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贖いの喜び

NO. 2450

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1896年2月2日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「天よ。喜び歌え。主がこれを成し遂げられたから。地のどん底よ。喜び叫べ。山々よ。喜びの歌声をあげよ。林とそのすべての木も。主がヤコブを贖い、イスラエルのうちに、その栄光を現わされるからだ」。――イザ44:23


 人間の精神は、情緒的な緊張のきわみに達すると、それが悲嘆によるものであれ喜びによるものであれ、しばしば全世界が自分に共感しているはずだと考えがちである。それは、宇宙という外套を、自らの霊的性質の衣装として巻きつけているかに思われる。嬉しいときには、星々を煌めかせた衣のように自然をまとう。また、惨めな気分にあるときは、自らの回りの世界にその荒布と灰とを見いだす。知っての通り、この預言者は――預言者であると同じく詩人でもあり――喜ばしいときの私たちについて、こう語っている。「まことに、あなたは喜びをもって出て行き、安らかに導かれて行く。山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす」[イザ55:12]。心が幸せなとき、自然界は、心の内側の音楽に合わせて婚礼の鐘を鳴らしているように思われる。目が澄んでいれば、自然界全体が明るくなるであろう。私たちが喜んでいれば、地上も喜んでいるように見える。逆に悲嘆は、その1つの性質として、回りの世界に自らを転移させることができる。古の大家ハーバートはこう叫んでいないだろうか?――

   「おゝ、誰(た)ぞわれに涙与うや? 来よ、すべての泉よ。
    とどまれよ。わが首(こうべ)と目とに。来よ、雲よ、雨よ。
    われの嘆きは すべてを要せり
    自然の生める 湿れるものを。すべての水脈(みず)よ
    川吸い上げて わが目を満たせ。
    泣き疲れし目 乾き切り
    さらに水路(ながれ)と 給水(おぎない)なくば
    わが身にかない よく支ええじ」。

彼は、自分が泣いていたときには、世界をも自分とともに進んで泣かせようとしていた。そのように他の人々も、自分が嘆くときには世界を悲しませ、自分が喜びに満ちているときには世界を喜ばせた。実は、世界とは一個の大きな風琴であって、人間こそその演奏者なのである。そして、人が喜びや嬉しさに満ちているとき、彼はその小さな指を鍵盤の上に置き、世界を雄大な喜びへと目覚めさせる。あるいは、彼の魂が陰気なときには、哀愁のこもった痛ましい悲歌を弾く。このように外の世界は、内なるもう1つの小世界と足並みを揃えているのである。

 預言者は、これまでこの章で、神が御民のために作り出された大いなる贖いについて考慮してきた。そして彼は、それによってあまりにも幸せで嬉しくなり、あまりにも大喜びし、あまりにも魅了され、あまりにも有頂天にさせられたために、こう云わずにはいられなかった。「天よ。喜び歌え」、と。御使いたちは、共感のまなざしとともに人間を見下ろしていた。「喜び歌え」、と彼は云った。「あなたがた、御使いたち。罪人らも救われることができることを。しかり。すでに救われていることを! こう思って喜ぶがいい。悔い改める罪人らは、そのもろもろの罪を赦されることができるのだ! 喜び歌え。あなたがた、星々よ。一晩中、神の輝く御目のように、このあわれな世界、あなたがたがいなければ闇に閉ざされている世界を見下ろしている者たち! 喜び歌え。神があなたがたの姉妹である星を祝福し、彼女をその沈鬱から解き放ち、あなたがたの誰よりも、あわれみにおいて燦然と光輝かせてくださったのだから! 喜び歌え。おゝ、深甚なる高みの蒼天よ! おゝ、航海されざる天空よ! 歌で揺り動かされ、空間を巨大な口として旋律を発せよ! 喜び歌え。おゝ、天よ!」 それから、こうした崇高な高みから下りて来なくてはならなくなると、彼はを眺めて、こう云う。「地よ、歌をこだまさせよ、こだまさせよ。また、お前たち、地のどん底よ。お前たち、谷間よ、平野よ。百万の手を持つ海よ。地の深みよ、また、そのうつろな洞窟よ。――それらすべてよ、喜びで鳴り響け。なぜなら、エホバは人間を贖い、あわれみのうちに、ご自分のあわれな、過てる生き物のもとに下りて来られたからだ」。それから、あたかも全地が、この幸いな者たちと声を揃えているのを聞き、また、その賛美が、人々の舌にすら制限されるべきではないと感じて、彼は、人には登ることのできない山々のこと、人間の足で汚されたことのない処女雪のことを考えて、こう云う。「喜び歌え。山々よ!」 それから彼は、山々の額が生やしている毛深い森のことを考え、それらにも称賛の歌を歌うよう命じる。――「喜びの歌声をあげよ。林よ! すべての木々よ、旋律を噴き出させよ!」

