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回心者たち、そして彼らの信仰告白

NO. 2429

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1895年9月8日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1887年9月4日、主日夜


「ある者は『私は主のもの。』と言い、ある者はヤコブの名を名のり、ある者は手に『主のもの』としるして、イスラエルの名を名のる」。――イザ44:5


 このことが起こるのは、主がその御霊をご自分の民に、また、彼らの子孫に注ぎ出された後である。あらゆる良きもの、恵み深いものの主ぜんまいは聖霊である。御霊が来られるところでは、すべてが生き生きと成長する。だが、御霊が去られるとき、失敗と災厄のほか何もやって来ないであろう。私の信ずるところ、いま現在、神の民は、夜も日も神に叫ぶべきである。清新な、聖霊にあずかるバプテスマがあるようにと。キリストの《教会》のために願わしい事がらは多い。だが、1つのことだけは絶対に必要である。そして、その1つのこととは、御民の真中における聖霊の力にほかならない。あなたも、この祝福を説明している非常に単純な心像のことを知っているであろう。この町のテムズ川の橋の1つに下って行くと、何艘もの艀が泥の中にへばりついているのが見いだされる。そして、それらはいくら押してもびくともしない。それらを動かせるような機械装置を供するのは至難の業であろう。王様の馬が全部でも、王様の家来みんなでも、それはできまい。しかし、潮が満ちるまで待つがいい。今やその黒く重たい古艀がみな、「水面(みなも)歩かん 生き物のごと」。浮かぶものならみな、銀の豊かな流れが戻って来るや否や、動かせるようになる。そのように、わが国の多くの教会は泥の中に横たわっている。すべては静止し、無力に見える。だが、神の御霊が豊かな流れのようにやって来るとき、すべては変わる。それゆえ、祈ろうではないか。――

   「来よ、聖霊よ、来よ」、と。

私も、ある意味で、御霊が常に私たちとともにおられることは分かっている。だが、別の意味では、そうでないことも確かである。御霊はこの経綸の中に宿っておられる。だが、この教会、あるいは、あの教会とともにおられるわけではない。そして、全教会はこう叫ぶ必要がある。「来てください。天来の豊かな流れよ。あなたの大いなる勢いをもってやって来て、私たちすべてを、私たちの霊的な死から引き上げてください」。

 神の御霊がおいでになるとき、回心者たちもやって来る。もし彼らが神の御霊によってやって来ないとしたら、彼らはいなくても良い者たちである。私がこれまで聞いてきた――そして悲しく思った――いくつかの事例によると、信仰復興運動家たちは、何十人、何百人単位で諸教会の人数を増加させてきたが、何年かすると、そのように信仰告白した回心者はひとりも残らないという。もし人々が、単なる興奮の結果として、「私は主のもの」、と云わされるとしたら、普通、彼らが云っていることは真実ではない。また、確かに彼らはそれを真実だと思っているであろうが、すべてのものを試す時間が、彼らの信仰告白の不真実さを明らかにするであろう。私たちとともに神の御霊がおられない限り、真に霊的なわざは決してなされない。そして、御霊がともにおられなければ、いかに強力な信仰復興運動家も、単にやかましい銅鑼やうるさい鐃鉢と同じ[Iコリ13:1]であろう。私たちには、神の御霊がともにおられなくてはならない。もし御霊の臨在があるならば、平凡な教役者の説教でさえ十分、聞く者たちに大きな祝福となるであろう。だが、その御霊がおられなければ、平凡な説教は常にもまして鈍重で平板で生気のないものとなるであろう。そして、教会には人数の増加がなく、すでに教会の中にいる者たちの間には何の熱心さもなくなるであろう。それゆえ、私は切に願う。日夜、神の御霊を求めて祈ってほしい。私たちには健全な教理が必要である。大きな勤勉さと熱心さが必要である。すぐれた聖潔が必要である。――ここで、私たちに必要なものの一覧表を読み上げはすまい。だが、聖霊をいだこうではないか。そうすれば、私たちはこうしたすべてを有するはずである。このことによって、教会にも、個々の信仰者にも、霊的な健康と強さのために必要な一切のものが取り戻されるであろう。

