HOME | TOP | 目次

サタンにくらまされ

NO. 2304

----

----

1893年4月16日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1889年3月31日、主日夜


「この世の神が不信者の思いをくらませて……いるのです」。――IIコリ4:4


 人の目をつぶすわざは、身の毛もよだつほど恐ろしい所業であり、あまりの恐ろしさのため、これ以上一言も云えないほどである。だが、人によっては、霊的に目をつぶされ、くらまされることもある。その人々とは、まず不信者である。この世の神は信仰者をくらましはしないが、信じない者たちの思いをくらませる。それゆえ、神の御子を信じないのは非常に危険なことである。不信仰の罰は死であり、罪に定められることである。そして、その罰が人々に下り始めると、その不信仰の結果、彼らの愚かな心は暗くなり、彼らの知性は霊的な物事を感知する力を失い、この世の神は彼らの精神的視力をくらませてしまう。あゝ、話をお聞きの方々。いかにサタンは、あなたの破滅を確実にしようと躍起になっていることか。彼は救いに至る光をあなたに見せるのではなく、あなたの目をくらまそうとして骨を折っているからである! 願わくは、この場のいかなる人も、このすさまじい光の剥奪の下で死ぬようなことがないように! イエスを信じないでいる人々の思いの上にはサタン的な影響力か臨んで、光を奪い取っているのである。

 覚えておくがいい。こうした霊的な物事に対する盲目さは、天性の物事についての怜悧さと全く両立しうるものである。人は、非常に切れ者の政治家でありながら、また、第一級の実業家でありながら、また、卓越した学者、深遠な思索家でありながら、それでも霊的な諸真理については盲目でありえる。このことは、いかにしばしば真実であることか! 「これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました」[マタ11:25]。ある古の著述家が云うように、「あわれな、無知な人々が、しばしば天国への扉を見いだし、そこに入っていく一方で、学識ある者たちは掛け金を探し回っている」。しかり。人は、この世の事がらには目端が利くかもしれない。人生の諸問題に関する洞察については、目から鼻に抜けるようであるかもしれない。だがしかし、この世の神はその人の目をくらませていることがありえる。

 それよりもさらに尋常ならざることとして、人は多くの聖書知識を有しているかもしれない。神の国の事がらを、文字としては理解しているかもしれない。その信仰内容においては非常に正統的で、何を信じているのか問われれば答えを返せるかもしれない。だが、それでもその人は、こうした事がらの現実を、霊的には全く感知していないことがありえる。人は書物によって植物学について多少知っているかもしれない。リンネ式の植物分類法さえ理解しているかもしれない。だが、その人は、結局のところ、一度も川縁の桜草を見たことがなく、一輪たりとも庭園から花を摘んだことがないことがありえる。その人は、貧弱な植物学者ではないだろうか。博物学をいくら自分の私室で研究していようと、一度も生きた動物を見たことがない人は、その主題について、結局は、ほんの少ししか知らないのである。私たちの回りにいる多くの人々は、天国や地獄、罪や救い、キリストや聖霊について語ることができても、それにもかかわらず、こうした言葉のいずれの意味についても一度として真に感知したことがない。こうした人々は、見てはいるが感知していない。聞いてはいるが理解していない。彼らは不信者であって、この世の神が彼らの思いをくらませているのである。

 さて、私が今晩語ろうとしていることは、第一に、この盲目さが非常によくあることだということである。第二に、それは、かの悪い者によって、様々に異なるしかたで人々にもたらされているということである。第三に語りたいのは、この盲目さにはいかなる種類の治療が必要かということである。

