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模範的な魂の獲得者

NO. 2423

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1895年7月28日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1887年7月10日、主日夜


「ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは『わたしに水を飲ませてください。』と言われた」。――ヨハ4:7


 これを皮切りに始まった会話は、単にこの女を祝福したばかりでなく、それ以来、他の多数の人々にとって恵みの手段となってきた。というのも、この章と、それに先立つ章とは、神のことばの中でも、最も魂をかちとるものとみなさなくてはならないからである。聖書は、いかなる箇所も、人々の経験の中でそれなりの用途を有しているのではないかと思う。だが、この2つの章は、天来のいのちが開始する際に、非常に非常に大きく祝福されてきた。多くの人々が、新生の扉、また、信仰の門口を通り抜けるように導かれたのは、この二章の中できわめて平明に教えられている真理のおかげであった。

 何の前置きで引き留めることもせず、私はすぐさま本日の聖句で言及されている主題にあなたを導くことにしたい。

 I. ここであなたが前にしているのは、第一に、《模範的な魂の獲得者》である。イエスは、サマリヤの女に云われた。「わたしに水を飲ませてください」。いま私が、この場で語りかけている人々の中には、多くの、魂をかちとることに賢い人々がいる。また私が語りかけている中の、さらに多くの人々は、まだこの知恵を学んではいないが、できるものなら、自分の同胞たちを祝福するため神に用いられたいと切に願っているものと思いたい。ならば、ここには、あなたにとって完璧な模範がある。それを学んで、真似をすることである。

 最初に注目すべきことに、私たちの《救い主》は、模範的な魂の獲得者として、決して控えめでも、よそよそしくもしておられなかった。「イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた」。もし主が魂をかちとることを驚くほど切望していなかったとしたら、人と交わろうとはなさらなかったであろう。また、たといこの女の方が話しかけたとしても、素気ない答えしかせず、彼女との会話を欲していないことを悟らせたであろう。礼儀正しくはありながらも、それと同時に、親しげな交際を押さえつけるようなやり方はあるものである。一部の人々は、ものを凍らせる達人である。そうした人々は、目つき1つであなたを凍らせることができる。あなたは二度とあえて彼らに話しかけることはできない。事実、あなたは立ちつくしたまま不思議に思う。いかにして自分は、厚かましくも、あれほどやんごとなき貴人に話しかけることなどできたのかと! 彼らは明らかに、あなたがた、あわれな者たちが暮らしている世界とは全く別世界に生きている。彼らはあなたに共感することができない。あまりにも善良であるか卓越しているか、あまりにも才知があるか、あまりにも大物なのである。そして、たといあなたが彼らのふるまいに苦情を云わなくとも、あなたは彼らを敬遠し、この先は彼らに近づかない。彼らは、あなたを惹きつけるような人々では全然ないからである。彼らはあなたをその冷たさではねつける。彼らは磁石ではない。たとい磁石だとしても、牽引する力とは全く逆の影響力を行使している。さて、もしあなたがたの中のある人々がそのような心持ちをしているとしたら、主がそこからあなたを引き出してくださるように。だが、そうした状態にある間は、いかなる善を施そうとする試みも行なってはならない。というのも、よそよそしく、冷たく、威厳のある話し方によって魂をキリストにかちとろうとするくらいなら、雪玉で炉を暖めようとする方がましだからである。しかり。そうしたものはことごとく投げ捨てるがいい。何にもましてあなたをひ弱にし、役立たずにするのは、自分の同胞たちから身を遠ざけるようなものを培うことだからである。罪人に近寄るがいい。相手の人に近づくがいい。あなたが、人と交わらない人間ではないことを見せてやるがいい。むしろ、あなたが話しかけている人を兄弟とみなしていることを示すがいい。そして、その人にあなたが共感していること、その人の弱い部分に同情して心を動かされていることを悟らせるがいい。あなた自身も、その人が苦しんできたのと同じように多くの点で苦しんできたことを見てとっているがゆえに、その人と同じ水準にあるのであり、その人と同じ立場に立ちたいと願っていること、その人に善を施したいと願っていることを示すがいい。《救い主》の物腰には、つんとしたものや、木で鼻をくくったようなところが全くなかった。主は、それとは全く正反対であった。子どもたちでさえ、自分が自由に主のもとに行って良いのだと感じた。主は、天候険悪になったときに船乗りたちが船を走らせる大きな入り江に似ていた。彼らは、あたかもそれが自分たちのために誂えられているかのように感じる。キリストの御顔の顔つきそのもの、その目の輝きそのもの、主にまつわる一切のものによって、人々は、主がご自分ひとりのために生きているのではなく、他の人々を祝福したいと願っておられることを感じた。それゆえ、井戸の傍らに座っておられたイエスのうちには、あなたが見習うべき、模範的な魂の獲得者がおられる。そして、この方は、あわれな堕落した女に向かって話しかけるほどに、身をへりくだらせておられたのである。

