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町の大きな喜び

NO. 2352

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1894年3月18日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1888年1月22日、主日夜


「それでその町に大きな喜びが起こった」。――使8:8


 「ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた」。そして、彼の宣教の結果、「その町に大きな喜びが起こった」。彼は、非常にすみやかに、非常に尋常ならざる成功を収めた。彼が口を開くや否や、人々の耳目を集め、ほんのしばらく自分の使信を宣告しただけで、人々は喜んでそれを受け入れ、多くの者たちがキリストに回心した。それで、「その町に大きな喜びが起こった」のである。

 何がこの素晴らしい祝福の理由だっただろうか? 何事かが、何年も前に行なわれ、ピリポのための道備えをしていたのである。かつてその地域に、ひとりの倦み疲れた人がやって来て、スカルにあった井戸の傍らに腰を下ろしたことがあった。その人は、サマリヤの娘に向かって、生ける水について話をし、彼女はそれを聞いて、信じて、救われた。そして、彼女は、それ以前には堕落した女であったが、町に取って返し、人々に告げたのである。自分はキリストと呼ばれるメシヤに出会いました、と[ヨハ4:29]。ほぼ間違いなく、スカルで私たちの主が行なわれたこの働きが、その地方全体に影響を及ぼしていたのであろう。だから、ピリポがサマリヤの町に行ったとき、彼はそこに主の備えられた人々を見いだしたのである。イエスが種を蒔き、ピリポが来て、収穫を刈り入れたのである。

 ここから学ぶがいい。神のためのいかなる良い行ないも失われることはないことを。たといあなたが、ある村か町で労した後で、大きな結果を何も見なかったとしても、他の誰かが成功を収めることもありえる。たといあなたが、ある人のために特に祈りを積み、その人をキリストにかちとろうと労した後で、しかし、その魂を決心に至らせることがなかったとしても、他の誰かがそうすることはありえる。私たちは、神とともに働く者[IIコリ6:1]であるのと同じく、互いとともに働く者である。そして、ひとりの人が始めたことを、別の者が仕上げることがありえる。パウロが植えて、アポロが水を注ぎ[Iコリ3:6]、誰か他の者がやって来て収穫を集めることがありえる。では、あなたの主なる《主人》が、御国の良い種[マタ13:24]を蒔くことで満足し、収穫を刈り入れることはピリポにまかされた以上、たといあなたが即座の報いは生じさせないような働きに召されるとしても、満足できるではないだろうか?

 しばしば私は、冬の休暇の間、マントンの防波堤に何台もの荷車が下りて行くのを見てきた。それらは、膨大な量の石を運んでいた。海中に投げ入れられるべき、何万噸にもなんなんとする石塊である。長いこと私は、その努力の成果を全く見なかった。途方もない量の塊が海中に投ぜられたが、海水に覆われてしまった。だが、見えない所で何かがなされつつあるという確信を私は感じていた。何も目に見えてはいないが関係ない。しばらくすると、石の堆積が海面の上に姿を見せ始めた。そして私たちに分かったのは、大きな基礎工事がすでになされていたということであった。その構造物がほぼ完成し、人々が片づけを始め、あらゆる準備を整え出すと、私たちは云う。「何とすみやかに働きが進むことだろう!」 しかり。だが、それは実は、私たちには全く何も見えていなかったときも、同じくらいすみやかに進んでいたのである。あの何万頓もの石塊は失われたのではなかった。それらはみな、水中の基礎を形作ることになった。そして、後でその上に何が建てられようと、それが用いられることによって担う栄誉は、海底深く横たわっているものにも等しく与えられるべきである。

 私たちの中のある者らは、何年間働いても、自分の労苦の成果を決して見られないかもしれない。だが一瞬たりとも気を落としたり、意気阻喪したりしないようにしよう。やがて他の人がやって来て、あらゆる人の口がその人の行なう大いなる働きへの嘆声で満たされるかもしれない。だがしかし、結局において、歴史を正しくお読みになるお方、すなわち、歴史をお書きになる大いなる神は、知っておられるはずである。これほどの成功を収めているように見えるこの人が用いられている大きな理由は、その人の前に多くの人々が労苦していたことにあることを。《主人》ご自身のご奉仕が、サマリヤに下って行った際のピリポの成功にとって、どれほどの道備えとなっていたかは測り知ることができない。

