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神の民か、神の民でないか

NO. 2295

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1893年2月12日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「わたしは彼をわたしのために地にまき散らし、『愛されない者』を愛し、『わたしの民でない者』を、『あなたはわたしの民』と言う。彼は『あなたは私の神』と言おう」。――ホセ2:23

「それは、ホセアの書でも言っておられるとおりです。『わたしは、わが民でない者をわが民と呼び、愛さなかった者を愛する者と呼ぶ』」。――ロマ9:25


 私が思うに、パウロが預言書を引用しているしかたに注意するのは、きわめて教えに富むことである。旧約聖書において啓示された神の御思いは、新約聖書において啓示された福音を理解する助けとなる。キリスト者である人々の精神に、何にもまして強大な力を及ぼす権威は、神のことばのそれである。神は、そのみことばで何らかの真理を知らせておられるだろうか? ならば、それは天来の権威をまとっているのである。パウロは、彼自身、聖霊によって霊感されており、それゆえ、神の御思いの新たな啓示を書き記すこともできたが、ここでは、昔の時代の神のことばの権威を持ち出して、自分が語っていることの裏づけとし、支えとしている。「それは、ホセアの書でも言っておられるとおりです」。

 愛する方々。もしあなたが救いを求めているとしたら、あるいは、もしあなたが慰めを求めているとしたら、決して単なる人間の言葉で満足してはならない。神の口から出た真理を得るまで、安心してはならない。あなたの霊の中でこう云うがいい。「私は、神ご自身から慰めを受けるまでは、慰められまい。私は、福音として私が受け取っているものの典拠を知らなくてはならない」。サタンに対する私たちの主のお答えはこうであった。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある」[マタ4:4]。ならば、神の口からのことばが与えられれば、私は生きるのである。だが、人間の口から出た言葉はみな、天来の霊感から切り離されている場合、人を満ち足らせない食物であるに違いない。それは、石ころを食べて生きようとするようなものである。

 また、やはり注意すべきは、パウロが聖書の権威の真髄そのものをここにあると教えていることである。すなわち、神は、ご自分の啓示されたみことばを通してお語りになるのである。「それは、ホセアの書でも言っておられるとおりです」。聖書の中で語っておられる神こそ、私たちが聞くべきお方である。みことばの単なる文字は殺すものである[IIコリ3:6]。だが、その中で語っておられる神の御声を私たちが聞くとき、それは、それ以外のしかたでは持ちえないほどの力を有する。あなたの耳を聖書の数々の約束に押し当てて、それを通して神があなたの魂に語っておられるのが聞こえるまでそうしていることは、ほむべきことである。まことに有益なことは、福音の命令を1つ読んで、その声に耳を傾け、神ご自身が力をもってあなたの魂にその命令を語りかけてくださるまでそうしていることである。私は切に願う。この場で説教されるいかなることも、それがこの《書》に書かれていることと一致しなければ顧みないでほしい。もしそれが単に私の言葉でしかなければ、それを投げ捨てるがいい。だが、もし私があなたに宣言していることが神の真理であれば、――もし神ご自身が私の口を通してそれを語っておられるとしたら、――それをないがしろにする際には大きな危険を冒すことになろう。

 序論として、もう1つのことだけ述べておきたい。神のことばが、何世紀も何世紀も保たれてきたしかたは素晴らしくはないだろうか? ホセアとパウロの間には、七、八百年もの開きがあった。そして、尋常ならざることは、異邦人に対する祝福が、その間ずっと眠っていたにもかかわらず、パウロがそれを引用しているときには、そうした何世紀を経た後でもなお、全くいのちと力に満ち満ちていたということである。神のことばは、あなたもしばしば聞いたことがあるであろう、木乃伊が手にしていたという麦に似ている。それは何千年もそこに横たわっていた。だが、人々がその手からそれを取り上げて蒔いてみたところ、それが芽を出し、今ではわが国でごく普通に見られるようになったひげ小麦になったのである。そのように、あなたも、何百年か、何千年も前に語られた、天来の約束を取り上げると、見よ、それがあなたに成就するのである! それは、あたかも神がきょうのこの日、最初にお語りになったかのように、また、あなたがそれを語りかけられた人であったかのように、あなたにとって真実なものとなるのである。おゝ、ほむべき神のことばよ。いかに私たちはお前を尊ぶべきであろう! 私たちは、この表紙と表紙の間に隠されているすべてのものを理解することはできない。だが、ここには恵みの宝庫が秘められており、私たちはそれを発見するまで探し求めるべきである。

