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祈り――心配事の治療法

NO. 2351

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1894年3月11日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1888年1月12日、主日夜


「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」。――ピリ4:6、7


 私たちには、先々の事を考慮するという精神機能がある。だが、私たちのいかなる精神機能とも同じように、それはねじ曲げられ、しばしば悪用されてきた。人が聖なる心遣いをし、自分の人生のあらゆる事項にしかるべき注意を払うのは良いことである。だが、悲しいかな! それを聖ならざる思い煩いとし、神の御手から摂理の職務をもぎ取ろうとすることの何とたやすいことか! だが、その職務は神に属しており、私たちには属していない。何としばしばルターは小鳥たちについて、また、神が彼らを配慮してくださるしかたについて語るのを好んだことか! 彼は、不安で一杯になると、小鳥たちを羨ましがるのが常であった。なぜなら、彼らはきわめて自由で幸せな生き方を送っていたからである。彼の語るところ、燕博士や、鶫博士や、その他の者たちが、ルター博士と話にやって来ては、彼に多くの良いことを教えてくれるという。知っての通り、兄弟たち。向こうの広々とした場所にいる小鳥たちは、神によって世話されており、人によって世話されているものたちよりも、はるかに幸いにやっている。ひとりのロンドンの少女が、かつて田舎に行ったときに、こう云った。「見てよ、母さん。あの可哀想な小鳥は籠がないわよ!」 私であれば、それで鳥が何か損をしているとは全く思わなかったであろう。そして、もしあなたや私が、私たちの籠も、餌箱も、水入れもなくしたとしたら、それは大した損失にはならないであろう。少なくとも、私たちが、へりくだって神により頼むという、栄光に富む生活へと押しやられることになるとしたらそうである。かの肉的な信頼という籠や、かの私たちが常に満たそうとあくせくしている餌箱こそ、この定命の人生に気苦労をもたらすものである。だが、自分の翼を広げて舞い上がる恵みを有している者、また、天来の真実さという広大な空間に入ることのできる者は、一日中歌っていることができ、常に次のような節回しを自分のものとしていられるであろう。――

   「弱者(よわき)よ、やめよ、労し嘆くを
    神が明日に 備え給わば」。

 では、ここに、この聖句の教えがある。「何事にも心を配らないで」<英欽定訳>。「心を配る」という言葉は、欽定訳聖書が翻訳されたときに意味していたものと今では、正確に同じことを意味してはいない。少なくとも、それが翻訳者たちに伝えていたものとは別のものを私に伝える。私としては、私たちは心を配るべきだと云いたい。「心を配りなさい」は、人生に乗り出そうとしている少年たちや若い人々にとって良い教訓である。だが、この「<心>を配る」という言葉が翻訳者たちの時代に理解されていたような意味では、私たちは心を配ってはならない。すなわち、心配してはならない。この聖句が意味しているのは、不安になってはならないということである。この定命の人生のあれこれの必要について絶えず考え込んでいてはならない。それをもう一度読んでみようと思う。この言葉を少し縮めてみれば、あなたもその意味がつかめるであろう。「何事も<心配>しないで」。おゝ、神が私たちに、いかにすればここで禁じられている悪を避けられるか、またいかにすればその聖なる不用心さをもって生きられるかを教えてくださるならどんなに良いことか。それこそ、キリスト者生活の美しさそのものである。そして、それがかなうのは、私たちが自分の心労のすべてを神に投げかけ、私たちへの神の摂理的な心配りを喜び喜ぶときにほかならない!

 「あゝ!」、とある人は云うであろう。「私は心配せずにはいられないのです」。よろしい。今晩の主題は、あなたが心配をしなくてすむよう助けることにある。そして、第一にここで考察したいのは、心配に代わるべきものである。何事についても心配しないで、あらゆる事について祈りに満ちること。それが、心配に代わるべきもの、「祈りと願い」である。第二に注意すべきは、不安の代わりとすべきこの祈りの特別な性格である。「あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」。それから、残っていてほしいと思う数分間で考察したいのは、この祈りの甘やかな効果である。「人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」。

