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マナからの教訓

NO. 2332

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1893年10月29日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1889年9月12日、主日夜


「主はモーセに仰せられた。『見よ。わたしはあなたがたのために、パンが天から降るようにする。民は外に出て、毎日、一日分を集めなければならない。これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを、試みるためである』」。――出16:4


 荒野にいた何十万もの――否、何百万と云っても間違いではないだろう――人々に食料を供給するのは、至難の業だったに違いないと思われる。だが、いかに困難ではあっても、糧食の供給は、教育ほど難しくはなかった。奴隷の群衆を統制の取れた一国家に訓練し、つい先頃まで隷従していた者たちを引き上げて、種々の民族的な特権を享受するにふさわしくすること、これこそ、モーセが成し遂げなくてはならなかった超人的な仕事であった。そして、イスラエル人を愛し、彼らを選び、ご自分の宝の民[申14:2]にしようとお決めになった彼らの神は、彼らを教えることを引き受け、彼らの食物をこの教育のための一手段とされた。他のいかなるしかたによっても手が届かなかったとき、彼らはその飢えにより、その渇きにより、その養いにより教導されている。そして、イスラエルがいかに粗雑な性質から成り立っていたか、また、いかにこの民がその長い奴隷生活の間に親株から変質していたかをご存知であった主は、あらゆる手段を用いて念入りに彼らを教えられた。より高く、より霊的な手段、また、予型的で象徴的な手段によるばかりでなく、彼らの飢えや渇きによっても彼らを教えられた。岩からの水の供給や、天からご自分が降らせたマナによって教えられた。

 私たちは今晩、主が彼らに何を教えられたかを見てとろうとしている。それだけではない。私たちは彼らが何を学んだかを、また、それ以上のことを学ぶよう努めたいと思う。願わくは聖霊ご自身が私たちの《教師》となってくださるように。また、これまでしばしば、パンと葡萄酒によって、きわめて神聖な教えを私たちに教え、食物と飲み物という卑しい働きと思われるものによって、私たちの心そのものに説き教えてくださった御霊が、今晩も、荒野で遠い昔にイスラエルを養った御使いのパン[詩78:25]によって、私たちを教えてくださるように。

 第一に、私があなたに考察してほしいのは、主がいかにこの民をご自分の賜物によって教えられたか、ということである。そして次に、いかに主が彼らを教えるため、この賜物を彼らに対する試験とされたかである。第三に示さなくてはならないのは、いかに主がこの教訓を、現世的な事がらについて教えておられるかである。そして最後に、いかに主が、私たちの霊的な食物について私たちを教導しておられるかである。

 I. まず第一に、愛する方々。《いかに主がこの民をご自分の賜物によって教えられたか》について考察しよう。

 主は彼らがご自分を知ることを望まれた。主の切なる願いは、彼らが自分たちの神エホバを知ることであった。もし彼らが神を知るならば、他のすべてを知るであろう。というのも、結局において、「人間の真に研究すべく」は神だからである。そして人は、自分の神を知るとき、自分自身を知るのである。だが、もしも自分の神を知りもしないで、自分自身を知っていると考えるとしたら、大間違いである。

 そこで神は、彼らにご自分のことを教えたいと願って、マナという賜物を用いられた。そして彼らに、まず最初に、彼らに対するご自分のご配慮を教えてくださった。神が彼らの神であること、また、彼らが神の民であること、そして、神が彼らに食物を供するために骨折られることを教えられた。神が彼らに対して――彼らひとりひとりに対して――有しておられたお心遣いについて考えてみるがいい。というのも、あらゆる者が一オメルずつのマナを得たからである[出16:16]。いかなる女も子どもも忘れられていなかった。毎朝、あらゆる者のために十分な量が、その日食べる分に応じてあった。それ以上の分量はなかった。それ以下の分量であることは決してなかった。それほど注意深く神は個々人に目を配っておられた。天来の愛の個別性は、その甘やかさの大きな部分である。神は、あたかもひとりしか子どもがいなかった場合と同じくらい、ご自分の子どもたちひとりひとりを思いやってくださる。その選民の数多さによっても、神の愛情というパンは分割されない。神にはひとりひとりのための無限の愛情があり、神は選ばれた生命それぞれの詳細の面倒を見てくださる。神はあなたのオメルがぴったり満たされるようにしてくださるであろう。あなたに必要になるだろうすべてのものをお与えになるであろう。だが、あなたが自分の高慢に役立てるために蓄えることのできる何物もお与えにならないであろう。