 次のこととして、私たちの《救い主》は、積極果敢で、機敏であられた。主は、女がご自分に話しかけてくるのを待つことなく、自ら彼女に語りかけられた。「わたしに水を飲ませてください」、と主は云われた。彼女が井戸から水を汲み終わるのを待ったりなさらなかった。彼女が立ち去ろうとするときまで待って、彼女に次のように云う弁解を与えはしなかった。「ぐずぐずしているわけにはいきませんの。私は水を持って帰らなくてはならないのです。日差しも暑いですし」。むしろ、彼女とその水がめを見るや否や、主は彼女への頼み事によって会話をお始めになった。「わたしに水を飲ませてください」。真の魂の獲得者は、銃猟に出かけた人のようなものである。彼は寝ぼけまなこではない。猟鳥が姿を現わすとき、それが飛び立つまで待って逃したりはしない。彼は油断していない。羽根一本、木の葉一枚が動いただけで、自分の猟銃を構え、いつでもすぐ行動に移れるようにしている。抜け目のない猟師は、鳥たちが目覚める前の早朝から自分の網をかける。鳥たちが最初に動き始めるときに、彼の苦心の仕事に捕らわれるようにするためである。そして主イエスも、愛に満ちた知恵によって、ご自分のわざに取りかかられた。主は、たちまちこの女をお取り扱いになった。ご自分の休んでいた井戸のもとに彼女がやって来るや否や、彼女に語りかけ、すぐにその話をキリストと、彼女自身の罪に関わる事がらへと導かれた。そして、キリストが彼女を自らの罪から引き上げ、他の人々の回心のために用いられる者とすることのできる道についてお語りになった。

 残念ながら、あなたがたの中のある人々は、そうすることができないのではないかと思う。あなたは、自分は控えめすぎるのです、と云う。私は、いかにしばしばあなたがたに告げてきただろうか? それほど「内気な」兵士は銃殺になる、と。戦闘は継続中なのである。あまりにも慎み深く、内気なために戦いの後方へと下がって行くような者は、人々から臆病者と呼ばれ、銃殺されるのである。私は、あなたを臆病者と呼んだり、銃殺したりしようとは思わない。それでも、あなたがそれほど後方に引っ込まないでほしいと願う。魂が滅びつつあるというのに、控えめで内気でいては何にもならない。泳ぐことができるのに、同胞の人が沈んでいくのを見捨てる人は、次のように云っても弁解にならない。「私は、内気すぎて、あの人のもとにしゃしゃり出ることができませんでした。あの方の招待状も持っていませんでしたし、紹介状もなしにずかずかと前に出て行きたくはなかったのです。それで、私はあの人が溺れるままにしたのです。それは非常に残念だと思います。ですが、それでも私は出しゃばりなことはしませんでしたよ」。あなたは、人々が罪に定められるままにしようというのだろうか? この町にいる膨大な数の人々が、自分のもろもろの罪の中で滅びて行くがままにしようというのだろうか? そうだとしたら、神があなたをあわれんでくださるように! 問題は、「この場合、ロンドンはどうなるだろうか?」、ではない。問題はこうである。「あなたは、どうなるだろうか? 人々が自分のもろもろの罪の中で滅びて行くにまかせて、彼らを救い出そうと試みもしなかったあなたは?」 攻勢に転じるがいい。それまで会ったことがなく一面識もなかった人にも、イエスと同じように語りかけるがいい。何の気なしに、たまたま出会った婦人にも、主がそうしたように語りかけるがいい。彼女が決してあなたから話しかけられたくないと思っているとしても、語りかけるがいい。すぐに言葉を発するがいい。そして、あなたのキリスト教が、あらゆる機会をとらえて即座に善を施そうとするような、積極果敢なキリスト教であるようにするがいい。ならば、ここにはあなたのための、いかに模範的な魂の獲得者がおられることであろう!

