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御民のために苦しもうとするキリストの決意

NO. 2443

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1895年12月15日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於サザク区、ニューパーク街会堂


「そして彼らは、没薬を混ぜたぶどう酒をイエスに与えようとしたが、イエスはお飲みにならなかった」。――マコ15:23


 私たちの《救い主》は、十字架に釘づけられる前に、また、十字架上において、何度か異なる種類の飲み物を差し出された。人々が主を十字架上に釘づけている間、彼らは主に葡萄酒、あるいは、苦みを混ぜた酢と呼ばれているもの[マタ27:34 <英欽定訳>]を飲ませようとした。そして主は、それをなめた後で、――主は、なめはした。――、飲もうとはされなかった。主が十字架にかかっていたとき、兵士たちは、主を嘲りながら、主に酸い葡萄酒を差し出した。これは、彼らが日常飲んでいた弱い酒類であり、彼らが嘲笑をこめて主のために乾杯していたものである。そして、再度、主が、「わたしは渇く」[ヨハ19:28]、と云われたとき、彼らは酸い葡萄酒を含んだ海綿をヒソプにはさんで、それを主の唇に差し出した。

 没薬を混ぜた葡萄酒が差し出された折は、私の信ずるところ、こうした残りの場合とは異なっている。この没薬を混ぜた葡萄酒が主に与えられたのは、あわれみの行為としてであった。マシュー・ヘンリーは、これが、あの聖なる女たちによって調合されたものと考えているように思われる。彼女たちは、私たちの主の入り用に、いつでも喜んで答えようとしていた。主がどこへ行くときも、その御足跡に従ってきた。彼女たちの寛大さによってこそ、ユダが預かっていた財布は、普通は必要な分だけ一杯にされていた。それで、その蓄えの中から彼らは、行って自分の《主人》と、その弟子たちのための食物を買えたのである。この聖なる女たちこそ、主の埋葬において、主に塗る香料を用意した者たちであった。そこでマシュー・ヘンリーの考えによると、この女たちこそ、主への同情に駆られて、この没薬を混ぜた葡萄酒の入れ物を備えた者たちであった。それは、主がその苦難のために強められるため、またそうした苦難がある程度まで軽減されるようにするためである。葡萄酒と没薬を一気に呑み込めば、部分的な麻痺作用がもたらされただろうからである。

 この時には、私たちの《救い主》はきっぱりとその杯を拒否された。「イエスはお飲みにならなかった」。苦みはなめたが、これは全くお飲みにならなかった。それを全く相手にしなかった。なぜか? その答えは、私たちの《救い主》の禁欲に見いだされるべきではない。主は禁欲的ではなかったからである。決して放縦ではなかったが、確かに主は決して禁欲的ではなかった。主は、「来て食べたり飲んだりし」ていた「人の子」[マタ11:19]であった。主は、葡萄酒に対して何ら強い反感をいだいておられなかった。主ご自身、それを造ったし、主ご自身、それを飲まれた。「食いしんぼうの大酒飲み」[ルカ7:34]という異名すらつけられた。それは、いわれもない異名であって、単にイエス・キリストが、禁欲的に通常の食物を控えていたヨハネとは対照的に、取税人や罪人たちとともに食卓に着き、宴会を楽しむ者たちとともに宴席に列し、他の人々と同じように食べたり飲んだりしていたからである。また、その理由は、キリストが何らかの意味で痛みを愛していたからでも、無情な虚勢を張っていたからでもないと思う。キリストは、決してそうしたものによって、こう云っていたのではない。「わたしは苦しみたいのだ。だから、この杯は自分から遠ざけることにしよう」。そのような気持ちは、キリストには全くなかった。主は決して必要もない苦しみの道に自ら立つことはなかった。主は決して、その時が来てもいないうちから、敵たちの手にご自分を引き渡そうとはなさらなかった。主は、迫害を避けることが、ご自分の御国の進展を害さずにすむときには、迫害をお避けになった。主はユダヤから立ち去って、その土地を歩こうとはされなかった。主を殺そうとしていたヘロデのためである。私の信ずるところ、もし私たちの《救い主》が贖罪のいけにえでなかったとしたら、また、もし主の苦難が単に殉教者のそれでしかなかったとしたら、主はご自分に差し出された杯を飲み干し、一滴もお残しにならなかったであろう。主がその杯を拒絶された理由は、全く別の事がらの中に見いだされるべきだと思う。

