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キリストに来たる者みな迎えられん

NO. 2349

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1894年2月25日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1889年11月17日、主日夜


「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」。――ヨハ6:37


 私キリストの死は無駄にはならない。御父は、主に特定の数の人々を与えて、主のいのちの激しい苦しみ[イザ53:11]への報いとされたし、主も彼らを、ひとり残らずご自分のものとされるであろう。主がこう仰せになった通りである。「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます」[ヨハ6:37]。全能の恵みが、彼ら全員を甘やかに強いて、やって来させるはずである。最近、私の父は、説教を始めた頃の私が父に出した何通かの手紙を私に寄こしてくれた。少年じみた書簡だったが、もう一度それを読み通してみたところ、その1つにこのような表現があることに気づいた。「何千人もの人々が救われるのを見たいと、何とぼくは願っていることでしょう。ですが、ぼくの大きな慰めは、何人かは救われることになり、救われるに違いなく、救われるはずだということです。こう書かれているのですから。『父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます』」。

 あなたがたひとりひとりが発すべき問いは、こうである。「私は、その数に属しているだろうか?」 これから語ろうとしている説教は、御父がキリストにお与えになった「みな」に、あなたが属しているかどうかを見いださせる助けとさせるためのものである。この節の後半を用いれば、前半を理解することが容易になるに違いない。「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」。これが、私たちの《救い主》の直前のことばの説明となるであろう。「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます」。

 これ以上前置きを語っている時間はない。すぐさま本日の主題に取りかかり、あらゆることを濃縮した形で云い表わすよう努めなくてはならない。どうか、このことばに注意を払い、これを思い巡らし、これをもとに祈りをささげてほしい。そして、願わくは、聖霊なる神が、それをあなたがた全員の心に適用してくださるように!

 I. 第一に、この聖句の中にある《必要な性格》に注意するがいい。「わたしのところに来る者を」。救われたければ、キリストのもとに行かなくてはならない。天の下にある救いの道はただ1つ、キリストのもとに行くことしかない。他のどこに行こうと、あなたは失望させられ、失われることであろう。キリストのもとに行かない限り、決してあなたは永遠のいのちを持つことができない。

 キリストのもとに行くとはどういうことだろうか? よろしい。そこで暗示されているのは、他の一切の信頼を離れ去ることである。誰かのもとに行くとは、他のあらゆる者から離れ去ることである。キリストのもとに行くとは、他のすべてから離れ、他のあらゆる望み、他のあらゆる信頼の的を捨てることである。あなたは、自分自身の行ないに信頼しているだろうか? どこかの司祭を頼りにしているだろうか? 《処女マリヤ》の功績や、天国にいる聖人だの御使いだのを頼りにしているだろうか? 主イエス・キリスト以外の何事かを頼りにしているだろうか? だとしたら、それから離れ去り、縁を切るがいい。他のあらゆる頼りを後に残し、十字架につけられたキリストに信頼するがいい。というのも、これが救いの唯一の道だからであり、ペテロがイスラエルの指導者や長老たちにこう云った通りである。「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです」[使4:12]。

   「木の上(え)に血流すイェスにぞ
    向けよ、汝が目と 心をば」。

そして、今すぐ主のもとに来るがいい。そうすれば、あなたの魂は永遠に生きることになる。

 つまり、イエスのもとに行くとは、主を信頼することである。主は《救い主》であられる。それが主の務めである。主のもとに行き、主があなたを救ってくださると信頼するがいい。もしあなたが自分で自分を救えるとしたら、《救い主》の必要などないであろう。だが、今やキリストが《救い主》として立てられている以上、キリストにその務めを果たさせるがいい。こう決意することである。たとい自分が失われることになるとしても、イエスだけを信頼しながら失われることにしよう、と。そうすれば、あなたが失われることなどありえない。あなたの一切の希望を一括りにし、それをキリストの上に置くがいい。キリストをあなたの救いのすべて、あなたの願いのすべてとするがいい。そうすれば、あなたは確実に救われることになる。