 次に、《救い主》は大胆ではあったが、賢明でもあられた。私たちのほむべき主が、この女に語りかけた際の知恵は、いかに称賛しても決して十分ではない。それは、彼女がひとりきりでいる時であった。もし他の誰かがその場にいたとしたら、主は、ご自分が云ったようなことを彼女に仰せになることはできなかったであろうし、彼女も決して自分が告げたようなことを主に対して告げはしなかったであろう。必要だったのは、この対話が内輪のものとして持たれることであった。しかし、おゝ、あなたがた、熱心さのあまり無思慮になってしまう人たち。あなたがた、魂を喜んでかちとろうとしているが、分別があり思慮のある人ならみな自然と覚えるべきである配慮もなしにその務めを行なおう試みる人たち。このことを覚えておくがいい。キリストは二人きりでこの女と話をされはしたが、それは白昼の最中、昼の十二時の井戸の傍らであった。もしも一部の人々が、《救い主》ほど思慮深くあったとしたら、今までと同じくらい熱心であってかまわなかったであろうに。このような女の場合、私はあなたに、《救い主》の驚くべきへりくだりと同じくらい、その知恵をも覚えておいてもらいたいと思う。ユダヤ人の指導者ニコデモを相手にした場合、主は夜にお話しになった。だが、サマリヤの遊女を相手にした場合、主は昼間にお話しになった。魂の獲得者は、自分の回りを警戒する。働きに取りかかる計画を賢明に立てる。ある種の魚は、荒れた海でしか餌に食いつかない。ある種の人々は、夜においてのみ捕えるべきである。そして、また、他の人々は、昼間においてのみ捕まえるべきである。あなたが祝福しようと求めている人々の場合に自分を合わせるがいい。私は、何の危険も冒さないほど思慮深くあれ、とは云わない。だが、私は云いたい。不必要な危険は冒さないように思慮深くあれ、と。特に、ある特定の困難な場合においてはそうである。《救い主》が、このような人物と話を交わすのに選ばれた時間は、これ以上ないほどすぐれたものであった。あなたは、たちまち見てとるであろう。たとい弟子たちは、主とこの女が話をしていることに驚いたとしても、主の方で、それが井戸の傍らで、真昼に行なわれるようにされたことは、無限に賢明なことであったということが。おゝ、魂の獲得者たち。あらゆる手段を用いて魂をかちとるがいい! あなた自身の評判が危険にさらされるとしても、彼らをかちとるために必要なら、喜んでそうするがいい。だが、だが、そうすることは必要ではない。あるいは、通常は必要ではない。そして、そうしたことは、必要でない限り決して行なわってはならない。あなたの《救い主》は、あなたのために賢明な模範を示しておられる。人々と単独で話をするという点で主に従うがいい。私は、あまりにも公衆を相手に話をしているために、ことによると、個人的な会話に自分を合わせる力が多少とも落ちているかもしれない。だが、時として私が、これまで行なってきた中で最もうまく行く働きを行なうのは、公においではなく、個人的にである。ある食卓に着いていたとき、私は、ひとりの青年に気がついた。全く赤の他人ではあったが、私がこれから説教することになっている場所まで一緒に行ってくれないかと頼んだ。道を知らなかったので、同伴を頼んだのである。路を歩きながら交わした、二言三言で、彼はキリストのものにかちとられ、それ以来、彼は熱心に福音を掲げ、非常に用いられる働きをしている。私は、その日の説教によって誰かが救われたかどうかは分からないが、その路上での会話によってその人が回心したことは分かる。私の知っている、ひとりの伝道者は、その公の奉仕において用いられているが、彼が宿を取る家々においても、その家人たちに対して大いに用いられている。ほとんどあらゆる場合に、その教役者の息子か娘たちは、彼がその家を立ち去る前に回心しているのである。あるいは、召使いか、訪問者が、彼との個人的な会話によってかちとられるのである。私はそうした種類の働きを嬉しく思う。おゝ、願わくは、私たちがみな、こうした、人々と個別に語る技術を学ぶならどんなに良いことか! だから、私はもう一度あなたに云う。ここには、模範的な《魂の獲得者》がおられる。その実例の真似をするがいい。