 《救い主》が、この没薬を混ぜた酒杯をご自分の唇から全く遠ざけられた事実には、1つの栄光に富む観念が暗示されている。昔、天国の高みの上に神の御子は立ち、下を見下ろしては、悲惨の深みの最果てがどこまであるかを測られた。御子は、ひとりの人が苦痛と悲惨のどん底に下降するには、どれだけの苦悶を耐え忍ばなくてはならないか、その総量を合計された。そして、こう決意された。ご自分が真実な大祭司となり、しかも、苦しんでいる大祭司となるためには、最高の所から最低の所へ、――「栄光(ほまれ)満つ 高き御座から 災厄(まが)のきわまる 深き十字架へ」、――徹底的に降下しよう、と。この没薬の杯を受ければ、悲惨の究極的な極みに達することが僅かに妨げられたであろう。それゆえ、主は云われたのである。「わたしは中途で立ち止まりはしない。むしろ、徹底して最後まで行こう。そして、この杯がわたしの悲痛を軽くできる以上、まさにそれゆえにこそ、それは飲まないことにしよう。というのも、わたしはすでに、悲惨さをきわめる果てまで行こうと決意しているからだ。わたしはそこまで行き、わたしの民のために、わたし自身の定命のからだによって、受肉した神に耐え忍べる限りの苦しみを耐え忍ぼう」、と。

 さて、愛する方々。私があなたの前に持ち出そうと願っているのはこの事実――イエス・キリストがこの世に来られたのは苦しみを受けるためであり、没薬の杯が悲惨の最低の段階に至る妨げになっただろうために、「イエスはお飲みにならなかった」という事実――である。これからあなたに示したいと思うのは、第一に、このことが、主の生涯全体を通じて、しばしば云えることだったということである。主はご自分の様々な悲惨さを減らすことになっただろう手出てをお取りにならなかった。なぜなら、苦しみを徹底的に受けようと決意しておられたからである。第二に示したいと思うのは、この決意の理由である。そして、第三のこととして、しめくくりに語りたいのは、そこから私たちが学ぶことのできる教訓である。

 I. 《私たちの救い主は悲惨を徹底して受けられた》。主は、あらゆる点で私たちと同じように苦しもうとされた。ほんのかすかにでも和らげたり、軽くしたりすることなく、贖罪の苦悶のすべてを背負おうとされた。さて、これは証明できることだと思うが、キリストの生涯の多くの折々において、主は、人々が誘惑を受けるあらゆる点で誘惑を受けようとし、そうした誘惑の力の極限まで誘惑を受けようと決意しておられた。また、主は、人間に及ぼされる誘惑の力をいささかでも制限するようなものを、受け入れることすらすまいと決意しておられた。その証拠のいくつかをこれから示してみよう。

 最初に、キリストは、あなたや私が危難にさらされるだろうことを知っておられた。それゆえ、主は、ご自分も危難にもさらされること、また、危難から逃れる力をお持ちの際にも、決してそうしないことを決意された。そこに聳え立つ神殿の頂に立っている主を示させてほしい。その目も眩むような高みの、ほんの僅かな足がかりの上に、私たちの《主人》は立っておられる。その傍らには悪鬼がいる。主は宙に浮くようにようやく立っており、神殿の建てられている山を見下ろし、その下の谷間をのぞき込まれる。すると敵が云う。「身を投げて、御使いたちの守りに身をゆだねなさい」。それは、この没薬の杯のようであった。「危難の中に立っていてはいけません。あの約束に頼り、御使いの翼に賭けてみなさい。彼らはその手にあなたを支え、あなたの足が石に打ち当たることのないようにするからです」。しかし、主は、この杯を受けようとしなかったのと同じように、こうした、自らの危難からの救出も受けようとはされなかった。むしろ、そこに主は、ご自分の神に信頼しながら、すっくと立ち、誘惑者が行使させたがった救出手段はお用いにならなかった。それは、主がこの杯を飲もうとされなかったのと全く同じである。

