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キリストの来臨のため目を覚まして

NO. 2302

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1893年4月2日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1889年4月7日、主日夜


「帰って来た主人に、目をさましているところを見られるしもべたちは幸いです。まことに、あなたがたに告げます。主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばにいて給仕をしてくれます。主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、いつでもそのようであることを見られるなら、そのしもべたちは幸いです」。――ルカ12:37、38


 私がこれから語ろうとしているのは、キリストの《再臨》についてである。そして、私がいま感謝を感じているのは、私の愛する兄弟の祈りが、事前に何の打合せもしていなかったにもかかわらず、あらゆる意味で、これから語ろうとしている主題にふさわしいものだったことである。彼は、その祈りによって私たちを導き、来たるべき私たちの主について考えさせてくれた。それで、あなたは今やその主題の川の縁に立っていると思う。また、大して力を要さずに、その流れのただ中に精神を没入させることができるであろう。《救い主》の《再臨》に関する思想の急流に身をまかせることができるだろうと思う。これは、私たちが聖餐卓に近づこうとするときには、きわめて適切な話題である。というのも、その祈りが思い出させた通り、主の晩餐は、後ろを振り向いては、主の苦悶を記念するものだが、前方を見ては、主の栄光を予期するものだからである。パウロはコリントにある教会に向かってこう書いている。「ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです」[Iコリ11:26]。正しい心で前方にあるキリストの《再臨》を――すなわち、その《教会》の喜びを――見るとき、あなたは、聖餐卓のもとにやって来るための正しい心の状態にもなるであろう。願わくは聖霊がそうならせてくださるように!

 その聖餐の食卓における姿勢は、知っての通り、私の主の模範によれば、膝まずくのではなく、もたれかかる姿勢であった。あなたに取れる最も楽な姿勢が、主の晩餐には最もふさわしい。だがしかし、思い出すがいい。その晩餐が終わるや否や、彼らは「賛美の歌を歌って」、その賛美の歌が終わってからはオリーブ山へ、そしてゲツセマネの苦悶へと出かけたのである[マタ26:30]。今もそうだが、私にはしばしばこう思われることがある。私たちは、キリストを養いとすることで、この卓子に安息を見いだす。肉的にではなく、霊的な種類におけるキリストの現存を得る。そうした後で、私たちは賛美の歌を歌う。あたかも、その《再臨》における私たちの主を出迎えに行くかのようにである。それは、オリーブ山に行って、血の汗を流す主を見るためではなく、次のような御使いの言葉を聞くためにである。「あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります」[使1:11]。私は、今晩の私たちがこの交わりの卓子を立って外に行くとき、私たちの主とたちまち出会うとしても、全く驚くべきだとは思わない。しかり。家の主人が来る時間を知らない私たちは、常に主の現われを待ち、常に主を期待しているべきである。この世は主を期待していない。それは食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしている。だが、主ご自身の家族は、主を期待しているべきである。主は、婚礼から戻って来るとき、ご自分に対して閉ざされている戸を見いだすことなく、お叩きになるや、私たちがすぐさま主に戸を開こうとしているはずだと思う。それこそ、私が今晩語ることになる二言三言の目的である。それは、あなたを、また、私自身の心をかき立てて、キリストの《再臨》のため常に目を覚まさせておくためである。

