疲れておれど臆病ならず
NO. 2343
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「彼らは疲れていたが、追撃を続けた」。――士8:4 この三百人の人々は、疲れてはいたが、臆病ではなかった。もし彼らが腰抜けだったとしたら、ギデオンがこう宣言したときに離れ去っていたであろう。「恐れ、おののく者はみな帰りなさい。ギルアデ山から離れなさい」[士7:3]。二万二千人がその許可を受け入れ、一万人を残して自分たちの将軍から去ってしまった。ぐっと少なくなったが、まだ多すぎたその人数の中から、この三百人は、手で水をなめたとして選抜されたのである[士7:7]。他の者たちが兜の緒を解き、草地にうつ伏せになって、がぶがぶ水を飲んでいる一方で、この人々はせっかちな犬のように振る舞った。川端に走り寄り、舌でなめては走り、舌でなめては走りして、飲むことに何の時間も無駄にしなかった。彼らは、自らを全くこの聖戦にささげ切った人々であり、この、神とその民との敵どもを打とうと決意した人々であった。だがしかし、彼らは疲れていた。彼らが疲れていたのは意気消沈していたからではない。彼らは大勝利を収めたばかりだったからである。彼らは先につぼを打ち砕き、たいまつを現わし、角笛を吹き鳴らしては、こう叫んだ。「主の剣、ギデオンの剣だ」[士7:20]。そして彼らは、その眼前で、ミデヤン人の大群が雲散霧消するのを見た。彼らは意気盛んに戦いに飛び込み、瀕死の敵軍を追撃しては、何万人も自分たちの足元に打ち殺した。彼らの中の誰もが英雄であった。だがしかし、彼らは疲れていた。
人々が疲れているのを見るとき、彼らを非難してはならない。ひょっとすると、その疲れによって彼らは、自分たちが実はいかなる生地からできていたかを証明しているのかもしれない。彼らは血肉のからだに可能な限りのことを行なってきた。それゆえ、疲れているのである。彼らは敗北したわけではないかもしれない。赫々たる戦果を挙げたのかもしれない。だが、しばしの間、疲れることもありえる。疲れそのものは、みじめなものである。だが、もしあなたが真実に、「疲れていたが、追撃を続けた」、と云えるとしたら、疲れは堅忍を引き立たせる金属の箔となる。そして、その人は、疲れているときも追撃するがゆえに、いやまさって高貴なのである。
今晩、私は、この、「疲れていたが、追撃を続けた」、という聖句が描写する状態にあるであろう、神の民の中のある人々に対して話をしたいと思う。第一のこととして、多少詳しく語りたいのは、肉体の弱さについてである。「疲れていた」。第二に、私があなたに求めたいのは、恵みの強さを称賛することである。「彼らは疲れていたが、追撃を続けた」。そうした上で、私たちはしばし、模範とすべきいくつかの教訓を学べるものと思う。というのも、この人々は私たちの教師となるべきだからである。
I. 第一に、《肉体の弱さ》について考えよう。
結局において、最上の状態にあっても、人とは何者だろうか? 最上の人々が、最上の状態にあっても、人間でしかない。人間性は、最上の状態にあってさえ、あわれなものでしかない。そして、最も強い人も、たちまち何もできないほど弱くなることがあり、剣戟の衝撃にびくともしない英雄的な人も、くたくたに疲れて地面に横たわり、一歩も先へ進めなくなることがありえる。なぜこの、ギデオン軍の勇敢で強壮な人々は疲れていたのだろうか? いくつかの理由を挙げてみよう。それは彼らのみならず私たちにも当てはまるものである。
よろしい。最初に、彼らが疲れてしまったのは、休息を取らなかったためである。彼らがつぼを打ち砕いたのは夜であった。敵の陣営にあの奇襲をかけたのは夜であった。そして、それ以来ずっと彼らは、逃げ失せる烏合の衆を大急ぎで追撃していた。彼らには、睡眠を取る暇がなかった。私たち全員にとってあれほど必要な、「倦みし体(ちから)を甘く回復(いや)す」ものを取る暇がなかった。そして、あるキリスト者たちの精神は休みを取っておらず、休息する暇がないままなのである。また、一部の人々は、いわゆる不眠症にかかっている。眠れない病気である。もちろん、これは肉体的な疾病であり、多忙に過ぎる人々はこれにかかることがある。だが、キリスト者である人は霊的な不眠症を患うことがある。