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新年の追想と展望

NO. 2342

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1894年1月7日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1871年、元日夜


「主よ。あなたは貧しい者の願いを聞いてくださいました。あなたは彼らの心を強くしてくださいます。耳を傾けて……くださいます」。――詩10:17


 安息日が良ければ、その週は良いものとなる、と云われることがある。

 マシュー・ヘール卿は遠い昔にこう云った。――

   「安息日(かのひ)良かれば
    週末(すえ)まで満足(よか)らん」。

一方、ジョージ・ハーバートは次のような奇抜な言葉を記している。――

   「人の生涯(いき)たる 日曜日(かのひ)みな
    《時》の糸にて 数珠(じゅず)とされ
    かの奥方の 腕輪たらん、
    永久(とわ)の栄光(はえ)ある 《王》の傍(そば)にて。
    日曜日(かのひ)に《天》の 門ひらき、
    祝福(よきもの)あまた 満ちあふれん、
    希望(のぞみ)を越えて 数多(さわ)にして」。

日曜日は、一週間の市日である。そして、もし人が市場で成功するなら、その人は一週間中良くやったと考えるであろう。安息日は週の車輪に油を注す。その肉体的な休息は有益だが、その霊的な油注ぎははるかにまさって有益である。

 さて、もしそれが正しいとしたら、――また、私は正しいと思っているが、――あえてこう云って良いであろう。すなわち、一年で最初の安息日が良いものであれば、それは良い一年を過ごすために大いに役立つ、と。非常にしばしば、物事は始まったように進むものである。苦難がぽつんと起こることはめったにない。そして、種々のあわれみが単発的に与えられることは、それにもましてめったにない。私たちは、ある祝福を得たときには、常にこう云って良いであろう。「ガド、大勢が来た」*[創30:11]、と。それで私は、この新たな年の最初の安息日に、1つの大きな祝福を受けたいと思う。それは、大勢の祝福がその直後に起こるようにするため、また、あわれみの大群が、一年最後の日に至るまで私たちのもとに来続けるようにするため、そして、私たちが、私の主の豊かなあわれみと御恵みとの新しい記念品とともに、再び一年を始められるようにするためである。

 本日の聖句は、この恵みの1871年の最初の安息日の晩にとって、非常に有用なものとなりえると私は思った。それは、単に今晩の説教としてだけではなく、一年中、覚えておかれるべきものである。この聖句の中には、これから続く十二箇月間のあらゆる時点において、私たち全員にとってふさわしいものとなるはずのことが含まれていると思う。そして、実際それは、私たちに残る生涯すべてにおいてそうであろうと思う。私たちは、今しがた祈りの中で述べたように、私たちの巡礼路がどこへ至るか分かってはいない。だが私はこのような確信を感じている。この霊感された箇所を私たちの心の中におさめておき、それを正しく用いるならば、エホバのみつばさの守りの下で私たちは、この場所から喜ばしく出て行き、別の年の境目の上に自分の天幕を張ることができるであろう、と。

 この聖句を眺めると、それは2つに区分できよう。第一の部分には、1つの非常にほむべき事実がある。「主よ。あなたは貧しい者の願いを聞いてくださいました」。第二の部分には、2つの非常にほむべき保証がある。「あなたは彼らの心を強くしてくださいます。耳を傾けて……くださいます」

 I. まず、この聖句が語っている、《1つの非常にほむべき事実》から始めたい。「主よ。あなたは貧しい者の願いを聞いてくださいました」。

 私がこれを非常にほむべき事実と呼ぶのは、最初に、これが常に事実であったからである。あらゆる時代、あらゆる場所において、何らかの貧しい心がその願いを神に掲げ上げたときには常に、主はその願いを聞いてくださった。ユダヤ人であれ異邦人であれ、王宮の中であれ救貧院の中であれ、病んでいるときであれ健やかなときであれ、生においてであれ死においてであれ、いかなる違いももたらされたことはない。もしその願いがへりくだったものであったとしたら、祈りというものを最初にささげた人から、この現代の世に至るまで、神は常にいつでも耳を傾けてくださった。