 そして、私の信ずるところ、いずれこの大ロンドンでも、現在にまして素晴らしく、明るい時代が見られるようになるはずである。それ以前に何年も、この地では多くの働きがなされていたからである。信仰ゆえに殉教者となった人々がパウロ十字架*1で行なった数々の説教を、無駄な努力だったと云ってはならない。私は、キリストへの忠誠ゆえにスミスフィールドで焼かれた人々が、そこで行なった神のことばの宣言が失われることになるとは決して信じない。決して想像しないようにしようではないか。あの、テムズの向こう岸にある諸教会を占めていた、連綿と続く清教徒の説教者たちがキリストのために行なった栄光に富む証言が失われることになるなどとは。また、後代のジョン・ニュートンや、ロメーンや、ホイットフィールドその他の、福音の忠実な説教者たちの証しが水泡に帰し、彼らの行なった一切のことが失われるようなことはないはずである。しかり。ロンドンは現在、私たちの望む状態からはるかに隔たった所にあるであろう。だが、キリストの労苦が失われなかったのと同じくらい確実に、主のために来て労苦した者たち――そして、今は死んで天国にいる者たち――によって蒔かれた種はいずれ芽を出し、いつの日か、今よりも幸いで明るい時代に実を結ぶはずである。ことによると、私たちの中のある者らが自分の先祖たちとともに眠ることになる、来たるべき日には、私たちが自分の主のために行なった奉仕の直接の結果として、町に大きな喜びが起こるかもしれない。クロムウェルの時代には、午前中のある特定の時間にチープサイドを歩いていると、あらゆる盲人が引き寄せられているのが見えたはずだと云われる。なぜなら、あらゆる家で家庭礼拝が持たれていたからである。また、午前中のその時間には、町のほとんど全商人の家の窓々から、詩篇が歌われるのが聞こえていた。今では、そうしたことはない。だが、再びそうなることもありえる。まだ地面の中に横たわっている、その種を信じようではないか。誰かがそれを掘り返すだけで、それは芽を出し、成長して、神の栄光が賛美されることになるはずである。

 これは、私としては長い前置きだったとあなたは云うであろう。たまには、それもこらえてほしい。さて、今からはこの聖句に目を向けて行こう。「その町に大きな喜びが起こった」。

 I. まず第一に、それは、《大きな悲しみから生まれた喜び》であった。

 普通、それは最上の種類の喜びである。そうした種類の喜びはヤベツに似ている。彼はその兄弟たちよりも重んじられた。彼の母は、彼女が悲しみのうちにその子を産んだから、と云って、彼にヤベツ、すなわち、悲しみという名をつけた[I歴4:9]。見かけ上は悪であるものを通して私たちのもとにやって来る善は、普通は、あらゆる良いものの中でも最上のものである。

 さて、サマリヤにおけるこの喜びの出所となった大きな悲しみとは、こうであった。それに先立ち、エルサレムには迫害があった。恐ろしい迫害があった。サウロを初めとする真理の敵たちが教会を荒らしていた[使8:3]。善良な男たちは投獄され、この上もなくすぐれたキリスト者の姉妹たちは悪女として牢屋に閉じ込められた。一部の人々は残酷に虐待され、何人もが死んだ。神に感謝すべきことに、私たちは、現実の意味においては、いかなる迫害をも経験していない。というのも、現今では、彼らが私たちに対して行なえることは、せいぜい残虐な嘲りという試練にさらすこと止まりであり、そこには大して私たちを傷つけるものがないからである。だが、エルサレムでは、神の《教会》が熾烈な迫害を受けていた。それでも、まさにその迫害によってこそ、弟子たちは外地に出て行き、あらゆる場所でみことばを宣べ伝えることになったのである。

 彼らが味わった二番目の悲しみは、離散であった。というのも、聖なる交友によってともに暮らしていた者たちが別れさせられるのは大きな悲嘆だからである。家族の者たちが引き裂かれ、祈りのために同じ場所に集まるのを常にしていた善良な者たちが、もはや互いの顔を見られなくなるのは大きな悲嘆である。人は、自然と自分の家庭に愛着を持つものである。だが、この善良な群れは、自分たちの家庭から逃亡し、剣の刃を避けて命からがら逃げ出さざるをえなかった。しかし、この離散を通してこそ、この祝福はサマリヤに達したのである。

