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《小羊》について行く者たち

NO. 2324

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1893年9月3日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1889年8月4日、主日夜


「彼らは、小羊が行く所には、どこにでもついて行く。彼らは、神および小羊にささげられる初穂として、人々の中から贖われたのである。彼らの口には偽りがなかった。彼らは傷のない者である」。――黙14:4、5


 天にいる聖徒たちがいかなる者であろうとも、彼らは地上でその存在を始めた。疑いもなく、来たるべき世では人格が完璧なものとなる。だが、その人格は地上で形作られなくてはならない。来世において、真の意味における変化は何もないであろう。木は倒れた場所にそのままにある[伝11:3]。不潔な者は、やはり不潔なままであろうし、聖い者はやはり聖いままであろう。私が今晩あなたに語りたいと思うのは、この《小羊》を取り囲んでいる人々についてである。《小羊》とともにいて、そのご栄光の照り輝きに浴しながら、その誉れを歌っている人々についてである。私は云うが、こうした人々が天上で現わしている姿は、ある程度まで地上で現わしていたものであった。栄光のいのちは、恵みのいのちである。人々が天で有しているいのちは、地上で新生したとき彼らのもとにやって来る。彼らは、新しく生まれるとき、天のために生まれる。ということは、彼らは、永遠の代々にわたって生き続けるいのちを受けたのである。もしあなたが地上でそのいのちを有していなければ、決してそれを有することはないであろう。もしあなたが罪の中で死んでいる者[エペ2:1]のまま死ぬとしたら、あなたは永遠に死者の住まいしか得ないであろう。「そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません」[マコ9:48]。きょうだけが、私たちが人格を形作るべき時なのである。地上は、種々の楽器の大いなる製造所である。下界で、それらは調律され、整えられる。天上で、彼らはそれらを奏でる。だが、彼らが天でそれらを奏でるためには、地上でそれらが形作られ、地上で調律されていることが必須である。

 私の講話の主題は、第一に、死後キリストとともにいることになる人々の人格のあらましを調べてみることである。それから第二に、栄光の中でキリストとともにいる聖徒たちという完璧な絵を熟視することである。それは、やがて私たちも、主がよしと見られるときに行くと思いたい所である。

 これらの節が、天にいる聖徒たち全員を描写しているかどうかは分からない。もし描写しているとしたら、あなたは彼らのようにならない限り、決して彼らのひとりとなることはできないであろう。しかしながら、もしこうした節が描写しているのが選民中の選民――天における腹心中の腹心――であるとしたら、また、キリストのお付きの者たち、主を絶えず取り巻く不滅の者たち、主の身の回りに最も近くいて、最も神々しく主に似ている者たちであるとしたら、また、一種の天空の貴族、天の貴人たちであるとしたら、――そして、彼らが初穂である一方、残りの義人たちの方は後で刈り入れられた収穫とみなせることからして、私にはそうであると思われるが、――もしこうした言葉が描写しているのが何か特別の聖徒たちだとしたら、私たちは彼らのようになることを求めるべきである。私は、神の最も輝かしい星々のひとりになろうという聖なる大望を涵養すべきである。なぜ上に召されている私たちが、最も高い栄冠[ピリ3:14]へと達することがあってならないだろうか? もし天上の贖われた民に何か際立った特質があるとしたら、その基準に達することは私たちの熱心な願いであるべきではないだろうか?

