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霊的復活

NO. 2554

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1898年1月30日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於サザク区、ニューパーク街会堂
1855年11月18日、主日夜の説教


「そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。『ラザロよ。出て来なさい。』すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。『ほどいてやって、帰らせなさい』」。――ヨハ11:43、44


 このような聖句の後で本来なすべき講話の題目は、死者の復活でなくてはならないかもしれない。ラザロは死んでいた。――その墓に横たえられていた。その姉妹たちの招きによって、イエス・キリストは彼女たちを見舞いにやって来られた。そして、その訪問によって2つの目的が果たされた。遺族の慰めと、死者のよみがえりである。この復活の驚異について、しばらくの間、敷衍して話すことは、ほむべき素晴らしい話題となるであろう。そこで私たちは、しばしそうすることにし、その後で今晩の本題に移ることにしたい。それは、やがて私たち全員に訪れる肉体的な復活ではなく、霊的な死からの霊的復活に関わることである。

 ラザロが、死んで四日も経ち、腐敗していたにもかかわらず、その墓から出てきたこと、また、彼がイエスの力強い御声によって墓所から呼び出されたという事実そのものは、私たちにとって、最後の大いなる日に死者がイエスの御声でよみがえることの証明である。あらゆるキリスト者は、死者の復活があると信じている。だが不幸なことに、復活という偉大な教理は、私たちの中のほとんどの者によって、本来あるべきほどに大きな位置を占めるものとはされていない。古の時代、復活は使徒たちによって、福音の要約また実質として説教されていた。私たちは、パウロがどこへ行こうと死者の復活について語ったこと、そして、そのとき、「ある者たちはあざ笑った」*[使17:32]ことを知っている。しかし今の時代の多くの人々は、人の死後の状態について語る場合、概して復活についてではなく不滅性について扱う。さて、不滅性は福音がやって来る前から異教徒に知られていた。彼らは一種の不滅性を信じていた。だが、復活は決して異教徒の思想に入り込んだことがなかった。彼らの多くは魂の不滅を信じていた。透徹した理性の啓発を受けていた人々、あるいは古代の伝承を受け継いでいた僅かな人々は、魂が死ぬことはなく、未来の状態でも生き続けると信じていた。しかし、不滅性は復活ではない。また、魂の不滅は、からだの復活というキリスト教の教理とは非常に異なるものである。私たちは、魂が不滅であり、永遠に残るものだと信じている。だが私たちが信じているのは、それ以上のことである。私たちの信ずるところ、からだも不滅であり、このからだは墓に蒔かれた後で、主のみこころのときに、よみがえるのである。また、天国に移されてそこで、永遠に至福を享受するか、さもなければ、地獄に投げ込まれて、永遠に苦しむことになるのである。

 死者の復活という教理は、特にキリスト教の経綸に属している。それは、いかなる合理主義者や哲学者によっても決して教えられたことがない。彼らは霊魂の輪廻は信じていたかもしれないが、からだの復活を信じてはいなかった。しかし、キリスト者として私たちは、自分の今の住まいであるこのからだが、死んで腐敗を経なくてはならないにせよ、ちりの中からよみがえることになると本当に信じている。――すなわち、火葬用の薪の上で焼き尽くされ、風に吹き散らされても、それは再び1つに集まるのである。私たちの信ずるところ、人がこのからだに何をしようと、それを切り離そうと、散り散りにしようと、混ぜ合わせようと、それは起こる。――神は、ご自分の全能の決定によって、その組織を建て直し、生ける魂の永遠の住まいとなさる。事実、私たちは全く否定しようとは思わない。聖なる書の中できわめて明確に教えられており、使徒パウロによって格別に充実した、満足の行くしかたで証明されているからである。

 そして、おゝ、愛する方々。私たちがよみがえることになるという事実は、ほむべきことではないだろうか? 私は、いま話をお聞きの方々の中に、悲しみの装束を身につけ、友を喪ったことを示している人々が見える。私が目にしている何人かの人は、その老いた顔つきによって、母親か父親を葬ってきたことを告げている。他の人々は、愛する幼子をちりの中に横たえてきたとわかる。別の人々は、大切な夫か妻を、自分の胸からもぎとられてしまった。私が目にしている、あなたがたの中のある人々は、その服装によって、最近、大切な人を失ったか、心から愛する人と死別したことを示している。あゝ、絶望してはならない。あなたがた、嘆き悲しむ人たち! ここに、あなたのための事実がある。あなたの魂と、あなたの愛する人の魂は、永遠の中で相会うばかりでなく、あなたが愛してやまなかったのと同じからだが――もしあなたがたが信仰者であるとしたら――天国で目にされるのである。かつてはあなたのために涙をこぼした、優しく敬虔な母上の目は、天国であなたを見つめることになる。今は墓に横たわっているあの敬虔な父上が、かつてあなたの頭の上に乗せてくれた手、また、あなたを主に献げてくれた手は、あなたの握りしめるところになるのである。あなたの赤子の魂が永遠に生きるだけでなく、その美しいからだ――あなたにとって、わが子の魂をおさめた小箱として愛しいもの――が再び生きたものとなるのである。これは空想上の復活ではない。天界の新種族としての生き物ではない。現実のからだが私たちのものとなるのである。そして、おゝ! 私の兄弟たち。もしあなたが、あらゆる友人に死なれたとしても、――もし彼らがイエスを信じる信仰のうちに世を去ったとしたら、――あなたは彼らを再び見ることになるのである。「今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。御霊も言われる。『しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行ないは彼らについて行くからである』」*[黙14:13]。しかし、彼らはさらに幸いな者となる。「ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり」[Iコリ15:52]、私たちはかつて地上で愛した人々のからだを見ることになるからである。私たちがかつて沈黙のうちに眺めたからだ、死に硬直しきって横たわっていたからだを、私たちは、生き返らされ、栄化されたものとして見ることになる。死ぬものが「不死を着る」ことになり、朽ちるものが「朽ちないものを着る」ことになる[Iコリ15:53-54]。それは、「弱いもので蒔かれ」ていたし、それが墓へと降ろされていくのを見たとき私たちは泣いた。だが、それは、「強いものによみがえらされ」れるのである[Iコリ15:43]。それは、「血肉のからだで蒔かれ」ていたし、「御霊に属するからだによみがえらされる」[Iコリ15:44]が、それでも、以前と同じように、どの点から見ても「からだ」なのである。そして私たちは、それをそのようなものとして認めるであろう。