彼らは、あまりにも自分の働きについて悩みすぎ、あまりにも主のわざのことを心配しすぎ、あまりにも自分にできることの乏しさ、自分の行なうしかたの弱々しさ、自分が行なったすべての後に続く成果の小ささに苛立ちすぎるために、霊的な不眠症と情動不安の状態に陥ってしまうことがありえる。さて、これは常に悪いことである。キリストは、マルタが気を遣って、もてなすことは望まれるだろうが、色々ともてなしのために彼女の気が落ち着かなくなる[ルカ10:40]ことはお望みにならないであろう。彼女がマリヤのようにご自分の足元に座っていることをお望みになるであろう。私たちは私の主のために多くのことを行なうことができる。ある者らは、今よりもずっと多くのことを行なうことができる。だが、あまりにも多くを試みすぎ、実際にはほとんど何も行なわないでしまうこともありがちである。なぜなら、何事もうまく行なえないような状態に自分から陥っているからである。ひとりの強くて逞しい人は、他の人が二十回へなへな打ち叩いてもできないことを一撃で成し遂げられるであろう。肝心なことは、事をたくさん行なうことではない。真に効果的な力で行なうことである。こういうわけで、働く能力を失いたくなければ、必要な休息を取らなくてはならない。あなたは、《主人》がいかに休息を働く者の特権としておられるか一度も注意したことがないだろうか? 「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます」[マタ11:29]。キリストのように働くには、キリストのように安らがなくてはならない。主は、働きための大きな力を有していたのと同じくらい、休息するための大きな能力も有しておられた。嵐に翻弄されていたあの小舟の中にいたとき、主は、猛り狂う暴風をもものともせずに、ともの方で眠っておられた[マコ4:28]。眠りにつくことは、主に行なうことがおできになった最上のことであった。そして、時として、あるキリスト者に行なうことのできる最上のことは、「主の前に静まり、耐え忍んで主を待」[詩37:7]つことである。というのも、そのようにしてその人は、自分の失った体力と力を奉仕のために取り戻すことになるからである。もしその人がキリストのうちに安らぐことを怠ると、疲れてくるであろう。そして、疲れていながらも、なおも追撃しつつある場合、それは幸いな状況となるであろう。
休息を取らなかったことに加えて、この人々は非常に激しい緊張に耐えていた。私たちのなすべき働きの多くは、寿命さえ許されれば、一世紀でも行ない続けることができるが、そのために疲弊するということは全然ないはずである。日常生活の普通で単調な仕事は人々を殺しはしない。しかし、特別の時期には超人的な努力がなされなくてはならなず、こうした異常な任務は、魂に途方もない緊張を及ぼす。この三百人の勇士たちがギデオンの麾下にとどまっていたとき、それは超人的な努力であった。ギデオンの三万人を越える当初の大軍は雲散霧消したが、この三百人の不屈の人々は一歩も後に引かなかった。三万人が逃げ出したとき後に引かないことは、あなたにはごく簡単なことに見えるかもしれない。だが、あなたがその試験を受けるようなことがあるとしたら、そうでないことが分かるであろう。それから、真夜中にギデオンに率いられ、たいまつと、つぼと、角笛だけを唯一の武器として、少なくとも十五万人のミデヤン人のもとに下って行くことは、大したことないように思えるかもしれない。だが、よほどの勇気の持ち主でなければ、そのように大胆不敵なことはできなかったし、このように単純な戦略で神が彼らのおびただしい数の敵どもを敗北させると信ずることはできなかった。おゝ、方々。嘘ではない。信仰は子どもの遊びではない。そして、確かに日常的な事がらについて日々働かされる単純な信仰を軽蔑すべきではないが、それでも、あなたが神の選民の信仰を持たなくてはならない特別な時はやって来る。それもえり抜きの信仰を、高度に必要とする時が来るのである。そして、もしそれをあなたが有していて、極限まで働かせるとしたら、あなたはそれがあなたの全身にこたえるものであることが分かるであろう。
