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キリストの愛の記憶

NO. 2294

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1893年2月5日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1890年11月2日、主日夜


「私たちは、あなたの愛をぶどう酒にまさって思い起こします。直ぐな人はあなたを愛します」。――雅1:4 <英欽定訳>


 私は、今晩は説教できるとは思わない。あまりにも物憂く、疲れきっていて、具合が悪く感じられる。それでも、キリストの大いなる愛に関して多少の話はできるであろう。たとい死のうという時であっても、この題目についてなら語れると思う。また、おゝ、私たちがよみがえるときには、いかに私たちは永久永遠にキリストの愛について語ることになるであろう! 永遠の代々を通じて、私たちの尽きることない題目となるだろうもの、それは「罪過の中に死んでいたこの私たちをも愛してくださったその大きな愛」[エペ2:4-5 <英欽定訳>]である。

 今回、聖句として取り上げたのは、ソロモンの雅歌1章4節の最後の2つの文章である。「私たちは、あなたの愛をぶどう酒にまさって思い起こします。直ぐな人はあなたを愛します」。

 今晩は、キリストの愛を思い起こす夜である。聖餐卓が私たちの前に広げられている。私たちが集おうとしている、この聖なる祝宴は、私たちの《救い主》のこのことばを想起させるためのものである。「わたしを覚えて、これを行ないなさい。……これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい」[Iコリ11:24-25]。しかし、私たちがキリストを思い起こす間、私たちの思いの中にある中心的な思想は、パウロが書いたこのこととなるはずである。主は、「私を愛し私のためにご自身をお捨てになった」[ガラ2:20]。私たちは、他の何にもまして、今晩、主の愛を思い起こすであろう。あなたがたの中に誰か、それを忘れてしまっている者がいるだろうか? あなたがキリストの愛を思い巡らして真の喜びを感じた一時間を過ごしたのは、遠い昔のこととなってしまっているだろうか? ならば、愛する方々。今晩来るがいい。そして、あなたの誓いを新たにするがいい。もう一度あなたの交わりを始めるがいい。そうすると堅く決意するがいい。私たちは、私たちの主を思い起こすであろう。その愛を今晩思い起こすであろう! 願わくは、キリストが私たちに語られたことを何であれ思い出させてくださる聖霊が、いま私たちを助けて、主を思い起こさせてくださるように! 主がその御国に来るときに、私たちのことを思い起こしてくださることは、私たちの天国となるであろう。また、今は主がその御国へと去っておられるとはいえ、私たちが主を思い起こすことは、今晩の私たちにとって小さな天国となるはずである。

 ここで私の力の続く限り、手短に語りたいと思うのは、第一に、本日の聖句で言及されている、聖なる記憶のための備えについてである。それは、この聖句が埋め込まれている節の中に見いだされるであろう。「私を引き寄せてください。私たちはあなたのあとから急いでまいります。王は私を奥の間に連れて行かれました。私たちはあなたによって楽しみ喜び……ます」。ここで言及されている聖なる記憶への備えを考察したら、この聖なる記憶の、天来の主題について語りたいと思う。「私たちは、あなたの愛をぶどう酒にまさって思い起こし……ます」。それから第三に、この聖なる記憶から生じる天来の成果について瞑想しよう。

 「直ぐな人はあなたを愛します」。なぜなら、彼らはあなたの愛を思い起こすからです。

 I. まず第一に、愛する方々。聖霊の御助けのある限りにおいて、あなたに思い出させたいのは、《この聖なる記憶のための備え》についてである。それは次の通りである。

 最初の言葉には、「私を引き寄せてください」、とある。主よ。私は喜んであなたのもとに行きたいと思います。ですが、メフィボシェテのように[IIサム9:13]、私は両足が共になえているのです。私は喜んであなたのもとに飛んで行きたいと思います。ですが、私の翼は――実際、そのようなものが私にあるとしても――折れているのです。私はみもとに行くことができません。私は生気なく、死んで、無力に横たわっています。それで、最初の備えは、「私を引き寄せてください」、なのである。甘やかで、恵み深く、有効なしかたで、天来の力が行使されることこそ、私が必要とし、懇願するところである。私は、「私を駆り立ててください」、とは云わない。むしろ、「主よ。私を引き寄せてください」、と云う。「私を送り出してください」、とも、「私を強いて行かせてください」、とも云わない。むしろ、こう云う。「主よ。私を引き寄せてください。あなたが引き寄せてくださるならば、私には急いで行く自由が得られるでしょう。私を引き寄せてください。私たちは、あなたのあとから急いでまいります」、と。