 別の場合を取り上げてみよう。イエス・キリストは、ご自分の民の多くが肉体的必要や、貧困や、災厄に苦しまなくてはならないだろうことを知っておられた。それゆえ、主は飢えを経験された。四十日間の断食の後で、石をパンに変えればご自分の空腹から解放されることができたとき、人によってはこう云ったことであろう。「石をパンに変えて身を養うのは、別段何も悪いことではないでしょうに」。だが、「否」、とキリストは身を切るような空腹に向かって云われた。「わたしは、お前を行ける所まで行かせるつもりだ。わたしは、この石をパンに変えはしない。わたしは空腹に、その持てる力のありったけをわたしに向かって振るわせよう。わたしは、その悲惨さを和らげるつもりはない」、と。主は、悪魔が荒野で差し出した、その、没薬を混ぜた葡萄酒をお飲みにならなかった。彼は石をパンに変えるよう主を誘惑したが、主はご自分の悲惨さを和らげようとはなさらなかった。

 別の場合も告げることにしよう。多くの人々は、自分のいのちを縮めようとしてきた。あまりにも多くの悲惨があり、幸せになる望みがもはやないからである。それで彼らは死を願ってきた。永遠に地の深い所にいられる死産の子であればよかったのにと願ってきた。彼らは死を切望し、死を願ってきた。そして、もしも、名誉をもって死ぬことができるような機会が目の前に現われ、自殺の汚名を着なくてすむということになったとしたら、いかに多くの人々が死という選択肢を受け入れたことであろう! だが、ここにおられる私たちの《救い主》も、同じ状況にある。というのも、主はナザレの丘の崖の縁[ルカ4:29]まで引きずられて行くからである。おゝ、人の子よ。あなたの最も賢明な選択は、この町が立っていた丘の山腹へと突き落とされることですよ! もしあなたが賢明なら、彼らがあなたを真っ逆様に放り投げるにまかせなさい。それで、あなたの一切の悲惨は幕を閉じるのです。あなたの前には、とろ火で焼かれるような迫害の年月が待っており、その後あなたは深甚な悲惨の大水を渡ることになっているからです。あなたは、こうした誘惑が、主の御思いの中で形を取り始めたとは考えないだろうか? 「投げ落とされるままになっていろよ」、と。主は、そのすべてをご存知だった。もし投げ落とされていたとしたら、主は名誉の死を遂げることになっていたであろう。ご自分の国で殺された預言者の死のような名誉の死である。だが、否。「イエスは、彼らの真中を通り抜けて、行ってしまわれた」[ルカ4:30]。なぜなら、主は、この酒杯を拒んだのと同じように、早まった死をも拒まれたからである。それが、数々の悲惨から解放するはずのものであっても関係ない、あなたも注目しているではないだろうか? 私が単にいくつかの例しか示していないということを。あなたは、救い主の生涯すべてを通じて、これが全く同じであることを見いだすであろう。あなたは、主がただの一度たりとも、奇蹟を行なってご自分の肉体的疲労を少なくしたり、ご自分の肉体的な欠乏や必要を軽くしたりすることなく、むしろ、常にこの人生の数々の害悪がご自分の上に力まかせにぶちまけられるままにしておられるのを見いだすであろう。主は一度、風を黙らせたが、それはご自分の弟子たちのためであって、ご自分のためではなかった。主は舟の中で横になり寝込んでおり、波浪がほしいままにご自分を放り上げては沈み込ませるにまかせておられた。主はパンと魚を増やされたが、それは群衆のためであって、ご自分のためではなかった。主は魚の口の中に金銭を見つけることがおできになったが、それは納入金を納めるためであって、ご自分のためではなかった[マタ17:27]。主は、どこに行ってもあわれみを振りまくことがおできになった。――人々の目を開き、彼らの多くを苦痛から救い出された。だが、決してご自分の能力を自らのためには行使なされなかった。風が吹けば、それがご自分の頬の回りを吹きすさび、打ち叩くにまかされた。寒気が厳しくなれば、その寒気が身にしみるにまかされた。例えば、ゲツセマネの園においてそうされた。煩わしい旅をしなくてはならなくなっても、御父が瞬時に行ける所まで、あえて旅をして行かれた。老トマス・スターンホールドは、その見事な詩篇翻訳においてこう云っている[詩篇18篇]。――

