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求めるに値するもの

NO. 2515

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1897年5月21日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1885年9月27日、主日夜


「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」。――マタ6:33


 この勧告が必要とされる度合は、今日でも、私たちの《救い主》が初めてそれを口にされたときと全く同じくらい大きい。時として、数々の苛立たしい思い煩いが、信仰者の心の中にするりと入り込みやすくなることがある。そして、もし私たちの主が今この場に肉体をとっておられたとしたら、そのような思い煩いを取り除くよう私たちを訓戒されるであろう。心を煩わせるのは、神の子どもにふさわしくないからである。それは信仰とも魂のうちにある神のいのちとも、全くの対極にある。だから、それと戦って、追い出すべきである。私たちの中の、キリストに信頼している者たちはひとりとして、そうした思い煩いのえじきになっていてはならない。

 苛立たしい思い煩いは、信仰者のうちにあっては全く不必要である。私たちの主は、この同じ章でこう云われる。「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか」。「野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち」[マタ6:26、28-30]。それゆえ、神がそうしてくださる以上、なぜあなたがやきもきすべきだろうか? もしもある農夫が自分の家禽にたらふく食べさせているのをあなたが見たとしたら、あの男は自分の子どもたちを飢えさせているのだ、とその人を中傷する者など信じないであろう。そして、神がずっと卑しい生き物、また、ご自分が形作った野の獣にすら食物を与えておられるのをあなたが見ている限り、神はご自分の子どもたちに気を遣ってくださる、と確信して良い。それゆえ、苛立たしい思い煩いは不必要なのである。

 さらにまた、それは無駄なことである。たといどうしても苛立ってしまうのを感じるとしても、あなたが苛立つことが一体何の役に立つだろうか? 空の鳥は、冬の時期に枝の上でむっつりとふさぎ込んでいれば、その分だけ多めに食べ物が得られるだろうか? あるいは、自分を創造された神に向かって、カーカー鳴いたり、ギャーギャー叫んだりすれば、そうなるだろうか? では、あなたがカーカー鳴き始めるとしても、それで何の得をするだろうか? あなたが愚痴を云ったからといって、身の丈に一尺でも、否、一吋でも加えられるだろうか? 雨が降らない場合、百姓が苛立つことによって、雲が集まったり、彼の牧草地に露を注ぎ出したりするだろうか? 雨が降りすぎるような気がする場合、農夫がぶつくさ云うことによって、天の瓶に封がされるだろうか? あなたの取引に活気がなくなるとき、あなたがつぶやいたからといって、それが活況を呈し始めるだろうか? もしあなたの商売が何の利益も生まないとしたら、あなたが不平を云うことによって何らかの利益が得られるだろうか? このように気を揉むのは、つまらぬことである。そこからは何の良い結果も生じない。それゆえ、いらいらした思い煩いは、不必要であるのと同じくらい無駄なことである。

 私たちの《救い主》は、私たちがそうしないように説得しようとして、第三の議論を用いておられる。それが異教的だと仰せになるのである。「こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです」[マタ6:32]。神のことも、《救い主》のことも、天におられる御父のことも全く知らない人々が、この世から得られるものをことごとく得ようと努めるとしても何の不思議もない。彼らには、ほかにいかなる世もないからである。彼らが黄金を自分たちの神とするのも当然である。彼らには、快楽や楽しみを与えることのできる神が全くいないからである。だが、二度生まれたあなたがた、不滅の者であり、神の子孫である人たちについて、そうであるべきではない。あなたがた、永遠のいのちを内側に有している人たち。宮に住むように、からだの中に聖霊が宿っておられる人たち。――そして、それは、あなたが偽善者でなく、真実でないことを見せかけているのでない限り真実である。――そのあなたは、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などといって苛立ったり、やきもきしたりすべきでないではないだろうか。これほど気高い性質を授けられ、かつ、異教徒たちが夢にも思ったことがないほど高貴な事がらへと召されている以上、彼らを満足させるような取るに足らない物事へと下って来てはならない。むしろ、あなたの霊を、こうした地上的な事がらを越えて高く上らせるがいい。

 あなたがそうするのを助けることが、現在のこの講話の目標である。そして、第一に、愛する方々。私が努めてあなたに示したいのは、しかるべき思い煩いの領域である。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」。それから、第二のこととして、努めてあなたに告げたいのは、気を揉ませるような一切の不安のしかるべき鎮静剤である。――「それに加えて、これらのものはすべて与えられます」。

