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「取りて食べよ」

NO. 2350

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1894年3月4日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1888年1月8日、主日夜


「また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取って食べなさい。これはわたしのからだです』」。――マタ26:26


 私たちが誰しも同意している1つの点は、主の晩餐が、イエス・キリストの死と、私たちが主から益を受けるしかたとを象徴しているということである。パンは主の裂かれたからだを示し、杯は主の流された血を示す。これらは、互いに切り離されており、主の死を示す。私たちがこのパンとこの葡萄酒を受けるやり方は、食べることと飲むことによってであり、これは、私たちが主イエス・キリストの功績と効力とを受け取るしかたを示している。すなわち、食べることにも似た信仰により、また、飲むことにも似た信頼により、また、私たちがパンと葡萄の実とを自分のからだの中に肉体的に受け入れるのとまさに同じように、私たちの心の中に霊的にキリストを受け入れることによってである。

 さて、この2つの言葉、「取って食べなさい」は、主の晩餐に関する実際的な指示であり、霊的に理解されれば、神の恵みの福音である。主イエスの弟子であればみな、1つの霊的な声が、キリストに関してこう云っているのを聞くことができよう。「取って食べなさい」、と。そして、あなたがた、自分が主の弟子ではないのではないかと思って恐れている人たち。もしあなたが主の弟子になりたければ、また、もしあなたの心の中に主を自分のものにしたいという渇望があるとしたら、また、もしあなたが主を求める気持ちを感じ始めているとしたら、あえてあなたにも云おう。「取って食べなさい」、と。これこそ、キリストを有する道である。キリストを受け取り、キリストを取り入れるがいい。そうすれば、キリストはあなたのものとなる。

 おそらくあなたは、アウグスティヌスの回心を巡る異様な物語を覚えているであろう。彼は、罪の人生を送った後で、良心の悔恨に打たれた。そして、非常に大きな心の悲しみを覚え、平安を見いだせずにいたとき、1つの声を聞いたのである。それは、もしかすると、壁の向こう側にいた子どもの声だったかもしれない。――私には分からない。――だが、そのような声が、何度も何度もこう云うのを彼は聞いた。「トレ、レゲ。トレ、レゲ。トレ、レゲ」。すなわち、「取りて、読め。取りて、読め」、と。そこで彼は、この《書》を手に取って、それを読み、信じる心をもってよく調べ、神との平和を見いだしたのである。私は祈ってきた。ここに今晩、何人かの若きアウグスティヌスがいるようにと。もしいるとしたら、彼の名前は「厭わしい」ものかもしれない。彼は罪と不義の中に生きているからである。私が祈るのは、彼がその良心に悩みを覚え、この聖句の言葉、「取りて食べよ」、によってキリストに導かれることである。願わくは、この命令があなたの心に深く突き入れられ、あなたがそれを捕えようとし、それを実行するように。願わくは、私の《主人》が、ひとりの大罪人を、ひとりの大聖徒へと変えてくださるように。今は全能の愛に歯向かって遮二無二罪を犯しているとしても、まさにアウグスティヌスのように勇ましく神の恵みの福音を擁護する者へと! おゝ、そうなればどんなに良いことか!

 そうした目当てをいだきつつ、本日の聖句に目を向けよう。これには、あまり多くの区分を設けることができないではないだろうか。私が特に語りたい言葉は2つしかない。それで、その2つを本日の主題の区分としよう。第一に、「取って」、そして第二に、「食べなさい」、である。