 あなたには、彼の思想がつかめるだろうか? 見てとっているだろうか? この偉大な詩人-預言者が、大きな喜びの熱情によって、全地を、否、天そのものをさえ呼び覚まし、1つの大きな歌を爆発させようとしていることを。では、その主題は何だろうか? 「主がご自分の民を贖い、イスラエルのうちに、その栄光を現わされる」*ことである。おゝ、私があなたの心の中に喜びの歌をかき立てることができるとしたら、どんなに良いことか。神が御民のために作り出しておられる贖いのために。また、神がこの素晴らしい恵みの行為ゆえに獲得された栄光のために!

 すべての心を喜ばせてしかるべき、3つの贖いがある。その第一は、血による贖いである。第二は、力による贖いである。そして、第三は、この二者を完成させるもの、完璧な贖いである。

 I. 第一のものは、《血による贖い》である。

 あなたはその物語を知っていよう。人は神に逆らって罪を犯してしまっていた。そこで、《正義なる方》、神は罪を罰さなくてはならない。しかし、そのときの合意により、もしもある計画が考案され、それによって正義を満足させることができたとしたら、あわれみは、そのいつくしみ深い意図を自由に働かせて良いことになった。そして、その素晴らしい日に、永遠の知恵は人間に1つの計画を啓示した。神の御子が私たちに代わって苦しみを受け、そのようにして、正義の主張を完全に果たさせはするが、あわれみにもその果てしない、無制限の支配を及ぼせるようにするというのである! 喜び歌え。天よ。これほど慈悲深い方策を考案した知恵ゆえに。喜ぶがいい。地よ。これほど知恵に満ちた計画を組み立てた驚異すべき、また比類なき知力ゆえに!

 このように合意された条件、あるいは、前提部分はこうである。誰かが人間の代わりに苦しみを受けて初めて、人間は罰を免れることができる。《永遠の御子》は、そうすることをお引き受けになるだろうか? 御子は神であられ、その栄光は途方もないものである。御使いたちは、御子をあがめるときその顔を覆う。その御子が、人間となり、血を流し、つばきを吐きかけられ、鞭打たれ、十字架につけられるなどということが可能だろうか? 御子はそうすることをお引き受けになるだろうか? 御子は御父に向かって仰せになった。「今、私はここに来ております。巻き物の書に私のことが書いてあります。わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします!」[詩40:7-8] もう一度喜び歌え。天よ! あなたがたのハレルヤを高く上げよ、あなたがた、御使いたち! 神の御子は、人々の贖いをお引き受けになった! かつては単なる方策にすぎなかったものは、今や1つの契約となった。神の御思いの中にある1つの計画でしかなかったものが、今や御父と御子との間の盟約となった。

 しかし、キリストは、それを引き受けはしたが、それを実行してくださるだろうか? 歳月は巡り来て、世界は老いていったが、それでもキリストはおいでにならなかった。しかし、突然、羊飼いたちが夜その群れの番をしていたとき、上空から1つの声を聞いた。そして、たちまち多くの天の軍勢が現われて、こう歌った。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように!」[ルカ2:14] これは、どういう意味だろうか? それはイエスが、神の御子が、お引き受けになったことを行なうためにやって来られるということである。そして、そこにイエスはおられる。飼い葉桶の中に、布にくるまれて、神は世界にお生まれになったのである。神は人となられた[ヨハ1:14]。造られたもので、この方によらずにできたものは1つもない[ヨハ1:3]というお方が降って来て、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見ることとなった。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である[ヨハ1:14]。だがしかし、私たちと同じように、ご自分の母と同じ実質を持つ人間であった。喜び歌え。あなたがた、御使いたち! かの最初の降誕祭の夜の聖歌を決して歌いやめてはならない。かつては方策であり、それから契約となったものが、今や全く真剣に1つの働きとなり始めたからである。

