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キリストの誕生

NO. 2392

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1894年12月23日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於サザク区、ニューパーク街会堂
1854年12月24日、主日朝の説教


「見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。この子は、悪を退け、善を選ぶことを知るころまで、凝乳と蜂蜜を食べる」。――イザ7:14、15


 ユダ王国は危殆に瀕していた。ふたりの君主がユダに敵対して同盟を結び、2つの国がユダを滅ぼそうと立ち上がっていた。アラムとイスラエルが上って来てはエルサレムの城壁を攻め立て、それを跡形もなく破壊し、ユダという君主国を完全に滅ぼそうとしていたのである。王アハズは、非常な苦境の中で、町を守るために才知の限りを尽くした。彼が頭を振り絞って考えた計略の中でも、好適と思われたのは、上の池の水を断ち切ることであった。そうすれば、包囲軍は水不足のため難儀するであろう。そこで彼は朝早く出かけた。疑いもなく廷臣たちに伴われて、上の池の水道へと向かい、水の流れをふさいだ後を見ようとした。だが、見よ! 彼は何事かに遭遇している。それは彼の計画を甲斐のないもの、無用にするものであった。イザヤが進み出て、彼に告げるのである。これらの燃え木の煙を恐れてはならない、神はユダに逆らい立ったこの二国を完全に滅ぼされるのだから。アハズが今回の侵攻を恐れる必要はない。彼も彼の王国も救われるからである。王は信じられないという目でイザヤを眺めた。それは、こう云わんばかりであった。「たとい主が天から戦車を遣わしてくださるとしても、そのようなことが起こりえようか? 主がちりを動かし、エルサレムにあるあらゆる石を生かして私の敵どもに抵抗させるとしても、それが可能だろうか?」

 主は、王の信仰の小ささを見て、しるしを求めるように告げておられる。「しるしを求めよ」、と主は云われる。「よみの深み、あるいは、上の高いところから。太陽を十度あとに戻すことでも、月をその真夜中の行進の途中で止めることでも、星々が壮大な行列を組んで天空を横切ることでも。あなたの望みのままのしるしを上の天に求めよ。あるいは、もしも良ければ、下の地を選び、深みにそのしるしを放たせよ。どこかの大竜巻を大海原の上で道に迷わせ、空中を伝ってエルサレムの城門まで来させよ。天に、それが通常したたらせる水流の代わりに黄金の雨を降り注がせよ。羊毛が乾いた地面の上で濡れるように、あるいは露に濡れた地面の上で乾いているようにさせよ。あなたの望み通りの願いを、何であれ主は、あなたの信仰を堅くするためにかなえるであろう」。この申し出をアハズは、本来すべき通りにあらゆる感謝をもって受け入れる代わりに、謙遜さを装い、自分は求めません、わが神、主を試みません、と宣言した。それに対してイザヤは憤慨し、こう告げている。しるしを求めよという神の命令にあなたが従順でない以上、見よ、主ご自身が彼にしるしをお与えになる。――単なる1つのしるしではなく、このしるしである。世界のしるしと不思議、神の最も強大な奥義と、神の最も完全な知恵との目印である。というのも、「処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける」からである。

 本日の聖句として私が取り上げた箇所は、神のことば全体の中でも最も難解な箇所の1つであると云われてきた。そうかもしれない。私はそうとは全く考えていなかったのだが、注解書を読み、それについて注解者たちが語っていることを見てとるに及んで、完璧に混乱させられてしまった。ひとりがあることを語ったかと思うと、もうひとりは別の人が語ったことを否定していた。何か私の好むことがあっても、それはあまりにも自明であるため、ある人から別の人へと写し取られ、彼ら全員に受け継がれていた。

 一組の注解者たちが私たちに告げるところ、この箇所は、この預言がなされた後、数箇月以内に生まれるはずの何らかの人物についてのみ言及しているのだという。「というのも」、と彼らは云う。「ここには、こう書かれているからである。『まだその子が、悪を退け、善を選ぶことも知らないうちに、あなたが恐れているふたりの王の土地は、捨てられる』」。「さて」、と彼らは云う。「これはアハズが求めた即座の解放であった。また、そこには、迅速な救出が約束されていた。すなわち、数年も経たないうちに、また、その子が善悪のわきまえもつかないうちに、アラムとイスラエルはどちらともその王土を失うというのである」。よろしい。これは、豊かな意味に満ちた素晴らしい箇所を、奇妙にも全く愚かなしかたで台無しにすることのように思われる。そして私は、彼らがいかにしてその見解を実証できるのか見当もつかない。なぜなら、福音書記者マタイはまさにこの箇所を引用してはキリストの誕生に言及し、こう云っているからである。「このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。『見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる』」[マタ1:22-23]。実際、私は、生まれることになっていたこのインマヌエルが、単なる一個の人であって、それ以外の何者でもない、などということはありえないという気がする。次の章に目を向け、8節を見ると、こう云われているからである。「それは……ユダに流れ込み、押し流して進み、首にまで達する。インマヌエル。その広げた翼はあなたの国の幅いっぱいに広がる」。ここでは、1つの統治がインマヌエルに帰されているが、これは、もしここで語られているインマヌエルを、シェアル・ヤシュブだの、マヘル・シャラル・ハシュ・バズだの、あるいは、他のイザヤの息子の誰かれだのであると考えるとしたら、ありえなかった話である。それゆえ私は、この件についてこうした見解を否定する。それは、私が思うに、この偉大な議論の高さには及びもつかない見解である。それは、この重大な箇所の下に横たわっている驚嘆すべき深みの半分も語っておらず、私たちに語らせもしない。