 それより悪いことに、エルサレムにあった教会にはそのものが入り込んだ。死に至らされた他の者たちに加えて、ステパノが、最初の殉教者として迫害者たちの憤激の犠牲となった。彼は善良な人であり、神の陣営[I歴12:22]における真実で立派な指導者であった。彼はすさまじい死を遂げた。だが、彼の死の後に続いた離散を通して、ピリポはサマリヤに下らざるをえなくなり、そのようにして、「その町に大きな喜びが起こった」のである。時として、愛する方々。ある教会に大きな試練があることは祝福となる。私の確信するところ、ある人々が非常な困難に出会わざるをえないのは良いことである。告白するが、私はほとんどあらゆることを鍛冶場と、火と、やすりと、鎚に負っている。私たちは、自分たちの甘味から、いかに僅かな良いものしか得ないことであろう。そして、いかに多くのものを私たちの苦味から抽出することであろう! エルサレムにあったこの教会は、はなはだしい産みの苦しみによって、サマリヤにある聖徒たちの母となった。そして、厳しい試練や、陰惨な苦闘がなかったとしたら、このようにその教会が他者にとって有益なものとなることはなかった。

 私は、今のこの時、この教会には神の召しを感じてほしいと思う。何らかの非常に大きく絶大な試練がやって来る前に奮起するようにとの召しである。まず初めに、私たちの生活を取り囲んでいる、この大都会に対する憐れみを持つようにしよう。そして、もしあなたがたの中の誰かが、現在の苦悩にのしかかられているか、愛する家族のひとりを亡くして試みられているとしたら、まさにあの試練がエルサレムにあった教会全体に働きを及ぼしたのと同じように、そうした試練によって、それなりの働きが及ぼされるようにするがいい。人々の魂を求めること、他の人々を導いて私たちの主イエス・キリストを知り、愛するようにさせることに取りかかり始めるがいい。おゝ、数千人に及ぶ私たちの教会員の中に、誰もが自分の隣人の回心を願望するような心があるとしたらどんなに良いことか! おゝ、私たちが、自分の回りにいる人々のために、内なる苦悶を感じ始めるとしたらどんなに良いことか! そうした人々は、純然たる無関心のために滅びつつあるのである。栄光に富む福音が、これほど身近で宣言されつつあるそばから滅びつつあるのである。おゝ、私たちの中のある者らが最近耐え忍ばなくてはならなかった大きな悲しみが、他の多くの人々にとって大きな喜びを産み出す母となるならどんなに良いことか! ピリポの時代にはそうであった。サマリヤに大きな喜びが起こったのは、まずエルサレムに大きな悲嘆があったからであった。

 II. しかし今、第二に、《それは、ひとりの人の宣教によってもたらされた喜びであった》。「その町に大きな喜びが起こった」。ひとりの人の宣教こそ、それを引き起こしたものであった。ピリポがサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えたところ、その宣教の結果、大きな喜びが起こったのである。

 この宣教を行なったのが誰であったかに注意するがいい。それはピリポであった。さて、ピリポはユダヤ人であり、彼がこう云うこともありえたであろう。――ことによると、本当にそう云ったかもしれない。――自分のような人間が、サマリヤで成功する見込みはまずない、と。というのも、ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをせず[ヨハ4:9]、サマリヤ人はユダヤ人と全くつきあいたいと思っていなかったからである。両者は、まるで瓜二つのような民族であったが、激しく敵対していた。互いに我慢がならなかった。だがしかし、見ての通り、ひとりのユダヤ人の宣教こそ、サマリヤの人々にとって祝福されたものだったのである。愛する方々。二度と決してこう云ってはならない。「私は絶対にどこそこへ行くべきではありません。私はあそこにふさわしい人間ではありませんから」、と。どうしてそれが分かろう? 人間の評価ではいかに思いも寄らない人物であろうと、神が特別にお選びになった当の人物でありえる。ピリポが遣わされたのは福音を宣べ伝えるためであり、すべての造られた者に福音を宣べ伝えるためである[マコ16:15]。それゆえ、彼はサマリヤに行くのである。このように話をする扉が開かれたのは、彼には不思議に思われたに違いない。あれほどユダヤ人と反目していたサマリヤ人たちによって、彼はこれほど歓待されたのである。もう一度云うが、愛する方々。いかなる場所であろうと、常に善を施そうとすることから決して尻込みしないようにしよう。また、いかなる人々についても、「私は、あの人たちに話ができません」、とは決して云わないようにしよう。なぜできないのか? 行って、試してみるがいい。「あの人たちは教養がありすぎます」、とある人は云うであろう。教養のある人々は、しばしば自然の野鳥の鳴き声に感銘を受けるものである。「おゝ、彼らは無知すぎます」、と別の人は云うであろう。そう考えるのは、あなたの無知ゆえかもしれない。だが、あなたの方がずっと良い教育を受けているからといって、その人たちに話をするのをいさぎよしとしないほど高ぶってはならない。というのも、その場合、あなたはまだ、あまり良い教育を受けておらず、正しい種類の訓練をもっと多く必要としていることになるだろうからである。「おゝ、ですが、私には分かっているのです。私の職業や、私の商売や、その他もろもろが私の不利になることを!」 何があなたの不利になろうと決して気にかけてはならない。行って、あなたの義務を果たすがいい。そうすれば、神はあなたを祝福してくださるであろう。