   「きよき望みよ! 至福(たか)き望みよ。
    イエスの恵み われらに給うは。
    われら望めり、歳月(つきひ)の過ぎし
    あとに者みな 天に集うを!」

単にからだから分離した魂としてではなく、魂もからだもともにである。そして、――

   「そこに緑と 花咲く山あり
    疲れし魂――そして体が―― 座りていこい
    尽きぬ喜び もて語るらん
    かつて踏み来し 労苦(くるしみ)を」

あゝ、愛する方々! このことによって、キリスト教は信ずるに値するものとならないだろうか? これは、墓を超自然的な光輝で照らし出さないだろうか?――この心浮き立たせる、この栄光に富む、この圧倒的な、この世のものならざる、この超人間的な、この死者の復活という教理は、そうしていないだろうか? 私はあえて、その光景を描き出すことはすまい。――私は、この沈黙せる墓石たちについて、また古からの苔むした教会墓地についてあなたに告げることもできよう。あなたの前に数々の戦場を描き出すことも、イエスの御声を聞くようあなたに命ずることもできよう。そのときイエスは、喇叭の音、および膨大な数の御使いたちの軍勢とともに下ってきては、「目覚めよ。あなたがた、死せる者たち。そして審きに出て来よ!」、と仰せになる。主が、「目覚めよ!」、と叫ばれるとき、何年もの間どんよりしていた目が開き、長い間こわばっていたからだが活気を取り戻し、真っ直ぐに立つことになる。経かたびらを着た亡霊としてでも、幽霊としててでも、幻としてでもなく、現実の存在が立ち上がるのである。彼らは――埋葬されていたのと同じ人物たちは――現実の男女である。私は彼らが墓場の死衣を引きちぎり、棺桶の蓋を叩き破って出てくるのが目に見えるような気がする。あゝ! 私たちは彼らを見ることになる。それぞれの人々がよみがえる。ラザロが、マルタが、マリヤがよみがえる。私たちの家族の愛する者たち、亡くなったものとして私たちが長年泣いてきた者たちのことを、私たちはそのとき、よみがえらされた者として喜ぶであろう。

 死者からの復活に関する、予備的な言及はここまでにしておきたい。

 さて、この主題を別のしかたで扱ってみよう。ラザロの死と、墓への埋葬と、その腐敗は、生まれながらのあらゆる魂の霊的状態を示す比喩であり象徴なのである。「ラザロよ。出て来なさい」、というイエスの御声は、その御霊によって、魂を生かすイエスの御声の表象にほかならない。そしてラザロが、生きていてさえ、その死装束をしばらく着ていて、後からそれを取り去られたという事実は、ことのほか意義深いものである。それを寓意的に解釈するなら、それは私たちにこう教えているからである。すなわち、ある魂は、霊的いのちに生き返らされていてさえ、なおも、その死装束をまとっており、イエスが後で、「ほどいてやって、帰らせなさい」[ヨハ11:44]、と仰せられるまで、それを脱がされることがないのである。それゆえ、私たちは、次の3つの点について考察することを提案したい。第一に、あらゆる魂が生まれながらにその中にある、死の眠りである。第二に、いのちの御声である。「イエスは……大声で叫ばれた。『ラザロよ。出て来なさい』」。そして第三に、生きた魂であっても忍ばなくてはならない、部分的な束縛である。それは、ラザロが手と足を長い布で巻かれたままで出て来たこと、彼の顔が布切れで包まれていたことによって表象されている。

 I. まず第一に、ここで私たちが見るのは、私たちがみな生まれながらに伏している、《死の》眠りである。さて私とともに来るがいい。キリスト者よ。「あなたがたの切り出された岩」、あなたがたが「掘り出された穴」[イザ51:1]――泥深い粘土――へと来るがいい。私とともに、この死の家へと来るがいい。そこに、あなたの魂も、かつては「自分の罪過と罪との中に死んで」[エペ2:1]横たわっていたからである。私たちの知るところ、ある人々は、罪人が罪の中で現実に死んでいることを完全に否定する。私は、少し前にある説教者がこう主張するのを聞いたことを覚えている。すなわち、聖書は人々が死んでいると云うが、それは比喩的な死を意味しているのだ。――実際には、また現実には、死んではおらず、ただ比喩的な意味においてのみそうなのだ、と。さて、私は常に、比喩があるというときには、その比喩をどこまでも徹底することを好んでいる。卓越した学者たちの何人かがロウランド・ヒルの時代に云ったのは、御使いなどというものはいない、それは単に東洋風の比喩にすぎない、ということであった。「それは結構」、とロウランド・ヒルは云った。「ならば、キリスト誕生に際しては、東洋風の比喩の一団が、『いと高き所に、栄光が、神にあるように』[ルカ2:14]、と歌ったのである。御使いは東洋風の比喩であると。ならば、東洋風の比喩が、一夜にしてセナケリブ軍の十八万五千人を打ち殺したのである[イザ37:36]。御使いは東洋風の比喩であると。ならば、東洋風の比喩が獄中のペテロに現われて、その鎖を打ち落とし、彼を通りへと導いたのである[使12:10]。まことに、こうした東洋風の比喩は素晴らしいものである」。私たちは、同じ規則をここでも試してみよう。「あなたがたは自分の罪過と罪との中に比喩的に死んでいた者であって……神は、比喩的に罪過の中に死んでいたこの私たちを……比喩的に生かしてくださいました」! これは何と見事に比喩的な福音であろう! さらにまた、「肉の思いは比喩的な死であり、御霊による思いは、比喩的ないのちと平安です」[ロマ8:6参照]。このような言葉遣いは、全く無意味である。愛する方々。比喩的な死などみなたわごとである。人間は、霊的な意味において本当に死んでいるのである。

