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三本の矢か、六本の矢か?

NO. 2303

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1893年4月9日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1889年4月25日、木曜日夜


「ついでエリシャは、『矢を取りなさい。』と言った。彼が取ると、エリシャはイスラエルの王に、『それで地面を打ちなさい。』と言った。すると彼は三回打ったが、それでやめた。神の人は彼に向かい怒って言った。『あなたは、五回、六回、打つべきだった。そうすれば、あなたはアラムを打って、絶ち滅ぼしたことだろう。しかし、今は三度だけアラムを打つことになろう。』」。――II列13:18、19


 神の目的と、人間の自由な意志行為との合流点を示すのは、非常に困難な務めである。だが、1つのことだけは全く明確である。私たちは、そのどちらも否定すべきではない。どちらとも事実だからである。神が、大小を問わず一切の物事に目的を有しておられることは事実である。起こり来ることのうち、神の永遠の目的と聖定によらないものは1つもない。だが、やはり確かで確実な事実、それは、種々の出来事がしばしば人々の選択にかかっている、ということである。人々の意志には、無類に大きな力が潜んでいる。いま私たちが前にしている事件の場合、その矢はイスラエルの王の手の中にある。そして、彼が地面を一回、二回、三回打つか、五回か六回打つかに従って、その国の歴史には影響がもたされるのである。さて、こうした2つの事がらがいかにして双方とも真実たりえるか、私はあなたに告げることができない。またおそらく、いかに長いこと討論しようと、天国の最も賢い人々でさえ、告げることはできないであろう。智天使や熾天使の助けを借りてさえそうであろう。たとい告げられるとしても、あなたは何を知ることになるだろうか? たといこの秘密を探り出せたとしても、それがあなたにとって何の得になるだろうか? 私の信ずるところ、この2つの事がらが一致しないと証明するのは、それらがいかにして一致しうるかを証明するのと同じくらい難解なことであろう。それらは、平行線のように隣り合って流れる2つの事実である。物事はしばしば人々の意志にまかされている。だが、すべてのことは、結局、神のみこころに従って起こるのである。あなたは、その双方を信じられないだろうか? そして、それらの間にある余地は、膝まずき、あがめ、礼拝するために非常に好適な場所ではないだろうか? あなたに理解することのできないお方を。もしもあなたのキリスト教信仰を理解できるとしたら、それは神から来たものではないであろう。それは、あなた自身のように限りある能力の人――従って、あなたが把握できるものを作れる人――によって作られたものであろう。だが、あなたの信仰に種々の神秘が伴い、その頂に昇ることができない以上、そこに昇る必要がないことに感謝するがいい。

 しかし、時として、こうした2つの点については実際的な問題が生ずる。人間的な云い方で、こう云うことは正しい。「もし人々が熱心になるなら、また、もし人々が信仰を深めるなら、また、もし人々が祈り深くなるなら、これこれの祝福が来るであろう」、と。そして、その祝福が実際にはやって来なかった場合、それは彼らがしかるべきほどには祈り深くなく、信仰を深めなかったという事実のためとして差し支えないであろう。私は、神がご自分の選民をお救いになると信じている。と同時に、もし私が福音を宣べ伝えなければ、人々の血の責任は私に帰されるとも信じている。私は、神がご自分の御子にそのいのちの激しい苦しみのあとを見せてくださる[イザ53:11]と信じる。だがしかし、もし神の民であるあなたが魂の救いを熱心に求めることがなく、彼らが滅びるとしたら、彼らの血の責任はあなたに問われるであろう。こうした所見は、私たちの前にある物語によって示唆されていると思われる。神は、何度アラム人が打ち負かされるかご存知だった。だがしかし、神は彼らが三度打ち負かされるか、六度打ち負かされるかをヨアシュ王が決めるようにまかされた。