 I. 第一に、主は《来られる》。ひとたび来た主は、再びおいでになる。二度目にやって来られる。主は来られる。

 主が再び来るのは、戻って来ると約束されたからである。主ご自身がそう保証しておられる。これが、主を期待する私たちの一番目の理由である。主がそのしもべヨハネに対して最後にお語りになったことばの中にこうある。「しかり。わたしはすぐに来る」[黙22:20]。これは、こう読むこともできる。「わたしは、すみやかに来つつある。わたしは今しも途上にある。わたしは知恵の許す限り最速で旅しつつある。わたしは常に来つつあり、すみやかに来つつある」、と。私たちの主はおいでになると、また、肉体をもってやって来られると約束された。ある人々は、キリストの《再臨》が信仰者の死を意味するかのように説明しようとする。そう考えたければ、キリストはその聖徒たちが死ぬ際においでになると考えても良いであろう。ある意味で、主はそうなさる。だが、その意味は決して聖書の至る所にある《再臨》の教えの完全な意味を伝えてはいない。しかり。「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます」[Iテサ4:16]。天国に上ったお方は天国から下りて来て、後の日に、ちりの上に立たれるであろう[ヨブ19:25]。贖われたあらゆる魂は、ヨブとともにこう云える。「私の皮が、このようにはぎとられて後、私は、私の肉から神を見る。この方を私は自分自身で見る。私の目がこれを見る。ほかの者の目ではない」[ヨブ19:26-27]。キリストは、かつて恥辱において地上におられたのと同じくらい確実に、栄光において再び地上に来られるであろう。主は戻って来ると約束されたからである。

 さらに、贖いの大計画からしてキリストはお戻りになる必要がある。その計画の一部によると、主は、かつて罪のためのいけにえを伴ってやって来たように、二度目には、罪のいけにえなしにやって来るべきである[ヘブ9:28]。主は、かつて贖うために来たように、二度目はそれほど高価な代償で買い取られた相続財産を請求するために来るべきである。主がかつて来られたのは、そのかかとが傷つけられるためであった。主がもう一度来られるのは、蛇の頭を踏み砕き[創3:15]、鉄の杖でご自分の敵どもを焼き物の器のように粉々にする[詩2:9]ためである。主がかつて来られたのは、茨の冠をかぶるためであった。主がもう一度やって来なくてはならないのは、宇宙を支配する王冠を戴くためである。主は婚宴にやって来られる。ご自分の聖徒たちを集めにやって来られる。かつてご自分も彼らも蔑まれ、人々からのけ者にされた[イザ53:3]この同じ地上で、ご自分とともに彼らを栄光ある者とするためにやって来られる。このことは確信するがいい。贖いという演劇のすべては、《王》の到来というこの最終幕がなくては完成することがありえない。《復楽園》の全歴史からして、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天からやって来る[黙21:2]ことは必要なのである。そして、やはり必要なのは、天的な《花婿》がその白い馬に乗り、勝利の上にさらに勝利を得る者、《王の王》、《主の主》として、聖徒たち、御使いたちの永遠のハレルヤの中をやって来ることである[黙6:2]。そうでなくてはならない。ナザレの人は再びやって来るであろう。《十字架につけられたお方》は再びやって来る。そして、その釘の跡は見えても、いかなる釘もそのときには、その愛しい御手を木に釘づけはしない。むしろ、その代わりに、主は宇宙の主権者なる王笏をつかみ、永久永遠に統治なさる。ハレルヤ!

 いつ主は来られるだろうか? あゝ、それが問題である。問題の中の問題である! 主はご自分の時に来られる。しかるべき時に来られる。ある同労教役者が私を訪ねて来て、私たちが腰を下ろすなりこう云った。「私は、未来について先生に伺いたいことがたくさんあります」。「おゝ、よろしい!」、と私は答えた。「私はあなたに答えられませんよ。というのも、たぶん私はそれについて、あなた以上に何も知らないでしょうからな」。「しかし」、と彼は云った。「主の《再臨》についてはいかがですか? まず千年期があるのではないでしょうか?」 私は云った。「私は、まず千年期があるかどうか告げることはできません。ですが、このことは知っています。聖書は、私に見てとれる限り、この件全体を意図的にぼかしているということです。それは、私たちに常にキリストのおいでを期待させ、私たちが、いついかなる時に主がおいでになっても良いように見張っているようにするためです。私は、千年期は主の来臨の前ではなく、後に始まると思います。《王》が不在の王国など想像できません。私には、そのときに《王》が明らかに現わされることが、千年期の栄光には不可欠の部分のように思われます。それと同時に、私は、その点について、いかなる明確なものも規定するつもりはありません。主は一千年間おいでにならないかもしれませんし、今晩おいでになるかもしれません。聖書の教えは、まず第一にこうなのです。『人の子は、思いがけない時に来るのです』[マタ24:44]。明らかに、もし主が来られる前に一千年が経過しなくてはならないと啓示されたとしたら、私たちはその間、眠っていてもほとんどかまわないことでしょう。聖書が私たちに、主はおいでにならないと告げたとき、主がおいでになると期待すべき何の理由もないからです」。