 I. それで、第一に、ここには《この幸いな人々が地上にいる間の人格のあらまし》がある。

 そして、最初に注意したいのは、彼らが地上にいる間、犠牲の教理を固守しているということである。「彼らは、小羊が行く所には、どこにでもついて行く」。信仰を告白するキリスト者たちの一部は、キリストの模範については大いに語るが、その贖罪の血の効力については否定する。彼らは、天国にいることになる人々とは違う。ある人々はキリストの哲学は賛美する。主のあらゆる倫理的な教えは、大いに彼らの趣味に合っている。だが、主が人間の咎ゆえに犠牲としてささげられた《身代わり》であられることについては、ついて行けない。ならば結構。そうした人々は天国に入ることができない。というのも、「彼らは、小羊が行く所には、どこにでもついて行く」からである。よく聞くがいい。彼らがついて行くのは、ただのキリストではなく、神の過越の《小羊》としてのキリスト[Iコリ5:7]である。世の始まる前からほふられていた神の《小羊》としてのキリスト[Iペテ1:19-20]、世の罪を取り除く神の《小羊》としてのキリスト[ヨハ1:29]である。あなたが犠牲としてのキリストを拒絶するなら、この幸いな数にはいることはできない。私としては、また、あなたとしてもそうだと思うが、「私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません!」[ガラ6:14] キリストの血を抜きにしたキリスト教は、死んだキリスト教である。それは、自らにいのちを与えるものを何も有していない。「血はいのちだからである」[申12:23]。もしあなたが犠牲の教理を取り去るなら、キリスト教の核心と、心臓と、真髄と、精髄を取り去ってしまったことになる。犬にやる骨は残るが、不滅の霊のための食物は残っていない。誰かが救われることになるとしたら、その人は何よりも真っ先にイエス・キリストを信じる必要がある。世の罪を取り除く神の《小羊》を信じる必要がある。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」[ヨハ3:16]。地の果てのすべての者よ。このお方を仰ぎ見て、仰ぎ見て、仰ぎ見て、救われよ。この方は神である。血を流し給う《救い主》である。この方が神である。ほかにはいない[イザ45:22]。願わくは、愛する方々。あなたがた全員についてこう云えるように。あなたは《小羊》に、その贖罪の犠牲を固守することによって、ついて行った、と!

 多くの人々は、激しい迫害をもものともせずに、このように《小羊》について行った。あの勇敢な婦人、アン・アスキューを思い出すがいい。彼らが彼女を拷問し、その手足すべてを脱臼させ、そのことによって、その優美で繊細なからだの至る所を痛めつけたとき、それでも彼女は自分の独房の石の床の上に座り、なおもキリストの犠牲を守り抜いた。彼女に、その思いを書き記す機会があったとき、彼女はこの奇抜な詩を作った。――

   「われは欲さぬ 女なり
    潮におろすを わが錨。
    いかな霧雨 立ち込めど
    わが大船に 揺るぎなし」。

彼女にとって、カトリックの司祭たちから苦しめられ、拷問台の上で八つ裂きにされることなど単なる霧雨としか考えられず、そのようなもののため自分の錨を下ろす価値はないとした。彼女は五十人の司祭の手にも負えなかった。願わくは神がこのような男女の集団を起こしてくださるように! 悪魔はほとんどの人々を骨抜きにしているように思われる。願わくは私たちが自分が本当は知っていることを知り始め、自分が本当は信じていることを信じ始め、自分の足をしっかと踏みしめて、こう云い始めるように。「神の助けがある限り、私は私の神を捨てることも、その真理から離れ去ることもしません」、と。あなたも、ヴォルムスの帝国議会に立っていたときのマルチン・ルターを覚えているであろう。彼は、自分の主張を撤回するように命じられたとき、自分の云うべきことを云い、こうしめくくったのである。「われここに立つ。他に何もなすあたわず。神よ、われを助け給え」。そして、このようにして、自分の天来の主の助けを祈念しつつ、彼は、《いと高き方》のみことばを一言でも否認するよりは、あるいは、自分の受けた光に背いて罪を犯すくらいよりは、自分のからだを必要ならば火焔にも明け渡そうとしたのである。

 そして、こうした人々について次に明らかなのは、彼らが《小羊》について行き、実際的にキリストの模範に習おうとしていたということである。というのも、こう書かれているからである。「彼らは、小羊が行く所には、どこにでもついて行く」。彼らは主を信じて、このようにする人々であった。――

   「御足の踏みし あとをばしるし
    その熱心(みおもい)を 胸にやどして
    受肉(ひとみ)の神に つき従いぬ、
    約束(みこと)の安息(やすき) かくあらば」。