 さて、かりに私たちの祈りがかなえられたとして、また、神の御霊が乾いた地に降り注ぐ豊かな流れのように注ぎ出されたとして、そのとき何が起こるか見てみるがいい。回心者たちが前に進み出て、その信仰を告白するであろう。そうこの聖句は明らかに告げている。

 このことを考察するに当たり、私があなたに注意してほしいのは、第一に、この信仰の告白が個人的なものだということである。「ある者は『私は主のもの。』と言い」、云々。第二に、それは多種多様なものである。というのも、ある者たちはそう云うが、別の者たちは手に『主のもの』と記すからである。そして、第三に、この告白が多種多様なものである一方で、それは非常に恵みに満ちたものである。この表現の内側には、甘やかな水の泉がある。「私は主のもの」。私たちは、そこから、少し水を汲み出し、それを飲んで清新にされたいと思う。

 I. 私たちが切に見たいと願っている回心者たち、そして、神の御霊の導きによって彼らが行なうことになる告白に関しては、こう云うことで始めさせてほしい。《この信仰の告白は個人的なものである》。「ある者は『私は主のもの。』と言い、ある者はヤコブの名を名のり、ある者は手に『主のもの』としるして」。見ての通り、これは合同の告白ではなく、個人的な告白である。それは「ある者」、「ある者」、「ある者」である。

 最初に注意すべきは、キリストを信ずるといういかなる告白も、個人的なものでなくてはならないということである。そうでないものはみな、非現実的で無価値である。真実なキリスト教信仰はみな個人的である。それは、その人自身の心に関わっている。その人は、自分自身の良心によって信仰へと動かされている。その人の信仰は、その人自身の信仰でなくてはならない。その人の悔い改めは、その人自身の罪の悔い改めでなくてはならない。その人がキリストのもとに来ることは、その人自身がキリストのもとへと行くことでなくてはならない。誰も、あなたの代わりにあなたのキリスト教信仰を実行することはできない。信仰を保証する名親のようなものを、現実の、生きた敬虔さの中に認めるべきではない。ここにいるひとりの人は、こう告白しているのである。自分は、あなたがやがてあらゆるものとの――今のよこしまな世の虚飾と空虚さとの――縁を切るようになることを約束します、と。だが、一体誰がそのようなことをあえて約束するのだろうか? もし私が、まだ生まれていない子どもに代わって、その子が赤毛とローマ鼻を持つようになると約束すべきだとしたら、それは、どこかの子が神の子どもになると約束するのと同じくらい道理にかなったことのはずである。私には、そのようなことはできない。そのようなことは、私の力の及ぶところではないし、いかなる人間の力の及ぶものでもない。キリスト教信仰においては、いかなる行為にも、あなた自身が関わらなくてはならない。いかに敬虔な母親があなたのために祈っていようと、あなたが救われるには、あなたが自分で祈らなくてはならない。いかに信仰に満ちた父親があなたに代わって自分の信仰を用いようと、あなたが救われるには、あなた自身が信じるほかない。いくら人が、別の者に代わって信じたり、悔い改めたりできると考えても役に立たない。あなたがたは、ひとりずつ生まれてきたし、ひとりずつ死ぬであろう。そして、それぞれ別個の人格においてキリストの審きの座に立たなくてはならなくなる。あなたがたは、ひとりひとり神の前でへりくだり、自分の罪を告白しなくてはならない。また、私たちの贖いのために十字架に上げられたお方を個人的に仰ぎ見て、個人的に自分を神に明け渡さなくてはならない。自分が個人的に全く知りもしないバプテスマや、自分が意識的に全くあずかりもしないバプテスマは、バプテスマの茶番であり、まがい物ではあっても、聖書的なバプテスマではない。また、あなたが自分自身、全く意識的にあずかっていない信仰の告白は、信仰告白のまがい物ではあっても、聖書的な信仰告白ではない。「ある者は『私は主のもの。』と言」うが、別の人に代わってそう云いはしないであろう。その別の人は「ヤコブの名を名の」るが、この二人がともに、三番目の人に代わって語ることはできない。というのも、その人は前に進み出て、「手に『主のもの』としる」すからである。私の愛する方々。私はあなたに命じる。「あなたがたは新しく生まれなければならない」[ヨハ3:8]ことを理解するがいい。あなたがたは、自分の心をイエスに明け渡さなくてはならない。また、そのことは、あなたに個人的に関わる問題でなくてはならない。国のキリスト教信仰や、家族のキリスト教信仰は、正しく理解されているなら結構なものだろうが、個人的なキリスト教信仰に達さないいかなるものも、人を天の御国に至らせることはないであろう。