 この方は、それを行なうために来られた。だが、果たしてそれを成し遂げられるだろうか? 果たしてこの途方もない責務を果たされるるだろうか? 三十と二年間がこの方の上に巡り来て、その間この方は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた[イザ53:3]。しかし、果たしてこの方は、かの最後の、かのすさまじい任務を達成されるだろうか? 果たしてそれを実行できるだろうか? 打つ者にその背中をまかせ、ひげを抜く者にその頬をおまかせになる[イザ50:6]だろうか? 本当に、屠り場に引かれて行く小羊のようになられるだろうか? 果たして、いのちと不滅[IIテモ1:10]の主が現実に犯罪人として死に、借り物の墓に葬られるなどということがありえるだろうか? 私の兄弟たち。それは単にそうなるばかりでなく、すでにそうなっているのである。記憶によみがえせるがいい。あの多くのことが起こった夜のことを。そのとき、ユダは不実な口づけによってこの方を裏切った。ゲツセマネで、この方は血の汗に――あなたや私の罪ゆえに流された汗に――まみれた。あなたには、この方が自らを捕らえた者たちに連れて行かれるのが見えないだろうか? 栄光の主が嘲られ、無視され、嘲笑、嘲り、憎まれ口の的とされ、軽蔑の対象とされているのが見えないだろうか? 「Ecce Homo[この人を見よ]!」 見るがいい。古びた衣――平凡な兵士の外套――に包まれ、背中をむき出しにされて、それが別の真紅に――あの呪うべき鞭打ちによって、そのほむべき両肩から出させられた、この上もなく尊い血の真紅に――染まっているのが分かるこの人を。あなたには見えるだろうか? この方が、あの重い十字架の重量の下でよろめきながら、エルサレムの街路をせき立てられ、追い立てられている姿を。あなたは目に留めているだろうか? この方が、エルサレムの娘たちに涙を止めて、ご自分のために泣くのではなく、自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣くよう命じられている姿を。あなたには見えないだろうか? この方が、仰向けに投げ倒され、その手足を木に広げられ、それから、あの冷酷な釘をその最も繊細な部位に打ち込まれている姿が。あなたには見えないだろうか? 彼らがこの方を、地上と天との真中に掲げ上げ、それからその十字架をその場所に打ち込み、この方の骨をことごとくばらばらにし、この方がこう叫ぶまでにした姿が。「私は、水のように注ぎ出され、私の骨々はみな、はずれました。……あなたは私を死のちりの上に置かれます」[詩22:14-15]。しかり。この方はすべてを成し遂げつつある。エホバの御怒りが次から次へとこの方の上に注ぎ出されている。そして、この方は、そのすべてに対して柔和に頭をお垂れになる! エホバの剣はこの方の心臓に突き刺されつつあり、この方はご自分のその胸を開いてそれを受け入れておられる。あなたのため、そして、私のために! 罪人よ。この方は、これをことごとく行なわれる。これを行なうことがおできになる。行ないつつある。すでに行なわれた。というのも、この方はその頭を垂れて、「完了した」[ヨハ19:30]と云って、霊をお渡しになったからである。最初は1つの目的であり、次に1つの契約となり、それから1つの働きとなったものは、今や1つの成し遂げられたみわざとなっている。イエス・キリストはご自分の民を、ご自分のこの上もなく尊い血によって贖われたのである。

