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黄金の祭壇の上にすらある血

NO. 2369

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1894年7月15日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1888年5月6日、主日夜


「祭司はその血を、会見の天幕の中にある主の前のかおりの高い香の祭壇の角に塗りなさい」。――レビ4:7


 聖書全体を通じて気づかされるのは、絶えず「血」のことが云い及ぼされているということである。「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです」[ヘブ9:22]。「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」[Iヨハ1:7]。「あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず……キリストの、尊い血によったのです」[Iペテ1:18-19]。「血」という言葉は何度も何度も記されており、たといこの表現を用いすぎるという苦情が説教者に寄せられたとしても、一切弁解することはない。この血について頻繁に語らなかった場合こそ、彼は自分を恥じるであろう。神のことばは、血に対する言及で満ちており、それは人のからだがいのちと血で満ちているのと同じである。

 しかし、この「血」は、聖書では何を意味しているのだろうか? それは、ただの苦しみではない。血によって苦しみを象徴することは、きわめて容易にできただろうが、そうではない。むしろ、それは、死に至る苦しみを意味している。ごく手短に云い表わすと、神に逆らう罪は、その罰としての死に値する。そして、神が預言者エゼキエルの口によって仰せになったことは、今なお真実である。「罪を犯した者は、その者が死ぬ」[エゼ18:4]。神がご自分の威嚇的な判決を実現し、それでいながら、咎ある人々をお赦しになれる道は1つしかなかった。すなわち、御子イエス・キリストがこの世にやって来て、ご自分のいのちを私たちのいのちの代わりにささげることである。主のいのちは、主のご人格の威厳と、主のご性質の威光とのゆえに、莫大な価値を有しているため、主はそれを単にただひとりの人のためにではなく、ご自分を信ずる膨大な数の人々全員のために与えることがおできになった。さて、その、人々が救われるための手段こそ、イエス・キリストが死に至るまで苦しむことなのである。ペテロがこう書いている通りである。「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、……私たちを神のみもとに導くためでした」[Iペテ3:18]。パウロはこう云い表わしている。「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである。』と書いてあるからです」[ガラ3:13]。また、「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」[IIコリ5:21]。

 律法の下におけるあらゆるいけにえは、その血を注ぎ出されたとき、人々のために与えられたキリストのいのちを象徴していた。キリストのいのちは、死すべき違反を犯し、それゆえ、死すべき運命にあった者たちの代わりとして、代理として、彼らに成り代わってのいけにえとして与えられた。あなたがた、私の話を普段から聞いている人たちは、私が何を意味しているか良く承知しているであろう。この偉大な中心的真理について、私が一度でもはっきりしない音[Iコリ14:8]を出したことがあるだろうか? 天の下には、イエス・キリストの代償的犠牲を信じる信仰による以外に、いかなる救いの道もない。そして、私たちが永遠の御怒りから贖われる道は、私たちのための《身代わり》として立ち、私たちの代理として死なれたキリストによる以外にない。こう書かれている通りである。「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」[イザ53:5]。

 注目に値する点は、キリストの死において、血を流すことが非常に目立たされたということである。それはあたかも、モーセ律法で教えられていた種々の予型について、私たちの記憶を新たにさせようとするかのようであった。イエスは血を流すまで鞭打たれた。そのこめかみは茨の冠で突き刺され、引き裂かれた。その御手と御足は鉄で十字架に釘づけられた。その御脇は兵士の槍で開かれ、すると、ただちに血と水が出て来た[ヨハ19:34]。血を流さなくとも人が死ねるしかたは数多くある。わが国の死刑には、全く流血が伴わない。だが、私たちの《救い主》は、血を流すことが目立って見られる死に方をするよう定められていた。あたかも、その大いなる贖罪のみわざの予型また象徴としてささげられていた数多のいけにえと、永遠に主を結びつけるかのようにである。私の愛する兄弟ピアス氏は、その祈りの中で、十字架につけられたイエス・キリストをあなたがたの前にはっきり示したかのように思われた。私は願う。たとい多少は想像力を用いなくてはならないとしても、あなたが十字架の上のイエスをいま見ているかに思えるようになることを。今晩ここに主を思い描き、愛をこめて見つめるがいい。主のお姿を垣間見ることでもできさえすれば、私からの言葉などほとんど不要であろう。見るがいい。あなたの《救い主》がご自分のいのちの血を注ぎ出しておられる姿を。それは、あなたの咎を持ち去るためなのである。主が死のうとしておられるのは、あなたが永遠に生きるためなのである。

