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「わたしがこうなるようにしむけたのだ」

NO. 2476

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1896年8月2日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1886年7月22日、主日夜


「主はこう仰せられる。上って行ってはならない。あなたがたの兄弟であるイスラエル人と戦ってはならない。おのおの自分の家に帰れ。わたしがこうなるようにしむけたのだから」。――I列12:24


 神の姿が顕著に現われている歴史書を読むのは、非常に喜ばしいことである。わが英国には、いかに悲しいほどにそうした歴史書が不足していることか! だが、確かに、いかなる物語にもまして神が満ちておられるのは、わが英国民族の来し方の記録に違いない。クーパーは、その詩の1つで、私たちとイスラエルの家との間の相似を示しており、わが歴史の種々の特別な事件を詳述しては、そこから価値ある教訓を引き出している。神の知恵と力は、この、今では十分に成長した国が弱々しい幼児でしかなかった頃から、はっきり見えていた。神はこの国を世話し、見守り、巨大な敵たちから防護しては、ご自分の真理の擁護者、また、ご自分の民の恵まれた居住地とされた。おゝ、神の思いに満たされて筆を振るうことのできる歴史家、また、自分の歴史書の最初から最後まで、国王や内閣の権謀術数ではなく神の指だけを私たちに示そうとする歴史家がいるなら、どんなに良いことか! 近頃、私たちは、このサムエル記や、列王記、また、歴代誌のように見受けられる様式で書かれた歴史書がほしいと考えている。そのとき、歴史は、私たちにとって新しい聖書のようになるであろう。私たちは、啓示の本が被造世界の本と合致しているように、人間の歴史における天来の摂理の本が、その両方と合致していることを見いだすであろう。というのも、同じ神が、そうした作品すべての《著者》だからである。たといそうした歴史書を執筆する者がひとりも得られないとしても、それでも、私たちが有している数々の記録の誤りを絶えず修正し、付録を追加しようではないか。というのも、神は神であり、神は至る所におられるからである。そして、神を見つけ出すことを学んでいる人は幸いである。

 次に注意したいのは、先の聖書朗読で私が指摘した点、すなわち、旧約の下で神の預言者たちはいかなる力を有していたか、ということである。ここにはシェマヤという人物がいる。――彼について、あなたがたの中のある人々は今まで一度も聞いたことがなく、ことによると、二度と聞くことがないかもしれない。彼は、この歴史の中に一度現われ、そして消滅してしまう。彼はやって来て、去って行く。――だが、想像してもみてほしい。この、たったひとりの人物が、イスラエルの家と今にも戦おうとしている十八万人の選抜戦闘員を押さえつけては和平へと向かわせているのである。そのため彼が彼らに告げたのは、非常に平易で木訥な言葉、神からの単純な命令であった。「主はこう仰せられる。上って行ってはならない。あなたがたの兄弟であるイスラエル人と戦ってはならない。おのおの自分の家に帰れ」。そして、こう云い足されている。「そこで、彼らは主のことばに聞き従い、主のことばのとおりに帰って行った」。なぜ私たちにはこのような力がないのだろうか? もしや、兄弟たち。私たちが必ずしも常には主の御名によって語ることをしていないか、神のことばを神のことばとしては語っていないからかもしれない。もし私たちが、単に私たち自身の思想しか告げていないとしたら、なぜ人々が私たちのことなど気にかけるべきだろうか? もし私たちが、自分でひねりだした言葉を語っているとしたら、私たちの鉄床の中に何があるからといって、その上で私たちが造るものに対する敬意を持たせることができようか? しかし、もし私たちが、この偉大な議論の高みへと上ることができ、神からの使者として真理を語って、そのままにしておくとしたら、また、それを自分自身でも信じて、そこから大いなる結果が生じると期待しているとしたら、私たちの伝道牧会活動から生ずるものは、これまで見てきたいかなるものよりも大きなものとなるだろうと私には分かる。使徒ペテロがあの宮の門の所にいた足なえの男に語りかけ、「ナザレのイエス・キリストの名によって、起きて歩きなさい」[使3:6 <英欽定訳>]、と云ったとき、男は本当に起き上って歩いた。それは、イエス・キリストの御名により頼んでいたからである。だから、私たちに必要なことは、福音を宣べ伝える際に決して、あたかも自分たちの訴える勧告によって――いわんや自分たちの雄弁によって――人々を説き伏せるべきであるかのように語るのではなく、福音の中に本来的な力が備わっていると信じ、聖霊なる神がそれに伴って行き、天来の目的を果たし、《いと高き方》の定めを成し遂げてくださると信じながら語ることである。私たちは、神の近くに立つ必要がある。そして、もっと完全に神の臨在によって覆われ、自分自身もっと全く《天来の威光》を信じる必要がある。そうするとき、私たちは、今よりも大いなる事がらを見るであろう。確かに神が意図しておられるのは、新約の下でご自分のみことばのうちにある力が、旧約の下で頼りにされた力にすらまさるものとなることに違いない。