 「よろしい」、と私の友は答えた。「ですが、キリストが来られるときには、万人の審きがあるのですよね?」 そこで私はこの言葉を引用した。「キリストにある死者が、まず初めによみがえり」[Iテサ4:16]。「そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である」[黙20:5]。私は云った。「使徒パウロが何とかして達そうとした、死者の中からの復活があります。私たちはみなよみがえることになりますが、義人は不敬虔な者たちよりも千年だけ早くよみがえるのです。一方ともう一方の間には、それだけ時間の開きがあるのです。それが千年期の栄光かどうかを、この供述人は云いません。たとい、そうだと考えていてもです。しかし、肝心なのはこのことです。主は来られるのです。私たちは、主の到来をいつ予期すべきか分かりません。私たちは、いかなる明確な予測や状況をも、絶対確定したものとしては規定すべきではありません。その予測が実現するまで、あるいは、その状況が現われるまで、私たちがずっと寝ていてかまわないような予測や状況などは」。

 「ユダヤ人たちはキリストに回心し、彼らの故国に回復されないのでしょうか?」、と私の友人は尋ねた。私は答えた。「ええ、私はそう思います。確かに、彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆くでしょう[ゼカ12:10]。また、神は彼らに王国と栄光をお与えになるでしょう。彼らは神が永遠に捨てることのないご自分の民ですから[ロマ11:1]。台木のオリーブの枝であるユダヤ人たちは、これから彼ら自身のオリーブの木につがれることになります[ロマ11:24]。それから異邦人の完成[ロマ11:25]がなるのです」。「それはキリストが来られる前でしょうか、後でしょうか?」、と私の友は問うた。私は答えた。「それは、主の来られた後だと思います。ですが、そうであろうとなかろうと、私は、この件についていかなる明確な意見にも肩入れするつもりはありません」。

 あなたがた、私の愛する方々に私は云いたい。――自分で読み、自分で調べるがいい。というのも、なおもこのことは第一のことであり、今晩私が強調したい唯一のことだからである。主は来られる。主はいま来られるかもしれない。明日来られるかもしれない。宵のうちに来るかもしれず、真夜中に来るかもしれず、あるいは夜明けまでお待ちになるかもしれない。だが、あなたがた全員に対して主が与えておられる一言はこうである。「目を覚ましていよ! 目を覚ましていよ! 目を覚ましていよ!」 そして、いつ主がおいでになろうとも、戸を開いてお迎えし、こう云う備えをしていよ。たった今、私たちが歌った賛美歌の言葉によって。――

