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永遠の腕

NO. 2435

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1895年10月20日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1887年10月6日、主日夜


「永遠の腕が下に」。――申33:27


 この短い箇所は、真理の中でも最も豊かな宝を含む、黄金の文章の塊の真中に見いだされる。こうした霊的な富のすべては、神の民の遺産である。――単に、こうした言葉を語りかけられた、神の予型的な民のものというだけでなく、神の真の民――アブラハムの真の子孫――かの、すべての信仰者の父[ロマ4:11]の信ずる子どもたちとなっている者たち――のものである。もしあなたが主イエス・キリストに信頼しているとしたら、あなたはこの尊い言葉を自分のものとして深く胸におさめてかまわないし、それに基づいて生きることができる。あなたは、この上等な肉を食べ、甘い葡萄酒を飲み、それらがあなたの霊にもたらす一切のご馳走を喜んで良い。

 26節から29節まで続く4つの節において注意してほしいのは、神がその御民のいかに間近におられるかということである。神は、私たちの上におり、その天来の御力を私たちの上に張り伸ばしていると述べられている。「エシュルンよ。神に並ぶ者はほかにない。神はあなたを助けるため天に乗り、威光のうちに雲に乗られる」。信仰は、私たちの頭上に響く天の騎兵隊の喇叭を聞くことができる。私たち、主に信頼する者らは常に安全である。神の御使いたちが天の狭間胸壁から私たちを見下ろしており、彼らの出陣を私たちが必要とするときには、いつなりともその威容を現わす準備を整えているからである。それから、本日の聖句は私たちの下におられる神について語っている。神が諸天で私たちの上におられるのと同じように、私たちの下には永遠の御腕がある。その次の文章は、私たちの前におられる神を示している。「あなたの前から敵を追い払い、『根絶やしにせよ。』と命じた」。そして、この章の残りの節は、神を私たちの回り中におられるお方として描き出している。それで私たちは、天と地と海の深みを満たす神の臨在によってばかりでなく、その大能の愛という栄光に富む臨在によっても、神によって取り囲まれているのである。神は上におり、下におり、前におり、私たちの回り中におられる。神は決して私たちをお捨てにならない。私たちは神の中に生き、動き、また存在している[使17:28]からである。それゆえ、私たちは自分たちの主の身近さを喜ぼうではないか。

 I. さて、本日の聖句の聖句に目を向けるとき、私が、神の御霊の御助けのある限り、あなたに注意させたいと思うのは、第一に、《いかなる方面が、このように誉れをもって安全を固められているか》ということである。「下に」。

 「下に」。よろしい。最初のこととして、それは、神秘的な襲撃がやって来る点である。私たちが、暗闇の諸力[ルカ22:53]の攻撃を予期するのは、下からにほかならない。それは非常に尋常ならざる攻撃である。多くの者たちがその攻撃の的となっているが、それを完全に理解している者はほとんどいない。神の多くの子どもたちは、しばしばサタンによっていたく悩まされているが、自分たちを悩ませているのが悪魔だと分かっていない。彼らは、自分から出てきたのではない思念について自分自身を責めている。だが、その出所は地獄の穴であり、それは、かの恐るべき下の世界から煙と火花のように立ち上っているのである。おゝ、愛する方々。もしサタンがあなたをこれまでひどく誘惑し、攻撃したことがあったとしたら、あなたは、そうした誘惑あるいは攻撃の再来に対して、名状しがたい恐れを覚えるであろう。バニヤン氏がいみじくも云うように、人は、たとい垣根や溝を飛び越え、何里遠回りしなくてはならないとしても、このすさまじい敵に出会うよりはましである。彼は、単にこの世を通し、また、肉を通して働くだけでなく、個人的に攻撃する手口を有しており、自らの手によって放つ火矢[エペ6:16]や、彼からしか来ない偽りの告発や、汚らわしい当てこすりを有している。これらすべてによって、彼はキリスト者たちを襲撃し、私たちを窮地に陥れ、時として私たちはなすすべがなくなってしまう。私たちの直下には、恐るべき穴がぽっかり口を開いているかのように思われる。その中からサタンは、その遺棄された堕天使たちとともに上って来ては、私たちに害を及ぼすのである。だが、そこへ、この恵み深い確証がやって来る。「永遠の腕が下に」。この、不可解であるがゆえに神秘的な、また、非常な苦痛をもたらす致命的な矢を放つ敵に向かって、神は一枚の盾を立ててくださった。そして、あなたの下に置いてくださるのである。おゝ、神の子どもよ。神の永遠の御腕を思うがいい! あなたはサタンに誘惑されるかもしれないが、それは、ある程度まででしかない。神は、彼がその極悪非道の力のありったけを繰り出すことをお許しにならない。主がサタンにヨブを苦しめさせたとき、そこには常に1つの但し書きがあった。荒れ狂う海に対するかのように、サタンに対して云われた条件があった。「ここまでは来てもよい。しかし、これ以上はいけない」[ヨブ38:11]、と。神は、悪魔がこの善人をまさに滅ぼそうと望んだ所で、彼を急停止させた。そして、試みられている信仰者よ。それは、あなたの場合も同じはずである。あなたの下には、サタンからいかなる猛攻を受けている折にも、主ご自身の永遠の御腕があるはずである。

