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今日のためのミカの使信

NO. 2328

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1893年10月1日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1889年8月22日、主日夜


「へりくだってあなたの神とともに歩め」*。――ミカ6:8


 これは律法の本質であり、その霊的側面である。律法の十の戒めは、この節を詳細に述べたものにほかならない。律法は霊的なものであり、思念や意図、情緒、言葉、行動に関わる。だが特に神は心をお求めになる。さて、私たちにとって大きな喜びは、律法が要求することを福音が与えるということである。「キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです」[ロマ10:4]。キリストにあって私たちは律法の要求を満たす。まず、主が私たちのために行なってくださったことによって、それから次に、主が私たちのうちに作り出してくださることによってそうする。主は私たちを、神の律法に従わせてくださる。その御霊によって、私たちの義のゆえにではなく、ご自分の栄光ゆえに、私たちが律法に従順をささげられるようにしてくださる。その従順を、私たちは自力ではささげられなかった。私たちは肉によって無力になっていた[ロマ8:3]。だが、キリストが私たちを強めてくださるとき、肉に従って歩まず御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求は全うされるのである[ロマ8:4]。

 ただキリストに対する信仰を通してのみ、人は公義を行ない、誠実を愛し、へりくだって神とともに歩むことを学ぶ。また、その目的のため私たちを聖めてくださる聖霊の力によってのみ、私たちはこの3つの天来の要求を果たすのである。これらを私たちは自分の願望の中で完璧に果たす。私たちは、そう生きたいと心で憧れている通りに生きられるとしたら、神が聖であるように聖になる[Iペテ1:16]であろう。常に公義を行なおうとするであろう。常に誠実を愛そうとするであろう。常にへりくだって神とともに歩もうとするであろう。このことを行なわせようとして、聖霊は日々私たちを助けてくださる。神のみこころのままに、私たちのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせることによって、そうしてくださる[ピリ2:13]。また、やがて来たるべき、私たちの慕い求めている日に、私たちはこの邪魔なからだから完全に自由にされて、聖所で昼も夜も神に仕え[黙7:15]、絶対的で完璧な従順を神にささげるであろう。というのも、「彼らは御座の前で傷のない者」[黙14:5 <英欽定訳>]だからである。

 今晩、私は、三番目の要求について詳しく語るだけで、全く手一杯ということになるであろう。「へりくだってあなたの神とともに歩め」*。第一に問いたいのは、このへりくだりはいかなる性質のものか、ということであり、第二に、このへりくだりはどこに現われるか、ということである。

 I. 第一に、《このへりくだりは、いかなる性質のものか》。この聖句は、その点で非常に教えに満ちている。

 まず最初に、このへりくだりは、人格のあり方の最高の部分に属している。本日の聖句に先行する部分に注目するがいい。「公義を行ない、誠実を愛し」。かりに、ある人がそうしてきたとしよう。かりに、こうした事がら双方において、その人が天来の基準に達していたとしよう。どうなるだろうか? 何と、そうした後でその人は、へりくだって神とともに歩まなくてはならないのである。たとい私たちが、神が光の中におられるように光の中を歩み、神との交わりを保っているとしても、それでも私たちは非常にへりくだって神の前を歩む必要がある。常にかの血を仰ぎ見て歩む必要がある。というのも、そのときでさえ、御子イエス・キリストの血はすべての罪から私たちをきよめるし、きよめ続けるからである[Iヨハ1:7]。たとい私たちがこれら双方を行なっているとしても、それでも、私たちは役に立たないしもべですと云わなくてはならないし[ルカ17:10]、へりくだって神とともに歩まなくてはならない。私たちは、常に公義を行ない、誠実を愛するという、その完成にまだ達していない。キリストの恵み深い助けによって、ほぼ達しているとしてもである。だが、たとい私たちが自分の前に置かれている理想に到達し、人に対して行なう一切の行為が正しいものとなったとしても、否、それにもまして、あらゆる行為が、自分自身に対する愛と同じくらい強い隣人愛で喜ばしく充満するようになったとしても、その時でさえ、この戒めはやって来るであろう。「へりくだってあなたの神とともに歩め」。