 さらに私が見いだすところ、多くの注解者たちは、16節を14節、15節から切り離し、14節と15節だけをキリストについての言葉とし、16節はイザヤの子シェアル・ヤシュブについての言葉だとしている。彼らによると、そこには2つのしるしがあるという。1つは処女がみごもって男の子を生み、その子がインマヌエルと名づけられること。これはキリストにほかならない。だが、第二のしるしは、この預言者の子シェアル・ヤシュブであって、彼についてイザヤはこう云っていたのである。「この子ども、私が今あなたの前に連れて来ている子――この私の息子が善悪をわきまえるようになる前に、それほど早くに、今あなたがたに逆らい立っている2つの国は、その王土を失うであろう」、と。しかし、私はその説明が気に入らない。なぜなら、この1つの節においても、他の節と同じ子どものことが語られているのは全く明らかであると思われるからである。むしろ、その子が――私が語ってきたこのひとりの子が――インマルエルが――、「悪を退け、善を選ぶことも知らないうちに、あなたが恐れているふたりの王の土地は、捨てられる」のである。

 さらに別の見解は――これは最も広く受け入れられている見解だが――、この箇所がまず第一に、その当時生まれようとしていたある子どもを指しており、その後に、最も高い意味において、私たちのほむべき主イエス・キリストを指しているのだとする。ことによると、それが正しい意味かもしれないし、種々の困難を取り除く最上の方法かもしれない。だが私は、もしこうした本を一冊も読むことがなかったとしたら、また、誰か他の人がこの箇所について何と書いてきたかなど全く知ることなく、単純に聖書に近づいていたとしたら、こう云っていただろうと思う。「ここには、可能な限り最も平易なしかたでキリストが示されている。ここに見られるほど鮮明にその御名が記されている箇所はどこにもない」。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産む。「これは前代未聞のことである。奇蹟的なことである。それゆえ、神にふさわしいことに違いない。彼女は、『その名を「インマヌエル」と名づける。この子は、悪を退け、善を選ぶことを知るころまで、凝乳と蜂蜜を食べる。そして、まだその子が――君なるインマヌエルが――悪を退け、善を選ぶことも知らないうちに、あなたが恐れているふたりの王の土地は、捨てられ、ユダは彼らの荒れ果てた宮殿を打つことになる』*」。

 そこで今朝、私は、本日の聖句を私たちの主イエス・キリストに言及するものとして取り上げたいと思う。そして、ここでは主に関して3つのことが語られている。第一に、その誕生、第二に、その食物、そして第三に、キリストの御名である。

 I. まず《キリストの誕生》から始めよう。「見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産む」*。

 「さあ、ベツレヘムに行って、この出来事を見て来よう」*、とあの羊飼いたちは云った[ルカ2:15]。「天空のあの星について行こう」、と東方の博士たちは云った。そして、今朝の私たちも、そのように云うのである。国をあげてキリストの降誕日を祝う日を間近に控えている私たちは、行ってあの飼い葉桶のかたわらに立ち、イエスの受肉が始められた模様を眺めてみよう。神が初めて定命のかたちでご自分を包み込み、人の子らの間に宿られた時のことを思い起こそう。それが卑しい場所であれ、そこに赴くことを恥じないようにしよう。あの村の宿のかたわらに立とう。イエス・キリスト、神-人なるお方が一手幅ほどの幼児になられたのを見てみよう。

 そして、このキリストの誕生について語る際、最初にここに見てとれるのは、奇蹟的な受胎である。この聖句ははっきりと語っている。「見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産む」*。この表現は、《聖なる書》の中においてすら比類ないものである。このことは、処女マリヤ以外の他のいかなる女についても云われることはありえなかったし、他のいかなる人についても、処女を母としていると記されることはありえなかった。そのギリシヤ語およびヘブル語はどちらとも、この母が真実まことに処女であったことを余すところなく表わしており、イエス・キリストが女から生まれたこと、男から出てはいないことを私たちに示している。私たちはこの思想についてつぶさに語ろうとは思わないが、それでも、これは重要な思想であり、一言もなしに通り過ぎるべきではない思想である。まさに女が、その向こう見ずな思いによって最初にそむきの罪への一歩を踏み出したがゆえに、――神は女が蔑まれ、踏みつけにされないようにと、その知恵によって、女が、また女だけが、人類を贖う神人のからだの作り手となるように目論まれた。女は、自ら最初に呪われた木の実を口にし、その夫を誘惑した(アダムは彼女に対する愛からその実を口にしたのかもしれない。彼女が地位を下げられないように、また、自分と同格の者として立てなくならないように)。にもかかわらず神は、ご自分の御子が「女から生まれ」るようにお定めになり、その最初の約束は、女の子孫が――男の子孫ではなく――へびの頭を踏み砕くというものであった[創3:15]。