 この事件が伝えているもう1つの教訓に注意するがいい。ただ一度の説教を語り、シェマヤのような成功を収めることは、素晴らしいことであろう。それは、一万回も説教しながら、そのすべてによって何も成し遂げないよりも、はるかにまさっているであろう。私が望むのは、私たちの伝道牧会活動の最終結果が、あの、自分の軍隊を率いて、ある丘の上へと進軍して行ったが、それから再び下ってきたという指揮官のそれに似たものとはならないことである。人は、長年かけて何1つ云わないことがありえる。また、その人が苦心を重ね、この上もなく雄弁に語ったことが、全く語る必要もないことであったという場合もありえる。むしろ、一回の使信を上からゆだねられ、その1つを《全能の神》の御力によって語る方がはるかにまさっているであろう。たとい、その語り手の声が二度と聞かれなかったとしてもそうである。私は切に願う。私たちの中の、福音を宣べ伝えている者らが、それぞれの説教を行なう際に、あたかもその一回の講話が一生涯に値するもの、また、自分の有するあらゆる精神機能をつぎ込むに値するものであるかのように語るように、と。それは、たとい二度と説教することはなくとも、それにもかかわらず、一度の説教によって一生の仕事を行なったことになるようにするためである。今晩の私はいかなる機会を有していることか! また、私の兄弟よ。あなたも次の主日に、自分の会衆と向き合うとき、いかなる機会を有することであろう! 御使いたちすら、うらやむであろう機会である! 確かにあなたは十八万人の人を集めることはないかもしれないが、次の安息日にあなたが語ることになる一回の説教でそれと同じくらい多くの人々に手を差し伸ばすことができよう。というのも、あなたを通し、聖霊によって回心したひとりの人が、他の多くの人々を導く手段となり、結局、あなたの一度の努力から数え切れないほどの収穫がもたらされることもありえるからである。1つの森も、かつてはただ一個の団栗の中に眠っていたのである。大いなるものの端緒は、小さなものの中に横たわっている。それゆえ、熱心に神に祈ろうではないか。死に行く者が死に行く者らに向かってするかのように私たちが説教し、いかなる講話を語る際も、あたかもその一回の使信が、十分に自分の全生涯の働きの代わりとなるかのように語れるように、と。私たちは、もはや二度と再び説教を語りたいと願う必要はない。少なくとも、その1つの説教を語ることによって、神の目的を成し遂げることができるとしたら、また、私たちの話を聞く人々の上に、みことばの力が及んだことを見てとれるとしたら、そうである。

 こうしたことを前置きの言葉とした上で、本日の聖句からは次のようなことを証明したいと思う。第一に、いくつかの出来事は、非常に特別なしかたで神によって仕向けられたものである。第二に、そうした出来事が神の仕向けたものであることが分かるとき、それらと戦うべきではない。そして、第三に、この一般的原則には、多くの個別的な適用がある。そうした適用のいくつかを示してみよう。

 I. 第一に、《いくつかの出来事は、特別なしかたで神によって仕向けられたものである》。「わたしがこうなるようにしむけたのだ」。

 私は、一部の人々が何を信じているか知らない。というのも、彼らは、全く神など抜きにして暮らそうとしているかに見受けられるからである。だが、私は信じている。神があらゆる事がらの中におられる、と。――いかなる力も、いのちも、動きも、思念も、存在も、神から離れてはありえない、と。「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです」[使17:28]。神によって、万物は存在し、成り立っている。万物は、神がそれらを存続させ、支えておられない限り、波間の上の泡ぶくのように消滅してしまうであろう。私は、あらゆるものの中に神を見ている。薔薇の蕾の上の油虫の這い方から、一王朝の没落に至るまでそうである。私は神が地震やつむじ風の中におられると信じる。だが、ごく穏やかなそよ風の中にも、森の樫の木から枯葉が落ちる中にも、同じようにおられると信じる。幸いなことよ。存在するいかなる物の中にも神の臨在を見てとってやまないという人は。この世界の至る所に――最深の鉱山から最遠の星にまで――神が見られるとき、世界は1つの壮大な領域となる。この地球は、ひとたび神の臨在とお働きとの光が取り去られてしまうなら、一個の悲惨な暗い地下牢である。