 I. では、まず第一に、《しかるべき思い煩いの領域》である。人間のうちにある、いかなるものにも、特にそれが果たすべき機能、また目的がある。そして、私たち全員の内側には、多かれ少なかれ、思い煩いがちなものがある。ある人々は、また、特に一部の婦人たちは、非常に気を揉みがちな魂をしている。人生の中でどのような立場に置かれているかなど関係ない。そうした人々は常に深く考え込み、とかく先のことばかりを見つめ、もしかすると、あらゆることの暗い面ばかりを眺めがちである。さて、愛する方々。もしあなたがそうした性分だとしたら、ここにそれを善用する道がある。あなたの最も深く、最も強く、最も徹底的な思い煩いを、この方向において行使するがいい。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」。

 何を私たちは求めるべきだろうか? この聖句は云う。「神の国……をまず第一に求めなさい」。神は、ご自分の国をこの世に打ち立てられた。人々の国々の内部には、神が支配しておられる、神の国がある。それは、あらゆる地上的な王国とは種類が異なる。キリストはこう云われたからである。「わたしの国はこの世のものではありません」[ヨハ18:36]。それは、いかなるカエサルが打ち立てることのできた王国をも越えてきよく、高く、真実で、永続する国である。

 私たちが願うことは、まず第一に、神の国に入ることであるべきである。――新しいいのちの国、完璧な自由の国、キリストを信じる信仰の国、キリストとの結び合いの国、神の御霊の力の国へである。あなたがたはみな、そこに入っているだろうか? 入っていないとしたら、ただちにその国を求めようではないか。今晩、自宅の玄関の扉を求める前に、まずこの神の国を求めよう。私たちがその国の市民権を得て、この偉大な《王》の臣下となれるようにである。この国に入る認可を得る道はこうである。「主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、あなたも……救われます」[使16:31 <英欽定訳>]。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」[ヨハ1:12]。このように、神の国に入ることを求めるがいい。ひとたびその中に入ったら、次に、その種々の特権を享受することを求めるがいい。この偉大な《王》の臣下となっているなら、自分の霊の中でこの方が完全に支配し、ご自分の義の王座をそこに打ち立ててくださるように願うがいい。その国に属するあらゆる平和を、その国を特徴づけるあらゆる聖さを、また、あらゆる安息、あらゆる喜び、そして、あらゆる霊的な富を得られるように願うがいい。そして、主のキリストの支配下に至らされた人々の特権として、あらゆる意味で高貴な者とされることを願うがいい。このキリストの恵み深い御霊は、すべてのはかりごとをとりことしてキリストの主権のみこころに服従させる[IIコリ10:5]のである。さらに、神の国の中にあり、その種々の特権を享受しているとしたら、その国を押し広めることを求めるがいい。毎朝、勝利の上にさらに勝利を得ようとして出て行く[黙6:2]がいい。愛と親切という武器を手に、人々をキリストにかちとることを求めるがいい。この聖なる軍隊に入隊している以上、キリストのための絶えざる十字軍を続行するがいい。目覚めたときに真っ先に考えることから、夜に眠り込むときまで、何をおいてもまず、他の心をキリストにかちとることに専心するがいい。あなたの一切の思い煩いをこの方向に向かわせ、神に仕え、神のために生き、神の栄光を現わすがいい。このことを熱心に求めるがいい。商人がより多くの取引を求め、守銭奴がより多くの黄金を求め、病人が健康の回復を求めるかのように、そうするがいい。「神の国……をまず第一に求めなさい」。