 そして、このご配慮は毎日示された。主は彼らに、それが毎日やって来ることによって、ご自分の覚えが継続することを教えられた。もし神が、ご自分のものである民の食料を、一度に惜しみなく雨あられとお送りになり、その莫大な糧食を拾い集めて、旅の間中かかえて行けとお命じになったとしたら、彼らは、毎日新たに送られた場合ほどは、神のご配慮を良く学ばなかったであろう。それに、彼らがそれをかかえていくのは重荷となっていたことであろう。だが、彼らは、そのような重荷を背負わされはしなかった。というのも、天からの供給は常に手近にあったからである。彼らが自分の天幕を張って、滞在していたまさにその場所にあったからである。毎朝、彼らが必要としていた当の場所にマナがあり、いかなる者の肩も、自分の食料をこね桶に入れて背負うことで赤むけになることはなかった。主は、同じようにして、あなたや私を教えておられる。神は、単にひとりひとりを気遣うだけでなく、ひとりひとりを、毎日、瞬間ごとに気遣い、私たちの足跡を見守り、特定の必要が起こるたびに、それに応じた完全な供給を割り当ててくださるのである。「神は常に思いやり深く、常に私のことを思いやってくださいます」、とあなたはあなたの主について云えるであろう。「あらゆる兄弟たちのことを常に思いやり、贖われた者たちの全集団のことを常に思いやっていますが、それにいささかも劣りなく、個々人ひとりひとりを思いやってくださいます。なぜなら、毎日、瞬間ごとに、配慮されなくてはならない実におびただしい数の者たちがいるからです」、と。これは、イスラエル人たちにとって、自分の日々の糧を拾い上げるたびに学ぶことのできる甘やかな教訓ではなかっただろうか?

 しかし、次にエホバは彼らに、ご自分の偉大さを教えられた。主はエジプトで、その数々の力強い災害によってそれを彼らに教え、葦の海でも、その力強い杖で海の胸ぐらに焼き印を押したときにそうされた。しかし、いま主は彼らに優しくご自分の偉大さを――そのこの上もない偉大さを――最初はこのマナの量によって教えてくださった。それは彼ら全員のため十分あった。どれだけ必要であったかは、算数家の計算にまかせよう。今晩その問題に立ち入ることはできない。しかし、思い出すがいい。それだけの量が毎朝、四十年間、降り続けたのである。これは何と偉大な神であろう! 途切れることなく四十年間、ご自分の選びの民が住む麻布製の町を養い続けることができ、なおもその貯蔵所は枯渇しなかったのである! 神の偉大さは、この無数の民をお養いになったしかたからも見てとれる。通常、私たちのパンは土から生え出る。だが、この民は、獣のほえる荒地[申32:10]にいた。不思議や不思議、彼らのパンは空から降ってきたのである! 人々は空気を食べて生きられるだろうか? 住民の栄養を霧や、雲や、露で補給できるだろうか? だが、一見した所の真空から、豊富な糧が絶えることなくやって来た。毎朝、地面には、この大群衆全員のための食物が一面に降り積もっていた。そして、彼らのすべきことは、出て行って、それを集めることだけだった。これは何という神であろう! その荒野をついての行進は、これほど驚嘆すべきものだったのである! エホバよ。あなたの通られた跡にはあぶらがしたたっています![詩65:11] あなたが御足を置く所はいずこであれ、荒野と砂漠はあなたゆえに楽しみます[イザ35:1]。もしあなたが砂漠を通ってあなたの民を導くと、それは彼らにとって何の砂漠でもなくなります。地が拒むものを、天が供するのです。見よ。あなたの神の偉大さを。あなたがた、神のご配慮によって養われている人たち!