 本日の聖句の前にある節によると、祭司は、罪のためのいけにえである雄牛の血を取り、それを、「主の前、すなわち聖所の垂れ幕の前に」、七度振りかけるべきだと記されている。その垂れ幕は、神が内側でお住まいになる所を隠していた。その垂れ幕に七度、すなわち、完璧に振りかけなくてはならなかった。神が隠されている場所の前には、その尊い血が完璧に示されるべきだった。それがなされた後で、祭司はその雄牛の血のいくらかを取り、黄金の祭壇の4つの角に塗りつけるべきであった。その祭壇は、垂れ幕の正面に立っており、金の燭台の近くにあった。この祭壇は、その上で香りの高い香を焚くためのものであり、祭司はその4つの角に血を塗りつけるべきだった。この行為は何を意味していただろうか? この聖句をもう一度読ませてほしい。それから、すぐにそれを説明したいと思う。「祭司はその血を、会見の天幕の中にある主の前のかおりの高い香の祭壇の角に塗りなさい」。

 I. 私が第一に述べたいことは、こうである。《その贖罪は、主のために示された》。今のあなたは、しばしば聞かされてはいないだろうか? 成し遂げられた贖罪の一切は、私たちに関わる何かである、と。私たちがキリストの死について考えると、それは私たちの種々の情緒をかき立てる。だが、それが唯一の結果なのだ。そう一部の教師たちは云う。それは私たちを神のもとに至らせるが、神を私たちのもとに至らせはしない。それが、彼らの云っていることである。だが、聖書に目を向けるとき、血を流すことは、私たちに関わっているのと同じく、神ご自身にも関わっていることが分かる。なぜなら、この聖句では明確にこう云われているからである。「祭司はその血を、会見の天幕の中にある主の前のかおりの高い香の祭壇の角に塗りなさい」。

 その場所は、主が特別にそれをご覧になる所であった。私は、若い人々が帰宅してから鉛筆を取り上げて、レビ記の最初の数章に印をつけてほしいと思う。「主の前」というこの表現は、どのくらい頻繁に用いられているだろうか? 雄牛を連れて来ることも、いけにえを殺すことも、血を振りかけることも、すべてが「主の前」でなされた。人がそれを見るか見ないかは、大して重要でなかった。それは「主の前」でなされることだったからである。確かに、それは会衆の面前でなされた。だが、それが「主の前」であるということは、何度も何度も明白に記されている。思い出してほしいが、かの記憶すべき過越の子羊という予型において、主はその血を振りかけるべき場所について特別な命令をお与えになった。それは家の中にあるべきだっただろうか? 人々がみな家の中にいたことを思い出すがいい。あの過越の晩には、ただのひとりも外にはいなかった。ならば、その血はどこに塗られただろうか? 家の内側の壁に、彼らが見られるように塗られただろうか? それを彼らが眺めることができたとしたら、彼らを慰めることになったではないだろうか? 否。それは、主のご計画ではなかった。そして、その血は人々が見られる所には塗られなかった。それは家の外側に振りかけられた。そして、霊感された記録が私たちに告げるところ、主ご自身がモーセとアロンにこう云われた。「その血を取り、……家々の二本の門柱と、かもいに、それをつける。……わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう」[出12:7、13]。それは、主がご覧になれる所に塗られた。あたかも、それが眼目だとでも云うかのように、人々が見られないところに塗られた。それが明確に彼らに対してこう告げるかのようにされた。「結局、神がこの大いなる犠牲をご覧になるからこそ、あなたがたは救われるのだ」、と。

 次に、この血の場所は、主がそれを私たちに関連してご覧になる所である。これを理解するがいい。主がそれを私たちに関連してご覧になる所、である。人々は私たちを非難して云う。私たちの教えによると、贖罪が何らかのしかたで神のご性質を変えてしまうことになる、と。だが、私たちは決してそのようなことを云ったことはないし、そうした類のことは夢にも考えたことはない。何にもまして、私たちは常に神が不変であり、そのご性質においても、ご目的においても変化をこうむることがありえないと教えてきた。彼らが私たちに向かって、また、他の人々に向かって告げるところ、私たちは、キリストの犠牲がささげられたことを、神がその民を愛せるようにするためのものだったと教えているという。私たちは、何度も、何度も、何度も、そのことを否定してきたし、こう宣言してきた。――