 I. あなたに注意してもらいたい第一の言葉は、「取って」、である。

 医者が処方箋の冒頭に、「これこれを取って〜すること」、と書くように、主イエスはご自分の弟子たちにこう云われた。「取って〜しなさい」、と。この言葉は、私たちの新約聖書ではしばしば、「受けなさい」、と訳されている。イエスは御手に取ったパンを差し出し、こう云っておられるのである。「これを受けなさい。これを、あなたの手に取りなさい」。「イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き」、それから、それを弟子たちに差し出して、云っておられる。「取りなさい。取りなさい。取りなさい」。そこで、彼らはそれを取って、そのパンは彼らのものとなった。これこそ、聖徒たちが祝福を得るやり方である。彼らは祝福を取るのである。これは、罪人たちが祝福を得るしかたでもある。神の恵みによって、彼らは祝福を取るのである。彼らは祝福を作り出すのでも、稼ぎ取るのでも、当然の報酬として受けるのでもなく、それを取るのである。イエス・キリストは彼らに、「取りなさい」、と云われ、彼らは主の御声に従い、取るのである。

 この食卓に着いていた者のうち誰ひとり、「主よ、私には取ることなどできません」、とは云わなかった。むしろ、イエスが、「取りなさい」、と云われたとき、彼らは取った。誰も、――ことによると、全員が心で感じはしたかもしれないが、――こうは云わなかった。「私には、取る資格などありません」。むしろ、イエスが、「取りなさい」、と云われたとき、彼らは取った。常に変わらぬ最上の策は、自分に差し出される良いものは何でも受け取ることである。もしあなたが非常に貧しい人で、誰かがあなたに1シリングを差し出してくれるとしたら、あえて、ちょっとした助言を与えさせてほしい。それを取るがいい。突っ立って、その人にこう云ってはならない。「親愛なるあなた様。思うに、そうした無差別的な愛は間違っていますよ。あなたは全く私の性格をお尋ねになりませんでしたね。あなたは、私が本当に失業しているかご存じないではありませんか」。あなたに1シリングが差し出されているなら、愛する方よ。それを取った方が身のためである。もしあなたが非常に空腹であり、回りにパンがあるなら、それが与えられた場合、それを食べた方が身のためである。もしそれが無代価で、何の制約もなしに与えられたなら、無代価で、何の制約もなしにそれを取るがいい。私だったとしたら、何の質問もしないであろう。良心のためばかりでなく、私の必要のためにもである。また、特にその贈り物が、神の恵みによって主イエス・キリストによって差し出されている場合とあらば、なおのことである。もし主が、「取りなさい」、と仰せになるなら、私は取るであろう。確かに贈り物ほど制約のないものはない。ただし、ことによると、私は与えるときよりも取るときの方が制約がないかもしれない。というのも、私たちのあわれな性質は狭量で、与えることにおいては必ずしも無制約でないことがあるからである。だが、確かに、利己心でさえも、取るときには私たちの制約をなくしてくれる。あなた自身の益を、また、あなた自身の救いを求める聖なる願いによって、あなたはこう云いたいと思わされるべきである。「はい。主よ。もしあなたが無代価でお与えになるなら、私は文句なしに無代価で受け取ります!」、と。

 また私は、《主人》が、そのパンの一片をペテロに向かって差し出しながら、三十分も立ち続けていたとは思わない。主が、「取りなさい」、と云われたら、ペテロはそれを取った。「取りなさい」、と主がヨハネに云われたら、ヨハネはそれを取った。「取りなさい」、と主がピリポに云われたら、すぐさまピリポはそれを取った。幸いなことよ。キリストについて初めて聞くときに、キリストを受け入れる人たちは。幸いなのは、何はともあれキリストを受け入れるあらゆる人たちである。だが、本当に果報なのは、主が、「取りなさい」、とその恵みを通して云われるとき、たちどころにこう答える人たちである。「はい。主よ。そういたします。そして、感謝もいたします、心の底から!」 私たちがあれほどしばしば歌ってきたこの言葉を思い出すがいい。――

   「いのち ただ主の うちにあり
    ただそこにのみ 差し出さる――
    代価(かた)なく金銭(しろ)なく 示さるる。
    こは神おくる 賜物ぞ。
    取れよ、救いを、
    いま取りて 得よ、幸いを」。