 それから次に、彼らは神の偉大さと合わせて、神の物惜しみのなさを学んだ。というのも、毎朝彼らは養われたからである。だが、ヨセフがエジプトの民に食料を供したようにではなかった。ヨセフは、彼らからその蓄えのすべてを取り上げて麦を売り、最後には、彼らを生かしておために、彼ら自身をパロの奴隷とし、彼らの土地をパロの自由保有権としてしまった。しかり。この日ごとの糧のためには全く何の代金も要求されなかった。いかに富んでいた者も自分のオメルが満たされたが、一文も払わなかった。いかに貧しい人も、全く同じように、同じ代価で自分のオメルを得た。そこには「償うものがな」かった。いかなるマナ税もイスラエル人の手から徴収されはしなかった。おゝ、神の物惜しみのなさよ! 神はこう叫んでおられる。「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え」[イザ55:1]。あなたは、いかにエホバの訴えが拡大しているか注目しているだろうか? 最初、主は、「渇いている者はみな、水を求めて出て来い」、と仰せになる。だが、そう云い終わらぬうちに云い直して、こうお語りになる。「さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え」。主は無限に、また、本質的に善であられる。主の善は、体験的には増大していく。私たちが主により頼めばより頼むほど、主の物惜しみのなさを発見する。主は、「惜しげなく、とがめることなくお与えになる」[ヤコ1:5]。主は、イスラエルの度重なるつぶやきにもかかわらず、ほとんどイスラエルをとがめることなく、マナは絶えず降り続けた。そして、その潤沢さに民は常に打たれたに違いない。神は、その物惜しみなさにより、決して彼らに出し惜しみをしなかった。おゝ、しかり。疑いもなく、パンを量り分け、肉を量り分け、これこれの骨と、これこれの脂身が与えられるようにすることは全く正しい。監獄の囚人たちや、おそらくは救貧院の乞食たちに対してはそうである! しかし、それは神がなさる働き方ではない。私たちは監獄にいてしかるべき者であり、私たち全員は神の気前良さに頼る年金受給者であるにもかかわらず、神はひとりひとりのオメルを満たしてくださる。もしある人が食欲旺盛であるとしたら、その人は好きなだけ食べることができる。マナはその人が食べている最中に増えてくるように思われる。また、もしその人の食が細ければ、たくさん集めるようなことがあっても、それでもその人は余すことはないであろう。神はマナを気前良く供してくださった。だが、受け取り手の容量に正確に合わせてそうされた[出16:17-18]。

 ここから私が云いたいのは、イスラエル人は神の不変性をも学んだということである。というのも、彼らは荒野にいた間中マナで養われたからである。何人かの老人はこう云ったかもしれない。「わしは、初めて外に出て行って、オメル一杯集めたときのことを覚えておる。それには仰天したものだ。わしの隣人たちも、云い云いしておった。『マヌー? マヌー? マヌー?』、とな。人々はみな驚きに打たれておったよ。これを何と呼んで良いか分からなんだもので、『これは何だろう?』、と尋ねては、『マヌー?』と呼んだのだ。さて今」、と彼は云った。「わしは、この長年月の間ずっと外へ出てきた。神に感謝すべきことに、わたし一度も足を腫らしたことがなく、これを集めに出られんことがなかった。それは、いつだって初めの時と同じように白くて、丸くて、豊富で、わしの天幕のそばにあった。わしは、宿営の左側で暮らすのを常にしておった。それから、右側に移った。だが、わしはいつだって、どこへ行こうと、マナが同じくらいたっぷりあることに気づいたものだ。そして、それは今でもそうなのだ」、とこの老人は云うであろう。「それは今でもそうなのだ。そして、今ても同じくらい甘くて、たっぷりあって、何の代金もなく無料で、出て行って集めようとする者なら誰でも手に入れられるのだ。神はほむべきかな。神は変わることがない。それゆえ、わしら、ヤコブの子らは滅ぼし尽くされないのだ! もし神がお変わりになっていたら、マナは来なくなつていたであろうし、わしらは飢えで滅び去っていたであろうよ」。おゝ、神の子どもよ。エホバは今も生きておられる! あなたは今、あなたにとって非常に愛しい者を葬ったばかりである。だが、主はなおも生きておられる。主は決してあなたを裏切らない。あなたの収入は次第に乏しくなるかもしれない。ケリテ川は涸れるかもしれない[I列17:7]。烏たちは最近パンと肉を運んで来ないかもしれない。それでもエホバは生きておられる。そして、ツァレファテにはひとりのやもめが住んでいる。主のしもべの世話を見るという任務を受けるであろうやもめである[I列17:9]。エホバは生きておられる。その目はかすんでおらず、その耳は遠くなっておらず、その腕は短くなっていない。それゆえ、変わることなき神に信頼して、恐れないようにするがいい。マナは、あなたがカナンの地の産物を食べるときまで、天から降り続ける[ヨシ5:12]。