 I. まず第一に、ここにあるのは、《心配に代わるべきもの》である。

 私たちの中の多くの者らの場合、確かに私たちの心配は種々様々なものではないかと思う。ひとたび心配を始め、不安になり、苛立ってくると、あなたの心配事は数え切れなくなる。たとい、あなたの髪の毛を数え切れるとしてさえそうである。そして、心配事は、心配症な者たちにとっては増殖しがちである。これ以上ありえないほど心配という心配で満ちてしまったときも、確かにあなたの回り中で、次から次へと別の心配事が育ってくるに違いない。こうした不安にふけるという悪習慣のために、人生は不安によって支配されるようになり、ついには人生についていだく心配のために、生きる価値もないような人生になってしまう。心配事は種々様々である。それゆえ、あなたの祈りも種々様々なものとするがいい。心配に感じる一切のことを祈りに変えるがいい。あなたの数々の心配事を、祈りの原材料とするがいい。そして、古の錬金術師たちが金滓を黄金に変えたいと希望したように、あなたも聖なる錬金術によって、放っておけば心配事となるだろうものを、祈りという形をした、現実の霊的な宝と変えるがいい。父、子、聖霊の御名につくバプテスマをあらゆる不安に授け、それを祝福とするがいい。

 あなたは、何かをとらえたいと心配しているだろうか? 心配があなたをとらえないよう用心するがいい。利益を得たいと願っているだろうか? 自分の利益によって得る以上のものを失わないように気をつけるがいい。私は切に願う。利を得るための心配事の数は、あえて祈りにできる程度にとどめておいてほしい。神に向かってそれをお与えくださいと願えもしないものを手に入れたいと願望してはならない。あなたの種々の願望を霊的な物差しで測るがいい。そうすれば、貪欲めいたものから守られることになるであろう。あれこれの心配が多くの人々にやって来るのは、彼らの損失からである。彼らは、自分が得たものを失ってしまう。よろしい。この世界で人は、えてしてものを失うものである。上げ潮の後には引き潮が続き、冬は夏を締め出して縮こまらせる。たといあなたが他の人々と同じように損失をこうむるとしても驚いてはならない。むしろ、自分の損失について祈るがいい。それらを携えて神のもとに行くがいい。また、苛立つ代わりに、それを神を待ち望むための機会とし、云うがいい。「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。なぜあなたが私と争われるかを、知らせてください[ヨブ1:21; 10:2参照]。そして、どうか、あなたのしもべを、絶えずあなたに愚痴を云うことから救い出してください。たとい私が何を失うことをあなたがお許しになろうと!」

 ことによると、あなたは云うかもしれない。自分の心配は、自分の利得に関することでも損失に関することでもありません、自分の日々の糧そのものに関することなのです、と。あゝ、よろしい。あなたには、そうしたことのための数々の約束がある。それをあなたは知っている! 主はこう云われる。「あなたはこの国に住んで、まことに養われる」[詩37:3 <英欽定訳>]。主は、あなたに甘やかな励ましを与えようとして、こう云われる。神は、野の草さえ装うのだから、ましてあなたに良くしてくださらないわけがあろうか、信仰の薄い人たち[マタ6:30]、と。また、主は、あなたにお命じになる。空の鳥を思うがいい。いかに彼らが種蒔きもせず倉に納めることもしないのに、あなたの天の父はこれを養っていてくださることか[マタ6:26]、と。ならば、あなたの一切の心配事を携えて、あなたの神のもとに行くがいい。もしあなたが大家族をかかえているのに、収入は僅かしかなく、家計の帳尻を合わせたり、あらゆる人の前で正直にものを供したりするのにさんざん苦労しているとしたら、あなたには、神の扉を叩くためのそれだけ多くの口実があるのである。恵みの御座のもとに姿を現わすべきそれだけ多くの理由があるのである。私は切に願う。ぜひそうした事々を利用してほしい。私は、ある人を相手に行なうべき仕事が本当にあるときには、遠慮なくその人のもとを訪れる。あなたも、種々の必要に押し迫られているときには、大胆に神のもとを訪れてかまわない。何かについて、不安に満ちた心配で思い煩う代わりに、それをただちに、いやまさって祈りを積むべき新たな理由とするがいい。

