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主の有名な称号

NO. 2347

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1894年2月11日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1889年11月10日、主日夜


「主は捕われ人を解放される。主は盲人の目をあけ、主はかがんでいる者を起こされる。主は正しい者を愛し、主は在留異国人を守り、みなしごとやもめをささえられる。しかし主は悪者の道を曲げられる」。――詩146:7-9


 今朝、私は、自分にできうる限り、神の御助けにより頼みつつ、キリストに代わって人々を説得し、神に和解させようと努めた。私が示したのは、この世には大いなる霊的干魃があり、露も雨も神が送ってくださらない限り得られない、ということであった。また、私は、話を聞いている方々に、神のもとへ行くよう強く懇願しようと努めた。神を待ち望み、神を仰ぎ見て、主イエス・キリストの仲立ちを通して、自分の永遠の祝福のために必要となるだろう一切のものを神のうちに求め、かつ、見いだすように強く訴えた。私は強く迫り、ある人々は屈した。私の迫りにではなく、私の訴えとともにやって来た天来の衝動に屈した。だが、一部の人々は、今朝は屈さなかった。それで私は、今その人々をかちとろうと再度試みてみようと思う。私たちの《尊厳ある同盟者》、すなわち、《天来の御霊》を呼び求めながら、そうしたいと思う。この方がおられなければ、私たちは何もできないからである。願わくは今晩、御霊が多くの人々を悔悟のうちに神に導いてくださるように!

 知っての通り、ある人のもとに行くとき助けになるのは、その相手がいかなる人かを知っておくことである。その人がいかに善良であるか、その人のもとに行くことによって自分が恩恵をこうむる見込みがどれだけ高いか知っておくことである。本日の聖句は私たちに、主、エホバなる神についてあることを告げている。1つの文の中に五度、その言葉は現われている。エホバ、エホバ、エホバ、エホバ、エホバ、と。時として、ある偉大な王、または、君主が祝日を設ける時には、触れ役が国王陛下の数々ある称号を宣言する。ここにいますは、どこそこの君主、どこそこの領主、どこそこの皇帝なるぞ、と。――あまりにもしばしば、空々しい響きの言葉である。しかし、神について語る段になれば、そのいかなる称号も、その実際の栄光と誉れであるところのものを示すには不十分である。今晩、ここには神の5つの称号が一堂に集められている。神が行なわれた5つの素晴らしい偉業、神自らが注目されたいと望んでおられる5つの事がらである。私は、この場にいるあなたがたひとりひとりがそれらについて聞き、こう云うようになってほしいと思う。「それは私を励ましてくれます」、あるいは、「それは私を勇気づけてくれます」、あるいは、「それは私を助けてくれます」、と。いずれにせよ、私が今晩用いようと努める、この5つの大いなる磁石の中のいずれかによって、私たちの不承不承な心がみな神へと引き寄せられ、私たちが神のうちに安らぎと平安を見いだせるように!

 I. ここには、神の5つの有名な称号がある。第一のものは、《解放者》である。7節の後半を読むがいい。「主は捕われ人を解放される」。

 神の栄光となるのは、神が解放者であられることである。いかにしばしば主は、旧約聖書の中でも新約聖書の中でも、捕われ人を解放しておられることか! このことを、ひときわ著しく示しているのがヨセフの場合である。神は彼を監獄から出し、エジプト全土の主[創45:9]とされた。また、さらに著しいのはエジプトにいたイスラエルの場合である。強い御手と、伸べられた腕とをもって、主はご自分の民をパロのあらゆる暴政から連れ出し、パロのことは葦の海で滅ぼされた。聖書を読み続ければ、絶えずこのことが真実であると分かるであろう。「主は捕われ人を解放される」。