 やはり注意してほしいのは、愛する方々。神が、罪や人々の愚行によってもたらされた種々の出来事の中にもおられる、ということである。このソロモンの王国が2つの部分に分裂したことは、ソロモンの罪およびレハブアムの愚かさの結果であった。だが、神はその中におられた。「わたしがこうなるようにしむけたのだ、と主は仰せられる」*。神は、その罪とも、その愚かさとも、全く何の関わりも有していなかったが、私たちには決して説明できないあるしかたにおいて、また、私たちがためらいなく信ずべき1つの神秘的なしかたにおいて、そのすべての中におられた。この真理の最も著しい事例が、私たちの主イエス・キリストの死である。それは、人間の犯した最悪の犯罪だったが、だが、それは、《いと高き方》によってあらかじめ定められ、予定されていた。このお方が犯罪を犯すことなどありえず、いかなる種類の罪と共謀することもありえない。いかなる次第か私たちには分からないが、紛れもない事実は、あることが神によって仕向けられていながら、しかし、この場合に私たちが見てとるように、それが人々の愚かさとよこしまさによってなされることがありえる、ということである。また、これは、人間が最大限の自由をもって行動することを露ほども妨げない。人間が自由な行為者であると主張してきたある人々は、自由な行為が正当であると証明しようとして、予定がそれとは矛盾するかのように云ってきた。だが、それは違う。私たち、予定を信じている者らは、自由な行為が真実であると考えている。予定という真理を拒絶する人々と同じくらいそうしている。他の人々は予定を主張し、ただちに、人間たちの責任と自由な行為とを真実であると考えている人々すべてを罵り始める。私の兄弟たち。どちらの教理にも罵るべきものなど全くない。この2つのことは同等に真実なのである。「ならば、いかにして」、とある人は尋ねるであろう。「あなたは、それらを和解させるですか?」 この2つの真理は、私の知る限り、これまで一度も不和になったことがない。そして、真の友だち同士を和解させようと努めるのはつまらぬことである。「しかし」、と反対者は云うであろう。「どのようにしてあなたは、それらが真の友だちであるように見えるようにするのですか?」 私は、それらが真の友だちであるように見えるようにするつもりはない。神をほむべきことに、聖書の中にあるいくつかの事がらを私は、生きて地上にある限り、決して理解できるとは期待していない。私が完璧に理解できるだろうようなキリスト教信仰は、私にとっては全くキリスト教信仰ではない。私がそれを支配するとき、それは決して私を支配しないであろう。しかし、私が思うに、信仰者にとって最も喜ばしいことは、測り知れない数々の神秘の前に身をかがめて、こう云うことである。「私の神。私は決して自分が無限であるなどとは考えたことがありません。私があなたに取って代われるとか、すべてのことを理解できるなどとは夢にも思ったことがありません。私は信じます。そして、それで満足します」、と。それで私は、人間たちの自由な行為をも、彼らの責任とよこしまさをも真実であると考えており、一切の悪がそこから出て来ると信じている。だが、私は神をも信じている。そして、一方では、「こうなる」ことが、純粋に、また、ただ人間たちからだけ出て来たものであると信じながら、もう一方の面では、神によっても仕向けられたことを信じている。神は、悪と善の双方を支配し、単に夏の夕まぐれの、そよ風の吹く頃にエデンの園を歩く[創3:8]だけでなく、荒れ狂う海の波浪を歩き、その主権の御力によってあらゆる場所を支配しておられるのである。

 ならば、いかにして「こうなるように」神が仕向けたことになるのだろうか? よろしい。明らかに、それは2つのしかたで神によって仕向けられたことであった。最初に、これは、預言という問題としてそう云えた。預言者アヒヤは、すでに預言していたからである。あの裂かれた外套のうち、ヤロブアムに与えられた十切れは、ダビデの家から離間されて彼に与えられるであろう十部族を象徴している、と。その預言は、神のことばが常にそうある通り、文字通り成就した。

