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個人的かつ有効な召し

NO. 2359

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1894年5月6日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1888年2月26日、主日夜


「彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します」。――ヨハ10:3


 もしあなたが、東方の村の近くにいるとしたら、おそらく1つの大きな四角い広場が見えるであろう。大雑把に積み重ねられた石垣がそれを取り囲んでいる。また、1つの門も見えるであろうし、ひょっとするとこの囲い地には、1つ以上の入口があるかもしれない。この広場は一日中空っぽである。羊の群れは隣接する牧草地に出ているからである。だが、季節によっては、夕暮れが近づくと、羊飼いたちがみな、自分の群れをこうした囲い地に連れて来て、一晩中、その中に群れを閉じ込めておく。ひとりの人はごく僅かな羊しか所有しておらず、別の人も僅かな羊しか有していないが、もっと裕福な所有者はずっと多くの群れを持っている。だが、そのすべてが、この、教区囲いとでもいうべきものに囲い込まれている。さて、朝が来る。太陽は早々と起き上がり、羊飼いもそれと同じである。門番が門の所にいて、羊の持ち主たちの顔を見分ける。彼らは三々五々、自分の群れを連れ出そうと羊のおりの所に下ってくるのである。ある羊飼いがやって来ると、自分の僅かな羊たちを連れて行く。別の羊飼いが到着し、もう少し多くの羊を連れ出す。どちらの場合も、羊飼いが自分の羊を囲いの中の残りの羊から引き離す手間は全くかからない。あなたや私には、ほとんど不可能と思えるであろう。また、確かに私たちであれば、こうした別々の群れを分けることなど決してできないはずである。だが、羊飼いは囲いの門の所にやって来るや否や、このことを易々と行なう。彼の羊の中には、彼を非常に愛しているものが何頭かいて、常に彼の手のごく間近にとどまっている。また、しばしば彼から一番甘やかな牧草をもらえるため、彼の足音を聞いただけで飛び起きるのである。彼らは、彼の姿を認めて、真っ直ぐに門の所に向かい、すぐにも彼と一緒に牧草地に出て行こうとしている。別の羊たちは、――残念ながら、群れの中でもずっと多くの羊たちではないかと思うが、――それほど熱心ではない。だが、羊飼いが一声発すれば、彼の声を聞き分ける。そして、彼が一頭一頭の名前を呼んで行くとき、――というのも、これは東方の羊飼いが文字通り行なうことだからである。――また、彼が羊たちの名前で呼び始めると、この、羊毛を着た生き物たちが彼の声の調子を聞き分けて、彼の呼び声に反応するのが分かるであろう。それは、私たちの飼い犬が主人の声と自分の名前をすぐさま聞き分けるのと同じである。このように呼ばれた羊は、別の群れを押し分けて進み、そこから出て来ると、自分の羊飼いについて行く。そして彼は彼らを、自分の用意しておいた、あるいは、彼らのために見つけておいた牧草地へと導いて行く。

 さて、これは、かの良い《羊飼い》がご自分の羊たちのためになさることと全く同じである。この方は囲いの門の所に来られる。今晩ここにいる私たちは、囲いの中にひしめいている羊のようなものである。私には、あなたがたの間の誰がキリストの羊であるか、あるいは、誰がそうでないかは分からない。私の声で、あなたがたを、あなたがたとともにいる人々から引き離したければ、キリストが私の声を用いて、それをご自分の御声のこだまとしてくださる以外にない。かの偉大な、羊の《牧者》を抜きして、いくら私が好きなだけ長く語っても、主に選ばれた者たちと、それ以外の人類とを区別することはできない。だが、もし主ご自身がやって来てお呼びになれば、主の選びの民はその恵み深い御声を聞きつけるはずである。そして、主が彼らをひとりひとりご自分のもとに、神学用語で云えば「有効召命」というもので――(そして、それは良い表現である。というのも、それは有効な召しだからである。)――お召しになるとき、羊は主の御声を聞き、すぐさま起き上がると、主について行く。というのも、彼らは主の御声を知っており、主は彼らを連れ出されるからである。