 「あゝ!」、とある人は云うであろう。「ですが、私は途方に暮れているのです。何をすべきか分からないのです」。よろしい。ならば、愛する方よ。あなたは確かに祈るべきである。それが果たして右手の路か、左手の路か、はたまた真っ直ぐ行くべきか、後戻りすべきか見当がつかないというときにはそうである。実際、次の街灯も見えないほどの濃霧に包まれているとしたら、そのときこそ祈らなくてはならない。路は、あなたの前でいきなり鮮明になるであろう。私はしばしば自分自身、このやり方を試さなくてはならないことがあった。そして、私は証しするが、自分自身を頼りにしていたときの私は大馬鹿者だったが、神に信頼していたときには、神が私を真っ直ぐ正しい道に導かれ、そこには何の間違いもなかった。私の信ずるところ、神の子どもたちはしばしば、難しい問題よりも単純な事がらにおいて格段に大きな失敗に陥る。あなたも、あのギブオン人がやって来た時、イスラエルがどうしたか知っているであろう。彼らの履き物は縫った古いもので、彼らが見せたぼろぼろのパンも、もとは炉から出たばかりのものだったと彼らは云った[ヨシ9:13]。そこでイスラエル人は思った。「事ははっきりしている。この人々は外国人で、遠国からやって来たのだ。ならば、彼らと盟約を結ぼうではないか」。彼らは、自分たちの目で見た証拠によって、この人々が決してカナン人でないことは確証されたと思った。それで主には相談しなかった[ヨシ9:14]。事があまりにも簡単なことと思われたため、彼らはギブオン人と盟約を結び、将来の禍根としてしまった。だが、私たちが、いかなる際にも祈りによって神のもとに行くことにするとしたら、難問をかかえている際にも、単純きわまりない問題の場合にまさって間違いを犯すことにはならないであろう。そして私たちは、単純な事がらについてであれ困難な事がらについてであれ、《いと高き方》によって導かれるべきである。

 ことによると、別の方は云うであろう。「しかし、私は将来について考えているのです」。おゝ、そうか。よろしい。まずお尋ねしたいが、あなたが将来と何の関わりがあるのだろうか? あなたは、一日のうちに何が起こるか[箴27:1]、知っているだろうか? あなたは、自分が老人になったとき何が起こるかをくよくよ考えている。だが、あなたが老人になるという、いかなる保証があるだろうか? 私の知っていたひとりのキリスト者婦人は、常々、自分がどのようなしかたで埋葬されるかについて気に病んでいた。だが、私は、そうした問題を思い悩んだことは一度もない。そして、他の多くの事がらについても、私たちは気を病む必要がない。犬を殴るための棒はいつでも見つかるものである。そのように、もしあなたが心配したがるとしたら、あなた自身の魂を殴りつける心配事が、普通はいつでも見つかるものである。だが、そうしたことをするのは、あなたがたの中の誰にとってもつまらないことである。そうする代わりに、心配の種となるあらゆる事がらを祈りの主題とするがいい。さほど長く待たないうちに、心配の種は出て来るであろう。ならば、祈りの種がないまま長く待つこともないわけである。「心配」というその言葉を抹消するがいい。そして、その代わりに、「祈り」というこの言葉を書き込むがいい。そうするとき、あなたの心配事がいかに種々様々に多くあっても、あなたの祈りもまた種々様々に多いものとなるであろう。

 次に注意すべきこととして、愛する方々。不当な心配は、神の摂理を侵害することになる。それは、自分を一個の子どもにしておく代わりに、一家の父親にすることである。主人から食料をあてがわれるしもべである代わりに主人になることである。さて、そうする代わりにあなたが心配事を祈りにするとしたら、そこでは何も侵害されないであろう。というのも、祈りによって神のもとに行っても、増上慢だと非難されることはないからである。神はあなたが祈るように招いておられる。否、ここでは、ご自分のしもべによって、こうあなたに命じておられる。「あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」。

 また、心配事は、私たちにとって何の役にも立たず、私たちに大きな害をもたらす。たといあなたが好きなだけ気を揉んだとしても、一吋たりとも背を伸ばしたり、一本たりとも髪の毛を生やしたり、一本たりとも髪の毛を白くしたり黒くしたりすることはできないであろう。だから《救い主》は私たちにこう告げておられる。もし心配が、これほど小さなことさえできないとしたら、それよりも高次な摂理の事がらについて何ができるだろうか、と。それは何事も行なえない。ひとりの農夫が自分の畑に立って、こう云った。「私は、私たち全員に何が起こるか分からない。このまま雨が降り続けば、麦がだいなしになるだろう。天気が良くならなければ、収穫は全然ないだろう」。彼はうろうろと歩き回り、手をもみ絞り、苛立ち、家族中の者を不愉快にさせた。だが、彼がどれだけ気を揉んでも、日光のかすかな光を一筋さえ作り出すことはなかった。いかにぶつくさ云いつらねても、雨雲の一片すら押しのけることはできなかった。いかに愚痴をこぼしても、雨粒一滴さえ止めることはできなかった。