 しかし、人々は、この方のずたずたになった死体を十字架から取り下ろした。それを墓に入れた。果たしてこの方が本当にそのみわざを達成したかどうかは、まだ疑問だった。というのも、達成していたとしたら、神はそれに2つの証印を押してくださるだろうからである。最初は、この方を墓からよみがえらせることによって、次に、この方が天に昇ることによってである。では、見るがいい。信仰者よ。三日目に、この偉大な《眠れる方》は、ご自分の屍衣を解かれた。ひとりの御使いが天からやって来て、かの石を脇へ転がした。そして、被造物である私たちに伴わざるをえない、あわれなむなしさという束縛を解かれたいのちの栄光において、この方は死者の中からよみがえられた。そして、ご自分の姿をその弟子たちや他の者たちに四十日の間お示しになった後で、彼らを橄欖山に連れ出し、彼らと親しく語り、彼らを祝福しながら、天に上って行き、雲に包まれて、見えなくなられた[使1:9]。あなたは、敬神の念に富む想像力を用いて、この雲を通り抜けて行くこの方の後を追って行けないだろうか? あなたには見えないだろうか? 天国の英雄たちが、この方を出迎えて、歓迎する姿が。見えないだろうか? この方の戦車が、この方を待っている姿が。あなたは見つめないだろうか? この方がそれにお乗りになり、彼らがこの方に先立って歌い、とうとう、かの水晶の門に達する姿が。そのとき、門の向こうから見張りの者たちが大声で誰何する。「この栄光の王とは、だれか?」 すると他の者たちが叫ぶ。「門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王がはいって来られる!」[詩24:7-8] しかり。この方は中に乗り入れ、御父の御座へと進み、そこに威風堂々と着座される。この方こそ、万物の上にある神、とこしえにほめたたえられるお方[ロマ9:5]、ひとたびは屠られたが、もはや二度と死ぬことはない《小羊》である。天よ。喜び歌え! また、地よ。喜べ! 達成されたみわざは受け入れられている。完了した行ないは、天によって印を押され、認められている。そして、今や「永遠の契約の血による」[ヘブ13:20]平和があるのである。

 あゝ! 私は、何があなたがたの中のある人々を非常に幸福にするか知っている。もしもあなたが今晩あの十字架のもとに行き、キリストを仰ぎ見て、自分を救ってくださる方として信頼するなら、あなたの喜びは、そのとき言葉に尽くせないものとなるであろう。キリストを信頼しても甲斐がなかった魂は1つもない。あなたは赦罪を受け取るであろう。平安を得るであろう。あたかも天が喜び歌い、地が喜んだかのように感じるであろう。あなたは云うであろう。「ここに私はいる。あわれな、咎ある罪人で、自分自身のものとしては何1つ頼むものがない。だが、私は自分のもろもろの罪がキリストの上に置かれたことを知っている。そして、もしそれらがキリストの上に置かれたとしたら、それらが同時に2つの場所にあることはありえない。必然的に、それらは、私がイエスに信頼しているとき、私の上に置かれているはずがない。それらは主の、あの血を流している背中の上に置かれているのであり、なくなってしまっているのだ。そして、神の《書》の中には、何1つ私を責めるものは残っていないのだ」。おゝ、話をお聞きの愛する方々。もしあなたがキリストを信じるなら、あなたは完璧な罪障消滅を受ける。あなたは司祭から、「Absolvo te」「われ汝を赦す」、と云ってもらう必要はない。キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してない[ロマ8:1]。イエスが死なれた以上、誰が神に選ばれた人々を訴えるのだろうか?[ロマ8:33] もしあなたがイエス・キリストのうちに安らいでいるとしたら、キリストはあなたの一切の負債を払い終えているのである。あなたの借金はない。キリストは、あなたの負債をすべて返済しておられ、あなたは自由である。ならば、魂において幸いになるがいい。あなたの魂が幸いのあまり、その喜びを自然界すべてに乗り移らせ、天と地を自らの嬉しさで喜ばせるまでとするがいい。