 ならば、私たちは、自分のキリスト教信仰が個人的なものであるべきであると主から要求されているのである。福音は私たちのもとに、その切迫した召しとともにやって来る。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう」[使2:38]。罪を確信し、「救われるためには、何をしなければなりませんか」[使16:30]、と尋ねるあらゆる罪人に対して、福音は云う。「主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、あなたも……救われます」[使16:31 <英欽定訳>]。愛する方々。福音はあなたを招いている。この世に、他の人がひとりもいないかのように招いている。また、神のことばは、もしそれがあなたの魂のもとに力をもってやって来るとしたら、あたかもあなたが全宇宙で唯一の人であるかのように、明確にあなたのもとにやって来る。そうでなくてはならない。明確に個人的なものでない限り、いかなるキリスト教信仰も役に立たない。特に、私たちが自分は主の民であると云う信仰告白においてはそうである。

 この個人的な告白は、愛する方々。多くの人々が前に進み出て来るときには、慎重に注意を払う必要がある。私が常に恐れているのは、あなたがたの中の誰かが、群衆に紛れて教会内に入り込むことである。これまで私はしばしば、群衆によってこのタバナクルの中に導かれてきた人々に会ってきた。そうした人々は、どういうわけか流れに巻き込まれ、そこから抜け出さず、抜け出せなかった。彼らは足をすくわれ、この場へと流されてきた。そして、時として、ある時期の諸教会では、個々人が信仰の告白へと流されてしまうように見受けられる。それは、それが流行りだからである。他の人々がそうしている、それでそうした人々もそうするのである。私は切に願う。この件においては綿密な注意を払ってほしい。たといあなたの父上が、母上が、兄弟が、姉妹が、キリスト教信仰を告白するとしても、それは、あなたがそうすべき何の理由にもならない。あなたが真実にそう行なえるのでない限りそうである。もしあなたがイエスを信じていないとしたら、信じていると云ってはならない。自分の友人たちが教会に加わるからといって、前に進み出ることを考えてはならない。自分の状態を調べてみるがいい。私が絶えずあなたに教えなくてはならない教訓の1つは、あなたが個人的に神に対して責任を負っており、信仰と実践に関わるいかなる件においても、あなた自身の個人的判断を行使することが絶対に必要だということである。ある人はこう云うかもしれない。「あなたの司祭が告げることを行ないなさい」。だが、私たちにはいかなる司祭もいない。なぜなら、私たちは、あなたがた全員に祭司となってもらいたいからである。あなたは、祭司の国となるべきである。もしあなたが神の民であるなら、あなたは神の前で、あなた個人に与えられた神の御霊に教えられつつ、自覚的に行動すべきである。そして、私たちはあなたがそうするように切に願う。良いものであれ悪いものであれ、慣習に支配されてはならない。むしろ、私たちは、大勢に従って悪を行なわないよう命じるのと同じくらい、大勢に従って善を行なっていると告白することすら行なわないようあなたに勧告する。少なくとも、あなたがその善を行なっていなければ、また、あなたの実践があなたの告白と一致していなければそうである。信仰復興の時期には常に、この真理を教えるべき大きな必要がある。