 I. まず第一に、<《この盲目さは非常によくあることである》>。

 ある人々の場合、それが明らかになるのは、この世で頭を一杯にしていることによってである。ここにひとりの人がいる。この世で相当な年月を過ごしてきている。そして、その間ずっと考えを巡らし、働き、計画を立て、物事を企ててきた。だが、何についてだろうか? 何と、この世についてである! その人は、大概の場合、三位一体の質問に心砕いている。――「何を食べるか? 何を飲むか? 何を着るか?」*[マタ6:31] この人は、自分が別の世界で永遠に生きることになると知っている。この今の生活は単に、ある家の玄関のようなものにすぎず、来たるべき状態こそ家そのものであると信じている。だが、こうした年月の間ずっと、三十年も、四十年も、五十年も、六十年も、七十年も、――八十年も、と云って良いだろうか?――この人は、決して永遠の世界について考えることなく、ただ、この現世についてだけ考えてきた。自分がどこで永遠に暮らすことになるかについては一度も考えたことがなく、自分の力と体力のすべてを途中の道に費やしてきた。これは、あまりにも理にかなわないことであるため、確かにその人は盲目に違いないと思う。それ以外に、その人の愚かさの説明はつかない。確かに、魂はからだよりも重要である。私たちは、からだに羽織る着物よりも、からだについてずっと良く考える。だが、からだは結局、魂の着物にすぎない。真の自己、この私、私自身とは、私の魂である。私は、それについて全く考えずに、ただ私の地上の家、私の食物、私の着物、私の日々の働きのことだけを考えているのだろうか? そうしたことは、獣が考えるような種類のことである。牛や驢馬は、何を食べるか、何を飲むか、また、どこに横になるかを、もし彼らが考えるようなことがあるとしたら、考えることであろう。では、これが、あなたや私の考えるすべてだろうか? 確かに、二義的な考察事項でしかないものに思いをふさがれていることは、この世の神が思いをくらませている1つの証拠に違いない。

 それとは違った方面から、もう1つのしるしを示すことにしよう。それは、多くの人々のうちに見受けられる、良心の極端な気楽さである。そうした人々は大きな罪を犯しても、その手を洗い、そうした上で、あたかも手を洗ったり口を拭ったりすることそのもので、その不正についての一切の考えを十分お払い箱にできるかのようにしている。今晩ここに座っている多くの人々は、長い人生を通じて、思い出しても恥ずべき百もの罪を犯してきているであろう。だがしかし、そうした人々はそれを全く恥じていない。恥じるとしたら露見した場合だけであり、罪そのものを恥じてはいない。真に神の御霊によって覚醒されている人は、自分の罪を思い出すと、蠍に刺されたように感じる。それに耐えられない。しかし、大多数の人々は、一千もの悪事を行なっていながら、しかし思い悩むことがなく、全く安楽にしている。あなたがたの中のある人々は、おそらく、ごく短時日のうちに死と審きに会うはずである。だがしかし、あなたは罪を馬鹿にしている。いかにしばしば人々は礼拝所に来ては、厳粛な訴えを拒絶した上で、帰っていくことか。そして彼らは、そうした訴えを二度と聞かないのである! 彼らはその最後の警告を受け取ってしまった。おゝ、もし彼らにそれが分かっていさえしたら、――その週の間に倒れて死ぬと、あるいは、病の床につき二度と起き上がることがないと分かっていさえしたら! それでも、彼らは運命の絶端で、また、永遠の災厄の瀬戸際でたわむれている。ある人が、何かすさまじい断崖の縁へと突き進んでいるのを見たとしたら、また、その人がもう一歩をまさに踏みだそうとしているのを見たとしたら、あなたは云うであろう。「あの男は盲人だ。それに違いない。さもなければ、あんなふうにするわけがない」、と。人々は目を開けたまま途轍もない危険に陥りはしない。だが、私たちの同胞たちの多くの者ら、また、ことによると、私たち自身の中の多くの者らは、危険だなどとは全く考えもせずに、恐ろしい深淵の縁へと、無頓着に、また、不用心に、真っ直ぐ向かっているのである。彼らは目が見えないに違いない。良心における、この身の毛もよだつような平安は、また、良心が実際に乱れ騒ぐときにも御霊が消されてしまうことは、また、死と審きとをもて遊び、たわむれていることは、彼らの目が見えていない証拠である。