   「ハレルヤ!
    ようこそ、ようこそ、《審き》の御神よ!」

そこまでは聖書的であると私には分かる。それゆえ、主の《再臨》について私たちがそう述べるのは完璧に安全である。

 兄弟たち。私はこの点について真剣になりたい。というのも、キリストの《来臨》がまだだと考えるのは、常に有害だからである。あなたがいかにしてそこに達そうと、それが預言の研究によるものであろうと、それ以外のしかたによるものであろうと関係ない。もしあなたが45節で言及されているようなしもべの意見をいだくようになっているとしたら間違いである。「ところが、もし、そのしもべが、『主人の帰りはまだだ。』と心の中で思い、下男や下女を打ちたたき、食べたり飲んだり、酒に酔ったりし始めると、しもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。そして、彼をきびしく罰して、不忠実な者どもと同じめに合わせるに違いありません」。それゆえ、主の《来臨》は遅れているだとか、主はまだ来られないとか、来るはずがないとか考えてはならない。それよりはるかにまさっているのは、一日千秋の思いで待ち焦がれ、主がおいでにならないと考えると、むしろ落胆するようになることである。私は、あなたが米国のある人々がしたように狂信的な、あるいは、愚かな行為をするほど、精神を動揺させられてほしいとは思わない。彼らは、昇天用の衣裳を着ては、森の中に分け入り、突如として真っ直ぐ天に引き上げられようとしたのである。いかに馬鹿げた観念にも陥らず、悔い改めを求めるがいい。主がやって来て、お求めになるかもしれないというので、食卓に空席や空の皿を用意するような、そうした類の他のいかなる迷信的なたわごとをも努めて避けるがいい。口をぽかんと開けて、種々の預言をうっとり眺めたまま立ち尽くしていることは、全く間違ったことである。はるかにまさっているのは、あなたの主のために働き続けること、自分自身と自分の奉仕を、主の現われのために備えておき、その間ずっと、こう思って自らを励ますことであろう。「私が働いている間に、私の《主人》はおいでになるかもしれない。私が疲れ切る前に、私の《主人》がお戻りになるかもしれない。他の人々が私を嘲っている間に、私の《主人》はお現われになるかもしれない。そして、彼らが私を嘲るかほめそやすかは、私にとって何でもない。私は、かの大いなる《労働監督》の目の前で生きているのであり、このお方がご覧になっていることを知りながら、私の奉仕を行なうのだ。こう期待しながら奉仕するのだ。ほどなくして、この方は、ご自分を私に明らかに現わしてくださり、そのときには、私を、また、私の正しい意図を、誤り伝える人々に対して明らかに現わしてくださる、と」。それが第一の点である。兄弟たち。主は来られる。これを銘記して覚えておくがいい。主は、ご自分の時に来られる。そして、私たちは常に主の現われを待ち受けているべきである。

 II. さて第二に、《主は私たちに、ご自分を待って目を覚ましているよう命じておられる》。それが、この聖句の核心である。「帰って来た主人に、目をさましているところを見られるしもべたちは幸いです」。

 さて、この、目を覚ましているとはどういうことだろうか? 私自身の言葉を使いたくはないので、あなたの注意を文脈に向けたいと思う。この、目を覚ましていることの最初に不可欠な部分は、私たちが、現在の事がらに夢中になるべきではない、ということである。あなたも覚えている通り、22節は、何を食べようかと心配したり、からだのことで何を着ようかと心配したりすることについてである。あなたは、そうしたことに心を奪われてはならない。あなたがた、キリスト者である人たちは、「何を食べたり飲んだりしようか? どうすれば財産を蓄えられるだろうか? どうすれば地上で食物や着物を得られるだろうか?」、と問うような肉的で利己的な生き方を送るべきではない。あなたは、干し草や水のことしか考えられない、物云わぬ、追い立てられる家畜以上のものである。あなたには不滅の霊がある。自分の不滅性の威厳にまで上るがいい。御国のことを考え始めるがいい。すぐにも来ようとしている御国、あなたの御父があなたに与えておられる御国、それゆえ、あなたが確実に相続するに決まっている御国、キリストがあなたのために備えておられる御国、キリストによってあなたが王とされ、神のための祭司とされている御国、キリストとともにあなたが永久永遠に統治するであろう御国のことを。おゝ、地上に縛られていてはならない! あなたの錨を地上という、この荒れ狂う海に投げ込んではならない。こうした木々のいずれにもあなたの巣をかけてはならない。それはみな斧のためにしるしがつけられており、いずれ倒されるものである。そして、ここにあなたの巣を築けば、それも倒れるであろう。上にあるもの、はるか彼方にあるものを思うがいい。――

   「永久(とわ)の時代(とき)経る、上つかた、
    堅き歓喜(よろこ)び つゆ絶えず
    永久の実の宴(さち) 霊をもてなす」。

そこに、あなたの思念、あなたの懸念を投げかけ、来たるべき世のことに心を配るがいい。この世に属する事がらを心配してはならない。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」[マタ6:33]。

