めている姿が目に見えるような気がする。あなたは云っている。「おゝ! 中に入るのを恐れていたなど、私は馬鹿を一万人合わせたよりも愚かだったではないだろうか?――主に頼るのを恐れるなど。主はとうの昔に私を赦しておられたというのに。自分の最上の《友》を獅子のように考えて尻込みしていたなど、私はどれほど無知蒙昧な者よりも物知らずだったではないだろうか?――私の贖いの代価を払ってくださった愛するイエスから、まるで自分の敵ででもあるかのように飛びすさるなど」。愛する方々。キリストのもとに行くのいやがるあなたを見れば、人は、あなたが救われるために行くのではなく、断罪を受けに行こうとでもしているのかと思うであろう。人々は処刑されるときには、いやいやながら進む。だが人は、あたかも屠殺者のもとに行くかのように、しぶしぶキリストのもとに来てよいだろうか? あなたは主がどこかの怒った裁判官だと考えている。私の甘やかなイエスについて悪い考えをいだいている。さもなければ、あなたは、主が絶えず、「わたしに帰れ」、「わたしに帰れ」、と叫んでおられるときに、主から遠く離れてはいないであろう。むしろ主を愛し、主にあって喜び、主のもとに行くことをこの世で最大の楽しみと感じるであろう。

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《C・H・スポルジョンによる講解》

詩篇125篇

1節. 主に信頼する人々はシオンの山のようだ。ゆるぐことなく、とこしえにながらえる。

征服者たちは、シオンの山の上にある建造物を次から次へと破壊してきたが、山そのものはいまだそこにある。それを掘り返して、地中海に投げ込んだ者はひとりもない。この山は堅く立っており、世界の続く限り、そこに立ち続けるであろう。そして、「主に信頼する人々はシオンの山のよう」なのである。彼らは、その聖なる山と同じように堅固にとどまり続ける。彼らはキリストの御手のうちにあり、だれもそこから彼らを奪い去ることはできない。「わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です」、と主は云われる。「だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません」[ヨハ10:28-29]。おゝ、信仰によって人は何という堅固さを与えられることか!

2節. 山々がエルサレムを取り囲むように、主は御民を今よりとこしえまでも囲まれる。

この節は、前節が信仰者の堅固さを示していたのと同じように、信仰者の安泰さを示している。山々が聖なる都を守って立っているように、神はご自分の民を取り巻く火の城壁となっておられる[ゼカ2:5]。だれかが信仰者を傷つけようとしても、その前にまず《神格》の防御を突破しなくてはならない。単に火の馬と戦車が神の民を取り巻いていると云われてはいない。それは事実ではあるが[II列6:17]、主ご自身が彼らを取り巻き、それも時たまにではなく、「今よりとこしえまでも」そうなのである。私は、聖徒たちが永遠に安泰であると信じており、たといそうしたことを告げる他のどんな聖書箇所がなくとも、この2つの節に基づいてそう確信するであろう。彼らがシオンの山以上には決して動かされない以上、神が永遠に彼らを取り巻いておられる以上、彼らは生きるに違いなく、立ち続けるに違いない。ここには、いかなる「もし」も、「ただし」も差し挟まれていない。――「もし彼らがちゃんとしているとしたら」、といった類のものはない。しかり。むしろ、神に頼る彼らは、決して動かされることがなく、神は彼らの確かな守りとして彼らを取り巻いていてくださる。

私には、だれかがこう云うのが聞こえる。「そうだとしたら、なぜ私は試練や悩みを受けるのですか?」 あゝ、私の兄弟たち。あなたは決して困難から解放されることにはなっていない。契約の中には杖があり、もしあなたがそれを一度も感じたことがないとしたら、あなたは自分がその契約の中に入っていないのではないかと疑ってよいであろう。

3節. 悪の杖が正しい者の地所の上にとどまることなく、正しい者が不正なことに、手を伸ばさないためである。

あなたはその杖を感じるであろうが、それはあなたの上にとどまらない。迫害の日数は、選ばれた者のために少なくされる[マタ24:22]。そして、ことによると、悪魔は自分の時の短いことを知り、今まで以上にあなたに対して激しく怒るかもしれないが[黙12:12]、それでも神はあなたの苦しみ、あなたの迫害、あなたの抑圧を終わらせてくださる。というのも、神はあなたの成り立ちを知っておられ[詩103:14]、ことによると、誘惑があまりにも押し進められると、あなたが屈してしまうかもしれないことをご存じだからである。それゆえ、神は、あなたのために脱出の道も備えてくださる[Iコリ10:13]。神はあなたを試し、試験なさろうとするが、それを辛すぎるものとはせず、人間の怒りの激しさを弱め、あなたを救い出してくださるであろう。

4節. 主よ。善良な人々や心の直ぐな人々に、いつくしみを施してください。

真の信仰者たちは善良である。特に、彼らは心において善良である。恵みが彼らをそうしているからである。それゆえ神は、彼らに善を施されるであろう。神はいやまさって彼らを祝福なさる。彼らを聖くし、ご自分の右の座にある、永遠の、云いようもないほどすぐれたいつくしみにふさわしい者へと彼らを整えてくださるであろう。

5節. しかし、主は、曲がった道にそれる者どもを不法を行なう者どもとともに、連れ去られよう。イスラエルの上に平和があるように。

これは必ず起こることである。――神の教会の中には、教会の不名誉となる者たちがいる。彼らは曲がった道を好み、しかるべき時が来ると、迫害の緊張によってか誘惑によって、「曲がった道にそれ」ていく。彼らは、ユダやデマスや他の多くの人々がそうしてきたように、真実と聖潔の通り道を離れていく。神は彼らをどうなさるだろうか? 神は、彼らを「連れ去られ」る。彼らの本性をあばき、白日のもとにさらけ出される。では神は、彼らをいかなる者らととともに連れ去られるだろうか? 左様。「不法を行なう者どもとともに」である。というのも、たとい彼らが外見上はそうした者どもとは違っているとしても、思いと心においてはそうだからである。そして神は、彼らをどこへ連れ去られるだろうか? 処刑場である。彼らは悪を行なう者どもとともにそこへ行き、死へと至らされる。しかし、このことによって主の民は傷つくだろうか? 否。もみがらが麦から分離されるとき、その分だけ麦は純粋になるであろう。「イスラエルの上に平和があるように」。主に選ばれた、祈りをささげつつある、王のような者たち――神のイスラエル――はみな、平和を戴くであろう。願わくは私たちがみな、こうした人々の間に見いだされることができるように! キリストのゆえに。アーメン。

 

咎ある者への恵み[了]

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