 私たちには、新しく生まれる必要はない。私たち、キリストを信じている信仰者たちには、すでにその奇蹟が行なわれている。私たちは、いま罪赦されることや、義と認められることを求めているのではない。キリストを信じる信仰者として私たちは、そうした値もつけられない恩恵をすでに得ている。私たちが欲しているのは、聖霊の優しい影響力によって、よりキリストに近く引きつけられることである。それで、私たちひとりひとりは主に向かって叫ぶのである。「私を引き寄せてください」、と。私たちは死んではいない。生きた者とされ、生かされている。自分の望むほどキリストのみもとに行けないという、私たちの苦痛や苦悶そのものからして、私たちが生きている証拠である。私は、この祈りをあなたに薦めたい。「主よ。私を引き寄せてください。私を引き寄せてください」。引き寄せるのは、キリストのみわざである。「わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます」[ヨハ12:32]。これは御父のみわざである。「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり」、とキリストは云われた。「だれもわたしのところに来ることはできません」[ヨハ6:44]。魂をキリストへと引き寄せるのは、神の御霊のみわざである。私はこのことを自分自身のために祈るものであり、あなたも私とともに祈るだろうと思いたい。「来てください。神聖な御霊よ。そして、私たちをキリストにいや近く引き寄せてください。私たちの希望に活気を与えてください。私たちの心を傾けてください。私たちの願いを目覚めさせてください。それから、私たちを助けて、私たちの全存在をあなたの恵み深い影響力に明け渡させてください!」

   「よし汝れ、われを 千度(ちたび)引くとも、
    われを引きませ、主よ、いま一度!」

 では、それが、本日の聖句で言及された聖なる記憶のための最初の備えである。天来の引き寄せである。「私を引き寄せてください」。

 次にこの節が何と云っているかに注意するがいい。「私を引き寄せてください。私たちはあなたのあとから急いでまいります」。この代名詞の変化は嬉しいものである。あたかも、私が今晩こう祈るかのようである。「主よ。私を引き寄せてください。私は、この会衆の中にいるあなたの子どもたち全員の中でも、最も重荷を負っており、最も重い苦しみをかかえています。ですが、私を引き寄せてください。私たちは、あなたの後から急いでまいります。あなたが私さえ引き寄せてくださるなら、私の兄弟姉妹たち全員が、ただちに急いでまいります。もしあなたが、この最も重荷を負っている者をみもとに引き寄せてくださるなら、残りの全員が迅速にあなたのもとに行くことでしょう」、と。私の愛する兄弟姉妹たち。あなたは、この表現を用いられると感じないだろうか? 主よ。もしあなたが私を引き寄せてくださるなら、仲間の者たち全員が私とともに急いで行くでしょう。ですが、彼らは、いくら熱心にあなたに達したいと願ってはいても、私を追い越しはしないでしょう。というのも、私たちは一緒になってあなたの後から急いで行くからです。ですから、私を引き寄せてください。私の恵み深い主よ!

 もし私たちが完全にキリストを思い起こす準備を整えたければ、この、急いで走る歩調にならなくてはならない。「私を引き寄せてください。私たちはあなたのあとから急いでまいります」。早くするがいい。私の魂よ。早くするがいい。天的な事がらについては! そうしたければ、世俗の仕事については這って行くがいい。だが、お前の主のもとへは走って行くがいい。おゝ、私たちが全員、今晩この走る歩調になるならどんなに良いことか! おゝ、私たちが私たちの主のもとへと快調に急ぐことができるとしたらどんなに良いことか。その願いの強さ、猛烈さによって、主に近づくまで安んじられないほどであればどんなに良いことか。「私を引き寄せてください。私たちはあなたのあとから急いでまいります」。