 私は、3つの観点から、この聖句について語りたいと思う。

 I. 第一の点は、《良い羊飼いであるイエスは、しばしばご自分の羊と触れ合ってくださる》ということである。

 主は彼らを買い取られた。彼らの贖いの代価を完全に支払われた。ご自分の羊のためにいのちをお捨てになった。それで、彼らは有効に買い戻された。そして主は、天に上っては彼らを弁護し、御父の御前にご自分の死を記念すべきものを提示された。それでも主は、ご自分のこのみことばによれば、なおも彼らとともにおられる。「見よ。わたしは……いつも、あなたがたとともにいます」[マタ28:20]。主は、下界にいるご自分の羊たちを、単に代理の羊飼いたちの世話にだけまかせてはおられない。いわんや、彼らは雇い人の手になどまかされてはいない。主には、ご自分の代理の羊飼いたちがあるが、ご自分も彼らとともにおり、今なおご自分の群れのもとにやって来られる。今なおご自分の羊を名で呼ばれる。今なお彼らを連れ出される。この良い《羊飼い》が今なおご自分の羊と触れ合ってくださる様々なしかたについて考えてみよう。

 最初に、主が私たちと触れ合ってくださるのは、私たちの回心においてである。主は、ご自分の御霊の数多くの訴えによって、また、ご自分の愛の数多くの懇願によって、私たちがまだ若かった頃に、また、すでに過ぎ去った日々において、私たちのもとに来ておられた。だが、その頃の私たちは主の御声を知らなかった。私たちの耳はその頃開かれておらず、私たちには主の呼び声が聞こえなかった。主は私たちを捜して荒野に出て来られ、私たちを求めて山の急斜面に上られた。だが、それは、しばらくの間は、疲れるだけの捜索であり、ほとんど何にもならなかった。それから、決して忘れるべきではないある日、主はその有効な恵みにおいてやって来られた。私は、主が来られた、と云うものである。それまでも、母親はやって来ていた。教師は来ていた。牧師は来ていた。種々の書物は来ていた。説教は来ていた。だが、すべての最後に、主ご自身が来られた。あなたは、主が来られたときのことを覚えているだろうか? 私は、主が最初に私と会ってくださった場所を決して忘れることができない。また、ついに主が私の心をかちとられたときの、その御声の調子は、今晩も私の耳の中で、まるで昨日聞いた婚礼の鐘の音のように明瞭に鳴り響いている。私は、あの呼び声がいかに響きわたったかを決して忘れられない。「見よ! 見よ! 地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ」*[イザ45:22]。そのとき、私は、主ご自身の豊かな恵みによって、主の御声が分かり、それに応答した。そして、私は主のものとなり、主は私のものとなった。主が自ら求愛し、ご自分の愛する御顔を明らかに示してくださらなかったならば、私の心がかちとられることも、私の霊が全く主に明け渡されることもありえなかった。あなたも、それがいかに自分に起こったか覚えているではないだろうか。喜びと感謝をもってそれを思い巡らすがいい。