 しかし、次に、キリストを信じているというこの個人的な告白を行なうことがあなたに課せられた義務となるのは、前に進み出る者がほとんどいない場合である。私は自分に向かってこう云うべきである。「もしもこの村にキリストを告白する者がひとりもいないとしたら、私が主を告白することは、いやが上にも急を要することだ。もしも教会内に、牧師先生のところへ行って、あなたのおかげで自分はキリストを見いだしましたと告げる者がほとんどいないとしたら、そして私がすでに《救い主》を見いだしているとしたら、私は確かに行くことにしよう。私は牧師先生に、先生が完全に無駄骨折りをしているわけではないと分からせてあげよう。私は先生のために行くことにしよう。もし教会の人数がほとんど増えていないとしたら、私が行くことにして、教会が落胆せずに、そのキリスト教の働きを行なえるようにしよう」。おゝ、私は次のように感じる人々が回りにいてほしいと思う。「人数が多いか少ないかなど私には関係ありません。私は神の前で自分の責任で行動しなくてはならないのです。もし正しいことをする人がほとんどいないとしたら、それこそ、いやが上にも私がそうすべき理由です」、と。先日、ある人が私にこう云った。「私の娘たちは、これこれの礼拝所が流行っているからといって行くのですよ。ですが」、と彼は云い足した。「それは、私には奇妙な理由だと思われるのです。というのも、私が別の礼拝所に行くのは、それが流行っていないからなのですからね」。二、三人の人々とともに正しくあることを身につけるのは、素晴らしいことだと私は思う。ある人々は云う。「何と、あなたは、ひどく少人数ではありませんか!」 しかり、しかり。だが、概して少人数の方が正しいものである。今に至るまで、多数派の方がキリストの側についていたことは一度もない。多数派が神についていたことは決してない。多数派は決して真理とともにあった試しがない。おゝ、愛する若い方々。私は、あなたが常に日和見をしようとすることに耐えられない! 行って正しいことを行なうがいい。決して日和ってはならない。こう云っていてはならない。「私は、他の仲間たちがすることをしなくてはなりません」。むしろ、大胆になり、まさに他の者らがしないことをするがいい。それが正しいことだと信ずるときにはそうである。何と! 英雄的行為は全く絶え果てたのだろうか? キリスト教はもはや殉教者たちを生み出さないのだろうか? そうではないと私は神に信頼したい。むしろ、キリストを告白する者、キリストを信じると告白する者がほとんどいないとき、あなたがたの中の一部の男女がこう感じるであろうと思いたい。「私は自分の十字架を負って、キリストに従って行こう。そして、それをずっと決然と、ずっと公然と、ずっと迅速に行なおう。なぜなら、そうしている者があまりにも少ないのだから」、と。私たちは、自分のしていることに注意していないと、一緒にいる仲間たちのために地獄に陥りかねない。だが、私は、あらゆる大群衆とともに下って行く路を辿るよりは、むしろひとりで天国に行きたいと思う。私たちの《救い主》のことばは今なお真実である。「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです」[マタ7:14]。おゝ、あなたが、その門を小さいなどとは云うまい、その道を狭いなどとは云うまいと決意するならどんなに良いことか。そして、神の恵みによって、その道を見いだし、大多数の者がもっと広い道を好んでいるにもかかわらず、否、それだからこそ、この道を愛するとしたら、どんなに良いことか!