 ならば、あなたの心を悩まし続けることに何の益があるだろうか? それによって何も得られないというのに。おまけに、そうすることで、自分の助けとなる私たちの力は弱められてしまう。また、特に、神の栄光を現わす私たちの力が弱まってしまう。心が心配で一杯になるとき、私たちは多くの事がらにおいて正しく判断することが妨げられる。これは、私がしばしば用いてきた例話だが(それ以上に良いものを知らないからである)、望遠鏡を取り上げて、そこに私たちの不安という熱い息を吐きかけてみるがいい。その上でそれを目に当てても、雲のほか何も見えないと云うしかないであろう。もちろん、見えないに決まっている。熱い息を吹きかけ続ける限り決して見えないはずである。もし私たちが冷静で、穏やかで、落ち着いていて、神に支配されているとしたら、私たちは正しいことを行なうはずである。困難な時、私たちは、俗に云う「しゃんとした」状態であるべきである。神の臨在を失わない人は、正気を失わないと期待して良い。だが祈ることを忘れているとしたら、私たちがやきもきし、気を揉むばかりとなっても不思議はないではないだろうか? そうしたとき私たちは、目の前に最初に現われること、そして普通は最悪のことを行なう羽目になる。何をすべきか見てとるまで待ち、それから真実に、また、信仰をもって、神の目の前であるかのようにそれを行なう代わりにである。心配は有害である。だが、その心配を祈りに変えさえするなら、あらゆる心配はあなたにとって有益なものとなるであろう。

 祈りは、霊的な建造物を築き上げるための素晴らしい原材料である。私たちは、自分自身、祈りによって建て上げられる。祈りによって恵みにおいて成長する。そして、もし私たちが、あらゆる瞬間に嘆願を携えて神のもとに行こうとしさえするなら、私たちは急速に成長するキリスト者となるはずである。私は今朝、ある人にこう云った。「私のために祈ってください。今はその必要があるのです」。すると彼女は答えた。「私は、朝目覚めてから、そのこと以外に何もしていませんわ」。私は、他の何人かの方々にも同じ要請をした。すると、彼らは私のためにずっと祈ってきたと云うのである。私は嬉しく感じた。単に私自身が彼らの祈りによって益を受けていたためばかりでなく、彼らのためにもである。彼らはそうすることで確実に成長するはずだからである。雛たちがその翼を羽ばたかせ続けるとき、彼らは飛ぶことを学びつつあるのである。その筋肉はやがて強くなり、まもなくその鳥たちは巣立つであろう。羽ばたきそのものが教育なのであり、祈ろうと試みること、祈り心で呻くこと、吐息をつくこと、叫ぶことそのものが祝福なのである。ならば、心配というこの、人を害する習慣を捨て去り、祈りという、この、人を富ませる習慣を身につけるがいい。このようにしてあなたが、いかに二重の利益を得るか見てとるがいい。まず、損失を避けること、次に、あなたや他の人々のために本当に益となるものを獲得することによってである。

 それから、また、心配事は、私たちの間近におられるキリストを往々にして忘れさせてしまう。この前後の文脈に注意しただろうか? 「主は近いのです。何も思い煩わないで、……」。主イエス・キリストは再び来ると約束されたし、今晩おいでになるかもしれない。いつ何時、主がお現われにならないとも限らない。そうパウロは書いている。「主は近いのです。何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」。おゝ、もし私たちがこの地上に単なる影として立つことができさえするなら、また、じきにこのあわれな束の間の人生と縁を切る者として生きることができさえするなら、また、もし私たちがあらゆる地上的な物をごくゆるやかにつかんでいるとしたら、そのとき、私たちは、心配したり、気を揉んだり、苛立ったりするのではなく、祈りが習慣になるはずである。というのも、このようにして私たちは真実なもの、実質のあるものをつかみ、自分の足を目の見えないものにしっかりと据えることになるからである。目に見えないものこそ、結局において、永遠のものなのである! おゝ、愛する方々。あなたに向かって私が何度も何度も読んできたこの聖句が、今あなたの心の中に、さながら山中の小湖に落ちた小石のように投げ入れられるようにするがいい。そして、それが中に入るとき、慰めという同心円の輪が、いくつもあなたの魂の表面に届くようにするがいい!