 私は時として、信仰の生活とはどのようなものかをあなたに説明しようと努めてきた。それは、綱渡りをしている人に酷似している。信仰者は、落ちることはないと告げられる。神がそうならないようにしてくださると信頼してもいる。だが、時折その人は、こう云うことがある。「もし私が本当に落ちたら、下の方ではどうなることか!」 私もしばしばそうした経験をしてきた。私は、目に見えない階段をずっと上ってきた。次の段を見ることはできなかったが、その上に足を下ろすと、それが固い花崗岩であることを見いだしてきた。次の階段は見えず、あたかも自分が深淵に沈み込むかのように思われた。だが、私は着実に、一度に一歩ずつ、上り続けてきた。全くの闇としか思えないものの先は見通せないが、それでも必要な所では常に光を受けてきた。私の父は、夕方に裏庭で木をのこでひき切っている間、その手元に蝋燭を差し出すのが常としていた私に、よくこう云ったものである。「坊や。私がのこをひいているところに蝋燭を差し出しておいておくれ。その向こうは見えなくて良いから」。そして、私はしばしば自分に向かってこう考えてきた。私も、来週の半ばか、来年の半ばに何があるか見たがったとき、主は、まるで私にこう仰せになるかのようであった、と。「お前の蝋燭では、お前がきょう行なわなくてはならない仕事を照らしておきなさい。そして、それが見えたなら、満足しなさい。それが今のお前に十分必要なだけの光なのだ」。かりにあなたが来週のことを見通す力があるとしたら、しばらくの間、視力を失うことは非常なあわれみとなるであろう。心労や悩みに対する先見の明があっても何の得にもならないからである。「労苦はその日その日に、十分あります」[マタ6:34]。それは、良いことがその日その日に十分あるのと変わらない。しかし、主は実際、ご自分の民を天空に向けて訓練するために、彼らに対するご自分の日々の気遣いという件で、彼らの信仰をお試しになる。しばしば、ある人が、自分の地上的な必要を神が供してくださると頼みにしているかどうかで、その人が、自分の魂の救いに関する、より重大な事がらで主を信頼しているかどうかは証明されるからである。物質的なことと霊的なこととの間に線を引き、こう云ってはならない。「神は、ここまではしてくださるだろう。だが、これこれのことは、祈りによって神のもとに持って行ってはならないのだ」、と。そういえば私は、ある善良な人について、ひとりの人がこう云うのを聞いたことがある。「何と、あの人はとても変な人ですよね。このあいだは鍵のために祈ってたんですから!」 だが、なぜ鍵のために祈ってはいけないのか? なぜ留め針のために祈ってはいけないのか? 時として、留め針のために祈ることは、王国のために祈るのと同じくらい重要なことがあるであろう。小さな事がらは、往々にして大事件の要となる。信仰と祈りによって、いかなることもをも神のもとに持って行くよう気をつけるがいい。「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」[ピリ4:6]。

 しばしの間、本日の主題から脇道にそれてしまったが、ここでもう一度、キリストのもとに来るという問題について考えよう。イエスのもとに行くとは、単に他の一切の信頼の的を離れ去ってキリストを信頼することを暗示するだけでなく、キリストに従って行くことをも意味している。もしあなたが主を信頼するなら、主に従わなくてはならない。もしあなたが自分の魂を主の御手にゆだねるなら、主をあなたの《救い主》としてばかりでなく、あなたの《主人》、また、あなたの主としても受け入れなくてはならない。キリストが来られたのは、あなたを罪の中から救い出すためであって、救って罪の中にとどめておくためではない。それゆえ、主はあなたが自分の罪を離れ去るのを助けてくださるであろう。それがいかなるものであろうと関係ない。主はあなたにその罪に対する勝利を与えてくださるであろう。あなたを聖なる者としてくださるであろう。神の御前で行なうべきいかなることを行なうことをも助けてくださるであろう。主は、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになる[ヘブ7:25]。だが、あなたは主のもとに行かない限り、主によって救われることはできない。

 ここまで語ってきたことすべてをまとめると、あなたは他のあらゆる希望を捨てなくてはならない。イエスを、あなたの唯一の信頼の的として受け入れなくてはならない。それから、その命令に対して従順になり、主をあなたの《主人》、また、主として受け入れなくてはならない。あなたは、そうするつもりがあるだろうか? ないとしたら、あなたに云えることはただこのことである。――主を信じない者は希望なしに滅びる、と。もしあなたが、自分の魂の疾患のための神の治療法を――この世にある唯一の治療法を――受け取ろうとしないとしたら、あなたに残っているのは、永久永遠の暗黒と陰鬱な闇しかない。