 予想するに、ある人はこう云うであろう。「では私は、ただ取るだけでイエス・キリストを自分のものにするのでしょうか?」 まさにその通り。あなたは《救い主》を必要としているだろうか? そこに救い主がおられる。この方を取るがいい。あなたは罪の力から解放されたいと願っているだろうか? 主はあなたを解放することがおできになる。主を取って、そうしていただくがいい。あなたは聖なる、敬虔な生活を送りたいと願っているだろうか? ここにいる《お方》は、あなたを洗うことができ、あなたがそのように生きられるようにすることがおできになる。この方を取るがいい。この方は空気のように無代価である。あなたは、次に呼吸して肺に入る空気の代金と同じくらいしか、キリストのための代金を支払う必要はない。主を取り入れるがいい。取り入れるがいい。それしか行なわなくとも良い。かりにあなたが、「私は、このあわれで無価値な罪人、このような自分が、ありのままでキリストを取って良いなどとは到底考えられません」、というのを聞いたとしたら、私は答えるであろう。――それこそ、私があなたに与えなくてはならない福音なのだ、と。というのも、イエスは、「取りなさい」、と云われたからである。

 主イエスはご自分の弟子たちに云われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです」。よろしい。ならば、まず最初に、キリストが罪人たちにとって、いかに制約のないお方であるか見てとるがいい。なぜなら、主にはからだがあったからである。かつての主には、何のからだもなかった。ほむべき神の御子は純粋な霊であられた。だが、主はへりくだって、マリヤから生まれてくださった。私は、あの飼い葉桶をゆりかごにしている、みどりごの主が目に見える気がする。万物の主が、あれほど低く身を屈めて、ひとりの女の乳房にすがりつき、他のどの赤子とも変わらず布でくるまれるのを許された。いのちと栄光の主が人間の性質を取られた。主は子どもとしてナザレで暮らし、労働者として成長し、ひとりの大工の評判の《息子》となった。労働者である。あなたの神が、あなたのために《大工》となられたのである! この方を取るがいい。確かに、主が人々の間に来られ、私たち自身と同じようなからだをお取りになったという事実からして、この方を取るには何の制約もないのだと感じるよう励まされてしかるべきである。主の御名はインマヌエル、私たちとともにおられる神、である。そして、もし主が私たちとともにおられる神――私たちの骨の骨、私たちの肉の肉――だとしたら、また、もし主が私たちを祝福しようとするほど遠くへ来てくださったとしたら、私たちは、主がやって来てもたらそうとしておられるものを制約なしに取ってかまわないことを疑わないようにしよう。

 さらに、ひとつのからだを取られた上で、思い出すがいい。次に主は、そのからだにおいて、苦しみを受けられた。もし私があなたに、イエス・キリストがあなたを贖うために死ぬおつもりであると告げなくてはならなかったとしたら、ことによると、それはあなたの信仰を試すことになるかもしれない。だが、あなたに告げなくてはならないことが、主がすでに死なれたということであるとしたらどうだろうか。もしそれが、あなたの贖いのみわざはすでに成し遂げられているということ、また、すでにイエスが、「完了した」[ヨハ19:30]、と大きく叫んでから、頭を垂れ、霊をお渡しになったということ、また、あなたの負債を主は最後の一銭まで支払っておられ、あなたの罪を木の上のご自分のからだで負ってくださったということであるとき、これは実に良い知らせとなる。というのも、それによって私はさらにこう云うことになるからである。すなわち、もし主がこうしたすべてを行ない、死なれ、「正しい方が悪い人々の身代わりとなった」[Iペテ3:18]としたら、私たちは何の制約もなくこの方を取って良いのであり、そこに嘘はない、と。神はご自分の御子を罪のためのなだめの供え物[Iヨハ4:10]として示された。それゆえ、主がこう仰せになるのを聞こうではないか。「取りなさい。取りなさい。取りなさい」。そして、これほど無制約に私たちに提供されているものを取ろうではないか。