 それが、第一の贖い――血による贖いである。

 II. 別の鍵盤を叩いて、その贖いが展開する第二の題目を記念しよう。――《力による贖い》である。

 《救い主》が血を流し、代価を払って贖われた者たちは、徐々に、力によって贖われて行く。神の御霊は、彼らが他の人々と同じように罪を好んでいることを見いだす。他の人々のように、《救い主》の数々の美しさに対しては盲目で、キリストの命令に対してはかなつんぼである。だが、もしキリストがその血によって彼らを買い取ったとしたら、キリストは、決して代価を払ったものをご自分のものとしないでおくことはなさらない。その代価は、あまりにも尊すぎるため、救われもしない者たちのために支払われたはずがない。もしキリストがある魂のためにご自分の血を払ったとしたら、キリストは、その魂をご自分のものとなさるであろう。また、神の誉れによっても、キリストからご自分の買い取られたものが奪われることはなく、これほど高価な代償で買い取られたものを失うことにキリストが甘んじられることはないであろう。

 この第二の贖い、すなわち、回心と新生は、同じくらい、聖なる喜びの対象である。ごく手短に、それを述べることにしよう。いかなる種類の人々をキリストはお救いになるだろうか? 何と、彼らの中のある者らは、最悪の人間たちの中でも極悪の者であった。彼らの中のある人々は、失われた者たちの仲間であった。否、彼ら自身が失われていた。しかし、神の恵みが彼らと出会ったとき、それは彼らを洗い、彼らを新しい人にした。多くの人々は、悪魔軍の士官であった。だが、そうした者らを主は取り上げて、真理のために勇猛な者とされた。おゝ、回心する前のジョン・ニュートンは何という大罪人であったことか! あなたがた、彼の伝記を読んだことのある人たちは、彼がほぼ人間の行ける限りの最果てに行ってしまっていたことを知っているであろう。この主が出会ってくださる前のジョン・バニヤンは何という違反者であったことか! タルソのサウロは何と血に飢えた人非人であったことか! 何と身の毛もよだつような人生を送ってきた盗賊と、キリストは最後の最後に出会ってくださったことか! さて、こうした者らが救われることを思うとき、私はまるでこう云ってかまわないかのように感じる。「天よ。喜び歌え! また、地よ、喜びに満ちよ!」 時として、私たちの教会集会で、ある兄弟たちが自分の過去の生活を物語ってくれるとき、私たちは、中断して歌いたくなることがある。ある人は云った。「私は、礼拝所になど、もう何年も入ったことがありませんでした。礼拝所のことを考えただけで悪態をつきましたし、安息日など一度も顧みたことがありませんでした。そうです。神ご自身の御名そのものを、私は蔑んでいました。ですが、永遠のあわれみが私と出会ってくださったのです」。「天よ。喜び歌え。主がこれを成し遂げられたから。地のどん底よ。喜び叫べ。山々よ。喜びの歌声をあげよ。林とそのすべての木も。主がヤコブを贖い、イスラエルのうちに、その栄光を現わされるからだ」。左様。そして、あなたがたの中のあらゆる者にとって最大の驚異は、神のあわれみがあなたをも救ったことであろう! 私は、神があなたがたの中の誰を救われたことも非常によく分かる。だが、私がしばしば途方に暮れるのは、なぜ神が私などをお救いになるのかということである。おゝ! 自分が天国にいるのを見いだすとき、それは、私たちひとりひとりにとって天の驚異となるであろう。そして、いかに私たちは云うことになるであろう。「天よ。喜び歌え! また、地よ。喜びに満ちよ!」、と。もしひとたび私たちのあわれな咎ある足があの黄金の舗道を踏みしめ、また、ひとたびイエスの尊い血で洗われて、私たちがアブラハム、イサク、ヤコブとともに、天の御国に座ることを許されたならばそうである! おゝ、このような罪人たちが救われると考える喜びよ!