 さらに、イエス・キリストが男から出ず、女から出る子となるという定めには、1つの格別な知恵があった。なぜなら、もしキリストが肉によって生まれたとしたら、「肉によって生まれた者は肉で」あり[ヨハ3:6]、肉でしかなく、その肉的な発生によって自然と、人が生まれながらに有しているもろさと罪と弱さをことごとく受け継いでいたであろう。私たち残りの者と全く同じく、罪ある者としてみごもられ、咎ある者として生まれ[詩51:5]ていたであろう。それゆえ主は男によっては生まれず、聖霊が処女マリヤをおおったのである[ルカ1:35]。そしてキリストは、もうひとりの人[アダム]を除き、ご自分の《造り主》の御手からきよい者として出てきた唯一の人として立ち、ただひとり、「わたしはきよい」、と云うことがおできになった。左様。そして主は、別のアダムが自分のきよさについて云えたことをはるかに越えたことを云うことがおできになった。というのも、主はご自分の高潔さを保ち、決して手放すことなく、その誕生から死に至るまでいかなる罪も知らず、その口に何の偽りも見いだされなかった[Iペテ2:22]からである。おゝ、驚嘆すべき光景よ! 立ってそれを眺めようではないか。処女の子、何たる混在であろう! そこには有限のものと無限のものがある。定命のものと不死のものがあり、朽ちるものと朽ちないものがあり、人性と神格があり、時間が永遠と結ばれ、神が被造物と連なり、尊厳ある《造り主》の無限性がこの地上の一点にある幕屋のもとへとやって来ては、地におさめることも天にお入れすることもできない広大で果てしない《お方》が母の両腕の中にかかえられ、宇宙の支柱をことごとく固定し、被造世界の釘を打ち付けておられるお方が定命の者の胸にすがりつき、一個の被造物を頼って養われているのである。おゝ、驚嘆すべき誕生よ! おゝ、奇蹟的な受胎よ! 私たちは立って、目を見張り、賛嘆する。まことに、御使いがこの主題をのぞき込みたいと願うのも当然である。私たちにとって、それはあまりに謎めいているため語ることもできない。そこまででとどめておこう。処女がみごもっている。そして男の子を産むのである。

 さらにこの誕生において、その奇蹟的な受胎に注意した上で、次に注意しなくてはならないのは、その家柄の慎ましさである。ここには、「王女がみごもっている。そして男の子を産む」、とは記されていない。ひとりの処女である。彼女の処女性こそ、彼女の最高の誉れであり、彼女は他に何も持ち合わせていなかった。確かに彼女は、王家の系譜に連なってはいた。ダビデを自分の先祖のひとりとみなすことも、ソロモンを自分の系図の中に立つひとりとみなすこともできた。私は慎ましい家柄と云ったが、彼女は蔑まれるべき女ではなかった。ユダ王家の血統に連なっていたからである。おゝ、赤子よ。あなたの血管には、王たちの血が流れている。古代の君主国の血が、あなたの心臓から発し、あなたのからだの隅々まで行き巡っている! あなたは、古代の祖先を眺めれば、卑しい親から生まれたのではない。あなたは、その在世中には最強の君主国を支配していた人物、すなわちソロモンの子孫であり、ヤコブの全能者のための神殿を建てようと目論んだ者の子孫だからである。

 また、キリストの母は知性という点でも劣った女ではなかった。彼女はすぐれた知力の持ち主であったと思う。さもなければ彼女は、「わがたましいは主をあがめ」[ルカ1:46]から始まる、いわゆる《処女マリヤの賛歌》のように甘やかな詩歌の一編を作詩することはできなかったであろう。彼女は蔑まれるべき人物ではない。私は今朝特に、私たちプロテスタント教徒の誤りと思える1つのことについて、自分の考えを口にしたいと思う。ローマカトリック教があまりにも処女マリヤに敬意を払い、彼女への祈りをささげているがために、私たちはあまりにも彼女のことを小馬鹿にしたように語りがちである。彼女は軽蔑の法度の下に置かれるべきではない。というのも、彼女は真実こう歌うことができたからである。「これから後、あらゆる時代の人々が、私をしあわせ者と呼ぶでしょう」[ルカ1:48 <英欽定訳>]。私はプロテスタント時代も、彼女をしあわせ者と呼ぶ「あらゆる時代」に入ると思う。彼女の名前はマリヤ(Mary)であり、奇抜なジョージ・ハーバートはそれを綴り替えて、こう記した。――

■   「げにもその名の 陣立(ARMY)示さん、
    ここに万軍の主 天幕張らば」。

彼女は王女ではなかったが、それでも彼女の名マリヤは、解釈すれば王女を意味している。また、彼女は天の女王ではないが、それでも地の女王たちの間に認められるべき権利を有している。また、彼女は私たちの主の女主人ではないが、聖書中の名高く偉大な女性たちの間を闊歩している。