キリストとともにいたければ、キリストに似ていなくてはならない。もしあなたが本当にイエスにより頼んでいるとしたら、イエスはあなたを別の者にしてくださるであろう。あなたの中から、聖潔とは正反対の種々の悪い傾向とよこしまな性癖を取り除いてくださるであろう。みこころのままに、あなたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるであろう[ピリ2:13]。そして、あなたにとって最高の聖潔は、キリストに似た者となることである。あなたが達することのできるだろう最高に気高い人格は、《小羊》が行く所どこにでもついて行くことである。神への従順においても、人への愛においても、自己犠牲においても、謙遜においても、優しさにおいても、愛においてもそうすることである。あなたは、主が行く所には、どこにでもついて行き、主が行なわれたことを行なわなくてはならない。あなたの立場上、そうすることがあなたにふさわしい限りにおいてそうしなくてはならない。つまり、あなたは主が神として行なったことはできないが、主が人として行なわれたことはできる。主があなたに残された足跡を踏んで行くようにするがいい。完全にキリストに一致することを目指すがいい。そして、そこに達することができない所では、自分のあるべき姿からはるかに下回っていることに注意するがいい。神は、あなたがキリストと似ることを意図しておられる。ある程度まであなたが今それを有していない限り、決して主とともにいることにならないであろう。というのも、天上でキリストとともにいる者たちは、下界でキリストに似た者とされた人々だからである。このことをきわめて明確に注意するがいい。「彼らは、小羊が行く所には、どこにでもついて行く」。

 愛する方々。あなたはキリストを努めてあなたの模範とみなそうとするだろうか? 主の御名を取り上げておいて、後で主のご人格に泥を塗ってはならない。あなたがたの間には、あなたの《主人》と非常によく似ている人々がいる。あなたがたは教会の喜びである。諸教会の間には、キリストの御名を帯びていながら、キリストには似ていない者たちがいる。私の尊ぶべき前任者リッポン博士は、自分の教会について、そこには英国の中で最高の人々の何人かがいると云うのを常にしていた。それから、声をひそめてこうつけ足すのだった。「そして最悪の人々の何人かも」、と。残念ながら、私も同じことを云わなくてはならないのではないかと思う。だが、そう云わなくてはならないことを非常に遺憾に思う。この世で最悪の人々とは、最も大きな告白をし、最も少ししか行なわない人々である。そうした不幸な人数のひとりになってはならない。むしろ、私は切に願う。ぜひとも、神の祝福により、またその御霊の助けにより、少なくとも努力する者となるがいい。「小羊が行く所には、どこにでもついて行く」人々のひとりとなることを。

 さて、この人々の素描では、このことにも注意するがいい。彼らは個別的な救済を認めていた。「彼らは……人々の中から贖われたのである」。キリストが彼らのために有していたことは、主が他の人々のためには行なわれなかったことであった。彼らは「人々の中で」贖われたのではなく、「人々の中から」贖われたのである。彼らはキリストの犠牲の個別性を認めていた。例えば、このような箇所を読んで、その意味を理解できた。「キリストは教会を愛し、教会のために」、ご自分の教会のために、ご自分のからだのために、「ご自身をささげられた」*[エペ5:25]。「彼らは……人々の中から贖われたのである」。さあ、愛する方々。あなたはこの人々の集団に属しているだろうか? 神の御霊の力により、また、あの尊い血の功績にもよって、人類の残りの中から取り出された人々に属しているだろうか? あなたは、自分が、他の人々とは違って、血によってしるしをつけられていると感じるだろうか? 主がこの世のものでないように[ヨハ17:16]、この世のものではない人々に属しているだろうか? あなたは、これからは、一般の大衆のひとりではなく、買い取られ、あの贖いの代価を払われた者となるだろうか? 《贖い主》の血管と心臓の中に見いだされた代価を。また、あなたはそのように贖われたために、もはや人類の大多数のひとりではなく、取り出され、召し出され、選ばれた者となっているだろうか? 「もはや自分自身のものではなく、代価を払って買い取られた」*[Iコリ6:19-20]者となっているだろうか? こうした人々こそ、特別に贖われた者として、死後キリストとともにいることになる人々なのである。