 II. 第二に、《この告白は多種多様である》

 最初に、ひとりの人は、自分のこととして語っている。「ある者は『私は主のもの。』と言」う。これは、立派な言葉である。真実に云われたとしたら、これは、明確に切り取られた大理石の一片である。「私は主のもの」。もしもあなたが、いかなる人々とともにいようと、魂の底からこう云えるとしたら、また、人や御使いや悪霊どもの前でも恥じることなくそう云えるとしたら、神はあなたに高貴な雄弁を授けておられるのである。「私は主のもの」、と。この言葉には、今からあなたに示すように、非常に豊かなものが満ちている。だが、一部のキリスト者たちは、このように明確に公言し、一歩も退かない。ことによると、そうした人々はまだ教会には加入していないかもしれない。彼らはそうすべきである。だが、「私は主のもの」、と云っていることは良い。パウロはマケドニヤのキリスト者たちについてこう云った。彼らは「私たちの期待以上に、神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげ、また、私たちにもゆだねてくれました」[IIコリ8:5]。ある教会に属する権利をあなたが有するのは、まず初めに、あなたが主に属しており、「私は主のもの」と真実に云える場合に限られる。だが、何にもましてほむべきことは、ある人が、このように感じ、このよう云い、死に至るまでこれを守り抜くときである。「私は主のもの」、と。これは高貴な公言である。私は神に祈る。もしもあなたがこれまで一度もそうしたことがなかったとしたら、今、初めてそう公言できるように、と。

 本日の聖句で言及されている次の人は、自分の信仰を異なるしかたで告白した。というのも、その人は、ヤコブの名を名乗ったからである。これは、すなわち、彼が、その最も卑しい呼称における神の民の側につく立場を取ったということである。「さあ」、と彼は云った。「私は、喜んで神の民と患難をともにしよう。彼らが非難されるときには私も非難され、彼らが村八分に遭うときには私も村八分に遭い、彼らが嘲られるときには私も嘲られよう。私はヤコブに属している。ヤコブは常ならぬ人物であり、主のものとなるためにこの世の残りから断ち切られている。そして、私は彼とともに行くのだ」。素晴らしいのは、まず最初に、ある人が自分は主のものだと知ることである。だが、ある人々の場合、この告白はずっと目立った形を取る。彼らは感じるのである。自分も神の民とともにいよう、自分も彼らの十字架を負いたい、自分も神の民がいずこへ行こうと彼らとともに行こう、と。彼らの決意は、あのルツがナオミに告げた勇敢な宣言に似ている。「あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です」[ルツ1:16]。私は、死の床に就いていた、ひとりのキリスト者婦人と語り合ったことを思い出す。彼女はそのとき、ある形の疑いを覚えていたが、それでもこう云った。「私は確かに感じていますよ。主が私を不敬虔な人たちの間には追いやらないだろう、と。というのも、私の好みと習慣はそちらの方にはないからです。私はいつも神の民に間にいるときが一番幸せでしたし、確かに主は私を自分の仲間たちの間に集められるようにしてくださるでしょうとも」。そして、主はそのようになさる。ある話が語られている。――私は、それが本当の話だと信じるものだが、――ひとりのあわれな婦人がおり、長いこと信仰者であった。だが、部分的には精神に失調を来したためだと思うが、次第に意気阻喪して行き、誰も彼女を元気づけることができなくなってしまった。彼女は、死ぬ前に、輝かしい光の中に出てきた。だが、長いあいだ雲の下にいたため、自分は地獄に送られるのだと信じ込んでいた。彼女はそのような運命を何にもまして恐れた。だが、彼女はこのような非常に異様な祈りをささげた。確かに自分は自らのもろもろの罪ゆえに苦しまなくてはならないにせよ、どうか自分のためには、よこしまな者たちが神を冒涜する言葉を聞かずにすむような場所を得させてください、と。彼女は、まるでいかなる形の苦しみも恐れていないかのようであったが、神の御名が汚されることには耐えられないと云ったのである。愛しい魂よ。彼女の安全については何の不安もなかったではないだろうか。罪に対するそれほど聖なる恐れがあり、悪への憎しみがあり、神に対する真の愛がある場合、そのような人々に何が降りかかるかを恐れることはない。さて、ある人々は、最初は自分が主に属していないのではないかと不安を覚えているが、自分は主の民に属したいと云う。彼らは、どうにかして、御民の仲間でありたいと願う。特に、御民が軽蔑されているのを見るときにそうである。そのとき、この人々は前に進み出て、主の民を支持して、こう云う。「私にもその非難を降りかからせるがいい。私も彼らのひとりなのだから」、と。これは素晴らしい精神である。それを私は心から褒めたいと思う。

