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シメオンの白鳥の歌

NO. 2293

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1892年12月25日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです」。――ルカ2:29、30


 キリストを信じているとしたら、私たちもいつの日か、この言葉を発するはずである。今すぐではないかもしれない。だがしかし、おそらく私たちの中のある者らが考えているよりも早く、私たちは足を床の中に入れ[創49:33]、泰然として云うことになるはずである。「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます」、と。

 見るがいい。信仰者にとって、死がいかなるものであるかを。それは、立ち去ることでしかない。奉仕の一日の後で出発することである。「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを去らせてくださいます。私の一日分の仕事は終わりました。今は家に帰らせてください」。信じる私たちにとって、それは、より高い奉仕への出発となるであろう。というのも、私たちは、この現在の労働の場から出立するときでさえ、なおも主のしもべだからである。私たちは行って、さらに高く、さらに完璧な、さらに私たちの《主人》の御前近くにおける働きを行なうことになる。「そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る」[黙22:3-4]。しかし、信仰者にとって死は、ある形の奉仕から別の形の奉仕への出発でしかない。

 そして、注意するがいい。これは、「安らか」な出発である。私たちは神と和らがされている。私たちには平和がある。――

   「平和(やすき)よ! 平和よ! 悪しき闇世(やみよ)に、
    主の血は囁(つ)げり、平和を心中(うち)に!」

イエスを信じた者はみな安息に入っている。「信仰によって義と認められた私たちは、……神との平和を持っています」[ロマ5:1]。信ずることの中には喜びと平和がある。そして私たちは、平和のうちに生きるように、平和のうちに死ぬ。平和のうちにとどまり、平和の中で去っていく。私たちの死の瞬間には、深く聖なる静謐さが満ちるであろう。

   「これにて地上(した)の 争闘(いくさ)は熄(や)まん、
    主、呼べり、天(あま)つ 全き安息(やすみ)に!」。

私たちは、ことによると、死に臨むとき、こう云えるかもしれない。それは、かつて私の愛する友が臨終の床にあったとき、見舞いに行った私に告げたことである。彼の苦しみの一端は、いわゆる視神経の途絶から来る全盲にあった。だが、起き上がると彼は、私が見えなくとも、自分の手を動かしてこう云った。――

   「わが目の永久(とわ)に 途絶(と)ざさるるとき、
    その瞬時(ひととき)は いかに甘きか!
    死せる蒼白(あおさ)は 頬にあれども
    栄光(さかえ)ぞ満てり わが魂(たま)に!」

私たちも、それと同じであろう。私たちは安らかに去るであろう。信仰者にとって死は恐るべきことではない。信仰者は、それを願いさえする。「主よ。今こそあなたは、安らかに去らせてくださいます。それを賜物として与えてください。恩恵として賜ってください」。罪人にとって死は呪いだが、信仰者にとってそれは祝福の1つの形である。いのちの門である。罪人にとってそれは、かの底知れぬ穴の名状しがたい暗闇に自分を引きずっていく鎖だが、聖徒にとってそれは、光と愛との天国へと自分を運び上る火の戦車である。

 また、シメオンがこう云ったことに注意するがいい。「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます」。先の聖書朗読のとき、26節でルカがシメオンについて何と云っているかに注目しただろうか? 「主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた」。この預言はすでに成就した。彼は主の《油注がれた者》を見ていた。地上で彼が願うことはもはや何1つなかった。それで彼は云ったのである。「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです」。シメオンの聖なる静謐さの理由、彼が死をこの世から立ち去ることでしかないと見いだした原因は、この、「私の目があなたの御救いを見たからです」、と彼が云えた事実にある。このほむべき事実についてこそ、私は今晩、御霊の助けによって語りたいと思う。

 私は、この場にいる人々が全員、「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを安らかに去らせてくださいます」、と云えるとは思わない。あなたがたの中のある人々の場合、死が今のままのあなたのもとにやって来たとしたら、安らかに去ることはないであろう。愛する方々。もしあなたが、死と審きに向かう備えをしていないとしたら、こう祈るが良い。「主よ。私があなたとの平和を見いだすまで、地上にとどまらせてください。その後でなら、あなたのお望みのときに、いつでも私を安らかに去らせてください」、と。