 これとともに、別のことをも求めるべきである。「その義とを」。それは、こういう意味かもしれない。神が、その愛する御子によって私たちのために用意しておられる義を求めるがいい。キリストの転嫁された義によって義と認められることを求めるがいい。しかし、私はそれがこの箇所で意味されていることだとは思わない。神の義を求めよ。すなわち、聖なる性格を求めるがいい。何よりもまず、正しくなることを求めるがいい。金持ちになることではない。何よりもまず、富裕になることよりも、義人となることを求めるがいい。何よりもまず、他の人々の主人となることよりも、神に従うことを求めるがいい。大物になることではなく、善人になることを求めるがいい。このことを、あなたの唯一の大望とするがいい。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」。キリスト者の人生の唯一の目当ては常に、正しいことを行なうことであるべきである。それは時として物入りに思われ、犠牲が伴うことがある。だが、それは常に安全である。そして、長い目で見ると、神の御思いに従ったことを行なうのは、最も利益の上がることとなるであろう。《王》の大道から離れないようにするがいい。決して悪魔の「近道」を試そうとして、そこから踏み出てはならない。人間的な機略に従って行動するのではなく、かの古の助言を思い出すがいい。「私は言う。《王》の命令を守れ」*[伝8:2]。もしあなたが神の国とその義とを求めるなら、あなたはそれが自分の人生の道しるべとなる星であることを見いだすであろう。

 あなたや私は、自分自身の人生の中で神の義を求めなくてはならない。だが、やはりまた、この世において、その義を広めることを求めるべきである。何か人を禁酒へ傾けがちなものがあるだろうか? 私はキリスト者であり、その側に立つ。何か人々を正直にする助けとなるものがあるだろうか? 私はその側に立つ。何か人類を真に自由にするものがあるだろうか? 何か抑圧を鎮めるものがあるだろうか? 何か社会の不正を矯正するものがあるだろうか? 何か天の下にきよいものが残っているだろうか? 私はその側に立つ。私たちは、ある政治家が常々、自分は御使いたちの側に立つと云っていたことを覚えている。それこそ、あらゆる善人が立つべき側である。きよく、正しく、聖であり、天的であるあらゆるものの側である。私は、わが国の町通りを流れている暗黒の奔流に対する、一部の人々の無関心が理解できない。キリスト者たる者、至る所で義の王国を押し進めようと求めるべきであると私には思われる。また、社会生活や、政治や、その他の一切において立つべき側は、義の側であると思われる。

 「立てよ、いざ立て、イエスのため」、あらゆる所でそうせよ。なぜなら、イエスは、神に対しても人に対しても、真実で正しいことのために立ち上がられるからである。決して結果を恐れてはならない。正しいことは、害が与えられるべき者以外に、誰にも害を与えない。そして、もし、当座は正しいことが、いくつかの特定の関心事に重くのしかかるように思われるとしても、それでも、全世界を考えに入れ、神の時代の長さと幅とを考えに入れるとき、正しいことは、それを追求するすべての者にとって最上であることが分かるであろう。キリスト者である人は、まず神の国とその義とを求めるべきである。

 この聖句は、それを求めよ、と云う。しかし、いかにして求めるべきだろうか? もしあなたがその国の中にいないとしたら、ただちに祈りによってそれを求めるがいい。神に熱心に叫ぶことによってそれを求めるがいい。特にイエス・キリストを信じる信仰によってそれを求めるがいい。あなたが今その国に入れるようにである。しかし、もしあなたがその中にいるとしたら、その場合、絶えず油断せずにいるがいい。自分が不義に取って代わられないように、また、あなたの神また《救い主》の国を傷つけるようなことを全く行なわされないようにである。

 良い真珠[マタ13:45]を捜すように、神の国を求めるがいい。未知の国を旅する人が、その川と流れを見いだそうとするように、それを求めるがいい。あなたの心を尽くして神と、その真理と、あらゆる正しいこととを求めるがいい。

 さらに、この聖句がこう云っていることに注意するがいい。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」。すなわち、時間順にして第一に求めるがいい。青年たち。神をまず第一に求めるがいい。あなたの心をまず第一に神と正しい関係にするがいい。最も高い者が最初にやって来るべきである。そして、最も高い者とは神である。最も永続的なものが最初にやって来るべきである。そして、神は永遠である。あなたの最も高貴な部分に関わるものがまず第一にやって来るべきである。そして、あなたの魂はあなたのからだよりも尊い。あなたのからだは、じきに虫けらの食べ物となるであろう。だが、あなたの魂は星々よりも長く続く。「神の国……をまず第一に求めなさい」。というのも、これが第一のことだからである。そして、物事は、そのしかるべき順序で取り上げるがいい。そうすれば、正しい取り上げ方をすることになるからである。神の国をまず第一に求めるがいい。まだ、熱い血潮がみなぎっているうちに。寄る年波によって、あるいは、死そのものによって、あなたが不活発になる前に。あなたの目がまだ明るく輝き、あなたの頭がしゃんとしているうちに、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」。週の初めにこのことを求めるがいい。週の初めの日を常に守るがいい。そのすべてを神にささげるがいい。「神の国……をまず第一に求めなさい」。それを毎日まず第一に求めるがいい。毎日、朝明けの最初の数分間を神にささげ、一日を常に神とともに始めるがいい。時間順においてまず第一に神の国とその義とを求めるがいい。