 II. さて、第二のこととして、もう少し詳しくこの聖句の中を眺めて、《この祈りの特別な性格》を見てとりたいと思う。私たちから心配を取り除くこの祈りは、いかなる種類のものだろうか?

 よろしい。まずそれは、あらゆることを取り扱う祈りである。「あらゆるばあいに」。「あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」。あなたは、事の大小を問わず祈ってかまわない。単に聖霊を求めて祈るだけでなく、新しい長靴一足を求めて祈ってかまわない。自分の食べる糧について、自分の飲む水について、自分の着る着物について、神のもとに行き、あらゆることについて神に祈ってかまわない。分け隔てをして、こう云ってはならない。「ここまでが、神の世話になるべきところだ」、と。おゝ、大変だ。人生の残りについてあなたはどうしようというのか? 無神論めいた破滅的な葉枯れ病のもとで、それを営むべきだろうか? とんでもない! おゝ、私たちが、自分の存在全体について神にあって生きることができるとしたらどんなに良いことか。というのも、私たちの存在は、分割できないからである! 私たちのからだと、魂と、精神は1つであり、神が私たちをこの世界に残しておられる間は、また、私たちに自分のからだの状態から生ずる種々の必要がある間は、私たちの肉体的な必要を祈りによって神の前に持ち出さなくてはならない。そして、あなたは大いなる神がこうした件に関するあなたの祈りを聞いてくださることに気づくであろう。それらは、神が注意するには小さすぎると云ってはならない。一切のことは神に比べれば小さなものである。神がいかに大いなる神であられるかを思うとき、私たちのこのあわれな小さな世界など、宇宙という浜辺に置かれた、ほんの一粒の取るに足らない砂粒で、全く注意する値打ちもないもののように思われる。地球全体は、自然という大世界においては、ただの小粒である。だが、もし神がそれを考慮するほど身をへりくだらせてくださるとしたら、もう少し身をかがめて、私たちをも考慮してくださって良いであろう。主はこう云っておられるからである。「あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています」[マタ10:30]。それゆえ、あらゆることにおいて、あなたの願い事を神に知っていただくがいい。

 私たちを心配から救う種類の祈りは、繰り返される祈りである。「あらゆるばあいに、……祈りと願いによって」。神に祈るがいい。それから、もう一度祈るがいい。「祈りと願いによって」。もし主が一回であなたに答えてくださらないとしたら、もう一度祈るべき良い理由を得ていることを非常にありがたく思うがいい。もし二回目にも神があなたの願い事をかなえてくださらないとしたら、神があなたを愛しているあまり、あなたの声をもう一度聞きたがっておられるのだと信ずるがいい。そして、もし神があなたを待たせ続けて、七度あなたが神のもとに行ったときには、自分に向かってこう云うがいい。「今こそ私はエリヤの神を礼拝していることが分かった。エリヤの神は、彼が七度も繰り返してから祝福をお与えになったのだから」[I列18:43-44参照]。御使いと格闘するのを許されていることを栄誉とみなすがいい。これこそ、神がご自分の君主たちをお作りになるしかたである。ヤコブがイスラエルとなったのは、彼が願った祝福を一度では御使いから得られなかったからであった。むしろ、彼が格闘を続けて、ついに打ち勝ったとき、そのときこそ彼は神に対して一個の君主となったのである[創32:28]。心配事を断つ祈りは、ねばり強く続けられる祈りである。