 だがイエス・キリストの誕生は慎ましいものであった。栄光の主が宮殿に生まれなかったとは何と奇妙なことか! 君主たち。キリストはあなたに何の恩もこうむっていない! 君主たち。キリストはあなたに何の借りもない。あなたがたは主を布でくるまなかったし、主は紫衣をまとわなかったし、あなたがたは主を揺らす黄金の揺りかごを用意しもしなかった! 女王たち。あなたがたは主をあなたの膝であやさなかったし、主があなたの胸にすがりつくこともなかった! そして、あなたがた、当時盛名を誇っていた大都市たち。あなたの大理石の広間は主の小さな足跡で祝されはしなかった! 主は貧しく蔑まれていた一寒村、すなわちベツレヘムから出て来られた。そこで主は知事官邸に生まれたのでも、首長の邸宅に生まれたのでもなく、飼い葉桶の中に生まれた。伝承の告げるところ、主の飼い葉桶は堅い岩をくり抜いたものだったという。そこに主は横たえられ、まず間違いなく牛たちが同じ飼い葉桶のもとにやって来ては飼い葉をはんだであろう。その干し草やまぐさが主のただ1つの寝床であった。おゝ! 私たちのほむべき主イエスが謙遜のうちに身に帯びた、驚異的な屈従のへりくだりよ、しかもこれほど卑しく身をかがめられたとは! あゝ! もし主が身をかがめられたとしたら、なぜ主はこれほど卑しい生まれにまで屈従されたのだろうか? また、もし主が低頭したとしたら、なぜ貧乏な両親の子となるだけでなく、これほどみじめな場所で生まれるべきだったのだろうか?

 ここで励まされようではないか。もしイエス・キリストが岩作りの飼い葉桶に生まれたとしたら、なぜ主は私たちの岩のような心にやって来て、お住まいにならないことがあるだろうか? もし主が馬小屋で生まれたとしたら、なぜ私たちの魂という馬小屋が主のお住まいにならないことがあるだろうか? もし主が貧困の中で生まれたとしたら、心の貧しい者は主が自分の《友》となられると期待して良いではないだろうか? もし主がこのように最初から下落を忍ばれたとしたら、ご自分の造られた者の中でも最も貧しい者、最も卑しい者のもとにおいでになること、また、ご自分の子どもたちの魂の中に宿られることを少しでも不名誉だなどと考えられるだろうか? おゝ、否! 私たちは、主の慎ましい家柄から慰めの教訓を得ることができるし、私たちは女王でなく、女帝でなく、ひとりの慎ましい女が栄光の主の母となったことを喜ぶことができる。私たちは、このキリストの誕生から先に進む前に、もう1つ指摘しておかなくてはならないことがある。それは、1つの栄光に富む誕生日についてである。キリストの誕生を取り巻くあらゆる謙遜さにもかかわらず、そこにはなおも非常に大きな栄光に富んでいるものがある。非常に大きな誉れあるものがある。いまだかつてイエス・キリストのような誕生日を得た者はひとりもいない。預言者や先見者たちは、主について書いたようなことを誰について書いたことがあるだろうか? 誰の名前が、主の名ほど多く書字板に彫り刻まれただろうか? 誰がイエス・キリスト、この神-人なるお方のように、すべて自分を指さしているような預言の巻物を有していただろうか? それから、主の誕生に関して思い起こすがいい。いつ神は、カエサルの誕生を告知するために真新しいともしびを空に掲げただろうか? カエサルたちはやって来ては、死んでいくであろう。だが、星々は決して彼らの誕生を預言することがない。いつ御使いたちは、どこかの偉人の誕生に際して、天から降下して合唱交響曲を歌っただろうか? 否。他のあらゆる人々は見過ごしにされている。だが、見るがいい。天には、1つの大いなる光が輝いている。また、歌も聞こえる。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」[ルカ2:14]。

 キリストの誕生は蔑まれるべきものではない。たとい、主の揺りかごの回りに集まった訪問客を考えてもそうである。羊飼いたちが最初にやって来た。そして、ある老神学者が奇抜にも指摘した通り、その羊飼いたちは道に迷わなかったのに、賢者たちは道に迷った。羊飼いたちは真っ先に、何の導きもなく、何の支えもなしに、ベツレヘムにやって来た。次に賢者たちが、星に道を教えられながらやって来た。人類の2つの集団、富者と貧者を代表する人々が、その飼い葉桶の回りに膝まずいた。そして、黄金、乳香、没薬、そしてあらゆる種類の尊い贈り物がその子にささげられた。その子こそ、地上の王たちの《君主》であったし、古の時代から、その父ダビデの王座に座ることが定められていた。また、驚くべき未来には、その鉄の杖であらゆる国々を支配するはずであった。「見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産む」*。ここまでで、キリストの誕生についての話は終えることとしたい。