 ここまでのところは、旧約および新約から取られた本日の聖句の序論である。それは、私たちに対する神の御声であり、幾世紀をも経ていながら、さながら今晩、新たに口にされたかのような清新さと力強さに満ち満ちて語られている。さて、今から私は、まだ回心していない人々に向かって、こう招きたいと思う。それに両の耳を傾け、一心に聞くように、と。もしや、ここから何らかの生ける言葉が滴り落ち、その励ましと約束によって、今晩がその人にとって誕生の夜となるかもしれない。その場合、今この時は、その人の捕囚期間が終わる時となるはずである。その人の口は笑いで満たされ、その舌は喜びの叫びで満たされ[詩126:1-2]、その人の霊は、その《救い主》なる神にあって喜ぶことであろう。

 I. さて、第一に、このローマ人への手紙の言葉を考察するに当たり、《神の民の元々の状態》を眺めてみよう。「わたしは、わが民でない者をわが民と呼び、愛さなかった者を愛する者と呼ぶ」。

 もし私たちが神の民の元々の状態を眺めてみれば、目に入るのは非常に陰鬱な光景となるはずである。しかし、この描写は、今晩、あらゆる未回心の人が陥っている状態をも現わしている。私たち、今は救われている者たちもみな、以前には陥っていた状態である。私たちは神の民ではなかった。すなわち、私たちは神に良しと認められていなかった。私は今、神によって救われているすべての人々について語っている。その人々も、かつては決して良しと認められていなかった時があった。使徒がこう云っている通りである。「肉にある者は神を喜ばせることができません」[ロマ8:8]。神の民でなかった者たちは、それと同じであった。彼らの思うところは、神の御思いと逆であった。彼らのあり方は神に我慢できるようなものではなかった。彼らの語る言葉は神の御耳にきしるような不快感を与えた。彼らは、自らの心がでっちあげ、空想したものに従った。この世を支配する者[ヨハ14:30]が彼らを支配しており、神の恵みは彼らには示されていなかった。彼らは迷った羊のようにさまよった[イザ53:6]。それが今晩のあなたの状態である。罪人よ。あなたは天来の不満の対象である。「愛されない者」、と本日の聖句は云う。「愛されない者」。いかにして、あなたが神から愛されることなどありえようか? いかにして神が、自分の神に何の喜びも見いださないような人間に喜びを見いだすことがありえるだろうか? その人間は、神のことすら考えまいと努め、神の律法を平然と破り、神が忌み嫌っておられることを楽しんでいるのである。「わたしの民でない者」、とこの聖句は云う。すなわち、彼らは、神から良しと認められる対象ではなかったのである。

 次に、こうした人々は、最も高い秩序に属する良いものを神から全く受けていない。

 「おゝ!」、とある人は云うであろう。「ですが、私たちは、ありとあらゆる種類の物質的な祝福を神から受けていますよ」。私もそれは承知している。また、あなたはそのことゆえに神に感謝すべきである。だが、あなたが神の民でなく、愛されない者である以上、そうした良いものでさえ、あなたにとって結局は悪いものになる。あなたの食卓は、あなたにとって罠となり、落とし穴となる[詩69:22; ロマ11:9]。神の数々のあわれみを受け取っても、神の恵みによって神ご自身に導かれていない人々は、神が自分に授けてくださる良いものを偶像にする。彼らは神の御手から数々の恩恵を受けては、それを用いて神を怒らせる。彼らは自分の富のことを口にしては、あの愚かな金持ちとともに云う。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ」[ルカ12:19]。そのようにして彼らは、自分が死ななくてはならないことを忘れ、自分の神を忘れてしまう。往々にして、健康や体力さえ人々には罠となる。彼らは、からだがすこぶる壮健だからといって、一層大きな罪に飛び込むものである。私たちの知っているある人々は、健康がきわめて丈夫であるために、神についても、キリストについても、自分の魂についても、永遠についても考えようとしない。私は云うが、罪人たち。あなたが今のようなあり方をしている間は、あなたの種々の祝福の上には神の呪いがとどまっている。キリストから離れて、いかなる良いものもない。キリストがともにおられれば善となるものも、キリストを抜きにすれば悪となるからである。それは祝福するものよりは破壊するものとなり、人々がより迅速に自らの魂を滅ぼすのを助ける。おゝ、神がこう仰せになる人々は、何と悲しい状態にあることか! 「彼らは、わたしの民ではない。また、愛されてはいない」。彼らが今のあり方をしている間は、神から最高の良いものを受けることができない。神が彼らにお送りになる最善のものをさえ、彼らは悪に変えてしまう。