 II. しかし、こうした性格は必要だが、ここで第二に注意したいのは、《この人々の普遍性》である。「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」。

 その人がキリストのもとに行くと認めるとしたら、必要なのはそれがすべてである。誰か、このように云うだろうか? 「先生。私など、全く名もない人間です。誰も私のことなど知りません。私の名前が新聞に載ったことなどなく、これからも載らないでしょう。私は無名の人間です」。よろしい。たといその《無名氏》がキリストのもとに行くとしても、主はその人を捨てないであろう。行くがいい。あなたがた、知られていない人たち。あなたがた、名もない個人たち。あなたがた、キリスト以外の誰からも忘れられている人たち! あなたでさえ、イエスのもとに行くなら、イエスはあなたをお捨てにならないであろう。

 別の人は云うであろう。「私は、非常に変わり者なのです」。そうしたことについて騒ぎ立ててはならない。私も、変わり者だからである。だが、愛する方々。いかに私たちが変わり者であれ、非常に奇矯な人間だと思われていようと、また、人によっては少しいかれていると考えられているかもしれなくとも、それでも、それにもかかわらず、何と云おうとイエスは云われる。「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」。そのままで行くがいい。《変人氏》よ! あなたは、脳が足りないからといって失われることはない。また、脳がありすぎるからといって失われることもない。そちらの方は、あまり良くある災難ではないが。もしあなたがキリストのもとに行きさえするなら、あなたに何の才質もなくとも、貧乏きわまりなくとも、全くこの世でうだつが上がらなくとも、イエスは云われる。「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」、と。

 「あゝ!」、と三番目の人が云うであろう。「私は、名もない人間だとか、奇矯だとかいうことは気にしません。ですが、私の罪の大きさを思うとキリストのもとに行けないのです」。もう一度この聖句を読ませてほしい。「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」。たといその者が七度も殺人を犯したことがあったとしても、また、定命の人を汚したことのある一切の買春や姦淫を犯したことがあったとしても、そして、全く途方もないほどの罪の責めが帰されることがありえようとも、それでも、もしその人がキリストのもとに行くなら、よく聞くがいい。もしその人がキリストのもとに行ったとしたら、このイエスの約束は、その人の場合でさえ果たされることであろう。「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」。

 「しかし」、と別の人は云うであろう。「私は完全に消耗しきっています。何の役にも立ちません。私は自分の一切の日々も歳月も罪の中で費やしてしまいました。もはや終わりに近づいてしまっています。私など誰からも受け入れてもらえる価値はありません」。そのままで行くがいい。あなたがた、人生の切れ端となった人たち! イエスは云われる。「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」。あなたは、杖二本にすがってやって来なくてはならないだろうか。気にすることはない。イエスのもとに行くがいい。あなたは衰え果てているあまり、高齢になった自分が生きているかどうかさえ分からなくなっている。だが、たといあなたが百歳だったとしても、私の主はあなたを受け入れてくださるであろう。それ以上の年齢になってからでさえ、イエスのもとに導かれた多くの人々の事例がある。いくつかの、非常に尋常ならざる例が、そうした事実について記録に載っている。キリストは云われる。「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」。もしその人がメトシェラのように年老いていても、キリストのもとに行くなら、その人が捨てられることはない。

 「悲しいかな!」、とある人は云うであろう。「私は、そのお年寄りの人よりも悪い状況にあるのです。年老いているだけでなく、私は神の御霊に抵抗してきたからです。私は長年の間、良心を乱されてきました。ですが、そのすべてをもみ消そうとしてきました。私はあらゆる敬虔な思念を絞め殺してきたのです」。しかり、しかり。そして、それは非常に悲しいことでもある。だが、そうしたすべてにもかかわらず、もしあなたがキリストのもとに行くなら、もしあなたが救いに向かって突進し、イエスのもとに行くことができさえするなら、イエスがあなたをお捨てになることはありえない。

 ある人は、ことによると、こう云うかもしれない。「私は不安なのです、自分が赦されない罪を犯してしまったのではないか、と」。もしあなたがイエスのもとに行くなら、あなたはそれを犯したことはなかったのである。ご自分のもとに来る者を、イエスは決してお捨てにならないからである。それゆえ、その人がそれまでに赦されない罪を犯していたはずはない。そのままで行くがいい。人よ。そして、もしあなたが、この世の残りの罪人たち全員よりもどす黒いとしても、神の恵みは、イエスの尊い血によってあなたを雪よりも白く洗うことによってその力を証明するとき、いやまして栄光に富むものとなるはずである。