 また、主の聖なる御名はほむべきかな! それは古の事実であるだけでなく、ダビデがこの言葉を初めて書き記したときと同じくらい今晩の事実でもある。「主よ。あなたは貧しい者の願いを聞いてくださいました」。まさにこの瞬間に、神の耳はあなたの心の鼓動を聞いている。おゝ、貧しい魂よ。エホバの御心は、あなたの願望の拍動を耳で聞き分けている。それが言葉で表現されていなくとも関係ない! 神の燃える目は、徹底的に私たちを刺し貫くが、この場にいる、すべての悩める胸の切なる願いを1つ1つ読みとっているのである。

 それは今もそうである。また、それは、この一年を通じて事実であろう。神は貧しい者の願いを聞いてくださるであろう。これは昔の事実であるが、現在も重要な事実でもあり、未来においても重要な事実である。詩篇作者がいかにこの事実を云い表わしているか注意するがいい。「主よ。あなたは貧しい者の願いを聞いてくださいました」。ダビデは、「あなたは貧しい者の祈りを聞いてくださいました」、とは云っていない。そのことも意味してはいるが、それをはるかに越えて大きなことを意味している。時として、私たちは云いようもない願いをいだくことがある。それはあまりにも大きく、あまりにも深い。それに言葉をまとわせることはできない。別のとき、私たちは願いをいだいても、思い切って表現できない。あまりも低くうなだれた気分になり、あまりにも自分の欠陥が目につきすぎるため、あえて神の御座近くに行き、自分の願いを口にすることができないのである。あなたも時としてこう云ってきたはずである。「私も、何某さんのように祈れたら良いのに」、と。しばしばあなたはこう考えてきた。「もしも私が、珠玉の名文句をいくつも見事な形に寄り合わせることができさえしたなら、聞いていただけるかもしれないのだが」。そのように愚かなことを云ってはならない。たといあなたがほんの二語さえ正しく結びつけられなくとも、あなたの願いが正しいものであれば、神はその願いを聞いてくださる。

   「祈りは魂(たま)の 真摯(すぐ)なる願い、
    口にさるるも 黙(もだ)してあるも」。

祈りは云い表わされるか、云い表わされないかの中にはない。祈りは魂の真摯な願いである。祈りのはらわたは、願いの中にある。この件の本質は、また、肝心要の点は、心の願いであって、唇の発言ではない。願いを欠いた言葉など、スカスカの豆殻にすぎない。だが、願いは、たとい言葉を伴わなくとも、神にとって甘やかであり、神はそれを受け入れてくださる。あなたはこの思想の幸いさを捕えられるだろうか? もう一度云う。あなたの願いが、言葉で覆えるだけの形を取る前から、神はそれを聞いてくださるであろう。あなたも、時として人の願いを自分でも聞くことができる。多くの母親は、わが子の願いを聞く。その子は海に出かけた。だが、出かける前に、母親は鞄に物を詰めてやった。何を入れてやったかなど告げはしない。そこには、その子が今まで見たこともないものがある。その子も鞄の底まで手探りしなければ、見つけはしないであろう。なぜ母はわが子がそうしたものを欲しがると分かっていたのだろうか? それは、その子が置かれることになる場所や、そうした場合に生ずるだろう必要をあらかじめ見てとって、そうした予見から、その子が何を願うことになるかを推察したためである。あなたは、ある飢えた人が寒風の中で震えているのを見たことがある。たといその人があなたに呼びかけて施しを求めなくとも、あなたは、その襤褸外套の下で脈打っている願いを聞き、自分に向かって云ったことであった。「あの男は助けを求めているのだ」、と。あなたは、その人を見ただけでも、その願いを聞いたのである。その人の沈黙そのものが、その大きな必要についてあなたに語るかのようであった。おゝ、魂よ。神はあなたの望みをお聞きになれる。エホバはあなたの苦悶をお聞きになれる。主は、他の誰にも聞こえないものをお聞きになれる。あなたが云い表わせないことをも! 私が常に賢い物乞いのしかただと思っていたのは、街角に座り込み、体を丸めて、ただ敷石の上に白墨の一片でこう書いておくことである。「はらぺこです」、と。しかし、ことによると、それと同じくらい効果的な訴えは、その乞食が何も文字を書かないことかもしれない。その顔が飢えて見え、その全身が栄養不足と空腹のためにやつれ切って見えるとしたらそうである。その人の願いは、見かけそのものから分かる。そして、おゝ、こう考えることは何と甘やかなことであろう。神は思いやりのある眼差しで、貧しい魂を見下ろし、その状況と境遇のすべてをご自分の同情に満ちた目におさめ、その願いを聞いてくださるのである。彼らがそれを云い表わせなくとも、恐れて云い表わせなくとも関係ない!