 また、思い出すがいい。あなたがた、神を知らない人々が非常に惨めな状況にあるのは、あなたのためには、キリストの尊い血が全く用いられることがないからである。イエスは罪人たちのために死なれた。だが、あなたは、自分には何の関係もないかのように、主の十字架の前を通り過ぎている。エジプトにいたイスラエルが救われたのは、神が血を見て、ご自分の民の家を通り越して[出12:13]くださったからである。だが、あなたはその深紅のしるしの下にはいない。あなたは決して信仰によってキリストを仰ぎ見たことがない。いかなる血も、あなたの玄関のかもいと二本の門柱の上についていない。私たちがあなたを眺めるとき、あなたについて私たちに云えることは、せいぜいこうである。「愛されていない。愛されていない」。おゝ、あわれな魂よ。あなたがた、まだ信じていない人たち。聖書はあなたに何と云っているだろうか? 何と、あなたは、神のひとり子の御名を信じなかったので、「すでにさばかれている」[ヨハ3:18]というのである。あなたがた、キリストを信じていない人たちは、悪い者の中で横たわっている[Iヨハ5:19 <英欽定訳>]。では、この表現は何を意味しているだろうか? 何と、彼のふところで横たわっているということである。あなたが悪魔の愛し子であるかのようにである。あなたの楽しみがサタンや罪のうちにある限り、神があなたを喜びとしたり、満足したりするしるしなど少しでもありえるだろうか? 否。あなたはイエスの尊い血の恩恵に全くあずかっていない。あゝ、いかにせむ! もし私についてそう云えるとしたら、何をすべきだろうか? イエスの尊い血にある恩恵を失うくらいなら、むしろ自分の目や、聞く力や、味わう感覚を失う方がましである。いのちそのものを失う方がましである。だが、あなたがたの中のある人々は、罪赦されることが全くなく、注ぎかけの血によって洗われることが全くなかったにもかかわらず、安穏と生きている。あなたは、今なお神の前では咎がある。

 また、こうした人々が神によって、「わたしの民でない者」と呼ばれ、「愛する者」とは呼ばれていなかったとき、彼らの上には、神の御霊の救いに至る働きが何も及ぼされていなかった。私が語りかけている、今晩この場にいる人々の一部は、これまで決して神の御霊によって自分の心を打ち砕かれたことがない。そうした人々は、決して悔い改めに導かれたことがない。決してキリストを信じる信仰に至らされたことがない。その結果、彼らにとって神の御霊は《生かすお方》ではない。彼らにとって御霊は《慰め主》ではない。彼らにとって御霊は《照明者》ではない。御霊の天来の職務すべては、他の人々のうちにおいては果たされている。だが、彼らの場合そうではない。彼らは、そのほむべき力とは縁もゆかりもないが、その力を抜きにしてはいかなる者も神のみもとに行けず、キリストを信じられないのである。おゝ、これは、誰にとってであれ、いかに悲しい状態であることか。――「わたしの民でない者」、また、「愛されない者」とは! もしも神の御霊が彼らを死からいのちに[Iヨハ3:14]移してくださったとしたら有していたはずのいのちの痕跡が、彼らには全くない。神は死んだ者の神ではない。生きている者の神である[マコ12:27]。そして、あなたが罪の中に死んでいる限り、神は、この特別な意味においてはあなたの神でなく、あなたをご自分の民とお呼びになることもない。

 そのような悲しい状態にある者たちは、決して祈りによって楽になることがない。彼らは祈らない。祈ることができない。さて、私は悩み事があるときには、祈るようにと誰から助言される必要もない。悩み事がやって来るや否や、私はそれを神の前に並べて、たちまち甘やかな安心を見いだす。おゝ、もし何の贖いのふたもなかったとしたら、私は生まれてなど全くこなければ良かったと思うはずである! しかし、あなたがたの中のある人々は決して真に祈ることをしていない。あなたがささげるような祈りには、何の心も、何のいのちもこもっていない。それゆえ、神があなたに耳を傾けることはなく、あなたはこの世の中で祈りなしに生きて行かなくてはならない。人々よ。いかにしてあなたはそのようなあり方をしていられるのか? 人生は、あなたにとっては焼けつく砂漠のようなものに違いない。そこでは、砂の一粒一粒がそれを踏みしめる足に火ぶくれを作る。この世は、祈りなき人にとっていかなるものとなりえようか?