 II. 第二のこととして私たちが語らなくてはならないのは、《キリストの食物》である。「この子は、悪を退け、善を選ぶことを知るために、凝乳と蜂蜜を食べる」<英欽定訳>。

  欽定訳聖書の翻訳者たちは確かに非常にすぐれた学者たちであった。また神は彼らに多くの知恵を与え、彼らが私たちの国語を原典の威光にまで高められるようにしてくださった。だが、ここで彼らは非常に大きな齟齬を来させている。私は、いかにして凝乳と蜂蜜がある子どもに善を選ばせ、悪を退けさせることになるのか見当もつかない。もしそうだとしたら、確かに凝乳と蜂蜜の値段は高騰するはずである。善良な人々は大いに求められてやまないからである。しかし、この節の原典は、「この子は、悪を退け、善を選ぶことを知るために、凝乳と蜂蜜を食べる」、とは語っておらず、むしろ、「この子は、悪を退け、善を選ぶことを知るころまで、凝乳と蜂蜜を食べる」、と語っているのである。あるいは、より正確には、「この子は、凝乳と蜂蜜を食べる時も、悪を退け、善を選ぶことを知る」、と語っているのである。

 私たちはその訳を認めて、その言葉で云い表わされている意味を多少とも解明してみよう。この言葉から私たちが教えられるべきなのは、まず最初に、キリストのしかるべき人間性である。主がご自分の弟子たちに、ご自分が肉体であって霊ではないことを確信させようとした際、主は一切れの焼いた魚と蜂蜜[ルカ24:42 <英欽定訳>]をお取りになり、他の者らがするようにお食べになった。「わたしにさわって、よく見なさい」、と主は云われた。「霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています」[ルカ24:39]。一部の異端者たちは、キリストの死後、短時日さえ経ずして、主のからだはただの幻影にすぎなかったのだと教えた。主は、現実の、実体ある人ではなかったのだ、と。だが、ここで私たちに告げられているのは、主は凝乳と蜂蜜を、他の人々がするように食べたということである。他の人々が食物によって養われていたように、イエスもそうであった。主は、まことに、かつ永遠に神であられたのと同じくらい確実に、まことの人であられた。「神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです」[ヘブ2:17]。それゆえ、主が凝乳と蜂蜜を食べたと告げられたのは、後にカルバリの上で死んだのが現実の、実体を有する人であったと私たちに教えるためなのである。

 やはりまた、凝乳と蜂蜜が私たちに教えているのは、キリストは平和の時代に生まれるはずだった、ということである。このような生産品は、戦いの時期のユダヤには見いだされるはずがなかった。戦争による荒廃は、あらゆる産業の精華を一掃してしまう。潅漑されていない牧草地は全く草を生やさず、それゆえ、そこには何の凝乳もありえなかった。蜜蜂はその巣を獅子の死骸の中にも作るかもしれず、そこには蜂蜜があるかもしれない。だが、土地が騒乱の中にあるとき、誰が行って甘いものを集めたりするだろうか? 赤子はその母親が、冬の間でさえ、その子を胸にしがみつかせたまま逃走しているというとき、いかにして凝乳を食べられるだろうか? 戦時期に私たちは、食物の選り好みなど全くできない。そうしたとき、人は手に入るものを何でも食べるものであり、その供給は往々にして非常に細々としたものである。私たちが平和な国に住んでいることを神に感謝しようではないか。そして、この聖句の中にある奥義、キリストが平和な時代にお生まれになったことを見てとろうではないか。天国の神殿が開かれる前に、ヤヌス神の神殿は閉ざされた。平和の王がエルサレムの神殿にやって来られる前に、戦争の恐るべき口は閉ざされた。軍神マルスはその剣を鞘におさめ、すべては平穏であった。皇帝アウグストは世界の皇帝であり、他の何者も世を支配していなかった。それゆえ、戦争はやんでいたし、地上は静穏であり、野の木々の上で葉が震えることはなく、闘争の海原にはさざ波1つ立ってはおらず、戦争の熱風が人々に吹きつけて悩ますことはなく、すべては平和で静かであった。そのとき、《平和の王》が来られたのである。やがて弓をへし折り、槍を断ち切り、戦車を火で焼くことになる[詩46:9]お方が。