   「イエスの御座より くだり来て、
    苦しむ人と なりたるは
    つゆだに燃やす ためならず、
    罪人(ひと)へのエホバの 愛の火を。
   「主の忍びたる 死にあらず、
    主の負われたる 激痛(いたみ)ならず。
    神の永遠(とわ)の愛 来たらすは。
    そは神 従前(もと)より 愛なれば」。

キリストが犠牲となられたのは、神の愛の結果であって、原因ではない。だが、愛する方々。私たちは、何のためらいもなく、この事実を告白する。すなわち、キリストの死は、このようなしかたで私たちを神がお取り扱いになることに関わっているのだ、と。天来の正義の数多の要求はかなえられなくてはならなかった。全世界をさばくお方[創18:25]は、公義を行なわなくてはならず、罪を罰さずにおくことはできない。私たち自身の良心もそれが真実だと承認する。いかなる罪人といえども、たといいかにかたくなになっていようと、その魂の奥底においては、それが真実であると知っている。だからこそ、罪人が死の床についているときに非常な苦悩をもたらすのは、今から自分が行く場所では、神によって自分の罪の罰が与えられると考えることなのである。さて、キリストが行なわれたことはこうである。御父はキリストにおいて私たちに、無限の正義の数多の要求を満足させるものを与えておられる。神は、神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義と認める[ロマ8:26]ことがおできになる。私たちの《保証人》の上で死刑を執行した上で、神は宣言しておられる。この方を信じる者は、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つ[ヨハ3:16]、と。おゝ、愛する方々。これがそうである。神がご覧になり、御子のうちに、ご自分の律法の要求が正当なものとされていること、ご自分の聖さに誉れが帰されていると見てとられること。これこそ、キリストの犠牲が私たちにもたらす結果の真髄そのものにほかならない!

 私の信ずるところ、この大いなる主、万物の正しい《審き主》は、ご自分の民に代わって苦しまれたことで、イエス・キリストをきわめて大きな喜びとともに眺めておられる。神は、キリストの苦しみによって、ご自分の聖さに誉れが帰されていることを見てとられる。イエスは、聖さを愛されたあまり、その聖さに疑いが差し挟まれるくらいなら死を望まれた。主はあまりにも真実、廉直、正義であられたため、神が少しでもご自分のみことばを破るか、ご自分の正義に違反するかするくらいなら、十字架上での死に甘んじようとされた。御父はキリストの大いなる犠牲を眺めて、それを非常に喜ばれた。なぜなら、そこでご自分の聖さに誉れと栄光が帰されているのを見てとられたからである。

 また、神はキリストの愛をいかに喜ばれたことであろう。キリストが私たちを愛された愛は、大水も消すことができず[雅8:7]、死そのものも溺れさせることができない! 大いなる御父はキリストの死を眺め、キリストの愛がその木の上で勝ち誇っているのを見てとって、それに魅せられる。あなたや私には、御父がその愛する御子の完成したみわざと犠牲にいかなる喜びをお感じになるかは決して分からないと思う。神は、「そのなだめのかおりをかがれ」[創8:21]たと書いてあるが、それは単に予型的ないけにえでしかなかった。だが、《無限のエホバ》の大いなる御心は、ご自分の《愛する者》の無限の犠牲のうちに、いかなるなだめの香りを見いだすに違いないことか! あなたは、それをかすんで曇った目で仰ぎ見るが、それでもあなたを驚異させ賛美させるに足るだけは見える。だが、神はイエスの贖罪に何をご覧になるだろうか? あゝ、愛する方々。私たちは完全にはあなたに答えることができない。だが、私たちは知っている。神がそこにご覧になるのは、神が無限の満足をもって永遠に眺めるものであることを。そして、そのおかげで、神は私たち、自分自身ではあわれな咎ある者たちをも、満足をもって眺めてくださるのである。神が私たちを愛されるのは、キリストが私たちに関連して行なってくださったことのためである。