 私は、この場にいるあなたがたの中のある人々に、この思想をつかんでほしいと思う。あなたは、精神的な捕われ人になっていて、今晩、沈鬱な気分の下にあるだろうか? 少し前から、あなたの上には雲が差しかかっているだろうか? それは、今なおあなたの精神の上にとどまっているだろうか? いかなる医者もそれを取り除けないだろうか? この言葉に耳を傾けるがいい。「主は捕われ人を解放される」。あなたは、過誤という奴隷状態にあるだろうか? にせ教師たちによって誤り導かれてきただろうか? 神のことばに関する間違いに陥っているだろうか? あなたを慰めるだろう大いなる諸真理を否定しているだろうか? あなたの霊を曇らせる、大きな数々の過誤を信じているだろうか? 神のもとに来て教えられるがいい。神はあなたを、いかなる形の過誤からも解放することがおできになる。たといあなたが子どもの頃からその中で育てられてきたとしても関係ない。「主は捕われ人を解放される」。あるいは、あなたは何らかの、はなはだしい迷妄に支配されているだろうか? 何らかの偽りの印象のとりことなっていて、それを振り捨てることができないでいるだろうか? 私は切に願う。もしもあなたがサタンの種々の誘惑に悩まされ、苛立たされているとしたら、また、彼があなたの霊の中に確固たる足がかりを得ているかのように思われ、追い出すことができないとしたら、この聖句を銀の鐘のように鳴り響かせ、あなたにとって慰めとなる音楽を奏でるがいい。「主は捕われ人を解放される」。おゝ、あなたがた、精神的な縄目のもとにある人々が今晩自由にされるとしたらどんなに良いことか!

 しかしながら、そうしたものよりも悪い縄目がある。道徳的な奴隷状態という鎖である。この人は酔いどれである。そして、これまでにも誓いを立てたことはあるが、この恐ろしい渇望から逃れることができない。これまでの大酒癖によって、その渇望がしみついてしまっているのである。あゝ! 愛する方よ。キリストのもとに来ることである。キリストは、強い酒への愛を取り除き、あなたを自由にすることがおできになる。「主は捕われ人を解放される」。また、失われた者として自分をゆだねる人々をそうすることがおできになる。願わくは、あわれな女たちが強い酒のえじきとなるとき、神があわれんでくださるように! 私が確かに知るところ、この悪は、数年前にくらべて、はるかに普通に見受けられるようになってきている。何年か前よりもずっと頻繁に私たちは、転落した姉妹たちのために嘆かざるをえなくなってきている。それは悲しいことである。だが、この栄光に富む事実は残る。「主は捕われ人を解放される」。あわれな婦人よ、絶望してはならない! 解放の希望を持つがいい。神は人々を強い酒という縄目から解放することが今なおおできになる。この場にいる誰かは、情欲の奴隷となってしまっているだろうか? 何らかの悪しき情動があなたをがっちりとつかみ、その縄目を断ち切ることができないでいるだろうか? あなたを自由にすることができるお方がひとりおられる。左様! あなたがその悪に何年ふけってきたとしても、また、悪習慣が身についてしまい、逃れることができないかに思われるとしても、それでもこのことは真実である。「主は捕われ人を解放される」。その悪から抜け出せると自分を信頼してはならない。むしろ、罪のために十字架上で死んだお方を仰ぎ見て、この方に信頼するがいい。こう書かれているからである。「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」[マタ1:21]。私は今晩、人々が陥る、ありとあらゆる種類の道徳的な奴隷状態に言及しているわけにはいかない。だが、この甘やかな使信を、獄舎の中にいるあらゆる者たちにとって、御使いたちの立琴からさまよい出た音色とするがいい。「主は捕われ人を解放される」。

 ことによると、あなたは霊的な奴隷状態の中に握りしめられているかもしれない。これは、私たちの生まれながらの有様である。私たちは奴隷として生まれる。あなたは、愛する方よ。今晩、自分が罪の奴隷であると自覚しているだろうか? あなたは、自分のそむきの罪に固く縛られているだろうか? おゝ、霊的な奴隷よ。そこに、あなたの鎖をあなたから取り去る、ひとりの《解放者》がおられる! 「もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです」[ヨハ8:36]。そして、この方は、ほんの一言でそうすることがおできになる。ただこの方を信頼するがいい。ただこの方に自分を明け渡し、進んでこの方のとりことなるがいい。そうすれば、瞬時にしてあなたは自由になるはずである。願わくは、神が今晩あなたを自由にしてくださるように! 左様。そして、神はあなたを解放することがおできになる。あなたを奴隷としている一切の不義から!