 《救い主》がどのようにこの女と話し始めたかに注目するがいい。「イエスは『わたしに水を飲ませてください。』と言われた」。釣りをしているとき、毛針を魚の鼻先に放り込むのは必ずしも賢明ではない。その魚を少しこちらの方向へ、それから別の方向へと泳がせるがいい。すると、おそらくすぐに当たりが来るであろう。そのように、《救い主》は彼女にこう云って話をお始めにはならなかった。「あなたは罪深い女ですね」。おゝ、何たることか! よほどの初心者でもない限り、そのように口火を切りはしないであろう。また、主はこう云ってお始めにもならなかった。「さて、女の方。わたしがメシヤです」。よろしい。それは真理だったではないだろうか。しかり。だが、それが最初にやって来るべきではなかった。主は、こう云ってお始めになった。「わたしに水を飲ませてください」。主は、最初に彼女の注意を引いて、彼女の思いに影響を及ぼさなくてはならなかった。それから、彼女の良心を探り、彼女の心を変えるという、ずっと周到な働きがやって来るのである。

 イエスが口にされたのは、非常に当たり前の、平々凡々な頼み事にすぎなかった。「わたしに水を飲ませてください」。あなたがたの中の誰しも、そう云ったことはあるかもしれないが、主が用いたように用いたことはなかったであろう。だが、それは賢明に選ばれたことばであった。というのも、それは、その女の考えていたことにぴったり添っていたからである。彼女は水を汲むことを考えていた。それでイエスは彼女に、「わたしに水を飲ませてください」、と云われたのである。もしも、自分のためか、他の人々のための飲み水を汲みにやって来た人に話しかけようとしているとしたら、水や飲むことにまさって適切な比喩や表現方法はありえなかった。

 それに加えて、それは、この上もなく意味深長な表現であり、豊かな意味がぎっしり詰まっていた。「わたしに水を飲ませてください」。その内側には多くのことが含まれていた。それによって《救い主》は、彼女に対して語ろうとしていたことを、いくらでも自由に語ることがおできになった。彼女の霊的な渇きについて、ご自分が彼女に注ぐことのできる生ける水について、また、その水が彼女の中にとどまり、泉となり、彼女が汲みに来た水とは違って、彼女とともにどこにでもついて来るものであることについて、また、それによって彼女の内側では絶えず永遠のいのちへの水が湧き出ることについて語ることがおできになった。それで、私たちは、いかに賢明に会話を始めるべきかについて学ぼうではないか。一見すると平々凡々ではあるが、たやすく、より高貴な事がらへと至れるようにすることである。

 模範的な《魂の獲得者》としての《救い主》は、次のような点でも見習われるべきだと思う。すなわち、のっけから主は、障壁を打ち壊された。主イエスは明らかにユダヤ人の服装をしておられたし、この女はサマリヤからやって来ていた。さて、たちまち両者の間には1つの障壁ができあがった。というのも、ユダヤ人はサマリヤ人とつき合いをしなかったからである。私たちの主は、彼女にこう云って、その城塞を打ち壊された。「わたしに水を飲ませてください」。他のいかなる表現も、これほどうまくそうできはしなかったであろう。というのも、人々とともに飲み食いすることは、東方の流儀によると、彼らと交わりを持つことだったからである。それゆえ、「わたしに水を飲ませてください」は、主から一切のユダヤ主義を振り落としてしまった。主をこのサマリヤ人から隔てるだろうものはなくなった。もしあなたが人々をキリストのものにかちとろうと努めるとしたら、常に隔てとなるような一切のものを打ち壊そうとするがいい。あなたは裕福な人だろうか? よろしい。私は、あなたが労働者に語りかけるときに、金剛石の指輪をきらめき閃かせているとしたら、魂を回心させることができるとは信じない。あなたは、科学的な人だろうか? さて、あなたが非常に好んでいる十七文字熟語、それは用いてはならない。むしろ、ごく平易で素朴なことを云うがいい。あるいは、あなたはたまたま何らかの政党に所属しているだろうか? その問題を持ち出してはならない。そうしたしかたであなたが魂をかちとることはないであろう。むしろ、ずっと偏見や反感をかき立てることになるであろう。もし私が仏蘭西人に話をするとしたら、心から自分が仏蘭西人であれば良いのにと思うであろう。もし独逸人をかちとりたければ、できる限り、その民族に特有の性格を知りたいと願うであろう。私は、英国人であることを決して恥じるつもりはない。だが、もしも阿蘭陀人かズールー族になることによって、より多くの魂をかちとることができるとしたら、喜んでいかなる種類の民族性をも身につけるであろう。それで人々の心に達することができるとしたらそうである。そして、私たちの主イエスが、この女に、「わたしに水を飲ませてください」、と云われたとき、主はまさにそのような精神でものを頼まれたのである。主は、ユダヤ人であるという高貴な威厳をお沈めになった。――というのも、よく聞くがいい。ユダヤ人は神の貴族だからである。――イエスは、その人間性においてさえ、地上の高貴さという点からすると最も古く、最も高貴な種族の出身であられた。だが、主はその威厳を捨てて、このサマリヤの女と話をしようとされた。彼女は合いの子でしかなかった。彼女の種族の氏素性は誰にも得体が知れなかったからである。彼らは、そうすることで何か利があると見ればユダヤ人のふりをしようとし、ユダヤ人が何らかの種類の困難に陥ると、異邦人のふりをした。しかし、イエスは彼女を鼻であしらうことをせず、ご自分よりも劣っているのだなどとは毛ほどもほのめかそうとはなさらなかった。《救い主》が魂をかちとられた以外のしかたでは、決して魂をかちとることはできない。願わくは、神が私たちに、いかにして彼らをかちとれるかを教えてくださるように!