 II. しかし、さて第二に、この聖句の核心そのものに迫ることとして、《この贖罪は、主イエス・キリストのとりなしに力を与える》

 その香りの高い香の祭壇は、人々のために訴え、そむいた人たちのためにとりなしをする[イザ53:12]キリストの予型である。その祭壇の角は、主のとりなしの力を象徴しており、キリストのとりなしの力は主の犠牲に存し、また、その血に存している。もしこのような光景を描くことが許されるとしたら、私は、《天来の御子》がご自分の御父に訴えかけておられる姿を見ているかに思われる。そして、主はご自分の血の功績を申し立てておられる。

 まず最初に、御父はそれを、なぜ御子がご自分に訴えかけるかという理由としてご覧になる。というのも、その血は、主が親族として人間に近くあることを示しているからである。イエスには血があるのだろうか? 「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました」[ヘブ2:14]。ここには、主が真に人間であられることを御父に対して示すしるしがある。ここには、主がとりなしてくださるご自分の民と、主が同一のものとされているという確かな証言がある。そのしるしは、その祭壇の角に塗られた、主ご自身の血によってつけられている。また、そこにそのしるしがあることによって、主が人々のために訴える資格があることが証明される。主が神である一方で、その血によって明らかに人間でもあられると分かるからにはそうである。

 私は、主が訴え始めたのが聞こえる。だが、かりに《正義》が主の口をふさごうとして、こう云ったとしよう。「いかにしてあなたは咎ある者のための訴えなどできるのですか? この大きな白い御座は、しみ1つない純潔なものです。その前で、いかにしてあなたは、この不潔な汚れた者を祝福するよう神に願ったりできるのです?」 そのとき、イエスは、妨げとなる罪をご自分が取り除かれたことのしるしとして、自らの血を指し示す。「世の罪を取り除く神の小羊」[ヨハ1:29]は、ご自分の血を流すことによって、それを取り除いてしまわれた。「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」[Iヨハ1:7]。「父よ。お願いです」、と主は叫ばれる。「この悔悟した罪人のための、わたしの訴えをお聞きください。わたしは彼の罪を取り除いています。わたしの祈りに答えて、彼を祝福してください。というのも、わたしは彼の呪いとなっていた罪を取り除いているからです。わたしはその刑罰を身に負い、わたしの死によってそれを償いました」。

 また、あなたは見てとらないだろうか? キリストのとりなしの力そのものであるこの血が、主の契約の約束が果たされたことを表わしていることを。「永遠の契約の血」[ヘブ13:20]と記されている。イエスが御父と約束されたのは、「そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたら」[ダニ9:24]すことであった。そして、主はそれを果たされた。その死によって、主は、メシヤとしてのご自分のみわざについて、「完了した」[ヨハ19:30]、と云うことがおできになった。その死によって、主はご自分の保証契約の中で、恵みの契約との関連で、御父に約束したことを果たされた。そして、愛する方々。このことこそ、ご自分の民のためにとりなす際の主の力の活力そのものなのである。これこそ、主の訴えの真髄なのである。主は、ご自分が行なうと同意した一切のことを成し遂げられた。それゆえ、主は御父に求められる。御父がその永遠の契約におけるご自分の側を果たし、カルバリで流された血のゆえに贖われた人々をお救いになるように、と。

 そして、私が思うに、キリストはまた、ご自分の報いを要求する際の訴えにおける大いなる力としても、ご自分の血を用いておられる。「わたしは、わたしの民のために死んだではないでしょうか。ならば、わたしの父よ。彼らを生かしてくださいませんか。見よ。《正義》よ。振り上げた剣によって、わたしを捜しているのなら、この人たちはこのままで去らせなさい[ヨハ18:8]」、と。イエスはこう云っておられるかに思われる。「わが主、わが神よ。わたしはあなたのしもべとなりました。わたしは、仕える者の姿をとり[ピリ2:7]、罪深い肉と同じような形[ロマ8:3]にされました。そして、あなたがわたしの上に置かれた一切の奉仕を成し遂げました。ならば、わたしのあらゆる労苦ゆえに、わたしに報いてください。わたしのいのちの激しい苦しみのあとを見させて、満足させてください[イザ53:11]。わたしがこの働きを引き受けたとき、あなたが交わしてくださった約束に従って」、と。