 私は今回、この聖句の最も奥深い意味を汲み取り、このシメオンの言葉について詳しく考えたいと思う。「私の目があなたの御救いを見たからです」。赤子のキリストを肉眼で見た者たちは他にもいた。だがシメオンは、この赤子のうちに、神の御救いなるキリストを見ていた。外的な目ではなく、彼の霊の内的な知覚力によって見ていた。私が望むのは、この場にいる多くの人々がこう云えるようになることである。私はキリストのうちに神の御救いを、また、神が私にお与えになった自分の救いを見てとりました、また、いま見ています、と。その場合、確かにその人たちは、生きるにしても、死ぬにしても、覚悟はできていると感じるに違いない。だが、もしあなたがたの中の誰かがそうでないとしたら、もしあなたが、「私の目はあなたの御救いを見た」*、と云えないとしたら、あなたは、「あなたのしもべを安らかに去らせてください」、とは祈れない。

 ならば、この、「私の目があなたの御救いを見た」、という言葉は何を意味しているのだろうか? 私は今晩のこの講話で、その意味を説明しようと思う。そして、そうし終えたときに、あなたは、老シメオンのこの発言に五つのことが含まれていることを見てとるであろう。第一に、ここには、明確な悟りがある。次に、完璧な満足がある。それから、幸いな解放がある。それから、たじろがない勇気がある。そして最後に、喜ばしく自分のものとすることがある。

 I. 私たちがシメオンの白鳥の歌で最初に注意すべきことは、《明確な悟り》である。「私の目はあなたの御救いを見た」*。

 ある人々は、非常に薄ぼんやりとしたキリスト教信仰しか有していない。彼らは、人を木が歩いているように見ている[マコ8:24]。物事を、濃霧に包まれたロンドンで見るように見ている。つまり、はっきり見ていないのである。明確に見てとれないのである。だがしかし、それなりには見てとっている。近頃の非常に多くのキリスト者たちの欠点は、霧の中で物を見る程度の光しか有していないことである。彼らは、輪郭のくっきりとした真理の映像を明確に識別したことがない。しかし、シメオンは違った。単に、「私はキリストにある神の救いを見ていると思います。たぶん見ていると思います。もしかすると見ているかもしれません」、と云うのではなく、こう云うことができた。「私の目があなたの御救いを見たからです」。おゝ、私の愛する方々。幸いなことよ。もしあなたが今晩、明確に、また、はっきりとキリスト・イエスの中に神の救いを見てとれるとしたら!

 まことに、キリストはそのとき赤子であった。シメオンは、たやすくキリストを腕に抱くことができた。だが、彼の信仰は、永遠の救い――受肉した神の内側にある無限の救い――を見ることができた。神は私たちの世界の中にやって来て、ご自分の上に私たちの性質をまとわれた。ベツレヘムで生まれたこの方は、「まことの神よりのまことの神」[ニカイヤ信条]であられた。この、パレスチナの地面を踏みしめながら巡り歩いて良いわざをなしていた[使10:38]お方は、「初めに神とともにおられた」[ヨハ1:2]お方であり、造られたもので、この方によらずにできたものは1つもない[ヨハ1:3]。キリストは神であられる。「ことばは神とともにあった。ことばは神であった」[ヨハ1:1]。だが、それと等しく真実なこととして、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」[ヨハ1:14]。