 愛する方々。もしあなたが自分はキリスト者としての恵みの最高点に到達したと考えるようなことがあるとしたら、――私は、あなたが決してそのような考えをいだかないでほしいとほとんど希望するものだが、――だが、かりにあなたがそのように考えるとしたら、私は切に願う。自慢すれすれになるようなことを云うのはやめるがいい。あるいは、あなた自身の達した境地を誇りとしているように見える精神を表わすのはやめるがいい。むしろ、へりくだってあなたの神とともに歩むがいい。私が本気で信ずるところ、人は恵みを有していればいるほど、自分の恵みの欠けを感じるものである。私が、神の御前で完璧であると呼ばれて良いと思ったことのある人々はみな、そうした種類のいかなることをも目立って否定する人々であった。彼らは常に、完璧だなどとされることを全く否認していた。常に神の御前に低くひれ伏していた。そして、人が彼らを称賛せざるをえない場合、彼らはその人からの称賛に赤面した。私の注目してきたところ、彼らは、同輩キリスト者たちの間で尊敬の的となっていると考えられるようなことが少しでもあると、躍起になって自分を卑めるような言葉によって、それを脇にやろうとしてきた。彼らは私たちに向かって、私たちがすべてを知ってはいないのだと告げるか、自分たちのことをそのように考えるべきではないと告げるのだった。そして、その点で私は、いやまさって彼らを賞賛するものである。彼らが自分たちから取りのけた賛辞は、利子をつけて彼らのもとに戻って行く。おゝ、そうした心の者になろうではないか! 最上の人々も、所詮は人間でしかなく、最も輝かしい聖徒たちも、なおも罪人である。彼らのためには、なおも1つの泉が開かれている。だが、よく聞くがいい。それが開かれる場所はソドムとゴモラではなく、その泉はダビデの家とエルサレムの住民のために開かれるのである[ゼカ13:1]。彼らでさえも、その種々の高い特権にもかかわらず、なおもそこで洗い、きよめられ続けるためである。では、これこそ、最高の道徳的、霊的性格とも矛盾しない種類のへりくだりである。否、これは、ペテロが云う通り、そうした性格の衣そのものである。「謙遜を身に着けなさい」[Iペテ5:5]。あたかも、私たちには、神のすべての武具[エペ6:11]を身に着けた後で、そのすべてをおおうため、これを上からかぶる必要があると云うかのようにである。私たちは、その兜が太陽の下できらめくことを欲さないし、真鍮の臑当てを人々の前で輝かせたいとも思わない。むしろ、平服の士官たちのような服装をすることによって、種々の美しさを隠すのである。その方が、結局はそうした美しさをずっと明らかに表わすことになるであろう。

 第二の所見はこうである。ここに述べられたへりくだりには、神との絶えざる交わりが含まれている。注目するがいい。私たちが、へりくだって神とともに歩むよう告げられていることを。へりくだって、神から離れて歩むのでは何の役にも立たない。私の見たことのある、ある人々は、非常に高ぶったしかたでへりくだり、自分の謙遜さに自慢たらたらであった。彼らは、あまりにもへりくだっていたため、神を疑うほど高ぶっていた。彼らはキリストのあわれみを受け入れられないと云った。それほど彼らはへりくだっていた。実は、彼らのへりくだりは悪魔的なものであり、神の御霊から来たへりくだりではなかった。おゝ、否! このへりくだりは私たちを神とともに歩ませる。そして、愛する方々。あなたに思い描きうる最高にして最も真実なへりくだりとは、神とともに歩むことからやって来ざるをえないものではないだろうか? ヨブが何と云ったか思い出すがいい。「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます」[ヨブ42:5-6]。アブラハムが神と親しく語り合い、こう云ってソドムのために訴えたときのことを思い出すがいい。「私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください」[創18:27]。「ちり」――それは彼の性質のもろさを述べていた。「灰」――あたかも彼は、祭壇の廃物ででもあるかのようであった。焼き尽くせなかったもの、神が受けようとされないものである、と。彼は自分のことを、罪ゆえに、炉の中のくず、灰、何の価値も全くない廃棄物のように感じていた。そして、それは彼が神から離れていたからではなく、彼が神の近くにいたからだったのである。あなたは、神から遠ざかれば、好きなだけ大きくなれるが、主のそば近くに行くとき、正しくもこう歌うのである。――