 それから次に、「こうなるように」神が仕向けたことになるのは、罰という問題としてであった。神がこのことをお送りになったのは、ダビデの家のもろもろの罪――ソロモンが、他の神々を《いと高き方》よりも重んじたこと、また、モアブや、アモン人や、エジプトの神々を引き入れることによって、自らの王国の忠誠をエホバから引き離したこと――ゆえにである。神がこの悪を定めたのは、ご自分のしもべソロモンの側におけるご自分に対する忠実さの欠如という、より大きな悪を懲らしめるためであった。しかり。私の兄弟たち。神は、悪に対して悪を用いて、悪を滅ぼそうとされる。また、人間的な愚かさから出るものを用いて、ご自分の知恵を明らかに示そうとされる。

 それで、ある種の出来事は、特に主が仕向けたものなのである。一件そうとは見えなくとも関係ない。そして、このことは、私たちにとっては、しばしば、非常な慰藉の源泉となる。私たちはこれまで自分に向かってこう云ってきた。「一体全体どうして物事が、ここまでもつれ合い、こんがらがってしまったのだろう?」 いま現在の、信仰を告白する教会を見るがいい。そのどこに、少しでも神の子どもの励ましとなりえるものがあるだろうか? すべての事がらは暗く、錯綜しているかに見える。何もかも流砂の上に建てられているように思われる。そして、上滑りなもの、中身のないもの、こけおどしのもの、見かけ倒しのものが至る所にある。それでも、主は生きておられ、私たちの救いの岩は失敗することがない。主は、人の憤りにさえ、ご自分をほめたたえさせる[詩76:10]が。それと同じように人の愚かさやよこしまさをもそのようにし、その双方の残りには抑制がかけられる。「主は、大洪水のときに御座に着かれた。まことに、主は、とこしえに王として御座に着いておられる」[詩29:10]。ハレルヤ!

 II. 本日の聖句によって明らかに教えられている第二のことは、こうである。《出来事が神によって仕向けられたものと見受けられるとき、それらと戦うべきではない》

 レハブアムは、自分の兵士たちを召集し、イスラエルの家と戦おうとしていた。だが、この十部族が彼に反乱したことが、神によって仕向けられていた以上、彼はイスラエル領内に進軍してはならず、彼らに弓を射かけることさえ許されなかった。

 あなたに起こっていることは、主によって仕向けられている。それゆえ、それに抵抗してはならない。というのも、そうすることは、よこしまなこととなるだろうからである。もしそれが主のみこころなら、そうするのが良いことである。私たちの意志を、主の御意志の上に置くのは、主への純然たる反逆である。ある出来事が明確に主によって仕向けられていることが突きとめられたなら、ふさわしい行動方針は、この詩篇作者が取ったものである。「私は黙し、口を開きません。あなたが、そうなさったからです」[詩39:9]。絶対の服従では十分ではない。喜びに満ちて神のみこころに黙従するまでとならなくてはならない。たといその杯が苦くとも黙って従い、それが甘やかなものである場合と同じくらい朗らかに受け取らなくてはならない。「辛いことよ」、とあなたは云う。「かたい心にはね」、と私は云う。だが、私たちの心が神と正しい関係にあるときには、私たちは神を愛するあまり、いずれかの点で、自分の意志がなされるべきか神の御意志がなされるべきかということが衝突する際には、たちまちその衝突を終わらせて、こう云う。「しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」[マタ26:39]。いかなる形を取ろうとも、私たちが神のみこころに抵抗しようと試みるとき、それはよこしまなことでしかない。

 しかし、次に、それはよこしまである一方で、無駄なことでもある。というのも、神のみこころに逆らって私たちに何ができるだろうか? 川縁の藺草が北風に抵抗して良いだろうか? 埃が嵐と闘いに舞い立って良いだろうか? 神は全能であられる。それがすべてだとしたら、それで十分であった。というのも、神の力に誰が抵抗できるだろう? しかし、神は知恵に満ちたお方でもあられ、もし私たちに神と同じくらい知恵があったなら、私たちは神がなさるように行なうはずである。さらに、神はいつくしみに満ちたお方であり、常に愛に満ちておられる。天来の理解に従って判断されるとき、神が意志される一切のことは正しいに違いない。ならば、なぜ私は、あえて神の力、知恵、愛と敵対して良いだろうか? そうすることは無益に違いない。これまで誰が神のみこころに抵抗することなどあっただろうか? たといそうしたところで、誰がそれに成功しただろうか?