 私の愛する方々。やはり覚えておくがいい。イエス・キリストが、からだを持っており、そのからだにおいて死なれた以上、その死の目的は主ご自身の外側にあったに違いない。主が人間となられたのは、それによって何か得をするためであったはずがない。主が、ご自分の栄光にしか関わりのない何らかの目的のために死ぬなどということはありえなかった。主には、ご自分の《神格》の光輝を定命のからだで覆い隠し、そのからだにおいて死ぬべき何の必要もなかった。ならば主は、他の人々のために死なれたに違いない。それゆえ、主を取るがいい。主を取るがいい。あなたは見てとらないだろうか? こうした果実がその木に生っているのは、その木自身のためではない。むしろ、通りかかった空腹な人が手を伸ばして、取って食べるためであることを。おゝ、あなたがこう見てとるだけの分別を有しているとしたらどんなに良いことか。キリストが、ご自分のものではないもろもろの罪のために死なれたのは、贖罪のためであり、それゆえ、あなたは主を取って良いのである。全く何の制約もなしに主を取ってかまわないのである!

 それに加えて、イエスご自身が、私たちが取るように命じられているものを与えておられる。この節に何と書かれているか注意するがいい。「イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取って食べなさい』」。イエスが与えてくださるものなら、あなたは真実に取ってかまわない。私が行って、他の人の持ち物を取ることは許されない。だが、その人が私に与えるものなら取ることが許される。もし私が何かを盗んだかどで捕まったとしても、「この人がそれを私にくれたのです」、と真実に云うことができるとしたら、私は決して盗人ではないではないだろうか。そして、もしイエス・キリストがあなたに恵みをお与えになり、あなたがそれを本当に取るとしたら、あなたは決して盗人ではない。事実、正当な権利もなしにイエスをつかむ者などどこにもいない。もしある犬が肉屋の中に入り込んで、一片の骨付き肉を盗むとしたら、肉屋はその肉を取り上げ、盗んだものを犬に食べさせないかもしれない。だが、罪人という犬がやって来て、キリストのあわれみをつかんだとき、キリストがそれを彼から取り上げたことは一度もない。それを取るがいい。罪人よ。あなたは、もしそれをあえてとらえているとしたら、それを確保しているのである。神は、信仰によってとらえることを、適正なこととされる。神があなたにそうするよう命じておられるからである。あなたは、この権利以外にいかなる権利をもキリストに対して有していない。それは、キリストが、その恵みの豊かさに応じて、必要な者たちに無代価で与えてくださる権利である。それゆえ、「取りなさい。取りなさい。取りなさい」、と云うこのことばを聞くがいい。受けて、受け入れて、つかんで、自分のものとして、取るがいい。

 イエス・キリストは、ご自分の弟子たちに、「取りなさい」、と云ったとき、彼らの《主人》であられた。ならば、キリストのことばは弟子たちにとっては法であった。彼らの中の誰かが、「私は取ろうとは思いません」、などと云ったとしたら、不従順の咎を負わずにはすまなかった。おゝ、今晩ここにいる、ひとりのあわれな魂がこう云うとしたらどんなに良いことか。「《救い主》はいるのでしょうか? ならば、私はその方を自分のものにしたいと思います。その方を取りたいと思います」。願わくは、無限の愛の御霊があなたの思いに働きかけ、一種の聖なる絶望によってあなたにこう云わせてくださるように。「私は今すぐ主を取ろう。それが許されていようといまいと、主を取ろう。私の罪感覚が、『そうしてはならない』、と云おうと、悪魔が、『そのような大それたことをしてはならない』、と云おうと、それでも私は主を取ろう。私は本当に信じる。信じよう。信じなくてはならない。イエスが私のために死んでくださったことを。そして、イエスを私の《救い主》として取ろう。イエスにだけ全面的により頼もう」。もしあなたがこのことをするなら、あなたは決して滅びるはずがない。というのも、あなたにとっても、主の弟子であるいかなる者にとっても、あるいは、弟子となりたいと思ういかなる者にとっても、この命令のことばがやって来るからである。「取りなさい。取りなさい。取りなさい。取りなさい。取りなさい」。おゝ、何とほむべき知らせ、何と甘やかな命令であろう。願わくは、《天来の御霊》が今あなたを導き、それに従わせ、キリストをあなたの《救い主》として取らせてくださるように!