 しかしながら、ダビデがこうも云っていないことに注意するがいい。「主よ。あなたは貧しい者の願いを聞いてくださるでしょう」。むしろ、こうである。「主よ。あなたは貧しい者の願いを聞いてくださいました。その願いが生まれ出るや否や、あなたはそれを聞かれました」。あなたが願うと、神はそれと同じ瞬間にその願いをお聞きになる。否、訂正させてほしい。ある願いがあなたの心に生ずる前から、神はそれがそこに生まれることを知っておられ、聞いてくださったのである。神は、あなたが神に目を向ける前から、あなたに目を向けておられ、そのときでさえ、このことは真実に云えたであろう。「主よ。あなたは貧しい者の願いを聞いてくださいました」。

 いかなる種類の願いを神はお聞きになるのだろうか? 神は、願いなら何でもお受け入れになるわけではない。願いでも、あるものは下らなく、あるものは空しく、あるものは愚かで、あるものはよこしまである。そして、神はそうした願いをお喜びにならない。心貧しい者の願いをこそ、主はお聞きになる。「あゝ!」、とある人は云うであろう。「残念ですが、私は心貧しくありません」。兄弟よ。真に心の貧しい人を示す1つのしるしは、その人が自分のことを心貧しい者とは考えないということなのである。自分は心貧しい者だと云うような人に会うことがあるとしたら、即座にその人は高慢だと結論して良い。というのも、通常、この世で最も高慢に満ち満ちた自慢は、自分の謙遜さについて語る人の自慢だからである。あなたが心貧しいだと? あゝ、方々。あなたがよほどへりくだらされない限り、その言葉は真実になるまい! 自分の高慢について嘆き悲しんでいる人こそ、おそらくは本当に心貧しい人であろう。

 心貧しい願い、すなわち、貧しい人の願いには、このような特徴がある。その人は、自分の願いに何の功徳もないことを知っている。もしその人が心にいだいている願いが良いものだとしたら、その人はこう感じる。「全く神の無限のあわれみによらない限り、こんな願いはかなわないはずだ」、と。その人は、うぬぼれてこう云いはしない。「自分よ。よくやった。お前は心の中に正しい願いをいだいている。お前には良いところがあるぞ」。否、むしろ、その人は、その願いが真摯なものではないかもしれないと恐れている。そして、それがいかに深く、いかに真実であるときも、その人は自分を義とするあらゆる襤褸布を自分が剥がし取る。というのも、その人は自らの心にある願いの中に、何の良さも見てとれないからである。

 心貧しい人は、自分自身の誉れのためには、何も神に願わない。その人は自分を卑しくみなしているあまり、自分を高く上げることなど願わず、一切のことにおいて神の栄光を現わしたいと切望する。それゆえ、その人は、自分が穴に下っていくことから救い出されたことを喜びつつも、あらゆる栄光を神に帰すのである。その人はトップレディとともにこう歌う。――

   「わが身の手柄 ただ無なり、
    主よ、わが汝れに つきたるは。
    代価(かた)なき恵み 陰影(かげ)散らし、
    ひかり照らしぬ。
   「主はわが心 希求(のぞ)ませぬ、
    汝が申し出を 受くるべく。
    死人(しびと)醒む声に われ召され
    みもとに来たり 生かさるる」。

 心貧しい願いとは、一切を神の御手にゆだねるものである。それをいだく人はこう云う。「さて、私はこのことを願っていても、これは正しい願いではないかもしれません。主よ、私は願うべきことだけを願いたいと思います! 私の願いは、あなたの願いが私の心に書き記されることです。あなたの願われることを私が願えるようにしてください。あなたのみこころが私の魂においても、私のからだにおいても、私の状況においても、そして私においても、あらゆる点で行なわれますように」。

 さて、愛する方々。果たしてあなたが、この、神がお聞きになるという貧しい者の願いを有しているかどうか見てとることはさほど難しくないと思う。だが、なおもあなたを助けるために、こうした願いのいくつかをあなたに示させてほしい。