 次に、思い巡らすがいい。いかに大いなる事がらが人の手に存することがありえるかを。そこにはヨアシュが立っていた。尊敬に値する王ではなかった。だがしかし、彼の手には、ある程度までは、彼の民の運命が握られていた。もし彼がその矢を取って、五回か、六回、射るとしたら、彼らの大敵は粉砕されるであろう。もし彼がのろのろと三回しか射ないとしたら、一定の勝利しか得ることなく、あわれなイスラエルは結局において再びこの、半殺しにはされたが殺されなかった敵によって苦しめられることになるであろう。愛する方々。あなたは、自分がいかなる責任を負っているか分かっていない。あなたは、ある家族の父親である。あなたのふるまいによって、いかなる祝福があなたの家にやって来るであろう。あるいは、いかなる祝福をあなたの子どもたちは取り逃がすことであろう! 愛する母親よ。あなたは自分を名もない者だと考えているが、あなたの子どもの未来はあなたが何を教えるか、あるいは、何を教えないかにかかっているであろう。大いなる出来事は、小さな事がらによって左右される。さながら大きな器が小さな釘で吊り下がっているのと同じである。そして、あなたがた、今晩この場で会衆席に座り、自分の将来取るべき道筋を思い巡らしている人たちは、多くの人々を天国に導くはずのことを行なうかもしれない。だが、もしあなたが別の道に決めれば、多くの人々にとって現世と永遠とにわたって呪いとなるはずのことを行なうかもしれない。それを覚えておくがいい。また、思い起こすがいい。あなたが自分の人生の中で、いかに責任ある立場に置かれかねないかを。また、いかにあなたを導く神の恵みがともになくてはならないかを。それは、あなたが行なうこと、行なわないでしまうことによって他の人々に害悪を及ぼさないためである。

 さらにまた、いかに大きな結果が、いかに小さな行為から生じうるかに注意するがいい。弓から矢を射ることは、非常に取るに足らないことではなかっただろうか? あなたの子どもは、休暇になるとそれを何度も行なってきた。その子は自分の弓を持って行き、小さな手作りの矢柄を宙に向かって射たものである。これこそイスラエルの王がするように命ぜられたことであった。この、非常に些細でありふれた弓術のわざを行なうこと、開かれた窓から弓を射て、自分の矢を下の地面に突き刺すことであった。だがしかし、そうした矢を射ることで、イスラエルの勝利か敗北かが決することになるのである。そのように、ある人々は、福音を聞くことなど小さなことだと考えている。いのちと、死と、未知の世界が、1つの説教を語り、聞くことにかかっているかもしれない。ある説教を注意深く聞き、気を散らさないことは、非常に些細なことと思われるかもしれない。だがしかし、その言葉を受けとめることが、信仰を得るか取り逃がすかを、ひいては、信仰によってやって来る救いのあるなしをもたらしかねないのである。私たちの行なう、一見つまらないようなことで、私たちはしばしば世界を揺るがしているのである。偉大な行動のように見えることは、実は、蒲公英の冠毛のようなものにすぎないのかもしれない。だが、ある小さなきっかけが、結果からすると実は大きなものであるかもしれない。害悪の母は小魚の卵ほど小さなものである。そして、恵みの始まりは、からし種ほどの大きさしかない。それゆえ、小さな物事を軽くあしらってはならない。こうした小さな物事によって、最大の事がらが、すなわち、永遠の状態の偉大な事がらすらもが左右されかねないからである。

 私には、こうした教訓が、今晩の私たちの主題の敷居そのものの上に横たわっているように思われる。だが、あなたを敷居の上に長々ととどめておくことはできない。私たちは、主題そのものに入らなくてはならない。

 I. 第一に語らせてほしいのは、《多くの人々があまりにもすぐに立ち止まってしまう、いくつかの事がら》についてである。ある人々は、種々の大きな機会を得ていながらも、――そして、私たちはみな多かれ少なかれ、そうした機会を得ているが、――五回か、六回射るべきときに、三回しか射ることをしない。