 天来の引き寄せが、この聖なる記憶のための最初の備えであり、次に来るのは迅速に走ることである。

 さて、さらなる備えとして、もしあなたがこの節を読み通せば分かるように、1つの答えがこの祈りにすぐさま続いている。こう語られているのである。「王は私を奥の間に連れて行かれました」。「私が願い求めたことを、私はただちに獲得しました。そして、願い求めた以上のことを受け取りました。というのも、私は、『私を引き寄せてください』、と祈ったのに、主は私を抱きかかえてくださったからです。『王は私を奥の間に連れて行かれました』。私は、私の主にもう少し近づくことを祈ったにすぎません。ですが、主は私をご自分の秘密の場所に連れて行き、ご自分の特別の部屋に入れてくださいました。主は私を、花嫁を連れて入る所へ導かれました。ご自分の廷臣たちを受け入れる所へ導かれました。《王》は私を奥の間に連れて行かれました。そして今、私は、主がいかにまことの王者であられるかを見てとっています。《王》がそうなさったのです。この《王》が、――ただの王ではなく、あらゆる王の《王》であられる《王》、あらゆる君主たちの中で最も王者らしいお方、『地上の王たちの支配者』[黙1:5]、すなわち、私の主イエスが、――私をその奥の間に連れて行かれたのです」。

 それがいかにすみやかになされたことか! 私があなたに信じてもらいたいのは、愛する方々。それが、あなたの場合にも全く同じくらい素早くなされることがありえるということである。こう祈るがいい。「主よ。私を引き寄せてください。私は、聖餐卓のもとに近づきつつある自分が、全く近づく資格はないかのように感じています」。それがあなたの云っていることだろうか? ならば、「私を引き寄せてください」、と祈るがいい。すると、瞬時のうちに、その祈りが口にされる前に、あなたは自分が単に引き寄せられるばかりでなく、現実に交わりの秘密の場に連れ込まれていることに気づくであろう。「私自身が知らないうちに、私は民の高貴な人の車に乗せられていました」[雅6:12]。私が知り、あなたがたの中のある人々も知っているように、不幸にして、私たちはごく冷たく、生気のないものとなってしまうことがある。だが、やはり私が知り、あなたがたの中のある人々が知っているように、私たちは、ほんの一瞬のうちに、いのちに満ち、愛に満ち、喜びに満ち、天的な恍惚に満ちることがあるのである。這うことしかできなかったあなたは、走り出す。吐息をつくことしかできなかったあなたは、歌い出す。私はあなたがたひとりひとりに今晩そうなってほしいと思う。いとも愛する方々。そして、あなたがた、自分など忘れられているのだと考えている人たちは、今晩、いずれにせよ思い起こされるはずである。あなたがた、真の神聖な聖餐の時がいかなるものかをほとんど忘れ果ててしまった人たちは、今晩をそれを再び学んで泣くであろう。

 「私を引き寄せてください。私たちはあなたのあとから急いでまいります。王は私を奥の間に連れて行かれました」。

 このように、ここには本日の聖句で言及された聖なる記憶のための3つの備えがあった。引き寄せられること、急いで行くこと、連れて行かれることである。

 キリストを思い起こすためには、もう1つだけ備えがある。それは、主によって楽しみと喜びを感じることである。「私たちはあなたによって楽しみ喜び……ます」。さあ、あなたの頭からその灰を取り除くがいい。あなたがた、患難ゆえに吐息をついている人たち! さあ、その荒布を解いて、脇へやるがいい。あなたがた、神との交わりを失い、その結果として暗闇にいる人たち! キリストを信じるなら、キリストはあなたのものとなる。キリストはご自分をあなたに与え、あなたを愛しておられる。そのほむべき事実を喜ぶがいい。

 主がいかなるお方であり、何を行なうお方であるかを思い出すがいい。まことの神よりのまことの神でありながら、完璧な人であり、人間の性質をまとった神、インマヌエル、私たちとともにおられる神、今はいと高き諸天で栄光を与えられていながら、かつては、私たちのために死の深淵そのものと墓場に沈みこんでくださったお方なのである。その愛しい御名をほめたたえるがいい。主によって楽しみ喜ぶがいい。

 さて、私は切に願う。あなたの口を笑いで満たし、あなたの舌を喜びの叫び[詩126:2]で満たし、それからあなたの心を聖なる恍惚で満たすがいい。どなたが自分の《愛するお方》であるか、この方がいかに偉大であるか、そして、この方とあなたとの結び合いにより、いかなる偉大さをこの方があなたに着せてくださるかを考えて、そうするがいい。私たちは、しかるべきほどにキリストを思い起こしたくとも、重苦しい心をかかえていてはうまく行かない。さあ、悲しい霊よ。主にあって喜ぶがいい! 「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」[ピリ4:4]。もしも人間の魂に何か喜ぶべき理由があるとしたら、それは、キリストを信じている魂に違いない。もしもアダムの子らの中に誰か、楽しむべき原因、また、聖なる歓喜によって両手を打ち鳴らすべき原因を有している者がいるとしたら、それはキリストを自分の救いとして、また、自分のすべてのすべてとして見いだしている人々である。