 第一の点、模範的な《魂の獲得者》については、これで十分に違いない。

 II. さて、もうほんのしばらくの間だけ、私たちの天来の主また《主人》を別の光に照らしてはっきり示したいと思う。今度は、模範的な《魂の獲得者》としてではなく、《へりくだりの王者》としてである。主は、私にはきわめて思いやりに富んだお方であると思われる。――この、私たちのほむべき主、神の御子、《創造主》、神から最初にお生まれになったお方はそうである。

 主は、疲れて、喉の渇きを覚えながら、井戸の傍らに座っておられた。あなたは、主がほとんど今にも卒倒しそうになっていることが見てとれないだろうか? これはいかなるへりくだりであろう。主は、一杯の水すら有さず、あるいは、それを手に入れる手段も有さないほど窮乏しておられたのである。あらゆる泉の《造り主》、雨の鍵の《所持者》、大洋の主でありながら、しかし、主が飲み水を必要としておられるのだろうか? あなたの主、また、私の主は、ここで何と身をかがめておられることか! 主が、「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません」[ルカ9:58]、と云ったとき、主はすでに非常に低い所に来ておられた。だが、今や水すら、――私たちの回りにおいては、あまりにもありふれたものであり、丘々からせせらぎとなって流れ、谷間を勢い良く進んでいる水すら、――その水すら、主から逃げ去っており、主は、「わたしに水を飲ませてください」、と云われるのである。あなたの主をほめたたえるがいい。おゝ、あなたがた、主を愛する人たち。主の御足に口づけし、その驚くべきへりくだりに驚嘆するがいい。

 次に私が主のへりくだりに驚嘆するのは、主が単にこれほどの窮乏に陥ったばかりでなく、飲み水を求めるほどへりくだられたということである。願い事を聞くお方が、願っておられる。ご自分の贖われた者たちの叫びに耳を傾けるお方、また、その威光ある満ち満ちた豊かさによって御手を開き、あらゆる生き物の必要を満たすお方が、この女に仰せになるのである。「わたしに水を飲ませてください」、と。おゝ、《主人》よ。いかにあなたはご自分を窮乏させ、いかにご自分をへりくだらせたことでしょう。ご自分の被造物の1つに物を乞い、一口の水を願われるとは!