 こうした事がらの1つは、内なる悪との戦いにおいてである。ある人々は、キリスト者生活を始めるや否や、弓に矢をつがえ、いくつかの大きな罪を射る。冒涜的な悪態や、酩酊や、種々の公然たる不潔行為などである。だが、三度射てしまうと、彼らは他の内なる敵たちを大目に見て良いと考えるかに思われる。私の兄弟よ。あなたは五回、六回、射るべきであった。あなたの中には短気が残っており、それは打ち負かされなくてはならない。あるいは、人を赦せない性質が残っており、それは殺されなくてはならない。そうした悪いものを生かしたまま天国に行くことはありえない。あるいは、あなたは高慢で、自信満々である。あなたには、その悪のための矢はないのだろうか。神は高慢を憎んでおられ、あなたも憎むべきだからである。しかし、一部の人々は云う。「ですが、これが私の質なんですよ」。よろしい。ならば、あなたは別の質にならなくてはならない。さもないと、天国には行き着けないであろう。「おゝ!」、とある人は云うであろう。「それは、私に絶えず襲いかかる罪なんですよ」。何としばしばこうした云い訳が用いられることか! 私が今晩、クラパム公園を横切るとして、十数人の男たちから取り囲まれ、殴り倒され、物を盗られるとしたら、私は彼らに襲われたと云うべきであろう。だが、もし私が家に落ち着いていて、彼らを自宅に呼び入れ、彼らとともにご馳走を食べ、彼らに私から物を盗ませるとしたら、私は襲われたなどとは云えない。私が彼らをそこに招き入れたからである。ある信仰告白者たちは、罪の中にいることに甘んじている。もう一度云おう。彼らは自分が罪の中にいることに甘んじている、と。ある人は云うであろう。「ですが、見ての通り、私はいつもとても頭に血が上りやすいのですよ」。私の兄弟よ。あなたは、頭に血が上りにくい者にならなくてはならない。別の人は云うであろう。「私はいつもとても苛立ちやすいのですよ」。あなたは、そうした苛立ちやすさを取り除かなくてはならない。私の愛する方よ。神の恵みによってあなたは、そうした悪習慣に打ち勝つことを学ぶべきである。私たちは罪を犯す。だが、いかなる罪をも大目に見てはならない。ある人があぐらをかいて、「この罪は克服できないですよ」、と云っているとしたら、それはその人の破滅となるであろう。あなたはそれを克服しなくてはならない。あらゆる罪は克服されるべきである。そして、もしあなたが三回打って、それでやめたとしたら、満足していてはならない。それがあなたの状態だとしたら、今晩、神の人は、あなたに何の平安も与えまい。むしろ、彼はあなたに云うであろう。「あなたは、五回、六回、打つべきだった」、と。あらゆる罪は一掃されなくてはならない。というのも、キリストが死なれたのは、私たちを救って私たちのもろもろの罪の中にとどめておくためではなく、私たちを私たちのもろもろの罪の中から救い出すためであったからである。

 ある人々が三回射てから、それでやめてしまうのは、キリスト教の知識に関してである。彼らは信仰による義認という単純な真理は知っている。だが、神の御霊による聖化についてはあまり知ろうとしたがらない。私の兄弟よ。それはなぜなのか? あなたは、聖くされもせずに救われることができるだろうか? ある人々は、最初の諸原理を据えては、常にそれらを反復するだけで完璧に満足している。それ以上何も知りたがらない。だが私は切に願う。神のみこころのことにおいては、教育を深めるよう励むがいい。「信じて生きよ」、という最初の綴り字教本だけを読むのではなく、聖潔および交わりという高度な古典書をも読み進めるがいい。信仰において精通するよう努力するがいい。「すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができ」[エペ3:18-19]るようになるがいい。みことばの勤勉な学徒になるがいい。そのため打ち込むがいい。天来の真理に没入し、それによって徹底的に染め抜かれるようにするがいい。