 次に、それは、理性的な祈りである。「あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」。私は、毎日、確か六時間を祈りに費やしていたという回教徒のことを聞いたことがある。そして彼は、ある舟に乗っていたとき、眠り込んではいけないと直立して、たった一本の綱を張っているだけとした。それによりかかることができ、眠れば落ちるという仕掛けだった。彼の目標は、六時間、彼が祈りと呼ぶものを続けることにあった。「よろしい」、と私は、彼を知っており、ナイル川の彼の屋形船の上で彼を見たことのある人に云った。「それは、どんな種類の祈りだったのですか?」 「何と」、と私の友人は答えた。「ずっとこう繰り返していたのですよ。『神以外に神はなく、マホメットは神の預言者なり』。同じことを何度も、何度も、何度もね」。私は云った。「何か願い事をしていましたか?」 「おゝ、全然!」 「神に何かを与えてくださるように懇願していましたか?」 「いいえ。ただその特定の言葉を際限もなく繰り返していただけでしたよ。まるで魔女が呪文をくどくど繰り返すように」。あなたは、祈りのそうした様式にも一理あると思うだろうか? また、もしあなたが膝まずき、一定の決まり文句を繰り返すだけだとしたら、それはただ僅かな言葉でしかないであろう。神がそうした種類の祈りのどこに好意を持たれるだろうか? 「あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」。それが真の祈りである。あなたの願い事が何であるか確かに神はご存知である。だが、あなたは、あたかも神がご存知ないかのように神に祈るべきである。あなたの願い事を神に知っていただくべきである。主がご存知ないからではなく、むしろ、ことによると、あなたが知らないかもしれないからである。そして、あなたがこの聖句の告げるように自分の願い事を神に知っていただいたときには、それらをずっと明確に自分自身に向かって知らせることになるであろう。あなたが理性的に願い事を行ない、自分が何を願ったかをわきまえており、なぜそれを願ったかわきまえているとき、ことによると、あなたは立ち止まって、自分に向かってこう云うであろう。「いいや。やはりこの願い事をすることはできない」、と。時々、あることをずっと祈り続けても神がそれを与えてくださらないとき、もしかすると、知らぬまにあなたは、こういう確信に包まれるかもしれない。自分は正しい方向に進んでいないのだ、また、自分の祈りの結果は、それ自体として自分に善を施さず、祝福にもならないだろう、と。

 しかし、あなたは祈るべきである。あなたの願い事を神に知っていただく、すなわち、分かりやすい言葉で、自分の欲することを云うべきである。それが真の祈りだからである。ひとりきりになり、自分の欲することを神に申し上げるがいい。自分の心を神の前で注ぎ出すがいい。神が何か洗練された言葉遣いを欲しておられると想像してはならない。しかり。二階に駆け上がって自分の祈祷書を取りに行き、特祷の頁を開く必要はない。もしあなたが本当に祈っているとしたら、よほど長い時間をかけない限り、今の自分の場合にぴったり当てはまる特祷は見つからないであろう。自分の欲するもののために祈るがいい。あなたの母上に、あるいは、最愛の親友に向かって、自分に何が必要か告げているかのように、そうするがいい。そうしたしかたで神のもとに行くがいい。それが真の祈りであり、あなたの心配事を追い払うだろう種類の祈りだからである。

 そして、愛する方々。やはり心配事からの自由をもたらす種類の祈りとは、神との交わりである。もしあなたが神に語りかけたことがないとしたら、本当に祈ったことがないのである。小さな子どもは、こうしたことをすると知られている。(おそらく、あなたの子どもたちもそうしたことがあるだろう。)頼まれた手紙を、行って排水管の格子の中にぽとんと落として来るのである。もちろん、そのようなしかたで投函された手紙には決して何の返事も来ない。手紙が郵便箱に入れられず、そのようにして宛先の人のもとに届かないとしたら、何の役に立つだろうか? そのように、祈りは神との真の交わりである。あなたは悟っていなくてはならない。神がおられることと、神を求める者には《報いてくださる方》であることとを[ヘブ11:6]。さもなければ、祈ることなどできない。神は、あなたにとって現実――生きた現実――でなくてはならない。また、あなたは神が本当に祈りを聞いてくださると信じなくてはならず、それから、神と話をしなくてはならない。また、自分には神に願うべき嘆願があると信じなくてはならない。そうするときに、それはかなえられるであろう。神は決して信仰のこもった祈りを尊ばれなかったことがない。神は、しばらくの間あなたを待たせておくかもしれない。だが、遅れは拒絶ではないし、神はしばしば、銀を求める祈りに黄金で答えてくださった。神は地上的な宝は否まれたかもしれないが、その一万倍も値打ちのある天的な富を与えてくださったし、嘆願者は、そうした交換によって十二分に満足させられてきた。「あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」。私は、苦難に陥っているときのあなたが何をするか知っている。あなたの隣人の所に行くのである。だが、あなたの隣人は、そうした厄介事をかかえたあなたに、それほどしばしば会いたいとは思っていない。もしかすると、あなたは自分の兄弟のもとに行くであろう。だが、災難に会うときには兄弟の家に行くなと警告している聖句もある[箴27:10]。困窮しているとき、友人のもとを訪れすぎるということがありえる。相手は、あなたに会って喜ぶかもしれないが、それは、あなたが何のためにやって来たかを知るまでのことであろう。だが、もしあなたがあなたの神のもとに行くなら、神は決してあなたを冷たくあしらったりはなさらない。決して、自分のもとに来るのもたいがいにしろとは仰せにはならない。むしろ逆に、ご自分のもとに来るのが少なすぎるといって、あなたをたしなめることさえなさるであろう。