 II. この説教の第二の項目は、《食べなさい》、である。「取って食べなさい」。

 食べることは、非常に単純なことであるため、それを説明しようとすべきだとは思わない。家に帰って夕食をとるがいい。そうすれば、それは理解できるであろう。空腹な人なら誰でも、生きている人なら誰でも、食べるとはどういうことか知っている。よろしい。食べるとはいかなることだろうか?

 食べるとは、最も奥深い種類の受容である。それは、あなたの前に置かれた食物を、あなたの自己そのものの中に取り入れることである。よろしい。いまキリストを取るがいい。あなたがた、その弟子である人たち。キリストご自身を、そのみわざ、その血、その義を取るがいい。それらを、真っ直ぐあなたの中に取り入れるがいい。云うがいい。「これは私のためのものだ。私自身のものとしてこれを取ろう」、と。私には、自分が食べるいかなるものについても、相棒はいない。私が食べたものは、自分ひとりのために食べたのである。あなたが、あなたの細君や子どもたちに代わって食べてやることはできない。それは自分のために行なわなくてはならない。さて、愛する心よ。勇気を奮い起こして、キリストをすべてあなたのものとして取り、云うがいい。「この死に給う《救い主》は私のものです。この復活の《救い主》は私のものです。私は、他のおびただしい数の人々がこの方を有するようになることを希望します。ですが、私のためには、私がこの方を自分のものにします」。私はものを食べるとき、自分のための1つの行動を取っている。そうであるに違いない。では今、信仰によって、私はこのほむべき神の御子を取る。人となって、生きて、死んで、よみがえった御子を私は自分のために、自分のものとして取る。私は切に願う。ぜひ、あなたも今晩そうしてほしい。「それは利己的な行動です」、とあなたは云うであろう。あゝ、だが、それは必要な行動なのである! あなたは個人的に罪を犯してきた。だから個人的にキリストを取らなくてはならない。あなたは個人的に空腹である。ならば、個人的に食べなくてはならない。誰がそのことであなたを罪に定めるだろうか? 他の人々に対して非利己的にふるまいたければ、自分自身が食べなくてはならない。なぜなら、利己的になるためであろうと非利己的になるためであろうと、あなたは長く生きていないだろうからである。ならば、このことを心がけるがいい。「取って食べなさい」。キリストを、最も奥深い種類の受容によって受けるがいい。

 また、食べることは、非常になじみ深い種類の受容でもある。それは、労働者であれ貴族であれ同じように遂行できることである。それは、しばしば貴族よりも労働者によってずっと良くなされていると思う。彼らは――彼らのある者たちは――いかなる食べ方ができることか! そして、無邪気な心をした人々は、キリストのもとに来るとき、いかなる食べ方ができることか! もしあなたが食べることを見たければ、「紳士貴顕ならびに貴婦人の方々」を宴席の珍味佳肴へと連れて来てはならない。むしろ、大勢の貧しく勤勉な労働者たちを招待するがいい。つまり、一箇月もの間、満足に食べてこなかった人たちということであり、そうした種類の人々はたくさんいる。そうした人々を、美味しい骨付き肉にありつかせて、彼らがどのような食べ方をするか見てみるがいい。食べることは、非常になじみ深い行動である。それゆえ、私たちは云う。イエス・キリストの大いなる救いに関して、「取って食べなさい」、と。主を取って、あなたの中に呑み下すがいい。このことは、あなたが自分の食事を取るのと同じように行なうことができる。あなたがた、空腹で飢えている人たちが食事をむさぼり食らうのと同じように、主イエス・キリストを取り込み、主に頼り、主を自分自身の中に受け入れて、こう云うことである。「主は全く私のものであり、私のものであり続ける」、と。