   「こよなく甘き 慰めなるは、
    いまも、永遠(とこよ)も、
    思いを馳する 恵みの真理(まこと)よ、
    汝が人の性質(み)の。

   「永久(とわ)に神にて、永久に人なり、
    わがイェス、汝れは。
    この主に我れの 希望(のぞみ)かかれり、
    永遠(すえ)まで堅く」。

さて、このキリストは、ご自分の民すべての罪をお引き受けになった。「自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました」[Iペテ2:24]。「主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」[イザ53:6]。そして罪は、キリストの上に負わされた以上、主がそれを引き受けてくださった者たちの上には、もはやとどまっていない。主がそれを負われたのは、彼らがそれを負わなくなるためである。主が彼らの罪の結果として苦しまれたのは、彼らが決してそうした結果に苦しまなくなるためである。イエスは神の正義に対して贖いをされた。《いと高き方》の完璧な律法を正当であると証明し、それに栄誉を与えられた。十字架上のキリスト、墓の中のキリスト、死者の中からよみがえられたキリストを見るとき、私は、主が私の罪を取り去ってくださったことが分かる。主は死なれた。葬られた。私たちの罪を滅ぼし、それを捨て去った上で、墓から出て来られた。そして、私の《代理者》として諸天の中に入り、私に代わって神の右の座を占められた。それは、私が主にあって、主とともに、永遠にそこに座れるようになるためである。私にとってキリストの犠牲は、数学で表現できる限りの明確で明晰な商取引である。私は人々が、いわゆる「商業的な贖罪の理論」をいかにけなそうと意に介さない。私は贖罪のいかなる「理論」も奉じていない。私は、ご自分の民のためのキリストの代償が、彼らのもろもろの罪のための贖罪であると信じる。そして、他には何の贖罪もなく、他の一切は理論であると信じる。これは、私にとってあまりにも明瞭であり、あまりにも真実であり、あまりにも明確であるため、私はキリストを見てとるとき、特に十字架につけられたキリスト、栄光を受けたキリストを見てとるとき、あえてシメオンとともにこう云えるほどである。「私の目はあなたの御救いを見た」*、と。このように、明確な悟りがシメオンの言葉の第一の意味である。

 あなたがた、キリストを信ずるようになった若い人たち。いかにキリストが神の御救いであられるかを明確に悟るがいい。多くの人々のように物事を混ぜ合わせ、ごたまぜにしてはならない。むしろ、キリストをあなたの《身代わり》として受け入れるがいい。「世の罪を取り除く神の小羊」[ヨハ1:29]として受け入れるがいい。信じるがいい。十字架の上で主があなたの負債を支払い、あなたの債務を履行し、代価を払ってあなたを買い取られたことを。それは、あなたが主のものとなり、永久永遠に主のものとなるためである。もしも死の折に平安を得たければ、また、思うに、人生に堅固な安息を得たければ、キリストがいかに神の御救いであられるかについて鮮明で、明快で、明晰な観念を有していなくてはならない。大半の人々はそれを見てとらず、それゆえ、その慰めを取り逃がしている。借金で首が回らなくなった人が確実に慰められるには、ある友人がその人の重荷を肩代わりし、その人に代わって借金を払ってやるしかない。そうするとき、その人は、以前のあらゆる債務がなくなっていると感じるのである。生ける神の前で宣言するが、今晩、私の心とって唯一堅固な慰めとなっているのは、このこと、すなわち、この懲らしめが私に平安をもたらし、主の打ち傷によって、私が癒されている[イザ53:5]ということでしかない。願わくはあなたが今、この偉大な真理を明確に悟れるように!

 II. しかし次のこととして、シメオンは、「私の目があなたの御救いを見た」、と云えたとき、キリストのうちに《完璧な満足》を有していた。

 見れば分かる通り、彼はキリストを腕に抱き、「私の目はあなたの御救いの一部を見た」、と云ってはいない。「あなたの御救いを見た」、と云っている。彼が救いを期待して見つめているのは、他の何物でもなく、ただ、その《人なる子》だけである。その《人なる子》がやがて行ない、担い、耐え忍ぶすべてのことを見、その子のうちに2つの性質、天来の性質と人間の性質を認めている。そして、その子を自分の胸に抱きしめながら云うのである。「私の目はあなたの御救いを見ました。これで十分です。私はここに私の望むすべてのものを得ています。主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことば通り、安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです」。