 そして、あなたは、祈りがないのと同じように、あなたを支える神の約束もない。神の民の富は、めったに現金に存してはいない。彼らの宝のほとんどは、種々の支払約束に、また、神がご自分の民に与えてくださった種々の約束に存している。神は、ご自分のみことばを信じようともしないあなたには、何もお与えにならないであろう。ご自分の御子を信頼しようともしないあなたとは、何の契約もお結びにならないであろう。あなたは、神がこう仰せになった通りの者であり続ける。――これは、私の言葉ではなく、神のことばである。――「わたしの民でない者」、また、「愛されない者」、と。主イエス・キリストを信じる信仰をあなたが有していない限りはそうである。いかなる約束を神が御民に与えておられようと、あなたには、そうした約束を恵みの御座に申し立てる権利がない。それらは、あなたに属していないからである。

 こうしたすべてに加えて、あなたは今、神と、あるいは、神の御子イエス・キリストと、何の交わりも有していない。神はこの世界を造られた。だが、あなたは決してこの世界の《造り主》と語り合っていない。あなたは、神の摂理によって保護されているが、しかし、万物を統御する神とは何の交わりも有していない。何と、私たちの中のある者らにとって、人生の喜びの大きな部分は、私たちの主なる《救い主》イエス・キリストとの、私たちの交わりに存しているのである。主は、私たちが動いている円環のまさに中心である。私たちの人間性の高みであり栄光である。私たちの存在のすべてのすべてである。私たちは、主のためでない限り、生きたいとは思わない。主は、私たちの天を輝かせている太陽である。主がおられなければ、すべては暗く沈んでしまう。だがしかし、あなたがたの中のある人々は、主との何の交わりも有していない。ことによると、主を全く知ってさえもいない。おゝ、私の愛する方々。あなたには何のキリストも、何の《救い主》も、何の神との親しみも、何の《いと高き方》との交わりもない! なんと恐ろしい状況にあなたはいることか!

 そればかりでなく、あなたには天国に入れる何の希望もない。もしあなたが今のまま死ぬことになるとしたら、あなたの永遠の分け前は、神の御顔の前とその御力の栄光から[IIテサ1:9]追放されること以外の何になりえるだろうか? 主イエスは、あなたについてこう云われるであろう。「わたしは彼らを全然知らなかった。今も全然知らない。彼らはわたしの民ではない。わたしの愛する者ではない」。何と、あなたは主を求めることさえ一度もしなかった。あなたは一度も主に叫んだことがない。一度も主の憎まれる罪を捨てたことがない! 主が成し遂げられた贖罪に一度もより頼んだことがない。救いを給う主の生ける力に一度も信頼したことがない。あゝ、あわれな人たち、いかに私があなたを憐れむことか! 「私たちをあわれだなどとは呼ぶな」、とある人は云うであろう。「私たちは富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もない」[黙3:17参照]。ならば、その分だけあなたの貧しさはひどくなる。自分が富んでいると夢想しているからである。山ほどご馳走の並んだあなたの食卓から、焼ける舌を冷やす水一滴[ルカ11:26]すら拒まれる場所に移るのはすさまじいことであろう。もしもあなたが、弱さと病との臨終の床から、いきなりあなたの神の前に出ることになるとしたら、それは物凄いことであろう。あなたは、最期の瞬間の苦痛から、罪赦されていない犯罪者という恐ろしい立場に追いやられ、大いなる《審き主》から判決を受けるのである。「わたしの民でない者」、また、「愛されない者」、と。私には、あなたの破滅を思うことが耐えられない。だから、このすさまじい題目については、もう何も云うことができない。

 II. しかし、いま第二のこととして語らなくてはならないのは、《神の民の新しい状況》についてである。聞くがいい。そして、あなたが聞いている間に、願わくは神が、それをあなたの新しい状況としてくださるように! この世にいる幾多の人々にとって、本日の聖句は真実であることを証明してきた。「わたしは、わが民でない者をわが民と呼び、愛さなかった者を愛する者と呼ぶ」。

 さて、神がもたらすことのおできになる変化を見るがいい。それをもたらすのは神である。「彼らはわたしの民ではない」、と自ら仰せになった当の人々を、今や神はご自分の民と呼ばれる。左様。そして、「あなたがたはわたしの民ではない」、と仰せになった当の場所で、「あなたがたは生ける神の民だ」、と仰せになる[ホセ1:10参照]。さて、もしも今晩、私が、これこれの者は神の民ではないと云ってきたとしたらどうなるだろうか? しかし、もしも、そうした人々がこの場所を去る前に、神が彼らに対して、「あなたは私の民だ」、と仰せになるとしたらどうだろうか? おゝ、何とほむべき変化が彼のうちには起こったことになるであろう! それを説明させてほしい。

 もし主が私たちに対して今晩、「あなたはわたしの民だ。また、あなたはわたしの愛する者だ」、と仰せになるとしたら、私たちは、まず最初に、こう知ることができる。神は私たちのことを考えに入れており、神の御思いは私たちに向いており、神には私たちへの親切な心遣いがあり、神は私たちを喜びとし、その御心は私たちに善を施したいと思っていることにあるのだ、と。おゝ、あなたがた、主を本当に愛しており、その子どもである人たち。このことをまさに考えるがいい。あなたに向かって神の御思いは滔々と流れているのである。尽きず豊かな優しさと、あわれみと、いつくしみと、真実さによって!