 やはりまた、ある人々がこのようなしかたで罪を犯すのは、キリスト者として達する境地に関してである。彼らには小さな信仰があり、こう云う。「からし種ほどの信仰があれば救われるのです」。それは正しい。私は決して小さな者たちの心を挫こうなどとは思わない! しかし、あなたはいつまでも小さな者のままでいるべきだろうか? からし種は、生長しなければ何の価値もない。それは、木になり、鳥がその枝に巣を作るほどになるべきである[ルカ13:19]。さあ、私の愛する方々。もしあなたに小さな信仰があるとしたら、大きな信仰を持つまで安心してはならない。完全な確信をいだき、完全な理解に立った確信をいだくまで安んじてはならない。あなたはキリストを愛している。だが、なぜもっとキリストを愛さないのだろうか? あなたには希望がある。だが、なぜより明確な期待をいだかないのだろうか? あなたには、ちょっとした忍耐がある。だが、なぜ苦しみに耐え、患難をも喜ぶほど満ちあふれる恵みをいだかないのだろうか? 「おゝ、私にはそこまで行けません!」。まことにそうである。神の人は今晩怒ってはいない。だが彼は、もしもあなたが本気でそう云ったと思うなら、少しばかりあなたに怒りを覚えるであろう。あなたは、そこまで行ける。行かなくてはならない。あなたは、キリスト・イエスにおいて上に召される栄冠[ピリ3:14]なしに満足しているべきではない。むしろ、走るべきである。一心に走るべきである。天来のいのちにおいて日々進歩していない限り満足すべきではない。

 また他の人々は、少し用いられているだけで満足しているように見受けられる。あなたは、ひとりの魂をキリストに導いたではないだろうか。おゝ、あなたが別の人を導きたいと切望するとしたらどんなに良いことか! あなたは戦争中にかの将軍がいったことを覚えていないだろうか? ある者が彼のもとに馬を乗りつけて、こう叫んだ。「わが軍は、敵から大砲を一門奪いました」。「もう一門奪え」、と将軍は云った。もしあなたが、魂を1つキリストに導いたなら、それによってあなたは、別の魂を導こうと飢え渇くべきである。あなたは、これまで《日曜学校》に身を置いていた。そこに留まるがいい。受け持ちの学級を増やすがいい。そして、あなたの生徒の男子や女子たちが救われるまで安んじてはならない。時としてあなたは村々で説教している。二倍多く説教するがいい。それで疲弊しはしないであろう。一部の愛する人々は、なすべきことの一例として用いられるだけの恵みしか有していない。私が耳にしたことのあるある人は、巴里に行ったとき、とある料理店に入ってから厚切牛の焼肉を注文したという。すると、その料理がほんのちょっぴり皿に載せられて出された。そこで彼は、すぐにそのすべてを自分の肉叉で突き刺して、こう云った。「しかり。これは厚切り肉と同じ種類のものだがね、もっと持ってきてくれ給え」。ある人々が用いられるしかたは、本当に熱心な人にとっては、ほんの一口大でしかない。私たちはそうした人に云う。「しかり。それは正しい種類のものではあるが、もっと持ってきてくれ給え」、と。なぜあなたは、もっと多くを行なわないのだろうか? 他の人々よりは多く行なっている。だが、なぜあなたは三回射てやめるのだろうか? 「あなたは、五回、六回、打つべきだった」。

 そして、この精神がまざまざと現われるのは祈りにおいてである。あなたは本当に祈っている。さもなければ、あなたは神の生きた子どもでは全くあるまい。だが、おゝ、祈りにもっと力があればどんなに良いことか! あなたはある祝福を求めてきた。なぜ、さらに大きな祝福を求めないのだろうか? 私たちは、あの執拗なやもめのような型のキリスト者がもっといてほしいと思う。そうした者らは、近頃非常にまれになってしまった。私は、あの女の後継者たちを見たい。自分たちを祝福してくださるまで《王》を立ち去らせようとしない者たちを。ヤコブがしたように御使いをつかんでは、祝福を受けるまで一晩中格闘する者たちを。あなたはよく祈ってきた。だが、ずっと大いに祈るべきである。いかなる祝福が待っていることであろう。いかある富が神の御手で待ち受けていることであろう。自分の膝を曲げ、贖いのふたの前にとどまり、神に対して勝訴するまでそうしている人には!