 ピリポに関する次のことは、彼が正規の教役者ではなかったということである。彼は、使徒たちおよびエルサレム教会によって選ばれた、七人の執事のひとりであった。その仕事は、貧しい会員たちの世話をして、使徒たちがみことばの奉仕と祈りに専念できるようにすることにあった[使6:1-4]。しかり。だが、だとすると、誰であれ福音を宣べ伝えてかまわず、宣べ伝えることのできる者は宣べ伝えるべきなのである。そして、行って福音を宣べ伝えることは、選ばれた少数の紳士たちの務めであるどころか、こう書かれてはいないだろうか? 「これを聞く者は、『来てください。』と言いなさい」[黙22:17]。福音をすでに聞いたあなたがたはみな、それを他の人々に語り告げるよう努めるべきである。そして、キリスト者であるあらゆる人の発すべき問いは、「私などが福音を宣べ伝えて良いでしょうか?」、ではない。――あなたがそうして良いことは確実である。――むしろ、こうである。「私は、福音を宣べ伝えることができるでしょうか? 私には、他の誰かが耳を傾けてくれるようなしかたで宣教する力があるでしょうか? もし誰も耳を傾けないとしたら、明らかに私が宣べ伝えるのは無駄なことです。ですが、もし他の人々が聞くようなしかたで語れるとしたら、もし私にそうした賜物があるとしたら、私はそれを用いるべきです。そして、自分にその賜物があるかどうか努めて確かめるべきです。ひょっとすると私にはその賜物があるのに、自分では分かっていないのかもしれませんから」。その町に大きな喜びが起こったのは、執事ピリポの宣教によってであった。それゆえ、私の兄弟たち。大いに宣べ伝えるがいい。神の御名によって、主イエスのために自分にできる限り語るがいい。というのも、近頃の多くの人々は、主に逆らって語っているからである。これは、一言でも主のために口をきける舌が決して沈黙しているべきではない、さらなる理由である。

 しかし、この執事ピリポは、卓越した性格の人物であるとも告げられている。執事たちが選ばれたとき、使徒たちはエルサレム教会の会員たちにこう云った。「あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします」[使6:3]。ピリポはその七人のひとりであった。それゆえ、彼が掛け値なしの人格者であったことは分かる。それは、ある町に喜びを起こす宣教のためには必須のことである。また彼は、聖霊に満ちた人でもあった。そして、それこそ福音の宣教者にとって主要な資質である。世界中のいかなる学識も、聖霊で満たされていない人には一文の得にもならないが、神の御霊が誰かに宿っておられるとき、御霊によってその宣教者は力をもって語ることができるし、それが心と良心に届くのである。その力がなければ、何事も行なえない。それゆえ、私の兄弟たち。それを求めるがいい。神のために労苦しようとするときには、それを聖霊の力によって行なうがいい。

 しかし、本当のところ私は、サマリヤにおける宣教者についてこれ以上何かを語りたいとは思わない。そこには大した意味がないからである。宣教者が誰かということには、それほど注意が払われないでほしいと思う。主たる問題は、何が宣べ伝えられるか、ということである。