 しかし、ここには三番目の人がいて、自分の信仰告白をさらに異なったしかたで行なう。「ある者は手に『主のもの』としるして、イスラエルの名を名のる」。私は、この人が誰か分からない。時々、この人は、私と話すことはしないが、手紙を書いて寄こすことを好む人のことではないかと思うことがある。「私には」、とある人は云うであろう。「自分の信仰告白を口で語ることなどできません。ですが、私は座席にすわり、手紙を書くことなら喜んでできるでしょう」しかり。あなたは小心で、おののいており、語ることに遅い。そのことのために、自分を罪に定めてはならない。ある人のことを聞いたことがある。その人は教会の前に出てきたが、一言も語ることができなかった。そして、牧師が彼女にいくつか質問し、ほとんどその答えを口伝えで教えたときにも、何も云えなかった。それで牧師はこう云わざるをえなかった。「愛する姉妹よ。教会は、あなたの信仰について全く判断することができません。あなたは何も云わないのですから」。そのとき、彼女は沈黙を破ってこう叫んだ。「私はキリストのために語ることはできませんが、キリストのために死ぬことはできます」。「おゝ!」、と教役者は云った。「それこそ何にもまさる信仰告白です」。ある人々はこうした種類の人々で、公に語ることはできないであろう。あまりにも小心で、引っ込み思案だからである。だが、彼らは自分の手に「主のもの」と記している。

 それでも、これがこの聖句で言及されている人かどうか私には確信が持てない。どちらかというと、これは、もっと力強い誰かのことではないかと思いたい気がする。単にそう云うだけでは満足できず、それを黒白はっきり、「私は主のもの」、と書き記す人である。書かれたものは残る。それで、その人はそう書き留めるのである。私の知っているある人々は、自分がキリストに属しているという宣言を書き出し、それに署名する。もし彼らがその宣言に何らかの約束を付け加えるとしたら、残念ながら、自らを奴隷状態に至らせることになるのではないかと思う。だが、もしそれがすべてで、彼らが明確にその取引は完了したと宣言し、これから自分は神に属するのだと宣言するだけだとしたら、これは神を信ずる信仰を告白する非常に称賛すべき方法だと思う。もしかすると、私が話しかけている人々の中には、このことを行なったことのある何人かの若い人々がいるであろう。そうした人は、自分がこのように自分の信仰を宣言できるようにされていることに感謝するがいい。また、その信仰を守り抜き、一生の間そこに堅く立つがいい。