 神の《教会》が全体として咎を有しているのは、神の栄光のための種々の計画についてである。今の教会は、かつてよりもずっと多くのことを行なっている。だが、教会が三度打っている今でさえ、私たちはこう云えよう。「あなたは、五回、六回、打つべきだった」、と。おゝ、キリストの《教会》が自分の主のために世を征服しようという果てしない大望を有しているとしたらどんなに良いことか! おゝ、私たちが日も夜も決して安んじなければ、どんなに良いことか。自分の隣人たちに《救い主》を知らせるまで、また、あらゆる階級の罪人たちに、イスラエルには神がおられると知らせるようになるまで! いざ立ち上がるがいい。あなたがた、これまで僅かしか行なってこなかった人たち。時おりバプテスマ槽がかき乱されるだけで、また、年間五、六人が加入するだけで満足していた教会たち! おゝ、神に対する叫びが、また、過去のものとは非常に異なる種類の、神のための労苦があるならどんなに良いことか!

 手持ち時間が少ないため、この点について詳しく語ってはいられない。だがあなたは、幸先の良い出だしを切りながらもやめてしまった多くのことについて考えを及ぼせるであろう。

 II. しかし今、第二に語らせてほしいのは、《このように立ち止まってしまう、いくつかの理由》についてである。なぜ人々は、このほど早くぴたりと静止してしまうのだろうか?

 彼らの中のある者らは、自分たちは増上慢になるのを恐れているのだと云う。あなたは、聖くなりすぎることを恐れているのだろうか。そのような恐れは退けるがいい。あなたはあまりにも多くの恵みを求めすぎることを恐れているのだろうか? あまりにも少ししか恵みを有していないことを恐れるがいい。あなたは罪に打ち勝つことを恐れている。打ち勝たれていない罪への恐れに震えるがいい。神の最も大きな約束を受け取り、それを申し立て、その成就を期待することは何の増上慢でもない。

 ことによると、ある人は云うであろう。「私には、これ以上のことを行なったり、享受したりする天性の能力がありません」。天性の能力に何の関係があるだろうか? あなたの天性の能力の一切が墓の中にあるとき、また、あなたが神の霊的な力だけに目を向けているとき、そのとき、あなたはこれらにまさる大きな事がらを目にするであろう。私は切に願う。そのようには語らないでほしい。別の人は云うであろう。「よろしい。私は年老いつつあります。以前のようには射ることができません」。よろしい。愛する方よ。もしあなたが老け込みたければ、最も確実にそうする方法は老け込むこうである。これは本気で云っている。以前のようにはできないと考え、自分が年老いつつあるからといって自分の信仰上の関わり合いをやめてしまうとき、また、高齢になったからといって説教をやめるとき、また、高齢だからと云って《日曜学校》をやめるとき、あなたはみるみる年老いるであろう。それこそ、確実きわまりなく老け込む道である。わが国の政治家たちを見るがいい。彼らがいかなる年齢にあっても働き続けているかに注目するがいい。その1つの理由は、彼らが働き続けているからである。彼らが仕事をやめるなら、やめなくてはならないであろう。もし私たちが励み続けるなら、老犬にもまだいのちがあることを証明するであろう。頭が白髪になり、声は弱々しくなりつつあるとしても、私たちにはまだ神の御国の進展のために何かを行なうことができる。自分の年齢を云い訳にするのは、神のための私たちの働きが実際に年齢のために妨げるようになるまで待つがいい。そのときには、主に仕えるために私たちにも行なえる別のことをして、老齢においてさえ実を結ばなくてはならない。

 人々がその働きにおいて立ち止まる本当の理由をあなたに告げても良いだろうか? ある人々の場合、それは彼らが自分と同じ人間に、あまりにも頼り切っているからである。ヨアシュ王は、エリシャがその手を彼の手の上にのせたときには射ることができた。おそらくエリシャは一度だけそうして、後はヨアシュにまかせて、「さあ、射なさい」、と云ったのであろう。それで彼は三回だけ射たのである。キリスト者である多くの人々は、それまで自分を助けてくれた自分の教役者たちに、あるいは年長のキリスト者たちに頼り切っている。その人が死んでいなくなると、あるいは、遠くへ去って行くと、彼らはもはや射ることをしない。愛する方々。私は、あなたが一生おぶわれなくてもすむようになってほしいと思う。私たちは、子どもたちに対しては養父となり乳母となることに反対はしない。だが、成人したあなたには、ひとりで走ってほしいと思う。この場にいる父親たちの誰であれ、二十六歳にもなった息子をだっこしなくてはならないとしたら、どう考えれるだろうか? いいかげんに、その子はひとり立ちすべきである。ある教会員たちは、なおも常に自分の監督をしている誰かの影響を受けたがる。矢を射る際のヨアシュにとってエリシャがそうであったのと同じである。そうあってはならない。むしろ、神の助けにより、矢を射ては射続けるがいい。あなたの矢が尽き果てるまでそうするがいい。