 そのへりくだりへの称賛がさらにいや高くなるのは、《主が》彼女にそれを願われたことを思うときである。これは、五人の夫を持ち、今は夫でもない男と一緒に住んでいる女なのである。それでもイエスは彼女に云われた。「わたしに水を飲ませてください」。あなたがたの中の、一部の善良な婦人方は、菜箸ででも彼女に触れたいとは思わないではないだろうか。また、あなたがたの中の、一部の善良な殿方は、彼女と反対側の道を通りすぎるのではないだろうか。しかしながら、イエスは、単に喜んで彼女にものを与えようとするばかりでなく、喜んで彼女からものを受けようとされた。主は、一個のサマリヤの罪人から恩義を受けようとされた。それで主は彼女に云われたのである。主の靴の紐を解くことさえふさわしくないような者に向かってである。――バプテスマのヨハネは、彼にはそうする値打ちもないと云ったが[ルカ3:16]、彼女に何をする値打ちがあっただろうか?――それでも、イエスは、彼女にさえ云われた。「わたしに水を飲ませてください」、と。

 それから、さらに主のへりくだりに注意したいのは、彼女が主に向かってつっけんどんな答えを返した時である。その答えは、ことによると、礼儀正しい口調ではあったかもしれないが、実質的には拒絶であった。主は彼女をお咎めにならなかった。彼女にこう仰せにはならなかった。「おゝ、お前は残酷な女だ!」 しかり。叱るような言葉1つ、眼差し1つ、主は彼女に発されなかった。主が求めておられたのは、井戸の中にある水ではなかった。主は、彼女の心を手に入れようとし、現実にそれを手にお入れになった。それゆえ、主は彼女に語り続けられた。これは美しい聖句ではないだろうか? 「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい」[ヤコ1:5]。そのように、《救い主》はこの女を咎めることばをおかけにならなかった。彼女は、自分で自分を咎めるように導かれるはずだったが、それは彼女の罪ゆえである。彼女は、《救い主》が通られたときの、不親切さのために咎められてはならなかった。

 キリストのへりくだりの絶頂はこのことにある。主は、彼女が主から頼まれたことを行なわないように導いたが、彼女が自分の罪を告白するように導かれた。主は、「わたしに水を飲ませてください」、と云われたが、明らかに、彼女はその水がめを下ろすことも、主がそれをご自分の口に当てることもなさらなかった。その御口がいかにひび割れていようと関係ない。だが、主は彼女が自分の罪を、また、ご自分に対する彼女の信仰を告白し、走って人々を呼びに行くように導かれた。そして、こうしたすべてによって、主は、他の人々が知らない食物を食べ、飲み物を飲むこととなった[ヨハ4:32]。主はひとりの魂をかちとられたのであり、このことが、倦み疲れていた主を清新にしていた。もはや主が疲れていたとは一言も書かれていない。というのも、主は死んでもかちとろうと望んでおられたものを受けていたからである。主は、大いなる御父のもとに立ち返る一個の心を受けていた。ご自分に信頼する一個の魂を見いだしていた。

 私は、今よりもうまく説教するしかたを知って、あなたを私の《主人》のもとへ導けるようになりたいと願う。それは、あなたがこの方に栄光を帰してほしいと思うからである。私は、十字架の上におかかりになっている際のこの方を、また、その栄光に富む《再臨》において再び来られるだろう際のこの方を、これまでしばしばあなたの前に描き出そうと努めてきた。だが、今はしばし、疲れて井戸の傍らに座っておられるこの方を、あなたにはあがめてほしいと願う。主がいかなる際にもまして麗しいのは、その低さのうちにある場合である。主は、その白い馬に乗って戦いに出向かれる際には壮大なものをまとっておられる。だが、私たちはそうしたすさまじい威光の幻から後ずさりし、主がこのように身をへりくだらせておられる際の主の愛へと惹きつけられる。主は、ご自分を無にして[ピリ2:7]、堕落した女と話をされた。このようにへりくだっておられる主を見るとき、私は主を愛し、主を畏敬し、主を称賛し、主をあがめる。今そうしようではないか。

 III. 話をしめくくる前に、第三の点を取り上げたい。相当短く切り詰めなくてはならないが、決して真剣さに劣りはない。それは、このことである。あなたは、模範的な《魂の獲得者》、また、へりくだりの《王者》を見てきた。いま注意してほしいのは、《恵みがいかなる働き方をするか》である。それを今晩のこの箇所で見てみよう。