 それ以来、主イエスは、しばしば私たちのもとへ、導きによってやって来られた。私たちの中の多くの者らは、こう云うことができる。主は私たちを、人生のあらゆる小道を通して導いて来られた、と。また、いくつかの折々において、また、路の困難な曲がり角において、主は私たちのもとに来ては非常に慰めに満ちた助言を与え、あふれるほどのあわれみを注いでくださった。それは、私たちが主をほめたたえてこう云ったほどであった。「主はまことに私に近くおられる。この場所は、何と神聖なことだろう! こここそ神の家にほかならない。ここは天国の門[創28:17]だ」、と。何人かのごく少数の聖徒は、キリストが彼らとともにおられなかった時のことを告げることができない。主が常に彼らとともにおられたためである。私は、自分もそうした人々のひとりとなれれば良かったのにと思う。だが、私もほとんどそうした立場にあったと申し立てることはできるかもしれない。というのも、喜ばしいことに私も、日頃は常に、主イエス・キリストの臨在を実感していると云えるからである。私は、他のいかなる人よりも主に向かって話をしてきた。これまで話を聞いたことのある他のいかなる人と過ごすよりも多くの時間を主とともに過ごしてきた。そして、私の心は、日の下にいる他のいかなる人のもとに行くよりも、ずっと喜ばしく主のもとに行って来た。ことによると、あなたは、農耕地の上で深山鴉たちが、日がな畑から畑へと飛び回り、鍬をかかえている人の後について回るのを見たことがあるかもしれない。彼らはどこに住んでいるのだろう? どこに彼らの巣があるのだろう? 日が沈む頃まで待っていれば、それが分かるであろう。今や彼らはみな、カーカー鳴きながら、また、声がかれるほど会話を交わしながら、上って行く。そして、しばらく大急ぎで行ったり来たりした後で、かの古い木々のもとへと飛び去って行く。古びた男爵邸の回りに立っていて、彼らの家屋敷とも家庭ともなっている木々のもとへと。さて、私たちの中のある者らにとって、キリストはそのようなお方である。私たちは、どうしても一日中外を出歩いては、注意を要するあれこれの仕事を手がけざるをえない。だが、暇な時間になるや否や、私たちはどこに自分の巣があるか分かっている。私たちの中の多くの者らの心は、さながら船乗りの羅針盤の針のようである。それが見えるだろうか? それは北極を指している。そうしたければ、その針を指で押して、ぐるりと回しても良い。それは今は《東》を指している。しかり。もっと回せば《南》を指させることになる。だが指を離すと、たちまちその真の方位に戻る。私たちの心もそれと同じである。私たちの心は、御座の上におられるお方とともにあり、常にキリストに引きつけられ、その方角へと向かわさせられる。そして、主のもとに戻るまで、決して私たちは安らぐことがない。主は、朝に私たちが最初に思うお方であり、夜に私たちが最後に瞑想するお方であられる。私たちは真実にこう云える。――

   「神よ、われ夜に 汝れ思い、
    昼には語らん、汝れのこと。
    汝が愛、尊び 喜びて
    汝が真理(まこと)こそ わが力。
    昼、なお暗く、夜、長し、
    汝が思いにて 祝福(めぐ)まずば。
    いかなる美歌(うた)も ただ物憂し、
    汝れが主題(かなめ)に あらざれば」。

 そして、愛する方よ。あなたは知っているであろう。いかに主が、同情という点において間近におられるかを。次のように記された言葉は決して誇張ではない。「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った」[イザ63:9]。時としてあなたは激しい苦痛を伴う病にかかり、人々のいわゆる「塗炭の苦しみ」を味わうことがあった。あるいは、ことによると、それよりも激しい貧困の激痛を知ってきたかもしれない。あるいは、おそらく、――私としてはそうしたことを誰にも望まないが、――あなたがたの中のある人々は、自分が最も窮乏したときに友人たちから見捨てられ、情け容赦ない災厄の中で独り立つしかなくなり、誰からも避難所を提供してもらえそうにないということがどういうことか知っているであろう。おゝ、だが、私たちが本当にキリストを全く知るようになるには、そうした時がやって来る場合しかない! 私たちが主の同情に満ちた臨在の甘やかさを完全に知るには、主が私たちの傍らに立ってくださり、私たちがパウロとともにこう云えるようになるしかない。「私の最初の弁明の際には、私を支持する者はだれもなく、みな私を見捨ててしまいました。……しかし、主は、私とともに立ち、私に力を与えてくださいました」[IIテモ4:16-17]。しかり。主は、健康で強壮な羊からは遠く離れておられるかもしれない。だが、この良き《羊飼い》は常に病み衰えている羊の近くにおられる。そして、心が張り裂けそうになるとき、キリストは常にやって来られる。主は、心が打ち砕かれるとはどういうことかも、見捨てられることも、苦悶することも、血の汗を流すことも経験された。それは、悲しみのうちにある際の私たちに同情できるようになるためであった。そして、十字架に釘づけられた御手ほど柔らかな手はどこにもない。イエスは、母親と同じくらいすぐさまご自分の民の一切の苦しみを感じとってくださる。