 さらに読み下して行き、35節を注目してほしい。この、目を覚ましていることには、奉仕できる状態に自分を保つことが含まれていることが分かる。「腰に帯を締め……ていなさい」。知っての通り、東洋人はゆるやかな衣をまとっており、それは絶えず足にからみつく。つまずくことなしには歩くこともできない。それで、これから仕事をしようとする人は、自分の衣を腰のあたりにからげて、帯を固く締め、自分の務めに備える。東洋のたとえを西洋のたとえにすれば、私たちが英語で云うところの、襯衣の袖まくりをして仕事に備えるようなものである。それこそ、主に仕えるしかたである。奉仕のために備えができていて、主が来られるとき、決してだらけた姿でいないということである。ある日、私はひとりの姉妹に会いに出かけた。私が訪ねたとき、彼女は何か白い顔料で玄関先を綺麗にしているところだった。そこで彼女は云った。「あら、牧師先生。せっかくおいでくださったのに、こんな時で申し訳ありません。何としても、こんな格好お見せするんじゃなかったですわ」。私は答えた。「これこそ私が見たいあなたの姿ですよ。忙しく自分の仕事をしている所のね。お宅に入ったときに、あなたが裏庭の垣根越しにお隣の人とお喋りしているところを捕まえるなんてことは好みませんな。私は嬉しくなかったでしょうよ。願わくはあなたの主がおいでのときにも、あなたが同じように、自分の義務を果たしているのを見いだされるように!」 あなたは、何が意味されているか正確に分かっているはずである。あなたは自分の義務を果たしているべきである。神から召された使命に携わっているべきである。全くキリストへの愛ゆえにそうしたすべてを行ない、キリストへの奉仕として行なっているべきである。おゝ、私たちがそのように、自分の腰に帯を締めて、目を覚ましているとしたらどんなに良いことか! 働き、待ち受け、目を覚ましているがいい! あなたはこの3つを1つに合わせられるだろうか? 働き、待ち受け、目を覚ましているがいい! これこそ、あなたの《主人》があなたに求めておられることである。

 そして次に、主は私たちが、自分のあかりを灯しながら待っていることを望んでおられる。もし《主人》が夜遅く家に帰るとしたら、私たちもその帰りを夜遅くまで待っていよう。主人が家にお帰りになるまで、私たちは寝床に赴くべきではない。あかりはみな芯を切り揃えられているだろうか。その寝室には、ちゃんとあかりが灯っているだろうか。玄関広間は、主人がやって来ても準備ができているだろうか。《王》が来られるとき、あなたの松明は燃えているだろうか? この王者なる《花婿》を迎えに出て行き、ご自分の家までお供できるだろうか? もし私たちが、主のためにしかるべく目を覚ましているべきだとしたら、それは、ともしびを燃やすことによってなされなくてはならない。あなたのともしびは人々の間で輝いているだろうか? あなたのふるまいと性格は、あなたの隣人たちに善を施すような模範だろうか? また、あなたは他の人々に救いの道を教えようとしているだろうか? 一部の信仰告白者たちは、暗い角灯か、枡の下のあかりのようである。願わくは私たちが決してそのような者にならないように! 願わくは私たちが自分のともしびの芯を切り揃え、自分のあかりを燃やしている者として立ち、主人の帰りを待ち受けている人たちのようであるように。暗闇の中を歩いておらず、自分のあかりを隠してもおらず、むしろ、それを明るく輝かしているように! それこそ、キリストのために目を覚ましているしかたである。いつでも奉仕できるように自分の腰に帯を締め、自分の生きている暗い世を一心に照らそうと、自分のあかりを明るく燃え上がらせておくことである。