 では、私の兄弟姉妹。この祭壇の角に塗られた血が何を意味しているか、あなたは見てとらないだろうか? キリストの血は、キリストが神に訴える際の力そのものなのである。主が咎ある人々に代わって死なれたがゆえに、今日、主は罪人の救いを求め、それが与えられるのである。というのも、その血は、アベルの血よりもすぐれたことを語っており[ヘブ12:24]、神を説き伏せるからである。

 III. さて今、最後のこととして、私があなたに云いたいのは、《この血によって、私たちの礼拝は受け入れられるようになる》ということである。

 私たちは、私たちの《救い主》イエス・キリストを通して、神に香り高い香をささげる。私たちの祈りも、私たちの賛美も、私たちの奉仕も、古に神の前で、祭壇の上で焚かれたかぐわしい香りの混合物のようなものである。だが、その祭壇に血の跡があればこそ、その香は受け入れられるのである。私の主イエス・キリストの贖罪の犠牲があるからこそ、祈りや、賛美や、奉仕が神の前で受け入れられるものとなるのである。

 この点について語り始めるに当たり、私があなたに注意してほしいのは、その血は、私たちが祈り始める前から、祭壇の上にあるということである。その血があればこそ、祭壇の上で焚かれた香は受け入れられるものとなった。ナタフ香、シェヘレテ香、ヘルベナ香といった、「香料と純粋な乳香」[出30:34]が、それ自体で、香ばしく主へと立ち上ったのではない。そこには、祭壇の角に振りかけられた、いけにえの血がなくてはならなかった。これは何を意味しているのだろうか? 何と、愛する方々。神が私たちをイエス・キリストにあって受け入れてくださるのは、キリストご自身のゆえ、また、キリストおひとりのゆえだということである。確かに私たちは良い行ないを生み出すべきである。行ないのない信仰は死んでいるからである[ヤコ2:26]。それでも、私たちが神に受け入れられる理由は、私たちの良い行ないではない。むしろ、キリストであり、キリストの贖罪の犠牲だけである。主のもとに行くとき、私たちはこう歌う。――

   「わが手にもてる もの何もなし
    ただ汝が十字架に われはすがらん」。

あなたが、ただ1つでも聖いわざを行なう前から、また、あなたの心に注がれた天来の愛[ロマ5:5]を有していることにより生じた、甘やかな情緒のいずれかをあなたが感じる前から、もしあなたが主イエス・キリストを信じているとしたら、あなたは神によって受け入れられている。キリストはあなたを救っておられる。それゆえ、人は信仰によって、行ないにはよらずに義と認められる。信仰がキリストをつかむことによってこそ、人は義と認められるからである。じきに祭壇の上には、かぐわしい香料がふんだんに載せられるはずである。だが、それらとは別に、また、その中で煙を上げて燃える炭火が全くないうちから、その祭壇は、犠牲の血が振りかけられることによって、神に聖別されている。私は、この栄光に富む事実を思うと嬉しくなる。あなたの良い行ないは増やすがいい。だが、そのすべてをキリストの犠牲から遠く離しておくがいい。それらをキリストの犠牲につけ足して、その犠牲を完全なものとしようなどと夢見てはならない。というのも、あなたが何をしなくとも、それは完璧だからである。あなたが罪を本当に悔い改めるとき、もしあなたが自分の悔い改めに信頼し始めるとしたら、あなたの悔い改めなどなくなってしまうがいい! あなたが神に本気で奉仕するとき、もしあなたが自分の奉仕に信頼し始めるとしたら、その奉仕などなくなってしまうがいい! 失せ去るがいい! もしそれが、イエスだけによって占められるべき場所を取ろうとするなら、それは反キリストになる。というのも、主の尊い血だけが罪を取り除くことができるからである。

 しかし、いま私があなたに注意してほしいのは、愛する方々。あなたが自分の礼拝によって神に近づくときには常に、祭壇の上の血に注意するよう気を遣わなくてはならない、ということである。なぜなら、それが私たちの礼拝の罪を取り除くからである。私たちが神にささげることのできる最上の礼拝も、完璧にはほど遠い。私たちの賛美は、あゝ、何とかすかで弱々しいことか! 私たちの祈りは、いかにさまよいがちで、いかに散漫になりがちなものか! 私たちが最も神に近づいたときも、いかにはるか遠くにいることか! 私たちが最も主に似た者となっているとき、いかにはなはだしく主と似ていないことか! このことを私は知っている。私の涙については、涙される必要があり、私の信仰は、あまりにも不信仰と入り混じっているため、その悲しい混合物について私は悔い改めなくてはならない。兄弟たち。あなたの目をイエスの血に据えておくがいい。いかなる祈りも、いかなる賛美も、それ自体で神の前に出て行くことはできない。あまりにも不完全すぎるからである。それゆえ、あなたの目をイエスの血に据えておくがいい。あなたの聖なる事がらに関する罪でさえ、ひとたびカルバリの上でささげられた犠牲によって取り除かれるようになるためである。