 さて、こうしたものが、この聖句の語っている聖なる記憶のための備えである。もしそれらが良くなされるとしたら、あなたはキリストの愛を今晩思い起こすことに何の困難もないであろう。

 II. それで今、第二のこととして、私に力が与えられる限り、《この聖なる記憶の天来の主題》について語りたいと思う。「私たちはあなたの愛を思い起こします」*。

 最初に思い起こしたいのは、キリストの愛という事実である。神の御子が私たちを愛してくださるとは、何と素晴らしいことであろう! 私は、主があなたに対する何らかの愛をいだかれることは、それほど異としない。だが、私が驚異にわれを忘れるのは、主が私に対して、この私に対して、少しでも愛をいだいてくださるという事実である。信仰者はめいめい、こう感じるではないだろうか? 不思議中の不思議とは、主イエス・キリストが自分を愛してくださることに違いない、と。主は栄光のうちにあり、何も不足しておられなかった。主は御父のふところにいて、言語を絶する歓喜を享受しておられた。もし主がご自分の被造物の何かに目を向けて、それを愛したいとお思いになったとしたら、御座の前には無数の輝かしい霊たちがいた。しかし、否。主は低く、低く、低く見下ろし、地上の糞土の山をご覧にならなくてはならなかった。そして、主に顧みられる値打ちなど全くなかった私たちを見いだしてくださった。とはいえ主は、私たちを憐れんでから、私たちを自らの失われた状態のまま放置することもおできになった。だが、私たちの愛する《救い主》のような心をお持ちのお方が、そのようなことをするはずがなかった。主は私たちを愛さないわけには行かなかった。神にとって愛するということがいかなることかは、神だけがご存知である。私たちは、自分の胸の中で、自分の情愛の対象に対して燃える愛を通して微かな推測はできる。神の愛がいかなるものに違いないかを。神の愛は、強大な情動に違いない。こうした言葉を用いるのは、それ以外にすぐれた言葉を知らないからである。それが正しい言葉でないことは私も自覚している。人間の言葉遣いは、天来の愛を描写するには弱々しすぎるからである。

   「主の愛、死にも、地獄(よみ)にもまさり、
    その富(ゆた)かさぞ 測りえじ。
    見んとも徒(むな)し、その深み。
    達すあたわじ、その神秘(ふしぎ)、
    その長さも、幅も、高さをも」。

おゝ、キリストの愛よ! イエス・キリストが、――諸天の最愛のお方が、――その情愛の御目をお向けになるとは。土に帰る定命の人間たちに――罪深い人間たちに――この私に! それこそ、私にとっては究極の点である。

 私たちはキリストの愛という事実を思い起こすであろう。

 しかし、私たちは、キリストの愛の性格をも思い起こすであろう。それは、何という愛であったことか! 主は、世界の基が置かれる前から[エペ1:4]私たちを愛された。その予知の望遠鏡によって、私たちの存在を予見し、私たちが全く存在していないときに私たちを愛された。それから、主は大いなる御父と取り決めを交わし、私たちの代理として契約を結んでは、ご自分が私たちの保証人になり、私たちの罪ゆえの破滅から私たちを贖うと約束された。おゝ、その愛、その愛、キリストのその永遠の愛よ! 主は、そもそもの最初から、決して私たちを愛さずにいることがなかった。世界が造られる前の代々すべてを通じて、また、世界が存在してきた幾多の世紀を通じて、主はその選びの民をあらゆる瞬間に愛しておられ、そのきわみまで愛された。あなたは、この思想の甘やかさを深く感受できるだろうか? おゝ、私は切に願う。ぜひとも思い起こしてほしい。ご自分の民に対するキリストの愛がいかに古く、いかに不断のものであったかを! 「私たちは、あなたの愛を……思い起こします」。

 それは、功績なしに得られた愛であった。その愛を燃やすことになる理由は、私たちのうちには全くなかった。

   「われらには 神のおほめに かなうもの
      主をよみすもの ありたるか。
   「否、父よ。永久にぞわれら 歌うべし。
    こは みこころに よりたるなり、と」。