また、この人々は非常な成功という緊張も経てきていた。踏みとどまって、見るがいい。強大な軍勢が仲間割れを起こし、同士打ちを始めるのを。見よ、ミデヤン人の全兵力が突如として打ち砕かれるのを。おゝ、ギデオン配下の三百人の心を満たした喜びはいかばかりであったことか! 彼らの精神は、陶酔感と歓喜で躍り上がったに違いない。彼らは、神がこれほど栄光に富む解放をもたらされた間、喜びのあまりほとんど自分を抑えられないのを感じたに違いない。そして、もしもあなたが、あなたの天の御父によって一度でも、《王》のための奉仕において何か大いなる成功をほしいままにすることが許されたことがあったとしたら、あなたは後に、自分の中の水分が夏の干魃のように乾ききったことに気づくであろう。神がお働きになるのを見ることは、また、自分自身が主の御手の中で器とされて、何か気高くて驚嘆すべき審き、あるいは、あわれみの目的を成し遂げさせられるのを見ることは、人の中から魂そのものを抜き去ってしまう。この三百人の人々は、その信仰において非常な緊張に耐えてきたし、それ以上に大きな緊張となるもの、すなわち、神に対する彼らの信仰の勝利を経てきた。それで彼らは、今にも失神しそうになるほど、消耗し、疲れ切ってしまったのである。
それに加えて、思い出すがいい。愛する方々。この人々は、非常な力をふりしぼってきた。彼らが耐えなくてはならなかったのは、単に精神的な消耗ではなかった。敵との現実の争闘が大いになされた。最初、ミデヤン人は同士打ちをしていたが、その後、総崩れになり、ギデオンの兵たちは山を越え谷を越えて彼らを追撃しては、あらん限りの敵を打ち殺した。というのも彼らは、この聖なる方の土地をあえて侵略したような敵を、ひとりたりとも自分たちの国土に残しておこうとは思わなかったからである。彼らは敵を根絶やしにする決意をしていた。それは、働き詰めの一日であり、多くの大胆不敵なわざを彼らは行なった。そして今、スコテに至った彼らは、疲れていたが、なおも逃げる敵を追撃していた。愛する兄弟姉妹。もしあなたが神のみわざに完全に身をささげようとするなら、あなたはその働きに飽き飽きすることはなくとも、その働きの中で疲れ切ってしまうことはしばしばあるであろう。もしある人が神のための働きにおいて全く疲れ切ることがないとしたら、その人は、なすべき価値のある働きをまるでしたことがないのだと思う。もしもある姉妹が魂をかちとろうとする際に、自分自身を使い尽くしたことがないとしたら、おそらく彼女がかちとることになる魂の数は、まことに少数だろうと推察する。私たちの働きに神の祝福を期待したければ、私たちの存在のあらゆる精神機能がかき立てられ、私たちの体力のすべてがその天来の奉仕にしぼり出されなくてはならない。さて、もし私たちについてそのことが当てはまるとしたら、時として私たちがくたくたになり、失神寸前の疲れを感じるとしても不思議はない。
さらに注意すべきは、この勇敢な人々が長大な行軍に耐えてきたということである。彼らはまず夜の戦闘を戦い、それに続いて日中の追撃戦を行なった。彼らは、敵が渡し場を越えるのを阻止しようとして、その強行軍の間中、戦っていた。そして、1つの戦闘の後で戦うことはしばしば最も厳しいことである。多くの将軍は一度であれば勝つことができた。だが彼らは、戦いに勝った後で、その戦勝を用いるすべを知らなかった。非常に多くの場合、戦いにおいて最も大変な部分は、敵が逃げ始めた後である。そして、この人々は、このつらい働きの長い一日に耐えてきていた。さて、愛する方々。私の信ずるところ、キリスト者の人々を非常にしばしば疲れさせるのは、その歩調ではなく、時間である。私がこのことを思い巡らしていたとき、私は何度となくこう云ったことがある。すなわち、断頭台の上にこの頭を乗せて、一撃の下にそれを切り落とされるとしたら、私は、主の恵みにより、キリストのために死ぬことができるであろう。それなら耐えられると思う。だが、とろ火のような火で生きながら焼かれることについてはどうだろうか? よろしい。それは相当に話が違ってくる。そのような場合、人間の力はたちまち干上がってしまうと感じるであろう。あゝ、愛する方々。キリストのために一週間や二週間、勇敢に立っていることは簡単なことである。だが、何箇月も何箇月も、また、何年も何年も前進し続けるのは別のことである! キリスト教信仰の真実さを試すのは、人生の長さである。