   「主は降(お)り給えり 上つより、
    高き諸天(てん)をば 押し曲げて、
    御足の下に 踏み敷くは
    暗き闇なす 大空ぞ。

   「ケルブ、ケルビムに
    君臨(の)りて主は、
    毅(つよ)き翼の 風を御(か)り、
    普(ひろ)き四方(よも)へと 飛び来たれり」。

そのようにイエスは、お望みになればできたであろうが、倦み疲れながら旅を続けられた。主は、井戸から水を跳ね上がらせて御手におさめることもおできになったであろうが、そこに座って、喉の渇きを覚えておられた。ご自分が腰かけておられた石から泉を噴き出させる力をお持ちだったが関係ない。十字架の上では、「わたしは渇く」、が主の叫びであった。だがしかし、そう望めば、ご自分の内側に湧き水の川を開くこともおできになったであろう。主は、他の者たちのためにはそうしてやったのに、ご自分のためには全くそうなさらなかった。あなたも注目する通り、事実、キリストは、そのご生涯のすべてにおいて、ご自分の悲惨さを減らすようなものを何1つお受け取りにならなかった。むしろ、徹底的に悲惨を受け尽くされた。そして、この折に没薬を混ぜた葡萄酒を拒んだように、決して、必要なだけの苦しみを味わう妨げるきらいのあるものをお受け取りにならなかった。

 II. さて、《このことの理由》をあなたに示させてほしい。主は、何らかの意味で苦しみを愛していたがために、このように酒杯を拒まれたのだろうか? あゝ、否。キリストは決して苦しみを愛しておられなかった。主は魂を愛してはおられたが、私たちのように苦しみからは顔を背けられた。決して苦しみを愛することはなさらなかった。私たちにはそれが分かる。というのも、かの園においてさえ、主はこう云われたからである。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」[マタ26:39]。それは、主の人間性が苦しみに反抗してもがいていたのである。そして、人間性がそうすることは正当である。神は、私たちが生まれつき苦しみを愛さないように私たちをお造りになった。そして、私たちが苦しみに対して何がしかの強い反感を感じることは間違いではない。キリストが苦しまれたのは、苦しみを愛していたからではない。ならば、なぜ主は苦しまれたのだろうか? 2つの理由からである。それは、人々を完全に救う贖罪を完成させるためには、こうした極限までの苦しみが必要だったからである。また、「あわれみ深い……大祭司」[ヘブ2:17]としての主のご性格を完成させるためには、こうした極限までの苦しみが必要だったからである。この大祭司は、極限まで悲惨さを嘗め尽くした魂たちに同情できなくてはならない。そのようにして、試みられている者たちを助けるすべを知らなくてはならない。