 愛する方々。あなたは、この賜物からイスラエル人が神の知恵をも学んだとは思わないだろうか? たとい彼らがそれを知らないほど鈍感だったとしても、神は彼らに与えることのできた最上の食物を彼らにお与えになった。あの暑い気候においては、もし彼らが絶えず生肉を食べていたとしたら、彼らはしばしば病気にかかっていたであろう。主が彼らの渇望に答えてうずらを許されたとき、その肉が口の中にある間に、彼らは致命的な病に打たれた[民11:33]。彼らにとって生肉は不健全だったのである。この高い所から下されたマナは、燃えるような砂の上、焼けつくような空の下で天幕暮らしをし、諸処を点々と旅している人々にとって最上のものであった。主はこの食物を民に合わせてくださった。それでも彼らは云った。「私たちはこの軽いパンに飽き飽きした」[民21:5 <英欽定訳>]。彼らがこれに与えた名前そのものによって、それが彼らにとってまさに正しい種類の、こなれの良い食物であったことが分かる。神は彼らの食物を、荒野における彼らの状態に合わせてくださった。いかなる医者も、神がそうした状況にあった御民のために用意されたものに等しく知恵ある食餌表を書き上げることはできなかったであろう。

 また神がその知恵をやはり示されたのは、供された量においてであった。それは常に正しい程度にあった。「多く集めた者も余ることはなく」、マナは正しい分量に縮むように思われた。「少なく集めた者も足りないことはなかった」[出16:18]。マナは、この大群衆全員にとって丁度ぴったり十分なだけ膨張し、増えるように思われた。おゝ、神の無限の知恵よ! いかに私はしばしば、秒単位に至るまでの神の敏速さ、寸分違わぬ神の正確さを称賛してきたことか! というのも、神には、大きな間違いがないのと同じくらい、小さな間違いもないからである! 神は、いかなる意味においても、いかなるしかたにおいても、決して過たない。むしろ、その行なわれる一切のことにおいて的を射られる。

 それから、もう一言云えば、イスラエル人は神のいつくしみ深さを学んだに違いない。なぜなら、神は彼らに味気のない食物を供されなかったからである。外典は、聖書として受けとるべきではないが、多くの点でしばしば価値がある。その外典によると、それぞれの人はマナを自分の好みに応じて味わったという。マナには、口がそれ自身の味わいによって賞味できるようにするものがあった。そして、荒野を通じての彼らの行進や、彼らの倦怠によって、しばしばそれは、この上もなく彼らにとって甘い風味となったであろう。それは蜜を入れたせんべいのようであり[出16:31]、決して不味いものではなかった。それは、すでにあなたに告げたように、新鮮な油のように、東方人の口に合わないものでは決してなかった。神が彼らにお与えになったのは乞食の食物や、半端な残りかすや、余った残飯ではなかった。神は云われた。「わたしはあなたがたのために、パンが天から降るようにする」[出16:4]。そして、神はその約束を守られた。天のパンのほんのひとかけらでさえ、味覚にとっては美味だったに違いない。「それで人々は御使いのパンを食べた」、と詩篇作者は語った[詩78:25]。そして、智天使や熾天使の食卓から下りてきたものが悪い食物であったはずがなかった。それは、霊たちが何らかの食物を摂取することがあるとしたら摂取できただろうような軽くて、きよく、天上の、霊的な食物であった。それよりも粗悪な、えてして食物が陥りがちな物質主義の形とはかけ離れたもの、神に似た種族のための、神に似た食物であった。彼らが自らの運命にふさわしい者たちであったとしたら、また、神がこれほど喜んで教えようとしておられたことを学ぶ意欲さえあれば、彼らはそうした種族になれたはずである。