 これは、貧しい者の願いの1つである。「主よ、私をお救いください! あなたのあわれみが私を助け出しに来ない限り、私は失われています。私には咎があります。どうかお赦しください! 私はあなたに敵対していました。どうか和解させてください! 私は罪に病んでいます。どうか癒してください。あなただけが《医者》だからです!」 私に、あなたの願いは聞こえない。いま口をつぐみ、いかに長く耳を傾けようとも、私にはこの場にいて、神の救いを欲しているいかなる人の切望も聞こえない。だが、おゝ、愛する魂よ。あなたがどこにいようと、何者であろうと、私の耳にまさる耳があなたの願いを聞いており、その耳をお持ちの《お方》は、あなたの願いをかなえてくださるであろう! 確かに、あなたがたの中のある人々は、私が口にしたばかりの祈りを祈っているに違いない。ことによると、それをささげるとは到底思えないような風采の人がそうしているかもしれない。神は、その人の胸の真中に、その人の魂の中心に、燃える炭火のような願いを落とされた。そして、その人は云っているのである。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください!」[ルカ18:13]、と。

 それが、神がお聞きになる、貧しい者の願いの1つである。しかしながら、かりに主が、あなたの場合にはその願いをお聞きになり、恵み深くもそれをすでにかなえてくださったと思うことにしよう。さて、私は、この場にいる、ある心貧しい魂がこう云っているのが聞こえるような気がする。「主よ。私の子どもたちをお救いください! 主よ。私の男の子たち、女の子たちを回心させてください! 私は、あなたのためにこの子たちをしつけようとしてきました。ですが、私のどんな教えも、この子たちの救いのために効果あるものとはとても望めません。あなたが、この働きにあなたの御手を添えてくださらなくてはなりません」。私は、あなたが自分の子どもたちのために訴えている、あなたの心の拍動を聞くことができない。心の中でこう叫んでいる妻の願いを聞くことができない。「主よ。私の夫をお救いください!」 また、自分の霊の内側でこう云っている妹の切望を聞くこともできない。「おゝ、主よ。私の妹があなたの御前で生きるようにしてください! 私の兄がキリストを知るようにしてください!」 しかし、私にはこうした願いが聞こえず、いかなる人間もそれを聞くことができなくとも、神はお聞きになる。「主よ。あなたは貧しい者の願いを聞いてくださいました」。愛する方々。あなたの願いを大きなものとするがいい! あなたの親類全員を取り込むがいい。私の親類を取り込み、私の話を聞く人々を取り込み、この会衆全員を取り込み、このロンドンの町を取り込み、神が何万人もの魂をお救いになることをも願うようにするがいい。というのも、神は貧しい者の願いを聞いてくださるからである。

 別の願いはこうであろう。「主よ。この一年、私を正しくお導きください!」 自分の情動の力を感じている青年は、こう祈るべきである。「主よ。私を誘惑に遭わせないで、悪からお救いください!」*[マタ6:13] この世の心遣いという、枯死させるような影響力を知っている商人は、こう祈るべきである。「私を生かしてください。おゝ、主よ。あなたのみことばのとおりに!」*[詩119:25] 家族の中にどんな苦難がやって来るかと気をもんでいる主婦、――彼女にふさわしい祈りはこうである。「おゝ、主よ。あなたの恵みを、常に私に十分なものとしてください。私をお導きください。私を平らな小道に導いてください。私の足どりを導き、今年、私に聖潔のうちを歩ませてください!」 もう一度云う。私は誰がこの請願をささげているか知らない。あなたがたの中の多くの人々がそうしているものとは希望したいが。だが、いと高き天に座しておられる《お方》、智天使や熾天使たちの歌を聞いておられるこのお方は、それでも、身をへりくだらせ、貧しい者の願いがこのような形を取るときには、それを聞いてくださるのである。