 そして、見ると分かるように、彼らは、個別的な救済を認めたとき、神と《小羊》とに自分を完全に明け渡した。「彼らは、神および小羊にささげられる初穂として、人々の中から贖われたのである」。稲穂が熟しつつある頃のある日、ひとりの人が畑に下り、ここで一本の穂を、そこで一握りの穂を、別のところでもう一握りの穂を引き抜きながら、畑の中を歩いて行った。そして、あちこちで穂を集めて、束にするに足るだけにすると、それを縛り上げ、神の宮に持って行き、ささげ物として主に供える。自分のすべての収穫は神のおかげであるというしるしとしてである。それでその人は、最初の穂を神へのいけにえとして持ってきたのである。さて、愛する方々。神の御霊はあなたを、人類の残りから引き抜いてくれただろうか? また、あなたは感じているだろうか? 今や自分がキリストに属していること、神に属していること、人類の大多数とともに大いなる断罪のため集められはしないはずであること、むしろ、神にささげられており、全く神に属していることを感じているだろうか? これは私にとって語るのはごく容易なことである。だが、嘘ではない。これを実行に移すのは決して容易ではない。私の見ている何人かの人々は、神に属していると告白してはいるが、他の誰かれ変わりなく金銭を儲けるために生きている。この世と同じように自分の利益を図るために生きている。そして、彼らとこの世の人々との間に何か違いを見てとろうするとき、両眼に顕微鏡をはめていてさえ、それは困難であろう。こういうことでは通用しない。「それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ」[IIコリ6:17]。もしあなたが神にささげられる初穂であるなら、そうするがいい。もしあなたが自分自身に属しているなら、自分自身に仕えるがいい。だが、もしキリストの贖いによって、あなたが自分のものではなく、代価を払って買い取られている[Iコリ6:20]としたら、《王》ご自身のものである者、また、神に仕えなくてはならない者であるかのように生きるがいい。自分の一挙手一投足が神の栄光のためとなり、キリスト・イエスをほめたたえるものとならない限り満足できないかのように生きるがいい。さて、これは、私たち、真に主のものである者たち全員が、あらまし有していなくてはならないことである。おゝ、この素描が適切なものとなり、私たちがいやまさって神と《小羊》のためにささげられている初穂となれるとしたらどんなに良いことか!

 私はあなたをもう一歩先へ進めなくてはならない。キリストとともにいることになり、キリストと最も間近にいることになるこの人々は、偽りから自由にされた人々である。「彼らの口には偽りがなかった」。兄弟たち。もし私たちがキリスト者であると告白しているとしたら、私たちはあらゆる悪知恵、ごまかし、二心、また、その類のものと縁を切っていなくてはならない。キリスト者である人は腹蔵のない人、言葉に裏の意味のない人であるべきである。私の知る限り、キリスト者であると告白している人に対して持ち出される猜疑として最悪のものは、その人が腹黒ではないかということである。私たちにとっては、白痴のように単純である方が、偽善者のように奸知に長けているよりも良い。たといその奸知によって私たちが人類を支配する最上層の者になるとしても関係ない。キリスト者である人は、嘘をつくことに目もくれるべきではない。大言壮語や、言を左右にすることは、その人の唇に無縁であるべきである。「彼らの口には偽りがなかった」。主イエス・キリストは、平明な真理の大いなる語り手であられた。そして、主が身近に置き、天でその個人的なお付きの者にしようとお選びになる人々は、やはり欺きからも自由にされていなくてはならない。多くの過ちがあり、多くの弱さがあっても、それでも、愛する方々。聖徒たちは偽りからは自由にされている。彼らは、その過ちはいかにあれ、真実である。自分自身を見つめて、果たしてそう云えるかどうか見てみるがいい。私が私自身の魂を見つめようとするように、あなたもあなたの魂を見つめるよう私は命じる。