主が私たちを愛されたのは、主が私たちを愛そうとされたからである。主の愛の主権性こそ、主が愛そうと選ばれた者たちを主に愛させたものであった。主は彼らを無代価で愛された。彼らの中にあった何物も、あるいは、彼らによって行なわれることになる何物も、主の愛には値しなかった。しかし、主は彼らを無代価で愛するのと同じくらい完全に愛された。主は強固に、天来のしかたで、測り知れぬほど愛された。あなたは、自分の子どもに対するあなたの愛を知っている。それは、あなたに対するキリストの愛という大いなる太陽にくらべれば、微かな火花にすぎない。あなたは、自分の夫に対するあなたの愛を知っている。それは、ご自分の民に対するキリストの愛という海原にくらべればちっぽけな小川である。愛する方々。今晩、聖餐卓の席に着くときには、あなたに対するキリストの愛が、いかに数多くの驚異的な資質を有しているか、よくよく思い巡らすがいい。「私たちは、あなたの愛を思い起こします。私たちには、それが忘れられないからです。私たちは、あなたの愛を思い起こします。この喜ばしい題目を、いやでも私たちは考えざるをえないからです。私たちは、あなたの愛を葡萄酒にまさって思い起こします」。

 また、私たちはキリストの愛の数々の行為を思い起こす。それは壮大な物語である。それを今晩あなたにじっくりと告げることはできない。あなたも知る通り、時満ちるに及んで神の御子は栄光の中から出て、角のある雄牛たちがえさを食らう牛舎に降り立たれた。諸世界すべてを造られたお方が、ひとりの女の乳房のもとにかきいだかれていた。というのも、この方は、私たちを私たちのもろもろの罪から救うために人となられたからである。「ここに愛があるのです!」[Iヨハ4:10] 見るがいい。この方が労多い生き方を送り、巡り歩いて良いわざをなし[使10:38]、蔑まれ、中傷されながら、常により大きな恵みとあわれみとを、値なき者たちに与えようとしておられる姿を。あなたは主の生涯を知っている。驚異に満ちたキリストの生涯を。「ここに愛があるのです」。最後に、主は、血の汗を流すほどの苦悶の中でご自分をお与えになった。打つ者にご自分の背中をまかせ、ひげを抜く者にご自分の頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられてもご自分の顔を隠されなかった[イザ50:6]。それから、主はその身を与え、その御手を釘づけられ、その御足を十字架と残酷な鉄釘に、その御脇を槍に、そのからだを墓にまかせて、その魂を御父に引き渡された。「ここに愛があるのです」。私は、この題目が宣言されるにふさわしいしかたでそれを宣べ伝えることができたらと思う。おゝ、キリストの死に給う愛について語るすべを知ることができたならどんなに良いことか! 御使いたちは、イエスの愛という神秘をのぞき込みたいと願っている。だが、彼らでさえ、その測り知れない高さ、深さ、長さ、広さを理解することはできない。その対象である、残りの私たちは、その死に給う愛を思い起こしたくはないだろうか?

   「十字架にわれの 目をば向け、
    カルバリにそを とどむれば、
    神の小羊(ひつじ)よ、わが犠牲(にえ)よ!
    汝れをばなどて 覚えざらん。

   「汝れをば覚えん、汝が苦痛(いたみ)、
    われへの愛の すべてをも。
    しかり、わが息、わが脈の
    残れる限り 汝れ覚えん!」

しかし、イエスは墓からよみがえられた。同じ愛をいだきつつよみがえり、同じ愛をいだきつつ天に昇られた。また同じ愛をいだきつつ今も生きておられ、私たちのためにとりなしていてくださる。主は、いま私たちを愛しておられる。また、愛をもって私たちのために再び来られる。愛は、主が地上にもう一度舞い降りるための翼を与えるはずである。やがて主は地上で王となられるが、ご自分の民を抜きにしてではない。「万軍の主がシオンの山、エルサレムで王となり、栄光がその長老たちの前に輝く」[イザ24:23]。主は永遠に愛によって統治なさる。とこしえに、来たるべき生を通じ、決して終わることのない代々を通じて、キリストはその愛によって安らぎを与え、喜びをもってご自分の民のことを楽しみ、高らかに歌って御民のことを喜ばれる[ゼパ3:17]。また、主は彼らをご自分の栄光にあずからせ、ご自分の御座に着かせ、ご自分とともに永久永遠に王としてくださるであろう。