 別の種類の解放について、主は絶えず捕われ人たちに希望を与えておられる。すなわち、この今の悪の世界[ガラ1:4]からの解放である。あなたは今晩病んでいる。悲しんでいる。打ちひしがれ、悩んでいる。それは肉の重荷のためである。だが、「主は捕われ人を解放される」。多くの捕われ人たちが、先の一、二週間のうちに解放された。それまで病床に縛りつけられていた、この教会の愛する会員の方々である。主はその檻の戸を開かれた。そして、自由にされた鳥は喜び歌いながら天空へ舞い上っていった。そのからだは墓に納められ、卑しい監禁状態にされているが、この方はやって来られる。自らも死者の中からよみがえられたこの方が。そして、再び地上にその御足が触れるとき、御使いの喇叭が召集の響きを鳴り渡らせ、彼らのからだが出てくるのである。――

   「ちりと黙(もだ)せる 粘土(つち)の寝床(とこ)より
    永遠(とわ)の真昼の 領土(みくに)へと」。

「主は捕われ人を解放される」からである。

 ここには、夕べの講話一回分の題目がある。だが、この点についてこれ以上時間を取りたいとは思わない。むしろ、この楔を突き入れたままにしたいと思う。もしあなたが捕われ人だとしたら、もしあなたが何らかの形で奴隷になっているとしたら、キリスト・イエスにあって神のもとに来るがいい。そして、あなたの信頼をこの方にかけるがいい。「主は捕われ人を解放される」からである。

 II. 急いで、主の第二の有名な称号に注意しなくてはならない。それは、《照明者》である。「主は盲人の目をあけ」。

 よろしければ、お手持ちの聖書を開いてほしい。すると、「目を」という言葉が斜体字になっており、翻訳者によって挿入されたものであると分かるであろう。ということは、本当はこの聖句は、「主は盲人をあけ」、なのである。あゝ、主は盲人の魂そのものを開き、何の目もなかった所に光を射し込ませてくださる! あなたも、そうだったことに気づいているではないだろうか? かりに誰かが私にこう云うとしよう。「スポルジョンさん。あなたの知っている中で最も幸せな人を十二、三人、選んでいただけますか?」 その場合、その中の十人は盲目の人であろう。私たちの愛する何人かの人は、この教会の会員だが、これまで神がそうしてくださった中でも最も幸福な人々の中に入る。その人々が最後に光を見てから随分長いことになるが、神は彼らの心をこの上もないしかたで開いてくださったために、彼らは素晴らしい霊の静穏さ、精神の大きな落ちつき、内的な光と光輝とを享受している。それは、目の見える人々が羨んでしかるべきほどのものである。私の注意してきたところ、盲目の人々はしばしば最も幸せな人々の中に入る。そして、盲目のキリスト者たちは確実に、その精神の静穏さや安らぎにかけて、私たちの間で最高の地位を占めることであろう。主イエス・キリストは盲人を開かれる。主は、からだの窓が閉ざされているときも、やって来ては、光を注いでくださる。そして、内側に光を与え、彼らが輝きに満たされるようにしてくださる。

 しかし、欽定訳聖書の通りにこの聖句を受け取ることにしても、それはそれで非常に良いであろう。主イエス・キリストが地上におられたとき、主は盲人の目を開かれた。主が視力を失った多くの眼球に触れると、光が流れ込んで行った。《福音書》を読み通せば、この奇蹟が絶えず繰り返されていることが分かるであろう。盲目は、東方では非常に良く見受けられる病気である。それゆえ、盲人に視力を取り戻させる奇蹟を私たちの主はしばしば行なわれた。

 次に、主は盲目の魂にものが見えるようにしてくださる。主が目を開かれた多くの人々は、自分自身を見てとることができなかった。これは、いかにその人々が盲目であったかを証ししている。また、その人々は、主を見ることもできなかった。それで、いやまさって、その盲目さを明らかにしてた。主が内なる光を与えてこられた多くの人々は、霊的な理解を有していなかった。彼らにとって福音は大いなる謎と思われ、何が何だか見当もつかなかった。主は多くの精神的に盲目な目から鱗が落ちるようにし、盲目だった者たちに初めて自分自身を見させ、それから自分たちの《救い主》を見させてくださった。主の御名はほむべきかな!