 II. 第二のこととして、愛する方々。《いかに主が、この民を教えるために、この賜物を彼らに対する試験とされたか》に注意するがいい。

 彼らの立場は、多くの点で非常に快適なものであった。彼らは日ごとの糧のために働かなくともよく、ただ出て行って、それを集めるだけでよかった。そこにそれはあった。だが、ここに注目すべき点がある。それは毎日与えられた。彼らは全く何の備蓄も持たなかった。二十年間マナを集めた人は、私がしばしば聞いたことがあるような言葉遣いでこう云ったかもしれない。「私はちっとも進んでいません。私は二十年前と全く同じ所にいます」。あたかも、二十年分年を取り、あわれみを二十年受けてきたことが、ちっとも先に進んでいないかのようにである。だが、マナの備蓄は全くなかった。いかに荒野をあちこち行き巡ろうとも、民がその金銭を預けておける銀行は一軒もなかった。誰かが受けとることのできる配当金のようなものなど全くなかったし、誰ひとり何も貯め込めなかった。各イスラエル人は、その日必要なものを得た。それだけしか受けず、それ以上には全く受けなかった。そして、これが試験であった。彼はこの試験に耐えられただろうか?

 それからまた、彼ら全体には何の備蓄もなく、彼らが少しも裕福にならなかったのと同じく、貪欲になれる機会は何もなかった。というのも、それはあらゆる人に与えられたからである。自分の2つの手を突き出してマナをかき集めようとする者なら誰でも、自分の天幕に帰ってきたときには、自分と、自分の妻と、自分の八人の子どもたちのためのオメル一杯のものを持ち帰ったが、それ以上は何もなかった。ことによると、彼は次の日にはこう考えたかもしれない。できるものならその露[出16:14]が残っている最中の半時間にも一掃すれば、余分な量を集められるだろう、と。だが、それを吟味してみると、自分と家族が食べられるだけのものを正確に得て、それ以上のものはなかった。その残りはみななくなり、蒸発し、必要以上のものは何も残らなかった。そして、彼の貧しい中風の隣人は、自分の手で自分の鉢にごく少ししか集められなかったが、どういうわけか自分が十分に得ていることを見いだした。というのも、神がそれを鉢の中で成長させ、彼らがそれを眺めたとき、そこにはその日の食料としてまさに十分なものがあったからである。