 「下に」というこの言葉の二番目の意味に注意するがいい。それは、私たちが日々巡礼している所である。イスラエル人にとって、「下」にあるのは、あのすさまじい荒野の焼けつく砂であった。時として、「下」には燃える蛇[民21:6]がおり、ありとあらゆる種類の災厄があった。それで、カナンに向かう彼らの行軍は、彼らにとって耐えざる試練であった。「しかし」、と神はご自分の民に云われる。「五感によれば、常に焼けつく砂のほか、下には何も見てとれなくとも、信仰によって永遠の腕を下に見てとるがいい」。あなたがたの中のある人々は、日々の労働へと赴くと、自分の奉仕の場が本物の荒野であることを見いだす。試練と、あなたにとって不快なあらゆる事がらが満ちている。だが、天の目薬を差した目で、もう一度見てみるがいい。すると、苛烈な貧困、苛酷な労苦、日々の試練を見る代わりに、あなたは見てとり始めるであろう。そうしたすべての中に神がおられること、また、「永遠の腕が下に」あることを。あなたは、神によって持ち上げられながら、朗らかに天国へと帰郷するはずである。あなたを造ったお方が、あなたを運んでくださる。あなたを愛しているお方が、あなたの年老いた日々にもずっとあなたを背負ってくださる[イザ46:4]。あなたが《神の山》に至り、時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ[ダニ12:13]ときまでそうである。それゆえ、本日の聖句は単に神秘的な襲撃がやって来る点のみならず、日々の巡礼と労苦の場についても当てはまると思う。

 あなたは、この「下に」という言葉が、危険な下り坂のある場所にも関係しているとは思わないだろうか? ある人の人生の中には、時として下降しなくてはならないことがある。山を下ることはそれほど安全にできることではない。一部の人々は、次第に年老いていくことが困難であると分かりつつある。だが、キリスト者にとって、次第に年老いていくことは不可能なことでも、異例なことでもあるべきではない。それでも、人生という山を下って行くことには種々の困難がある。――ことによると、それは非常に物質的な意味で下って行くことかもしれない。不自由のない暮らしから本物の貧困に下ることがそれである。また、あなたの精神的な力が下って行くこととして、以前はあなたの同輩たちに対して有していた影響力が失われていくのを悟ることがある。さらに、あなた自身の過失では全くないのに、自分ではいかんともしがたい状況によって、あなたの評判全般が落ちていく場合もある。こうしたすべては、人間性にとっては非常に辛いことである。知っての通り、天国への途上には、多くの《難儀が丘》がある。そして、勇敢な霊たちは、どちらかというと、そうした丘の頂上へと登って行くことを楽しむ。私たちは、困難で険しい、ごつごつとした通り道を好む。たとい手と膝を使ってよじ登らなくてはならないとしても、そこではずっと上を見上げていることができるからである。そうしたしかたで登って行くことには快いものが伴う。だが、《屈辱の谷》に下って行くときこそ、足を滑らしやすいのである。私たちは下って行くことを好まない。また、多くの馬たちが丘の下で倒れるのと同じく、私の信ずるところ、多くの人々は、ある試練の終わり近くになり、自分はほとんど通り抜けたのだ、それほど足元に気をつける必要はないのだ、と思っている矢先に足を踏み外すものである。よろしい。さて、愛する方々。もしあなたがたの中の誰かが山を下っているところだとしたら、この聖句は非常に甘やかにやって来ると思う。「永遠の腕が下に」。あなたがいかに低く下ろうと、神の愛の御腕がそれよりも下にないことはありえない。あなたは、いやまして貧しくなる。だが、「永遠の腕が下に」ある。あなたは、いやまして年老い、弱って行く。あなたの耳は遠くなり、目はかすんで行く。だが、「永遠の腕が下に」ある。じきにあなたは、――主がすみやかにお戻りにならない限り、――死ななくてはならないであろう。そして、そのときには非常に低く下るであろう。だが、それでも真実に「永遠の腕が下に」あるであろう。