 ここには、もう1つの思想がある。「この子は、悪を退け、善を選ぶことを知る時も、凝乳と蜂蜜を食べる」*。これが私たちに教えているのは、キリストの早熟さである。どういうことかというと、キリストは、子どもであったときでさえ、また、子どもたちの食べ物である凝乳と蜂蜜を食べて生きていたときでさえ、善悪の区別をつけておられたのである。普通、子どもたちは、自分たちの幼児食を後にしてから初めて、完全な意味において善悪の区別をつけられるようになるものである。子どもは何年も経なくては、精神機能が成熟し、識別力が発達し、その能力を十分に発揮し、事実、成人となることはない。だがキリストは、赤子であったときでさえ、また、凝乳と蜂蜜を食べて生きていたときでさえ、善悪の区別がつき、一方を退け、もう一方を選んでいたのである。おゝ! その頭脳の中には、いかに強大な知性があったことか! 主は幼児ではあったが、確かにその目には天才の閃きがあったに違いない。知性の火は、その眉宇にしばしば灯ったに違いない。主は通常の子どもではなかった。いかの主の母は、この小さな、片言を喋る子どもが口にした素晴らしいことについて語り草にしたであろう! 主は他の子たちがするようには遊ばなかった。埒もない娯楽に自分の時間を費やしたいとは思わなかった。主の思いは高遠で驚くべきものであった。主は奥義を理解していた。そして、少年時代に宮に上ったときには、他の子どもたちのように庭や市場のあたりで遊んでいるのではなく、教師たちの真中に座って、話を聞いたり質問したりしておられるところを見つけられた[ルカ2:46]。主の精神は傑出した知性であった。「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません」[ヨハ7:46]。そのように、この子のように考えていた子どもは、いまだかつてなかった。彼は驚愕すべき子ども、あらゆる子どもたちの中の驚異であり驚嘆であり、子どもたちの王であった。子どもであったときでさえ、神-人なるお方であった。私は、このことがこの言葉で教えられていると思う。「この子は、悪を退け、善を選ぶことを知る時も、凝乳と蜂蜜を食べる」*。

 ことによると、冗句のように思われるかもしれないが、この主題のこの部分について語り終える前に私は、私の魂にとって、ことのほか甘やかに信じられることについて語らなくてはならない。すなわち、キリストが凝乳と蜂蜜によって生きておられた以上、確かに凝乳と蜂蜜は、キリストの口からしたたり落ちるに違いない。主のことばは、私たちの魂にとって甘く、蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも好ましい[詩19:10]。凝乳を食べるお方のことばは、当然、試練に遭っている者にとって柔らかく、その話しぶりは私たちの悲しみの荒海に広がる油のようであろう。凝乳を食べるお方は、当然、心の傷ついた者をいやす[イザ61:1]ためにやって来られたであろう。地の最も良い物を食べて生きていたお方は、当然、地をそのかつての豊穣さに回復し、乳と蜜によって、あらゆる人を柔らかくするために来られたのである。あゝ、心の中の蜜よ。

   「いずこにありや、かくなる甘さ
    汝が愛に われ味わいぬ、
    汝がうちに われ見いだしぬ」。

おゝ、キリストよ。あなたのことばは蜜のようです! 私は、蜜蜂のように、花から花へと飛んで行っては甘味を集め、私にとって香り高い、尊い香水を混ぜ合わせます。ですが、私はあなたのくちびるに蜂蜜のしたたりを見いだしました。あなたの口に指で触れ、その蜜を私の唇に入れたとき、私の目は輝きました。いかなる蜂蜜もあなたとは比較になりません。あなたが凝乳と蜂蜜をお食べになっていたのも当然です!

 そして、ことによると、私は、こう云うのを忘れるべきではないかもしれない。すなわち、キリストが凝乳と蜂蜜を食べていた効果は、そのうわべの装いにおいて、キリストが生涯、他の人々とは違っておられなかったことを示している。他の預言者たちがやって来たときには、荒布の服をまとい、厳格で、厳粛な様子をしていた。キリストは、そのようにしては来られなかった。主は、市井の人となるために来られた。ご馳走を食べる者とともにご馳走を食べ、蜂蜜を食べる者とともに蜂蜜を食べるために来られた。主は誰とも異なっておらず、このため食いしんぼうの大酒飲みと呼ばれた[ルカ7:34]。なぜキリストはそのようにされたのだろうか? なぜ主は、人々が(実は悪口として)云うところの、肩入れをされたのだろうか? それは、ご自分の弟子たちに、食べ物や飲み物を軽蔑するのではなく、他の人々と同じように生活させたかったからである。なぜなら、主が彼らに教えたかったのは、口にはいる物ではなく、口から出るものこそ、人を汚すものだということだったからである[マタ15:11]。節度をもって食べるものは人に害を与えない。害を与えるのは、人が話したり考えたりすることである。食物を絶つことや、肉的に、「すがるな。味わうな。さわるな」[コロ2:21]といった教えに従うことは、私たちのキリスト教信仰の根本的要素をなしてはいない。それらが信仰の良き法則となることはあるかもしれないが関係ない。凝乳と蜂蜜をキリストは食べた。それで凝乳と蜂蜜を主の弟子たちは食べて良いのである。否。神がその摂理によって彼らに与えてくださる物なら何であれ、幼子キリストの食べ物となることができるのである。