 やはりそれに加えて良いだろうことは、私たちの主が常に、とりなしにおいて私たちとともにおられるということである。この天来の先見の明は、まだやって来ていない種々の苦難について、私たちのために訴えるという実際的な形を取る。あなたにはペテロが見える。サタンはすでに彼を麦のようにふるいにかけることを願っていた。そして、そのときサタンは、ただ願うことしかしていなかった。彼の悪意は非常に迅速だが、それでも、その時点の彼は、単にペテロをふるいにかけたいと願っていただけであった。だが、悪魔がその願いをいだいていたとき、キリストは悪魔を遠く引き離して進んでおられた。「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました」[ルカ22:32]。そのように迅速にキリストの注意深い愛は、私たちの一切の必要を追い越してしまう。また、かの最高の敵の暗黒の翼すら、私たちの《最高の友》、私たちの主たる《助け手》、私たちの《最も愛する方》のとりなしの愛ほど素早く飛ぶことはできない。主は常にあなたとともにおり、単にあなたが必要としていることだけでなく、これから必要になることさえも見てとっておられる。今のあなたにいかなる危険があるかばかりでなく、将来のあなたにいかなる危険があるかをも注意しておられる。サタンが自分の矢筒から矢を抜き取るよりも先に、また、彼がそれを弓につがえるはるか以前から、キリストはすでにその、とりなしの愛という盾を用意しており、それがサタンの攻撃からあなたを守るのである。おゝ、キリストの羊よ。あなたにとって、このこと以上に幸いな知らせがありえるだろうか? この良き《羊飼い》は常にあなたとともにおられるのである。主は云われた。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」[ヘブ13:5]。主の葡萄畑よ。このことを聞き、それを歌にするがいい。「わたし、主は、それを見守る者。絶えずこれに水を注ぎ、だれも、それをそこなわないように、夜も昼もこれを見守っている」[イザ27:3]。ここには、赤葡萄酒の葡萄畑のための歌がある。あらゆる聖徒は、今晩その心の中でこれを歌うがいい。

 それでは、第一の点についてはそこまでとしよう。イエスはしばしばご自分の羊と触れ合ってくださる。

 II. 第二に、やはりこの聖句から明らかに分かるのは、イエスは《ご自分の羊の名前を呼ばれる》ということである。「彼は自分の羊をその名で呼んで」。あなたはトマス、あなたはマリヤ、あなたはマルタ、あなたはラザロ、そして、あなたは取税人のマタイ、あなたはマグダラのマリヤ、と。主はあなたがた全員を名前で呼んでくださる。これは何を暗示しているだろうか?

 それが意味する最初のことは、親密な知識である。愛する方々。かつての私には常々、非常に信頼できる記憶力があり、単にこの教会の六千人近い会員ひとりひとりの顔を見分けることができるだけでなく、――それは今でもできる。――その名前まで分かっていたし、めったにそれを忘れたり間違えたりすることはなかった。むろん、ある女性たちがその苗字を変えて、私にそれが知らされていなかった場合は別だが、その時でさえすぐに私はその誤りを直したものである。だが、今の私は、時としてあなたがた全員の名前を思い出せないことがある。ことによると、それは私が、あなたがたと会う機会をあまり多く持てなくなっているためかもしれない。だが、私たちの主は、ご自分の無数の贖われた者たち全員を名前で知っておられる。主には、いかなる記憶力の減退もなく、主は常に彼らをご覧になっている。主の目と主の心は、日夜ご自分の民の方を向いている。「彼は自分の羊をその名で呼んで」。私は、この箇所について説教したいと願うよりは、あなたにそれを口ずさませるか、むしろ、霊的な口にふくんで味わってほしい、そして、その風味と甘やかさを感じとってほしいと思っている。「わたしは、わたしの羊を知っています」、と良き《羊飼い》は云われる。この方は、単に彼らがいかなる者か知っているだけではなく、彼らが何をしているか、また、どこにいるかをご存知である。「彼は自分の羊をその名で呼んで」。ここには、彼らに対する主の親密な知識が暗示されている。