 次に、それは有害なこととなるであろう。また、もし私たちが抵抗するなら、確実に、さらに大きな悪を私たちにもたらすことであろう。もしもこのレハブアム王が、このように反乱を起こした、はるかに強大な部族たちとの戦いに出て行ったとしたら、その結果としてユダは荒廃し、エルサレムは破壊されていたかもしれない。自分の剣をその鞘に収める方がずっと賢明であった。というのも、神の命令に違反し、イスラエルと戦いに行くのは極度に破滅的なこととなっていたであろうからである。そして、嘘ではない。兄弟たち。何にもまして自らに患難を招き寄せるのは、患難に耐え忍ぶのを拒むことである。もし私たちが自分の上に置かれたくびきを我慢しようとせず、優しく引く手綱に従おうとしなければ、突き棒と鞭が私たちに対して用いられるであろう。何にもまして私たちに大きな悲しみをもたらすのは、悲しみに服するのを拒むことである。もし私たちが十字架を取り上げようとしなければ、ことによると、その十字架が私たちを取り上げることになるかもしれない。そして、それは、はるかに悪い巡り合わせである。耐えて、服して、黙って従うがいい。結局、そうする方がたやすいことである。もしあなたが神の子どもであるのに神に反抗するとしたら、痛い目に遭わざるをえないからである。しかし、もしあなたが神の子どもではなく、高慢なパロのように反抗するなら、神はあなたを人々に対する見せしめとして立てるであろう。そして、「主とはいったい何者か。私がその声を聞……(か)なければならないというのは」[出5:2]、と云う強情な罪人たちを、エホバがいかに厳しく取り扱うかお示しになるであろう。それゆえ、何らかの出来事が明確に主によって仕向けられたときには常に、それに抵抗すべきではない。

 III. さて、次に目を向けたいのは、あなたにとってずっと興味深いことかもしれない。すなわち、この主題を実際的に適用することである。というのも、《この一般的原則には、多くの個別的な適用がある》からである。私は、種々の出来事が明確に主によって仕向けられることはしばしば起こっていると信じるし、その場合、正しく適切な道はそれに服従することである。

 ここで、私に起こった異常な事がらを数多く物語ることもできようが、そうはすまい。ただ、たったいま思い出した1つのことだけを告げることにしよう。ある安息日に、その左手の桟敷席に、ひとりの若いヒンドゥー教徒の紳士が、緋色の飾帯をかけて座っていた。その朝、私が説教していたのは、「もし父上が、きびしい返事をなさったら?」[Iサム20:10]という聖句についてであった。すると、後ろにある牧師室に私がほとんど入るか入らないかするうちに、この若いヒンドゥー教徒の紳士が、ひとりの年老いた人とともにやって来たのである。その老人は、今は神とともにいるが、よく知られたキリスト者であった。さて、この青年は息せき切ってこう云った。「先生、E――氏から私のことをお聞きになりましたので?」 「いいえ」、と私は云った。「私は彼とはもう何箇月も会っていませんよ。どうして彼があなたについて私に告げられたでしょう?」 「それでは私について、これまで全く何も聞いたことが確かにないのですね?」 「私の知る限り、私があなたについて聞いたことはありませんし、あなたとお会いしたこともありません」。「よろしい。ならば先生」、と彼は云った。「神は存在するのです。そして、その神はこの場所にいるのです」。「どうしてです?」、と私は尋ねた。「昨晩、私は、こちらの紳士に告げたのです」、と彼は答えた。「私はほとんどキリスト者になろうと確信しているのですが、印度に帰ったら、父から勘当されることになるでしょう、と。そして、私は、自分がキリスト者としてあくまで頑張る勇気が持てない気がしていたのです。すると、この親切な方は云ったのです。『明日の朝、スポルジョン氏の所に行って話を聞きなさい』、とね。それで私がここに来たところ、あなたは、この言葉から説教したわけなのです。『もし父上が、きびしい返事をなさったら?』 まことに」、と彼は云った。「キリスト者たちの神こそ神です。そして、その神は、きょう私に語りかけてくださったのです」。これは、本日の聖句、「わたしがこうなるようにしむけたのだ」、のもう1つの例証であった。こうしたことは、これまでしばしば起こってこなかっただろうか? 聖霊の摂理的な働きは、非常に素晴らしい主題である。聖霊のしもべである者たちは、自分の語ることになる一言一句について、御霊により頼むことを学ぶ。彼らは時として鳥肌が立ち、ほとんど髪の毛が逆立つのを覚えることがある。自分が無意識のうちに語ったことが、まるで写真で映したかのように、自分の話を聞いていた人の――ことによると、たまたま話を聞いた人の――性格をまざまざと描写していたからである。彼らは、相手の人のことを知らなかったが関係ない。おゝ、あなたがた、主に仕える働き人たち。神の導きに身をまかせるがいい。そうできればできるほど良い。というのも、幾度も幾度もあなたは、自分に起こる出来事についてこう云わずにはいられなくなるからである。「主がこうなるように仕向けたのだ」、と。