 それから、さらに、彼らは傷がないと云われている。彼らは神の御座の前で傷のない者である。「おゝ!」、とある人は云うであろう。「私は傷のない者ではありません」。しかり。だが、もしあなたが本当に主の民のひとりだとしたら、そうした人格のあらましがあなたの中にあるのである。あなたはすでに多くの傷を取り除いており、さらに多くの傷を取り除くことになるであろう。あなたは、まだ残っているものについて嘆いており、一切の罪が打ち破られるまで決して安心しないであろう。愛する方々。そうではないだろうか? 聖徒たちは、単に信義を重んじる人であるだけでなく、聖潔の人でもある。私たちは、自分のうちにある、すでに知られたいかなる罪をも大目に見ないであろう。誘惑によって、あるいは、生来の罪によって、何らかの傷がつくときには常に不幸せに感じる。ちりの中にひれ伏して、神の恵みを叫び求める。このような罪を二度と犯さないように願い求める。しかし、神の民は結局は責められる所のない人々である。もしあなたが、きよく正しい人格者を見いだしたければ、それは《小羊》について行く人々の間でなくてどこであろう? あなたや私が知っている多くのキリスト教信徒たちは、非の打ち所のない生活をしている。彼らが完全に何の傷もないとは云わないが、それでも、神の恵みが彼らの内側で働いているため、私たちは安心して彼らを模範とみなし、彼らが行なっている通りに行なってかまわない。古の時代もそうであったし、今もそうである。そして、あなたの人格が、あなたの子どもたちが安全に真似できるようなものでない限り、また、あなたのしもべたちがあなたの足跡を踏んで行けるのでない限り、また、あなたの隣人たちがあなたの行為の通りに行なっても間違いを犯さないというのでない限り、いかにしてあなたはイエスがおられる所にいることを希望できるだろうか? イエス・キリストは罪人たちを受け入れるが、彼らを聖徒にされる。福音は大きな病院を開くが、それは病人たちがそこに横たわって病気のままでいるためではなく、そこで彼らが健康を回復し、強壮にされるためである。キリストを信じる者は救われる。救いには多くの意味があるが、その1つは、罪の力から救われて、汚れた不敬虔な生活に背を向け、きよさと正直さと廉直の生活へ向かわされるということである。今晩、あなたがたの中のいかなる人も、「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」[ガラ6:7]。もしあなたにキリストに似た所がないとしたら、また、もしここまで私が描き出そうとしてきたことの、少なくとも素描すらないとしたら、確かにあなたは、イエスがおられる所に永遠にいることになる人々のひとりではないに違いない。私は、ある画家がその油蝋画棒で絵を描いているのを見たことがある。彼は、一片の木炭を取ると、自分がこれから描いていこうとしているものの当たりをつけた。残念ながら、それが地上で私たちになされていることについて、せいぜい云えることでないかと思う。そこには、木炭で輪郭が取られている。一切の美しい描線と、人物の栄光のすべては、私たちが恵みとキリストの似姿において成長していくにつれて据えられていくことになる。しかし、少なくとも、素描はなくてはならない。もしあなたがそれを有していないとしたら、へりくだりつつイエスの足元に来て、祈るがいい。主があなたの内側で、その良い働きを始めてくださるようにと。いったんその働きが始まれば、主はそれを行ない続け、ご自分の現われの日に完成させてくださる[ピリ1:4]であろう。

 ここまでが、地上にいる間の聖徒たちの人格のあらましである。

 II. さて、ほんのしばしの間、《天におけるこの完璧な絵の瞥見》をあなたに示させてほしい。私はその絵そのものを示すことはできない。それは栄光の中にある天上の画廊にあり、それを見るには上へ行かなくてはならないのである。私はただ、その絵が仕上がるときには、どのようなものとなるかという私の考えしかあなたに伝えられない。

 よろしい。最初に、キリストとともにいる者たちは、主との完璧な交わりを楽しんでいる。天上では、彼らは「小羊が行く所には、どこにでもついて行く」。彼らは常に主とともにいる。いくつかの宮廷では、何人かの若い貴公子たちが選ばれて、その王の供をする。王がどこへ行こうと、彼らもついて行くのだった。宮廷のある所に、彼らの住まいもあった。彼らの唯一の務めは、王の顔を見ていて、王の近くにとどまることであった。それこそ、私が語っている栄化された者たちの務めである。あなたや私が、私たちの栄光に富む《王》との、この完璧な交わりを楽しむ日は、いつ訪れるだろうか? そのとき私たちは、決して主から離れることなく、決して主の愛を疑わず、決して主に対する愛情が冷えなくなり、むしろ、こうなるのである。――

   「永久(とわ)に 主と在り!」

   あなたは、この節について行けるだろうか?