 しかし、やはりあなたが注目するであろうように、このように自分の手に「主のもの」と記した、あるいは、書いた人物は、神へと、また、最上の状態にある神の民へと徹底的に向かって行く。というのも、彼は、イスラエルの名を名乗ると云い足されているからである。この件は、ごく平明に云い表わさせてほしい。私の信ずるところ、ある人々は非常に完全なしかたで、また、全く余すところなく自分を神の《教会》にささげる。自分に享受できるあらゆる特権を得よう、自分が達することのできるあらゆる聖潔を獲得しよう、そして、可能な限りの聖別を追い求めて確保しよう、と決意している。彼らは、イスラエルの名を名乗る。彼らは、単に最悪の状態にある神の民に加わるだけでなく、最上の状態にある神の民にも加わろうとする。単にヤコブの名を名乗るだけでなく、イスラエルの名をも名乗る。この教会には、ある種の人々が加入してくる。――それが誰かは指摘しないが、あなたには分かるであろう。――それは、教会に加入するとき、その心のありったけを込めて加入し、自分の全身全霊を傾け尽くす人々である。彼らは自分の時間も、財産も、自分自身も、神の御国の進展のため、キリストのご栄光のためにささげる。それとは逆に、ある人々は、教会に加入しはするし、私たちも彼らの名前を教会員名簿に記載するという栄にあずかりはするが、それがすべてである。というのも、彼らはキリストのために何もしないからである。彼らは私たちの助けとなるよりは、悩みとなる。彼らは、自分が得をしない場合、真っ先に文句を云う人々である。だが、教会の奉仕について云えば、彼らは名簿が読み上げられているとき点呼に答えることができない。そこにいないからである。彼らはこの世で忙しく、彼らの全力はそこにある。彼らはイスラエルの名を名乗らない。幸いなのは、心も魂も主への奉仕にささげるほど主のものである人たちを、主によってその真中に送り込まれる教会である。何年も前に、農業経営の実入りが良かった頃、私が知っていた農場主たちは、自分自身が働く農地を有しており、それから遠距離に別の農地を有していた。それを彼らは、その遠隔農地と呼んでいた。そこから彼らはあまり多くのものを得なかった。そのように、私の信ずるところ、ある人々にとってそのキリスト教信仰は、一種の遠隔農地となっている。彼らはそこからあまり多くのものを得ないし、それにあまり手をかけもしない。むしろ、彼らの世俗的な仕事こそ彼らの自作農場なのであり、そこで彼らは自分の全力をあげて働く。他のことは彼らにとって二義的な重要性しかない。そうした人々は、主にあって自分自身あまり幸せになる見込みはないし、他の人々にとって用いられる者になる見込みも低い。

 このように私は、こうした信仰告白の行ない方が多種多様であることを示してきたと思う。ある人々にとって、それは自分が主ご自身と結び合わされているという明確な公言である。別の人々の場合、それは主として自分が教会に結び合わされているという感覚である。別の人々の場合、それはその2つの混合であり、両者を完璧に高い程度まで至らせることである。願わくは、神が私たちに、こうした最後の種類の回心者たちを多く見せてくださるように!

 III. しめくくりに私は、こう述べたいと思う。《こうした信仰告白はみな恵みに満ちている》。だが、時間が迫っているため、その1つしか扱うことができない。「私は主のもの」という告白である。

 私は、自分がこの言葉について熟考していたときに感じたことを他の人々にも伝えられれば良いのにと思う。この言葉は、何日も私とともにあり、その後で初めて私は、そこから説教しようとあえて考えたのである。「私は主のもの」。あなたは、この言葉が別の箇所で出てきている際の順番を知っているであろう。「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの」[雅2:16]。「私はあの方のもの」の前には、「私の愛する方は私のもの」がある。あなたは、キリストを自分のものとして初めて、自分がキリストに属していると云えるのである。愛する方々。あなたはキリストをすでにつかんでいるだろうか? 主を自分のものとしているだろうか? 主はあなたのすべて、あなたの一切だろうか? そうなっているだろうか? よろしい。ならば、あなたは続けて、「私は主のもの」、と云ってかまわない。

 この、「私は主のもの」という宣言は、非常に実際的な告白である。というのも、もし私が主のものだとしたら、そのとき、私は自分を別の誰かの奴隷としてささげてはならないからである。私は、この世にも、肉にも、悪魔にも仕えてはならない。というのも、「私は主のもの」だからである。もし主が私を買い取っていたとしたら、もし主が私を選んでいたとしたら、もし主が私を召していたとしたら、もし主が私を取り上げ、ご自分の特別な宝としておられたとしたら、私は主のために取っておきのものでなくてはならず、他の誰かに与えられてはならない。これは、私の日常生活全体の中で、私にとって1つの歯止めとなるべきである。もし私が、あれこれの間違ったことを行なうよう誘惑されているとしたらそうである。