 また、愛する方々。この原則を適用できるもう1つの場合は、数々の厳しい患難が起こるときである。私たちが身をかがめるべき一切の患難の中でも、第一の位置を占めるものは、明確に主によって仕向けられたものだと思う。例えば、愛する友人たちが死んだ場合や、いま自分に降りかかっている患難をもたらしかねなかったような悪を自分が何も犯した覚えがない場合、あるいは、正直で誠実に商売に携わっていたにもかかわらず、また、誰の目の前においてもできる限り正直に品物を提供していたにもかかわらず、損失をこうむったような場合である。ある種の患難によって思い出されるのは、私が船舶の賃借契約書の中で見たことのある、1つの用語である。――それを「神のわざ」という。海上におけるいくつかの災厄は、「神のわざ」と呼ばれる。そのように、人生におけるいくつかの出来事は、いかに恐ろしく、いかに悲しいものであろうと、もしそれらが神のわざだとしたら、この明確な区別をもって私たちのもとにやって来る。「主がこうなるように仕向けたのだ」、と。あなたは、それを主によって仕向けられたものとして受け入れるではないだろうか? 「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか」[ヨブ2:10]。私たちは、ヨブとともにこう云おうとするではないだろうか? 「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」[ヨブ1:21]。「わたしがこうなるようにしむけたのだ」。おゝ、あなたがた、その主の子どもである人たち。あなたの御父の御手によって仕向けられた懲らしめを受け、御父があなたを打っておられる鞭に口づけするがいい!

 また、時として私たちを悩ますものに、自分の友人たち、あるいは、子どもたちによってもくろまれる、不穏な計画がある。私たちは、彼らの基本的な考えを好まず、こう云う。「いいや。そんなことに手を出してはいけないよ。どうみても間違ったことに思えるもの」、と。だが、時々、若者はあれこれのことを行なうであろう。あるいは、友人は、ある特定の方針を取ることに心を決めてしまっている。そして、ついに、いくらあなたが嘆願し、説得し、強く勧め、できる限りの手を尽くして翻意させようとした後で、もしもあなたの脳裡に、「ひょっとすると、主がこうなるように仕向けておられるのかもしれない」、という考えが忍び込んでくるとしたら、もはや説得しようとするのはやめるがいい。パウロが聞き入れようとしなかったとき、彼の友人たちが彼と議論するのをやめたようにである[使21:14]。時として、大変な間違いと思われるものが、それにもかかわらず、神の御手の中にあって、正しい道筋であると分かるかもしれない。私たちの判断は、誤りに陥りがちなものでしかない。だが、《いと高き方》の判断は常に正しい。あまりにも長く戦ってはならない。あなたが自分に別の悲しみをもたらすことになるといけないからである。むしろ、しかるべき時には喜んで引き下がり、こう云うようにするがいい。「ひょっとすると、主がこうなるように仕向けておられるのかもしれない」、と。