 ある人々が立ち止まる別の理由は、あまりにもすぐに満足してしまうからである。ヨアシュは三回射ただけで非常に良くやったと考えた。そして、エリシャが背中を叩いてくれて、「何と立派に行なったことだろう!」、と云ってくれるものと考えた。こうした種類の感情が、主のための多くの働き人に忍び寄る。彼らは、自分が務めを果たしたものと思い込む。自分の出番は終わった。後は他の人に行なわせよう、と。また、彼らはその働きを非常に見事にも果たしてきた! あゝ、しかり。自分の行なったことに満足するという漏れ口は、何と多くのものをじくじく滲み出させることか! 私たちは、「完了した」、と云えるほど十分には何事も行なっていない。なおも占領すべき地がたくさん残っている[ヨシ13:1]。そして、神の御名において私たちは、自分の達成したもの、あるいは、自分の奉仕に対するあらゆる満足を、心から追放しよう。そして、これまで成し遂げてきたことにはるかにまさることを主のために行なおう。ご自分の尊い血によって私たちを買い取ってくださった愛する主のために。

 また、ヨアシュが射るのをやめたのは、おそらく、信じていなかったためであろう。彼は、矢を射ることがいかにしてアラム人に影響するか見てとれなかった。そして、彼は見ることを欲した。おゝ、兄弟姉妹。私たちは誰ひとりとして十分には神を信じていない! 神をきわみまで信じるがいい。このようにしてあなたは成功する働き人となり、神のために大いなる事がらを成し遂げるであろう。いかなる人も、自分の足元にある数々の可能性を知ってはいない。それらを測ることは不可能である。ただ不信仰だけがそれらを縮小できる。思い出すがいい。キリストでさえ、人々の不信仰ゆえにご自分の郷里では多くの奇蹟を行なうことがおできにならなかったことを[マタ13:58]。そして、主のための働きを行なうことから私たちをとどめるものとして、この永遠にほむべき《お方》に対する不信仰にまさるものはない。

 私はまた、ヨアシュが五回、六回と射るには怠惰すぎたのだとしても全く不思議には思わない。彼は矢を射たい気分では全くなかった。さて、あなたが祈りたくない気分にあるときは常に、そのときこそ二倍も祈るべき時である。あなたが自分の組を教えたくないときには、自分に向かって云うがいい。「お前は、きょうは良く行なわなくてはならない。私がお前にそうさせてやろろう。このあわれな、怠け者の、私の肉めが!」 私が聞いたことのあるある人は、集会所に行くのが大儀だったとき、立ち止まって自分の足に向かって云ったという。「さあ、お前は私を何哩も劇場まで連れていったものだな。ならばお前には私を連れて行かせてやる、神の家までな!」 そのように、私は自分自身に向かって、また、互いに向かって、こう云って良いであろう。「私たちは、自分の娯楽に向かって走っていたときには、また、悪を行なうため軽薄な群衆と行をともにしていたときには、十分に活発であった。ならば私たちは、今は私たちの神への奉仕において活発になろう」。私たちの中の誰ひとりとして、羽根布団の上に乗って天国に行き着くことはない。しかり。これは、この場所から真珠の門に至るまで、その巡礼路を行進することなのである。