 さらに、私たちはこの聖句を、1つの真剣な関心事に言及しているものとして用いて良いと思う。時として、私たちは互いに云い交わすことがある。「私たちのキリスト教信仰は本物だろうか? 私たちは、自分が主を愛していると思いたい。だが、本当に主を愛しているだろうか? 私たちは自分が主にあって安らいでいると思う。だが、本当にそうしているだろうか? 私たちには、ある程度の喜びと平安がある。だが、それは本当にイエスを信じることを通してやって来ているのだろうか、それとも、それは肉か悪魔の惑わしなのだろうか? 私たちは、天的な道においてここまでは前進してきたが、本当に天国に向かいつつあるだろうか、それとも、これはすべて間違いだろうか?」 兄弟姉妹たち。時々、下を見下ろすことは良いことである。自分の下に何があるか全く見もしない人は、そうすべき大きな理由があるかもしれない。あなたの土台を吟味するがいい。あなたの隅のかしら石が何か見てとるがいい。というのも、もしあなたが砂の上に建てているとしたら、嵐の時には、あなたのご立派な建物はすべて押し流されてしまうだろうからである。この聖句が真実であることが分かるとしたら、大したことである。「永遠の腕が下に」。私が自分の経験を掘り抜いてみると、「永遠の腕が下に」ある。私の種々の喜びを問題とし、自分の種々の悲しみについて自分を吟味してみる。だが、私が下った果てには、神の種々の目的、《いと高き方》の不変の忠実さ、聖書で啓示された永遠の真実さがあるだろうか? あるとしたら、私は全宇宙が休んじて良い所で休んじているのである。私は、ひとりの忠実な神により頼んでおり、不安になる必要はない。自分を吟味することを恐れてはならない。それを恐れるとしたら、自分をためして、試みるべき、ずっと深刻な必要があるかもしれない。調べて見回し、こうした件の底にまで達するがいい。幸いなのは、底の底まで潜ったときに、こう云うことのできる人である。「しかり。永遠の御腕が下にある」、と。