 そして、主は、私たちのことを考えるのと同じく、私たちに語りかけてくださる。おゝ、かつてはご自分の民てなかった者たちに主が語りかけてくださると考える幸いは、いかばかりであろう! しかも、その語りかけの力強さは、神の数々の甘やかな約束が彼らの耳に入り、しかり、彼らの心に入って、彼らにとってなじみ深いものとなるほどなのである。というのも、「主の秘密はご自身を恐れる者とともにあり、主はご自身の契約を彼らにお知らせになる」[詩25:14 <英欽定訳>]からである。おゝ、いかに甘やかに神はご自分の子どもたちと親しくお語りになることか! いかにご自分の御心を彼らに打ち開き、彼らにご自分を知らせてくださることか! それは、イエスが、世には現わそうとしないようなしかたで[ヨハ14:22]、ご自分の選ばれた者たちにご自分を現わしてくださるのと全く同じである。神の子どものえり抜きの特権、それは主によって考えを寄せられ、次いで主から語りかけられることである。

 それ以上に、神は、私たちが語るのを聞いてくださる。私たちが主の民となり、主の愛する者となるとき、私たちの口調は主の耳に甘やかなものとなる。知っての通り、あなたの愛する子どもたちはしばしばたどたどしく、耳障りなしかたで喋り、他の人々は彼らの話を大して聞きたいとは思わない。だが、父親の耳にとってわが子の声の響きは常に甘やかである。あなたが何週間か家を空けていたとしよう。あなたがもう一度、あの愛しいお喋りを聞きたいと切に願うことを私は知っている。よろしい。父親がその子どもの声を愛するのと同じように、私たちの天の御父もそうされる。御父は、ご自分の民と呼ぶ、愛する者の声を愛し、彼らが云うことを顧みる。彼らの叫ぶ声に耳を傾けてくださる。

 それから、愛する方々。神は、単に私たちの言葉を聞くだけでなく、私たちの願いをかなえてくださる。神は、苦難の時にやって来て私たちを救い出してくださる。神は私たちにすべての良いものを授けてくださる。「主は……正しく歩く者たちに、良いものを拒まれません」[詩84:11]。おゝ、神の民である者たちの数々の特権よ! この題目は、人間の言葉で理解するには広大すぎる。

 私たちの今の状況を示す1つの特別な目印は、主が私たちの罪を赦してくださるということである。かつて私たちは罪を満載していた。だが、今やただ一個の罪さえ私たちの上には残されていない。神の愛する御子イエス・キリストの血が、すべての罪から私たちをきよめている[Iヨハ1:9参照]。パウロは、神に選ばれた者たちを訴えてみよと全宇宙に挑戦している。神が義と認めてくださるからである。「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです」[ロマ8:34]。おゝ、幸いな上にも幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪を覆われた人は![詩32:1] また、そのことは神からご自分の民と呼ばれる者全員について真実なのである。かつての彼らが神の民でなかったとしても関係ない。

 それから、愛する方々。罪が赦された以上、主はすべてのことを働かせて私たちの益としてくださる。私たちが喜ばしくしていようと、苦悩していようと、もし私たちが主の民だとしたら、すべては私たちの益のために働いている。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、すべてのことが働いて益となることを、私たちは知っています」[ロマ8:28 <英欽定訳>]。私たちの損失、私たちの十字架、私たちの死別、私たちの肉体的苦痛は、私たちの有頂天の喜びや、私たちの最高の楽しみと同じく、みな私たちにとって最善の結果となるように働いている。

 それをも越えて、私たちが苦難の中にあるとき、神は私たちを憐れんでくださる。というのも、「父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる」[詩103:13]からである。左様。そして、神は、あのダビデの言葉に従って、私たちに救援をも送ってくださる。「正しい者の悩みは多い。しかし、主はそのすべてから彼を救い出される」[詩34:19]。それよりもなお良いことに、神は、こう云われた通り、私たちの中に宿っておられる。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」[IIコリ6:16]。そして、聖霊がすでにやって来ており、この定命のからだをご自分の住まいとして、そこに宿っておられる。私たちの《教師》、また、私たちの《慰め主》、私たちの《導き主》、私たちの《友》として。