 また、地上の盲人がイエスにあって眠り、天国に入るときには常に、彼らは栄光においては決して盲目にならない。そこで、彼らの目は、《王》をその麗しさにおいて見ることになる。その御顔を見て、その愛にあって喜ぶことになる。エホバは、大いなる《目の開き手》であられる。あなたがた、盲人たちの中のある人々は、この真理をつかんで、こう云えないだろうか? 「ならば、私たちはこの方のもとに行こう。目を開けていただきたいからだ」、と。

 ことによると、ある人は云うであろう。「先生。私にはあなたが仰っていることがあまり良く分かりません。私は、それなりにお話を聞いてきましたし、福音を理解したいと思っています。それをつかもうと努めています。ですが、どういうわけか、真理に達することができないのです」。では、祈りに満ちた信仰をもって、今晩、神のもとに来るがいい。そうすれば、神はそれをあなたに説明してくださるであろう。私は、光をあなたの眼球に向かって掲げることはできる。だが、もしそれが盲目だとしたら、あなたにものを見させることはできない。だが、主は光だけでなく、視力を与えることもおできになる。だから、私は切に願う。今晩それを主の御手から与えられるよう求めてほしい。福音の中には本当に難しいものは何もない。そして、もしあなたが、教えられやすい子どものようになってイエスのもとに行き、イエスから手ほどきを受けたいと願うなら、あなたは、信じる者にとって福音が平明きわまりないことを見いだすであろう。聖なる道については、こう書かれている。「旅する者は、愚か者であっても、ここで迷うことはない」[イザ35:8 <英欽定訳>]。

 もしあなたが恵みを求めて神のもとに行くなら、愛する方よ。神は決してあなたに与え惜しみをなさらないであろう。あなたは、貧しいキリスト者でいる必要はない。「あらゆる至福の点から見て豊かに」なってかまわない。あなたは、底の浅い恵みを有している必要はない。望むなら、「泳げるほどの水」[エゼ47:5]に入ってかまわない。いくら与えても神が貧しくなることはなく、差し控えることによって神が富むわけではない。むしろ、与えることによって神は豊かになる。それは、神の御心そのものを大いなる喜びで豊かにする。というのも、神は与えることをお喜びになるからである。来て、自由に取るがいい。そして、神の惜しみなさを学ぶがいい。私の覚えているある人は、自分のことをこう呼んでいた。「神の奨励金にすがる特別自費学生」、と。私たちの中のある者らも、この愉快な肩書を名乗れるであろう。私たちは、長年のあいだ手篭1つ分の食料をずっと受けてきた。一度に一袋ではなく、手篭1つ分である。それは、良い生き方である。もしも、ある娘が父親から、食料を一挙に受け取るとしたら、また、その老紳士が決して彼女にそれ以外の何も与えないとしたら、その娘が受け取るものは、一週間のあいだ毎日、手篭1つ分ずつ食料をもらえる妹よりも少ないことになる。彼女のもとには、しばしば故郷の古い家からの贈り物が届く。父親は、それを毎回、自分の愛とともに送って寄こすのであり、彼女はずっと多くの愛と、ずっと多くの思いやりを受け取る。そして、父親もまた、ずっと多くの感謝をお返しに受け取るのである。ことによると、それは彼女に一度に一括してものを与えて、それで彼の気前の良さが尽きてしまった場合にまさるかもしれない。それは、神の惜しみなさを学んでいくほむべき道である。神から自由に受け取り、絶えず受け取ることはそうである。「神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます」[ヤコ4:6]。

 ならば、イエス・キリストによって神のもとに来るがいい。なぜなら、神は第一に《解放者》であり、第二に《照明者》であられるからである。

 III. さて、主の第三の輝かしい称号は、《慰め主》である。8節の真中の文を読むがいい。「主はかがんでいる者を起こされる」。

 ある人々は、人生の重荷によって、悲しいほどかがんでいる。心から愛するわが子を、地面の中に葬ったばかりの婦人が打ちひしがれているのは当然であろう。初めて生まれた息子が突如取り去られたばかりの父親が嘆き悲しんでいるのは当然であろう。人として得られる限りの最愛の者を喪い、自分の人生の半分が、その愛する者の死とともになくなってしまったのを見いだした人が悲嘆に暮れるのも当然であろう。だが、「主はかがんでいる者を起こされる」。さあ、あなたの悲嘆をこの方に告げるがいい。この方は、ナインの門の所にいたやもめを憐れんでくださった[ルカ7:13]。さあ、あなたの悲しみをこの方の前で注ぎ出すがいい。この方は、ラザロが死んだとき、ベタニヤの愛する姉妹たちとともに涙を流してくださった。この方はあなたを助けることがおできになる。この方は、「かがんでいる者を起こされる」からである。