 ヨアシュは、おそらくあまりにも乏しい熱心しかなかったのであろう。彼は目覚めきっていなかった。徹底的に覚醒していなかった。神の栄光について気遣っていなかった。もし彼がアラム人を三回打ち負かすことができたとしたら、彼にとってはそれで全く十分だった。彼は、それで彼らが十分に痛い目に遭うだろうとも考えた。果たして私が語りかけている人々の中に誰か、自分の弓と矢を片づけたばかりの人がいるだろうか? 日曜学校から引退しようと決心したばかりの兄弟がいるだろうか? あるいは、この世の仕事が多すぎるので、あの村の伝道所から手を引かなくてはならないという人がいるだろうか? だとしたら、この主題をよくよく考え、自問するがいい。あなたは今晩、意図的にここに遣わされたのではないだろうか。それはあなたが五回、六回、打つべきであると、また、これまでしてきたよりもはるかに多くのことを行なうべきであると告げられるためではなかっただろうか。神はこの場にいる人々に向かってしばしば本当にお語りになる。そして、時には、非常に鋭くお語りになる。ある人々は私に手紙を寄こして、自分たちについての一切合切を、誰があなたに告げたのですかという。だが、私はそうした人々について一生の間、一度も聞いたことがないのである。神は人々の良心に、ご自分のしもべたちによって真実にお語りになる。そして、私はこの場にいる神のあらゆる子どもたちに向かって云いたい。これが、かの卓越した栄光からの使信ではないだろうか、と。「続けるがいい。続けるがいい。あなたのうちにいのちがある限り。恵みにおいて成長し続け、キリストへの奉仕において前進し続けるがいい」。

 III. しかし今、第三に、また、ごく手短に注意したいのは、《この立ち止まりの嘆かわしい結果》である。

 ヨアシュは、三回射た後で立ち止まった。それゆえ、祝福は止まった。三回、彼は射た。そして、三回、神は彼に勝利をお与えになった。あなたは立ち止まることで自分が何をしているか分かっているだろうか? あなたは、祝福の川があなたに流れてくるはずの導管を塞いでいるのである。そうしてはならない。自分を貧乏にすることは、確かにしなくとも良い作業に違いない。

 あなたは、この王のように、結果として苦しむであろう。というのも、三回の勝利の後では、この敵国は再び力を盛り返したからである。あなたは、神からの恵みという日々の供給を引き出すことをやめるなら、あるいは、罪を目がけて矢を射ることをやめるなら、多くのしかたで苦しむであろう。

 他の人々も、あなたとともに苦しむであろう。全イスラエルは、ヨアシュが矢を射なかった分だけ凋落した。あなたの子どもたち、隣人たち、友人たち。いかに多くの人々が、あなたが恵みにおいて、また神の恵みの奉仕においてたるんでいるために苦しむことになるか、誰に知れよう?

 その間、敵は勝利を収めた。地獄では、ある聖徒が怠け者になるとき、喜びがある。私たちが祈りをやめるとき、信仰においてたるんでいくとき、また、神との交わりにおいて弱々しくなるとき、悪鬼どもは歓喜する。

 それより悪いことに、ヨアシュ自身に屈辱が与えられた。偽りの神々の礼拝者たちはイスラエル中で勝利を収め、無限に栄光に富むエホバは、さもなければ行なったようには、ご自分の力を明らかに示すことをなさらなかった。神からそのご栄光を奪わないようにしようではないか。というのも、それこそ最悪の盗みだからである。むしろ、私たちの生き方によって、私たちのようにあわれな生き物から引き出せる限りの最大の栄光を、永遠にほむべき神にささげるようにしようではないか。

 そしてまた、栄光に富む数々の可能性が失われた。いかに栄光に富む可能性があなたの前に横たわっているか見てみるがいい。そして、それらが指も触れられずに放置されないようにするがいい。かりにあなたが貧乏人だったとしよう。だが、もしあなたの畑に金鉱が埋まっていて、踏み鍬を使うだけで金持ちになれるとしたら、あなたは、自分がそれをかくも長い間放っておいたことを残念に思うではないだろうか? あなたがた、神の子どもたちは豊かになり、祝福され、幸いになれるのである。あなたは、この鉱脈に手をつけないままにしておくというのだろうか? あなたがた、罪人たち。まだ《救い主》を求め始めたばかりの人たち。もっと熱心にこのお方を求め、もっと堅くキリストにすがりつくがいい。そうすれば、じきに祝福を得るであろう。われとわが手で、自分を御国から閉め出して良いだろうか? そうならないようにするがいい。