 さて、あなたはこの場にやって来ている。愛する方々。救われるためにやって来たのではない。おゝ、しかり! そのようなことを、あなたは毛頭考えてはいない。あなたは、この場所を見にやって来た。群衆がやって来ては、福音の教役者に耳を傾けているという建物を眺めにやって来た。しかり、しかり。だが、だからといって、あなたが祝福を受けるべきでない理由にはならない。というのも、この女がやって来たのは、単に水を汲むためだったからである。「ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た」。彼女は、イエスに会いたいとも、イエスから学びたいとも思っていなかった。単に水を求めて来ただけであった。サウルは父親の雌ろばを捜しに行って、王国を見いだした[IIサム9-10]。そのように、あなたは、自分が決して求めてもいなかったものを見いだすことがありえる。また、自分が一度も求めたことのないお方から見いだされることがありえる。聞くがいい。あなたの耳を開くがいい。ことによると、あなたに恵みの日が訪れているのかもしれない。そして、大きな銀の鐘が、あなたの救いの時を打ち鳴らしているのかもしれない。私は、そうであってほしいと望む。それはありえる。あなたが、そのことについて全く考えていないとしてもそうである。あなたは回心していない。キリスト者ではない。だが、この世で善を施したいと思っているではないだろうか。あなたは、何らかの親切な行為、何か気前の良いことを行ないたいと願っている。私はこれまで、まだ主を知っていなかった非常に多くの人々の中に、そうした思いが生ずることを知ってきた。ある人々は、回心していない人には献金を求めようとしない。私は求めたいと思う。というのも、私の《主人》は、回心していない女、しかも非常な罪人に向かって、「わたしに水を飲ませてください」、と云われたからである。神の《教会》のために何事かを行なうことは、あなたがたの中のある人々にとって、永遠の益となることがありえる。あなたは、自分が何をしているかも分からないうちに、何らかの親切な行為によって、自分をゆだねていることになることがありえる。私は、あなたがそうなることを願う。

 ひとりの人物をかちとるしかたは、必ずしもその人に善を施すことではなく、その人から善を施されることでもありえる。イエスはそれを知っておられた。それで主は、「わたしに水を飲ませてください」、と云って話をお始めになったのである。だから、時として賢明なことは、――そして、いま私はそれを試してみようと思うが、――あなたがたの中のある人々に向かってこう云うことである。「あなたは、何か善を施したいと思っているではないだろうか。あなたは、何らかの親切な行動を行ないたいと思っていないだろうか」。よろしい。注意するがいい。今晩この場には《主人》がおられる。そして、このサマリヤの女のもとにやって来られたのとほとんど同じ叫びをもってやって来ておられる。イエスはあなたに云われる。「わたしに水を飲ませてください」。「おゝ!」、とあなたは云うであろう。「私がキリストに何を飲ませることができるでしょうか? もしキリストがここにいるとしたら、喜んで飲ませてあげたいと思います。これは間違いないことですが、もし私が自分の田舎家の扉にいて、キリストが埃っぽい日に通りかかったとしたら、私は喜んで井戸の取っ手を回して、桶一杯の水を汲み上げるに違いありません。私は回心していませんが、そうすることでしょう」。よろしい。愛する心よ。あなたはそうしてかまわない。私は、あなたがそうしてほしいと思う。キリストの御心そのものを清新にできるのは、あなたの特権である。もしあなたが罪人でないとしたら、そうすることはできないであろう。だが、咎ある罪人である以上、あなたにはそれができる。あなたの咎と罪そのものによって、あなたは主を清新にする可能性を有している。「どのようにしてです?」、とあなたは云うであろう。何と、あなたの罪を悔い改めることである。罪と縁を切り、罪を捨て、罪に背を向けるがいい。「ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちがいる所に喜びがわき起こるのです」[ルカ15:10 <英欽定訳>]。それは、御使いたちが喜ぶとは云っていない。疑いもなく、彼らも喜ぶとは思うが、こう云われている。「神の御使いたちがいる所に喜びがわき起こるのです」。すなわち、御使いたちは、ひとりの罪人が悔い改めるときのキリストの喜びを見るのである。彼らは、それをかぎつけて、それに注目する。もしあなたが悔い改めの涙を一滴こぼすとしたら、もしあなたの心の中に自分の罪ゆえの恥辱の念があるとしたら、もしあなたの魂の中に罪から逃れようという決意があるなら、あなたはキリストを清新にしているのである。