 別の例を挙げるとしたら、将来について増上慢な希望をいだいている多くの人々がいる。いずれにせよ、そうした人々は悩むことがない。私には、なぜ彼らがあれほど気楽にしているのか分からない。だが、様々に違った形の増上慢によって、彼らは恐れなく未来をのぞき込むことができる。ある人は云う。「よろしい。見ての通り、私は子どものときに洗礼を受け、若い頃に堅信礼を受けたのです」。別の人は云う。「私はいつも集会所に出席していました。礼拝に欠席したことは一度もありません。病院には何ギニーも寄付してきました。誰にでも親切にしてます。ほとんどの人から私は良く云われると思いますよ」。彼らが頼りにしているのは、そうした類の事がらであり、彼らは決して何が本当に欠けているかを眺めたことがない。彼らは、この言葉をじっくり耳に入れようとしない。「あなたがたは新しく生まれなければならない」[ヨハ3:7]。彼らは、キリストがこのように云われるとき、耳を傾けようとしない。「信じない者は罪に定められます」[マコ16:16]。いかなる信仰告白や道徳的性格をしていようと関係ない。しかり。だが、彼らは、明るく陽気な心をしたまま、破滅へと踊り進むのである。確かに、こうした人々はサタンによってくらまされているのである。

 それから、別の種類の人々を見て、彼らがいかに容易に罪を犯すか注意してみるがいい。彼らは癇癪に身をまかせる。何かあるとすぐに短気を起こす。サタンがうるさくねだらなくとも彼らは悪へと向かう。彼らは、常に悪を行なう用意ができているかに見える。特に、悪を行なうことで面倒が避けられると思うときにはそうである。何と、多くの人々は六ペンス銅貨をもうけるためなら、平気で嘘をつこうとするではないだろうか? 一銭でももうかるなら、そうしないだろうか? その店は今朝開いていた。利益は二ペンスにも満たなかった。だが、それでも、そのけちな金額のために安息日は破られたのである。いかに多くの人々が、全世界を手に入れるためではなく、しかり、四ペンス銀貨を手に入れるためでもなしに、自分の魂を売り渡していることか! 彼らは、自分の魂のことを、また、自分の永遠の運命のことを、それほど軽んじているのである。それで、麦酒一滴のために、また、夜の娯楽のために、また、愚にもつかない仲間たちを喜ばせるために、彼らは自分の魂を振り捨てようとするのである。取っておく価値もない、砂利ででもあるかのようにそうするのである。あゝ、方々。そうした人々は目が見えないに違いない! 霊的に目を開かれている人々は、いかに小さな誤ちをも犯すくらいなら、死んだ方がましだとすることで知られている。思い出すがいい。異教の神々を尊んでほんの一文払うなら、いのちは助けてやろうと云われた人物のことを。だが、その人は主を知っており、それゆえ、偶像を礼拝するためびた一文でも与えるくらいなら死のうとしたのである。神の人々は、神の永遠の真理をただの一点でも守るためなら、自分のいのちを投げ出してきた。だが、そうした聖なる英雄的行為について何も考えない人々、また、つまらぬ快楽のために自分の魂を失おうとする人々は、何と、目が見えないに違いない!

 次のことを云う以外に、これ以上長々と語る必要はあるまい。この盲目さが姿を現わすのは、永遠の事がらを軽くあしらうことにおいてである。ここにひとりの人がいる。しばらく前には、非常に心をかき立てられ、覚醒させられ、《救い主》を求めようとその場で即座に決心しさえした。だが、求道者室に入ると、彼は最終的な決定を先送りにしてしまう。それを先に延ばすべき理由は何もない。ただ、キリストを受け入れることに気乗りがしないだけである。彼がどっちつかずになり、事を延期するのは、それが初めてのことではなかった。だが、彼はなおもキリストを受け入れるのを後回しにする。彼が今晩、確実に生きて家に帰りつける保証はない。今晩、寝床についたら、朝この世で目を覚ますとは限らない。だが、彼は自分の魂を危険にさらしたままにしておく。大した問題ではないかのようにそうする。しばらく前に、ある人がこの場にやって来た。手を払うときに、金剛石の指輪を外してきたその人は、集会中ずっと、その指輪がどうなるかをくよくよ考えていた。もしや、家人があの洗面器の水をあけたら、それはなくなってしまうのではないかと。彼は、自分の指輪のことが心配でたまらなくなり、礼拝が終わるや否や、できる限り急いで家に戻った。それについて調べてみるのに一週間も待ちはしなかった。だが、この場にいるある人々は、何週間も、何箇月も、何年も、あゝ、何十年も、どっちつかずのまま愚図愚図しているのである! 彼らは、自分の世俗的な仕事をそのように放り出しはすまい。だが、救いや断罪という永遠の事がらは、まるで風のまにまに吹き飛ばされる枯れ葉ででもあるかのように放っておく。このような人々は、目が見えないに違いない。目が見えないのだと私は確信する。おゝ、彼らが、このチャールズ・ウェスレーの賛美歌の言葉で、こう叫ぶほど賢ければどんなに良いことか。――