 それから、程度順においてそれを第一に求めるがいい。もしあなたに健康が必要なら、それを求めるがいい。だが、まず第一に主を恐れることを求めるがいい。それが知恵の初め[詩111:10; 箴9:10]である。もし富に用があるなら、あなたに許される控えめなしかたでそれを求めるがいい。だが、何にもまして、あなたの宝は天に積むがいい。まずあなたの神を求め、それから他の一切のものを求めるがいい。あなたは、自分の回りにいる人々の愛を得ることを求めるかもしれない。だが、まず第一に神の愛を求めるがいい。あなたは妻を求めるかもしれない。そして、あなたが正しく求めるなら、悪いことにはならない。だが、まず第一にあなたの神を求めるがいい。あなたは家を求めるかもしれない。家庭を築くことを求めるかもしれない。自分の回りに人々にとって祝福となることを求めるかもしれない。だが、まず第一にあなたの神を求めるがいい。あなたの規則は、まず祭壇を築き、それから天幕を張ることにするがいい。まず神を求め、それから、地上的な事がらの中であなたに最も近しく愛しいものを求めるがいい。

 それからまた、神を選ぶか地上的な物事を選ぶかの段になったら、まず第一に神の国を求めるがいい。他の一切の物事を過ぎ去らせても、まず第一にあなたの神を求めるがいい。あの殉教者たちを眺めるがいい。キリストか死か、あるいは、キリストに不名誉を帰すかいのちかを選ばなくてはならなかったとき、彼らは決して遅疑逡巡しない勇敢な霊をしていた。彼らは決して自分たちを告発する者らへの答えについて思い悩まなかった。語るべきことは彼らに与えられた[マタ10:19]からである。そして彼らは、獅子たちをも、燃え盛る炎をも、残酷な拷問台をもものともしなかった。彼らは神をまず第一に求め、全く代価を計算に入れなかった。というのも、いかなる代価も彼らが保護しなくてはならない宝石類ほど多額ではありえなかったからである。彼らは、ため息1つつかず、自分の釈放されることを願わないで、自分のいのちを投げ捨てた。それは、さらにすぐれたよみがえりを得るためであった[ヘブ11:35]。そして、彼らは決して愚か者ではなかった。彼らは、その損失によって利得を得た。今日、そして永遠に彼らが戴いている紅玉の王冠は、彼らの一切の苦しみに対する十分な報いである。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」。それが何にもまして優先されるようにするがいい。それが、アロンの杖[出7:12]のように、他のあらゆる杖を呑み込むようにするがいい。これが、あなたを食い尽くす情動となるようにするがいい。必要なら、人々からこれを「あなたの狂信」と呼ばせるがいい。――それよりもなお良いのは、あなたの熱狂主義と呼ばせるがいい。というのも、あなたの内側におられる神の御霊は、他のあらゆる事がらを、ちりや灰とあなたに評価させるからである。この主題の別の部分に移る前に、私は一言だけ、誰がこのことを行なうべきかに注意しなくてはならない。特にこのことを行なうべき人々は、自らをキリストに従う者と呼ぶ。「まず第一に求めなさい」。この人々は、その御父が天におられる者たちである。「あなたがたの天の父」[マタ6:32]。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」。彼らは、神が最も恵み深く養ってくださる者たちであり、神に服従をささげる者たちである。彼らについて主イエス・キリストは、ご自分の御父が世話をしてくださると云われた。「ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち」[マタ6:30]。神によって養われている以上、神の国をまず第一に求めるがいい。あなたは神のお仕着せを着ている。神のパンを食べている。神の杯から飲んでいる。その裂かれたからだがあなたの食物であり、流された血があなたの飲み物である。神ご自身があなたの希望であり、あなたのすべてである。それゆえ、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」。