 平たく云えば、主の《来臨》のために目を覚ましているとは、主がおいでになる場合に行動していたいと願うのと全く同じしかたで行動することを意味する。私は《孤児院》の教室に小さな標語を見た。「イエス様ならどうなさるでしょうか?」 これは、私たちの全人生にとって非常に素晴らしい標語である。「これこれの場合には、また、これこれの場合には、イエスなら何をなさるだろうか?」 まさにそれを行なうがいい。もう1つの良い標語はこうである。「イエスがおいでになるとしたら、私のことをどうお考えになるだろうか?」 ある種の場所に、キリスト者は行けないはずである。というのも、そこにいるところを《主人》に見つかりたくはないからである。ある種の娯楽場に、信仰者は入れないはずである。というのも、《主人》がやって来て、そこにいるのをお見つけになるとしたら、恥じ入ることになるだろうからである。あなたは、もし《主人》がやって来られると感じているとしたら、ある種の怒りっぽい気質や、高慢や、不機嫌さや、霊的怠惰といった状態に陥りたくはないであろう。かりに、何か不親切な言葉を発してしまったとき、すぐさま御使いの翼があなたの頬をなでて、こういう声がするとしてみよう。「あなたのご《主人》がやって来られますよ」。あなたは、そのような状態にいながら主を迎えることに身震いするに違いない。おゝ、愛する方々。私たちは毎朝、それがキリストがやって来られる朝であるかのように起きよう。また、夜に寝床につくときには、こう考えながら身を横たえるようにしよう。「ことによると、私は主の《来臨》を先触れする銀の喇叭の響きによって目覚めるかもしれない。日が昇る前に、私は、あらゆる叫びの中で最も大きな叫びによって、自分の夢から飛び起きるかもしれない。『主が来られる! 主が来られる!』」 こうした思念は私たちにとって、何たる抑制、何たる督励、何たる手綱、何たる拍車となることであろう! このことを、あなたの全人生の指針とするがいい。自分の携わっている行為の最中にイエスがおいでになるかのように行動するがいい。そして、その最中には主の《来臨》が起こってほしくないと思うような行為は、行なわないようにするがいい。

 本日の聖句の二番目の節は、《主人》が真夜中に帰ること、あるいは、夜明けに帰ることについて語っている。私たちは、キリストのために、時代の当直番をする者であるかのように行動すべきである。ローマ人の間には、船上ででもあるかのように、何種類かの当直番があった。ことによると、ローマの兵士は、三時間、警備のために歩哨に立ち、その当直を三時間務めると、別の衛兵がやって来て交替し、最初の者が下がっては兵営に行き、今度は新しい衛兵が割り当てられた時間だけ代わりに歩哨に立ったのかもしれない。兄弟たち。私たちは、連綿と続く見張人の列を引き継いでいる。私たちの主が、あの選ばれた十二人を遣わし、要塞の上に立て、月の満ち欠けを告げさせられたあの時代から、いかに見張人たちがやって来ては去って行ったことであろう! 私たちの神は見張り人たちを変えたが、見張りは続けてこられた。神は今なおシオンの城壁の上に見張人を置いておられる。日夜、沈黙を守るべきではなく、自分たちの《主人》の到来のために目を覚ましていて、悪い時代を警戒し、過誤を警戒し、人々の魂のために見張りをしなくてはならない者たちを。この時、私たちの中のある者らは、特に見張りをするよう召されている。では、私たちが眠ることなどあるべきだろうか? このように眼光鋭い見張人たち、自分の部署を守り、敵を警戒するためならいのちを投げ出すことも惜しまなかった見張人たちの列の後で、私たちは臆病者となり、恐れて良いだろうか? それとも、怠け者となり、寝床に赴いて良いだろうか? 生きているが、死んだ者であり、いつまでも生きているお方[黙1:18]にかけて、私たちは切に願う。私たちが決して主の神聖な御名と真理への裏切り者とならずに、むしろ、最後の瞬間まで見張り続けることを。その最後のときには、かの喨々たる叫び声が響くであろう。「そら、花婿だ。迎えに出よ」[マタ25:6]。タバナクルの信徒たち。あなたは今晩、古の勇敢な時代に人々がしていたのと全く同じように見張りに立てられている! ホイットフィールドやウェスレーの信徒たちは見張人たちであった。そして、彼らの前の、ルターやカルヴァンの時代の信徒たち、そして、私たちの主の時代にすらさかのぼる頃の信徒たちもそうであった。彼らは夜番をした。同じことをあなたもしなくてはならない。