 次にこのことが意味しているのは、このことではないだろうか? もし主が私たちを名前で呼ばれるとしたら、主はこの上もない平易さをもって私たちに語りかけるのを常としておられる。主が私たちに語りかけるとき、私たちには、主が何を意味しておられるかが分かる。主のみことばは、よそ者には謎めいていて神秘的である。だが、主が私たちをご自分の羊にしてくださるとき、主は非常に平易に語り、私たちを名前で呼んでくださる。人々は、互いにごく打ち解けあった間柄であるときに限って、苗字ではない名前の方で語りかけ合うものである。私たちはみな、何某氏であるか、何某師であるか、何某博士であるか、何某地主である。だが、家にいるときには、一切の格式がなくなる。私たちはリチャードやメアリーになる。母親は、私たちを「〜氏」と呼ぼうなどとは決して考えないし、父親は、「〜嬢」などとは云わず、私たちのことを名前で呼ぶ。そのように、主イエス・キリストは私たちを名前で呼ぶことによって、いかに平易に私たちと語ってくださるかを示しておられる。また、いかに恵み深い親しさが、この《かしら》とその神秘的なからだとの間に、また、《花婿》とその花嫁との間に、また、《愛する方》とその最愛の《教会》との間にあるかを私たちに見てとらせておられる。

 「彼は自分の羊をその名で呼んで」。このことは、はっきりとした個々人への呼びかけをも意味していると思う。何かがその名前で指し示されるとき、それは、きわめて明確なものとしてあなた自身のものとなる。ロウランド・ヒル氏についてこのよなう物語が記録されているが、それが何らかの本の中に印刷されているのを見たのは、ごく最近のことであった。だがそれは、いかにも真実めいた趣のある話である。というのも、彼ならばまさしく行ないそうなことだからである。彼は、家庭礼拝の中で、自分の召使いたちのために名前を挙げて祈るのを常としていた。これこれの祝福がサラにありますように、また、これこれがジェーンにありますように、また、彼の従僕が出席していれば、これこれがジョンにありますように、という具合である。そこへ、ひとりの料理女が新しく雇われた。その名前は、当時は今よりもごく普通の名前の1つで、「ビディ」といった。それで、祈りの時に、ヒル氏は祈った。神がサラを祝福してくださるように、そして、その他の者たちをひとりひとり挙げて、主がどうかビディをお救いになり、彼女に新しい心とゆるがない霊を与えてくださるように、と祈った。祈りが終わり、召使いたちが立ち去った後で、コツコツと書斎の戸を叩く音がした。そこで、この善良な教役者は云った。「おはいり。何かね?」 「ヒル様、きょうは、あなた様の礼拝に出られて、たいへん嬉しうございました。それに、このお宅は居心地の良い所になると思っております。ですが、どうか私の名前をお祈りの中で挙げるのはよしていただけませんでしょうか。そうしたことには慣れておりませんもので。それに、私にはそれが我慢できないと思いますもので」。「いいとも、ビディ」、と彼は云った。「私は不愉快なことは決して何もしないように努めておる。お前を悩ましてすまなかったね。二度とお前の名前を祈りの中には挙げないよ」。それで彼女は自分の仕事に戻った。さて、次の家庭礼拝のとき、ヒル氏は次のようなしかたで祈った。まず大まかなしかたで祝福を乞い求めた後で、彼は云った。「さて主よ。どうかサラを祝福し、彼女を回心させ、あなたの道に導いてください」。そして、そのように彼は、彼らの残りの者に言及して行き、それから、こう云い足した。「主よ。私はビディを祝福するようあなたに求めることができません。なぜなら、彼女は祈りの中で自分の名前を挙げられないようにと熱心に願ったからです」。その祈りは終わった。すると、やはり戸を叩く音がした。「おはいり」、とヒル氏が云った。それは、やはりあの料理女だった。「ヒル様、お願いです」、と彼女は云った。「あなた様には、あのように祈ってほしかったのではありません。私は祈りの中で省かれたくはありませんでした。もしよろしければ、私の名前も挙げてくださいまし」。「そうかい、ビディ」、と彼は云った。「では、そうしよう。ならば神はお前を祝福してくださるだろうよ。間違いない」。