 あなたがた、このように恵まれた一団のひとりとなることに憧れている人たち。あなたが神の家族の中で子とされる望みを投げ捨てない限り、また、神を自分の《父》また《友》としていだくことを拒否しない限り、私は云うが、あなたはキリストがこう仰せになる者たちの中に含まれるに違いない。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」。あなたがた、人生を始めたばかりの青年子女たち。私はあなたに命じる。この聖句を心に銘記するがいい。あなたがた、今まさに新規の商売に乗り出そうとしている方々。あなたの商品の梱包を解くとき、自分の良心を汚さないように気をつけるがいい。この日からあなたの最期の日に至るまで、神を第一にし、あなたを二番目にするように注意するがいい。否、そうではない。神を第一にし、あなたの隣人を第二にし、それからあなた自身とするがいい。単に利得や栄誉や慰安を貪欲に求めるよりも気高い動機を持つようにするがいい。今あなた自身の内側で云うがいい。「神が私を助けてくださる限り、私は、私を贖い給う主のこの命令に従おう」、と。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」。

 愛する方々。ここには、あなたが十分に思い煩うに足る領域がある。思い煩いたければ、せっせと思い煩うがいい。神のために思い煩い、他の何物のことも思い煩ってはならない。苛立ちたければ、自分のもろもろの罪に苛立つがいい。何かに心騒がしたければ、義のために心騒がすがいい。自分の精神機能をことごとく情熱で燃やし尽くすものがほしければ、ここにそれがある。もし求める価値のあるものがほしければ、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」。

 II. しばし立ち止まって、この件について厳粛に思いをひそめるがいい。そして、それから、《他の一切の思い煩いに対するしかるべき鎮静剤》に注意しよう。

 神の子どもたち。あなたは自分の御父を信じているだろうか? あなたは私に否とは云うまい。あなたは自分の御父を信じているだろうか? ならば、耳を傾けるがいい。「そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」。

 「これらのものはすべて」。それで、まず第一に神をあなたの思い煩いとすれば、この人生のために必要なすべてのものはあなたのもとにやって来るのである。耳を傾けるがいい。「主に信頼して善を行なえ。そうすればあなたはこの国に住んで、まことに養われる」[詩37:3 <英欽定訳>]。「主ご自身がこう言われるのです。『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない』」[ヘブ13:5]。「今の私には」、とある人は云うであろう。「どうすれば自分の家計の帳尻を合わせられるか分かりません」。ならば、兄弟よ。あなたがすべてを神におゆだねすべき、いやまさる理由がここにある。かの賛美歌がそれをいかに云い表わしているか思い出すがいい。――

   「いずくかの道に 主は備え給う。
    わが道ならず 汝が道ならずも、
    なお主の道にて、『主は備え給う』」。

このことを確信するがいい。ダビデは云った。「私が若かったときも、また年老いた今も、正しい者が見捨てられたり、その子孫が食べ物を請うのを見たことがない」[詩37:25]。もしあなたがただ、自分で自分のパンを求めることだけを思い煩うなら、また、もしあなたがあなたの利得を人生におけるあなたの大目標とするなら、そのとき、あなたは自分で自分を養って良い。だが、もしあなたが神に仕えようとするなら、また、神の仕事を心がけるなら、神があなたの仕事を心にかけてくださる。そして、主が生きておられるのと同じくらい確かに、主はご自分の者たちを養ってくださるであろう。

 「これらのものはすべて」。それらが何か注意するがいい。それは、私たちが何を食べるか、何を飲むか、また、何を着るかである。それは最高級の広幅織物だの、絹だの、繻子だのを私たちが有することになるとは云わない。約束されているのは、種々の珍味佳肴ではなく、地の最も良い物ではなく、葡萄酒や強い酒ではない。だが、あなたは自分の食べるもの、飲む物、着る物を得られるであろう。もしあなたが、ただあなたの神に信頼し、神だけに仕えるなら、あなたはベテルにおけるヤコブと同じようになるはずである。というのも、神は、そこで彼と結んだご自分の契約を果たされたからである。主は、「これらのものはすべて」あなたに与えられるように気をつけてくださるであろう。ならば、あなたが神のために気を遣うようにするがいい。そうすれば、神があなたのために気を遣ってくださるであろう。