 次に、いかに咎ある者ではあっても、あなたは救いをキリストに求めることによって、キリストを清新にすることができる。主はこの女に仰せにならなかっただろうか? 「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう」[ヨハ4:10]。そこで、彼女はイエスに云った。「先生。……その水を私に下さい」[ヨハ4:15]。それが主を清新にしたのである。今ただちに、あなたの魂の中でそれを主に求めるがいい。おゝ、願わくは、聖霊なる神があなたを説き伏せて、そう行なわせてくださるように! 主に向かって、自分を救ってくださるよう叫ぶがいい。こう云うがいい。「主イエスよ。私をお救いください。私は小娘にすぎませんし、無頓着な者です。ですが、私をお救いください」。「私は、ただの無思慮な若僧です。ですが、今晩、私を救ってください」。そうすることによって、あなたは主に飲み物を与えたのであり、すでに主は清新にされているのである。何にもまして甘やかな一飲みは、主がキリストであること、神が主を遣わしたのはあなたを救うためであることをあなたが感じ、そして、主によって救っていただこうととしてあなた自身をゆだねる時である。

 いま主を信頼するがいい。願わくは、善なる御霊が今あなたを導いて主を信頼させてくださるように! そのようにして、あなたは主を清新にするであろう。罪深い魂がやって来て主を信頼するとき、それが、主の一切の傷に対する、また、主の死にすら対する、報酬となる。私は、ひとりの人の話を聞いていたときのことを思い出す。その人が野原を歩いていたところ、一羽の小鳥が彼の胸に舞い込んだという。彼には、なぜこの生き物がそこにやって来たのか理解できなかったが、上を見上げると、そこにはその鳥を追って来た鷹が舞っていたという。それで、この小さな鳥は、隠れ場を求めてこの人の胸に飛び込んできたのである。あなたはどう思うだろうか? この人は、その小鳥を引き裂いただろうか? 否。むしろ、彼はそれを安全に守ってやり、鷹がいた所から連れ出してやり、それから再び自由にしてやった。主イエス・キリストは、あなたが主を信頼するなら、あなたに対して同じことをなさるであろう。罪はあなたを追いかけている。主の御胸に逃げ込むがいい。そこにいる以外にあなたは安全ではないからである。ひとりの偉大な王のことを聞いたことがあるが、彼は自分の王家の大天幕を張っていた。それを移動させようとしたとき、一話の鳥がやって来ていて、そこに巣をかけていたことに気づいた。彼は情け深い王だったため、その大天幕は絹で作られていたのに、自分の兵士たちに命じて、その鳥の雛が孵り、飛べるようになるまで、天幕を解体しないようにさせたという。私は、このように行動する君主の気前の良さを非常に好ましく思う。だが、私の主は他のいかなる君主にもまして高貴で、親切な《君主》であられる。おゝ、気前の良さにかけては主はいかなる《君主》であろう! あわれな鳥よ。もしあなたがあえて主を信頼し、主が住んでおられる大天幕にあなたの巣をかけるとしたら、あなたも、あなたの希望も、決して滅ぼされることはない。むしろ、あなたは永遠に安全である!

 おゝ、話をお聞きの愛する方々。私があなたをキリストのもとに導くべきしかたを分かっていればどんなに良いことか! 今は暑い夏の晩であり、ことによると、あなたは私の話に疲れてしまっているかもしれない。だが、私は、もしもあなたをイエスのもとに導けるとしたら全く気にならないであろう。おゝ、私がこの説教からも実を得られればどんなに良いことか! 先週、私は、――こう云っても良いと信じるが、――何百人もの人々と会って、その話を聞いた。過去何年かの間に、印刷された幾多の説教によって《救い主》に導かれた人々である。だが、そのとき私は思った。「しかり。神はまことに私を祝福してくださったし、印刷された説教を祝福してくださった。だが、私が欲するのは現在の実なのだ。また、いま罪人たちがキリストによって近づいて来て、永遠に救われるのを見たいのだ」、と。私があなたに語っているすべてのことは単なる夢か、作り話でしかないのだろうか? ならば、それをあなたのもとから振り飛ばし、それをも私をも軽蔑するがいい。だが、もしそれが真実なら、また、もし私があなたに告げているのが真の救いでしかなく、真の《救い主》でしかないとしたら、来て、それを得るがいい。いま来て、この方を信頼するがいい。というのも、主はご自分のもとに来る者をひとりとしてお捨てにならないからである。願わくは、これがあなたがたの中の多くの人々にとって事を決する時とならんことを。私たちの主イエス・キリストのゆえに! アーメン。

 

模範的な魂の獲得者[了]


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