 「あゝ!」、とある人は云うであろう。「あなたは私のことを知らないのです、先生」。しかり。愛する方よ。私はあなたのことを知らない。だが、ことによると、そのうち、あなたと知り合う喜びにあずかることになるかもしれない。「それは、何の喜びにもなりませんよ、先生。私は背教者なのですから。私は、かつてはキリスト教信仰を告白していたものです。ですが、私はそれをことごとく捨ててしまいました。そして、この世に逆戻りして行きました。故意に、そして、よこしまな心をもって、ありとあらゆる悪事を行なってきたのです」。あゝ! よろしい。もしあなたがキリストのもとに行くことができさえするなら、背教の上に背教を七度重ねようとも、それでも主の約束は真実である。「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」。過去はいかにあれ、現在はいかにあれ、信仰後退者よ。キリストのもとに帰るがいい。というのも、主はご自分の誓われたことばをお守りになるからであり、また、本日の聖句には何の例外も言及されていないからである。「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」。

 「あゝ、先生」、と別の人が叫ぶであろう。「私はキリストのもとに行きたいと思います。ですが、私は、みもとに行くふさわしさがあるとは感じないのです」。ならば、全くふさわしくないまま、ありのままで行くがいい。イエスは云われる。「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」。もし私が真夜中に、「火事だ!」、という叫びで目を覚まし、窓の所に誰かが避難梯子に乗っているのを見たとしたら、決して寝床の中にとどまって、「私は黒首巻きをしていません」、だの、「最上の胴着を着ていません」、だのと云うとは思わない。全くそのような口はきかないはずである。自分にできる限り素早く窓の所に行き、避難梯子を降りて行くであろう。なぜあなたは、自分のふさわしさ、ふさわしさ、ふさわしさについて語るのか? 私は、ある騎士について聞いたことがある。彼がいのちを落としたのは、クロムウェルの兵士たちに追撃されているときに、立ち止まって自分の髪の毛に巻きをつけていたからであった。あなたがたの中のある人々は、その男の愚かさを笑うであろう。だが、それこそ、あなたが自分のふさわしさについて語っていることにほかならない。あなたのふさわしさなど、自分の魂を失う危険が迫っているときには、髪の毛に巻きをつけるこ以外の何であろうか? あなたのふさわしさなど、キリストにとっては無である。この礼拝式の最初に、私たちが何と歌ったか思い出すがいい。

   「良心により 逡巡(まよう)なかれ、
    ふさわしくなりて、と夢見るなかれ。
    主、汝れに要求(もと)む 資格(もの)みなは
    汝が主の必要(もとめ) 感ずことのみ。
    こは 主の汝れに 賜うものなり、
    こは主の御霊の 立ちし光なり」。

ありのままでキリストのもとに行くがいい。汚れた、卑しく、無頓着で、不敬虔、キリストなき者のままで。いま行くがいい。まさに今そうするがいい。というのも、イエスは云われたからである。「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」、と。

 本日の聖句には、栄光に富む幅広さがあるではないだろうか? 「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」。この「者」とは何者だろうか? それは、「来る者」である。「来る者」とは何者だろうか? 世界中の「来る者」すべてである。もしその人がキリストのもとに来るなら、その人は捨てられないのである。赤色人種も、黒色人種も、白色人種も、黄色人種も、銅色人種も関係ない。誰であろうと、イエスのもとに行くなら、決して捨てられることはない。

 何かを大まかに云いたいときには、常に、そのように言明し、それでとどめておくことが最上である。詳細に踏み込んではならない。《救い主》は詳細に踏み込まれなかった。何年か前に、ひとりの人がいた。優しく、愛情の深い夫であった彼は、自分の妻に全財産を残してやりたいと願った。自分の持っている何もかもを彼女に持たせてやりたかったし、それが当然でもあった。そこで彼は自分の遺書にこう書きとめた。「私は、わが愛する妻エリザベスに、私の持てるすべてを遺す」。それは問題なかった。それから、彼は自分が何を彼女に遺すか詳細に記述することに進んだ。彼は書いた。「私のすべての自由保有不動産および動産」、と。ところが、たまたま彼の財産のほとんどは、賃借不動産であり、この妻は、夫が詳細な記述をしたがゆえに、それを得られなくなったのだった。その詳細に紛れて、この善良な夫人の手から財産はすり抜けてしまった。だが今、ここには全く何の詳細もない。「来る者を」。それは、この広大な天の下のあらゆる男、あらゆる女、あらゆる子どものうち、キリストのもとに来て、キリストに信頼する者すべてを意味する。私が神に感謝するのは、そこに、何か特定の性格についての、いかに些細な言及もなされておらず、特に、「これこれの性格をした人々は受け入れられる」、といったことが云われていないことである。というのも、その場合、そこで省略された性格の人々は、除外されていると考えられかねないからである。だが、この聖句は明らかに意味している。キリストのもとに行くあらゆる魂は、キリストによって受け入れられる、と。