 さて、食物が食べられたとき、それは単に取り込まれただけでなく、咀嚼されなくてはならない。それは口の中で何度も何度もひっくり返され、その風味が確かめられる。さて、このように、主イエス・キリストのこと、また、主の贖いのみわざのことを大いに考えるがいい。真理を読み、心に留め、学び、内側で消化するがいい。もし信じることができないように感じるとしたら、何を信ずべきかについて、また誰を信ずべきかについて大いに考えるがいい。そうした咀嚼は、天的な食物によって養われる素晴らしい方法となるであろう。イエスは罪人たちのために死なれた。イエスは罪人たちのために死なれた。イエスは罪人に代わって、代理として、成り代わって死なれた。その偉大な真理を咀嚼し、何度も何度もひっくり返すがいい。この偉大な教理をあなたの思想の歯で噛んで噛んで、ついにはその髄と精があなたの魂に取り入れられるまでとするがいい。

 それから、食物には、内的な同化が伴う。私たちの奥深い部分へと呑み下された食物は、私たちのからだを増強し始め、ついには、少し前にはパンであったその食物が肉と血になるのである。あなたの思念の中に、あなたの信仰の中に、あなたの心の中に、キリストを留めておき、ついにはキリストがあなたと1つになり、あなたの魂を育てはぐくむようにするがいい。あなたの食物が、あなたのからだを増強するのと全く同じようにである。「取って食べなさい」。知っての通り、そもそも食べるということは、食物を自分自身の中に取り込むことである。それが要点である。あなたの中に吸収して、それをあなた自身のものとし、あなた自身の一部とすることである。さて、ほむべき主キリストについて、また、主が罪人たちのためになされた素晴らしい一切のみわざについて、そのようにするがいい。それを取って、あなた自身の内側に真っ直ぐ達させ、あなた自身の本質的部分にならせ、あなたがそれによって生きるようにするがいい。「取って食べなさい」。

 ある人がこう云っているのが聞こえる気がする。「おゝ、ですが、そのようなことは、あまりにもとんでもないことに思われます。私が、このあわれで、無価値な者が、一片のパンを食物にするように、キリストを取って私のものにするなど!」 よろしい。聞くがいい。主があなたにそうするよう命じておられるのである。それが十分正当な理由である。たとい私が、地獄の外にいる人間の中で最も無価値な者だったとしても、もしイエスがご自分に信頼するよう私にお命じになるとしたら、私はイエスに信頼してかまわない。主が命じておられるということは、私がそうすべき十分正当な理由である。おゝ、神の子どもよ。おゝ、あなたがた、神の子どもになりたいと心底から願っている人たちよ。主はあなたに食べるよう命じておられる。私は切に願う。ためらうことなく、主のご命令をあなたの正当な理由とするがいい!

 イエス・キリストはへりくだってご自分をパンにたとえておられる。だが、パンは、それが食べられなければ、何の値打ちがあるだろうか? それがパンとして作られたのは、食べられるためでなくて何だろうか? なぜそれはパン屋の店先にずらりと並んでいるのだろうか? 眺められるためだろうか? 何と! 空腹な人々が町通りにいるというのに、そこにあるパンがただの観賞用であると? 否。パンを作るということそのものが、人々のための食物を意味している。そして、主イエス・キリストがご自分をパンにたとえているとき、主が意味しておられるのこういうことである。主は、恵みの契約において、最もふさわしい形とありさまにご自分を変えてくださった。主は、私たちがそのようなお方としての主を受け入れることを意図しておられるのである。食べられることのないパンなど、何になるだろうか? 荒野のマナが食べられることなく、蓄えられた場合、それには虫がわき、悪臭を放った[出16:20]。私たちの主イエス・キリストは、主によって罪人たちが救われない限り、何の役にも立たない。誰も救わない《救い主》! 何と、主は店を開きながら、何も売らない男のようになる。あるいは、町にやって来ても、ひとりも患者を診ない医者のようになる! キリストは罪人たちを救わなくてはならない。キリストは、罪人たちを欲しておられ、罪人たちを救いたいと切望しておられる。来て、主を取るがいい。来て、そのパンを食べるがいい。その目的と狙いと目当てを果たさせたければ、食べなくてはならない。パンでありながら、まだ食べられていないキリストは、栄誉を汚されたキリストとなる。