 この同じ真理には、非常に心楽しい面もある。すなわち、何らかの著しいあわれみがやって来るときである。あなたがたの中の多くの人々は、これまでに何か非常に尋常ならざる救出を経験したことがあるではないだろうか? 神があなたのために砂漠に川を開き、普段は水など見つからない裸の丘に水を流れさせてくださったことがあるではないだろうか? よろしい。著しい、驚くべきあわれみがやって来たときには常にこう云うがいい。「主がこうなるように仕向けたのだ」、と。あなたの無二の友人から贈り物を受け取り、その人から、「これは私が仕向けたものですよ」、と云われるのは喜ばしいことである。その贈り主を思えば、一層それが尊くなるであろう。たといあなたに堅くなったパンの一片しかなくとも、食卓用短刀を取ってそれを切り、云うがいい。「これは主によって仕向けられたものです」、と。しかし、もし主があなたにふかふかの寝床を与えて、くたくたに疲れた手足を休ませるとしたら、また、もし主が多くの贅沢にふけることをあなたに許しておられるとしたら、こう云うがいい。「これは主によって仕向けられたことです」、と。そうすれば、一切のことは、主から与えられているがゆえに、一層輝かしくなり、一層快くなるはずである。それは、この賜物の最上の部分である。しばしば、それ自体としては蔑みたくなるような小さなものが、与え主のおかげで測り知れない価値のあるものとなる。そして、あなたの全人生は、豊かな宝物で満たされるはずである。左様。非常に「奇妙な」貴重品が蓄えられることになり、あなたの残りの日々の間中、称賛の念とともにそれらが眺められることになるであろう。なぜなら、「これはわたしの仕向けたことだ」、とそのすべてにくっきり書き出されているからである。

 さらに本日の聖句の原則を適用するため、1つ思い起こさせてほしいことがある。ある人が、非常に驚くべき警告を受けるとき、その人はその背後に、このように云う声を聞くべきである。「わたしがこうなるようにしむけたのだ」、と。難破し、ほとんど座礁していながらも危うく死を免れたとき、あるいは、何かすさまじい事故から救い出されたとき、もしあなたがそのような事態に陥ったとしたら、人よ。自分が脱出した一切の大混乱の中から、この声が響くのを聞くがいい。「わたしがこうなるようにしむけたのだ」、と。おゝ、人々が神のこの声を聞き、自分のもろもろの罪から立ち返ろうとするならどんなに良いことか! もし主が、あなたに命拾いさせるほど恵み深くあられたとしたら、主の寛容があなたに悔い改めを生じさせるものであるとみなし、主があなたのいのちを救われたのは、あなたの罪を捨てて主へと立ち返るように召しておられるのだとみなすがいい。

 同じ原則が当てはまるのは、それが驚くべき警告となるのではなく、人々が何らかの繊細な情緒に次第に包まれることになるときである。私がいま語りかけている、あなたがたの中のある人々はまだ回心していない。だが、時として、神の家の中で、あなたは非常に奇妙な感じを覚えることがあった。あなたは、まだ現実に祈ったことはないかもしれない。だが、自分も祈れるようにと、ほとんど祈ることはあった。「神が許されるなら私は」、とあなたは云ってきた。「ひとたび家に帰ったら、自分の部屋に行き、神の御前で膝まずこう」、と。あなたがたの中のいかに無思慮な人々でさえ、ひとりきりになったときには、真剣に考えなくてはならないと感じたことが、これまでにあったではないだろうか? 夜眠らずにいる時に、いやでも考えを巡らしたことがあったではないだろうか? 先週この教会に加入しにやって来た、ひとりの警官は私にこう云った。「自分の巡回区域をひとりで見回っているとき、しばしば私は感じるのです。神のことを考えなくてはならない、と。自分の靴音のほか回りに何も聞こえないとき、神が私の本当に近くにいるように思われるのです」、と。よろしい。もしあなたが一度でもそう感じることがあるとしたら、それに身をゆだねるがいい。おゝ、愛する心たち。もしあなたの心が常ならぬほど柔らかにされているのが分かったなら、それに抵抗してはならない! それは、ほむべき御霊が、あなたの強情さやかたくなさからあなたを解放し、新しいいのちへと導き入れに来ておられるのかもしれない。――優しさと愛とのいのちへと。主があなたを引き寄せてくださるときには、走って主の後を追うがいい。繊細な衝動を感じ、優しく引き寄せられるだけで十分とするがいい。というのも、すべてはあなたのためになされているからである。今しも御霊の影響力に身をゆだねるがいい。御霊があなたに命じている間に、イエスを信じて生きるがいい。御霊があなたに、「悔い改めなさい」、と囁いておられる間に、悔い改めて、神に立ち返るがいい。願わくは、神がその無限のあわれみによって、そうさせてくださるように! もはや時間は尽きてしまったが、私は願う。「わたしがこうなるようにしむけたのだ、と主は仰せられる」*。このことばを多くの人が真実に云えるようになり、そのため、ここまで語られたことが永遠に記憶されるように。

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「わたしがこうなるようにしむけたのだ」[了]


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