   「アーメン! かくあれ!
    死よりのいのち 一語(ここ)にあらん、
    『こは 不滅なり』」!

あなたがたの中のある人々の愛しい愛児たちは、その母を追い抜いて、今しもこの至福を楽しんでいる。私たちの中の他の者たちには、私たちにとって非常に愛しい母や、兄弟や友人たちがいるが、彼らは今、栄光の中で《小羊》について行く者となっている。この場でかつて私たちの間に座っていた、いかに多くの人々が、今はそこにいて《小羊》につき従っていることであろう。《小羊》は彼らをいのちの水の泉に導き、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる![黙7:17] おゝ、私の主が行く所には、どこにでもついて行くという考えの、どんなに素晴らしいことか! 主が号令とともにご自身天から下って来られるとき[Iテサ4:16]、私たちは主とともに行くのである。主が世界を審くためその御座にお座りになるとき、主の聖徒たちは主とともに座るのである。主が千年の間王となり、栄光がその長老たちの間で輝くとき[イザ24:23]、私たちは地上で主とともに王になるのである[黙20:4]。主が御父の御座にお戻りになるとき、――

   「みわざと御戦(いくさ) みな熄(や)みて」、

私たちは主の勝利にあずかり、《小羊》が行く所には、どこにでもついて行くのである。私は、私の主と生死をともにすることに決める。あなたは何と云うだろうか? 私の《主人》よ。あなたがお住まいになるところに、私も住みます。もし人々があなたに恥辱を浴びせるなら、私もあなたとともに恥辱を浴びます。もしあなたが死なれるなら、私もあなたとともに死にます。私が永遠にあなたとともに、天上のあなたの栄光の中で生きるようになるためです。愛する方々。あなたも同じことを云わないだろうか? 今晩、あなたの心の奥底でそう云うがいい。

 よろしい。さて、この完全な絵の中で次に注目してほしいのは、天上で彼らは完璧に神に受け入れられているということである。「彼らは、神および小羊にささげられる初穂として、人々の中から贖われたのである」。神は常に彼らを受け入れてくださる。常に彼らをご自分の初穂とみなしてくださる。ご自分の御子の血で買い取られ、御子によってご自分の天の宮へと持ち来たらされ、永遠のご自分のものとされた初穂と。時として、地上で私たちは自分の奉仕を台無しにすることがある。だが、天にいる彼らにそのようなことはない。私たちの歌は調子が外れるが、彼らの歌は決して不協和音にならない。私たちは主を賛美するが、なおも呻き、重荷を負う。だが、天国ではこうなる。――

   「いかな呻きも 入り混じりえず、
    不死の舌にて 歌わる歌に」。

私たちは疑う。恐れる。聖霊を悲しませる。時には、非常に悲しいほど神との調和を狂わせてしまう。彼方では決してそうではない。罪から完全に贖われ、彼らは《愛する方》において受け入れられており、そのことを思う存分わきまえていて、享受している。幸いな日よ、幸いな日よ。あなたや私がそうした人々の間にいて、そうした人々のひとりとなる時は!

 さらに注目したいのは、そこにいる人々の心と魂には完璧な真理があるということである。「彼らの口には偽りがなかった」。「嘘がなかった」、と改訂訳にはある。愛する方々。地上では、私たちはうっかり過誤に陥ることが実際にあり、時として、残念ながら、怠惰のためにそうなる。私たちは、知らぬ間に、真理から外れたことを口にする。いかにしばしば私たちは真理に大きく達さないことを語ることか。天来の事がらについて語るときには、ほとんど必然的にそうである。だが、天上にいる人々は、単に故意の悪巧みや欺きのみならず、過誤や思い違いからも全く自由にされている。幸いな日よ! 幸いな日よ! あなたはそこに至ることを切望しないだろうか? そこでは、あらゆる偽りの教理や、あらゆる誤った意見や、あらゆる過誤や、あらゆる過ちを除かれて、あなたの口には二度と決して何の偽りもないのである。これこそ、天上にいる人々の姿、完璧にされた姿である。地上で自分の心を洗った人は、天上でその舌を洗う。その人々は地上では真理を愛していたが、天上では真理を知っているのである。地上ではそれを求めていたが、天上ではそれを見いだしたのである。地上ではその真理のために喜んで死ぬ覚悟をしていたが、天上ではそれを享受しながら生きており、永遠にそうしているのである。