 私は、本日の聖句のこの最初の言葉を、もう1つ別のしかたで用いたいと思う。ここには、いずれ行なわれるだろう異様な発見の秘訣があると思う。現在の私たちは物事が本物であるかどうかが分からない。私たちは、自分の様々な感覚に従い、自分の目が見えるところに従って判断する。それ以外にいかにして判断できるだろうか? しかし、やがて来たるべき日には、物事は、いま見えるところとは非常に異なって見えるであろう。何年もの間、私たちを支配してきた巨大な苦難がある。それは、その濃密な影により、私たちの天的な道を、大部分の間ずっと暗くしているように思われている。だが、来たるべき日には、その苦難の彼方を見通すこととなり、私たちは、「永遠の腕が下に」あることを見いだすはずである。ことによると、私たちの中のある者らは、いたく困惑させられているかもしれない。私たちは、自分に対する主の摂理的なお取り扱いが理解できない。主は、必ずしも常に、ご自分の行動の理由を私たちに告げてくださるわけではない。たとい告げられても、私たちには理解できないかもしれない。だが、主が無限の愛から出た種々の目的を果たしつつあることは、確実だと思って良い。事態が最悪に見えるときでさえ、主が私たちを気遣うことをおやめになったわけではない。私は神の忠実さについて喜んで個人的に証言したい。私は、一部の人々ほど年老いてはいないが、火水を通り抜けて来るほどの年齢は重ねてきた。そして、私はここに、自分が一方によって焼かれることも、もう一方によって溺れることもなかったと証言するものである。あなたがたの中の多くの人々も、同じことが云えるではないだろうか? あなたの最も痛ましい試練の中、また、あなたの最も苛烈な炉の中で、主は特にあなたとともにおられ、あなたに大いなる祝福を授けてくださったではないだろうか? そうである。ならば、主を信頼するがいい。あなたがた、聖徒たち。というのも、主のみことばがあなたに保証していることは、栄光に富むしかたで真実だからである。「永遠の腕が下に」。より深く下るがいい。物事の真の理由を求めて、これまでそうしてきたよりも、ずっと彼方を見つめるがいい。そうすれば、あなたはこの堅固な土台に至るはずである。神は、あなたのための、無限にして永遠の祝福を作り出すために、こうした今の時の軽い患難[IIコリ4:17]を用いておられるのだ、と。

 II. さて第二に注意したいのは、《いかなるしかたで、この方面は安全を固められているのか》である。「永遠の腕が下に」。

 永遠の御腕はそこにある。そして、その意味は、まず最初のこととして、神ご自身が私たちの近くにおり、ご自身に信頼するすべての者たちの永遠の安全を保障しておられる、ということである。もちろん、誰かの腕がある所には、そのひとがいる。そして、神はご自分の御腕と切り離されてはおられない。私たちの喜び、また慰めは、神が私たちとともにおられるということである。神が臨在しておられると信じることによって、いかに信仰は強められることか! かのにせ預言者マホメットでさえ、神に対する――アラーに対する――強い信仰を有していた。そして、最初に逃亡して、たったひとりの友しか伴わずに洞窟に隠れていたとき、彼の連れが云った。「追跡者たちが後を追ってきています。だのに、私たちは二人しかいません」。「黙れ」、とマホメットは叫んだ。「ここには三人いるぞ。アラーがここにいるのだから!」 それは、勇敢で壮大な信仰の発言であった。彼の経歴のすべてが、それと調和したものであったなら、どんなに良かったことか! 神の民が二人いる所ならどこでも、そこには《もうひとりの方》が彼らとともにいる。神がそこにおられるからである。私たちは、しかるべきほどには神を数に入れることをしない。だが、もし私たちが賢ければ、私たちは自分自身をただの零数字にして、こう云うべきである。「《主》がおられない限り、ここには何者もいません。主こそ唯一の真にして個人的な数字であり、こうした零数字を無限に増加させるお方です」、と。ウェスレー氏は、その死の間際に云った。「神我らと共にあり。これ最も良き事なり」、と。そして、それは最も良き事ではないだろうか。神ご自身が下におられるのである。諸天と地を造られたお方は、ご自分を捨てない者たちを捨てることがおできにならない。あなたが神を愛している場合、また、あなたが神に信頼している場合、神はご自分により頼んでいる者を裏切るくらいなら、たちどころに存在をやめるであろう。これこそエホバの栄光である。異教徒たちの神々は、何の値打ちもない偶像だが、私たちの神は祈りを聞き、ご自分の民の叫びに答えてくださる。神を試し、本当にそうかどうか見てみるがいい。幸いなことよ。エホバに信頼する者たちは。というのも、彼らは、あらゆる危急の折に、生ける神のうちに助けを見いだし、あらゆる試練の日のために十分な強さを見いだすからである。それで私たちは見てとるのである。自分には暗黒の深淵、陰鬱で神秘的な地下界のように見受けられるものが、ことごとくエホバご自身によって防護されていることを。「永遠の腕が下に」。