 先に私は、1つの言葉を抜かしておいた。なぜなら、この点に関する最後の所見まで取っておきたかったからである。「感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」。さて、これはどういう意味だろうか? それは、心配事を断つ種類の祈りとは、朗らかに、喜びあふれて、感謝をもってささげられる祈りだということである。「主よ。私は貧乏です。私の貧乏さゆえに、あなたをほめたたえさせてください。そして、主よ。私の一切の必要を満たしていただけないでしょうか?」 それこそ、祈るべきしかたである。「主よ。私は病んでいます。この患難ゆえに、あなたをほめたたえます。というのも、確かにこのことは私にとって何らかの益となるに違いないからです。今はお願いします。どうか私を癒してください!」 「主よ。私は大きな苦難のうちにあります。ですが、その苦難のゆえにあなたを賛美します。というのも、この黒く縁どられた封筒の中には、祝福が含まれていると知っているからです。さて、主よ。私が自分の苦難を通り抜けられるようにしてください!」 それが、心配事を断つ種類の祈り、「感謝をもってささげる……願い」である。この2つのことを良く混ぜ合わせるがいい。半匁1つ分の――否、半匁2つ分の祈り、つまり、祈りと願い、それから、半匁1つ分の感謝をである。それらを良くこすり合わせるがいい。そうすれば、それらは心配事に対するほむべき治療薬となるであろう。願わくは主が、この聖なる薬種術を実践するよう私たちを教えてくださるように!

 III. しめくくりに、この第三の点を語ろう。《この祈りの甘やかな効果》である。「そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」。

 もしもあなたがこのようなしかたで祈ることができ、悪しき不安にふけらずにいられるとしたら、その結果として、並々ならぬ平安があなたの心と思いを包むことであろう。並々ならぬ、というのは、それが「神の平安」だからである。神の平安とは何だろうか? 無限に幸福な神の、乱されることなき静謐さ、絶対的に十分に満足した神の、永遠の平静さである。これが、あなたの心と思いを占有するはずなのである。パウロがそれを何と述べているか注意するがいい。「人のすべての考えにまさる神の平安」。他の人々はこれを理解しないであろう。彼らは、あなたがいかにしてそれほど穏やかにしていられるのか全く分からないであろう。それだけでなく、あなたは彼らに告げることができないであろう。というのも、それが人のすべての考えにまさる以上、確かにそれはあらゆる表現を越えたものに違いないからである。そして、それすら越えて驚くべきことに、あなた自身、それを理解しないであろう。