 この完璧な絵のもう1つの特徴は、この人々が神の御前で完璧に罪のない者とされているということである。「彼らは神の御座の前で傷のない者である」<英欽定訳>。この聖句を見ると、私はこの教会で私が二番目に行なった説教のことを思い出す。それは、私たちがまだ少人数だった頃の、ある安息日の晩のことであった。「彼らは神の御座の前で傷のない者である」。若者であった私は、大きな喜びを感じながら、全く「しみや、しわや、そのようなものの何一つない」[エペ5:27]ものになる完璧な祝福について詳細に説いたものであった。もしも天上の彼らに何か傷があったとしたら、彼らはそれが明らかになるだろう所にいるのである。彼らが前にしているのは、すべてを見通す神の御座だからである。だが、そこにおいてすら、その、暗い所が何もない光あふれる無比の場所においてすら、彼らは傷がないと宣言される。あなたは、自分がいつの日かそうした幸いな人々のひとりになると考えられるだろうか? 私は、つい先ほど、地上の聖徒たちに非難される所がないと語ったときには、ごく穏やかな云い方をせざるをえなかった。だが、天上において彼らに罪がないことについて語るときには、どれほど強い云い方をしてもかまわない。ことによると、かつての彼らは、回心前には罪人のかしらだったかもしれない。だが、天国には彼らの罪の痕跡が1つもない。彼らは、自分が罪の不潔物にどっぷり漬かっていたとき、自分のもとにやってきた恵みをほめたたえるであろう。だが、彼らの不潔さは影も形もなくなっているであろう。今やマナセには血のしみが全くついておらず、タルソのサウロには冒涜の焼印が全くないであろう。彼らはその衣をこの人の血で洗って、白くしたのである[黙7:14]。こうした人々の何人かは生来、また、慣れによって、あまりにも堕落しきっていて、自分の悪習慣から決して逃れられないように見えた。私たちは彼らについてこう云えたであろう。「クシュ人がその皮膚を、ひょうがその斑点を、変えることができようか。もしできたら、悪に慣れたこうした人々でも、善をなすことを習えるだろう」*[エレ13:23]。だが、神の御霊は彼らを一変させ、何の悪の傾向の形跡も、何の情欲や猥褻さや冒涜や何らかの種類の過ちへの傾きも、そこには全くない。