 間もなく主イエスは再びやって来て、私たちをご自分のもとに受け入れてくださる。ご自分のおられる所に、私たちもいるようになる[ヨハ17:24]ためである。私は、人の異言や御使いの異言[Iコリ13:1]で話すことができれば良いのに、と願う。そうすれば、あなたに、主ご自身の民、主ご自身に愛される者となった人々がいかに光輝ある立場にあるかを告げることができるであろうに。そして、かつてのこの人々はいかなる者たちだっただろうか? ここで、本日の聖句に再び立ち戻る。彼らは神の民ではなかった。愛する者ではなかった。「わたしは、わが民でない者をわが民と呼び、愛さなかった者を愛する者と呼ぶ」。さて、あなたがたの中のある人々、神がいま怒りをもってしかご覧になれない人たち。なぜ神は今晩、イエス・キリストにより、愛をもってあなたのことをご覧になるべきでないことがあるだろうか? キリスト・イエスを信じる者は、主が自分を愛しておられ、自分は主の民のひとりであるという、ほむべき確信をいだくことができる。あなたは、こう云いながらこの場に来たかもしれない。「私は悪魔に属している。それは確実だ。私は、自分が悪魔の冷酷な支配下にあることを自分の霊の中で感じている。悲しいかな! 私には火花1つも恵みがない。あるいは、善の思いが全くきざさない。私は神から、聖さから、天国から、これ以上ないほど遠く離れている」。ならば、あなたに対して、神がこう仰せになるように! 「わたしは、わが民でない者をわが民と呼び、愛さなかった者を愛する者と呼ぶ」。おゝ、この恵みの途方もない大きさよ! それは、人間を待つのでなく、人々の子らのためにためらうのでもなく、むしろ、神の永遠の目的に従って働き、その主権のみこころのすべてを成し遂げるのである!

 III. このことによって、第三のことに至る。――ホセアの聖句に立ち戻って注意すべきは、《この素晴らしい変化の壮大な結果》である。「わたしは……『愛されない者』を愛し、『わたしの民でない者』を、『あなたはわたしの民』と言う。彼は『あなたは私の神』と言おう」。ここには、主の御民との間の対話がある。神は彼らに何かを仰せになり、彼らは何かを神に申し上げている。

 神には何の変化もないことを思い出すがいい。変化したのは、神に対する私たちの関係でしかない。なぜなら、いま神の民となっている者たちも、実は、神の永遠の目的においては、世界の基の置かれる前から[エペ1:4]神の民だったからである。確かに彼ら自身の霊的状態について云えば、現実にそうなってはいなかったが、しかし、今や、この変化が彼らと神との関係において実現しているからには、その壮大な結果を見るがいい。

 最初に、主は、「あなたはわたしの民」、と云われる。さて、私が祈るのは、今晩、主ある人々のもとにがやって来て、語りかけてくださることである。それは、これまで一度も主の御名を口にしたことがない人々、一度も主のみことばに震えたことがない人々、一度も主のあわれみを信じたことがなく、一度もその御子に信頼したことがなく、実際、一部も主の民になどなろうとしたことがない人々にである。私は本当に、主がいま彼らの中のある人々に、「あなたはわたしの民」と云ってくださるものと思いたい。おゝ、それは何と素晴らしい経験となるであろう! ひとりの、あわれな失われた罪人がこう見いだすのである。自分は神に属しているのだ。キリストの尊い血によって贖われているのだ。神は自分を救おうとしておられるのた。神はご自分の御子の血が無駄に流されるようにはなさらないであろう、と! 私は、キリストが私のために何を行なってくださったかを最初に悟って自覚したときの恥辱を、だが、それと同時に私の胸を満たした喜びを同じくらい覚えている。自分の感じた不面目を覚えている。私は、このような《救い主》をあれほどひどい目に遭わせたからである。だがしかし、私はこの方が、私のもろもろの罪にもかかわらず、私を愛してくださったと考えて、強い喜びをも感じた。これが、私を慰めてくれた聖句である。――私は、主がそれを、誰か別の人々の心にも突き入れてくださるように祈る。――「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた」[エレ31:3]。また、この聖句でもあった。「わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの」[イザ43:1]。おゝ、もし聖霊がこうした言葉を力とともに今晩、何人かの罪人の心に当てはめてくださるとしたら、いかに神のみもとに急いで行く者、いかにキリストを求める者が起こされることか!