 「取って食べなさい」。よろしい。これは――この食べることは――何を意味するだろうか? 教えよう。東方では、二人の人が一片のパンを取り、それを裂いて、一方をひとりが、もう一方をもうひとりが食するとき、それは友情を意味していた。人がある遊牧民の天幕に入っても、相手がどのような種類の人間かは分からない。彼は夜にその人を殺し、持ち物を奪うかもしれない。だが、もし彼がその人に一片のパンを与え、彼と食事をともにするとしたら、彼はその人を傷つけないであろう。もてなされる側の数々の権利によって、その人の身の安全は確かになる。彼とその人の間には友情がある。さて、見るがいい。神はイエス・キリストを大いに喜んでおられる。あなたも、主を大いに喜びたくはないだろうか? ならば、見るがいい。あなたがたはともにパンを裂いたのである。というのも、あなたがたは同じ《お方》を喜んでいるからである。神はご自分の栄誉をキリストに預けておられる。あなたは、自分の魂をキリストに預けたくはないだろうか? ならば、あなたは神とともにパンを裂いたのである。「取って食べなさい」、とイエスは云われる。そして、あなたがそうした瞬間に、そこには友情が、否、契約が、あなたと神との間に確立する。私は、神がイエス・キリストを、私がキリストを愛するよりもずっと純粋なしかたで愛しておられることを知っている。だが、私はほとんどこう云えると思う。神も、私がキリストを愛している以上に真実にはキリストを愛してはいない、と。おゝ、主は私の魂にとっていかなるキリストであろう! そして、神もキリストを愛しておられる以上、神と私は1つのことについては一致しているのである。私たちは、ひとりの尊い《救い主》について一致している以上、ともに手を打ち、永遠に友人になれる1つの場所があるのである。あなたが信仰によってキリストを食べたその瞬間に、永遠の友情があなたとあなたの神との間には確立するのである。

 さらに、イエスが、「取って食べなさい」、と云われるとき、そのことばが私たちに対して述べているのは、主が私たちの魂にとって真の滋養物となるということである。魂は、神の真理によって栄養を取らなくてはならない。それが、魂の霊的食物である。そして、主イエス・キリストは、私たちが主のことを考え、瞑想し、主を信じ、受け入れるとき、私たちの心の食物、私たちの霊の滋養物となられる。ならば、主のことを大いに考えるがいい。主を大いに信頼するがいい。主について大いに瞑想するがいい。というのも、このようにしてあなたは主にあって強くなり、キリスト・イエスにある大人の身丈に達する[エペ4:13]ほど成長するはずだからである。これが、この聖句、「取って食べなさい」で意味されていることである。