 III. 時が矢のように過ぎ去るため、急がなくてはならない。それゆえ、第三のこととして、ぜひとも熱心に耳を傾けてほしいのは、《この約束の取り違えようもない明白さ》についてである。「わたしのところに来る者を、わたしは決して」――すなわち、いかなる理由によっても、いかなる事情があろうとも、いついかなる時にも、いかなる条件の下にあろうとも、――「わたしは決して捨てません」。すなわち、解釈すれば、「私は彼を受け入れ、彼を救い、彼を祝福します」。

 ならば、愛する方々。もしあなたがキリストのもとに行くとしたら、いかにして主があなたをお捨てになることなどありえるだろうか? いかにして主は、そのようなことをしておいて、ご自分の真実さを保っていられるだろうか? 想像してみるがいい。私の主イエスがこのように――「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」、と――宣言し、それを私たちに霊感された聖書として与えておきながら、だがしかし、誰かを捨て去るなどということを。たといそれが、そこの隅にいる、名もない誰かだったとしてもである。何と、これは、嘘っぱちとなるであろう。真っ赤な嘘となるであろう! 私は切に願う。私の主を冒涜しないでほしい。この真実なキリストが、そのようなふるまいを犯すことがありえるなどと考えて冒涜しないでほしい。主は、ご自分が誰を受け入れるか、この約束をする前であれば、お好みのまま自由に決めることがおできになった。だが、この約束を誓われた後では、主はご自分のご性質の誠実さによって、それを守るよう縛られておられるのである。そして、キリストが真実なキリストである限り、ご自分のもとに来るあらゆる魂を受け入れなくてはならないのである。

 しかし、あなたにはこうも尋ねさせてほしい。かりにあなたがイエスのもとに行き、イエスがあなたを捨てるとしたら、いかなる手で主はそうできるだろうか? 「ご自分の御手ででしょう」、とあなたは答えるだろうか。何と! キリストが前に進み出て、ご自分のもとに来た罪人をお捨てになると? もう一度聞く。いかなる手で主はそうできるだろうか? あの刺し貫かれた、まだ釘跡の残る御手でだろうか? かの《十字架につけられた方》が罪人を拒絶なさる? あゝ! 否。主には、そのように残酷なわざを行なえる御手はない。というのも、主がご自分の両の御手を木に釘づけられるために差し出したのは、咎ある人々のためだったからである。主には、罪人たちを拒絶するための何の御手も、何の御足も、何の心臓もない。それらはみな、主が死んだ際に、彼らのために刺し貫かれたからである。それゆえ、主は、彼らがご自分のもとにやって来るとしたら、彼らを捨てることがおできにならないのである。

 もう1つあなたに尋ねさせてほしい。キリストは、もしもあなたをお捨てになるとしたら、何の得をなさるだろうか? もし私の愛する主が、あの茨の冠と、刺し貫かれた御脇と、傷ついた御手とをお持ちのまま、あなたを捨て去るとしたら、それがいかなる栄光を主にもたらすだろうか? もし主が、ご自分のもとに来たあなたを地獄に叩き落とすとしたら、それがいかなる幸福を主にもたらすだろうか? もし主があなたを捨てるとしたら、主の御顔を求めてきたあなたを、主の愛と主の血を信頼するあなたを捨てるとしたら、考えうる限りいかなる方法によって、それが主をより幸いにし、より偉大にすることがありえるだろうか? そのようなことはありえない。

 そのような空想が実現するとしたら、他にどのような結果が生じることになるだろうか? しばしの間、想像してみるがいい。イエスが、ご自分のもとにやって来た人を捨てたと。もしも、ある魂がキリストのもとにやって来たのに、主がそれを捨てたことが確実になったとしたら、何が起こるだろうか? 何と! 私たちの中の何千人もの者たちが、二度と決して説教しようとは思わなくなるであろう! 少なくとも私は、この仕事から足を洗うであろう。もし私の主がご自分のもとに来る罪人を捨てることがおできになるようであれば、私は、やましくない心で行って主のみことばから説教することはできない。「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」、と。さらに、私はこう感じることであろう。もし主が1つの約束を守らないとしたら、他の約束もお守りにならないかもしれない。私が行って宣べ伝えることができるのは、本当かもしれないが疑わしい福音となる。私は、「こうする」、また、「そうしよう」、ということばを神の永遠の御座から受けなくてはならない。もしそうでないとしたら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになる[Iコリ15:14]。