 ピリポは何を宣べ伝えたのだろうか? この件について私たちは不確かなままにされてはいない。こう告げられているからである。「ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた」[使8:5]。左様。それこそ、ある町に大きな喜びをもたらした宣教であった! 彼は彼らに「キリストを宣べ伝えた」。彼は人々に告げた。ナザレのイエスは、――あの、ベツレヘムで生まれ、カルバリで死んだイエスは、――神の御子であり、メシヤであり、《遣わされたお方》なのだ。まことにこの方は神であり、かつ人間であられるのだ。そして、自分がここにやって来たのは、神から人間に与えられる平和の使者としてなのだ、と。

 ピリポは人々に、罪のための1つのいけにえ[ヘブ10:12]としてのキリストを宣べ伝えた。《正しい方》が悪い人々の身代わりとなったこと、また、それが、彼らを神のみもとに導くためであったことを[Iペテ3:18]。彼は彼らに、罪人たちのためのキリストの大いなる代償について宣べ伝えた。この方が咎ある者たちの代わりに、代理として、彼らに成り代わって忍ばれたあらゆる悲嘆について宣べ伝えた。そして、このキリストを信ぜよと彼らに命じた。それは、彼らが自分たちの一切の罪の赦罪と、神の御前における完全な義認と、神の子らとされる特権を獲得するためである。また彼は、キリストを彼らの《聖め主》としても宣べ伝え、イエスに何がおできになるかを告げた。イエスは彼らの性質を変えて、彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える[エゼ11:19]ことがおできになる。それは、彼らがかつて憎んでいたものを愛するようになり、かつて愛していたものを憎むようになるためであった。ピリポは、ナザレのイエス・キリストを大いなる《心の変更者》、真の《道徳改革者》、物事を逆さまにする《お方》として宣べ伝えた。このお方は、悪をしかるべく扱わせ、――すなわち、人々に足で踏みにじらせ、――彼らの魂の中に、聖さを求める絶対的な力としての、ご自分の恵みを植えつけてくださる。そのように彼は、キリストを彼らに宣べ伝えた。彼らに行なえるだろうことを褒めそやすのではなく、むしろ、キリストがすでに行なってくださったことを宣べ伝えた。さあ、やって来て、その、すべてが完了し、完成した、キリストのみわざを受け入れるがいい、と彼らに命じた。他の頼みをみな捨て去るよう命じた。来て、主イエス・キリストを信頼するがいい、と命じた。彼は、彼らのことをキリストに向かって説くよりは、キリストを彼らに向かって説いた。その2つの間には区別がある。確かに、ある罪人に向かってキリストを説く大きな目当ては、キリストに向かってその罪人を説くことにあるが関係ない。

 愛する方々。私は、神のことばの中に見いだす一切の教理をあなたに宣べ伝えることに喜びを感じる。だが、常に、教理を越えて、キリストというお方を宣べ伝えたいと願望する。教理とは、私たちを教える《預言者》としてのキリストが腰かけるための座席でしかない。キリストご自身は今なお生きておられる。主は死者の中からよみがえり、天に入られたが、この地上で起こりつつあるすべてのことに目を光らせておられる。主は罪人たちのためにとりなしておられ、もしあなたが、この生ける救い主を信頼するなら、この方はあなたを救ってくださるであろう。おゝ、あなたがそうするならどんなに良いことか! これこそ、私たちがあなたに宣べ伝えなくてはならない福音である。そして、これこそ、もし受け入れるならば、あなたを喜ばせるだろうものである。これこそ、サマリヤの町に大きな喜びを引き起こしたものであった。

 こういうわけで、見ての通り、これは大きな悲しみから生まれた喜びであった。ひとりの人の宣教によって生み出された喜びであった。あなたは、その人がいかなる人か、また、何を宣べ伝えたかを聞いた。

 III. さて、第三に、《それは、豊富な原因を有する喜びであった》。「その町に大きな喜びが起こった」。

 最初に、サマリヤに喜びがあったのは、そこで福音が宣べ伝えられたからであった。もし人々がこのことを知りさえしたなら、ある町が有することのできる最大の恩恵は、その中で福音が宣べ伝えられることである。グラスゴー市のあの古い標語を思い出すがいい。「みことばの宣教によりグラスゴーを栄えさせん」。この世のいかなる町にもまして繁栄するのは、明瞭で力強い福音の鐘が、その真中で鳴り響いている町である。飢えている町とは、いのちのパンを有していない町である。だが、栄えている町とは、いのちのパンが安息日ごとに、愛に満ちた手でふんだんに分配されている町である。