ある人々は青春時代の種々の誘惑には抵抗できるが、中年時代の仕事の中では屈服してしまう。そして、悲しいかな! 数多くの馬たちが山の麓で倒れるように、私たちの知っている多くの人々は、老年時代に悲しい罪を犯してきた。事実、私に思い起こせる限り、聖書の中に記されたすべての大きな転落は、老いた人々、あるいは、青年時代をとうの昔に過ぎ去った人々によるものであった。それは、あたかも私たちにこのことを教えるかのようである。すなわち、私たちは、春秋を経て賢くなったと思うとき、そのときでさえ自分を頼りにするとしたら大馬鹿者になるということである。しかし、そうした忍耐の長さや、年々続く試練や、患難の長い戦いや、引き続く誘惑こそ、人を試すものなのである。そして、もし時として十字架の英雄たちでさえ疲れて、倦んでしまうことがあるとしても、それはほとんど不思議ではない。
そして、もう一言云えば、この勇敢な人々は、何の食事も取っていなかった。ここには、この人々が戦いに赴く際に、その糧食を取ったと記されている[士7:8]。だが、その食物はすっかりなくなっていた。兵士たちは、多くをなさなくてはならないとき、旺盛な食欲を有しているからである。それで彼らは、食事を取れないと非常に疲れてしまう。あゝ、神の愛する子どもたち。もしあなたの住んでいる所で福音が忠実に語られていないとしたら、あなたが疲れているのも無理はない! あるいは、あなたがみことばを聞くことをやめて、忙しく立ち働き、常に教えてばかりいるとしたら、あなたは、あまりにも多くを与えすぎていて、あまりにも少ししか受けていないであろう。私が好むのは、私たちの愛する多くの人々が採用している時間割である。その人々は、安息日の午前中はこの場にやって来る。午前中は常にここにいるが、決して安息日の晩にはここにいない。どこにいるのか? 彼らは、幸いにも、何らかの善良な、また恵み深いわざに携わっているのである。だが彼らは午前中に話を聞くことをやめようとはしない。というのも、それは彼らに云わせると、彼らの週ごとの食事であって、その日の残りの間の奉仕のために彼らを強めてくれるからである。彼らは賢明だと思う。若いキリスト者たちは特に、食物なしにはやって行けない。私たちの中の多くの者らは、強壮な健康を保ちたければ、規則正しく食事を取っていなくてはならない。そして、キリスト者たちの大部分は、いかに忙しく《主人》の奉仕に励んでいようと、瞑想や、黙想や、神のことばの説教を聞くことや、みことばの学びといったもののための機会を得ないで済ませることはできないと思う。ことによると、この場にいるいずれかの兄弟は、まさにその理由によって、今晩疲れているのかもしれない。そして、1つの示唆を得ることであろう。食事を取らなくては、自分の働きは続けて行けないのだ、と。「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい」[マコ6:31]、とキリストは弟子たちに云われた。そして、主について来た人々について云えば、主は、彼らが空腹で疲れきっているのを見たとき、パンと魚を増やして、彼らを満腹させてくださり、彼らは元気を回復したのだった。
しかし、愛する方々。現世における働きと戦いに忠実に携わっている神の子どもたちのうち誰が、時として失神せんばかりの疲れを覚えないことがあるだろうか? 自分の友と思われた人々から見捨てられたことに気づいた人の立場に身を置いてみるがいい。その不実な人々は、真理のために何の抗議もすることなく、あっさり過誤の大きな流れに身を投じてしまうのである。あなたは、軍旗のための戦いの中で自分と肩を並べているべきであった腰抜けたちのことを思うと、心がげんなりする。他の人々のだらしなさを目にすると、魂が今にも失神せんばかりの疲れを覚える。彼らは、邪道に陥ることなど夢にも思われなかったのに、戦いの日になると、メロズ[士5:23]のように、勇士として主の手助けに来ないのである。何百人もの助け手を必要としながら、ほとんどひとりも見つからないような場所で、キリストのために孤軍奮闘し、ロンドンのいずれかの暗い貧民靴に光を携えて行こうとすること、あらゆるキリスト者が自分に同情してくれているとは考えても、同じことをしようとする者がひとりも見つからないこと、――これらは、いかに勇敢な心をも疲れさせる試練である。