 見てみるがいい。もしある魂がキリストのもとに行ったのに、キリストが彼を捨てることになるとしたら、その結果がどうなるかを。あらゆる聖徒は、キリストに対するその信頼を失うであろう。もしある人が自分の約束を一度破るとしたら、その人が、「よろしい。私は普通は誠実ですよ」、と云っても何の役にも立たない。あなたは、その人が約束を守らない人間である証拠をつかんだのである。ならば、二度とその人を信用しないではないだろうか。しかり。そして、もし私たちの愛する主、そのあらゆる言葉が真理と真実であられるお方が、その約束の1つを一度でも破るようなことがあったとしたら、主はもはや御民によって信頼されることがなくなり、主の《教会》はそのいのちである信仰を失うことであろう。

 あゝ! 何ということか。そのとき、天国にいる人々は、このことを耳にするであろう。そして、キリストのもとに来ても捨てられた1つの魂によって、天国の立琴の音楽はやんでしまい、かの栄光の国の光彩は薄暗くなり、その喜びは取り去られるであろう。というのも、栄化された者たちの間では、こう囁き交わされることになるからである。「イエスがご自分の約束を破られたぞ。祈っている、信じている魂を1つお捨てになったぞ。主は私たちに対する約束も破るかもしれない。主は私たちを天国から追い出すかもしれない」。彼らが主を賛美しようとしても、主のこの1つの行為によって、彼らの喉は詰まらされ、歌えなくなるであろう。彼らは、主に信頼したのに捨てられた、そのあわれな魂のことを思う。では、いかにこう歌えるだろうか? 「イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放(っ)……てくださった」[黙1:5]、と。彼らは、こう云い足さなくてはならないのである。「しかし、彼はご自分のもとに来たすべての者を解き放ちはしなかった。そうすると約束していたにもかかわらず」、と。

 私は、そのように思い描かれた空想によって何が生じかねないかを語ることさえ好まない。それは、あまりにも私には恐ろしすぎる。というのも、地獄の中にいる者たちがそれについて聞きつけて、互いに云い交わすだろうからである。そのとき、悪魔や、その供回りの者どもすべては、その悪鬼的な心をすさまじい喜びで満たされるであろう。そして、こう云うであろう。「あのキリストが約束を守らないのだとよ。あの自慢たらしい《救い主》が、自分のもとに来た者を退けたのだとよ。前には奴も、遊女たちを受け入れ、そのひとりには涙で足さえ洗わせた。取税人や罪人どもがやって来ては、奴の回りに集まっていた。そして、奴は愛情深げな口調で奴らに話しかけていたもんだ。だが、ここにいるこいつは、――おゝ、こいつは汚らわしすぎて、あの《救い主》でも祝福できねえとよ。こいつは、堕落しすぎちまったもんだから、イエスもこいつを取り戻せねえのよ。キリストもきよめられねえのよ。奴は、小さな罪人どもなら救えたが、どでけえ罪人は救えなかったのよ。千八百年前なら罪人どもを救えたし、おゝ! それを派手に見せびらかしてくれたぜ。だが、今じゃその力も衰えたわけよ。今じゃひとりも罪人を救えねえんだぜ」。おゝ、ハデスの広間という広間で、何という嘲りと物笑いが、かの愛しい御名に浴びせかけられることになるであろう。そして私は、正当にも、とほとんど云いそうになった。もしもキリストがご自分のもとに来た者を捨てるようなことをなさったとしたら、そうである! しかし、愛する方々。そのようなことは決してありえない。それは、神の誓約と同じくらい確かである。エホバの存在と同じくらい確実である。キリストのもとに来る者は決して捨てられない。私は喜びをもって、この大人数の集会の前で自ら証言しよう。――

   「われは主に来ぬ、あるがまま、
    おとろえ、疲れ、悲しみて。
    主の裡(み)にわれ見ゆ 休み場を。
    主、われに喜び 満たしたり」。

あなたがたもひとりひとり、来るがいい。そして、この聖句が真実であることを、自分自身の経験によって証明するがいい。主イエス・キリストのゆえに! アーメン。

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キリストに来たる者みな迎えられん[了]


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