 しかし、次に、「これらのものはすべて」は約束を通してやって来る。不敬虔な人にも、「これらのもの」はやって来るが、それは重労働を通してやって来る。その人は、それらは運によってやって来ると云う。だが、信じるあなたにとって、それらは約束を通してやって来る。あなたがパンを食べるとき、あなたは云うはずである。「主はほむべきかな! ご自分が約束しておられたこのパンを、主は与えてくださった」、と。あなたが水を飲むとき、あなたは云うはずである。「主はほむべきかな! ご自分が約束しておられたこの清新にする一飲みを主は与えてくださった」、と。そして、あなたが自分の衣服を身につけるとき、それが決して優美なものではないとしても、それでもあなたは感じるはずである。それは、神がご自分のしもべに送られたお仕着せである、と。そして、それを身にまとうとき、あなたは云うはずである。「これは、大いなる《普遍の供給主》、すなわち、主なる神の御手からやって来ているのだ」、と。「そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」。あなたが何を持っているかということよりも、いかにしてそれを手に入れたかこそ、あなたに祝福をもたらすのである。先日の日曜の晩、私は、ひとりのスコットランド人婦人と彼女のお粥について話をした。彼女は、自分のお粥が好きだといったが、彼女が喜び、神をほめたたえたのは、彼女にはそのお粥に対する契約の権利があることであった。というのも、その契約によって彼女は、自分が食べるもの、飲むものに対する権利を与えられていたからである。あなたにとって大きなあわれみとなるのは、主の御手のしるしが、日々のごく普通の祝福1つ1つの上にあるのを見てとることであり、自分自身に向かってこう云えることである。「これは、私の主の仰せになったように実現したのだ。『それに加えて、これらのものはすべて与えられます』」。それらは、約束を通してやって来る。あなたは、それらを求めなくとも良い。それらは、それに加えて、あなたに与えられるからである。

 そして、さらに、それらは私たちのもとに無限の知恵の道によってやって来る。神の愛する子どもよ。あなたのパンと、あなたの水と、あなたの着物とは、みな神によって量り与えられている。もしあなたにごく僅かなものしかないとしても、神は、それ以上多くてはあなたがうまくやって行けないことをご存知であった。知っての通り、ある子どもたちには、あまりにも多くの夕食を食べさせてはならない。さもないと、からだを壊してしまうからである。もしあなたが時として逼迫した状況に置かれるとしたら、それは貧困によってしかあなたがたの中のある人々は天国へ行き着くことができないからである。私は疑っていないが、ある人々は、自分たちの生活領域の中では立派に振る舞うが、別の領域に置かれたなら、見苦しいしかたで行動するであろう。多くの人は、自分が山頂に至れないかどうか見てみようと、岸壁をよじ登ろうとしてきたが、幾度となく谷底に転落した。なぜなら、その人は麓にいる方が安全だからである。その人の頭は目の眩むような高みに耐えられない。それゆえ、大いなる主は、その人がそこに達することを許そうとされないのである。あなたは、あなたの害になると神がご存知であることを得たいだろうか? 疑わしい祝福を得たいだろうか? 「私の時は、御手の中にあります」[詩31:15]、と云う方が良くないだろうか? もしあなたが神の子どもで、神に気を遣っているとしたら、神はあなたのことに気を遣ってくださる。神はあなたの服地を測り与えてくださる。あなたの水を計り出してくださる。あなたの食物を量り与えてくださる。あなたの持つべきものを与えてくださる。だから、アグルの祈りをあなたの祈りにもするがいい。「貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください」[箴30:8]。

 また、もし私たちがこのように神に頼み、「それに加えて、これらのものはすべて与えられます」というその約束を信頼するなら、そのとき、これらのものは、私たちが全く苛立ったり、いきり立ったりしなくとも、私たちのもとにやって来るであろう。もし神が私たちを富ませてくださるなら、私たちは云うはずである。「よろしい。私は決して富を願い求めなかった。だが、今やそれがやって来ている以上、私はただそれを正しく用いる恵みを切望するだけだ」。そして、もし富がやって来なければ、あなたは云うであろう。「よろしい。私は決してそれを期待しなかった。私は、いま自分が持っているものゆえに感謝し、御名をほめたたえる。そして、豊かさの中にいる道も、損失を受ける道も知ることのできる恵みを願い求める」、と。苛立ちやいきり立ちとともにやって来るものは、しばしば、あなたがそれを得る前に、その良さのすべてを失ってしまっている。あまりにもしばしば、人々は蝶々を追う男の子のようである。帽子を飛ばして、その虫に向かって突進する男の子を見るがいい。それが飛び去ると、あちらへ、こちらへ、その向こうへとそれを追いかけ、とうとうそれを捕まえるが、捕まえる際に、それをばらばらにしてしまう。それは何の役にも立たない。そのように、人々は富を追求してきた。彼らはさんざん苦労し、骨を折ったあげく、ようやく自分の求めていた富を得るときには、健康は失われ、精神は機能せず、富を楽しむことができなくなっている。しかし、無限のあわれみという黄金の帆船に乗って私たちのもとにやって来るもの、私たちの思慮にまさる《水先案内》により海を越えてもたらされるものは、この上もなく甘やかにやって来る。そして私たちは、そのすべてについて主を賛美し、あがめるのである。