 あなたは、こうも思わないだろうか? 私たちが、いやまさってすぐれた祈りをささげたければ、祈りにおける自分の申し立てとして、もっと祭壇の上の血について考えるべきである、と。私は、原始メソジスト派のある祈祷会のことを思い出す。そこでは、ひとりの兄弟が自分の願い事をすらすらと口にすることができないでいた。彼は非常に真面目で熱心ではあったが、ほとんど全く前に進めなかった。彼は、祈る力を持っているとは思われなかった。彼は、メソジストたちが良くするように叫びはしたが、そこには大したものがなかった。だが、彼が本当の祈りをささげあぐねているときに、その部屋の端にいたひとりの兄弟がこう叫んだ。「血を訴えるのだ、兄弟! 血を訴えるのだ!」 彼はそうした。すると、そのとき彼は大いに力強く祈り始めた。ここに、祈りにおけるあなたの申し立て一切の力が存している。もしあなたがイエスゆえに、またイエスの御名において、イエスの苦悶と血の汗とによって、また、その十字架と受難とによって申し立てることができるとしたら、そのときあなたは、神を説き伏せる大きな秘訣を見つけ出しているのである。あなたの手は、てこの棒にかけられており、望みさえすれば世界をも動かすことができよう。

 また、私たちは、イエスの尊い血を私たちの賛美の最高の音色とすべきではないだろうか? 私たちが神を賛美しているとき、私たちは音楽のことを大いに考える。そうすることで私は誰をも責めはしない。特に、その人が賛美歌の指導者であればそうである。だが、兄弟たち。私たちは、賛美の心や魂よりも、旋律や和音の方をずっと考えるようになることがありえる。あなたの目を、十字架につけられたキリストから離さず、その上で、好きなだけ大きな声で歌うがいい。あなたの目で、あの五つの尊い傷跡を凝視していれば、全音階の中のいかなる音にもまさった音色でキリストを賛美することが助けられるはずである。というのも、次のような音色よりも高い、いかなる音へと私たちは到達できるだろうか? 「イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放……った方である」[黙1:5]。今やあなたは、音階の中でも最高の音を鳴り響かせたのである。おゝ、私たちの主イエス・キリストの尊い血よ、贖罪の犠牲よ、大いなる代償よ! 贖われた者たち全員のハレルヤ合唱には、次のことよりも高い音色は含まれていない。「主は私たちを愛して、私たちを救われた。主は私たちを愛して、私たちのために死なれた。そして、私たちは主の血によって洗われた」。

 ここで云わせてほしいのは、あらゆる種類の礼拝が、――単に祈りや賛美だけでなく、私たちが主にささげることのできる、あらゆる種類の礼拝が、――神に受け入れられる度合は、私たちがそれを、祭壇の上にある血によって示す程度に等しい、ということである。私は、座して瞑想することが、神を礼拝する非常に甘やかなしかたであることに気づいている。あなたにも、同じように感じてほしいと思う。そのような折には、何の言葉も必要ない。あなたは、聖書の中のある一章を読んでいた。すると、神があなたに語りかけてくださった。また、ことによると、あなたは膝まずいて祈っており、神に語りかけていたかもしれない。今、あなたは座して瞑想するがいい。私はじっと静かに座していて、それから上を見上げることを好む。あるいは、目を閉じたままじっとしており、ただ考えることを好む。さて、そのように考えること、瞑想すること、熟考することの中で、あなたにとって最上で、かつ神に最も受け入れられるのは、十字架の近くから離れず、この尊い犠牲の間近にいることである。あなたは聖なる男女が死に臨むとき何と云うか注意しているだろうか? あなたは彼らの枕頭に立ち、彼らに話しかける。もし彼らが何らかの悩みを持ち、良心の苦悩をかかえているとしたら、彼らは何について語り始めるだろうか? 何と、十字架の上におけるキリストの尊い犠牲についてである! 彼らが何という派に属しているか、生前どの教派に加入しているかは大した問題ではない。彼らは常に最後にはこの点に戻って来る。慰めとともにこのいのちを後にしたければ、また、喜びをもって天国に入りたいと希望するのであれば、キリストの尊い血により頼む以外にない。