 IV. 残り時間からして、しめくくらなくてはならない。だが、ほんの一言か二言、《この立ち止まりをなくす治療薬》について語らなくてはならない。

 たとい私たちが、私たちの聖なる奉仕において、あるいは、神に近づくことにおいて、あるいは、数々の約束の精髄を吸収することにおいて立ち止まっているとしても、敵は立ち止まろうとしないことを思い出すがいい。あなたは、酒類取引をやめさせることはできない。ロンドンの売春婦たちにその誘惑をやめさせることはできない。不信心者たちを止めることはできない。「《下り勾配》を行く者たち」を止めることはできない。彼らはみな、その全力を傾けて主イエス・キリストの御国に害悪を加えることに従事している。そしてあなたは、あのスコットランド人船長が配下の者らに突きつけたのと同じ選択を前にしているのである。「お前ら」、と彼は云った。「あそこに敵が見えるだろうが。もしお前らが奴らをぶっ殺さねえと、奴らがお前らをぶっ殺すぜ」。もしあなたが悪の諸勢力を転覆しなければ、悪の諸勢力があなたを転覆させるであろう。おゝ、願わくは神が私たちに、その選択について何のためらいも持たせないでくださるように。むしろ、私たちが御霊の力によって、神の解放の矢を射続けることができるように。キリストご自身がやって来られる時まで!

 この足踏みをなくす1つの治療法は、他の事がらにおいては、概して私たちが熱心であることを思い返すことにある。もしある人が商売に携わっているとしたら、その人は商売中、きわめて活発なはずである。もしある人が何らかの勉学をしているとしたら、その人はくたくたになるまで、それを理解しようとするであろう。では、私たちは主の働きを気乗りのしないしかたで行ない、恵みの事がらにおいてはいいかげんにし、できるだけ少ししか事を行なわなくて良いだろうか? 主がこうした精神から私たちを救ってくださるように! 少量のキリスト教信仰は非常に危険なものである。その甘やかさに達したければ、深々と飲み込むがいい。それは、上澄みの方は苦いが、その深みそのものまで飲むとき、その澱は、息も絶え絶えな霊にとって極上の強壮剤となる。願わくは私たちが、キリスト教信仰の内的な核心を知ることができるように。というのも、それこそ、その甘やかさが存する所だからである!

 そして最後に、この問いが私たちを少しも立ち止ませないようにするべきである。私たちは、私たちの《救い主》のために十分に行なうことなどできるだろうか? 主はどこかで止まっただろうか? みわざが半分なされたところで、やめたと叫んだりされただろうか? 主はエルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けておられなかっただろうか?[ルカ9:51] 鞭打ちが浴びせかけられたとき、主は後ずさりして私たちを置き去りにしたりなさらなかった。釘がその御手と御足に打ち込まれたとき、私たちを見捨てなさらなかった。御父から捨てられたとき、私たちをお捨てにはならなかった。むしろ、「完了した」[ヨハ19:30]、と云えるときまで、みわざをやり抜かれた。おゝ、私たちひとりひとりが、自分の働きをやり抜こうと決心し、こう云えるとしたらどんなに良いことか。「私は手を上げて主に宣誓したのです。ですから、後戻りはできません」、と。願わくはあらゆるキリスト者の人々がそう云えるように!

 そして、あなたがた、まだキリストを信じていない人たち。願わくはあなたが、咎ある者のために死なれたこのお方を信じるように至らされるように! 木の上にかかって死なれたこのお方にあなたを明け渡すがいい。そして、そのことをした上で、主があなたを見て、「あなたの罪は赦された」、と仰せになるときには、主を仰ぎ見て、云うがいい。「私は、その甘やかなことばゆえに、あなたをほめたたえます。私の主よ。そして、いま私は、これから一生の間あなたにお仕えします」、と。願わくは、《生かす御霊》が、こうした弱々しい言葉を天来のしかたで生かし、あなたがた全員に五回、六回と射させてくださるように。イエスのゆえに! アーメン。

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三本の矢か、六本の矢か?[了]


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