 本日の聖句は、主の不変の目的が従順しつつあるという意味でもある。神の御腕があるところで神は働いておられ、ご自分の恵みの諸目的を成し遂げつつある。この聖句は永遠の腕について語っている。それは、決して尽きることのない強さ、決して自ら誓った目的からそれることのない強さである。おゝ、神の子どもよ。あなたに見えない底の深みでは、《永遠の神格》の天来の力が、常にあなたのために働いているのである! 神の御腕は、あなたに代わって忙しくしている。神は、その腕をむき出しにして、ご自分があなたを守るためにいかに強くあるかを示しておられる。このことを確信しているがいい。神には、ご自分を信じるすべての者に対する愛の目的があり、その愛の目的は永遠に限りなく固く立つ。この世界に、また、この世界をその一部としている大宇宙に、いかなる見かけ上の変化があろうと、ご自分の民を祝福し、彼らを最後まで守ろうという神の無限の決意には何の変化もない。それゆえ、信仰者よ。確かな慰めを受けて、自分にこう云うがいい。「私に起こる一切のことの底には、神の不変の目的があり、神ご自身がそれを展開しておられるのだ」、と。

 神の不変の目的と、神がいついかなるときもあなたのために働かせておられる無限の御力に加えて、本日の聖句は、神の無尽蔵の忍耐がその時を待っていることを意味している。「永遠の腕が下に」あり、あなたの重荷を持ち上げ、それを長大な期間、支えている間、神はあなたのための働きを続けておられる。――目には見えないが、常にあなたのために活動しておられる。あなたは、天国のこちら側で、あなたの神を見ることを期待しているだろうか? だとしたら、失望するであろう。あなたは、見えるところにはよらず、信仰によって歩むつもりがあるだろうか? あるとしたら、あなたには二重の祝福があるであろう。というのも、「見ずに信じる者は幸い」[ヨハ20:29]だからである。おゝ、聖霊なる神があなたをその点へと至らせてくださるように! 神を、その愛する御子というお方において信じ、あなたの永遠の利益に関わる一切の重みを、神があなたの《救い主》として啓示されたお方の上に置いたあなたは、それらをそこに置きっぱなしにしておいて完璧に安全であり、一瞬も懸念や不安を覚えることはない。神の永遠の御腕は、神の永遠の目的を実行するに違いない。その目的のうち1つたりとも、地に落ちることはありえない。というのも、「神は人間ではなく、偽りを言うことがない。人の子ではなく、悔いることがない。神は言われたことを、なさらないだろうか。約束されたことを成し遂げられないだろうか」[民23:19]。神ご自身が、あなたを支え、持ちこたえさせると約束しておられる。それゆえ、神がそのことをしてくださることは確実だと思うがいい。

 III. その件について、これ以上長く語っているわけにはいかない。第三の点についてもう少々云わなくてはならないからである。《時として、この聖句は、信仰者たちにとって非常に尊いものとなる時期がある》。「永遠の腕が下に」。

 そうした時期の1つは、私たちが重い病にかかり、非常に虚弱になるときだと思う。枕はあなたのためにふくらまされ、ありうべき限り最も柔らかくされる。また、えてして固くなりがちな寝床は、親切な指で優しくなだらかにされる。だが、あなたは、はなはだしい消耗のため、死にそうなほど再び沈み込んでしまう。ならば、再び沈むがいい。恐れてはならない。「永遠の腕が下に」あるからである。ことによると、あなたは気が遠くなり、とめどなく沈んでは、沈んで行くように思われるかもしれない。――どこに沈むかも分からない。それでも、「永遠の腕が下に」ある。あなたは起き上がろうとするが、それができない。自分を活動へと引き戻してくれるだろうと思う何かにすがろうとするが、同じ物憂い気だるさと痛みへと再び落ち込んで行く。よろしい。だが、それでも、「永遠の腕が下に」ある。こう感じることは喜ばしいことである。私たちの虚弱さが《全能者》に影響を及ぼし、私たちに何も残っていないまさにそのときに、神はそのあらゆる豊かさをもってやって来て、私たちを持ち上げてくださるのである。神は常に忠実であり、あわれみに満ちておられる。神は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない[哀3:33]。だから、神は、彼らを苦しめ悩ますときには、彼らを強め支える特別な御力を明らかに示される。もしあなたがそうしなくてはならないとしたら、行って床に就くがいい。もし病と病気との倦み疲れる何箇月もがあなたを待っているとしたら、この聖句をもって家に帰るがいい。「永遠の腕が下に」。