 ある人々は、人生の重荷によって悲しいほどかがんでいる。そうした人々は、ほとんどの人々よりもずっと重い荷を背負っている。彼らは、自分を粉々に砕くかと思われる荷物の下で日々よろめいている。おゝ、私の主のもとに来るがいい。この方は、重荷を担う新しい力を与えてくださる。かがんでいる者を起こされるからである! 神がその御手を置いて、「強くあれ」、と仰せになるとき、人に何ができるかは素晴らしいほどである。あなたは気が遠くなっている。あなたの神がおられなければ卒倒してしまうであろう。だが、もし神のもとに来て、神を信頼するなら、強くなるであろう。「エホバはかがんでいる者を起こされる」からである。

 おそらく、あなたは内的な苦悩によってかがんでいるであろう。あゝ、ある形の苦悩を癒す薬は、真っ直ぐに神のもとに向かう以外にない! 私たちの伝道牧会活動において恥ずべきことは、自分では追い散らすことのできない意気阻喪である。いかにしばしば私は、この場にいる愛する方々の何人かと話をすることによって疲労困憊したことであろう。彼らは精神を取り乱しており、私は、自分自身、「疲れ果てて」いることを告白せざるをえなかった。神は私を助けて、多くの人々を慰めさせてくださった。私は、ほとんどいつどこにいようと、精神の苦しみを覚えている人々によって後を追われる巡り合わせにある。時々私は笑って彼らに、「類は友を呼ぶということですね」、と告げる。彼らは、私が半分いかれていると思っているに違いない。それで、自分に同情してもらおうと私のもとにやって来るのである。よろしい。それならば、それで良い。私と彼らとの間には、ある種の共感がある。しかし、私が学んだ1つの教訓はこうである。取り乱している精神に慰めをもたらすことは、説教者の力の及ぶところではない。彼の《主人》がこのための力を特別に彼に与えてくださらない限りそうである。そして、いずれにせよ、私はあなたに云う。愛する取り乱した方々。ぜひ、この甘やかな言葉が記されているお方のもとへ真っ直ぐに向かうがいい。「主はかがんでいる者を起こされる」。

 私は今晩、この会衆の中にいる、ある特定の人に向かって語りかけるという、きわめて大きな幸福を得ているだろうか? すなわち、罪の感覚によってかがんでいる人である。あなたはどこにいるのか? マグダラのマリヤよ。あなたは涙であなたの顔を隠している。あなたはどこにいるのか? あわれな過ちを犯している放蕩息子よ。あなたは自分の《父》のもとに帰りたいと切望している。聞くがいい。「主はかがんでいる者を起こされる」。主は、あわれな罪人が、ごみの山の上でうずくまり、心の絶望のあまり、ちりあくたの中に頭を埋めているのを探し出すことを愛しておられる。そして、やって来ては御手をその人の上に置き、こう告げることを喜びとされる。「立ちなさい。恐れてはならない」。世には、あわれみに富むひとりの神がおられ、その方は恵みの驚異を行なうことを喜びとし、いかにどす黒い罪をも赦してくださる。もう一度云う。私はこの聖句を鳴り響かせることを嬉しく思う。銀の鐘のように、この場にいるあらゆる悔悟した罪人の耳元でそれを鳴らして、こう云いたいと思う。「主はかがんでいる者を起こされる」。

 IV. 本日の聖句の学びははかどっている。すでに第四の偉大な称号に達しているからである。神は、《報奨者》であられる。「主は正しい者を愛し」。さあ、愛する方々。ここには、蜂蜜で作られた軽焼き菓子がある。ここには、あぶらの多い肉、髄の多いあぶらみの宴会[イザ25:6]がある。それは、あなたがた、神の民である人たち、あなたがた、神が義とみなしておられる人たちのためのものである。なぜなら、キリストの完璧な義があなたには転嫁されているからである。