 「おゝ!」、とある人は云うであろう。「私はそれを好むでしょうよ」。よろしい。私も同じ意見である。私はそれを好むであろう。だが、どれだけ長く好んでいるだろうか? おそらく、このイスラエル人たちが好んでいただけの長さであろう。そして、あなたは彼らがしたように不平を鳴らし始めるであろう。ここに神の、彼らに対する試験があった。毎日、そして、何の備蓄もない。あらゆる人が、そして何の貪欲もない。恵みもそれと同じである。神は私たちに必要なだけの恵みを与えてくださる。そして、この場にいるひとりとして、何らかの恵みを蓄えてはいない。おゝ、しかり! 私はある人がこう云うのを聞いたことがある。彼女はあまりにも恵みを有しているため、この数箇月、罪を犯したことがないというのである。何と、何と! 私は何かを嗅いだような気がした。私は何も云わずにいたが、取っておかれた際のマナがどうなったかを思い出し、その主題については話をやめた。あなたがたの中の誰も、自分には必要以上の恵みがあるなどと考えないでほしい。そのようことはないからである。おそらくあなたは、きょうをしのぐに足るだけの恵みは持っているであろう。だが、明日の朝のあなたは、それ以上に、とは云わないが、それと同じくらいの恵みを必要とするであろう。おゝ、しかり。あなたが鉄の金庫を持っていることは知っている。あなたは行って、自分の鍵束を鳴らして云う。「これを見てくれ。私は、これから六週間分の恵みをしまい込んでいるのだ」。もう一度、行くがいい。あなたはその悪臭から一目散に逃げ出すであろう。というのも、あなたは、それだけ多くの高慢をしまい込み、他には何もおさめていなかったからである。私たちは、死ぬ時が来るまで、死ぬための恵みは必要ない。生きている間は、生きるための恵みを持っていることで満足するがいい。愛する方々。あなたは今晩、説教する恵みを必要としていない。座って話を聞く恵みが必要である。ことによると、それには、私が説教するために必要な恵みと同じくくらい大きな恵みが必要かもしれない。だが、あなたは私の恵みを求めてはならない。私もあなたの恵みを求めはしない。あなた自身のマナを食べるがいい。本当にそれを食べるがいい。溜め込んでいてはならない。それは蓄えておくべきものではない。食べられなくてはならない。この、毎日、あらゆる人のため与えられるマナという賜物は、それによって主がイスラエル人を教えられた試験であった。

 あの金曜日の蓄えもそれと同じであった。そのとき、彼らは自分に向かって云った。「私たちは、自分の食物を毎朝集める習慣になっているが、さあ金曜日がやって来るぞ。私たちは二倍のものを集めなくてはならないのだ」。私は実際、一貫性を、つまり、常に同じことを行なうことを好むものである。だが、ここには一週間に一度、二倍そうするようにとの命令がある。ちょっとだけ変わった律法がある。私は組織神学を好んでいる。だが、ここには滑り座席がある。ここには金曜日のための二倍の供給があり、私はその半分を蓄えておかなくてはならない。それで、ある人はそうせよと云われたときに、それを蓄えなかった。また、別の人は、そうするなと告げられたときに、それを蓄えようとした。このようにして、主は彼らを試験し、試された。この、神が私たちに受けさせるその試験は素晴らしいことである。時として私たちは、自分に神への信仰が有り余るほどあると考えることがある。そうしたとき、神はただ私たちに試験を施し、そのような信仰が私たちに全くないことを見いださせるのである。最も壮大な人生は、神に依存する人生である。というのも、それこそ真の独立だからである。もしあなたが完全に神に依存するなら、そのときあなたは独立に達しているのである。神から日々与えられるもののほか何も持たない人には、1つの資産がある。最も救われている人とは、最も持つこと少ない人である。というのも、その人は物事に気を配る悩みから救われているからである。もしその人がずっと神の《摂理》に依存し、信仰が捕えて離さずにいられるとしたら、その人は結局において最も恵まれた人である。あなたは、イスラエル人たちがうらやましいと云った。あゝ、よろしい。そう云って良いであろう。だが、あなたには信仰がなくてはならない。さもないと、うらやましさの種となりえたものは、不満の種となる。この点はここまでにしよう。

 III. 手持ちの時間が相当尽きてきたので、私はただ、時間があれば語ったであろうことについて示唆するにとどめたいと思う。注目してほしいのは、《いかに主がこのマナを用いて、私たちに現世的な事がらについて教えておられるか》である。

 最初に、神は私たちに、私たちの供給が神に依存していることを教えておられる。このマナはみなどこからやって来ただろうか? それはみな神からやって来た。神の子どもよ。あなたの供給すべては神からやって来ざるをえない。それを学ぶがいい。種々の第二原因が何であれ、中間的な源泉が何であれ、あなたが持つことになるすべては、これまであなたが持ってきたすべてがやって来た所、すなわち、神からやって来るであろう。