 よろしい。さて、そのように人々を個人的に言及するしかたには非常にすぐれたものがある。なぜなら、そのとき彼らは、あなたが自分のために祈っていると感じるからである。そして、主イエス・キリストがご自分の羊の名を呼ばれるとき、彼らは明確に、主が自分に語りかけておられることを悟る。あなたがたの中のある人々は、これまで、この講壇から主イエス・キリストによって語りかけられるとはいかなることかを知ったことがあるではないだろうか? それは、まるで私があなたの名前と住所を言及したのと同じくらい全く明確なものであった。そうしたことがあったことを、あなたは知っているはずである。それこそ、あなたがたの中のある人々が最初にキリストに導かれたしかたである。イエス・キリストの福音が力をもってやって来たのは、単に罪人たちに対してではなかった。罪人であるあなたに対してであった。単にすべての人に対してではなく、明確に、選び出されたあなたに対してであった。ご自分の福音が個々のひとりひとりに対するものであることを示すために、主は人々を名前で呼ばれる。

 こうした呼びかけがやはり私たちに教えているのは、私たちの種々の必要に対するキリストのことばが、素晴らしく適切なものであるということである。聖書の1つの聖句の中にはしばしば、あわれな倦み疲れた霊によってまさに必要とされている使信がこめられている。また、いかにしばしば主は、聞いているひとりの人の思いを整えた上で、説教者の言葉を適切なものとしてくださることか。それは、あたかも説教者が、その未知の人について何もかも知り尽くしていたかのようである! 時々、友人たちは私に手紙を寄こしてこう云う。「私たちは、今度これこれの種類の友だちをタバナクルに連れて行きます」。彼らは、私が自分の使信を適切なものにできるだろうと思って、そうしたことを知らせて寄こすのである。だが、あなたが誰を連れて来るか私に知らせてはならない。私は知りたくはない。なぜなら、私には、自分の使信をあなたの友だちに適切なものにすることはできないからである。あなた自身の心からの熱烈な祈りとともに、あなたの友だちを連れて来るがいい。だが、そのことについては何1つ私に知らせないことである。神は、仰せになりたいことを、ご自分のしもべを通して語ってくださるであろう。そして、それは、いかに思慮深い愛によって示唆されることにもまして大きな勢いと力をもってやって来るであろう。おゝ、願わくは、神が今晩あなたがたの中のある人々に語りかけてくださるように! 願わくは、あなたが、あなたの名前によって召し出され、あなたの心の中でこう感じるように! 「イエスは私を呼んでおられるのだ。ならば、私は今すぐイエスのもとに行き、イエスに自分の信頼をかけることにしよう」、と。

 III. さて、しめくくりに、この第三のことを述べることにしよう。《こうした名前による呼びかけは、特別な時にやって来る》。私は、主の個人的な呼びかけが聞かれる、4つの特別な時期について言及したいと思う。

 最初に、それは回心の際にやって来る。ことによると、そのことについてはすでに十分述べたかもしれない。そこでは、罪人たちが名前で呼ばれる。一般的に宣べ伝えられた福音は非常に良いものである。だが、個別的に宣べ伝えられた福音こそ、人々を救う。もしあなたが今晩ここにやって来たのが、単に群衆のひとりとして話を聞くためであったとしたら、おそらくあなたはここに来たことによって何も得ないであろう。だが、かりにあなたがこの場に座った時に、こう云っていたとしよう。「主よ。私に語りかけてください! 主が私を助けて、あらゆる言葉を私自身の場合に当てはめてくださるように! どうか私を助けて、引用されるあらゆる約束をつかませてください!」――それこそ、祝福を獲得する道である。人は時勢が上向いていると云い、景気は好況に転じているという。だが、ある特定の商売に携わっている友人に会うと、彼はこう云う。「私の方では、景気は上向いちゃいませんな。前よりもお得意が増えてるわけじゃありませんし、商売の利益はちっとも増えちゃいませんし」。まさにその通り。あなたは一般的な祝福によっては益を得ないではないだろうか。あなたに必要なのは、あなた自身の魂にやって来る、特定の祝福なのである。というのも、この点においては、物質的な事がらも、永遠の事がらも同じだからである。私たちには、私たち自身のための祝福が必要である。さて、商売においては、こうした種類の利己主義を抑えなくてはならない。だが、霊的な事がらにおいては、それを発揮してかまわない。というのも、私たちの欲する人々は、「よりすぐれた賜物を熱心に求め」[Iコリ12:31]る人々だからである。ひとりの善良な老人がこう云った。「主の民は貪欲な人々ですね」。「おゝ!」、とある人が云った。「彼らは、いかなる貪欲さも取り除くべきですよ」。「そうです」、と老人は答えた。「ただし、霊的な貪欲さは別です。パウロはそれをこう勧めました。『よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい』、とね」。それは、全く正しい。私たちは熱心によりすぐれたもの、すなわち、天的な事がらを求めるべきである。こうした事がらを自分自身のために求めるがいい。そして、それらを自分のものにするまで休んではならない。願わくは、主が、回心によって、あなたを名前で呼んでくださり、あなたがこうしたすぐれた賜物のうち最初のものを得られるように!