   「御栄光(さかえ)わが目を 打つほどに
    われいや低く 伏しぬべし」。

このことに嘘はない。あなたが高ぶっているか、へりくだっているかは、あなたの交わりという天候を測る計器のようなものである。もしあなたが高く上りつつあるとしたら、神はあなたの評価の中で下がりつつある。バプテスマのヨハネは主イエス・キリストについてこう云った。「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません」[ヨハ3:30]。この2つは一緒に起こらざるをえない。こちらの天秤皿が上がれば、そちらの天秤皿は下がらざるをえない。「へりくだってあなたの神とともに歩め」。思い切って神とともにとどまり、思い切って神をあなたの日々の《友》とするがいい。幕の内側におられるお方のもとに大胆に行き、そのお方と語り合い、そのお方とともに歩むがいい。人が自分の親しい友と歩むように歩むがいい。だが、へりくだって神とともに歩むがいい。もし真実に歩むならあなたはそうするであろう。人が高ぶりながら神とともに歩む、そのようなことを私は思い描けない。――不可能である。人は自分の同胞の腕を取り、自分は隣人と同じくらい善良だと感じる。ことによると、相手よりもすぐれていると感じるかもしれない。だが、人はそのような心持ちのまま神とともに歩くことができない。有限の者が《無限者》とともに歩む! それだけでも、そこにはへりくだりがほのめかされている。だが、罪深い者が《至聖のお方》とともに歩む! これは、私たちをちりの中に叩き込む。

 しかし、次に、このへりくだりには、絶えざる活動が暗示されている。「へりくだってあなたの神とともに歩め」。歩くことは、活発な運動である。6節に見てとれるように、この人々は神の前にひれ伏そうとしていた。「私は何をもって主の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか」。しかし、その答えは、「へりくだってあなたの神の前にひれ伏せ」、ではなく、むしろ、「へりくだってあなたの神とともに歩め」、であった。さて、愛する方々。私たちが非常に活発に物事に携わり、仕事に追われて、次から次へと用事が出来するとき、もし偉大な《主人》が私たちを何か大きな関心事に――もちろん、大きいというのは、私たちにとってでしかないが――従事させてくださる場合、また、私たちが次から次へと働いている場合、私たちはあまりにも容易に自分がしもべにすぎないことを忘れてしまう。何もかも、自分の《主人》のための仕事を行なっているにすぎないこと、主の代理人として取引しているにすぎないことを忘れがちになる。私たちは自分が商社の社長であるかのように考えがちになる。もしも私たちがしばし堅実な考え方をするとしたら、分相応の立場を知り、そのようには考えないはずである。だが、活動の真中にいると、私たちは奉仕に次ぐ奉仕で一杯になってしまい、あまりにもしばしば、自分の適切な水準から離れがちになる。ことによると、私は他の人々を支配しなくてはならないかもしれない。すると、私たちは自分もまた権威の下にある者であることを忘れてしまう。ちっぽな民を治めるちっぽな王様気取りでいることはたやすい。だが、そうであってはならない。あなたは、単に交わりの私室の中でへりくだっていること、自分の聖書を前にしているときにへりくだっていることだけでなく、説教する中でもへりくだっていること、教えるときにもへりくだっていること、人を支配するときにもへりくだっていることを学ばなくてはならない。あなたの行なうあらゆることにおいて、自分に可能な限り多くのことをかかえているときも、へりくだっていることを学ばなくてはならない。朝から晩まで絶えずあれこれの奉仕で追い立てられているときも、なおも自分の分相応の立場にとどまっているがいい。知っての通り、それこそ、マルタが間違った所であった。たくさんの奉仕をかかえることではく、女主人になろうとすることがそれである。彼女は、マルタ夫人であり、この主婦は女王である。だが、マリヤはイエスの足元でしもべの場所にいた。もしマルタの心が、マリヤのからだのあった所にありえたとしたら、そのときは彼女も正しく奉仕していたはずである。願わくは主が私たちをマルタ型マリヤに、あるいは、マリヤ型マルタにしてくださり、私たちが忙しくなるときは常にへりくだって神とともに歩めるようにしてくださるように。