 しかし、サマリヤには、さらになおも喜びがあった。その福音には、種々の祝福のしるしが伴っていたからである。汚れた霊につかれた多くの人たちからは、その霊が追い出され、足のきかない者や中風の者は歩けるようになった[使8:7]。今の私たちは、現実の世界でそのような奇蹟を行なうことはないが、霊的領域においてはそうしている。悪霊の杯[Iコリ10:21]が打ち捨てられるとき、多くの人々から悪い霊が出て行くのを私たちは見てきた。汚れた冒涜は捨て去られ、彼らの言葉は塩味のきいたもの[コロ4:6]とされてきた。不品行は捨てられ、人生の汚れは憎まれ、縁を切られ、あらゆる種類の盗みや不正直は憎むべきものとなってきた。私たちは、こうした奇蹟がなされるのを何度となく見てきた。今この時も、私たちの間にいるある人々については、こう云うことができる。「あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、……あなたがたは洗われ……たのです」[Iコリ6:11]。福音は彼らを洗い、きよめ、変えてきた。そして、他の人々にも同じことを行ない続けるはずである。イエス・キリストが来られたのは、汚れた霊につかれていた者たちからそれを追い払うため、また、何らかの聖い行ないに関する限り、それまで麻痺していた者たちが天来の力を受けて、神の道を喜んで走れるようにするため、そして、主の働きと栄光のために全生涯をささげるようになるためだからである。おゝ、今晩この場にいる多くの人々にそのようなことが起こればどんなに良いことか! そうなったとしたら、この町には大きな喜びが起こるであろう。

 さらにまた、サマリヤに大きな喜びが起こったのは、多くの者が信じて救われたからである。イエス・キリストを信ずる者は救われる。その人が信じる瞬間に、その性質は変えられ、そのもろもろの罪は赦され、その心は更新される。この大いなるわざは瞬間的に行なわれるが、決して取り消されることがない。この新しいいのちは、聖霊の奇蹟的な新生のみわざによって始まり、その奇蹟は、その人全体を通じて感動させ続けるような性格をしており、その人が無事に天国に導き入れられ、完璧に主イエス・キリストのようにされるまで続くのである。

 また、やはりサマリヤに大きな喜びが起こったのは、信じた者たちの人生が一変したからでもある。ある人が回心するとき、その人は自分を回心させた福音の力を疑わない。そして、名うての罪人たちの生き方が変えられたのを見るとき、人々は、このような変革を行なう福音は真実に違いないと信じさせられる。あるいは、たといそれを疑うとしても、明々白々たる証拠に逆らってそうすることになる。もし私たちの宣教が人々を酔っ払いから素面に変えず、盗人から正直者に変えず、不貞者からきよい者に変えないとしたら、私たちの福音には一文の値打ちもない。だが、もし福音がそうしたすべてを行なうとしたら、これは、それが神から出たものである証拠となるはずである。これほど痛ましく罪に病んだ世の中にあって、こうした重病にかかった人々を治すという驚異的な奇蹟を福音が行なう以上そうである。

 おゝ、私の愛する方々。癒され、救われ、回心させられ、キリストにあって喜んでいる人々に満たされたとき、サマリヤは何と幸いな町となったことであろう!