 最初に云いたいのは、それが贖罪を完全なものとするために必要だったということである。実際、私はこう思う。もし私たちの《救い主》が、この没薬を混ぜた葡萄酒を飲んでおられたとしたら、贖罪が有効なものとなることはなかったであろう、と。思うに、もし主がこの没薬を混ぜた葡萄酒を飲んでいたとしたら、主は絶対的に必要な程度までの苦しみをお受けになったことにはなりえなかった。私たちの信ずるところ、キリストが十字架上で受けた苦しみは、きっかり十分なものであり、ご自分の民の贖いのために必要なものを微量も越えていなかった。ならば、もしこの酒杯が主の苦しみの一部を取り去っていたとしたら、かの贖いの代価には不足が生じ、完全に支払われたことにはならなかったであろう。そして、もしその杯がひとかけらでも取り去っていたとしたら、贖罪は十分に満足の行くものとはならなかったであろう。もしもある人の身代金が払われなくてはならないとしたら、全額が払われなくてはならない。というのも、ほんの一銭でも未払い分があれば、その人は完全には贖われておらず、まだ完全に自由にはなっていないからである。ならば、もしこの酒杯を飲むことによって、私たちの《救い主》が支払われた、かの恐ろしい苦悶の代価からごく微量でも取り去られたとしたら、贖罪は不十分なものとなっていたであろう。――ある程度までしか不十分ではないが、いかに小さな部分であれ、ある程度まで不十分であれば、永久の絶望を招くに十分であったであろう。しかり。あらゆる信仰者に対して天国の門を閉ざすに十分であったろう。一銭残らず払われなくてはならない。冷厳な正義が、その要求の一片たりとも省略することはこれまで決してなかった。また、この場合においても、それはいかなる程度をも免除しなかったであろう。キリストはそれを支払わなくてはならない。この酒杯は、主がそうする妨げとなっていたであろう。それゆえ、主は苦しんで、その苦しみの極限まで行こうとされたのである。主は立ち止まろうとしなかった。むしろ、行き着くところまで行こうとされた。

 さらに私は云うものである。それは、主が同情に満ちた《大祭司》となるためであった、と。人によっては、こう云ったかもしれない。「私の《主人》は、死なれたとき、それほど苦しまなかった。少しは苦しんだが、その酒杯によって、それほど多くの苦しみを受けることにはならなかったのだ。私は、あえてその酒杯に口をつけまい。少なくとも、私の苦しみを軽くするためには、あえて決して飲むまい。それで、私は主よりも多く苦しまなくてはならないのだ。その混ぜ合わされた葡萄酒を私が飲んではならないからだ。そのときには確かに、私の《主人》も私に同情することはできないに違いない。もし私が、良心的な動機から、ある人々が間違っていると考えるような、苦しみの軽減を受けることをせずに苦しみに耐え忍ぶとしたら、そうである」。「否」、と《主人》は云われた。「否。そうは云わせない。もしあなたが慰めなしに苦しまなくてはならないとしたら、わたしはあなたに知らせよう。わたしもまた、慰めなしに苦しんだのだ、と」。あなたは云うであろう。「おゝ、もし私に、自分の災厄を和らげることのできる何らかの没薬が与えられるならば、非常に良いものを!」 「あゝ!」、と救い主は云われる。「だが、わたしには、それが差し出されているのだ。そして、わたしはそれを飲もうとはしないのだ。それは、あなたに見てとらせるためなのだ。わたしが慰めもなく、気付け薬もなく、慰藉もなしに災厄を苦しんだことを。それさえあれば、災厄に耐えられるとあなたが考えているそうしたものが、わたしになかったことを」。おゝ、ほむべき主イエスよ。あなたは、「すべての点で、私たちと同じように、試みに会われ」[ヘブ4:15]ました! あなたの御名はほむべきかな! この没薬の杯は、あなたの胸に鋼鉄の板をまとわせることができたでしょう。それは、多くの苦しみの矢を鈍らせたことでしょう。だからこそ、あなたはそれを脇へやり、むき出しのあなたの心臓に、あらゆる矢軸を突き立つにまかせました。この没薬の杯は、あなたの感情を鋼鉄のようにし、あなたが苦悶の鞭で引き裂かれないようにしたことでしょう。だからこそ、あなたはその鋼をかぶせる影響力、その硬化作用を受け入れようとはなさらなかったのです。あなたは、身をへりくだらせて、一個のあわれな弱い虫けらとなられたあなたは、――「虫けらです。人間ではありません」[詩22:6]、――その苦悶をお耐えになりました。その苦悶を少なくすることも、あなた自身のからだを強めてそれに耐えることもなく。おゝ、ほむべき《大祭司》よ! この方のもとに行くがいい。あなたがた、試みられ、誘惑されている人たち。この方のもとに行くがいい。そして、あなたの重荷をこの方の上に投げ出すがいい。この方はそれを負うことがおできになる。あなたの重荷よりも重い重荷をかつて背負われたことがある。あなたの重荷を主に投げかけるがいい。主の両肩は、それを支えることができるからである。また、かつて何の慰めもなしに悩みを負われた主の両肩は、あなたの悩みを負うことができる。それが慰めのないものであろうと関係ない。ただ、それをあなたの《主人》に申し上げるがいい。そうすれば、主がいささかも同情に欠けたお方ではないと分かるはずである。