 次に、これはこじつけではないと思うが、私は、このへりくだりは進歩を示していると云いたい。この人は歩くべきであり、それは進歩すること、前進することである。「へりくだって歩め」。私はへりくだりのあまり、今以上に事が行なえないとか、今以上に楽しめないとか、今以上に良い状態になれないと感じるべきではない。人はそれをへりくだりと呼ぶ。だが、それは「た」から始まる四文字の言葉で、最後まで云えば、《怠慢》である。「私には、これこれの人のように信仰に満ち、大胆になり、用いられることはできません」。あなたはへりくだって、じっと座っているよう告げられてはいない。へりくだって神とともに歩めと告げられているのである。先へ進み、前進するがいい。仲間のキリスト者たちを上回ろうという高慢な願望からではなく、より多くの恵みを得れば、もっと尊敬されるだろうという潜在的な期待からでもない。むしろ、ずっと歩み、進み、前進し、成長するがいい。神のすべての尊いもので富まされるがいい。神の満ち満ちた豊かさで満たされるがいい。歩み続け、常に歩むがいい。絶望の中で横倒しになっていてはならない。高い事がらは自分に不可能だと考えるあまり、自棄的にちりの中を転げ回ってはならない。歩むがいい。だが、へりくだって歩むがいい。あなたは、少しでも進歩するとしたら、すぐに見いだすであろう。自分にはへりくだる必要があるということを。私の信ずるところ、人は前進すると、よりへりくだって行き、その前進の一部として、その人はへりくだりの度をますます、ますます、ますます深めていくのである。このことのために、主は私たちの中の多くの者らを試し、このことのために、夜に私たちを訪れ、私たちを懲らしめられる。それは、私たちをいやましてへりくだらせることによって、私たちにより多くの恵みを得る資格を得させ、より高い境地に達させるためである。というのも、「神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです」[Iペテ5:5]。もしあなたが山腹を昇ろうとするとしたら、険しい岩山の間で渇きを覚えるであろう。だが、もし谷間に下ろうとするなら、そこでは赤鹿がぶらつき、何本もの小川が草地の間を流れていて、心ゆくまで水を飲めるであろう。鹿は谷川の流れを慕いあえがないだろうか?[詩42:1] あなたは、そうした流れを慕いあえいでいるだろうか? それは、屈辱の谷を流れている。主が私たちをみなそこに連れて行ってくださるように!

 次に、ここに規定されているへりくだりは、不変の一貫性を暗示している。「へりくだってあなたの神とともに歩め」。時々へりくだるのではなく、常にへりくだってあなたの神とともに歩むことである。もし私たちが時々示すような姿を常に見せているとしたら、いかなるキリスト者となることか! 私はあなたがこう云うのを聞いたことがあると思うし、自分でも同じことを云ってきた。「私は心がばらばらに砕け、私の《主人》の足元で非常に低められたのを感じました」。あなたは、次の日もそうだっただろうか? そして、その翌日も引き続きそうだっただろうか? ごくありがちなのは、私たちがある日は、私たちの《主人》に対する大いなる負債のゆえに、どうかあまり辛く当たらないでくださいと乞い願っているかと思うと、その翌日には、自分の兄弟をつかまえて、その首を絞めている[マタ18:28]ということではないだろうか? 私は、神の民がそのようなことをしたがっているとは云わない。だが、実際、彼らのうちにある霊が彼を導いて、そうすることを考えさせることはありえると感じている。ある日には、あなたの御父の権威を認めて、そのみこころを行なっていながら、別の日には、放蕩息子が家に帰ってきたからというので戸の外に立ち、中に入ることを拒絶するのである[ルカ15:28]。「あなたは私に、友だちと楽しめと云って、子山羊一匹下さったことがありません。私はこれまで裏表のない信仰者でした。だのに私は一度も何の高い喜びも受けたことがありません。それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。ここにいるのは、たったいま救われたばかりの浅ましい罪人だというのに、歓喜に陶酔しています。どうしてこれが正しいことでありえましょうか?」 おゝ、兄息子よ、おゝ、兄息子よ。へりくだってあなたの御父とともに歩むがいい! いかなる状況の下にあってもそうするがいい。たくさんのへりくだりを、1つのつぼの中にしまい込み、それであなたの祈りに香りをつけ、それから外に出て来て、教会の真中で、またこの世において、「閣下」になったり、何らかの非常に偉大な者になったりするのはしごく結構なことである。だが、それでは通用しない。「神の前にへりくだって時々ひれ伏せ」、とは云われていない。むしろ、定常的な、常々のこととして、「へりくだってあなたの神とともに歩め」、と云われているのである。「あなたが否定できない、何らかの意識的な過失の下では葦のように頭を垂れよ」、ではなく、あなたのきよさの輝きの中にあって、また、あなたの聖潔の清浄さの中にあって、それでもあなたの心をへりくだった畏敬の中に保ち、御座の前にひれ伏すことである。