 IV. そして、私の講話のしめくくりとして達そうと思う点はこのことである。《これは、私たちがロンドンで繰り返されるのを見たいと願望する喜びである》。「その町に大きな喜びが起こった」。

 私たちは、この大きな喜びがロンドンに起こることを切望する。私たちは、絶望的な魂が幸いにされるのを見たいと思う。そちら側にいる愛する方。あなたは、自分がこれ以上生きていられないのではないかという暗い考えをいだいている。――あなたの手は、ほとんど自死のための短刀をまさぐっている。――生きよ、あわれな魂よ、生きよ! 望みはある。あなたのためにさえ、喜びはある! イエス・キリストは、罪人のかしらをも喜んで赦してくださる。いかに汚れ果てた者、いかに堕落した者をも、喜んで更新してくださる。あなたを聖徒とすることがおできになる。今この瞬間に、あなたの心から重荷を取り去り、あなたを完全に新しい人とする働きをあなたの中で始めることがおできになる。こうしたことに対して、あなたは何と云うだろうか? もしあなたがイエスを信じられるなら、この町には喜びが起こり始めるであろう。というのも、あなたの心に喜びが起こるからである。私は、自分が救いを見いだすことに絶望していた日を覚えている。そのとき私は、自分の罪が赦されることになるなど考えられなかった。だが、1つの声がした。「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ」[イザ45:22]。それは、私の魂にとって、いのちと愛のことばであった。そして、私は今晩それを、この聴衆の中にいる、絶望のどん底にいる人々に向かって繰り返したいと思う。自分を棄ててはならない。神はあなたを棄ててはおられない。自分の死刑執行令状に署名してはならない。神はそれに署名してはおられない。キリストは云われる。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」[マタ11:28]。あわれな罪深い婦人よ。あなたは、恥辱のため、ほとんど身を隠したい思いでいるだろうか? さあ、やって来るがいい。ルカがキリストについて何と書いているか思い出すがいい。「さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た」[ルカ15:1]。そして、主は彼らに、ほむべきいのちのことばを説かれた。おゝ、それを今晩聞くがいい! 主を信じて、生きるがいい。そうすれば、この町には喜びが起こり始めるであろう。絶望している魂が、キリストへの聖なる信頼によって幸いにされるや否やそうなるであろう。

 よろしい。さらに、愛する方々。かりに何人かの罪深い人々がその性格を変えられるとしたら、この町にはいかなる喜びが起こることであろう! その人は、悪態をつき呪いを吐くのを常としていたのに、小羊のようになって家に帰るのである。それは、彼自身にとってと同じく、彼の妻にとっても、いかなる喜びとなることか! ある人は警察に知られていた。――普通に願わしい以上に知られていた。――かりにその人が、その悪行のためにそうされていたのと同じくらい、今度はその誠実さや廉直さによって知られるようになるとしたらどうだろうか。その人にとって何たる変化であろう。また、その人の回りにいるすべての人とって何たる変化であろう! 一部の人々が、いかに大きな悲惨を他の人々にもたらすかは驚くべきものがある。おゝ、あなたがた、みじめなしろものたち。《全能の神》があなたを生かしておられることは驚愕すべきである。あなたは自分の細君を殴りつけ、あなたの子どもたちの生活を彼らが生まれたそのときから、あなたの酩酊と冒涜とでだいなしにしてきた! しかし、もし主がやって来て、あなたを変えてくださるとしたら、また、あなたが酒を飲むのをやめて、それからはキリスト者に――真にキリストに従うキリスト者に――なるとしたら、この町には何という喜びが起こることであろう! 何と、私の知っているある人たちが、もしも親切な気立てになり、優しい言葉を語るようになるとしたら、自分の細君からさえ、ほとんど見分けてもらえなくなるであろう! もし彼らが土曜の晩に、給料をそっくり持ち帰るとしたら、細君は云うであろう。「一体全体、チャリーに何が起こったんだろ。どうすりゃ、これほど人が変わったようになるのか、見当もつきやしない」。そして、もしもそうした男が、乱暴な言葉を発してぶん殴ったり、あるいは、言葉もなしにぶん殴ったりする代わりに、優しく、親切で、愛想の良い者になったとしたら、――あゝ! よろしい。あなたが家族で一間に住んでいようと、いかに薄給であろうと問題はなくなる。そうしたすべては、たちまち変わるであろう。だが、そうした変化がすぐに訪れないとしても、その薄汚い窓からは陽光の日差しが射し込み、その家そのものがすみやかに清潔で明るくなるであろう。そして、そこに幸せな父親と、幸せな母親がいるとき、すぐに幸せな子どもたちがいることになるであろう。しかり。このような変化が、罪に深々と陥っていた者たちにもたらされるとき、町には喜びが起こるものである。