よろしい。兄弟たち。私は十分に語ったと思うし、語りすぎたかもしれない。その第一の点は、肉体の弱さについてであった。それで、大いに喜んで次の点に移ることにしよう。
II. 第二のこととして、《天来の恵みの強さ》を称賛しよう。この三百人の人々は、「疲れていたが、追撃を続けた」。彼らは、のろのろとしか行軍できなかったが、行軍はした。弱々しいしかたでなくては打てなかったが、打ちはした。
注目するがいい。確かに彼らは疲れていたが、その心が疲れてはいなかった。彼らはなおも信じていた。戦いのための勇敢な気力を有していた。その決意をぐらつかせてはいなかった。なおも前進するつもりだった。自分たちの前にいる、自国の敵どもを死んでも打ち負かそうという気概があった。そして、彼らの中のただひとりといえども、引き返そうなどと云い出しはしなかった。彼らは、「疲れていたが、追撃を続けた」。彼らは全員が、ミデヤン人の後を追い続けた。なおも前進する決意をしていた。こう云って交替を要求したりしなかった。「私たちは、これほど多くのことをしてきたのだ。もう誰か他の者が代わって、この仕事を仕上げてくれ」、と。否、否。彼らはなおも追撃していた。ひとり残らず、この騒動が終わるまで自分の右腕で武器を振るおうと決心していた。また、すでに得た名誉の上にあぐらをかいてもいなかった。ことによると、私たちの中のある者らは、彼らの立場にあれば、そうしていたかもしれない。こう云っていたかもしれない。「私たちは勇敢に戦ってきた。すでにミデヤン人の首根っこをへし折った。私たちは勝者だ。これ以上何も行なう必要はない」、と。否。むしろ、彼らは、何かし残したことがあるうちは、何事もなされていないとみなした。敵兵がひとりでも生き残っているうちは満足しなかった。この戦いを最後の最後まで突き詰めなくてはならなかった。そして、彼らは本気でそうするつもりだった。そう峻烈に決意していたために、彼らは疲れてはいたが、また、たとい死ぬことになるとしても、彼らはその顔を敵に向けて、主なる神のイスラエルのために戦って死のうとした。キリストにある兄弟たち。それが今晩の私たちの決意ではないだろうか? 私のキリスト者の姉妹たち。あなたも同じように感じていないだろうか? 私たちは、すでに片手を挙げて主に宣誓したのであり、決して引き返しはしないであろう。主の真理を、主の愛を、主への奉仕を見限ることはできないであろう。私の主を離れ去るとしたら、誰のところに行けるだろうか? もしなおも追撃し続けないとしたら、何をすべきだろうか? じっと寝そべっていること、それはできない。私たちの中には、神にためになすべき働き、キリストのご栄光を現わせる働きが残っているうちは、私たちを休ませようとしないものがある。
この人々は希望によって前に駆り立てられていた。確かに疲れてはいたが、彼らは、自分たちをここまで導いてくれたお方が、最後まで導き通してくださると感じていた。このお方は、彼らのためにあまりにも多くのことをしてくださったため、彼らはこう云って良かった。――
「過去(すぎ)し主の愛 つゆ思わせず、
飢えしわれらを 主、捨て沈めんとは」。そして、そのようにして彼らは進み続けた。なおも、完全な勝利をかちとれるものと希望しつつそうした。たといそうならなくとも、それでも進み続けようと決意していた。私たちも同じようにしようではないか。私は、たとい疲れても、なおも罪に対して戦い続けるであろう。たとい他の誰もが十字架を見捨てても、それでも純粋なキリスト者にそのようなことはできない。たといあらゆる旗が取り去られ、泥の中に打ち倒されようとも、私たちの《主人》はなおも私たちが、その御恵みによって、恥辱をも不名誉をも主のために忍び、この壮大な古の目的にしがみつく覚悟をしているのを見いだすであろう。「疲れていたが、追撃を続けた」。
さて、愛する方々。今晩この場にいるあなたがたは、多種多様な種別に属しているであろう。また、それぞれに異なる事がらに関して、疲れがあなたに臨むであろう。それらにただ言及させてほしい。恵みの力が、ギデオンの兵たちに臨んだのと同じように、あなたの上にも臨むことを期待するからである。