 このことが、やはり描き出しているのは、キリストと御民との間にある、素晴らしい結び合いである。人が食物として自分の養いとしているものは、その人自身と分かちがたく結合してしまう。人が昨日食べたものを取り去ることはできない。それは、その人自身の一部になってしまっている。話に聞いたことのある、ある司祭は、ひとりのアイルランドの少年から新約聖書を取り上げたという。少年は云った。「あんたにも取り上げられない章が十章はあるぞ」。「何でだ?」、と司祭は尋ねた。「おいらは、それを暗記しちまってるからだい」。そのように、あなたが自分の心にキリストを受け入れるとき、キリストはあなたから取り去ることができなくなる。誰が私たちをキリストの愛から引き離す[ロマ8:35]だろうか? キリストと信仰者との間の結び合いは、キリストを破壊し、その人をも破壊しない限り引き離せないほどのものである。両者はあまりにも織り合わされ、絡み合わされ、混ぜ合わされているために、引き離されることなど到底ありえない。それで、《救い主》はあなたがた、ご自分の弟子である人たちに、また、そうしたいと願っている人たちに云われるのである。「取って食べなさい」、と。じきにこの場では、私たちが聖餐卓に着いて、パンを裂き、それを食べることになるが、そのように、キリストを取って、キリストで養われることである。主はあなたがそうするよう命じておられるからである。「取って食べなさい」。愛する心たち。それを稼ぎとることなど何も云われていない。それを買うことなど何も云われていない。そのために準備をすることなど何も云われていない。ならば、来て、主イエス・キリストを取るがいい。そうすれば、主はあなたのものである。

 「おゝ!」、とある人は云うであろう。「私はキリストを信頼します。いまキリストを取ります」。今晩この場にいるあなたがた、若い青年たち、若い娘たち。この、私が静養から戻って来た後の最初の安息日に、もしあなたが思い切ってキリストを受け入れるとしたら、これは私にとって非常に幸いな晩となることであろう。私が魂の苦悶のうちにあったとき、私には、自分がキリストを取ってはならないかのように思われていた。何年も前の、私が十五歳の少年だったとき、それは常に私の悩みであった。私は、キリストが自分のために死んでくださったなどと大それたことは考えられず、自分の魂をキリストにゆだねることを恐れていた。だが、次第に私にも分かってきた。もしも私があえてそうするなら、そうしてかまわないのだ、と。また、もし私がそうしたとしたら、それで事は決して、決して無効にはならないのだ、と。もしイエス・キリストが通り過ぎて行かれるこの好機をつかんで、その衣のすそに触れさえするなら、それがいかに途方もない増上慢の一片のように思われたとしても、それは聖なる尊い増上慢となり、キリストはそれゆえに私をお怒りにはならないだろう、と。また、私は知っている。私が最初に信じたとき、私はまるで自分が盗人になり、1つの治療薬を盗み出したかのように思われたことを。だが、そのとき主イエスは決して私からそれを取り去らなかった。私はあえて、思い切って、大胆にもこう云った。「私は信じる。主が私をお救いになれることを、また、すでに私を救ってくださったことを」私は主に自分をまかせ、そのとき平安を見いだした。今晩そうするがいい。イエスは云われた。「わたしを信じる者は永遠のいのちを持ちます」[ヨハ6:47 <英欽定訳>]。その人は今それを持っており、それは永遠なのである。決してそれを失うことはない。イエス・キリストを信じる人は罪に定められない。過去の咎や罪がいかなるものであれ関係ない。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます」[マコ16:16]。さて、ここまで私があなたに示してきたものこそ、福音の全体である。それが《主人》の云い表わされた通りの福音である。そして、私は、その条件を何1つ省かなかった。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます」。「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」[ロマ10:9-10]。

 「取りて食べよ。取りて食べよ。取りて食べよ」。私は、こうした言葉を語って、あなたがた、桟敷席最上段の人たちが、二十年後にも――もし生きていれば――それを聞けるようにしたいと思う。それは、あなたがこれらの灯火を思い起こし、これらの座席一杯の人々を思い起こすとき、なおも、こう叫ぶ声を聞くかのように思われるようにするためである。ことによると、それは私の墓から響く声かもしれないが。「取りて食べよ」、と。しかし、二十年も待っていてはならない。「取りて食べよ」。それを今晩行なうがいい。願わくは、神があなたがた全員を助けて、そう行なわせてくださるように。イエスのゆえに! アーメン。

 

「取りて食べよ」[了]


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