 今晩あなたがたの中のある人々はこう云っていることと思う。「主よ。私において、あなたの栄光を現わしてください!」 私はは、この場にいる1つの心の中でその願いを現実に聞いている。私にはそれが聞こえる。私自身の心の中で聞こえる。だが、神は、他の多くの人々の中でそれを聞いておられると思いたい。その《日曜学校》の教師は云っている。「主よ。今年、私の学級においてあなたに誉れを帰してください! 私の男の子たち、私の女の子たちを《救い主》の足元に導いてください」。あなたがた、説教者である人たちは云っている。「主よ。私たちの伝道活動において、あなたの栄光を現わしてください。私たちに、私たちの誇りの冠[Iテサ2:19]となるような多くの魂をお与えください。ですが、あなたに栄光が永遠にありますように!」 あなたがた特に何か奉仕の形を有してない人たちは云っている。「主よ。今年は何かなすべきことをお与えください! 私を役立たずにしないでください。実を結ばない木にしないでください。今年、あなたが得られる誉れを私から生じさせてください。どうかお願いです!」 さて、こうした願いが立ち上る所ではどこであれ、神はそれをお聞きになる。また、あなたは単に自分自身を通して神の栄光を願っているだけでもないと思う。というのも、そうだとしたら、それは心貧しい願いではないであろうからである。むしろ、あなたは神の栄光が、そのすべてのしもべたちを通しても現わされることを願っているはずである。これをあなたの請願とするがいい。「おゝ、主よ。キリストに仕えるあらゆる教役者を栄えさせてください。あらゆる《日曜学校》教師、あらゆる病人訪問者、あらゆる小冊子配布者、そして、あなたのために何かを行なっているあらゆる人を栄えさせてください! おゝ、主よ。この年のうちに、あなたのみわざを生き返らせてください![ハバ3:2 <英欽定訳>] おゝ、あなたの光とあなたの真理を送り出してください! 大勢の罪人たちをお救いください!」 もしそれがあなたの心の願いだとしたら、神が今晩、貧しい者の願いを聞いてくださることに感謝し、その願いを恵みの御座に熱心に差し出すがいい。

 さて、本日の主題のこの最初の部分はここまでにしよう。実際ここには、今晩考えるとしたらあなたを喜ばせるものがある一方で、明日もあなたを喜ばせ、今年のいかなる日にもあなたを喜ばせるものが数多くあると思う。かりにあなたが、ある作業場にいて、祈るために膝をかがめられないとしても、願うことはできよう。そして、神はその願いを聞いてくださるであろう。それが言葉によって表わされないとしても関係ない。ことによると、あなたは、不敬虔な人々の間で働いていて、声に出しては主に請願をささげられないかもしれない。そうだとしても、願うことはできる。それゆえ、主に感謝するがいい。主が貧しい者の願いを聞いてくださることを。私の声が何によってとどめられても、何物も私の心の願いを止めることはできない。私は願い続けることができる。そして、神に栄光あれ! 神は私の心の願いを聞き続けてくださる。

 II. さて、私たちは本日の主題の第二の部分に移らなくてはならなかった。《2つの非常にほむべき保証》である。「あなたは彼らの心を強くしてくださいます。耳を傾けて……くださいます」。

 最初の保証はこうである。「あなたは彼らの心を強くしてくださいます」。この宣言を1つの祈りにしてみるがいい。「主よ。私の心を強めてください!」 私たちはみな、思慮が示唆し、状況が許す限りにおいて、来たるべき日々のために、何らかの点で強くならなくてはならない。まさかの時のための何らかの蓄えは、分別のある人ならみな、できる限り行なうものである。だが、兄弟たち。将来のための最善の備えは、心を強くされることにある。もしあなたが他のあらゆることで備えができていても、心の備えができていなければ、あなたは最も大きな部分が半端のままということになる。だが、もし心が強くされているとしたら、他のあらたかの部分に今は備えができていないとしても、やがて最後には整うことであろう。心が正しければ、すべては正しくなる。いのちの泉は心から湧く[箴4:23]。そして、そうしたいのちの泉が真実で良いものとなるのは、心が正しい場合である。神だけが、正しいもののために心を強めることがおできになる。神だけが聖なる生き方のため、また幸いな死に方のため、そして、永遠のために心を強めることがおできになる。私があなたに望むのは、この保証を、この一年を通じてのあなたのための約束としてつかむことである。「あなたは彼らの心を強くしてくださいます」。この云い回しはどのように理解すれば良いだろうか?