 第二のこととして、私が知っているのは、主がある人々を清新な奉仕へと名指しで呼ばれることである。主はこう仰せにならなかっただろうか? 「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい」[使13:2]。時として、《日曜学校》教師が求められることがある。今晩この場に座っているひとりの青年は、本来《日曜学校》にいるべきである。その名を挙げることはすまい。ことによると、私がそうしたら彼は腹を立てるかもしれない。だが、私は主が彼を呼んでくださるように希望する。この場に座っている、ひとりのキリスト者婦人は、学校に携わっているか、小冊子配布地域を受け持っているべきである。もしかすると、この場にいるひとりのキリスト者婦人は、年数からも知識からも、聖書学級を教えているか、母親集会を導いているかすべきかもしれない。ことによると、私が語りかけている人々の中には、心が大きく、相当の能力を有している人がいるかもしれない。その人は自分の時間のすべてを自分の商売に費やしていて、キリストのためには何の働きも行なっていない。その人は、《宣教会館》を一棟有し、それを自分で維持するべきである。その人には十分な金銭があり、十分な才質もある。あなたがたの中のある人々は、自分がこれからキリストのために何ができるか一度も考えたことがない。ならば、それを見いだす道は、《救い主》のために何かを行なうことである。私たちの中には、あまりにも多くの「内気な」人々がいる。彼らは、内気なあまり怠惰になっているほどである。愛する方々。あなたの隠れ場から出て来るがいい! しかり。私はあなたの名前を挙げはしない。確かに私はその種の人々を知っており、ほとんどその名前が口から出かかってはいるが、あえて云いはすまい。だが、私は切に願う。《主人》があなたの名前を口にして、あなたが自分の財と、自分の時間と、自分の能力を聖別して、この、滅びつつある大ロンドンのどこかで主のわざにささげようになることを。「彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します」。連れ出す先は、より広い領域、より大きな事業、より完全な主への献身である。願わくは、主がそれを今、あなたがた、私の兄弟姉妹の中の多くの人々に対して行なわれるように!

 時として主は、ご自分の聖徒たちを名前で呼んで、彼らを天来ののいのちにおけるより高い境地へと連れ出されることがある。来るがいい。あなたがた、これまで常に遅疑逡巡し、疑い、恐れていた人たち。あなたがそのようにしている必要はない! 主はあなたの信仰を完全な確信へと招き、あなたの愛を熱狂主義へと、あなたの祈りを格闘へと、あなたの願いを期待へと、そして、あなたの現在の主への不完全な奉仕を、主の御国の進展のために、あなた自身の――からだと魂と霊との――完全な献身へと招かれる。愛する方々。私たちは、まだ自分に達することのできるすべてのものに達してはいない。彼方にはまだ何かがあり、そこへと《主人》は私たちを召しておられる。「しかし、私はそこまでは上れません」、とある人は云うであろう。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます」[マタ19:26]。あなたは強くなり、用いられ、喜びに満ちることができる。いつも弱くて、軽率で、悲しみに満ちている必要はない。おゝ、《天来の御霊》の息によって、あなたの魂の中で霊的いのちが増し加わり、あなたがそれを豊かに持つようになり[ヨハ10:10]、主の御名をほめたたえ、賛美するまでとなればどんなに良いことか!