愛する兄弟よ。あなたは学生だろうか? あなたは聖書を学んでいるだろうか? 神の深み[Iコリ2:10]を学ぼうと努力しているだろうか? 自分がまだごく僅かしか学んでいないことを知っているだろうか? その偉大な神秘の数々に愕然としているだろうか? 自分の愚かさ加減をいやでも感じざるをえないだろうか? 自分のような者には決して底を見通せない偉大な深淵に至っているだろうか? あゝ、よろしい。あなたが自分の聖書の学びにおいて疲れていても、それでも追撃するがいい! 神のことばに肉薄し、徹底的にそれを調べ、学び、瞑想し、全く没頭し、神の啓示されたすべてのことを知ろうと求めるがいい。というのも、啓示されたことは、いかに神秘的であろうと、あなたのものだからである[申29:29]。たといあなたが天来の真理の追求において疲れているとしても、その追求を続けるがいい。
ことによると、あなたは何らかの生まれつきの罪と戦っているかもしれない。私が話しかけている人々の中には、自分の天性の中に罪が山ほど群がっているのを見てとっている人がいるかもしれない。神の御霊によって、あなたはあらゆる罪を斬り殺そうと決意している。だが、その数と強さに途方に暮れている。まさに今朝も、あなたが起き上がったとき、あなたはこれを、これまで生きてきた中で最も聖なる日にしようと思った。だが、結局それは非常にあわれな日であった。別の週、あなたが仕事に行ったとき、あなたは自分に向かって云った。「神の御助けによって、私は今日出会うすべての人々に、キリスト者がどのように生きることができるか示すことにしよう」。しかし、あなたは、非常に悲しいしかたで足を踏み外し、つまずいてしまった。よろしい。さて、愛する兄弟よ。あなたは、こうした失敗のために疲れている。だが、私は切に願う。戦いを投げ出してはならない。というのも、神があなたを助けてくださるからである。その御霊の力によって、あなたはこうしたもろもろの罪に打ち勝つことができ、これからこう歌うようになるであろう。「神に感謝すべきかな。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました」*[Iコリ15:57]。兄弟よ。立ち上がって、攻撃するがいい! たとい疲れても、なおも追撃を続けるがいい。主があなたをこの戦いにおいて助け給わんことを!
おそらく、あなたはキリストのための働き人であろう。あなたはよく始めた。私はあなたが始めたことに感謝している。主への奉仕を少し続けた後で、あなたはそれを投げ捨てたくはない。だが、事はうまく進んでいないように思われる。それで、サタンはあなたにこう云っている。「お前はやめた方がいいぜ。何の善も施していないのだもの。もうそんな働きのことで心を痛めるのはやめてしまえよ」。ひとりの友だちがいる。彼はサタンではないが、もしかすると、サタンがその友だちを用いて、こう云わせているのかもしれない。「この働きは君には荷が勝ちすぎだよ。ぼくには分かっているよ。君はこの働き向きじゃないよ。なぜもっと簡単なことを取り上げないんだい?」 あゝ! だが、愛する方々。どうか私に云わせてほしい。「たとい疲れていても、なおも追撃を続けるがいい。やがて大きな祝福がやって来ようとしているのだ。そして悪魔はあなたにそれを受けさせたくないのだ。悪魔を敗北させるために、これまで以上に真剣に、あなたの主の御国を進展させることに打ち込むがいい。嘘ではない。すぐにも起ころうとしていることは、十二分にあなたに報いるであろう。そして、かの不倶戴天の敵は、あなたがその祝福を得るのを妨げたがっているのだ」。
それは祈りに関する争闘だろうか? あなたは、ひとりの魂のために懇願してきたが、まだ勝利をかちとっていないのだろうか? それはあなたの夫だろうか? 強情な男の子だろうか? 友人だろうか? あなたは、まさにこの時のギデオンの近くにあったヤボク[創32:22-24]にずっととどまっていただろうか? 御使いと格闘してきただろうか? 打ち勝つことを期待していながら、まだ勝つことができず、時には自分に向かって、「このことについては祈るのをもうやめよう」、と云ったことがあるだろうか? おゝ、愛する方々。もしそうだとしたら、どうか勇気を奮い起こしてほしい! 疲れていても、なおも追撃を続けるがいい。神に懇願し続けるがいい。そして、祝福を受けるまでは御使いを去らせないようにするがいい。