   「回心(かえら)せ給え、わが身の魂(たま)を。
    深く思いを 巡らす心に
      刻印(お)せよ、永久(とわ)をば。
    感(おも)わせ給え その粛重(おも)みをば。
    運命(さだめ)の縁に 震えるわれを
      覚ませよ、義へと!」

この盲目さが非常によくあるものであるという多くの証拠を積み上げることもできよう。だが、そうする時間はない。次の点の考察へと移らなくてはならないからである。

 II. 第二に、私があなたに対して、きわめて熱心に、また力を込めて証明したいのは、<《この盲目さを悪い者が引き起こすしかたが多種様々である》>ということである。

 ある人々の場合、それは全くの世俗性によってやって来る。一部の人々はこう云う。「私たちは、そんなことに注意を払ってはいられません。私たちは、生計を立てるだけで手一杯です」。他の人々は云う。「よろしい。神に感謝すべきことに、私たちは額に汗して生計を立てる必要はありません。ですが、実は、考えるべき他の事がらがたくさんあるのです。メソジストめいた事がらに注意を向ける以外にもね」。ある人は云う。「私は――、私は――」。しかり。そうしたければそれを口に出すがいい。あなたは、神と天国と永遠の事がらが、あなたの考えに値しない些細なことだと思っている。あなたの家、あなたの馬、あなたの妻、あなたの金銭、こうした事がらは、もちろん些細なことではない。これらは第一に来なくてはならない。この世、この世、この世、これがあなたの心の中にあり、それを完全に占めている。ある日、とある捕鯨船の船長が、彼の魂について話をした神の人に向かってこう云った。「バートラム先生。わしの魂について話をしようが、今晩の礼拝に来るように誘おうが、無駄ってもんですぞ。見ての通り、わしは鯨取りの後でここに来とります。そして、座席にすわって、先生が話をしている間、わしは鯨のことばかり考えとりました。どの賛美歌を歌うか先生が語っとる間も、どこかに鯨がおらんかと考えとりました。もしわしが祈らなきゃならん羽目になったら、鯨について祈るでしょう。わしの心には鯨たちがおるのですよ、先生。そして、他の何の余地もないのですわ」。多くの、多くの人々にとっても、それは同じである。彼らの心の中には自分の仕事がある。機織り機が据えられている。発明がある。一切の建築資材がある。だが神のためには何の余地もない。彼らの心は、完全に世俗性でくらまされている。