 かつては大罪人だった人々にとって、傷のない者であると分かるとは、何と素晴らしい変化であろう。単に大きな犯罪がないだけでなく、単にはなはだしい悪徳がないだけでく、傷がなく、また、すでに語ったように、それが、傷1つでもあれば見てとられる、神の御座の前でそうなのである! 彼らは罪のあらゆる咎から、また、罪の習癖が人々にもたらす一切の堕落性からきよめられている。「彼らは神の御座の前で傷のない者である」。まことに、もしあなたが決してこのことを以前には一度も聞いたことがなかったとしたら、そのようなことが可能であると考えただけで、喜びのあまり笑い出すであろう。罪人のかしらその人が、キリストを信じる信仰によって、きよめられ、いつの日か神の御座の前でも傷がない者となるというのである。私たちがそこに着くとき、天国の喜びの一部は、長い驚き、果てしない驚異となるだろうと、私は本気で思う。そして、もし私たちがかつての自分の姿を思い起こすことが許されるとしたら、あなたがたの中のある人々は、ある罪の晩を思い出して、云うであろう。「だがしかし、私はここにいるのだ」、と。あなたは、ことによると、何かすさまじい情動、また、何か身の毛もよだつような卑猥な言葉のほとばしりを、あるいは、何か恐ろしい罪の機会を思い出して云うであろう。「それでも、ここに私はいるのだ。吹き寄せられた雪のように白く、イエスの血で洗われ、神の御霊で更新された者としているのだ」、と。確かに彼らは常に神を賛美しているが、時折、過去を回顧し出しては、新たにハレルヤをほとばしらせることがあるだろうと思う。ある人は云うであろう。「私は、回心の後でさえ、あわれな、びっこを引き引きのキリスト者だった。一度か二度など、すさまじい信仰後退によって、逆戻りしたこともある。キリスト者の友人たちは、私が踏みとどまることなど絶望していた。だがしかし、ここに私はいて、神の御座の前で傷のない者となっているのだ。ハレルヤ!」 人は、そのように突然叫ばざるをえなくなるではないだろうか? そして、その人の回りにいる聖徒たち全員も、そのハレルヤを次々と口にし、ついにはそれが、天の聖歌隊すべてに漲りあふれる合唱となるとは思わないだろうか? 「神と《小羊》にハレルヤ!」、と。それから、別の者が云うであろう。「そして私は、主を知ってからよほど経っていたにもかかわらず、転落しました。おゝ、非常に悲しいしかた、非常に嘆かわしいしかたで転落しました! しかし、主は私をあきらめず、私を追って来られました。そして、その強大な恵みにより、私は回復され、私の折れた骨は治され、私は無代価の恵みと赦し給う愛について歌わされます。神は私に新しい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてくださいました。そして、いま私は、この私さえもが、傷なき者、ただの1つも傷なき者としてここに立っているのです」。これは、あなたにとって、ほとんど想像もできないことではないだろうか。あなたは考え始めるであろう。「よろしい。確かにそれはありえないことだ」。というのも、もしあなたが内側をのぞくならば、あなたの呻きの種となる数多くの傷を見るからである。だが、彼方にひとたび達するならば、あなたは外側を見て、内側を見るであろう。そして、外側であれ内側であれ、いかなる点においてであれ、何の種類の傷も見えないであろう。というのも、「彼らは神の御座の前で傷のない者」だからである。

 私は、これ以上は説教せずに、むしろ、ただこう叫びたい気がする。「ハレルヤ」、と何度も何度も、自分がそこにいることになるという考えそのものによって叫びたい気がする。おゝ、私が占めているような場所から天国へ行くのは困難である! あなたがたの目は、時として夢の中で私を震駭させる。この幾千もの目が、あわれな定命の人間の上に据えられているのである。あなたがたをキリストに導き、天国に至らせようとしている、この者の上に。あなたがたの目は、時々、それだけの数の短剣のように私を刺し貫くかに思えることがある。私は時折こう思う。「もし私が忠実でないとしたら、もし私が平易に説教しないとしたら、もし私が彼らに警告しないとしたら、もし私が彼らを熱心に招かないとしたら、もし私が心を尽くして、『キリストのもとに来よ』、と叫ばないとしたら、どうなることであろう? もしも六千対もの目が未来永劫、短剣のように私の心に突きつけられているかのように見えるとしたら、永遠の中で私はどうするだろう?」 おゝ、だが、そのようにはなるまい! 私が信じているお方は、不敬虔な者を義と認めてくださる。そして、私はこのお方について余す所なくあなたに宣べ伝えてきた。そして、私の大いなる会衆に宣べ伝えてきた。私の希望は、あらゆる罪からきよめる、かの尊い血のうちにある。そして、やがて来たるべき日に私は、イエスを信じるあらゆる人々とともに、神の御座の前で傷がない者となるであろう。その考えそのものによって私は、「ハレルヤ」、と叫ばされる。そして、それとともにしめくくろう。ハレルヤ! ハレルヤ! あなたがたは全員、「ハレルヤ!」、と云うがいい。[会衆から「ハレルヤ」の声] ハレルヤ! 神と《小羊》にハレルヤ! 主があなたがたを祝福し給わんことを。キリストのゆえに! アーメン。

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《小羊》について行く者たち[了]


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