 しかし、私はこの死が何によって成り立っているかを、あなたに告げなくてはならない。いのちには、種々に異なった段階がある。まず、そのことを理解しておくべきである。植物には、石ころにないいのちがある。それゆえ、石ころは死んでいる。動物には、植物にないいのちがある。そして、もしあなたが動物のいのちについて語っているとしたら、その限りにおいて、植物は死んでいると述べてよいであろう。さしてさらに、精神的ないのちもある。そして、動物には何の精神もない以上、動物は精神的には死んでいると云える。それから、人間の魂に関わるいのちを越えたところに1つの段階がある。――霊的いのちである。不敬虔な人間には2つの部分しかない。――魂とからだである。だがキリスト者には、3つの部分がある。――からだと、と、である。そして、魂を抜きにしたからだが当然死んだものとなるように、霊のない人間、と呼ばれる偉大な光の球体から発した火花を有していない人は、霊的に死んでいるのである。それにもかかわらず、ある人々は、不敬虔な人間たちが霊的に生きていると主張している。さあ、罪人よ。もしあなたがこのように考えているとしたら、私はあなたと少し論じ合わなくてはならない。

 まず最初に、もしあなたが霊的に生きており、霊的な活動ができるとしたら、私は真っ先にこう尋ねたいと思う。なぜあなたは今それを行なわないのか? ある人々は、自分たちなら、いつでも好きなときに悔い改めて、信ずることができるのだ、と云い、そうするために御霊の力が必要であることを信じない。ならば、方々。あなたにそれを行なうことができ、それを行なっていないという場合、――もしも、だれかひとり罪に定められて当然の人間がいるとしたら、それはあなたである。そして、あなた自身が示すところにより、もしも、よみに他よりも熱い場所があるしとたら、あなたこそはそこに入れられて当然である。

 次に私が云わなくてはならないのは、おゝ、罪人よ。このことである。あなたは云う。「私は死んではいない。私には霊的ないのちがあり、祈ることができ、悔い改めることができ、信じることができる」、と。では聞かせてほしい。あなたは一度でもそうしようとしたことがあるだろうか? あなたは、「あります」、と答えるだろうか? よろしい。ならばあなたは、神の前で白を切ろうというのでもない限り、こう告白するに決まっている。自分は、自分にそうする力がないことに気づいた、と。いかなる人も例外なく、神の御前で真摯に祈ろうと苦闘するときには、自分の献身の念を抑圧する何かを決まって感じるものである。人は、咎の苦悶の下にあるために、神の御前に出て行き、あわれみを求めて叫ぼうとするとき、自分が祈れないと感ずることがある。一言も口に出せないように感じることがある。あなたがたの中に、自分には祈れない、信じられない、悔い改められない、というような状態がいかなるものか知らない者がいるだろうか? あなたは自分の手を胸にあてて、こう云ったことはないだろうか? 「おゝ、神よ! 私の心はかたくなです。それが溶ければいいと願っているのに、私にはそれを砕けません」。あなたは、祈ろうとするときに、自分の心がはるか遠くにいて、この世をさまよっているように感じることはないだろうか? ある人に力があるかないかを証明する最上の方法は、そのことをその人にさせてみることである。ある青年が、「そのようなことはみな、守っております」、と云ったとき、イエスは、ただ彼を試すためにだけ、こう云われた。「帰って、あなたの持ち物を売り払いなさい」*[マタ19:20-21]。あゝ、愛する方々! 神が私たちをご自分のもとに引き寄せてくださったとき、私たちは祈りの中で格闘し、神に嘆願した。だが、結局私たちが教えられたのは、いかなる霊的な事がらに必要な力も、神から来るのでなくてはならない、ということであった。時と場合によると私たちは、天に向かって飛び上がれないのと同じくらい祈ることができず、月を両手にかかえられないのと同じくらい信ずることができなかったからである。私たちは約束の1つさえつかめなかった。たった1つの誘惑とさえ組打つことができなかった。自分が無力で、失われ、死んでいることを感じた。罪人よ! 私はあなたに告げる。あなたは、いかなる霊的な事がらにおいて死んでおり、ひとりきり放っておかれたとしたら、今後もずっと死んだままである、と。また、あなたは、いかなる手を尽くしても、自分で自分を天国に連れていくことはできない、と。神の主権的なみこころと力だけが、あなたを生かすのでなくてはならない。さもなければ、あなたは罪を犯すほか何もできない。義の行為も、イエスのもとに来ることも、あなた自身の力では決して行なうことができない。