 また別の人々が悪魔によってくらまされているしかたは、非常に絶望的なもの、何らかの愛好する罪によってである。ためらいなく云うが、一般的な事実として、人々が真のキリスト教信仰に反抗するとき、また、信仰について話されると腹を立てるとき、もしもそれを事の起こりまで辿れるとしたら、彼らの素行の中にこそ、彼らが反対する強力無比の理由があると分かるであろう。ある折に、こう説教していたことを思い出す。たまたま私は、刈り入れ時に、落ち穂拾いたちが、ルツのように麦を拾い上げているのを見ると喜びを覚えることについて触れた。そして云った。「私がまことに信じているところ、一部の農場主たちは、できるものなら自分の畑を、目の詰んだ櫛でかき集め、麦粒1つも残さないようにするであろう」。すると、桟敷席の前面にいた立派な身なりの紳士が立ち上がって出て行くのが目に入った。扉のところにいたある人が云った。「――さん、なぜ外に出るのです?」 彼は答えた。「わしは、あんな奴の話を黙って聞いてはおれん。わしはいつだって、自分の畑に三回は熊手をかけるのだ」。しかり。見ての通り、真理こそ彼を怒らせたものだったのである。普通そうである。人々は、理由があるからこそ福音に激怒し、それに背を向けるのである。そのとき福音は、彼らの愛好する罪の何かを打っているのである。これこれの人が、自分はイエス・キリストを信じないと云う。確かに、その人が信じる見込みはない。その理由を私はあなたに告げはしないが、その人の細君には分かるはずである。別の人はある店を営んでいる。その人は、自分は回心したくないと云う。しかり。もし回心したら、その店を営んでいられないであろう。あるいは、営むとしても、自分の携わる業種を変えなくてはならなくなるであろう。あゝ、この世の神は人々の目を罪でくらませている! すべての詳細に立ち入ることができないが、もしもこの場に、誰か自分のいとおしむ愛好の罪をかかえている人がいるとしたら、その人は、キリストの美しさを見てとれず、救いの数々の栄光を見てとれないとしても不思議がってはならない。また、その人から是認してもらおうとして、私たちが何かするだろうと考えてはならない。その人がその罪に心奪われている限りはそうである。私たちは、こう云ったときのマルチン・ルターと非常によく似ている。「私は、ある人々からいかに激しく悪口を云われているかを考えると、自慢できるであろう。彼らが私の悪口を云うということは、彼らが私に授けることのできる最高の栄誉なのである」。あなたがた、不貞と不正行為の中に生きている人たちがキリストについて、また、キリスト者たちについて悪口を云うとき、あなたは単に、あなたにふさわしいしかたで話しているにすぎない。そして、私たちは、神があなたの心を変えてくださるまでは、あなたの口調を変えたいと願うことはできない。

 多くの人々が神のみこころのことについてくらまされるのは、何らかの党派に従うことによってである。「よろしい」、とあなたは云うであろう。「私がキリスト教信仰のこうした事がらについて学び始めることなどできません。なぜなら、私はこれこれの仲間とつながりがあるのです。彼らが私をどう扱うかは分かっています。まず私を笑い者にするでしょう。それから私を爪弾きにするでしょう。そうです。実際、親愛なる先生。もし私にどんなつき合いがあるかをご存知だとしたら、いま説教されているようなこうした教理を、私が考察するなどとは期待しないことでしょう。それが真実であるかないかは関係ありません」。気の毒なことである。厳粛に気の毒なことである。ひとりの人が、仲間付き合いを守るために自分の魂を滅ぼすことになるとは。私は、先日の晩、上院を通過した、ジョン・ブライト*1に対する賛辞を読んで嬉しくなった。同氏は、読み上げられたこと以上の賛辞に値する人物で、特にこの点に秀でていた。すなわち、彼は、自分の良心と自分の党派が衝突する際には常に良心に従い、自分の党派のことなどおかまいなしだった。世間一般の賛同だの喝采だのは、自分が正しいと信じることを行ない、神の御前できよさを保てる限り、彼にとっては何ほどのことでもなかった。結局において、自分が正しいと信じることを貫き通すときには、何も失われない。そして、もしこれが政策について真実だとしたら、いかにいやましてキリスト教信仰に関わる事がらについては真実なことであろう! あなたの罪深いつながりを断ち切り、あなたの悪しきつき合いから足を洗うがいい。そのようにする方が、彼らに喝采され、是認されながら、ともに歩み、最後には間違っていたと分かるよりもましであろう。おゝ、人々にひとかけらでも勇気があればどんなに良いことか。そうすれば、彼らは決して神のみこころや、天国や、永遠の現実に関わることを、人の鼻息だの、同輩たちの笑顔だの、顰めっ面だのに吊り下げたりしないであろう! しかし、残念ながら、おびただしい数の人々は、自分の党派に従い続けるためか、自分の初期の教育による偏見がなおもへばりついているかするために、キリストを決して知ろうとしないのではないかと思う。