 あゝ、愛する方々。この場にいるある人々は、この題目についてほとんど考えていないかもしれない。そうした人は常にいる。あなたにとって、イエスが死ぬことなど何でもないのである。しかし、もし心を聖めるものが何かあるとしたら、また、心の奥深くへと掘り進み、私たちの存在の中心そのものにいのちの種を蒔くような真理が何かあるとしたら、また、もしキリスト者を敬神の念に富ませ、へりくだらせ、聖くするものが何かあるとしたら、それは十字架の教理である。私は、あなたが血を流し給う《救い主》についてどう考えているかによって、ほとんど寸分の狂いもなくあなたの敬神の念を測定することができる。もしこの方があなたにとって何でもなければ、あなたはこのほむべき秘密を知ってはいない。だが、もしイエス・キリストがあなたにとって最初であり最後であるとしたら、もしあなたが十字架につけられたキリストを宣べ伝えるとしたら、もしあなたが十字架につけられたキリストを愛しているとしたら、その度合に応じて神はあなたのうちに住んでおられ、あなたは神のうちに住んでいるのである。私がいま語っているのは理屈ではない。キリスト教信仰の境界線上に存していて、受け入れても受け入れなくてもどちらでも良いような真理ではない。これは、福音の核心そのものである。そして、これを取り除くなら、福音は殺されてしまう。この真理を信じないとしたら、あなたは全くキリスト者ではない。もしあなたがキリストの尊い血によって救われていないとしたら、あなたは罪に定められている。いのちの門は1つしかなく、そこにはキリストの血が振りかけられている。もしその扉に背を向けるなら、あの滅びに至る道[マタ7:13]を選んだのである。おゝ、あなたがた、自分の咎を感じている人たち。私の主のもとに来て、罪赦されることを求めるがいい! おゝ、あなたがた、自分の罪を告白する人たち。主の血のもとに来てきよめられるがいい! このことは、今なお真実である。――

   「十字架(き)の上(え)を仰がば いのちあり。
    汝れにもこの瞬間(とき) いのちあり」。

私がこの講壇に立って、この古い、古い物語を告げるようになってから、何年経っただろうか? その告げ方は非常に貧弱で、非常に不完全ではあるが、しかしあなたは、まだそれを聞き飽きてはいない! いかに群衆がこの建物に押しかけて来るか見るがいい。私は、時折あなたがたに、何か全く新奇なものを示すこともできたことであろう。だが、そうしていたとしたら、あなたがたを失っていたはずだと信じる。だが、この古い真理は、たといあなたが受け入れなくとも、あなたの注意をいやでも引かざるをえない。あなたは、それを聞きに来ずにはいられない。――おゝ、あなたがそれを信じるようにもなればどんなに良いことか! これは私を無上に幸せにしてくれている。私は、ほとんど、それによって御使いの幸福すら得ていると云うところであった。そして、時には誇張なしにそう云うことができた。これによって私は堅固な平安が与えられており、それによって私は生きることができており、やがて死ぬこともできると希望している。それによって私は無数の敵に抗してもひとり立つことができ、万人が味方しているかのように幸福に感じることができている。というのも、イエスが私のために死なれた、また、イエスがご自分のからだで私のもろもろの罪を負われた、という大いなる真理のうちにこそ、私の足の拠り所となる岩があるからである。その岩の上にいる者は、そこに立っては、死をも地獄をもものともせずにいられる。おゝ、あなたがやって来て、私の主を信頼するならどんなに良いことか。あなたがた、安らぎのない人たち。あなたがた、平安の意味を知らない人たち! 主を信頼するがいい。主があなたのために死んだと信じるがいい。主を信頼するがいい。そうすれば、あなたは川のような幸せ、海の波のような正義[イザ48:18]を得るはずである。願わくは、私たちがいま聖餐卓のもとに来る際には、この、ひとたび罪を赦すために多くの人のために流された[マタ26:28]尊い血について、大いに考えていられるように!

 

黄金の祭壇の上にすらある血[了]


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