 救われる前の彼らが、このように惨めな状態にあったことは、この喜びをいやまして高めないだろうか? 彼らは福音に偏見をいだいていたが、神はいかに彼らの偏見を打ち倒すべきかご存知であった。彼らは盲目で、福音の美しさを見ようとはしなかった。だが、主は盲目の目を開く、ほむべき方法を有しておられた。彼らの心は花崗岩のように硬かったが、神は、鎚のふるって、その岩を粉々にする方法をご存知であった。まず間違いなく彼らは、自分が回心するなどという考えを馬鹿にしたであろう。だがしかし、彼らは救いに至る変化にあずかることになった。左様。そして、私が注目してきたところ、これ以上ないほどかたくなな人々の何人かこそ、真っ先に出会われる人々であった。最も天来の恵みの対象となる見込みが低そうに見えた人々の何人かは、神の主権に選ばれて、天来の力の驚異とされてきた。ここにこそ、私たちを歌わせ喜ばせるものが存している。なぜなら、盲人が見えるようにされ、耳しいが聞けるようにされ、死人が生きるようにされているからである。おゝ、林よ。このあわれみ驚異について歌うがいい!

 そして、なおもさらに、この魂たちが何から救われたかについて考えてみるがいい。恵みがなければ、灼熱の地獄こそ私たちの割り当て地となっていたであろう。だが、私たちはそこから救われている。私たちは、御怒りの苦い杯を永遠にのまされていて当然であった。だが、私たちは今やそれを一滴たりとも飲むことはない。それから、神の人が何へと救われているか考察してみるがいい。その人は天国へと救われている。光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格が与えられている[コロ1:12]。その頭は冠を戴くことになっている。その手は黄金の竪琴の弦をかき鳴らすことになっている。天よ。喜び歌え! また、地よ。喜びに満ちよ! 地獄から救われ、天国へ掲げ上げられた私たちは、自分たちの歌の低音部を地獄に下らせ、悪霊どもを憤怒のあまり歯ぎしりさせよう。また、高音部は天国へ上らせ、御使いたちをさえ喜ばせよう。彼らが、いかに罪人たちがイエスの御名にあって歓喜しているかを見るからである。

 その力がいかに強大なものではあれ、私たちはしばしば、主がいかに弱々しい器をお用いになるかに、驚嘆せざるをえないではないだろうか? 時として、ある魂がキリストの恵みによって救われるのは、一個のあわれな説教者、それも、多くの者から軽蔑されており、彼自身は卑しく、弱く、力がない説教者を通してなのである。一冊の小冊子や、聖書から引用された一言、あるいは、そうした類のことによって、心が変化させられる。神の御手にあれば、いかなる器も、いかに見込みが低く思われても、ある魂をキリストへと導くことができる。おゝ、天よ。喜ぶがいい。神は、あわれな器を用いてそのみこころを成し遂げることでご栄光が現わされるからである!

 それから、いかにある人々が、一万もの障害物をも尻目に救われるかを見るがいい。あたかも、彼らは、ただ歯の皮だけで逃れる[ヨブ19:20]かのように思われる。あたかも、地獄の悪霊全員が彼らの後を追い、吠え猛る獅子のように口を開いて、食い尽くそうとしていたかに思われる。だが、天来の恵みの手が触れらの上にあり、彼らは救われた。あなたがたの中のある人々は、自分自身にとって完璧な奇蹟ではないだろうか? あなたは、自分がとうの昔に後戻りしてしまっていないことに驚嘆しないだろうか? あなたが、いかなる誘惑を受けてきたか、 また、いかに自分が卑しい心をしているかを見てとるとき、あなたは恵みがそもそもあなたをキリスト者にしたことに、また、今に至るまで義の道に保ってきたことに、驚愕しないだろうか? おゝ! 目に涙を浮かべつつ、私たちが今の私たちであることについて神をほめたたえよう。私たちの心を今晩喜ばせよう。そして、自然界全体が喜んでいるかのようにさせよう。私たちの掘り出された穴[イザ51:1]、また、神の御霊の不可抗の有効な恵みによって私たちが引き出された泥、また、泥濘を思い起こしてそうしよう。