 サタンが数多くの人々をくらませる第四の、そして非常にありがちなしかたは、真理に対する種々の反対を引き起こすことによってである。この世には、人が反対できないものは何1つない。あえて云うが、感覚という感覚で明白に知覚できるいかなる事実といえども、しようと思えば、それを事実と信じずにすむ理由を何かしら見つけることができるものである。たとい誰かが、私はここにいないとか、いま私が話をしていないと主張するとしても、疑いもなく、適正な報酬を支払いさえするなら、それを証明する弁護士を見いだすことができるに違いない。そして、弁護士にできることは、法律に通じていない数多くの人々も、同じくらい達者にできるであろう。反対に答えることは、切りがない務めである。滾々と湧きあふれる泉を、底の抜けた手桶で空にしようとするようなものである。人々は、本当の、また、真実のイエス・キリストの信仰に反対するのではない。これに彼らが反対するのではない。むしろ、彼らは種々の反対をでっち上げ、探し回り、キリストを拒絶する云い訳を手に入れようとする。このようにして多くの人々は目が見えないことを明らかにする。彼らには克服しがたい困難があり、克服したいとも思っていない。それで、キリストを見てとらないのである。

 他のものと合わせて、盲目さを作り出すのは、誤った推論である。いかに多くの目が、真理から引き出された種々の誤った推論によってくらまされるかには、驚くべきものがある。私たちの知っているある人はこう云う。「よろしい。神のあわれみは非常に広大無辺なのです。ですから私は、神が私たちを地獄に投げ込まないと確信しています」。これは、1つの偉大な真理から引き出された、よこしまな嘘である。別の人は云う。「神には、選ばれた民があると記されています」。それは確実に正しい。だが、そこから引き出される推論はそうではない。「ですから、もし私が救われるはずなら、私は救われるでしょう。また、もし私が失われるはずなら、失われるでしょう。それで、私がこの問題について頭を悩ます必要はありません」。これは、1つの偉大な真理から導き出されたもう1つの偽りの推論である。ある人が自殺しようと心に決めているときには、どんな縄でも間に合うものである。そして、ある罪人が滅びようと決意しているとき、その人は常に理屈を見いだせるのである。神の真理そのものからでさえ何らかの理屈を引き出しては、自らの破滅の手段にできるのである。私は、こうした嘘っぱちのいずれにも答えるつもりはない。だが、ただこう云っておこう。こうした偽りの推論によって、多くの人はくらまされ、自ら永遠の破滅へと至るのだ、と。

 それから、思いをくらまされるもう1つの、そして、非常によくあるしかたがある。すなわち、知識全般におけるうぬぼれによってである。私の知っているある人は、このことについて完全に盲目である。私が最後に彼に会ったとき、彼は私を見て、私の安否を問うほどへりくだってくれた。また、時には自分に劣る者とちょっとした会話をして良いと、それゆえ、私とキリスト教信仰の話をしてもかまわないとほのめかしてくれさえした。彼自身は、実際、非常に優越した人物であり、あらゆることを知っており、それが可能であれば、あらゆること以上のことを知ってはいてもである。この人物は不可知論者だと自称していた。そして、ある人が自分を不可知論者だと云うとき、その人は無知論者、すなわち、何も知らない人物にほかならない。だが、そうした人は普通、自分があらゆることを知っており、その最後の付属物であるかのように話をする。彼はカルヴァン主義について言及し、軽蔑のこもった口調で云う。自分の祖母はカルヴァン主義者だったよ、と! 彼は、福音主義学派を覚えているが、彼らは今ではほとんど死滅していると云う。彼と少し話をしただけで、主イエス・キリストと彼が決して仲良くつき合えないだろうと分かるはずである。なぜなら、《救い主》はこう云われたからである。「あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません」[マタ18:3]。そして、この人物は決して小さな子どものようにはならないだろうからである。決して! 小さな子どもと正反対のものを見たければ、この紳士を見るがいい。そして、人が聖書を引用し始めると、彼は「ごきげんよう」と云う。彼は、そうした類の教えをまるで受けつけようとはしない人物なのである。「優越した」人物は、常に失われる。請け合っても良い。これは、彼が優越しているという意味ではなく、彼が自分のことをそう思っており、あらゆる教えに優越していると考えているということである。彼は、進んで学ぼうとしない。教師としてかつがれたがる。どんなものについてであれ先生になりたがる。彼は、天国の門に入るような種類の人ではない。それには、自分の頭を高く掲げすぎている。彼は、広い考え方の人物であり、もちろん、広い道を行く。狭い考え方の人々は狭い道を行く。だが、それは永遠のいのちに至るものであり、それゆえ、私はそちらをあなたに勧める。