 しかし、だれかがこう云っているような気がする。「もし私に何もできないとしたら、私は今の自分のまま座り込んで、満足していよう」。何と、人よ! あなたは、自分の前で地獄が燃え盛っているというのに、座り込もうというのか? 底知れぬ所があなたの足元でぱっくり口を開いているのに、永遠の滅びがあなたを真っ向からにらみつけているというのに、神があなたに対して怒っておられるというのに、あなたのもろもろの罪が断罪を求めて高き天に向かって怒号しているというのに、あなたは座り込もうというのか? 私はあなたに告げる。あなたに座り込むことはできないし、そのようなことがあってはならい。座り込む? そうするくらいなら、向こうの家の屋根の上で座り込み、業火に包まれる方がましである。奔流に流されて、たちまち粉々に打ち砕かれた方がましである。あゝ! もしあなたが自分は座り込んでいよう、などと云うとしたら、あなたは、この世で最も確かな証拠によって、自分が「罪過と罪との中に死んで」いることを示しているのである。というのも、もしあなたが死んでいないとしたら、あなたはこう叫び始めているだろうからである。「おゝ、神よ。私を生かしてください! おゝ、神よ。いのちを与えてください! 私は自分が死んでいるのを知っています。自分に何もできないのを感じています。ですが、あなたは私に代わってすべてを行なうと約束してくださいました。私は無以下のものですが、あなたは全能の力によって、私にいのちを与えることがおできになります」。あなたにはわからないだろうか? 私があなたを引き降ろそうとしているのは、キリストがあなたを拾い上げられるようにするためだけなのである。あなたにはわからないだろうか? 私があなたを打ち倒そうとしているのは、あなたを滅ぼすためでも、ちりの中で踏みにじられるようにするためでもなく、むしろ、一粒の麦のように、あなたが地に落ちて死に、後で生かされて実を結ぶようにさせるためなのである。というのも、この世の何にもまして人をいのちの状態へと至らせるのは、死を感じさせることだからである。また、もし私が話をお聞きの方々全員に、自分が霊的死の状態にあること、完全に無力であることを認識させ、認めさせ、感じさせることができたとしたら、そのとき私は、そうした人々には希望が持てるであろう。自分が死んでいると告白できる者のうち、得々として座り込んでいる人はひとりもいないからである。そうした人々は恵みを叫び求め、神に向かって、どうか自分をその死から救い出してくださいと願うであろう。

 しかし、この点を離れる前に、もう1つあなたに告げなくてはならないことがある。すなわち、不敬虔な人は、死んでいる以上の存在である。そうした人々はラザロのように墓に横たわっている。あなたも、マルタがイエスに対して用いた素朴な言葉を覚えているであろう。それは平易なサクソン語に訳されているが、ヘブル語も全く同じくらい表現豊かであるとあえて云いたい。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから」[ヨハ11:39]。左様。兄弟たち。これが、あらゆる不敬虔な人々の状態である。そうした人々は単に死んでいるだけでなく、神の御前で如実に腐った者となっている。この場にいるある人々は、私が何のことを云っているかわかるであろう。その人々を私は、今この瞬間にも指さすことができる。その人たちは、霊的に死んでいることを感じて呻くだけでなく、自分自身が、自らの鼻にとって、また神の鼻にとって、悪臭を放つものであると感じている。私はあなたに問いたい。あわれな、罪を確信させられている罪人よ。この世に生きている、あるいは存在しているものの中で、あなた自身ほど不快なものがあるだろうか? 私はあなたがこう云うであろうと知っている。「いいえ。他にも不潔なもの、汚らわしいものはあるでしょうが、いまだかつてこの世に存在したことのあるものの中でも、私は、自分こそ最も忌まわしく、最も不潔なものの権化であると感じます。私は自分のことを常にそう考えていたわけではありませんが、今はそう考えています。私は、自分が単に死んでいて無力だと感じるだけでなく、自分でもむかつくほどの悪臭を放っているのを感じます。それで私は自分から逃げ出して行いたいと願います。また私は、神にとっては、なおのこと悪臭を放つもの、不快きわまりないものであることを感じます」。よろしい。ならば、もしそれがあなたの感じていることだとしたら、あなたは十分に低くされている。というのも、ラザロの体がそうなったように私たちが腐敗し始めるときにこそ、また、マルタのように、もはや絶望しかないといって何もかも投げ捨てるときにこそ、イエス・キリストは、そのときなさったように呼ばれるからである。「ラザロよ。出て来なさい」、と。

 さて、あなたは私が自分の会衆をいかなるものであると認識しているかわかったであろう。あなたがたの中のある人々は生きている。――神によって生き返らされている。だが、あなたがたの中のその他の人々について、私は今晩、巨大な地下墓地の中に立っている。そして、私の回り中に死人たちがいる。――桟敷席にも、一階座席にも。――霊的に死んだ男女たちで満ちている。

 II. しかし、ここにやって来るのが、驚異を生み出す方法、《いのちの声》である。イエスは云われた。「ラザロよ。出て来なさい」。

 そこで私たちは、この驚異を生み出す方法について扱うにあたり、手始めにこう云うことにしたい。ラザロには、一瞬のうちにいのちが与えられた。ラザロは、その墓の中で、死んだまま、腐りつつ横たわっていた。だがイエスは大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい」。ここには、キリストがその言葉を語られてから、ラザロがその墓を出で来るまで、一瞬でも間があったとは記されていない。その魂が、ハデスからラザロのからだに飛んでくるまでには一刹那もかからなかった。また、そのからだが再び生きたものとなるまでには、いかなる手間も必要なかった。それと同じく、主がある人に語りかけ、その人を霊的ないのちへと生かされるとき、それは瞬間的なみわざである。あなたがたの中のある人々は、そこに立っていて、見るからに生きている。だが、あなたは、自分が死んでいると感じ、認め、告白している。よろしい。もし主があなたに今晩語りかけてくださるなら、いのちは、たちまち即座にあなたのうちに入るであろう。恵みの力はここに示される。それは、ある人を即刻、瞬時にして回心させるのである。それは、義と認めるのに何時間もかけない。――義認は、たちまちなされる。新しく生まれさせるのに何時間もかけない。――新生は、一秒たらずのうちになされる。肉体的にも、私たちは即時に生まれ、即時に死ぬ。霊的死と霊的いのちについても、それと同じである。それらは、いかなる時間もとらず、イエスがお語りになるときには常に、瞬時になされる。おゝ! もし私の《造り主》が今晩、「ラザロよ。出て来なさい」、と叫ぶとしたら、この場にいるラザロたちのひとりとして、――たとい酩酊という屍衣に包まれ、御名を汚す悪態の帯でぐるぐる巻きにされ、悪習慣と邪悪という巨大な石棺に囲まれていても――その石棺を打ち破って、生ける者となって出てこない者はいない。