 最初に、満足の愛によって「主は正しい者を愛し」てくださる。主は、正しい者たちを喜ばれる。単に彼らの善を願う慈悲の愛によって愛するのではない。むしろ、義である人々を楽しみ、喜びをもって眺めてくださる。それは、主が義とした者たち、また、義であるがゆえに主を愛する者たち、また、義である点で主に似ている者たちである。主は、彼らを眺め、彼らのことを喜ばれる。あなたがたの中の、神の恵みによって聖なる者とされている者たちのいずれかを、このことがいかに勇気づけることであろう! 主の喜びはあなたにあるのである。主はあなたをご自分のヘフツィ・バハと呼ばれる。「わたしの喜びは、彼らにある」[イザ62:4参照]、と云われるのである。少しでもキリストのある所、少しでも義のある所、少しでも聖潔のある所ならどこにでも、主の愛の証拠がある。だから、最初のこととして、満足の愛によって「主は正しい者を愛し」てくださる。

 主はそれ以上のことをしてくださる。主は交わりの愛によって正しい者を愛してくださる。それを主が、イザヤの口によっていかに云い表わされたか思い出すがいい。「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。『わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである』」[イザ57:15]。私は、神がしばしば正しい人々と語り合われることを疑わない。「主の秘密はご自身を恐れる者とともにある」[詩25:14 <英欽定訳>]。主は、彼らがご自分に語りかけるようにし、それに応えて彼らに語りかけてくださる。あなたは、少しでもこの神との交わりについて知っているだろうか? 知っていないとしたら、決して他の人々も知っていないのだと云ってはならない。というのも、私たちは、あなたと同じくらい正直で真実でありながら、こう証言しているからである。この世には神とともに歩むということがあるのだ、と。私たちは、幸福な、心からの経験からこう宣言する。この世には、神と語り合い、神が私たちを愛していると知るということがあるのだ、また、神の愛は、私たちに与えられた聖霊によって私たちの心に注がれているのだ[ロマ5:5]、と。

 やはり神は、恩顧の愛によってご自分の民を愛してくださる。神は彼らを愛するあまり、彼らの必要とするものを何でも与えてくださる。しかり。神は、詩篇作者を通してこう云っておられる。「主は……正しく歩く者たちに、良いものを拒まれません」[詩84:11]。神は正しい者たちを愛するあまり、彼らが自分の部屋に入ってご自分に祈りをささげるとき、しばらくの間、彼らが懇願を続けるようにしてくださる。そうすることは彼らの益となるからである。だが、神は常に彼らの願いに譲歩してくださる。神は云っておられる。「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」[詩37:4]。神は、ご自分の民にはそうしてくださる。主は正しい者たちを愛するあまり、並々ならぬ祝福を彼らに恵んでくださる。私がこの場では語ることができないようなことである。というのも、キリストと正しい魂との間にある、多くの愛の交流は、決して口にされてはならないものだからである。私たちは、自分の愛のやりとりのことを、路上で口にしたりしない。それは、半ば冒涜的なこととなるであろう。また、それらについてこの場で告げることさえできない。主がご自分の正しい民に示してくださる数々の恩顧は、彼らが知り、主がご存知であるが、他のいかなる者も、こうしたすべての事がらが明らかになる日まで知ることはできない。