 「わたしは、わが民でない者をわが民と呼び」。主は、ご自分の民に対して、常に同じように力強くお語りにはならない。最初、彼らはそうではないかと半ば希望する。彼らは、神の御声がそう云うのをぼんやりと聞く。だが、信仰が増し加わるにつれて、彼らは神がそれをずっと明確にお語りになるのを聞く。「あなたはわたしの民」、と。私は、神がご自分の民でなかった者たちをご自分の民と呼んでくださることを、この上もなく恵み深いことだと本当に感じる。見ての通り、神は彼らに新しい名前を与え、古い名前を無効にしておられる。ここで、ある人がこう云っているような気がする。「私は《救い主》を見いだしました」。「おいおい、何でえ」、とあなたを知っている誰かが云うであろう。「おめえがか? 馬鹿も休み休み云えよ! 俺たちあみな、おめえがどういうことをする人間だったか知ってるんだぜ」。ことによると、ある人は云うかもしれない。「あゝ、何だと? おめえは、俺たちの誰にも負けないくらい悪だったじゃねえか」。もしかすると、ある場合には、彼らは云うであろう。「おめえが神の子どもだって云うのかい? 薄汚え商売女のおめえが?」 あるいは、「お前は泥棒だったじゃねえか」、あるいは、「おめえは、嘘つきだったではないか」、あるいは、「おめえが良く出入りしてた場所は、神のことなど忘れられてたし、おめえも神様よりは、《快楽》の方がお気に入りだったと思うがな」、と。しかり。だが、愛する方々。かりに主がこう仰せになったとしよう。「わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの」。その場合、あなたは自分に向かってこう云うことができる。「人は私について好き勝手なことを云うだろうし、私もそれがみな真実だと認めなくてはならない。だが、主のこのことば、『あなたはわたしのもの』は、そのすべてを無効にするのだ」。

 これは、すでに自分の品格を失い、良い評判など何もかもなくしてしまった者にとって、何とほむべき聖句であろう! もしあなたがキリストのもとに来て、キリストを信じるとしたら、ここには、あなたに当てはまる聖句がある。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」[イザ43:4]。神は、その人自身では汚辱にまみれた人々を「尊く敬うべき者」とすることがおできになる。また、彼らをご自分の民に属させ、その居場所を与えることがおできになる。だが、私には想像できる。神が今晩この場にいる誰かを見下ろし、そのような者についてこう云っておられることを。「いかにして、わたしは彼を子どもたちの中に入れることができるだろうか? 何と! このような罪人を、わたしの子どもたちの間に入れるだと?」 私は思い描くことができる。この場にいるある人は、あまりにも極度に罪深い者であるため、もし私が神の民に対して、彼をあなたがたの間に受け入れてくださいと提案した場合、彼らがこう云うだろうほどである。「私たちは、あの人間を教会の中に受け入れたくはありません」、と。あゝ、だが、私たちの天の御父がご自分の放蕩息子を家に迎え入れてくださるとき、神は兄息子がそのように語ることをお許しにはならない。神は出て来て、理を尽くしてこう云うであろう。「おまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか」[ルカ15:32]。イエスは、私たちが罪人のかしらをも、監獄帰りの者をも受け入れることを望まれるであろう。地獄帰りの者をも、いかに遠くへさまよって来た者をも、地獄に入っていない者たちの中で最も下落し、最も困窮し、最も悪魔に取りつかれた男女をもである。こうした人々の内側でこそ、神の恵みはあらゆる罪に打ち勝つのである。「わたしは、わが民でない者をわが民と呼び、愛さなかった者を愛する者と呼ぶ」。「わたしは……『わたしの民でない者』を、『あなたはわたしの民』と言う」。

 主が誰かにそう仰せになるとき、彼らの罪は取り去られる。私の主は大いなる《赦し主》である! 私が今晩あなたに宣べ伝えている私の主、かつて十字架に釘づけられたお方は、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになる[ヘブ7:25]。主は、「いつくしみを喜ばれる」[ミカ7:18]。それは主の右の御手の属性であり、主から最後に生まれたもの、主のベニヤミンである。主が、いついかなる時にもましてそのいつくしみを明らかにお示しになるのは、大海のように主の愛が、不義の山々の頂そのものの上でうねり、それを覆ってしまうときにほかならない。