 その平安は、あなたにとって、底知れぬもの、かつ、測り知れないものとなるであろう。殉教者たちのひとりが、キリストのために焼き殺されようとしていたとき、積まれた薪に火を点けよと命令を下そうとした《判事》に向かってこう云った。「こちらへ来て、あなたの手を私の心臓に当てていただけませんか?」 判事はそうした。「激しく打っていましたか?」、と殉教者は尋ねた。「何か恐れのしるしがありましたか?」 「いいや」、と判事が云った。「では、手をご自分の心臓に当てて、確かめてみてください。私よりもあなたの方が興奮していないかどうかを」。また、あの神の人のことを考えてみるがいい。翌朝には、焼き殺されることになっていながら、あまりにも熟睡していたために、彼は人々から揺り起こされなくてはならなかったほどであった。彼は起床すれば焼き殺されなくてはならなかった。だがしかし、それを知っていながら、神を心底から信頼していたため、全く安眠していたのである。これが、「人のすべての考えにまさる神の平安」である。かの古のディオクレティアヌス帝治下の迫害において、殉教者たちが円形競技場に出て来て野獣に引き裂かれ、ある者は赤熱の椅子に座らされ、別の者は蜂蜜を塗りたくられた上で雀蜂や蜜蜂に死ぬまで刺された時、彼らは決してひるまなかった。考えてもみるがいい。あの、焼き網の上に乗せられて死ぬまで炙られた勇敢な人のことを。彼は自分の迫害者たちに対してこう云ったのである。「片側は焼き終えたようだから、引っくり返してもう片側を焼きなさい」。なぜこのような状況の下にあって、これほどの平安があったのだろうか? それは、「人のすべての考えにまさる神の平安」であった。現今の私たちは、そのような苦しみに遭う必要はない。だが、もしそうしたことに似た何かが起こるとしたら、キリスト者がいかなる平安を享受するかは驚くほどである。大きな嵐が巻き起こった後で、《主人》は舟のへさきにすっくと立ち、風に向かって、「静まれ」、と云われた。「すると……大なぎになった」[マコ4:39]、と書かれている。あなたは、一度でもそう感じたことがあるだろうか? あなたは今晩、まさにそれを感じるはずである。もしも、あらゆる場合に自分の願い事を神に知っていただくという聖なる技術を学んでいたとしたらそうである。そして、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれるはずである。

 このほむべき平安は、私たちの心と思いを守る。それは、人を守護する平安である。そのギリシヤ語は、一個の守備隊を暗示している。ここで軍事用語が用いられているとは奇妙ではないだろうか? また、平安が、護衛兵として心と思いを守るとは奇妙ではないだろうか? 神の平安が、神の子どもを防護するのである。これは、奇妙だが美しい比喩である! 私は、恐れはキリスト者にとって女中頭のようなものだと聞いたことがある。よろしい。恐れは犬どもを寄せつけない良い番人にはなるであろう。だが、それが食器棚を一杯にしたことは一度もない。しかし、平安は、弱さのように思われても、強さの精髄である。そして、それは守備する一方で私たちを養い、私たちの一切の必要を供してくれる。

 それは、私たちをイエスに結びつける平安でもある。「人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いを……守ってくれます」――すなわち、あなたの種々の情緒、あなたの種々の思念、あなたの種々の願望、あなたの知性を守り、あなたの心はいかなる種類の困惑も知らないであろう。――「神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」。それは、みな「キリスト・イエスにあって」なのである。それゆえ、これは私たちにとって二重に甘やかであり、かつ尊いものである。

 おゝ、私の話をお聞きの愛する方々。あなたがたの中のある人々は、木曜日の晩にはこの場にやって来ながら、この神の平安について全く知ることがなく、ことによると、なぜ私たちキリスト者である者らが自分たちの信仰についてこれほど騒ぎ立てるのかと不思議がっているかもしれない。あゝ、もしあなたがこの平安を知っていたとしたら、あなたは私たち以上にそのことで騒ぎ立てるかもしれない。というのも、たとい何の来世がないとしても、――私たちはそれがあると知っているが、――それでも、祈りによって神のもとへ行き、自分の心配事の一切を神に投げかけるというこのほむべき習慣は、現世においてすら最も喜びに満ちあふれて生活する助けとなるからである。私たちは、世俗主義が正しいものとは考えていないが、たとい正しいと考えているとしても、この世のいかなる考え方にもまして、この地上の生活に備えさせるのは、この、神のために生き、神にあって生きることであろう。もしあなたが、まがいの「神」をいだき、単に自分の祈祷書か賛美歌集をかかえて教会か会堂に通っているからといって、自分はキリスト者なのだと思っているとしたら、あなたは自分自身を欺いているのである。だが、もしあなたが生きた神をいだき、その神と真に交わり、常に習慣として、《全能者》の御翼のかげで生きているとしたら、そのとき、あなたは、他の人々を不思議がらせるような平安を享受するはずである。また、あなた自身、やはりこの「人のすべての考えにまさる神の平安」に驚嘆させられるはずである。願わくは、話をお聞きの愛する方々。神がそれをあなたに授け給わんことを。キリストのゆえに! アーメン。

 

祈り――心配事の治療法[了]


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