 III. さて今、私たちは、この短い講話のため《教訓》として何を云わなくてはならないだろうか?

 キリストは、この杯を差し出されたとき、それを飲もうとされなかった。時として、愛する方々。あなたは、キリストのための苦しみから逃れることができることがある。そして、あなたがそうすることは正しい。もし、あなたの御父があなたを遣わされた使命に害を及ぼさずにそうできるなら、そうである。というのも、御父は、ご自分の御子をこの世に遣わされたのと同じように、あなたをこの世に遣わしておられるからである。あなたには、あなたの使命がある。そして、時には何らかの気付け薬を受け入れるか、危難から逃げるかすると、あなたの高潔な品格を下落させたり、あなたの職務に害を及ぼしたりすることがある。それゆえ、時には、慰藉そのものの杯を拒否すべきである。あなたや私は、キリストと、その御苦しみにおいて交わるよう召されている。ことによると、私たちは仕事のために、軽蔑という苦しみにおいて、キリストと交わらなくてはならないかもしれない。私たちは後ろ指を指される。嘲りのために唇が突き出される。時には、私たちを偽善者、勿体ぶった宗教家、形式尊重主義者呼ばわりするような云い回しが用いられることがある。あなたは、ともすると、こう考えるようになるであろう。「おゝ、こうしたことすべてを避けられればなあ! 逃げ出すことができればなあ」。あなたは、それを避けても同じように忠実にあなたの《主人》に仕えることができるだろうか? できるというなら、その没薬の杯を飲み、悲惨を避けるがいい。だが、できないとしたら、また、あなたの立場が義務ゆえのものであり、あなたの《主人》に誉れを帰すことのできるものであるとしたら、自分の状況を、今よりも容易なものと取り換えるとき、あなたは危難に陥りかねないであろう。あなたが、より用いられなくなるような立場と取り換えるとしたら、そうである。

 「おゝ!」、とある人は云うであろう。「私は、よこしまな人々の間で働いており、彼らの真中で真理のための証しをしなくてはなりません。この場所を今すぐ去ってはいけないのでしょうか? 私は、そこで善を施していると感じます。ですが、嘲りやからかいは耐えきれないほど激しいのです。私の施している善は、私が苦しんでいる悲惨によって、常に相殺されてしまいます」。気をつけるがいい。気をつけるがいい。肉が霊に打ち勝つことになってはいけない。あなたが今の勤め口から去って、別の所へ行くことは、あなたにとって没薬を混ぜた葡萄酒のようなものとなるであろう。それはあなたの苦痛を取り除くであろう。そうする前に長い時間をかけて思案し、よくよく考えるがいい。もしあなたの《造り主》がそこにあなたを置いて、その御名ゆえに苦しむようにされたとしたら、このお方が日々の十字架刑によってあなたを釘づけておられる十字架から降りてはならない。すべての苦しみを受けるまでそうしてならない。また、キリストのためにすべてを耐え忍び尽くすまで、没薬の杯を飲んで逃避してはならない。確か、聖なるポリュカルポスだったと思うが、彼は兵士たちが彼を捕えて牢獄に連れて行こうとしたとき、逃亡した。だが、後に自分がそうしたことが一部のキリスト者たちの心をくじいたこと、また、それが自分の臆病さのせいだとされていることを知ったとき、次に兵士たちが姿を現わした際には、脱出する機会もあったのに、「否」、と彼は云った。「私を死なせてほしい」、と。最初のとき、彼が敵たちの前に闇雲に飛び込んで行っていたとしたら、それは蛮勇であったであろう。だが、生きているよりも死ぬことによって自分の《主人》により良く仕えられると見てとった後で、彼がこの酒杯を飲み、逃亡し、自分の《主人》のために死ななかったとしたら、それは不義なこととなっていたであろう。