 III. さて私たちがしめくくりに語りたいのは、《キリストの御名》である。「その名を『インマヌエル』と名づける」。

 愛する方々。私は今朝、私の《主人》の御名について語るところまで声が保てば良いと期待していた。私の早戦車で飛ばしていくのを許されることを希望していた。だが、その車輪が取り去られてしまった以上、私は自分にできる限りのしかたで走ることで満足しなくてはならない。私たちは時として歩けないときには這って行き、走れないときには歩いて行く。だが、おゝ! ここには、しめくくりとすべき、1つの甘やかな名前がある。「その名を『インマヌエル』と名づける」。古い時代の他国の人々は、自分の子どもたちを意味のある名前で呼んでいた。彼らは子どもたちに偉人の名前を与えはしなかった。成人したときの彼らは、そうした人物をたいていは憎むようになり、そんな人物のことを一度も聞かなければ良かったのにと思うに決まっている。むしろ彼らには豊かな意味に満ちた名前があり、それは彼らが生まれたときの状況のいくつかを記すものであった。そこにカインがいた。「私は、主によってひとりの男子を得た」、と彼の母は云った[創4:1]。それで彼女は彼をカイン、すなわち、「得た」、あるいは、「獲得した」、と名づけたのである。そこにセツがいた。――すなわち、「定めて与えられた」である。というのも、彼の母は、「アベルの代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられた」、と云ったからである[創4:25 <英欽定訳>]。ノアは、「安息」あるいは「慰め」という意味である。イシュマエルが母からそう名づけられたのは、神が彼女の声を聞かれたからである。イサクが「笑い」と名づけられたのは、彼がアブラハムの家に笑いをもたらしたからであった。ヤコブが押しのける者、あるいは、ずるい者と名づけられたのは、彼が兄に取って代わろうとしたからであった。同様の状況は数多く指摘できよう。ことによると、この習慣はヘブル人の間では良いものだったかもしれない。私たちの国語の独特の構造は、ある程度までしか私たちが同じようにすることを許さないであろうが。

 それゆえ、処女マリヤがその子をインマヌエルと名づけたのは、その名に何らかの意味があるようにするためであったことが分かる。「神は私たちとともにおられる」。わが魂よ。この言葉をもう一度鳴り響かせるがいい。「神は私たちとともにおられる」。おゝ! これは天国の鐘の1つである。それをもう一度打ち鳴らそう。「神は私たちとともにおられる」。おゝ! これはパラダイスの十四行詩からさまよい出て来た一音である。「神は私たちとともにおられる」。おゝ! これは熾天使の舌からほぐれ出て来た音である。「神は私たちとともにおられる」。おゝ! これはエホバがご自分の《教会》を歌によってお喜びになるときの歌の調べの1つである。「神は私たちとともにおられる」。それを告げるがいい。告げるがいい。告げるがいい。これこそ、きょうお生まれになるお方の名前である。

   「聞けや歌声 空に響くを!」

これこそ主の御名である。「神は私たちとともにおられる」。――神は私たちと、その受肉によってともにおられる。というのも、この尊厳ある世界の《創造主》は、この地球上をお歩きになったからである。一万もの天体を――そのそれぞれがこの地球よりも格段に壮麗で、格段に広大であるものを――お造りになったお方が、このちっぽけな粒子の住人となられた。永遠から永遠までおられたお方が、この時間の世界にやって来られ、2つの広漠たる海に挟まれた、狭き地峡に立たれた。「神は私たちとともにおられる」。主はその名を失っておられない。イエスはその名を地上で有しておられたし、今も天で有しておられる。主は今も「神は私たちとともにおられる」である。信仰者よ。主はあなたとともにおられ、あなたを守る神である。あなたはひとりきりではない。《救い主》があなたとともにおられるからである。草木も育たない砂漠に置かれたとしても、なおも私は、「神は私たちとともにおられる」、と云うことができる。荒れた海に置かれ、私の船が波浪の上で踊り狂っているとしても、なおも私は、「インマヌエル。神は私たちとともにおられる」、と云うことができる。私が日差しの上に乗せられ、西の海を越えて飛んで行くとしても、なおも私は、「神は私たちとともにおられる」、と云うことができる。私のからだが大海原の深みに潜り、その洞窟の中に隠れるとしても、なおも私は神の子どもとして、「神は私たちとともにおられる」、と云うことができる。左様。そして、墓の中で朽ち果てて眠るとき、それでも私はイエスの足跡を見てとることができる。主はその御民全員の通り道を踏んで通られた。そして、今なお主の御名は、「神は私たちとともにおられる」なのである。

 しかし、あなたがこの御名を最も甘やかに知りたければ、聖霊の教えによって知るのでなくてはならない。神は今朝、私たちとともにおられるだろうか? もし神がおられないとしたら、会堂にやって来ても何になるだろうか? イエス・キリストが訪れてくださらないとしたら、私たちは家にとどまっていた方がましであろう。そして確かに私たちはやって来て、やって来て、その扉が蝶番の上で開くのと同じくらい定期的にやって来るであろう。聖霊の影響によって、「神は私たちとともにおられる」のでない限りそうである。聖霊がキリストの事がらを取り上げて、私たちの心に適用してくださるのでない限り、「神は私たちとともにおられる」ことにはならない。その場合、神は焼き尽くす火である[ヘブ12:29]。「私たちとともにおられる神」こそ、私の愛するお方である。