 次に、私たちの供給は信仰にとって確実であることを学ぶがいい。マナが四十年間途切れなかった以上、主があなたの種々の必要を満たさないこともないであろう。あなたの神は、あなたが神のしもべだとしたら、あなたにあなたの仕着せを与えてくださるであろう。もしあなたが神に仕えるなら、神はあなたの日々の糧食をも与えてくださるであろう。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」[マタ6:33]。自分で肉を切り分ける者たちは、自分の指を切り刻み、皿は空っぽのままであろう。だが、選びの家族全員の大いなる《主人》が自分に代わって切り分けてくださるのを待つ者は、たらふく、しかも最上のものを食べるであろう。「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます」[ピリ4:19]。

 しかし、自分の供給は自分で集め、自分で用意しなくてはならないことをイスラエル人から学ぶがいい。神はマナを天から送られた。だが、人々は毎朝外へ出て、それを集め入れなくてはならなかった。そして、それを集めたときには、それを臼でつくか、ひき臼で挽くかして、これをなべで煮て、パン菓子を作っていた[民11:8]。神は怠惰さの後援者ではない。ご自分の民が働くことを望まれる。そして神の規則はこうである。「働きたくない者は食べるな」[IIテサ3:10]。神が、怠け者である者らに対してしばしば実行された規則である。しかし、愛する方々。私たちは種々の勤勉の機会ゆえに神に感謝する。労働は最初は呪いとしてやって来たとはいえ、神はそれを1つの祝福と変えておられる。

 そしてさらにまた、私たちの供給は私たちを満足させるべきである。というのも、イスラエル人たちは彼らの必要すべてに十分なものを受けたからである。彼らに余分なものは全くなかったが、全く十分なものがあった。彼らには何の贅沢品もなかったが、それでも彼らが考えてみようとしたら、彼らの日々のあわれみは彼らにとって贅沢品となった。おゝ、神が私たちに、現世的な事がらについて神に信頼することを教えてくださればどんなに良いことか!

 IV. さて、私の最後の点として、もうしばらくだけ忍耐してもらいたい。《いかに主はこのマナによって、私たちの霊的な食物について私たちを教えておられるか》。ここでも私はただ示唆を与えるにとどめよう。

 日ごとにあなたや私は、出て行って、私たちの霊的いのちのための食物を探すべきである。あゝ、だが、あなたがたはみな霊的いのちを有しているだろうか? あなたがたの中のある人々は、生きてはいても死んでおり、神なく、キリストから離れているかもしれない。願わくは主があなたを、そのいのちを給う御霊によって生かしてくださるように!

 しかし、もしあなたに霊的いのちがあるとしたら、あなたはそれを養わなくてはならず、神はあなたに天からマナを与えてくださるであろう。すなわち、あなたの魂を養うべきキリストご自身である。キリストこそ、あの、天から下ってきたいのちの《パン》である[ヨハ6:51]。そして、あなたはこの方を養いとしなくてはならない。この霊的な食物を手に入れるために行って勤勉に働くよう心がけるがいい。イスラエル人たちは、遅くならないうちに起き出して、朝ごとに降るマナを集めた。神のことばについて怠け者であってはならない。それを調べるがいい。朝早くから起床して、あなたの聖書を読むがいい。それができなければ、他の時にそうするがいい。聖書を読むというこの幸いな時を、あなたの眠りから盗み出すがいい。勤勉に、また、熱心に主を求めるがいい。というのも、主はこう云っておられるからである。「わたしを早いうちに捜す者は、わたしを見つける」[箴8:17 <英欽定訳>]。

 それから、聖書朗読において示唆したように、このマナは常に露ですっぽり包まれていた。彼らは気を遣ってこれを集めた。というのも、そのとき、それは彼らにとって甘露となったからである。願わくは、主のことばが常にあなたのための露をその上に乗せているように! 批評家は神のことばを取り上げては、太陽がマナに対してしたような扱いを加える。彼は乾いた熱を浴びせかけ、それは蒸発して、なくなってしまう。おゝ、この批評家たち! いかに大量のマナを彼らはことごとく蒸発さててきたことか!