あるいはまた、あなたは真理のための証しをし、その証しをする中で幾多の損失や十字架に出会ってきただろうか? あなたは疑惑の目を向けられたり、云いがかりをつけられたりしてきただろうか? 最愛の友の何人かを失い、彼らが痛烈な敵になってきただろうか? ほとほと疲れ切ってしまい、こう云いたくなっているだろうか? 「なぜ私が抗議しなくてはならないのか? 成り行きに任せようではないか。この時代は腐りきっているのだ。私があくまで抵抗して何になるだろう?」 おゝ、そう云ってはならない! 宗教改革は、二、三人の勇敢な心がいなかったとしたら、どこに行ってしまっていたことだろう? 人々が怖じ気づき、意気地なしになるなら、いかにしてこの世の中で何らかの真理が保たれるだろうか? 否。私の兄弟よ。そのように語ってはならない。むしろ、今晩こう云うがいい。「確かに私は自分の抗議によって何も成し遂げていないように見えるが、それは私の知ったことではない。私の務めは自分の義務を行なうことであり、結果は神にまかせなくてはならない。そして、その御恵みによって、私は疲れてはいても、それでも追撃を続けるのだ」。
III. さて、しめくくりに私があなたに指摘したいのは、ギデオンの勇敢な部下たちから学べる、《模範とすべきいくつかの教訓》である。
最初の教訓はこうである。主に仕えよ。兄弟姉妹。私たちは恵みによって救われている。私たちの中のある者らは何年も前に救われた。《小羊》の血で洗われ、キリストの義を着せられた。
私たちは、自分の救いとなった、完成されたみわざを喜んでいる。では私たちは、自分が救われているがゆえに仕えようではないか。そして、最後のひとかけらの力まで費やして私たちの主に仕えようではないか。私たちの人間性の半分では、キリストに正しく仕えられないと思う。それは、私たちの諸力のすべてをもってなされなくてはならない。私のすべての財産、私のすべての施し物、私のすべての才質、私が作り上げることのできるすべてのもの、私の成し遂げることのできるすべてを、私は主にささげなくてはならない。私たちの中に、どこかあえて自我のために温存している部分があるだろうか? 《王》の太い矢印が、私たちの存在のあれこれの部分に決して刻印されないのだろうか? あゝ、ならば、呪いが私たちのもとにやって来るであろう! 否。そうしてはならない。むしろ、私たちの有するすべての力を主にささげようではないか。私たちが相当に疲れ切り、失神寸前になるまでそのようにし、そのときもなおも追撃を続けようではないか。
私たちはまた、あらゆる動きが痛みを伴うとき、また、考えることさえ物憂いときも主に仕えよう。この人々は疲れていた。あなたも、兵士が疲れるとはいかなることかを知っているであろう。それは半端ではなく、見せかけではなく、本当に疲れることである。それでも、今にも失神しそうになりながら走り続けること、今にも倒れそうになりながらただ進み続けること、これは非常に辛い働きである。だが、兄弟たち。神の恵みによって、そうしようではないか。ある人々は、祈りたい気分がするときしか祈らない。だが私たちが最も祈る必要があるのは、祈れないと感じるときなのである。もし私たちが――私たちの中のある者らが――説教したい気分のときしか説教しないとしたら、私たちはあまり頻繁には説教しないはずである。もし私の知っているある人々が献金したいときにしか献金しないとしたら、その人々は決して献金しようとしないであろう。ことによると、そういうことなら、決して献金しないかもしれない。しかし、あなたがあることを行なうのが、単にそれが自分にとって心地よいときだけであるべきではない。それがあなたにとって明白なときは行なうがいい。疲れているときも、追撃を続けるがいい。あなたの足があなたを運んでいるのではなく、あなたがあなたの足を地面の上で引きずって行かなくてはならないときも、それでもなお敵を追撃するがいい。もう絶対に一歩も動けないと感じるとき、それでもなおも、もう何米も進むがいい。というのも、自分にできる限りのことを行なった上でもなお、天来のの力と恵みによって、その後も進み続けるということがあるからである。自分にはできないと感じた働きは、あなたが自分の通常の力で成し遂げたものよりも、ずっと神に受け入れていただけるであろう。