   「死に至る 道は広くて
    伴いて 数多(あまた)歩めり。
    狭き道 知恵は示せり、
    そこここに 旅人(ひと)は行くらん」。

 別の一団の人々が思いをくらまされるのは、別の何か特定の偽りの恵みについてのうぬぼれによってである。ここにいるひとりの人は、数多くの義務に注意を払ってきた。もちろん、いくつかの義務には関心がない。だが、自分の好まない義務は、自分の趣味に合う他の義務に注意を払うことによって折り合いをつける。彼は祈らない。だが彼は、聖歌隊で歌う! 神との交わり――彼はそれについて何も知らない。だが、聖餐式には参加する! 彼は罪を悔い改めたことが一度もない。だが、他の人々のもろもろの罪について難癖をつけ、それを悔い改めと同じくらい良いことだと考える! 彼は貧者や困窮者を助けない。だが、救貧税を引き下げる素晴らしい計画を持っている! 彼は常にあれこれの良いことを、あるいは、一種の良いことを行なっている。だが、聖書が命令しているような種類の良いことは行なわない。主イエス・キリストを信じること、すなわち、生きた信仰によって主に信頼することは、彼の範囲外にある。新しい心とゆるがない霊を求めること、また、回心し、暗闇から光に立ち返ることについては、まるで何も知らない。だが、結局において、彼としては非常に大きく向上してきた。極度に疑わしいような慣行はやめてきた。そして、全体として、相当の褒め言葉で語られるべきたくさんのことをしてきた。これが、この世の神によってくらまされている類の紳士である。

 しかし、目をくらまされている人々についていくら語ろうとも、相手の目が見えていなければ無駄である。というのも、最も目が見えない人とは、主によって目を開かれたことが一度もないにもかかわらず、自分は盲人ではないと云う人、また、自分が必ずしも正しく物の見方をしてはいないと認めようとはしない人だからである。彼は、自分はいつだって物が見えていたのだと云う。見えていないというのは自分に対する侮辱であるとする。彼は、イエスに対してこう云ったパリサイ人たちのようである。「私たちも盲目なのですか?」。それに対してイエスはお答えになった。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです」[ヨハ9:40-41]。これは光に逆らって罪を犯すことであり、復讐を伴う罪である。願わくは神が私たち全員をそうした罪から守ってくださるように!

 III. さて、私は最も実際的な点に至った。すなわち、<《こうした盲目さには、いかなる種類の治療が必要か》>ということである。私は切に願う。私がこの件について語ることを、神があなたのため祝福してくださるようにと。

 まず、最初にこう云いたい。愛する方々。こうした目の見えなさが罰として送られないように用心するがいい。目の見えない友人たちに、私たちは愛をもって同情し、神は彼らを祝福してくださるが、視力がないということは非常に不幸なことに違いない。さて、心の盲目さは単に罪であるばかりでなく、罪の罰でもある。そしてそれは、良心に背き、聖霊に抵抗し、厳粛な事がらを軽くあしらい、やみくもに害悪に心を定める結果として、多くの人のもとにやって来る。おゝ、あなたがた、繊細な良心を持っている人たち。それを失わないように気をつけるがいい。あなたがた、席について説教を聞き、それに胸を打たれることのできる人たち。そうした聖なる感受性を軽くあしらってはならない。いったんそれを失ってしまい、書物の中の《書》を読もうと、いかに熱心な話を聞こうと、何も感じなくなるとき、あなたは、これまで得た中で最も大きな特権の1つを失ってしまったのである。願わくは神が、この致命的な盲目さへと進み続けている人を助けて、これ以上先に達する前に引き留めてくださるように!