   「神を人身(にく)にて 見ゆまでは
    われに慰め つゆもなし」。

さて、あなた自身に問いかけてみるがいい。あなたは、「神は私たちとともにおられる」、ということが、いかなることか知っているだろうか? それは、あなたが患難のうちにあるとき、聖霊の慰めの影響により、あなたとともにおられる神だろうか? 聖書を調べることにおいて、あなたとともにおられる神だろうか? 聖霊はみことばに光を輝かせてくださるだろうか? あなたをシナイに連れて行くことによって罪を確信させる際に、あなたとともにおられる神だろうか? あなたをもう一度カルバリに連れて行くことによってあなたを慰める際に、あなたとともにおられる神だろうか? あたは、このインマヌエル、「神は私たちとともにおられる」、という御名の完全な意味を知っているだろうか? 否。それを最高に知っている人でも、そのごく僅かしか知ってはいない。悲しいかな。それを全然知っていない人は、実に無知なのである。あまりにも無知なために、知らぬが仏になることがなく、罪に定められることになるのである。おゝ! 願わくは神があなたに、この御名インマヌエル、「神は私たちとともにおられる」、の意味を教えてくださるように。

 さて、しめくくることにしよう。「インマヌエル」。これは知恵の奥義である。「神は私たちとともにおられる」。賢者たちはこれを仰ぎ見て驚く。御使いたちはこれを見てとりたいと願っている。理性の測鉛線はその深みの半分にも達することができない。科学の眼力はこれほどの高みに舞い上がることができず、探索の禿鷹の鋭い目はそれを見てとることができない。「神は私たちとともにおられる」。それは地獄の恐怖である。サタンはその言葉の響きに震える。彼の軍団は裸足で逃げ出し、かの底知れぬ所の黒翼の竜はその前でひるむ。たとい彼が突如あなたのもとにやって来ようと、この言葉、「神は私たちとともにおられる」、を囁きさえすれば、彼は肝を潰し、周章狼狽しながら後ずさりしていく。サタンは、「神は私たちとともにおられる」という御名を聞くと震え上がる。これは労苦する者の力である。人がいかに説教しようとしても、いかに膝まずいて祈ろうとしても、いかに宣教師が外国の土地へ赴こうとしても、いかに殉教者が火刑柱に立とうとしても、いかに告白者が自分の《主人》の真実さを認めようとしても、この一言、「神は私たちとともにおられる」が取り去られるなら決してそうはできない。これは苦しむ者の慰めである。その悲痛の鎮静剤である。その窮状を緩和するものである。神が愛する者の眠っている間に与えてくださる備えである。彼らが勉励と労苦の後で受ける安息である。あゝ! そして最後に、「神は私たちとともにおられる」、――それは永遠の十四行詩である。天のハレルヤである。栄化された者の叫びである。贖われた者の歌である。御使いたちの合唱である。天空の大楽団の永遠の聖譚曲である。「神は私たちとともにおられる」。

   「ああ、いと聖し インマヌエルよ、
    汝れに御父の 栄光(さかえ)照り映え
    汝れは輝き、甘く、麗し、
    地と天の知る すべてにまして」。

おゝ、私は願う。あなたがたみなに良い降誕祭を。そして、もしあなたが、あなたとともにおられる神を有しているなら、それは幸いな降誕祭となるであろう。私はきょう、キリストのこの偉大な誕生日に行なわれるお祭り騒ぎに反対する言葉を何1つ云うつもりはなない。私の思うところ、もしかすると、その誕生日を祝うのは正しくないかもしれないが、私たちが決して与したくないと思うのは、他の人々がそれを正しいしかたで祝うのと同じくらい、それを間違ったしかたで祝うのを義務と考えている人々である。しかし、明日、私たちはキリストの誕生日について考えるであろう。考えざるをえないに違いない。いかに私たちが、私たちの素朴な清教徒主義を信奉していようと関係ない。そして、そのようにして、「私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種のはいらない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか」[Iコリ5:8]。酒神(バッコス)の祭を祝いたいかのような楽しみ方をしてはならない。明日は、どこかの異教神をあがめているかのような生き方をしてはならない。明日は、祝宴の家に行き、あなたの《救い主》の誕生を祝うがいい。喜ぶことを恥じてはならない。あなたには幸いになる権利がある。ソロモンは云う。「さあ、喜んであなたのパンを食べ、愉快にあなたのぶどう酒を飲め。神はすでにあなたの行ないを喜んでおられる。いつもあなたは白い着物を着、頭には油を絶やしてはならない」[伝9:7-8]。

   「信仰の 目当てはついぞ われをして
    より少なき楽しみ 得さすにあらじ」。

思い起こすがいい。あなたの《主人》が凝乳と蜂蜜を食べたことを。行くがいい。明日は喜ぶがいい。だが、あなたの祝宴の最中で、《ベツレヘムの人》を思うがいい。このお方を、あなたの心の中に存在させ、このお方に栄光を帰し、このお方をみごもられた処女について考えるがいい。だが、何にもまして、お生まれになった《お方》について、与えられた《子》について考えるがいい。しめくくりに私はもう一度云う。――

   《あなたがたみなに良い降誕祭を!》

 

キリストの誕生[了]

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