 III. さて、最後に、天と地と山々と林とが挙げる歌は、《信仰者が完璧に贖われるとき》、いかなるものとなるであろう!

 地上にあって、信仰者は今なお誘惑の的であり、生まれつきの罪と激しく葛藤していた。だが、死がやって来るとき、彼は完璧な者となる。そこには、一片の腐敗も、古い人の名残もなくなる。兄弟たち。あなたは、自分がキリストに似た者とされているのを見いだすとき、天地を鳴りどよめかせるではないだろうか? そのとき、あなたは古いアダムがあなたに与えた何物も残っていないこと、むしろ、あらゆる罪がなくなっており、あなたが神の御使いに似た者となっていることを見いだすのである。確かに、天国で聞かれる異な声にもまして歓喜し、喜びに満ちているのは、数々の強固な情動や、根深い堕落性から解放され、完璧に主イエスに似た者とされた人々の声であろう。

 また、そこで私たちは完璧に、この定命の世のあらゆる心労や苦難から自由になることであろう。ずきずき痛む額から汗を拭うことはもうない! 倦み疲れて寝床の上で輾転反側することはもはやない! 思い悩む夜はもはやない! 「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか」[マタ6:31]、などと問うことはもはやない! 「主なる神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる」*[黙7:17]。そこには、もはや何の霊的戦いも争闘もない。死と地獄はもはや私たちを悩まさず、罪人たちが疑似をその不敬虔な会話で腹立たせることはなくなる。

   「嘆きと罪の 世より離れて
    永久(とわ)に神とぞ ともに閉ざさる。
    その祝福は とこしえにあり」。

おゝ、至福に満ちた時よ! おゝ、幸いな瞬間よ。そのとき、――

   「われら近づき、似るなり、神と!」

兄弟たち。この贖いの完成について思うとき、あなたは切に世を去りたいと思わないだろうか? からだは贖われるであろう。それは死者の中からよみがえるであろう。このあわれな、名誉を汚されたからだは、キリストの栄光のからだ[ピリ3:21]に似たものとされるであろう。そして、からだと魂はともに、双子の御使いのように永遠を通じて神の栄光を現わすであろう。

   「そこに 我が倦(う)し 魂(たま)は浸らん、
    天(あま)つ安息(やすみ)の 海の深みに。
    苦難の波は つゆも起こらじ、
    わが安らげる この胸に」。

あなたは、翼があって飛び去ることを願わないだろうか? よろしい。あなたは、もうほんのしばししか、地上に引き留められてはいないであろう。「しばしですと!」、とあなたは云うであろう。「何と、それは何箇月も何年も先ではないですか!」 左様。だが、それが何だろうか? ひとたび過ぎ去ってしまえば、それらは夜回りのひととき[詩90:4]にすぎない。そのとき、あなたはそれらを、いま神がそれらについて考えておられるように考えるはずである。ほんの一瞬でしかない、と。勇気を出すがいい! 忍耐をもって待つがいい。そうすれば、あなたは永遠のすべてをもって歌わせるはずである。なぜなら、主はご自分の民を贖い、イスラエルのうちに、その栄光を現わされるからである。

 悲しいかな! 残念ながら、あなたがたの中のある人々は、このことについては何の関係もないし、それにあずかることもできない[使8:21]のではないかと思う! もしあなたがこの最後の贖いを有したければ、第一の贖いから始めるがいい。信仰が第一である! この代価を――この血を――頼りにするがいい。そうすれば、聖霊が恵み深くあなたに、力による贖いを与えてくださるであろう。あなたの信仰こそ、あなたがそのように贖われている第一の証拠となり、あなたを先へと導いて行くであろう。そして、ついにはあなたは、あの、今の私たちが呻きながら待ち望んでいる、子にしていただくこと、すなわち、からだの贖われること[ロマ8:23]へと到達するであろう。イエスの血によって買い取られ、その復活の力によって、いのちにある新しいものへと生かされ、最終的には、イエスのもとに集められ、イエスのおられる所でイエスと一緒にいる[ヨハ17:24]ようになるとき、イエスの救いの喜びは、大いなる合唱へと膨れ上がるはずである。その中で、天と地とはその大音量の音楽を鳴り轟かせ、一方、私たちの舌はインマヌエルの賛美を永久永遠に歌うはずである。アーメン。

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『われらが賛美歌集』からの賛美――488番、136番(第二の歌)、116番(第三の歌)

 

贖いの喜び[了]


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