 そして、もう一言云えば、主は正しい者たちを愛するあまり、彼らに誉れを帰してくださる。もし人々が正しくあれば、この世は彼らを憎むであろう。そして、その憎しみの証拠として、彼らに悪口を浴びせ始めるであろう。この世には常に、こう云う者たちがいるものである。「泥をさんざんに投げつけてやれ。数打ちゃ当たらあ」。そして、おゝ、いかに彼らは大喜びでそれを投げることか! 彼らの手は、自然と汚物に向かうように思われる。しかし、愛する方々。もしあなたが全く主に従っているとしたら、あなたの人格は決して長いこと汚されたままではいないであろう。あなたを中傷する人々に云い返そうとしてはならない。驢馬があなたを蹴ったからといって、あなたは驢馬を蹴るだろうか? 馬鹿があなたを非難するとしても、応酬してはならない。罵らせておくがいい。神があなたの正しさをいずれ立証してくださる。いま私が引用したばかりの詩篇37篇を思い出すがいい。「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる」[5-6節]。人は、生きている間は決して誰からも理解されない行動を行なうことすらあるかもしれない。だが、真実な神の人は、時間のためにではなく、永遠にために生きている。その人は云う。「私は、自分の行動の正しさが同胞の人々によって見てとられるまで五百年かかろうと気にはしない。彼らがそれを見てとるからといって、その正しさが増すわけではなく、彼らがそれを見てとらないからといって、その正しさが少しでも減るわけではないのだ。人々が私に何の関係があろうか? 私は生ける神に仕えているのだ」。もしあなたが、そうした心の状態に至るとしたら、あなたは自分の評判、自分のいのち、自分がいかに用いられるかを、全く神にゆだねることができる。というのも、「主は正しい者を愛し」てくださるからである。やがて来たるべき日には、全世界がそのことを知るであろう。正しい者であった人々は、御父の御国で太陽のように輝く[マタ13:43]。そして、神は彼らについてこう云ってくださる。「よくやった。良い忠実なしもべたちだ。主人の喜びをともに喜んでくれ」[マタ25:23参照]。

 さて、ならば、あなたも神のもとに行きたいとは思わないだろうか? 神のお気に入りの者たちは、全世界で最高の者たちである。王たちや君主たちは、しばしば自分の臣下の中の最悪の者たちの間から寵臣を選び出すと云われる。それは、主君の卑しい情動にずっと仕えてきた者たちである。王たちの寵臣は、しばしば地上のかすであった。だが、私たちの《王》は正しい者たちを愛される。神がご自分の廷臣として取り上げ、ご自分に近づかせ、ご自分の面前に住まわせる者たちは、ご自分の強大な恵みによって廉直に歩む者たち以外にいない。ここには、あなたがた、真の心をしている人々にとって非常に魅力的なもの、このような神に近づきたいという思いを起こさせてしかるべきものがあると思う。主は正しい者たちを愛されるのである。

 V. しかし今、最後の最後に、また、ことによると、すべての中で最も甘やかなこととして、第五の神の御名は、《保持者》である。「主は在留異国人を守り、みなしごとやもめをささえられる。しかし主は悪者の道を曲げられる」。時間がほとんど尽きかかっているため、私はただ、あなたにこう求めることしかできない。今から告げるいくつかの言葉を、神の助けによって、適用してほしい、と。

 最初に注意してほしいのは、神は在留異国人を守られるということである。いかなる国においても、古の時代には、在留異国人たちは排斥された。人々は、外国人を自分たちの間に定住させたがらなかった。この国のほとんどあらゆる村には、外国人を一種の狂犬とみなす慣習があった。そして、もし彼がたまたま村人と違った装いをしていたりすると、悪童たちが全員、彼を囃したてたものである。私たちの堕落した人間性は、在留異国人に対して自然と意地悪になるように思われる。私はしばしば、今でさえ人々がこう云うのを耳にする。「おゝ、あいつは外国人だぞ!」 おゝ、あなたがた、誇り高い英国人たち! その人は、あなたと同じくらい善良ではないだろうか? あなたも、英国海峡の向こう側に行けば外国人なのである。神が、古のその民に対して下された命令は、在留異国人に対しては親切にすべきだということであった。彼らがやって来るときには常に、居住することを許し、面倒を見てやるべきであった。神はそれをイスラエルに対してこのように云い表わされた。「在留異国人を苦しめてはならない。しいたげてはならない。あなたがたも、かつてはエジプトの国で、在留異国人であったからである」[出22:21]。また、神が、エジプトで在留異国人であったときに彼らを愛された以上、彼らは、自分たちの間にやって来た在留異国人や外国人たちに特別な配慮をすべきであった。