 おゝ、私の兄弟たち。私は本当に思うが、多くの気付け薬は、この世によってもキリスト者に差し出されており、それは決して飲んではならないものである。なぜなら、もし彼の《主人》が、ご自分の苦しみにおいてその人と交わりを持とうと願っておられるとしたら、その人は自分の《主人》が望む限りの苦しみを受けるべきだからである。ことによると、あなたは、悲しみに満ちた霊をした人かもしれない。あなたは孤独と孤立へと引き渡されている。いくつかの娯楽を、一部の人々は無害だと云い、それは、まさにあなたにうってつけのものだと告げ、行って、それを取り上げるように願う。あなたは思うであろう。「よろしい。私は、この低い状態にあっては、確かにこうした事がらを取り上げて良いであろう。もし私が幸せで、喜びに満ちているとしたら、そうしたものの必要はない。だが、確かに私の御父は、『父がその子をあわれむように』[詩103:13]私をあわれんでくださるであろう。そして、たとい私がこうした事がらを行ない、単に現世的な慰めのために行なうとしても、私の心は、こうした小さな現世的興奮を持たないとしたら、今にも張り裂けそうに思われるのだ」。気をつけるがいい。気をつけるがいい。それがあなたを妨げる酒杯ではないように。愛する方々。もしあなたの《主人》があなたにその酒杯を――契約の、強固な種々の約束の、キリストにある甘やかな交わりの尊い葡萄酒で満たされた黄金の酒杯を――与えてくださるとしたら、一瞬のためらいもなくそれを飲むがいい。それを飲んで喜ぶがいい。というのも、神はこう云っておられるからである。「強い酒は滅びようとしている者に与え……よ」[箴31:6]。そして、これこそ神が、《救い主》の交わりという黄金の酒杯に入れ、あなたに与えてくださる強い酒である。それを飲んで、幸いになるがいい。しかし、もし人々がそれをあなたに差し出すとしたら、それを飲む前には何度もよく眺めるがいい。あなたがそれを飲むのは正しいかもしれない。それは悪いものではないかもしれない。しかしまた、他の人々にとって無害なものも、あなたにとっては悪いものかもしれない。そして、その娯楽や楽しみをあなたの手に取ることは、私たちの《救い主》が没薬の杯を受けて、それを飲むことに似ているかもしれない。それは、あなたを麻痺させるであろう。あなたが自分の悲惨による教訓すべてを学ぶことを妨げるであろう。あなたの《贖い主》の足取りのすべてを辿ることを妨げるであろう。だが主は、あなたのためにお定めになったすべての悲惨をあなたが通って、ご自分に従って来ることを願っておられる。それらが、主の苦しみにおいて、主と交わる手段となりえるからである。

 これが、今回あなたに私が与えたいと願っている唯一の教訓である。もし主がそれを私たちの思いに印象づけてくださるとしたら、それは私たちにとって役に立つであろう。ただ、こう云わせてほしい。どれだけ多くの人々が、この酒杯が自分に差し出されていたとしたら、それを飲んでいたことか! あなたの《救い主》は、あなたから、あなたの目の種々の願いを一打ちで取り去っておられる。主はあなたから、あなたにとって愛しく近しい者を取り去っておられる。云うがいい。キリスト者よ。もしあなたの前にこの没薬の杯があったとしたら、また、「あなたさえ望むなら、あなたの愛する者は生きるであろう」、と云われていたとしたら、そして、また、取り去られたそのいのちが助かるとあなたに申し出がなされたとしたら、あなたは不屈の精神をもってこう云えるだろうか? 「わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」[ルカ22:42]、と。あなたは、それを押しやって、こう云えていただろうか? 「否。私の《主人》よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください[マタ26:42]。それどころか、たとい飲まずに済まされるとしても、たとい苦しむ必要がないとしても、それでも、もし苦しむことによって私があなたに誉れを帰すことができるとしたら、また、もし私が愛する者を喪うことが、あなたの役に立ち、あなたを喜ばせるとしたら、ならば、そうなさってください。私はその慰めを拒否します。それがあなたの誉れの邪魔になるものだとしたらそうです。私は、あなたの栄光に逆らうものだとしたら、自分の気に入りのあわれみを拒否します。私は進んで苦しみます。あなたの種々の慰藉は気にかけません。それらなしに私がより良くあなたに誉れを帰せるとしたら、私はそれらなしでかまいません」。