 しかし、注目するがいい。弟子たちではなくイエスこそ、「ラザロよ。出て来なさい」と云われたお方である。いかにしばしば私はあなたに説教し、可能ならばいのちへ至らせたいと苦闘してきたことか。だが、そうすることはできなかった。思い起こせば私は、別のあるとき、田舎で説教していたときや、時にはこの場所で、自分の全心全霊をかけて人々のために苦悶し、人々の魂を獲得できさえすればと、自分の全神経を張りつめ、自分の全存在をこの目から流し出し、また、自分の感情を洗いざらい涙の洪水の中に流し去ることもできたことがある。そうした折に、いかに私たちは説教することであろう。それは、あたかも人々を自分の真前に置いているかのように、また,その人々をつかんで、キリストのもとに来るよう乞い求めているかのようである。しかし、こうしたすべてをもってしても、私は自分が決していかなる魂をも生きたものとしたことがなく、今後もそうすることはないと知っている。そして私は完璧に意識している。イエスがある罪人のもとに来られない限り、神のいかなる生きた使節たちの、いかなる懇願も、決してその罪人をイエスのもとに来させることはない、と。ペテロがいかに長い間、「ラザロよ。出て来なさい」、と叫んだとしても、ラザロは一寸たりとも動きはしなかったであろう。ヤコブやヨハネであっても同じだったはずである。だが、イエスがそうされたときには、そうなった。おゝ! これは教役者の高慢を低くしないだろうか? 教役者とは何だろうか? あわれな小さい喇叭にすぎず、それを神がお吹きになるというだけのものである。私が種を蒔いても無駄である。収穫は神にかかっている。そして、教職にある私のすべての兄弟たちが盲目になるまで説教するとしても、いのちを与えるみことばに御霊が伴われない限り、何の成功も見ないであろう。

 しかし、あわれな魂よ。確かに聞く者にそれを行なうことはできず、教役者にそれを行なうことはできないが、私は、できるものなら、あなたを説得したい。今晩、あなたは死んだ者ではあるが、イエスはあなたにお語りになり、いのちへと至らせることがおできになる。ある人物を例として抜き出させてほしい。そうすることが私の好みだからである。そこに、ひとりの人がいて、こう云っているとしよう。「私は五十年も罪の中に生きてきました。そして今晩は、これまでにまして悪い状態にあります。古い習慣が私を雁字搦めにしており、私に解放される望みなどありません」。さて、話をお聞きの方々。もし今晩、イエスが、「ラザロよ。出て来なさい」、と仰せになるなら、あなたはたちまち出て来るであろう。「それはそうです、ですが」、とあなたは云う。「私は腐りきっているのです」。あゝ! だがキリストはあなたの腐敗にもまして力強いお方である。わたしは、「私は死んでいます」、と云うだろうか? 確かにそうだが、キリストは「いのち」であられる。あなたは云うだろうか? 「私は雁字搦めに縛られて、暗闇の地下牢に入っています」。それはそうだが、キリストは暗闇の中の光であり、その暗黒を追い散らされる。あなたはこう云うかもしれない。「私にそんな恵みに値しません」。だがイエスは値するかしないかなど全く意に介されない。ラザロの死体は何にも値しなかった。それは悪臭を放ち、永遠に石で覆われていることにしか値しなかった。だが、「その石を取りのけなさい」、とキリストは云われる。そして、おゝ、何という悪臭がそこから発されたことか! そこには、イエス・キリストが今晩、石を取りのけてくださった人々がいるかもしれない。そして、彼らは自分自身の墓に立って、自分自身を忌まわしく、不快なものと感じているかもしれない。しかしそれでも、愛する方々。あなたが不快であっても、イエスはあなたに、いかなる功徳をも要求なさらない。主はご自分の功徳をあなたに与えるであろう。主が、「出て来なさい」、と云われるだけで、あなた自身は今晩、あなたの墓から出て来て、キリスト・イエスにあって生きた者とされるであろう。おゝ! 願わくは私たちの神が、この場にいるであろう多くの死んだ魂を目覚めさせ、彼らをご自分のいのちへと至らせてくださるように。「ラザロよ。出て来なさい」。

 私は、ある人がこう云っているような気がする。「あゝ! ですが、先生、私は怖いのです。たとい私が出て来なさいと命じられているとしても、悪魔が私をそうさせないのではないかと。彼は私をずっと長い間しいたげてきました。彼はこれまで私を押さえ込もうとし、私を墓にずっと横たわったままにしようとしてきました。私は彼が今も私の胸の上にでんと座り、私のあらゆる希望を押さえつけ、私のあらゆる愛を消そうとしているのを感じます」。あゝ! だが、罪人よ。あなたに告げさせてほしい。地獄の下にいるいかなる者も天におられるキリストほど力強くはない。かの悪い者はキリストの力で制せられている。そして、もしあなたが主に呼び求めさえするなら、もし主が今晩、呻き1つでも発する力をあなたに与えてくださっているなら、主はあなたにに向かって大声で仰せになるであろう。「出て来なさい」、と。そして、あなたは生きるであろう。