 この言葉が非常に甘やかになるのも、いたく苦難を背負わされるか、重い労苦にしいたげられているときではないだろうか? あなたは、自分には二重の強さが必要だと感じて、こう云う。「私は、これ以上続けて行けない。定命の力には耐えきれないものがある。私は、こうした度重なる試練に耐え抜けない。この前こうしたことがあった時、私はそう感じた。もう自分には何の力も残っていないと感じた。そして今やこの感覚が、またもや私のもとにやって来た。私は何をすれば良いだろうか? 私は打ち倒されている。粉砕されている。人々から頭を踏みにじられてきたようだ。私は、町通りの泥のように投げ出されているように思われる」。しかり。だが、それでも、「永遠の腕が下に」ある。私たちは、たった今こう歌った。――

   「汝れ生くかぎり、力は続かん」。

それは真実だろうか、作り事だろうか? 神の民に、その過去の経験について尋ねるがいい。彼らは神が真実であられることを公に承認するであろう。そして、あなたもそれが本当だと見いだすはずである。おゝ、いかに素晴らしいしかたで神の聖徒たちは迫害の下で支えられ、抑圧の下でも朗らかに喜んでいられるようにされてきたことか! 地上で聞かれた最も甘やかな歌が歌われたのは、牢獄の鉄格子の向こう側においてであった。たぶん、こう云っても間違いではないはずだが、定命の心によってこれまで感じられたことのある最も素晴らしい喜びを感じてきた人々とは、翌日には火刑柱で焼かれることになっていながら、しかし、その魂そのものは自らの内側で踊っていた人々であった。それは、神の臨在によって彼らに与えられた、言葉に尽くせない喜びのためである。確か、こう云ったのはソクラテスであった。「哲学者は音楽がなくとも陽気にしていられる」。私は彼の口からこの言明を取り上げ、それを変更した上で、こう云おう。キリスト者たちは、幸福な環境がなくとも幸福でいられる、と。彼らは時として夜啼鳥のように暗い夜に最も美しく歌う。彼らの喜びは単なるうわべだけの陽気さではない。種々の悲しみは彼らに降りかかる。だが、深い底に横たわっているものから、この上もない喜びがいやまして湧き上がるのである。しかり。「永遠の腕が下に」ある。そして、私たちがもはや立つことができないとき、ほむべきことにその御腕によりかかるか、倒れ込むことができるのである。

 すでに告げたように、この聖句が非常に甘やかなものとなる、もう1つの時期は、あなたが山を下りつつあるときである。そして、あなたがたの中のある人々は、まさに今、急速に山を下りつつあるかもしれない。落胆してはならない。「永遠の腕が下に」ある。老年の坂を下って行くとき、あなたは底に何が横たわっているか知るであろう。何と、そのとき、あなたはもう一度上って行くのである。これまで、あなたが一度もいたことがない高みへと上り、あなたの若さは新しくなり、《愛する方》と永遠にともにいることになるのである。