   「立てよ、彼方の夜中の声に。
    汝が花婿の 近きを見よや」――

と云われたあなたが、お戻りになるあなたの主をお出迎えするときまで。

 私たちは、1つの目的を目指して目を覚ましているべきである。それは、主のために戸を開き、主をお迎えすることである。「主人が……帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸をあけようと」。ことによると、あなたは、愛に満ちた優しい妻と子どもたちが待っているわが家へ帰ることがいかなることかを、知っているかもしれない。あなたは旅に出ていた。しばらくの間、留守にしていた。あなたは何通もの手紙を書き、それを彼らは非常に尊んだ。あなたも彼らからの手紙を受けとった。だが、これらはみな、あなたが現実にそばにいることとは比べものにならない。彼らは首を長くしてあなたを待っている。そして、たとい、ひょっとして、船が来なかったり、列車が遅れたりして、あなたが帰るのが夜中の11時や12時になったとしても、あなたは家が閉め切られていて、誰もあなたのために目を覚ましていないとは思わないであろう。しかり。あなたは自分が戻ると彼らに告げていたのであり、彼らがあなたのために目を覚ましていると確信していた。私は、まさに今しも、私の犬たちが扉のところに座って私の帰りを待っていることを思うと、私が私の《主人》のために目を覚ましていないことを叱責される気がする。彼らは、私が家に着くはるか前から、そこにいて、馬車の車輪の最初の音がするなり、自分たちの主人が帰ってくることに喜び吠えるであろう。おゝ、もし私たちが、犬たちがその主人を愛するほどにも愛しているとしたら、いかに私たちは主の《来臨》の最初の音をとらえ、待っていることであろう。常に待っていて、とうとう主にお目にかかるまで決して幸いにならないことであろう! あなたのあるべき姿として犬たちを用いたことを赦してほしい。だが、あなたが、それをも越えた状態に達するまでは、私は自分の意味していることを説明する別のたとえを見いだすまい。

 III. さて、最後に、《目を覚ましていることには報いがある》。彼らの報いはこれである。「帰って来た主人に、目をさましているところを見られるしもべたちは幸いです」。

 彼らには現在の幸いがある。キリストのために目を覚ましていること、それは非常に幸いなことであり、今の私たちにとって祝福である。それが、いかにあなたをこの世から引き離すことか! あなたは貧しくとも呟かずにいられる。金持ちであっても俗気に染まらずにいられる。病んでいても悲しまずにいられる。健康であっても増上慢にならずにいられる。もしあなたが常にキリストの《来臨》を待っているなら、その栄光に富む希望の中には莫大な祝福が包み込まれている。「キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします」[Iヨハ3:3]。ある人が常に自分の主を待ち望んでいるとき、そうした心の状態には幸いに次ぐ幸いが積み重ねられる。