 おゝ、これは何たる題目であろう。キリストの愛の行為とは! そのことについて語ろうと努めると、私は、この場に立って、自分の大好きな主題について語ろうとしている、あわれな小学生になったような気がする。おゝ、ここに一個のミルトンがいて、あるいは、誰かミルトン級の才幹を有する人がいて、キリストの大いなる愛というこの物語を余すところなく告げてくれたとしたらどんなに良いことか! だが、ことによると、この題目は、私の貧弱な描写の方が、人間の最も高雅な言葉を用いるよりも良いかもしれない。なぜなら、その分だけあなたは描写のことを忘れて、述べ尽くせないこの愛を思い起こす見込みが高いからである。もしも私の講話が高雅で立派な語法に満ちていたとしたら、あなたは題目を忘れて、語り手の方を記憶にとどめることになったかもしれない。

 兄弟姉妹たち。私が今晩あなたがたに望みたいのは、キリストの愛の数ある証拠を思い起こすことである。あなたは遠く離れていたが、主はあなたを探し出し、連れ戻してくださった。あなたは耳しいていたが、主はあなたを呼んで、あなたの耳を開き、その愛に満ちた呼びかけが聞こえるようにしてくださった。あなたは震え、恐れながらやって来たが、主はあなたを励ましてくださった。そして一瞬のうちに、あなたの重荷を取り去り、あなたを自由にしてくださった。それを覚えているだろうか?

   「イエスが汝れに 最初に出会いし
    ところと場所を きみは思うや」

私は今晩も、自分が最初に主を見た場所を覚えている。寸分違わずに覚えている。あなたがたの中のある人々は、それほど明確に語ることはできないし、だからといって赤面する必要もない。イエスはあなたのもとに来られただろうか? あなたのもろもろの罪を赦してくださっただろうか? その愛によって慰めてくださっただろうか? ならば、それを今晩思い起こすがいい。日時や場所について決して気にしてはならない。むしろ、主の愛を思い起こすがいい。

 イエスが最初にあなたのもとにやって来て、あなたを救ってくださったとき以来、あなたは何度となく悩みに陥ったが、主はあなたを慰めてくださった。あなたは労苦してきたが、主は支えてくださった。誹謗されてきたが、主は栄誉を与えてくださった。悲しいかな、あなたは自分が主の愛に値しない者であることを証明してきた。だが、主はあなたの信仰後退を赦してこられた。あなたは主からさまよい出てきたが、主はあなたを回復させてくださった。主の大いなる愛を思い起こすがいい。

 残念ながら、私のいかなる言葉をもってしても、大してあなたの助けにはならないのではないかと思う。だが、あなたの記憶によって、あなたの日記の頁をざっと見直してみるがいい。あなたの主があなたに賜った恩顧を記録した一頁一頁を繰ってみるがいい。いくつかの頁には、悩んだ時にあなたがつけた大きな十字が記されているではないだろうか? また、別の十字も記されているではないだろうか? それは、イエスがあなたを救い出しに来て、救出してくださった時にあなたがつけたものである。おゝ、主の愛を思い起こすがいい。葡萄酒にまさって思い起こすがいい!

 この点については、これ以上あなたを引き留めまい。だが、私はずっと多くのことをあなたに語りたいと思っている。兄弟姉妹たち。あなたに語ることができないとしても、私たちがいま考えていることだけは行なうがいい。キリストを、また、その大いなる愛を思い起こすがいい。今そうするがいい。主の裂かれたからだと流された血との象徴にあずかる前に、主のもとに行くがいい。そうしたければ、他の何を忘れてもかまわない。だが、キリストの愛は思い起こすように私はあなたに命じる。さあ、他の一切の思い出は船外に放り出すがいい。いかに貴重なものであっても関係ない! 金の延べ棒など打ち捨てるがいい。だが、真の船荷には堅くしがみつくがいい。この船の本物の貨物、キリストが私たちを愛された愛に。それを思い起こし、じっと座して、そのほむべき記憶を楽しむがいい。