 III. さて、しばしの間、最後の点に目を向けよう。すなわち、《部分的な奴隷状態》である。

 ある魂が天来の恵みによって死からいのちへ召されたときでさえ、それはしばしば、その死装束を長い間まとっている。愛する方々の多くは、自分が、誰それ氏や誰それ夫人のようでないからといって、自分は回心していないのだと恐れている。この人々には、他の人々ほどの信仰も確信もなく、知識も乏しい。それで自分は生きていないのではないかと恐れるのである。だが、ラザロは長い布で巻かれたまま、またその顔を布切れで包まれたまま出て来たのである。この事実から私たちが教えられるところ、私たちの多くの者らは、キリストにあって生きたものではあっても、自分の死装束をなおもまとっているのである。私の信ずるところ、多くのアルミニウス主義者たちは、なおもその顔を布切れで包まれている。すなわち彼らは、行ないに頼ることから完全には自由にされていない。彼らは、死んでいたときには、行ないによる救いを信じていたものであった。――今はそうではない。だが、なおも彼らは、自分たちの死装束の残りをまつわりつかせている。まだ、救いは主権の恵みだけによるものであると信ずるに至っておらず、何らかの行ないを、それと混ぜ合わせたがる。彼らは、結局神は契約から自分たちを追い出されるのではないかと恐れている。おゝ、もし私たちが彼らの布切れを引き剥がすことができたらどんなによいことか! 私たちは彼らと争うつもりはない。彼らに対して怒りはしない。だが私たちは、イエス・キリストが私たちにこう云っておられるのが聞こえるように思う。「彼らをほどいてやって、帰らせなさい」。それで私たちは、できる限りの手を尽くして、説教することによって、彼らの目から布切れをはがし、彼らに見てとらせるよう努めるであろう。「召しによって知られる無代価の選び」、完全な救い、たぐいなき安全さ、分け隔てをする恵み、特定救拯、そしてイエスの福音の偉大な力をなしている、そうしたあらゆる事がらを。

 しかしながら、このことは、私があなたに対して詳しく説き明かしたい点ではない。なぜなら、その布切れは、あなたがたの中のほとんどの人々の目から取り除かれていると思うからである。しかし、私たちが最初に霊的いのちを得たとき、いかに多くの長い布が私たちにまとわりついていることか! 酔いどれだったある人は、神の生きた子どもになってさえも、時として自分の古い習慣が自分につきまとっていることに気づくことがある。私の知っている多くの酔いどれたちは、自分の酩酊を捨て去りはするが、居酒屋の前を通り過ぎるとしたら、そこに入らないですますことは絶対にできないと思っていた。そして、彼らはしばしばあやうく身を誤るところであったし、彼らの足はほとんど滑りそうになった。また、御名を汚す悪態をついていた人は、邪悪な言葉がほとんど彼の口を出てきそうになることがあったと告白するであろう。――本当に口に出したことはないかもしれない。――私はそう願っている。だが、それだけでも、その人が自分の死装束を今なおまとわりつかせていることを十分示しているであろう。私たちの知っているある人々は、他の種類の悪徳やにふけっていたし、その機会が現われる時は常に、昔の感情が立ち起こってきて、「させてくれ、させてくれ」、と云うのである。彼らは、それを苦労のあげく抑えつけたが、それは、ようやくのことであった。死装束は、なおも彼らにまつわりついていた。そうした死装束は、その習慣が完全に断たれるまで、非常に固くへばりついているであろう。そして、私の信ずるところ、現存するキリスト者のひとりとして、自分の死装束が一切れも残っていない者はいないし、墓の中に横たわるまで、それをかかえていくはずである。あわれなパウロを見るがいい。彼にまさるほど聖い人がありえただろうか? それでも彼は叫んだ。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」[ロマ7:24]。このことによって、キリストのもとに来たばかりの人は慰まされ、元気づけられるがいい。その人はまだ、自分の腐敗と戦っている。ことによると、その人の不信仰は云うかもしれない。「もしお前が神の子どもなら、これほどよこしまな考えや性癖は持っていないはずだ」、と。しかし、一言尋ねさせてほしい。あなたは、そうした考えや性癖を憎んでいるだろうか? ならば、この次に悪魔があなたをそのように攻めたてるときには、彼にこう云うがいい。お前は嘘つきだ。というのも、実は、これは私が主のものでないしるしではなく、むしろ主のものであるしるしなのだから。もし私が神の子どもでなかったとしたら、私はこうした事がらを気にもとめなかったはずなのに、私は神の子どもなので、それと戦っているのだ、と。

 こうした不快な死装束は、時として姿を現わすものである。私たちの知っているある人々は、あたかも生きる限り、決して自分の古い怒りっぽい気質を取り除けないかのように思われる。そうした人々の死装束は、天来の恵みによってびりびりに引き裂かれている。それは、彼らの腕を全くぐるぐる巻きにしてはいない。だがその切れ端はまだぶら下がっている。そして私たちの兄弟たちは、回心したとはいえ、なおも癇癪や短気にかられることがあるように見える。そして私たちは時折、教会内においてすら、一部の兄弟たちが、自分を本当には制することができない場合を目にすることがある。そうした人々には、自分の死装束がなおもまつわりついているのである。私が、あなたの義務を解除したり、免除したりしようとして、こう語っていると考えてはならない。あなたを慰めようとして語っているのである。あなたは、そうした死装束をまとっていても、霊的に生きていることがありえる。もしあなたがそれらと戦い、それらを取り除こうとしているとしたら、そうである。だが、もしあなたがそれらを愛し、それらがあなたの死装束ではなく、あなたの生きた衣裳だとしたら、あなたは自分の父のわざを行なっているのであり、その報いをやがて受けることになるであろう。もしあなたが自分のもろもろの罪が死装束であると感じ、それらを取り除きたいと切望しているとしたら、たといあなたが自分のあらゆる罪、あらゆる腐敗を制圧できなくとも、落胆にかられてはならない。キリストに信頼するがいい。死装束がなおもあなたから垂れ下がっているとしても、主のあわれみと主の恵みになおも信頼するがいい。やがてイエス・キリストは、「ほどいてやって、帰らせなさい」、と仰せになるからである。