 しかし、イエスが本当に来られるとき、その幸いはいかなるものとなるだろうか? よろしい。その幸いさの一部は、未来の奉仕の中にあるであろう。あなたがた、《日曜学校》の教師たち。また、あなたがた、説教し、教えている人たち。あなたは、地上での働きをなし終えたとき、《主人》がこう仰せになると考えてはならない。「わたしは、あなたをわたしへの奉仕から解き放とう。行って、天の山の上に座り、永久永遠に歌い続けるがいい」、と。とんでもない。私は今いかにすれば説教できるか学んでいるところにすぎない。私は、やがて説教できるようになるであろう。あなたは、単にいま教えることを学んでいるにすぎない。やがて教えられるようになるであろう。しかり。御使い、主権、権威に対して、あなたは神の豊かな知恵[エペ3:10]を示すであろう。私は時として御使いたちや、御使いのかしらたちという会衆についてあこがれ望むことがある。彼らは腰を下ろすと、私が、私のために神が何をなさったかを告げるのを聞いて驚嘆するであろう。そして、私は彼らにとって、無価値な見下げ果てた者に対する神の恵みの永遠の記念碑となるであろう。そのような者を、神は無限の同情とともに目をかけ、驚くべき救いで救ってくださったのである。あの星々、あの光の世界のすべてのうち、住人のいるものがどのくらいあるか誰が知ろう? 私の信ずるところ、私たちの想像を超えた種々の領域において、神のあらゆる子どもたちは永遠の照り輝きとなり、キリスト・イエスにある神の愛の生きた見本となるであろう。ああした、はるか遠隔の国々の人々は、この世が見たようにはカルバリを見ることができなかった。だが、彼らは、贖われた者たちからカルバリについて聞くであろう。主がいかに仰せになるか思い出すがいい。「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう」[マタ25:21]。見ての通り、彼は、何かを行ない続けることになる。ある村のほんのちょっぴりを治める代わりに、何か大きな属州の統治者とされる。この箇所においても同じである。44節を読むがいい。「わたしは真実をあなたがたに告げます。主人は彼に自分の全財産を任せるようになります」。すなわち、地上で神の忠実で賢明な管理人であった人は、死後、より卓越した奉仕を行なうように神から召されるのである。もしその人が自分の《主人》に良く仕えるなら、その《主人》が来られるとき、その人をより高い奉仕へと昇格させるであろう。あなたは、スパルタ軍で事がどのようになされていたか知らないだろうか? ここに、勇敢に戦った、また、素晴らしい兵士であったひとりの人がいる。その胸板は、数々の傷で覆われている。次に戦争が起こるときには、彼らは云う。「可哀想な奴。私たちは彼に褒美を与えてやろう! 彼には最初の戦いで先陣を切らせてやろう。彼は以前あれほど良く戦ったのだ。彼は、ほんの小勢を率いて百人の敵軍に当たった。いま彼には、もっと多くの軍隊とともに一万人に当たらせてやろう」。「おゝ!」、とあなたは云うであろう。「それでは彼に、より多くの働きを与えることになりますよ」。それが、ご自分の民に報いを与える神のしかたである。そして、これは働き者のしもべにとって、幸いなことである。彼の安息は、力を尽くして神に仕えることにある。これが私たちの天国となるであろう。そこに行ってとまり木に止まるのではなく、常に飛行していることが。それは常に飛んでいるためであり、それと同時に、永遠に安息しているためである。彼らは「みことばの声に聞き従い、みことばを行なう」[詩103:20]。「そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る」[黙22:3-4]。この2つの事がらは、ともに混ぜ合わされて、あらゆるキリスト者にとっての高貴な大望をなしている。

 願わくは主が、あなたを待たせ、働かせ、目を覚まさせてくださるように。それは、主が来られるとき、あなたが何か、いま成し遂げられるものより大きく、より高く、より高貴な奉仕に乗り出す幸いを得られるためである。その奉仕のためにあなたは、より卑しく、より骨の折れる、この世での奉仕によって準備しつつあるのである! 神があなたを祝福してくださるように。愛する方々。そして、もしあなたがたの中の誰かが私の主を知らず、それゆえ、主の現われを待ち望んでいないとしたら、覚えておくがいい。主はあなたが待ち望んでいようがいまいがやって来られるであろう。そして、主が来られるとき、あなたは主の法廷に立たなくてはならない。主の《来臨》に続くであろう出来事の1つは、あなたが主の審きの座へと召還されることであろう。そして、いかにしてあなたはそのとき主に申し開きするのだろうか? もしあなたが主の愛を拒み、主のあわれみの招きに聞く耳を持たないで来たとしたら、いかにしてあなたは主に申し開きをするだろうか? もしあなたが遅れて、遅れて、遅れて、遅れてきたとしたら、いかにしてあなたは主に申し開きするだろうか? いかにしてその日、主に申し開きするだろうか? もしあなたが一言もなく立っているとしたら、あなたの沈黙があなたを罪に定め、《王》はこう仰せになるであろう。「あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ」[マタ22:13]。願わくは、私たちが、主イエスを信じて永遠のいのちへと至り、それから主が天から現われるのを待つ者となるように。主の愛のゆえに! アーメン。

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キリストの来臨のため目を覚まして[了]


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