 もう一言だけ云って、この主題のこの部分を後にしよう。ここで規定されているへりくだりには、喜ばしい信頼が含まれている。この聖句をあなたに読み上げさせてほしい。「へりくだって神とともに歩め」。否、否。私たちはこの箇所をそのように切り裂いてはならない。「へりくだってあなたの神とともに歩め」。キリストの恩恵に自分があずかっているかどうか疑うことをへりくだりと考えてはならない。それは不信仰である。神は別の人の神ではあっても、自分の神ではない、などと考えることをへりくだりと思ってはならない。「へりくだってあなたの神とともに歩め」。神があなたの神であることを知り、それを確信し、あなたの《愛する方》に寄りかかって、荒野から上って来る[雅8:5]がいい。あなたが、あなたの《愛する方》のものであり、彼があなたのものであることを疑ってはならない。疑いの影も有してはならない。このほむべき主題について何か疑念があるとしたら、一瞬たりとも安んじてはならない。この方は、あなたにご自分を与えてくださる。決して破られない塩の契約でこの方をあなたのものとして受けとるがいい。また、あなた自身をこの方に与えて、こう云うがいい。「私は、私の《愛する方》のもの。私の《愛する方》は私のもの」*[雅6:3]、と。「へりくだってあなたの神とともに歩め」。何物によっても、その確信から引き離されてはならない。だが、そこにこのへりくだりがやって来る。これはみな恵みから出たことである。これはみな、天来の選びの結果である。それゆえ、へりくだるがいい。あなたがキリストを選んだのではなく、キリストがあなたを選んだのである[ヨハ15:16]。これはみな、贖いの愛の結果である。それで、誇りの入り込む余地は何もない。これはみな御霊のみわざである。

   「栄光(ほまれ)を帰せよ 主の聖名(みな)に
    いかな栄光も 主のものなれば」。

「へりくだってあなたの神とともに歩め」。私は、無価値な者として神の足元に打ち伏して叫ぶ。「なぜ私がこのようにされるのですか? 私は、あなたが私の前に通らせてくださった種々のあわれみのうち、最も小さなものにも値しておりませんのに」。私は、これがこの聖句で規定されたへりくだりだと思う。願わくは神の御霊がそれを私たちの中に作り出してくださるように!

 II. さて今、第二に、ごく手短に多くの点について、私はこの問いに答えなくてはならない。《このへりくだりはどこに現われるのか?》 ここには、長大な務めになりかねないものがある。清教徒であれば、この主題のこの第二の部分について一時間半ほども必要とするであろう。私たちの清教徒の先祖たちは、知っての通り、砂時計によって説教した。彼らの前に置かれていた一時間の砂時計である。そして、時として、彼らは、一時間経って1つの砂時計の砂が尽きると、信徒たちにこう云うのだった。「砂時計をもう一巡させようではないか」。そして、彼らはそれを引っくり返し、もう一時間語り続けた。しかし、私はそうするつもりはない。あなたを飽かせたいとは思わない。あなたをうんざりさせて家に帰すよりらは、切望させながら帰らせたいと思う。では、このへりくだりはどこに現われるのだろうか? それは、生活のあらゆる行為に現われるべきである。私は、あなたがたの中のいかなる人にも、努めてへりくだった様子をせよと助言しはしない。むしろ、へりくだれと云うものである。へりくだって行為すること、人が自分に強いてそうするとき、それは貧弱なしろものである。人が自分のへりくだりについて喋り散らすとき、また、その人が誰に対しても非常にへりくだっているとき、その人は普通、勿体ぶったことを云う偽善者である。へりくだりは心の中になくてはならない。すると、それは、いのちの流れのように、その人の行なうあらゆる行為において、自発的に表に出てくるであろう。

 しかし、いま特に、へりくだってあなたの神とともに歩まなくてはならないのは、あなたの種々の恵みが強くて強壮なとき、また、それらが著しく鮮やかに現われているとき、また、あなたが非常に忍耐強くあったとき、また、あなたが非常に大胆であったとき、また、あなたが非常に祈り深くあったとき、また、聖書がひとりでにその意味をあなたに明らかにしたとき、また、あなたがみことばを調べる中で素晴らしい時を過ごしたとき、そして特に、主に仕える奉仕において主があなたを成功させてくださったとき、また、普通よりも多くの魂がキリストに導かれたとき、また、神がご自分の民の中であなたを指導者とし、御手をあなたの上に置き、こう云ってくださったときである。「あなたのその力で行け」*[士6:14]。そのときには、「へりくだってあなたの神とともに歩め」。悪魔は、あなたが良い説教を語ったときには告げるであろう。ことによると、彼がそう云うときには、あなたは良い説教を語らなかったのかもしれない。彼は途方もない偽り者だからである。だが、あなたは、神がお喜びにならないような説教について素晴らしく喜びながら帰宅することも、神が祝福しようとされる説教について素晴らしく謙虚にされながら帰宅することもありえる。しかし、悪い者があなたを誇らせようと誘惑するものが本当にあるように思われるときには、この言葉を聞くがいい。「へりくだってあなたの神とともに歩め」。