 私の主題の最後の区分に進む前に、私は問いたい。果たしてこの場に誰かキリストの愛を思い起こすことができず、それを一度も知ったことがないという人がいるだろうか? 向こう側にいる、愛する方よ。あなたはそうだろうか? 先の聖書朗読で読んだ、らい病人たちのことを思い出させてほしい。それから、らい病に罹った人に関する、神の古の律法をあなたに想起させてほしい。その人が大祭司のもとに連れて来られて吟味されると、大祭司はその人を上から下まで、頭の天辺から足の裏まで眺めて、そのらい病人に申し渡した。「そなたの胸には、まだ肌が完璧にきよい部分があるな」。そこで、らい病人は云った。「はい。私はそれを見ると嬉しくなります」。しかし、大祭司は答えた。「そなたは汚れている。主の家に入ってはならないし、民と交わってもいけない」。それから、別の者がやって来る。大祭司は彼の全身を調べてから、こう云った。「ここの、そなたの足のこの部分は、まだ健全であるな」。「はい」、と相手は云った。「私は、それが何と良いしるしなのかとしばしば考えてきました」。「そなたも、やはり汚れている」、と大祭司は云った。「隔離されたそなたの家に行き、そこにとどまるがいい」。それから、ひとりのあわれな男がやって来た。彼はからだ中が白くなっていた。すると、大祭司は彼に云った。「そなたには、どこかきよい部分はあるかな?」 「いいえ、祭司様。一箇所もございません。私を吟味して、ご覧になってください」。そこで大祭司が眺めると、彼の上にはきよい部分が、針を刺せるほどもなく、らい病が彼の全身を覆っていた。彼には、その破壊的な病毒が完全に染みつき、その厭わしい疾病によって汚れ果てていた。そして、彼はそこに立ち、大祭司の前で小さくなって震えていた。そのとき、大祭司は彼に云った。「見よ。あなたはきよい。律法に要求された儀式を果たしたら、あなたは自分の家に行き、あなたの神の家に行ってよろしい。あなたはきよいのだから」。この律法には、1つ医学的な理由があったと思う。この病害は広がりきっていた。行く所まで行っていた。この疾病は十分に発展しきっていた。そして、じきになくなろうとしていた。しかし、医学的な理由はどうあれ、それが律法であった。そして、かりに私がいま話しかけている人々の中のある人が、こう感じているとしよう。「私には良いものなど何もありません。私は汚れています。汚れています。頭の天辺から足の裏まで汚れています。地獄のどん底に私は落ちて当然です」。その場合、愛する方よ。神の恵みはあなたの中で働き始めている。今やあなたがからっぽになっている以上、神はあなたを満たし始めるであろう。その愛する御子の贖罪のいけにえに信頼することである。そうすれば、あなたは、自分もまたその救いに至る恵みの対照であるという確信を得るはずである。主の愛は、聖霊によってあなたの心に注がれる[ロマ5:5]はずである。そして、あなたは私たちに加わっては、主が私たちを愛してくださった、その大いなる愛を思い起こすことになるはずである。

 III. 私があなたに語らなくてはならない最後のことは、このこと、《この聖なる記憶から生じる天来の成果》である。「直ぐな人はあなたを愛します」。

 それは、こういうことかと思われる。もし私たちがキリストを思い起こすなら、私たちは、主の民への敬意をいだくはずである。主の民は直ぐな人である。そして、この聖なる雅歌の中で語り手となっている彼女は、向き直って彼らを眺め、云うのである。「直ぐな人はあなたを愛します」。「このことによって、あなたはいやまして私には素晴らしい方に思われます。というのも、汚れのない精神をした人々があなたを愛するとしたら、ますます私はあなたを愛するべきだからです」。もしもあなたが、時として私が感じるのと同じように感じるとしたら、あなたは神の家の中で一番小さな者であると確信して喜ぶだろうと思う。私たちは、直ぐな人がキリストを愛していると知っており、直ぐな人々がそうすればこそ私たちは彼らを愛する。また、私たちは、よりすぐれた人々であればあるほどキリストを尊んでいるがゆえに、キリストを尊く思う。そうではないだろうか? しかし、時として私たちは、自分が選ばれた者たちの一員に入っていないのではないかと恐れる。「直ぐな人はあなたを愛します」。主よ。私は直ぐな人々のひとりでしょうか? 私たちの賛美歌は、天国に関してさえ、それをこのように云い表わしている。