 しかし、最後に、私たちの中のある者らには別の召しがやって来るであろう。そして、私たちはそれから尻込みすることは非常に、非常にまれであろう。私が意味しているのは、天国に帰郷するようにとの召しのことである。私は、今週、あるいは、来週、それが誰のもとに届くか知らない。だが、あなたがたはみな、そのための準備をしておくがいい。それは、あなたを愛するお方の任命した使者によってやって来るであろう。このお方は、ご自分のいる所にあなたをも一緒におらせ、ご自分の栄光をあなたが見られるようにしたい[ヨハ17:24]と切望しておられる。ことによると、その召集は、基督女のもとにやって来たときのように、この印――「愛をもって鋭くした矢尻のついている一本の矢で……たやすく彼女の胸に入り」こむもの――とともにあなたのもとにやって来るかもしれない。彼女は、その印が何を意味しているかを知り、自分の主のお召しを歓迎した。それは、様々に異なるしかたでやって来るであろう。ひとりの老いたキリスト者は、癌で死にかけていたとき、別の痛ましい病気で非常に苦しんでいる別のキリスト者に出会った。「でもまあ、兄弟の方」、と彼女は云った。「ご承知の通り、私たちはみな、何かに死ななくてはならないのですわ。さもなければ、地上で永遠に生きることになりますもの。主がお送りになるお使者と争わないようにしましょうよ」。主は、ご自分のみこころの時に、正しいしかたで、ふさわしい使者をお送りになるであろう。

 先に引用したロウランド・ヒルは、非常に奇抜な云い回しを用いることがあった。彼は、非常に年老いたとき、エヴァートンにいるひとりの敬虔な婦人に会いに行った。彼女はほとんど九十歳近かった。そこで彼は彼女に、故郷に着いたら、そこで自分のことを言及してほしいと告げた。というのも、彼は、そこにいる人々がほとんど自分のことを忘れてしまったのではないかと考え始めたからである。彼はすでに非常に老いており、自分の愛しい主がいる故郷へと行き、あのほむべきヨハネたち――バプテスマのヨハネと、愛された弟子ヨハネと、ジョン・バニヤンたち――、そして、彼が言及した他の何人かのヨハネたちと会えれば嬉しく思っていた。それからほどなくして、彼も故郷に帰った。彼は、ほとんど彼女に追いつかんばかりであり、もう少しで彼女が彼の使信を伝える必要をなくすところであった。よろしい。あなたが彼と同じくらい老齢まで生きるか、中年で死ぬか、あるいは、回心後ほどなくして死ぬかは、大して重要ではない。主がその使者を遣わし、その使者は私たちを知っており、私たちはこう云う声を聞くはずである。「さあ、立って、出ておいで」[雅2:10]。私たちは、あなたが自分の翼を張り伸ばして立っていてほしいと思う。あの翼を張り伸ばしている「贖いのふた」の上の熾天使のようになり、天来の命令がありさえすれば、いつでも死ぬ準備ができているかのようにしていてほしいと思う。あなたは恐れているだろうか? 愛する子どもよ。故郷へ帰るのを恐れている? あなたは、寄宿学校を好むあまり、休暇を全く願わないのだろうか? 愛する心よ。あなたは、婚礼の日を、また、《花婿》を、永遠の喜びを恐れているのだろうか? 兵士よ。あなたは勝利と栄冠を恐れているのだろうか? 否、否。恐れる代わりに、「いつまでも主とともにいる」[Iテサ4:17]ことの至福を楽しみに待ち始めようではないか。願わくは、神が私たちを助けて喜んで喜ばせ、信仰によって今日、花の冠を戴かせてくださるように。それを、ほどなく私たちは現実に戴くことになる。また、神が、今も私たちに、喜ばしい指先で立琴の弦をつまびかせてくださるように。その指先は、まもなく永遠を通じて和弦をかき鳴らし、私たちはこう歌うことになる。「ハレルヤ! ハレルヤ! ハレルヤ! 私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ってくださった方、キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン」*[黙1:5-6]。

 この礼拝式のしめくくりに、この節を歌いたいと思う。――

   「永久(とわ)に 主と在り!
    アーメン! かくあれ!
    死よりのいのち 一語(ここ)にあらん、
    『こは 不滅なり』!」

 

個人的かつ有効な召し[了]


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