 そして、もう一言云うと、神がこのように私たちに加えて与えてくださるものは、私たちのもとにやって来ても、私たちを吸収することはない。「それに加えて、これらのものはすべて与えられます」。それで、見ての通り、あなた自身はそこにあり、これらすべてのものがあなたに加えられるのである。ある人々にとって、富は、ローマの物語にある重厚な盾の山のようにやって来る。ウェスタ神の巫女が兵士たちに対して門を開くことに同意したとき、彼らは彼女への報いとして自分たちの左手につけているものを与えると約束した。彼女が意味していたのは、彼らの黄金の腕輪であり、彼女は自分が大金持ちになれると夢想していた。だが、ひとりひとりは、入って来ると自分の盾を彼女に投げつけたのである。そのため彼女は殺されてしまい、その重みの下に埋もれてしまった。この世の利得も、しばしばそれと同じであった。それは人のもとにやって来るが、人を埋もれさせ、そこには何の人も残らなくなる。『絵入り倫敦新報』によると、彼はたくさんの金銭を残したというが、そこには誰も残っていない。その人はとうの昔にいなくなっていた。人はみな吸収され、粉砕され、自分の金銭の下で二重折りにされていて、その人自身はなくなってしまっていた。以前も私はある例話を用いたことがあるが、どうしてももう一度それを用いざるをえない。あなたがある店に行き、いくつか品物を買うと、紐と茶色い紙を手に入れるであろう。その中にあなたの買ったものがあるのである。そのように、人は神のために、また、永遠のいのちのために生きるとき、自分が地上で要する一切のものを、求めもせずに得るであろう。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」。人が、その紐と茶色い紙を得るとき、よろしい。それは非常に有用である。だが、人はそれを誇らしげに云いはしない。紐も茶色い紙も、それ以上に価値あるものの包装用品にすぎない。だが、ある種の連中は、本当は何ほどの者でも全くなく、最も価値あるものを何1つ持っていないのに、唸るほど紐と茶色の紙を持っているため、私たち全員がひれ伏して、彼らの紐と茶色の紙を礼拝することを期待しているのである。そして、ことによると、それより悪いかもしれないことに、彼らがひれ伏して、自分の紐と茶色の紙の礼拝しているのである。しかし、神の子どもはそうした類のことを一切しない。彼は云う。「私がこの祝福を要していたところ、それはやって来ました。神に感謝します。ですが、私はこの祝福のために生きていたのではありません。これを生きがいとしていたのではありません」。ジョンソン博士は、ある人から自宅の美しい庭と私有園を見せられた後で、こう云った。「こうしたものがあると、死ぬのは辛くなりますな」。おゝ、だがキリスト者にとってはそうではない! 善良なガーニー氏は、ある日、自分の美しい庭を歩きながらこう云った。「この楽園によって私は、上の《楽園》がいかなるものかについて考えるのを助けられます。そして、そこに行きたいと切望させられるのですよ」。そして私は、私たちにとってもそうあるべきだし、そうであろうと知っている。もし私たちがまず第一に神の国とその義とを求めるとしたら、私たちに富を預けることは安全であろうし、私たちに全く何もゆだねないことも同じくらい安全であろう。最も高貴なものをつかんでいる以上、私たちは、何かを得た場合に平衡を失うことも、何かを失った場合に絶望することもないはずである。それで私は、この聖句の戒めと約束の双方をあなたがたに語って終わりたい。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」。願わくは、このことが、あなたがた、愛する方々の全員について真実であるように。私たちの主イエス・キリストのゆえに! アーメン。

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求めるに値するもの[了]


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