 私たちは、最初に、1つの悪習慣からほどかれ、それから次の悪習慣からほどかれる。私が生きている間中、私は自分の死装束の何がしかが自分にまといついているのを感じる。――私の足手まといとなる衣、また、私にまつわりつく罪[ヘブ12:1]である。しかし、やがて(それは、ほんの明日ということもありえるし、何年も先ということもありえる。あなたがたの中のある人々は、私のためにそれが何年も先になるように祈ってくれるかもしれない。だが、私はなぜ私たちがそう願うべきなのかわからない。だが、やがて)その時がやって来て、キリストは仰せになるであろう。「ほどいてやって、帰らせなさい」、と。私はある人が寝台に横たわっているのが見える。その目は上方の天を見つめている。すでに脈は弱まり、かすかである。その息づかいは荒く、からだは衰えつつある。これはみな何を意味しているだろうか? 何と、それは檻の金網がゆるみつつあるのである。そして、もうしばらくして、病と痛みがその働きをなし終えたとき、キリストは、「ほどいてやって、帰らせなさい」、と云われるであろう。私は、とある兄弟教役者が、その敬虔な姉妹の臨終の床について話をしてくれたことを覚えている。彼女は、いまわの際に、「少し私のからだを起こして」、と云った。それで人々がそうすると、彼女は云った。――

   「終(つい)の言葉の 与えらるれば
    われをば解きて、天にて復活(いか)し
    神のうちにぞ 包ませ給え」。

それから一瞬かそこらのうちに、彼女は再び倒れこんだ。神は云われたのである。「彼女をほどいてやって、帰らせよ」、と。おゝ! いかに私たちの肉体から離れた霊は、神が、「彼らをほどいてやって、帰らせよ」、と仰せになるとき喜ぶであろう。私たちはいま足枷をかけられている。そのときには解放されるのである。そのとき、私たちの霊は稲妻の閃光よりも早く飛びかけるであろう。そのときそれらは、北風よりも、南風よりも軽々と運ばれるであろう。私たちは上つ方の私たちの神のもとへと飛翔し、いま私たちを嘆かせているあらゆるものから、永遠に自由にされるであろう。というのも、神は、「彼らをほどいてやって、帰らせよ」、と仰せになったからである。

 さて今、話をお聞きの愛する方々。1つか2つの思索を述べてしめくくることにしよう。思い起こすがいい。神が、「ほどいてやって、帰らせなさい」、と仰せになる前に、あなたにはいのちがなくてはならない。そこで私は、この最後の厳粛な問いかけに移る。今晩この場にいる私たちの中の、どれくらい多くの者にいのちがあるだろうか? いかにしばしば私たちは、魂を尽くし、力を尽くして、自分の聴衆に向かって説教していながら、だれひとりそれを心に銘記しないということがあることか! 愛する方々。いかにしばしば、私の説教は無駄になってきたことか。それもこの単純な事実からである。すなわち、話を聞いた人々は、耳を傾けはしたが、自分の魂には全くそれを適用しなかったのである! しかし、おゝ! 私はあなたをそのまま帰らせはしない。いかにか弱くとも、また、あなたに多くを語れなくとも、私は、この件をあなたの魂の肝に銘じさせようと努力するであろう。話をお聞きの方々。もうしばらくすれば、私もまた、神の法廷に立たなくてはならない。そして、それについて考えるとき、それは十分私を震えさせるものである。私が《福音のことば》を分け与えてきた何万、何十万もの人々のことを思い起こすとき、また、最後の審判の日のとき、ひとりでも自分が罪に定められたのは私のせいだと云う者がいるのではないかと考えるとき、いかに私の運命はぞっとするほど恐ろしいものとならざるをえないことか! もし、他の人々に宣べ伝えておきながら、自分が不忠実な者となり、失格者になるようなことがあったとしたら、いかにすさまじいことであろう! この時代、特別説教がなされるという広告がなされると、人々は人気説教者の話を聞きに押し寄せてくる。あるいは、世間でたまたま評判になっているだれかのもとに押し寄せてくる。だが、その人が説教する段になると何をしているのか、また、その話を聞くときあなたが何をしているのか、あなたにはわかっているだろうか? あなたは意識しているだろうか? その人が講壇に立つたびに、もしそうした人々に対して不忠実であるなら、その人は自分を神の御怒りの下に置いているのである。あなたは知っているだろうか? もしも結局、人々に説教するために立つその人が、偽りの教理を宣べ伝えていたと発覚したとしたら、その人の運命は身の毛もよだつほど恐ろしいものであるということを。また、あなたは覚えているだろうか? あなたが聞くとき、それはあなたが芝居を見に行くとか、演奏会を聞きに行くとかいう場合とは全く違うということを。あなたが聞こうとしている人は、神によって、神のために、またあなたの益のために語るのだと告白しており、その人の心はあなたのことを心から思いやっているのである。おゝ、説教とは厳粛な務めであり、説教を聞くというのは厳粛な務めである! というのも、主は最後の大いなる日、神がイエス・キリストによって人々の秘密を審くとき、あらゆる説教とあらゆる聞き方のために、私たちの責任を問われるからである。その説教者は今晩、何を語ってきただろうか?

 この説教者があなたに告げてきたのは、第一に、あなたがたはみな死んでいる、ということであった。あなたがたの中のある人々は、家に帰り、それを笑い飛ばすであろう。だが、それを笑い飛ばしたからといって、それであなたが生きた者になるわけではない。この説教者が第二にあなたに告げたのは、キリストはあなたを生かすことができる、ということである。だのに、あなたはそのキリストを蔑んでいる。だが、よく聞くがいい。あなたがキリストを蔑むからといって、最後の大いなる日にあなたが断罪から自由になるわけではない。この説教者があなたがたに告げたのは、死の綱が、あなたがたの中のある人々を縛りつけている、ということであった。あなたは、ニヤニヤしたくなるかもしれない。だが、よく聞くがいい。もしあなたが下界で死の綱について悲しむことが一度もないとしたら、あなたはガチャガチャいう足枷を永遠にはめられたままでいなくてはならないであろう。私は、そう云ったとき、絵空事を話したのだろうか? 否。私は絵空事について語ったのではなく、恐るべき現実について語ったのである。どこかに――神はそれがどこか知っておられる。――1つの場所があり、そこではゲヘナの火がからだを永遠に苦しめ、言葉に尽くせない惨めさが魂を苦しめることになっているのである。そして、おゝ! 身震いするがいい。諸天よ。また、おののくがいい。山々よ! おゝ、地よ。お前の堅固な青銅の肋骨を震わせ、お前のはらわたを動転させるがいい! これは事実である。恐ろしい事実である。地獄はあるのである。それがどこにあるか私は知らない。私の霊は、その戦慄すべき領域を絶対に訪れたくないと思う。だが、もしそれに翼があったとしたら、それはどこかを飛び回り、1つの地獄を見いだすであろう。――絵画でもなく、夢でもない、まぎれもない地獄を。そして、今晩、そこには多くの魂がいる。それらは、自分たちの鉄の縛めに噛みつき、云い知れようもない苦悶の下で悲鳴を上げている。そして、そこにはあなたの友人や親戚たちの何人かがいるかもしれない。――生きている頃に、あなたが知っていた人々――あなたがともに酒杯を飲み干してきた人々、遊女や、姦夫や、盗人や、そうした類の人々がいる。そこに、地獄に、いまこの時に、彼らはいるのである。