 まず、神が貧しい者の心を強めてくださるのは、キリストを受け入れるためである。「おゝ!」、とある人は云うであろう。「私はキリストのもとに行くほどふさわしいとは感じられません」。いま欠けているいかなるふさわしさをも、神はあなたにお与えになるであろう。「あなたは彼らの心を強くしてくださいます」。あなたは空っぽになり、心打ち砕かれ、傷つけられる必要がある。そうしたすべてを、神の御霊はあなたの良心に対して行なわれる。主の律法の働きによってそうされる。自分が、キリストのもとに行くほど整えられていないからといって、キリストから離れて立っていてはならない。神は、あなたのためにキリストを整えられたのと同じように、キリストのためにあなたを整えてくださる。

 次に、「あなたは彼らの心を強くしてくださいます」。それはキリストをいやまさって受け取るためである。すでにキリストを私たちの希望、私たちの信頼として有している者らは、いやましてキリストを自分のものとする必要がある。私は、今年、私の《主人》について、これまで知っていたこと以上のことを学ばないと考えるとしたら、非常に遺憾に思うはずである。今年一年が私の頭上を過ぎても、主のご人格の美しさについて、また主のご性格の卓越性について何も清新な教導を受けないとしたら、これはやりきれない一年だと思うはずである。おゝ、私たちがみな、自分の心に、いやましてキリストを受け入れることができるとしたらどんなに良いことか! 心は掃ききよめられ、整えられる必要がある。そして、ここに、その働きが神によって成し遂げられるとの約束があるのである。「あなたは彼らの心を強くしてくださいます」。単に恵みのためばかりでなく、より多くの恵みのために、神は貧しい者の心を強くしてくださる。

 愛する兄弟たち。今年、私たちに心強められる必要があるのは、私たちが神のために実行しなくてはならない義務の数々のためである。神への信頼とともに、それらを予期するがいい。手相を見て将来を予見するふりをする人々は馬鹿である。彼らを信ずる人々は賢くない。一日のうちに何が起こるか、私たちは知らない[箴27:1]。だが、毎日が当然受けるべき奉仕をもたらすだろうことは分かる。よろしい。ならば、神は私たちの心をそのために強めてくださる。「あなたは彼らの心を強くしてくださいます」。私はこう考えると嬉しくなる。私のなすべきこととしてやって来る一切のことのために、神は私を強くしてくださるのである。私は、これまで一度も試みたことがないような働きに召されるかもしれない。その場合、私には、これまで一度も持っていなかったような恵みが与えられるはずである。あなたは今年、人生における境遇が変えるかもしれない。だが、あなたはその変化のために強くされるであろう。あなたは、世界の反対側に移民せざるをえず、そこでは種々の清新な義務があなたを待ち受けているかもしれない。だが、あなたは、あなたの新しい奉仕の領域のために強められるであろう。しもべだったあなたは主人になるよう召されるかもしれない。あるいは、世の中で落ちぶれて主人だった所からしもべにならざるをえないかもしれない。それでも、神があなたの前に何をなすべきこととして置こうと、神はそのためにあなたの心を強くしてくださるであろう。ただ、この宣言を祈りにして訴えるがいい。そうすれば、あなたはそれが成就すると期待して良い。

 私たちの積極的な奉仕に加えて、もしかすると――そして、おそらくは私たちの中の多くの者らにとって――大量の消極的な奉仕があるであろう。私たちは今年、苦しみを忍ばなくてはならないかもしれない。今は人生で快適な境遇にある者たちの上に、貧困が降りかかるかもしれない。そこで微笑んでいる姉妹は、死別によって寡婦となるかもしれない。あるいは、向こう側にいる幸福な父親は、子どもたちをことごとく失うかもしれない。この年がその行程を走り終える前に、私たちの中の誰が病床で輾転することになるか、誰が中傷されることになるか、誰が迫害されることになるか、私たちには分からない。だが、ここには私たちに分かることがある。「あなたは彼らの心を強くしてくださいます」。これは何と素晴らしいことであろう。神はご自分の民のもとに、苦難がやって来つつあるとき、その備えをさせてくださるのである。あなたも、ソロモンが賢い女について何と云っているか覚えているであろう。「彼女は家の者のために雪を恐れない。家の者はみな、あわせの着物を着ているからだ」[箴31:21]。彼女は家族のために暖かい服を作っておいたため、こう云う。「雪よ、降りたければ降りなさい。うちの者たちは寒さに負けない支度ができています」。そのように神の知恵と恵みは、私たち全員に暖かな慰藉の着物をまとわせ、苦難が来るときも、私たちはそれに耐えられるだけの強さがあるであろう。義務のためにも、苦しみのためにも、「あなたは彼らの心を強くしてくださいます」。