 さて、あなたは私が貧者に対してばかり話をしていると考えているであろう。だが、私は決してそうした類のことを行なってはいない。何と、ある人々は富がうなるほどありながら、気難しく、しみったれていて、家中のあらゆる者と――最年少の召使いから細君に至るまで――いざこざを起こしている。彼らは、そのひねくれたあり方によって、あらゆる者を不幸せにしている。願わくは、主があなたがた、不幸な金持ちをあわれんでくださるように! あなたは自分が何を欲しているかも分からず、常に何かを欲している。願わくは神が、あなたに新しい心とゆるがない霊を与え、愛の法則に従って生きるという聖なるすべを教えてくださるように! ひとたびその「愛」という言葉があなたの性質の中に、また、あなたの生活の中に織り込まれさえするなら、あなたの家の中には喜びが起こるであろう。そして、家々の集合が町である以上、徐々にこの驚くべき恵みのみわざは、この町に大きな喜びを引き起こすであろう。キリスト教の実際的な効果は幸福である。それゆえ、それを至る所で広めようではないか。互いに思いやり、互いに気遣い、互いに慰めを施し合おう。そうすれば、じきに忠実に宣べ伝えられ、朗らかに受け入れられ、愛をもって現わされた福音の確実な結果として、町に大きな喜びが起こるであろう。

 おゝ、だが、そこに大きな喜びをもたらすもととなるのは、真のキリスト教信仰が魂の内側に作り出す、天的な希望である! 主イエス・キリストを信じる信仰者となる人には、今でさえ多くの喜びがある。というのも、こう云えるからである。――

   「信仰あたえり
    生ける間(うち)には 甘き楽しみ」。

だが、その人は、はるかに大きな至福を受け継ぐことになっている。というのも、次のことも真実だからである。――

   「信仰満たせり
    死を迎うとき 堅き慰め。
   「死すれば 喜び
    永遠(とわ)のごと保(も)ち
    神 友ならば
    祝福(めぐみ)に果てなし」。

キリスト者である、いかに多くの人々が、極貧の中にあり、かつ、それより悪いことに、重い病にかかっていて、しばしば非常な苦痛を忍んでいるかもしれないことか。だが、彼らは自分に向かってこう云うのである。「これは長くは続きません。私たちは、じきに《愛する方》の御顔を見ることになるはずです」。おそらく、私の知る限りロンドン中のいかなる人にもまさって苦しみを受けているのは、私たちの愛する兄弟、ウィリアム・オルニー執事である。彼の苦痛ははなはだしいものであり、もし私が彼の立場にあるなら、生きるよりは死を願わしく思うであろう。だが、いずこにか幸福な人がひとりでもいるとしたら、それは新ケント街にいるこの人物である。もし私が他の人にまさって羨む兄弟がひとりいるとしたら、――私が誰かを羨むことはないと思うが、――それは、この人物である。その苦痛の最中にあってさえ、彼は常に穏和で、常に喜ばしく、常に至極快活である。なぜなら、彼は自分の主の来臨を待ち望んでおり、主のみこころにとどまっており、じきに主のおられる所に行くことになると予期しているからである。おゝ、愛する方々。もしあなたが、恵みによる素晴らしい望み[IIテサ2:16]を得ていさえするなら、どんなに良いことか。それは、あなたを富ませ、あなたを喜ばせ、あなたを強くするであろう。私は、あなたがた全員がそれを有してほしいと願う。私の魂そのものが、私の内側にあって、あなたがたがみな神に回心してほしいと切望し続けている。私には、その大いなる奇蹟を行なうことができない。ただ神の御霊だけがそれを行なうことができる。だが、御霊は祈りに答えてお働きになる。私が願うのは、いま神の民がみな、沈黙のうちに、そっと主にこう祈りをささげることである。「主よ。この建物の中にいるあらゆる罪人をお救いください! まだ回心していないあらゆる者を、あなたの足元に導いてください!」 知っての通り、主にはそれがおできになる。ただ、主に叫ぼうではないか。主ご自身の約束を申し立てようではないか。「わたしはイスラエルの家の願いを聞き入れて、次のことをしよう。わたしは、羊の群れのように人をふやそう」[エゼ36:37]。だから、主に叫ぼうではないか。「主よ。この民をお救いください! 主よ。この民をお救いください、イエス・キリストのゆえに! アーメン」。

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(訳注)

*1 パウロ十字架は、聖ポール大寺院の教会境内にある野外講壇で、元々は市民生活および宗教上の各種布告を行なう場所であった。英国の宗教改革期に、多くの宗教改革者たちが説教を行ない、その結果、罪に問われて殉教するに至った。[本文に戻る]

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町の大きな喜び[了]

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