 このことは、神のご性格におけるいかに壮大な特徴であろう! 「主は在留異国人を守り」。もしあなたがたの中の誰かが、今晩この場で全くの余所者であるかのように感じているとしたら、また、もしあなたがキリスト教信仰に対して余所者であり、キリスト教の儀式に対して余所者であり、あらゆる善良な事がらに対して余所者であるとしたら、また、もしあなたが、福音を聞くときに、自分はそれとは全く無縁で、その響きが自分の胸には全く奇異に聞こえると感じるとしたら、さあ、愛する在留異国人の方々。「主は在留異国人を守」ってくださる! 主の御翼のかげに来るがいい。そうすれば、そこに隠れ場が見いだされるはずである。父は死に、母は死に、友だちはみないなくなり、生まれ故郷の村でさえ余所者となってしまった。くじけてはならない。あなたの神は死んではいない。あなたの《救い主》は生きておられる。「主は在留異国人を守り」。

 それから、本日の聖句の次の文に注意するがいい。「主は……みなしごとやもめをささえられる」。もしあなたが聖書の中の最初の数巻に目を向けるなら、そこでは、神がみなしごとやもめに大きな配慮を払っておられることが分かるであろう。十分の一税は誰が受け取っただろうか? よろしい。レビ人たちである。だが、貧者や、在留異国人や、みなしごや、やもめたちでもあった。もし申命記14:28、あるいは、26:12を眺めれば、十分の一税が排他的に祭司たちだけのためのものではなく、やもめや、みなしごや、在留異国人たちのためのものでもあったことを見いだすであろう。それに加えて、イスラエル人たちは決して自分たちの畑の落ち穂を二度集めるべきではなかった。というのも、落ち穂拾いは、やもめや、みなしごたちのためのものだったからである。また、彼らは決して橄欖の木や、何らかの果樹を二度揺さぶってはならなかった[申24:20]。むしろ、残ったものを、やもめや、みなしごとのために残しておくべきであった。さらに、このような律法も作られていた。すなわち、彼らは決してやもめの着物を質に取るべきではなかった[申24:17]。それは、今のロンドンではきわめて頻繁に行なわれている。だが、当時そうされてはならなかった。やもめの衣服は決して質に取り上げられてはならなかった。神の法規がやもめやみしごに触れていた所ではいずこでも、それは測り知れないほど親切であった。さあ、ならば、あなたがた、やもめのように感じている人たち。あなたがた、自分の喜びと地上的な慰めを失ってしまった人たち。あなたがた、みなしごのように感じている人たち。また、「私の魂のことなど誰も気遣っていない」、と云っている人たち。おゝ、願わくは、主の甘やかな御霊が、主のもとに行くようあなたを誘い出してくださるように。というのも、先に聖書朗読の中で私があなたに思い起こさせたように、「みなしごの父、やもめのさばき人は聖なる住まいにおられる神」[詩68:5]だからである。

 しかし、神のご性格の眺めを完全なものとするには、こう云い足さなくてはならない。「主は悪者の道を曲げられる」。見ての通り、敬虔な人々、また、神を信頼する人々は、常に悪者からの危険にさらされている。だが、神は悪者の道を引っくり返される。1つ実例を取り上げてみよう。ヨセフの兄弟たちは、彼をエジプトに売り飛ばし、奴隷にする。だが神は、こうしたはかりごとを逆転させ、ヨセフを君主とされる。モルデカイについて考えてみるがいい。ハマンは彼を縛り首にしようとし、絞首台の準備もしておく。だが、ハマンは自分自身の絞首台で縛り首になってしまう。神は、人々の悪意を、彼らの残酷さが向けられている人々の益とするしかたを心得ておられる。「主は悪者の道を曲げられる」。

 ならば、正しくあるがいい。恐れてはならない。キリストの贖罪の犠牲により頼み、キリストにのみ信頼するがいい。あなたの神のもとに行き、これから永遠にそのしもべとなるがいい。そうすれば、あなたは見てとるはずである。いかに神があなたの縄目を断ち切り、あなたの目を開き、あなたの霊を勇気づけ、あなたをご自分の愛で喜ばせ、あなたを最後まで保ってくださるかを。「わざわいは、あなたにふりかからず、えやみも、あなたの天幕に近づかない」[詩91:10]。神があなたを祝福し給わんことを。愛する方々。また、あなたが今晩、神のもとに向かわんことを。私の主イエス・キリストのゆえに! アーメン。

 

主の有名な称号[了]


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