 だから、愛する方々。私は本日の聖句、「永遠の腕が下に」、の適用をこう述べて、今は全く震えおののいている人たちに伝え渡して良いであろう。あなたがたの中のある人々は、ことによると、私が何を意味しているか知っているかもしれない。そこの青年は最近、多少説教することを始めている。だが、彼は云っている。「ぼくは自分が挫折するのがこわいのです」、と。愛する兄弟よ。もしあなたが、告げるべき使信を神から受けているとしたら、それを告げるがいい。恐れてはならない。「永遠の腕が下に」あるからである。あなたは、何人かの青年たちを集めて、彼らの幸いになることをしようとしている。だが、あなたは自分自身の弱さを痛感するあまり、こう云っている。「ぼくは失敗するに決まっています」、と。そう云ってはならない。というのも、「永遠の腕が下に」あるからである。私たちが下って、下って、下って行くときにも私たちを助けてくださるお方は、私たちがご自分への奉仕において上って行くときにも同じように喜んで助けてくださる。私たちが、燃える熱情によって、自分の力以上に大きなことを主のために行なうよう前へと駆り立てられるとき、「永遠の腕が下に」ある。また、もしあなたがより大きな聖さを求めており、より崇高な喜びにあえてひたろうとしているとしたら、もしあなたが、何箇月か前には自分のためには音程が高すぎると考えただろう賛美歌を歌おうと試みているとしたら、大胆になり、思い切って行なうがいい。あなたの翼の羽毛は、飛ぼうとする試みそのものによって生えてくるであろう。恵みの数々の可能性には果てがない。自分をそうした可能性にゆだねるがいい。いつも弱く震えていてはならない。願わくは、神があなたを助けて、一個のダビデのようにしてくださるように。そして、あなたがた、ダビデのような人たちを、主の御使いのようにならせてくださるように!

 もう一言云うと、来たるべき時には、何もかもがあなたの足の下で溶け去り始めるであろう。あれこれの地上的な慰めは、あなたを見捨てて行くであろう。友人たちは、あなたを助けることができないであろう。彼らは、あなたの額にじっとりにじむ汗を拭うことはでき、あなたの唇を水滴で湿らせることはできるが、今からあなたが出発しようとしている大航海にあなたと同行することはできない。心と肉がくじけるとき、そのとき主は、私たちの前にある甘やかな言葉をあなたに語りかけることがおできになる。「永遠の腕が下に」! それは、肉にとっては沈み行くことであろうが、霊にとっては上り行くことである。死に行く聖徒たちの下には、生ける神がおられる。それゆえ、死をすら恐れてはならない。「死ぬこともまた益です」[ピリ1:21]。ある葬儀でのことを思い出す。私たちが、神の聖徒らのひとりのからだを墓に横たえたとき、ある愛する教役者がこう祈った。「主よ。あなたに感謝します。確かに私たちの愛する友は、その墓という低い所に行ってしまいました。ですが、これ以上低い所へ行くことはできません。というのも、『永遠の腕が下に』あるからです。そして、しかるべき時に、あなたは彼を再びその永遠の御腕の中にかかげ上げ、彼の主に似た者へとよみがえらせてくださるからです」。それは、すべての信仰者について真実である。それゆえ、この聖句をあなたの心の奥深くに甘やかに突き入れるがいい。「永遠の腕が下に」。

 しめくくりには、ただこう云わなくてはならない。この場にいるある人々は、まだ救われていない。私は、この聖句によってあなたに、救いの道を例証したいと思う。あなたは自分で自分を救おうと希望している。自分がしてきたこと、あるいは、感じてきたことを頼みにしている。私があなたに望むのは、そうしたすべてを過ぎ去らせ、あなたが持っている、あなた自身から出て来る一切の希望を捨て去ることである。「おゝ!」、とあなたは云うであろう。「ですが、私は倒れてしまうでしょう」。しかり。あなたは倒れるであろう。そして、そのように倒れることがあなたの救いとなるはずである。というのも、「永遠の腕が下に」あるからである。そこにあなたはいる。その窓の所に立っている。あなたの背後では炎が燃え盛っており、あなたは逃げることができない。だが、ひとりの人が下に立っている。その人は、あなたを自分の腕で受けとめることができるだけ強く、こう云っている。「私の腕の中に飛び込め。ためらってはならない」。イエス・キリストは、ご自分の御腕に飛び込んで来る魂が、決して害を受けないようにしてくださる。手放すがいい。人よ。手放すがいい! 他のあらゆるものを手放すがいい。そして、ただイエスにだけ信頼し、このお方に全面的にお頼りするがいい。かつて生きて、死んで、よみがえられ、今は永遠に生きておられる、罪人たちの《救い主》を。その御腕に飛び込むがいい。それは永遠の御腕であり、千八百年前と同じくらい、今も救うに力ある御腕である。主の御腕に飛び込むがいい。願わくは、神があなたを助けてそうさせてくださるように。主の御名ゆえに! アーメン。

 

永遠の腕[了]


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