 しかし、神の子どもは、神が啓示しておられることを何1つ失わないように気を遣う。あらゆることばが、その人にとっては貴重である。左様。一点一画すらもがそうである。そして、聖霊の、露でぬらす影響力の下で、その人は常に清新な、いつも今のキリストを集める。そして、見いだすのである。主の肉がまことの食物、主の血がまことの飲み物であることを![ヨハ6:55]

 また、マナは絶えず求めるべきであった。あなたの霊的食物もそうしなくてはならない。去年のマナを糧にして生きようとしてはならない。古びた経験は貧しい食物である。私の知る限り何にもまして悪い料理は、冷えた経験である。あなたは、日ごとに神のみこころのことを悟る必要がある。刻一刻キリストに養われるがいい。というのも、何年も前の食物はあなたにとって大して重要でないだろうからである。絶えず牧草地を歩き回って養われるがいい。あなたがた、主の羊たち。何度も何度も、かの静かな流れに赴き、飲んで、満足するがいい。

 このマナの場合、集める者たちは少量で喜んだ。それは細かくて丸い、コエンドロの種のような、あるいは、白い霜のようなものであった。そのように、神のことばからほんの少しでも得るものがあるなら大いに感謝するがいい。もしあなたが、1つでも新しい思想を、1つでも清新な考えを見いだすなら、それを拾い上げ、オメルの中に入れるがいい。こうした尊い小さなものの非常に多くは、飢えた霊にとってたぐいまれな食物となる。あなたの魂のための食物を少しずつ得るがいい。

 おそらく彼らがどのようにそれを集めなくてはならなかったかはあなたにも想像できよう。彼らは膝をついてそれを得たと思う。というのも、それは常に低いところにあり、砂漠の砂の上に白い霜が広がったのと同じようにあったからである。彼らがみな前かがみになって、それを集めている姿を見るがいい。その大部分は膝まずいて集めていたと思う。それこそ、天的な食物を得る方法である。膝まずき、へりくだりとともに低く身をかがめて集めるがいい。祈り深さによって地面そのものにくっつき、そのコエンドロの種を、否。その天的なマナを集めて、喜びながら帰って行くがいい。

 そして、それは常に即座に食べ尽くされるためのものであった。あなたが天来の約束を得たときにはいつでも、行って、そのことについて祈るがいい。また、すぐさまそれを用いるがいい。ある義務を見てとるときにはいつでも、それを行なうがいい。神のことばのどの1つの部分も役立たずにしておいてはならない。もし神のことばの中にある何かがあなたの精神に感銘を与えたなら、それをあなたの魂そのものの中に入れ、それがあなたのふるまいにおいて実行されるようにするがいい。マナは得るなり食べるがいい。そして、そこから引き出された力を神の栄光のために用いるがいい。

 最後に、イスラエル人たちのように、時としてあなたは二倍の供給を得るであろう。私たちとイスラエル人との間には違いがある。というのも、私たちは普通、その二倍の供給を安息日に得るからである。おゝ、いかに私たちの安息日について神に感謝すべきであろう。その日、主は私たちとともにおられる。すなわち、主はマナが霜の上にあるようにしてくださる。そこで私たちは神の家にやって来ては、私たちのオメルを満杯にして帰宅する! 幸いな安息日よ! それは一週間の中で特筆すべき日となり、私たちは日曜から月曜へ、月曜から木曜へ、そして木曜から再び日曜へと、神に感謝しながら進んで行く。今なお天的なパンが私たちの立ち上る祈りと感謝に答えてくれるからである。

 愛する方々。神があなたを祝福し給わんことを! 願わくは神がそのみことばを、私たちの生きている間の毎日、私たちにとっていやまして甘やかなものとしてくださるように! 願わくは、それを養いとする私たちの食欲が旺盛になるように!

 あなたがた、この天的な食物の風味を一度も知ったことのない人たちについては、今しがた云ったように、もう一度云いたい。願わくは主があなたを、主ご自身のいのちを給う御霊によって生かしてくださるように。イエスのゆえに! アーメン!

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マナからの教訓[了]

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