 そして、あゝ! 今年、私たちの中のある者らは死ななくてはならないかもしれない。昨年は私たちの会員たちの多くが世を去った。何人かの愛しく甘やかな魂たち、この教会の精粋たる人たちが天国へと取り去られた。愛する兄弟姉妹。今年、故郷へ行くのは私の定めかもしれない。あなたの定めかもしれない。だが、私たちはこの恵み深い保証を頼みとするであろう。「あなたは彼らの心を強くしてくださいます」。何と、この年を通じて、この言葉を私の心の中におさめておき、私の舌の上に置いておけるとしたら、何事も私をかき乱すことはできないように思われる。私は、こう書かれている人のようになるであろう。「その人は悪い知らせを恐れず、主に信頼して、その心はゆるがない」[詩112:7]。「あなたは彼らの心を強くしてくださいます」。それゆえ、彼らは、自分たちに対抗してやって来ることがありえる一切の敵を恐れないであろう。あなたは、病をも、飢饉をも、死そのものをも恐れないであろう。神があなたの心を強くしてそれらに当たらせてくださるからである。この年の間、思いがけない苦難がやって来るときには、時折そっと物陰に隠れて、こう云うがいい。「主よ。この悲しみゆえに、私の心を強くしてください!」、と。突如やって来た強大な誘惑に遭うときには、どこか静かな片隅に急いで行って、祈るがいい。「さあ、私の《主人》よ。私の心を強くして、この敵の強襲に抵抗させてください!」、と。神はあなたのために、あなたの剣を鋭利にしておいてくださるであろう。あなたのために、あなたの盾に頑丈な太鼓鋲を浮き出させておいてくださるであろう。あなたを強め続け、幸いにし続け、祝福させ続け、あなたの心を強くしてくださるであろう。

 さて、本日の聖句の最後の部分についてである。もしかすると、あなたがたは知らないかもしれないが、今晩の私は、好きなだけ話を続けても、おかまいなしなのである。というのも、私の講壇時計が止まってしまったからである! 私は、首を回して見なければ、いかに時が飛び去ってしまったかに気づかなかった。しめくくりの前に、本日の主題のこの最後の部分について少しだけ語りたいと思う。この第二のほむべき保証である。「あなたは……耳を傾けて……くださいます」。兄弟たち。このように心を強めることは、まず最初に、神がご自分の民の心を祈りのために強めてくださるという意味だと思う。それから、神は彼らの祈りに耳を傾けてくださるであろう。だが私は、しばしの間、このことを前後関係から取り出してみたい。

 「あなたは耳を傾けてくださいます」*。私がこの語句によって理解するのは、主はすぐさま私たちの願いを聞いてくださるということである。時として、私たちが祈るとき、その答えがすぐにはやって来ないことがある。もう一度祈るがいい。兄弟よ。というのも、神は、まだ耳を傾けていないとしても、耳を傾けてくださるだろうからである。あなたの祈りに対する答えはすみやかにやって来るであろう。あなたの期待をあまりにも長く引き延ばしてならない。神が遅くなられるときには待つ覚悟をするがいい。だが、神が遅くなられないときにはその答えが来る覚悟をしているがいい。あるキリスト者たちは前者は行なうが、後者は行なわない。彼らは、待つ覚悟をしすぎているため、神が彼らをお待たせになるように思われる。おゝ、あなたが自分の救いを、あるいは、他の人々の救いを訴えているときのような、激しさと真剣さをもって覚悟をし、神が急いでその耳を傾けてくださるようにするがいい! 神はすぐさまあなたの願いを聞いてくださるであろう。この年を通じて、あなたの多くの祈りに対するすみやかな答えを期待するがいい。