 また、何らかのしかたで目が見えずにいるあなたに云いたい。その盲目さがあなたの破滅の先駆けとならないように用心するがいい。ハマンが木にかけられる前に、しもべたちが最初にしたのは、彼の顔を覆うことであった[エス7:8]。そして、ある人が永遠に失われようとしているとき、悪魔が最初にすることは、その人の目をくらませて、物が見えないようにすることである。今や、あわれな盲目のサムソンは、ペリシテ人たちのために演技をするであろう[士16:27]。今や彼らは、自分たちの好きなときに彼を殺せると思う。くらまされた良心に用心するがいい。それは、永遠の滅びの序曲である。神がそこからあなたを救ってくださるように!

 次に、もしあなたに小さな光でもあれば、それを大いに尊ぶがいい。もし私たちの中の誰かが次第に自分の視力を失いつつあるとしたら、その人は自分の有する僅かな視力を非常に大切にするはずである。いかにしばしば私は、このように語る友人たちと話をしてきたことであろう。「こっちの目は全く駄目になりまた。先生。こちらの目には、ごく僅かしか光がなく、お医者様が云うには、眼帯をかけて、とても注意深くしていないと、そちらも見えなくなるそうです」。おゝ、あなたの有する僅かな光に気を配るがいい! もしも胸を打つものを少しでも感じるなら、その感じに非常な気を遣うがいい。もしあなたがキリストの美しさを少しでも見てとれるとしたら、その眺めをなくさないように執拗に守るがいい。私はしばしば云ってきたではないだろうか? 星明かりを有している人は、星明かりについて神に感謝し、それを用いるならば、月明かりを得るであろう。そして、月明かりを有している人は、それについて神に感謝し、それを用いるならば、日の光を有するであろう。そして、日の光を有している人は、神の栄光に富む御前で、七つの日の光[イザ30:26]を有するようになるであろう、と。ならば、自分の有するいかなる光にも気を配るがいい。

 それから、次のこととして、もしあなたが少しでも自分の盲目さを意識しているとしたら、だが、罪の悪を完全には見てとっておらず、キリストの栄光が見えず、救いの道を感知できないとしたら、自分の盲目さを告白するがいい。今晩、家に帰り、ひとりで自分の部屋にこもって、こう認めるがいい。あなたが、見えてしかるべきものを見てとれないこと、また、感じてしかるべきことを感じていないことを。視力を持たないあなたの目玉を《救い主》に示すがいい。このお方は盲人に視力を与えてくださる。自分の罪を包み隠してはならない。それを告白するがいい。「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける」[箴28:13]。ダビデとともに云うがいい。「私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。『私のそむきの罪を主に告白しよう。』すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました」[詩32:5]。

 あなたが自分の盲目さを告白したときには、もう1つのことを行なうがいい。主イエスが、あなたの盲目の目を開いてくださると信頼するがいい。この天来の《救い主》の御前に意識的に身をゆだね、このお方に向かって云うがいい。「私はあなたが、このあわれみの奇蹟をおできになると信じます。私に真理を見させ、感じさせることがおできになると信じます。あなたご自身を見させ、あなたに信頼させることがおできになると信じます。ここに私の目があります。主よ。私は見えるようになりたいのです! 私は、あなたがそうおできになると信じます。今そうしてください!」 あゝ、ことによると、私がこの言葉を語っている間にも、天来の光の閃きは、どこかの暗い心に射し込みつつあるかもしれない! 救いには何時間もかからない。ほんの一瞬のうちに、私たちは死からいのちに移る。私たちは、イエスを信ずる瞬間に救われる。主が十字架の上にかかっている姿が見えた瞬間に、私たちの不義は赦される。願わくは私たちひとりひとりに、今晩、その信仰のほむべき光景が与えられるように。イエスのゆえに! アーメン。

 ある人々のためには、次のよく知られた賛美歌の一節を歌うことが、キリストを仰ぎ見る助けとなるであろう。――

   「十字架(き)の上(え)を仰がば いのちあり。
    汝れにもこの瞬間(とき) いのちあり。
    見よや、罪人。――主を見て 救(い)きよ。――
    釘をば打たれ 木につく主(きみ)を」。

-


(訳注)

*1 ジョン・ブライト(1811-89)。英国の政治家。自由貿易を唱え, リチャード・コブデンと共に反穀物法同盟を指導した。運動は成功し1846年穀物法は廃止となった。[本文に戻る]

------

サタンにくらまされ[了]

-----

HOME | TOP | 目次