 次に、あなたに非常に多くのなすべき働きがあり、主があなたをそれに召しておられるときには、それに着手する前に、へりくだって神とともに歩むがいい。どのようにしてですか、とあなたは問うだろうか? 自分がそれには全く不相応だと感じることによってである。――というのも、あなただけでは不相応だからである。――また、自分には何の力もないと感じることによってである。あなたには何の力もないからである。あなたが弱いとき、あなたの弱さを認めることによって、あなたは強く成長するであろう。あなたの神に強くもたらかかり、祈りによって神に叫ぶがいい。あなた自身の口を開くのではなく、あなたの心から祈るがいい。「私のくちびるを開いてください。そうすれば、私の口は、あなたの誉れを告げるでしょう」[詩51:15]。全く神の御霊のものとなろうとし、自分を明け渡して、御霊の働きを受けるがいい。それは、あなたが他の人々に働きを及ぼせるようになるためである。おゝ、自力で語った説教と、聖霊の力によって語った説教との間に何という違いがあることか! たといあなたがその違いを感じていないとしても、私の兄弟よ。あなたの信徒たちがそれをすぐに見つけ出すであろう。

   「おゝ、無にならば、無に!
    御足のもとに ひれ伏すのみに!」

そのように、奉仕においてへりくだって神とともに歩むときこそ、神が私たちを満たし、私たちを強くしてくださるのである。

 次に、あなたの一切の目当てにおいて、へりくだって神とともに歩むがいい。あなたが何かを求めているとき、何があなたの動機かに気を配るがいい。たといそれが最上のことであっても、ただ神のためだけにそれを求めるがいい。もしある男子が、あるいは、ある女子が《日曜学校》で働こうとする場合、あるいは、もしも誰かが野外で、または、神の家で説教する場合、大物になろうという目的からそうするとしたら、また、非常に賞賛に値する熱心な兄弟か姉妹であると思われたいと期待してそうするとしたら、この言葉をあなたの耳に突き刺すがいい。「へりくだってあなたの神とともに歩め」。エレミヤがバルクに語った1つの言葉があるが、それを時として私たちも云い聞かされる必要がある。「あなたは、自分のために大きなことを求めるのか。求めるな」[エレ45:5]。あなたがた、《学校》の青年たち。大きな場所ばかり漁り回ってはならない。いつでも喜んで小さな場所へ行き、貧しい人々に福音を宣べ伝えるがいい。主があなたを最も卑しい貧民窟へ遣わされるとしても、決していやがってはならない。むしろ行くがいい。そして、常にこのことをあなたの目当てとするがいい。「私は自分のために何も大きなことは求めません。ただ一切のことの中で最大のことを求めます。神の栄光を現わすことを」。「へりくだってあなたの神とともに歩め」。もしもあなたが喜んで低く下るとしたら、あなたは、しかるべき時に引き上げられる種類の人である。キリストの真の《教会》においては、頂上への道は下り階段なのである。自らを沈めて最高の場所へ至るがいい。私がこのことを云うのは、沈むことにおいてさえ、あなたが上ることを考えて良いからではない。ただあなたの主の栄光についてのみ考えるがいい。「へりくだってあなたの神とともに歩め」。