あらゆる動きが苦痛であるときも主に仕えるがいい。また、数々の困難が色濃くなるときも主に仕えるがいい。ギデオンの部下はたった三百人しかおらず、敵は一万五千人いた[士8:10]。そして、彼らの友たるべき人々は彼らにパンを食べさせようともしなかった[士8:6]。そのときこそ、主に仕えるべきときである。万人が歓呼の声を上げているとき、あなたの奉仕にはほとんど価値がないが、彼らが、「十字架につけろ! 十字架につけろ!」、と叫んでいるとき主に従える人には価値がある。群衆とともに走ることはどんな馬鹿にでもできる。だが、群衆に立ち向かい、別の方向に行くこと、全地があなたに逆らおうとも、小揺らぎもしない青銅の柱のようにひとり立っていること、そうした行動には、神の恵みに値する何かがある。そして、真の恵みだけが、このように行動する人を助けるのである。兄弟姉妹。困難の数を勘定してはならない。あなたの神をすべてとみなし、その他のことは好き勝手にさせておくがいい。そこに困難があればあるほど良い。また、友人たちが少なければ少ないほど良い。孤立するあなたを堅く立たせ、あなたの神に忠実なものとするのを助ける恵みには、より栄光が帰されるであろう。
次に、過去の成功によって発奮するがいい。神のための成功は良い。あなたはミデヤン人に対して勝利を収める。そして、あなたは疲れを感じる。疲れてはならない。何と! そのような勝利の後で疲れるのはあなたにふさわしくない。あなたがた、敵の返り血で肘まで赤く染まった人たち。あなたが疲れようというのか? あなたがた、たった今オレブとゼエブを殺したばかりのあなたが腰抜けになろうというのか? あなたは、戦闘中に旗手が倒れた場合いかなる混乱がもたらされるか知っていよう。見るがいい。軍旗が震え始めている。ほとんど倒れそうである。誰かがそれをしっかと支える。だが、その旗手は気を失い、その旗は地に落ちる。すると、誰もが戦いに破れたと考える。旗手よ、旗手よ。私は切に願う。どうか気を失わないでほしい! あなたの神に叫ぶがいい。旗手よ。というのも、かくも多くがあなたにはかかっているからである! 一学級の教師よ。一会衆の教役者よ。一氏族の指導者よ。エホバご自身の力によって立つがいい。そして、すべてをなした上で、立つがいい!
最後に、この人々のように、最も疲れ切っているときには希望をいだくがいい。「彼らは疲れていたが、追撃を続けた」。そこにいた彼らがごくごくごく少人数であり、また疲れていたとき、彼らは勝利を期待していた。そして、そこにいる私たちがごくごく少人数であるとき、また、私たちもまた倦み疲れているとき、そのとき、ことによると、私たちの窮境が、神の機会となるかもしれない。この砂時計を見るがいい。その砂はいかに早く尽きていくことか! 時はほとんどなくなっている。ぽろぽろ落ちるべき砂は、もう二、三粒しかない。全くその通り。だが、時間が切れたときこそ、神の永遠が踏み入るのである。私たちの時が終わりに至るとき、そのとき神の大いなる暇も終わりに至るはずである。そして、神はご自分の右の御手をそのふところからぐいと抜き出すと、聞く者の二つの耳が鳴るようなみわざを、一日のうちに行なわれるであろ[Iサム3:11]。こういうわけで、愛する兄弟姉妹。これまで以上に自分をキリストにささげようではないか。
あなたがた、イエスに属していない人たちについて云えば、あなたは誰に属しているだろうか? あなたがた、キリストのしもべではない人たち。あなたは何者のしもべだろうか? 震えるがいい。私は切に願う。というのも、あなたの主人はすさまじい報酬を支払うからである。「罪から来る報酬は死です」[ロマ6:23]。その節の残りを思い出すがいい。「しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」。神が私たちにその栄光に富む賜物を与えてくださるように。イエスのゆえに! アーメン。
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疲れておれど臆病ならず[了]
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