 しめくくりに、主の民が何と主に申し上げているかに注意しよう。「彼は『あなたは私の神』と言おう」。それは、主の民なら誰でも口にするのが正しいことである。「あなたは私の神」。あわれな罪人よ。願わくは、聖霊なる神があなたを助けて、こう云うことを始めさせてくださるように。「あなたは私の神!」、と。ここにある聖句は、あなたがそう云うことを助けてくれるはずである。それが私の回心の時に、私を助けてくれたのと同じように。「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない」[イザ45:22]。あなたは、神を仰ぎ見たいと思っているだろうか? 罪人よ。主にこう申し上げたいと思っているだろうか? 「あなたは私の神」、と。「私の神よ。私は長い間あなたを忘れていました。あなたを冒涜してきました。あなたに背いてきました。あなたの安息日の神聖を汚してきました。あなたの福音を罵倒してきました。あなたのしもべたちを嘲ってきました! しかし、見てください。私はあなたを仰ぎ見ています。私は罪を犯してきたからです。私をあわれんでください。あなたの愛する御子ゆえに!」

 それは、良い始まりである。だが、あなたは、その経験を越えて前に進むだけの恵みを有してもかまわないだろうか? そのようにやって来て、世の罪を取り除く神の《小羊》[ヨハ1:29]キリストをあなたの手でつかんでもかまわないだろうか? そして、こう云えるだろうか? 「この《救い主》は私の《救い主》です。私はこの方を私の《身代わり》として受け入れます。私の代理となり、私の代わりとなり、私に成り代わっていただきます!」、と。あなたが、ひとたびこのほむべき言葉、「あなたは私の神」、を正しく口にしたとき、神の恵みはあなたを助けて、そう云い続けさせるであろう。「あなたは私の神」という、このことよりもさらに遠くに行くことはできない。それこそ、あらゆる良いことの結末である。それ以上に何を人は欲するだろうか? それ以上に何を願えるだろうか? 古の清教徒たちのひとりは、誰も海へ行くことをあまり好んでいなかった時代に、こう云った。「ある人が船の中にいて、自分の小さな船室の中にいるとする。自分の回りに目をやれば、大海の荒涼たる広がりしか見えず、何の陸影もなく、ただ怒り狂う波浪が船を放り投げては叩き落としているだけである。もしもこの場合に、誰かが彼にこう云ったとしたらどうであろう? 『あなたは自分の小さな船室を離れますか? あなたの小さな船を離れますか?』 『いいえ』、と彼は云うであろう。『他のどこへ私は行けるでしょう? 他のどこにも行けはしないのです』」。それこそ、まさに今晩、私が私の主について感じることである。私の船室、私の船、私のキリスト、そしてキリストを信じる私の信仰によってこそ、私は安らぎと平安を得ている。他のどこを見ても、その先には破滅と絶望しかない。だから私の魂は、なおも繰り返して云うのである。「あなたは私の神、あなたは私の神。他の人々は、自分の好きなものを持てば良いのです。だが、私は私の神を持ちたいと思います。人々は、自分の好きな神々を持てば良いのです。ですが、あなたは、――《三一のエホバ》なる御父、御子、聖霊なるあなたは、――私の神です。そして、あなたの上に私の魂は安らい、他のいかなる信頼の的も求めません」。

 あなたは、今晩、そう云おうとするだろうか? 話をお聞きの愛する方々。私は、あなたが具体的にどのような状況にあるかは知らない。だが、私には分かっている。もし私がある囲いに羊を入れたければ、良い方法は私にできる限り広くその門を開くことである。また、羊を魅了するもう1つの良い方法は、その中を草の茂った牧場にしておくことである。よろしい。私はここまで、豊かで、無代価の神の恵みを提示しようとしてきた。また、開かれた扉を指し示してきた。それは、いかに大きな罪人も通って入れるほど十分に広く開かれている。イエスは云われた。「わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます」[ヨハ10:9]。さて、もしノアの箱舟についていた扉が、象を入れられるほど大きなものだったとしたら、それは犬や、狐や、猫や、鼠を入れるには十分に大きなものであった。あなたは、たといこの世で最大の罪人だったとしても、やって来てかまわない。とはいえ、私はあなたがこの世で最大の罪人であるとは考えない。彼はとうの昔に死んで天国に行ったからである。パウロは、自分が最大の罪人、罪人のかしらであると云う[Iテモ1:15]。そして、私の信ずるところ、彼は自分がどれほどの規模の罪人であったか知っていた。もし、救いの門に彼が通り抜けられるだけの空間があったとしたら、あなたのための空間もあるのである。願わくは、きょうのこの晩、神の恵みがあなたを引き寄せることになるように。そして、あらゆる恵みに満ちた神[Iペテ5:10]に賛美が永久永遠にあらんことを! アーメン。

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神の民か、神の民でないか[了]


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