 へりくだって神とともに歩むのは、神のみことばを学ぶ際にも、神の真理を信ずる際にも必要である。近頃の多くの人々は、聖書の批評家になっている。聖書は縛られて彼らの法廷に立っている。否、それより悪い。彼らの解剖台の上に転がされて、切開されている。そして、彼らは聖書に対して何の礼儀正しさも持ち合わせていない。その心臓そのものを抉り取り、その最も繊細な部位をばらばらに切り離そうとする。あの高貴な雅歌であれ、あの愛された使徒の福音書であれ、黙示録であれ、彼らの目には神聖ではない。彼らは何の物怖じもしない。彼らの円刃刀、彼らの小刀は何もかも切り開く。彼らは、聖書がいかにあるべきかの判定者であり、聖書はその王座から退位させられている。神よ、こうした悪しき精神から私たちを救い給え! 私は、聖書の中で常に神の足元に座りたいと願う。冒頭の頁から最後の頁に至るまで、その中にいかなる種類の誤りがあることをも信じない。自然科学や物理科学についてであれ、歴史やその他いかなることについてであれ関係ない。私は聖書が語るいかなることも、こだわりなく信じ、受け入れ、それを神のことばと信じるにやぶさかではない。というのも、もし聖書がことごとく真実でないとしたら、私にとってそれは一銭の価値もないからである。それは、真実と偽りをより分けることができるほど賢い人にとっては取り柄があるかもしれない。だが、私は愚か者すぎてそのようなことができない。もし私がここに無謬の案内人を有していないとしたら、私は即座に自分で自分の案内人になるであろう。というのも、結局そうせざるをえないからである。私は、ひっきりなしに自分の案内人のへまを訂正してやらなくてはならなくなるであろう。だが、私にそのような能力はないため、案内人など全くいなかった場合よりも難渋することになる。《理性》よ、腰を下ろして、《信仰》を立ち上がらせるがいい。主がそう仰せになったとしたら、すべての人を偽り者としても、神を真実な方であるとすべきである[ロマ3:4]。科学が聖書と矛盾するとしたら、科学にとってはお生憎様である。聖書は真実である。人々の種々の理論がいかにあれ関係ない。「あゝ!」、とあなたは云うであろう。「あなたは、時代遅れの旧弊な頑固者ですよ」。しかり。その通りである。私は、あなたが私のために選んで述べるいかなる褒め言葉をも否定しない。そして私は、このほむべき《書》とともに立ちも倒れもするであろう。これこそ宗教改革の強大な武器であった。これは教皇制を打った。それで私は、誰がこれを投げ捨てようとも、そうするつもりはない。静かに立っているがいい。私の兄弟よ。そして、主の御声に耳を傾け、神の真理に関して、「へりくだってあなたの神とともに歩め」。

 次にへりくだって神とともに歩むことは、受けた数々のあわれみについて必要である。あなたは少し前に病気をしていたが、今は快方に向かいつつある。何听でも持ち上げられるような気分がするからといって、高ぶりの心を起こしてはならない。あなたの仕事は順調に進みつつある。今のあなたは、かつてこの場に来るときに羽織っていたよりも上等の外套を着ている。だが、自分のことを力ある立派な紳士と考え始めてはならない。今の自分は非常に大層な社会に入り込んでいる、とあなたは云うであろう。だが、主の貧者たちとともに祈祷会にやって来ること、新しい外套など何日も着たことのない人々の隣席に座ることを恥じてはならない。「へりくだってあなたの神とともに歩め」。さもないと、神はあなたの高慢の鼻をへし折り、あなたを以前の貧しさの中に舞い戻らせなさるかもしれない。そのとき、あなたは自分の愚かさについて何と自分に向かって云うだろうか?

 次にへりくだって神とともに歩むことは大きな試練の下で必要である。あなたが非常に低められるとき、とげのついた棒[使26:14]を蹴ってはならない。波また波がやって来るとき、愚痴を云い出してはならない。それは高慢である。つぶやかずに、頭を低くするがいい。云うがいい。「主よ。たといあなたが私を打ち据えるとしても、私はあなたが私の上に置かれる何倍ものものに値しています。あなたは私を私の罪に応じて扱ってはおられません。私はこの懲らしめを受け入れます」、と。子どもが取り去られようと、妻があなたの胸から取られようと、夫が一家の頭から取られようと、逆らい立つ精神を起こしてはならない。おゝ、否。こう云うがいい。「その方は主だ。主がみこころにかなうことをなさいますように」[Iサム3:18]。

 そして次に、へりくだって神とともに歩むべきなのは、あなたの静思の時においてである。あなたの私室における、あなた自身と神との間においてである。あなたは聖書を読むだろうか? へりくだって読むがいい。あなたは祈るだろうか? へりくだって祈るがいい。あなたは歌うだろうか? 喜ばしく、だが、へりくだって歌うがいい。あなたの神とあなた自身が一緒にいて、他に誰もいないときには、心を配るがいい。そこであなたが神に、あなたのへりくだった心を示し、それ以上ないほどのへりくだりとともにそうするように。