 「あなたは耳を傾けてくださいます」*。これが次に意味しているのは、主は私たちの願いを常に聞いてくださるということだと思う。神は、いわば力を奮い起こして、あなたの請願を聞いてくださるであろう。「耳を傾けてくださいます」*。これは、この新年にとってほむべき言葉である。私の神よ。あなたに耳を傾けていただけると知った今、いかに私は熱心に祈ることでしょう! 思い出すが、愛するクーパー氏は、意気阻喪して苦悩の中にあったとき、ニューポート・パグネルのブル氏宛てに手紙を書いて云った。「君はぼくに祈るように助言してくれた。だが、この世のどこにも、ぼくが祈るべき理由はまるでない。ぼくに祈る権利があるなんて聖書箇所は1つもない」。もちろん、彼はこのとき正気を失っていたのである。だが、彼は云った。「もしそんな聖句があるとしたら、ほくは生きている限り決して祈りを欠かさないだろう。君はぼくにヨナが鯨の腹中で祈ったと云ってくれた。だが、ぼくはヨナがいた所よりもずっとひどい苦境の中にあるのだ。もしヨナ程度にしか困っていなかったとしたら、ぼくは夜も昼も神に祈るだろうよ」。私はその思想を捕える。――もし私に祈ることが許されているとしたら、私は祈るであろう。そして、もし私がイエスの御名によって神に求めることは何でもかなえられるとしたら、おゝ、私は求めるであろう! 主に祈るときには、ぜひともあなたの特権を用いるがいい。というのも、主は耳を傾けてくださるからである。もしあなたが、宮廷のお偉方に耳を傾けてもらうことができ、何でも好きなものが手に入るとしたら、確実にその特権を用いようとするに違いない。では、偉大な《王の王》に耳を傾けていただける以上、おゝ、あなたがた、とりなす人たち。あなたがた、主に覚えられている者たち[イザ62:6]。昼も夜も主に訴えるがいい。「主がエルサレムを堅く立て、この地でエルサレムを栄誉とされるまで、黙っていてはならない」[イザ62:7]。というのも、主は耳を傾けてくださるからである。罪人よ。主は常にあなたに耳を傾けてくださる。もしあなたが主を呼び求めるならば、主はすぐさまあなたの願いを聞いてくださる。完全に聞いてくださる。

 「あなたは耳を傾けてくださいます」*、と云われているとき、これは、主が私たちの請願をかなえてくださるように聞いてくださることを意味しないだろうか? 教会として、私たちは祈りによって生き生きと成長してきた。グラスゴーはみことばの宣教によって栄え、タバナクルは信仰者たちの祈りによって栄えてきた。そこに私たちの力の秘訣があった。それゆえ、祈りの効力をなおも信じ続けようではないか。神は実際ご自分の子どもたちの祈りを聞いてくださる。実際、貧しい者の叫びを顧みてくださる。ご自分の民の願いに動かされなさる。ならば、この年を通じて、今までにまして祈りに打ち込むがいい。信仰によって祈り、イエスの尊い血と、神のことばの数々の約束を申し立てよう。そして、主が私たちに仰せになることを聞こう。「イスラエルの聖なる方、これを形造った方、主はこう仰せられる。『これから起こる事を、わたしに尋ねようとするのか。わたしの子らについて、わたしの手で造ったものについて、わたしに命じるのか』」[イザ45:11]。キリスト教信仰には大きな復興の必要がある。先の信仰復興の波は過ぎ去ってしまっており、私たちには別の信仰復興が必要である。私たちは、霊的に長い冬を経てきた。教会には、覚醒の春季、栄光に富む夏季、黄金の秋季が必要である。そのために祈ることを誓おうではないか。そして、単に誓うだけでなく、現実に祈るがいい。力強く叫ぼうではないか。主が私たちの願いを聞いてくださるまで、そして、《救い主》の苦しみと死の報酬となるべき何万人もの人々を導き入れてくださるまで。愛する方々。主があなたがたを祝福し、この年を、私たちひとりひとりの中で神の栄光のために非常に豊かな実を結ばれるものとしてくださるように!

 そして、今晩、タバナクルに入ってきたときには救われていなかった人々について云えば、私は信頼するものである。神がまさに今晩、そうした人々にイエス・キリストを信じたいと願わせてくださる、と。また、神が彼らの願いを聞いて、世の罪を取り除く神の《小羊》[ヨハ1:29]を仰ぎ見させてくださる、と。主を愛する私たちがこの聖餐卓のもとに来るとき、私たちは本日の聖句をささげることができる。というのも、確かに貧しい者の願いは、彼らがこの《晩餐》のうちにキリストを見ることに違いないからである。「主よ。あなたは貧しい者の願いを聞いてくださいました。あなたは彼らの心を強くしてくださいます」。おゝ、整えられていない心で聖餐卓のもとに出るのは悲しいことである! 主よ。私たちの心を整えて、あなたの饗宴の卓子に赴かせてください。そのとき、「あなたは耳を傾けてくださいます」*。あなたは、キリストを養いとして、満ち足りる恵みを私たちに授けてくださいます! 願わくは陪餐者ひとりひとりにとってそうであるように! 主があなたがた全員を祝福し給わんことを。イエス・キリストのゆえに! アーメン。

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新年の追想と展望[了]


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