 あなたがたの間にいるある人々は、喪服をまとっている。しめくくりとして、ほんの一言、ひとりの善良な人が、ある聖書箇所について語った、非常に美しい思想について語らせてほしい。イエスは、ご自分の祈りの中でこう云っておられる。「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください」[ヨハ17:24]。あなたはなぜ善人たちが死ぬか知っているだろうか? なぜ義人が死ぬか知っているだろうか? 何が彼らを殺すか、あなたに告げても良いだろうか? それはキリストのこの祈りである。――「父よ。お願いします。この者たちをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください」*。それこそ、彼らを天国へ連れて行くものである。彼らは、キリストが彼らの死を祈らなかったとしたら、地上にとどまっていることであろう。ひとりの信仰者が、この地上から天国へと登るたびに、それはキリストのこの祈りによって引き起こされているのである。「さて」、とこの善良な老神学者は云う。「多くの場合に、キリストとその民は、祈りにおいて互いに逆方向に引っ張り合う。あなたは祈るために膝をかがめ、こう云う。『父よ。お願いします。あなたが私に下さった者を私のいる所に私と一緒におらせてください』。キリストもその御膝をかがめて、こう云われる。『父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください』」。それで、見ての通り、一方の者がその人をつかみ、もう一方もそうしている。その人は同時に両方の場所にいることはできない。愛する者は、キリストと一緒にいると同時に、あなたとも一緒にいることはできない。さて、その答えは何だろうか? 2つの祈りを並べてみるがいい。「父よ。お願いします。あなたが私に下さった者を私のいる所に私と一緒におらせてください」。そして、そこにはあなたの《救い主》がいて、彼らがご自分のいる所にご自分と一緒におらせてくださいと祈っておられる。さて、かりに、あなたが自由に選べるとしよう。また、かりに、《王》がその御座から下りて来て、こう仰せになったとしよう。「ここに、二人の嘆願者がおる。彼らは、互いに逆のことを祈っておる。彼らの祈りは明らかに相反している。わたしには、その双方をかなえてやることはできん」。おゝ、その場合、確かにそれが非常な苦しみではあっても、あなたは立ち上がって、こう云うであろうと私は確信している。「イエス様、私の願いではなく、みこころの通りにしてください」、と。あなたは、病んだ夫のために――病んだ妻のために――死にかけている子どものために――いのち乞いをするのをやめるであろう。もしも、キリストがそれとは逆の方向に祈っておられるという考えを悟ることができさえすればそうである。「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください」。

 そして今、私たちは、私たちの《主人》の晩餐に来ようとしている。おゝ、願わくは、《主人》が私たちに、ご自分との交わりを与えてくださるように! キリストを知らない、あわれな罪人たち。あなたに語りかける時間は、ほんの一瞬も残っていないが、覚えておくがいい。あなたと教会との間に今晩設けられる区別は、あなたと教会との間に、かの最後の大いなる日に設けられることになる、すさまじい区別の象徴でしかない。これからあなたは――あなたがたの中のある人々は――上の方の座席に座ったまま、階下を厳粛に見下ろすであろう。覚えておくがいい。地上では、あなたもこれを見ていることができる。だが、天国でそれを見たければ、あなたの心がキリストによって新しく変えられ、あなたがその尊い血で洗われるほかにない。

 

御民のために苦しもうとするキリストの決意[了]


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