 それから次に、あなた自身とあなたの隣人たちとの間において、へりくだって歩むがいい。首席聖歌隊指揮者となることを求めてはならない。教会の中の第一人者になろうと願ってはならない。謙虚にしているがいい。教会内の最上の人とは、あらゆる人がその長靴の泥をなすりつける玄関の靴拭いに喜んでなろうとする人である。神の栄光が現わされる限り、自分に何が起きようと全く気にしない兄弟である。私は兄弟たちがこう云うのを聞いたことがある。「よろしい。ですが、人は自分の尊厳のために立ち上がらなくてはなりませんよ」。私は、自分の尊厳などとうの昔になくしてしまったし、それを探し出すだけの値打ちがあるなどと思ったことは一度もない。牧師の尊厳や、教役者の尊厳について云えば、もし私たちが何の人格の尊厳も持っていないとしたら、もう一方は襤褸切れである。私たちは、神の《教会》の中で地位を占めるためには、喜んで末席に着くように努めなくてはならない。そして、もし私たちがそうするなら、私の兄弟たちは、じきに気を遣って私たちに、「どうぞもっと上席にお進みください」、と云ってくれるであろう[ルカ14:10]。弱いキリスト者たち、ひ弱なキリスト者たちを扱う際には、叱りつけてばかりいてはならない。思い出すがいい。たといあなたが今は強くとも、たちまちあなたも、兄弟たちのように弱くなりかねないことを。

 また、罪人たちを扱う際にも、「へりくだってあなたの神とともに歩め」。まるで彼らを愛するあまり、距離が眺めに魅力を添えるかのように、遠く離れた所に立っていてはならない。あなたは時として、こう思ってはいないだろうか? もしも手近に火ばさみがあるなら、私たちは彼らを燃える火の中から取り出しても良いが、もし私たち自身の優美な指がその燃えさしによって汚れてしまうとしたら、そうはしたくない、と。あゝ、愛する方々。私たちは一切の高尚な場所から下りて来なくてはならない。そして、失われた者に対する深くて優しい憐れみを感じなくてはならない。そして、へりくだって神とともに歩まなくてはならない!

 さて、あなたがたの種々の環境についてこの主題をすべて詳しく眺めていく時間はない。もしあなたが貧しければ、もしあなたが世に埋もれていれば、より高い場所を切望してはならない。へりくだってあなたの神とともに歩み、神があなたにお与えになるものを受け取るがいい。後ろを振り返り、神の一切のあわれみを喜ぶがいい。また、あなたの一切のつまずきを思い起こし、へりくだって歩むがいい。前方を仰ぎ見て、歓喜とともに未来を予期するがいい。だが、自分がこれからいかに偉大な者となるかを高ぶって想像してはならない。「へりくだってあなたの神とともに歩め」。聖なる事がらに関するあなたの思いのすべてにおいて、へりくだるがいい。神について思い巡らすことによって、あなたは身を低く屈めるべきである。キリストについて思い巡らすことによって、主の御足元に連れ来たらされるべきである。聖霊について思い巡らすことによって、あなたは御霊を悲しませてきたことを嘆くべきである。契約のあらゆる祝福について思い巡らすことによって、あなたはいかなる特権がこれまでやって来たかと驚くべきである。天国について思い巡らすことによって、あなたは自分が熾天使たちの間にいることになることに驚嘆すべきである。地獄について思い巡らすことによって、あなたはへりくだらされるべきである。――

   「天(あま)つ恵みの なかりせば
    凄(むご)き運命(さだめ)は 汝れにあらまし」。

おゝ、兄弟たち。願わくは主が私たちを助けて、へりくだって神とともに歩ませてくださるように! この助けによって私たちは正しく保たれるであろう。真のへりくだりとは、自分を卑下することではなく、自分を正しく考えることである。自分が本当はいかなる者であるかを見つけ出したとき、あなたはへりくだることであろう。というのも、あなたは誇るべき何者でもないからである。へりくだることによって、あなたは安全になるであろう。へりくだることによって、あなたは幸いになるであろう。へりくだることによって、あなたが寝床に就くとき心の中には音楽が奏でられるであろう。地上でへりくだることによって、あなたはじきにあなたの《主人》に似た姿で目覚めることであろう。

 主がこの言葉を祝福し給わんことを。イエスのゆえに! アーメン。

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今日のためのミカの使信[了]


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