 「私は主のもの」と真実に云える場合、それは義務へと強く駆り立てる誘因ともなるであろう。私は主のために生きなくてはならない。単に主のものであることについて口にするだけでなく、私生活の中でもその通りであることを、主とともに行く私の歩みによって証明しなくてはならない。もし私が主のものだとしたら、私は主の御国の進展のために骨折り、主の支配下へと他の人々の魂をかちとらなくてはならない。私は、自分の主のために熱心でなくてはならない。きょう一歩、明日またもう一歩であってはならない。というのも、「私は主のもの」だからである。私は、怠けていたり、役立たずであってはならない。「私は主のもの」だからである。もしこの真理が力強くあなたの心にやって来るとしたら、それはあなたが熱心な働き手となる方へと向かうであろう。自分たちの主の現われの日にさえ、恥じることのないしもべになる方へと。

 しかし、実際的な意味もある一方で、この告白には、1つの甘やかな慰めを与える面がある。「私は主のもの」。悪魔は、私を手に入れたいと願っている。だが、「私は主のもの」であって、彼が私を手に入れることはできない。罪は私を自分のものにしようとする。だが、「私は主のもの」であり、主は私を赦しており、罪の咎から解放しておられる。私は一日に一千回転落しても、それでも「私は主のもの」である。汚らわしいしかたでばかりでなく、決定的なしかたで転落するとしても、それでも「私は主のもの」である。そして、主のものである以上、主はその御手で私を握っておられ、何者も私を主の恵み深い把握から奪い取ることはない。

 「私は主のもの」。これこそ、私の安全と完成との希望である。もし私が主のものだとしたら、主は私のうちで良い働きを始めておられ、私に関して意図された一切のことを成し遂げるまで、中途半端で放り出すことはなさらないであろう。主は、ご自分の御手のわざを気遣ってくださるであろう。聞いた話だが、ギュスターヴ・ドレが、巴里攻囲戦の前に巴里を去ったとき、彼は自分の最も美しい絵の1つを、ある地下室に積み上げた石の下に隠していったという。彼以外の誰もそこにそれがあるとは知らなかった。だが、攻囲戦が終わったとき、ドレはその場所へ急いで行った。というのも、彼は自分の手がけた作品を気遣っていたからである。そして、彼の絵はそこに隠されたままであったが、確かに彼はすぐにそれを掘り出して、完成したに違いない。そして、時として、主の民は、地下室の石の下に下降したように思われることがある。だが、主は彼らを見つけ出されるであろう。もしあなたが主の民だとしたら、主があなたを放り出して滅びるままにすることはないであろう。主はご自分の働きを行ない続け、ご自分の始めた任務を完成させるであろう。そして、あなたは主の知恵を反映させ、主の御力を明らかに示すはずである。

 「私は主のもの」。何と、私はこの告白を1つの賛美歌にしようと思う! 韻は踏まない。そのまま、「私は主のもの」、としておこう。あなたの魂の中でそれを歌うがいい。あなたの心の祝祭鐘を鳴り響かせるがいい。「私は主のもの」、と。私は主にあって死に、御使いのかしらの喇叭が響くときよみがえる。栄光のうちで私の主の御顔を見ることになる。永遠に主とともにいることになる。「私は主のもの」だからである。もしあなたが、自分の心の中にこの甘やかな考えをいだきながら聖餐卓にやって来るとしたら、また、聖餐卓を離れて帰宅し、この真理を実際的にあなたの生き方の中で展開させるとしたら、それはあなたにとって良いこととなるであろう。

 私の愛する方々。私はあなたがた全員が、「私は主のもの」と云えるようであってほしい。願わくは、神があなたがた全員をやって来させ、自分の信頼をキリストに置かせ、キリストをあなたのものとして取らせてくださるように。あなたがそうしたとき、そのときには、ためらわず人々の前に出て来て、主を告白するがいい。願わくは、神があなたを助けてそうさせてくださるように。私たちの主イエス・キリストのゆえに! アーメン。

 

回心者たち、そして彼らの信仰告白[了]


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