   「主をば愛する 民の座す場に、
    切にわが身も 行かまほし。
    並ぶ王座の 足もとにても
    救主(きみ)の御顔を 拝せばや」。

私たちは、キリストを愛することができさえするなら、主の民の一番小さな者の足元にさえ喜んで座りたいと思うではないだろうか? 彼らは主を愛している。私は、あなたがいかに今晩、あたりを見回し、こう云っているか承知している。「あそこには誰それ兄弟が座っている。あの方はキリストを愛している。あそこには誰それ夫人がいる。主への奉仕に忙しく働いている方で、あの方はキリストを愛している。そして、あの立派な方[ウィリアム・オルニー氏]、お亡くなりになった後も、講壇の回りの悲しい喪章で記念されているあの方は、キリストを愛していた」。「あゝ、ならば!」、とあなたは云うであろう。「私もキリストを愛したい! そして、真にキリストをあがめている、心根の直ぐな人たちの間に自分もいたい」、と。その祝福を求めるがいい。愛する方々。というのも、もしあなたが正しく求めるなら、それは得られるからである。それを求めるがいい。キリストへの愛によって、あなたは直ぐな人を愛するようになり、あなたの内側には、彼らに対する敬意が呼び起こされるからである。私は、キリスト者である人々が悪口を云い合っているのを聞くことを好まない。また、キリスト者である人々が《教会》の悪口を云うのを聞くことを好まない。キリストが《教会》を愛し、《教会》をめとっておられる以上、もしもあなたが私の《主人》の花嫁に難癖をつけようとするとしたら、あなたに災いあれ! 主は、ご自分の選ばれた者たちを愛さない人々を愛されない。神の民のことは大いに愛すがいい。その中の、最もあわれな者をさえである。彼らのことは、世界の貴族とも、宇宙の王族とも、御使いたちをそのしもべとしている人々とも、神のために王また祭司とされた人々[黙1:6 <英欽定訳>]ともみなすがいい。もしあなたがキリストを思い起こすとしたら、あなたはキリストの民を思い起こすであろう。もし主の愛を思い起こすとしたら、彼らへの愛を感じるであろう。願わくは、神があなたにそうさせてくださるように!

 もう1つのことだけ語って終わりにしよう。キリストの愛を、直ぐな人がするように思い起こすことによって、私たちは直ぐな者になっていくはずである。私の信ずるところ、神は私たちの聖化のために苦難を祝福するが、喜びをも同じ目的のために祝福してくださる。だが、私の確信するところ、聖化にとって最大の媒介的手段は、イエスへの愛である。ある人が、自分を聖くするものは何だと考えるべきだろうかと尋ねたとき、その人の友人はこう答えた。「死について考えなさい」。確かに墓や、根掘り鍬や、屍衣について考えるのは賢明なことである。だが、キリストに対する生きた愛には、死への思いすらしのぐほど人を聖める力がある。ある人がこう云った。「もしも聖く成長したければ、罪の罰のこと、神が悪人のために掘られた穴のことを考えなさい。そうすれば、あなたは罪について考えるだけで震えだし、最悪の破壊者の前から逃げ出すように罪から逃げ出すようになるでしょう」。それは正しい。だが、それでも、もしあなたが恵みにおいて急速に成長したければ、また、迅速に聖くなりたければ、このことこそ、あなたが瞑想すべき最上の題目である。「私たちは、あなたの愛を思い起こします」。もしあなたがキリストの愛を思い起こすとしたら、あなたは自分のひねこびた性質から引き上げられ、真っ直ぐにされ、主を愛する直ぐな人々の間に置かれるであろう。

 ならば、さあ、キリストへの愛という甘やかな思いをいだきつつ、ともに集まろうではないか。この説教は短いものだが、その主題は長い。そして、あなたには今、聖餐卓のもとにやって来て、私があなたのために始めた題目を考え抜く機会が与えられている。「われに対する キリストの愛を、われに対するキリストの愛を」。それから、その後にこの思いを続けるがいい。「おゝ、キリストに対する私のあわれな愛よ!」 考えるがいい。愛する方々。もしもキリストに対するあなた自身の愛を思い起こすとしたら、それを思い起こすのはいかに小さなことであろう。主の愛は、諸天にかかる太陽のようである。あなたの愛は、――よろしい。まず眼鏡をかけなければ見えるようなものではない。それほど小さなものである。願わくは、それが今晩成長していくように。また、聖餐卓において、あなたがキリストからの大きな訪れを受け、キリストとの歓喜あふれる交わりを有する者となるように。そして、先に私が演壇から余儀なく退出していた際に、あなたがたが歌っていた賛美歌を、もう一度歌えるほどとなるように。

   「イェスよ、われ愛さん、汝れはわがもの。
    汝がため、われは 罪を捨てん。
    恵みの贖主(きみ)よ、救いの主よ、
    かくまで主を愛するは きょう初めの心地して。

   「愛しまつらん、生くるも死ぬも、
    ほめたたえん、わが 息うくる間(ま)は。
    死の露、額(ぬか)に 冷たく降るとも、
    かくまで主を愛するは きょう初めの心地せり」。

願わくは、今それを歌えるように。また、死の露が冷たく額に降りるときにも、それを歌うことができるように! 主があなたとともにあらんことを。イエスのゆえに! アーメン。

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キリストの愛の記憶[了]


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