 あなたはそれを信じるだろうか? 信じはしないと思う。だが、あなたは神のことばを信じるだろうか? それとも、あなたは鉄面皮な不信心者で、それを否定するだろうか? 「聖書は真実です」、とあなたは云うであろう。ならば、あなたは、地獄へ向かう路を頑固に進み続けるほど狂った、筋の通らない人間なのだろうか? おゝ、方々。もし何か途方もない断崖絶壁があり、あなたが足早にそこに近づいていくのを見たとしたら、私はあなたに向かってこう叫ばないだろうか? 「止まれ! 止まれ! 止まれ! もう一歩でお陀仏だぞ!」 そして、私は今晩、あなたのいのちにかけて、あなたに懇願しないだろうか? あなたが、あなたの罪の行き道を止まるよう至らされるように、と。というのも、「罪から来る報酬は死」だが、「神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのち」[ロマ6:28]だからである。このキリストをあなたは遠ざけ、避けて、悲しませてはいないだろうか? 私はあなたに懇願せざるをえないではないだろうか? あなたは、目隠しをしたまま地獄へ向かっていってよいだろうか? そして、あなたのあわれな同胞のひとりがあなたの目から包帯を取り除かなくてよいだろうか? その者は、狂人だとか、狂信者だとか思われても、あなたに呼びかけるべきではないだろうか? よろしい。もし私が、その点において気が狂っているとしたら、いつまでも狂っているように。そして、もしそれが狂信者となることだとたら、穏健な者などひとりもいなくなるように! しかし、もし天国に行くことが狂人であるとか狂信であるとしたら、地獄に行くことは、いかにいやまさって狂気の沙汰であることか! おゝ、神よ。このあわれな魂たちにお示しください。彼らが火焔の中で受けるものがいかなるものに違いないかを。また、彼らにお告げください。――あなたのあわれみのゆえに、お告げください。――イエス・キリストによる救いがいかなるものであるかを! あなたは、しめくくりの前に私があなたに告げるように願うだろうか? 私はだれかがこう云っているのが聞こえるだろうか? 「兄弟たち。救われるためには、何をしなければなりませんか」? こう書かれている。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます」[マコ16:16]。もしあなたが今晩イエスに信頼するなら、あなたは救われる。聖書はこれこれの人が信ずるなら、とは云っていない。だれであれ――酔いどれであれ、神の御名を汚してきた者であれ、いかなる者であれ、――「信じてバプテスマを受ける者は」――この2つがいかに結びつけられているかに注目するがいい。私はキリストが結び合わされたものを引き離したり、そのしかるべき順序を逆転させようとは思わない。――「信じてバプテスマを受ける者は、救われます」。それでは、話をお聞きの方々。今晩に関しては、いとま乞いの時である。私は、この世ではあなたがたの中のある人々とは二度と会うことがないであろう。次の安息日が来る前に、あなたの死体が墓の中に横たえられることもありえる。私たちのうち、どちらがそうなるだろうか? 次の安息日がその鐘を鳴らす前に、死は、私たちのどちらをその飢えた歯にかけるだろうか? おゝ! もしあなたがその人だとしたら、あるいはこの説教者が死に定められていたとしたら、この言葉が成就するように。――

   「備えませ、主よ。 われをば御手に。
    さらば喜びの 日は来たるらん。
    死よ。来たれかし。さらば御使い
    運びて行かん、わがたましいを」。

しかし、別の人は云うであろう。「私はこんな会堂には二度と来るものか。二度とあの男の顔を見るものか。あの男の声を二度と聞くものか」。それでは、さらばだ。愛する方。私は、あなたが、あなたにとって同じくらい忠実であるだれかの話を聞くようになることを望みたい。そして、もしあなたがあなたをより愛してくれる人、あるいは、あなたのためにより多く苦しんでくれる人を見いだしたとしたら、行ってその人の話を聞くがいい。そして、神がその人をあなたの魂にとって祝福してくださるように! しかし、ある人は云うであろう。「私は、もうこんな話は二度と聞きたくない。これは、勿体ぶったお説教だ。たわごとだ。だまされるものか」。あゝ! 話をお聞きの方々。もし私があなたが破滅へ向かっていくのを見ていて、あなたがそれを知らないとしても、それは、あなたがそれを見ていないからといって、少しでも破滅でなくなるわけではない。しかし、別の人は云うであろう。「今晩、私は自分をイエスにささげます。私は自分にいのちが欠けているとわかったからです。私は横倒しになったまま、腐っています。でも私は身動きできなくとも、イエスが通り過ぎるときには、それがわかります。イエスは私にいのちを与えてくださるでしょう」。行くがいい! 神には、あなたに与えるべきものがある。行って、神の御前にひれ伏すがいい。あなたはいのちを授けられるであろう。行って、それを受け取るがいい。というのも、「いま」があるときにはいつでも、それは神からのものだからである。聖霊は云われる。「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない」[ヘブ4:7]。

 

霊的復活[了]

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