 愛する方々。あなたは今までキリストに対して、老シメオンがしたようにしたことがあるだろうか? 「彼は幼子を腕に抱き、神をほめたたえた」*[ルカ2:28]。あなたが自分を救うために必要なことはみな、この幼子のうちに存している。私は今では主を知ってから四十年かそこらになる。初めて主のもとに行ったとき、私は罪人として行った。頼ることのできる自分自身の行ないなど全くなく、より頼めるいかなる経験もなかった。そして私は、自分の一切の重圧を、ただキリストの完成されたみわざの上に置いた。さて四十年間奉仕してきた後で、また、ほぼ四十年間福音を宣べ伝えてきた後で、私は何かキリストが行なわれたことにつけ足すべき自分自身のわざを有しているだろうか? 私は、そのような考えをぞっとするほど厭わしく思う。私が、私の主の功績とともに秤に載せるべき重みを、針の頭ほども有していると? そのような思いよ、呪われてあれ! これまでにまして私は歌おう。――

   「イエスのほかは 何も知るまじ」、

と。そしてイエス以外のどこにもより頼むまい。さて、愛するキリスト者の方々。私はあなたがこのことを理解していると知っている。キリストは、すべてを満ち足らす《救い主》であり、この方があなたの救いのすべてであり、あなたの願いのすべてである、と。だがしかし、ことによると、あなたは時として、自分はこういう者にならなくては、あるいは、これこれをしなくては、あるいは、これこれを感じなくては、キリストが自分にとって何の効果もないというような考えにかられるかもしれない。そう考えてはならない。むしろ、全くキリストだけにより頼むがいい。云うがいい。「私は主により頼みます。私が聖徒であろうと罪人であろうと、また、明るい気分であろうと暗い気分であろうと、また、用いられていようと奉仕に失敗していようと関係ありません。私は、神の御顔の光を喜んでいるときに劣らず、暗闇の中を歩み何の光も見えずにいるときも信頼しなくてはなりません。キリストは、いついかなる時も私にとってすべてです。冬のキリストであり、夏のキリストです。私が他に何の光を有していなくとも、私のすべての光であり、他の一切の光を有しているときも、私のすべての光です。

   『わが身の望みは ただ建てり、
    主イエスきみの 血と義にぞ。
    我れは頼まじ 甘美きわまる心をも
    ただ寄り掛からん イエスの御名に。
    堅き岩なる キリストに立たん、
    その余の土地は 崩れゆく砂』」。

願わくは神があなたを、ただこう云えるようにしてくださるように。「私はキリストを見ました。私の目は神の救いを見ました。私は完璧に満足しています。他には何も望みません」。人は私の袖をつかんで云うだろうか? 「さあ、聞く価値のあることをお知らせしましょう」。私の親愛なる方よ。行って、それを聞きたがる他の誰かに知らせるがいい。私は聞きたくないからだ。私は、イエス・キリストによる永遠の救いについて聞いたとき、自分の欲するすべての知らせを聞いてしまったのだ。

 III. さて、第三に、シメオンのこの言葉、「私の目があなたの御救いを見たからです」、の中には、一種の《幸いな解放》があることに注意するがいい。この人物は、これまで、いわば縛られていた。だが、彼は云う。「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、安らかに去らせてくださいます。あらゆる枷は今や砕かれています。私はあなたの御救いを見ました。主よ。私は人生につながれていません。家につながれていません。慰めにつながれていません。あなたの宮にさえつながれていません。今、主よ。私はどこにでも行くことができます。安らかに去ることができます。私の目があなたの御救いを見たからです」。

 これは、老シメオンの、何と雄渾な発言であろう。私たちの中のほとんどの者らは、何らかの形でつながれている。そして、そこから抜け出すことが難しいことに気づく。私たちの中の多くの者らの場合、人生の最初の部分はしばしば、この世に自分を縛りつけることに費やされる。そして、次第に、自分があまりにも堅くつながれ、縛られ、不自由にされ、妨げられていると感じて、こう叫ぶ。「どうすれば自由になれるのだろう?」 唯一自由になれる道は、キリストを得ることである。「もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです」[ヨハ8:36]。もしあなたがキリストを腕で抱き、シメオンとともに、「私の目はあなたの御救いを見た」、と云うとしたら、あなたはそのときこう云える。「他の誰が去っても、他の何が去っても、今はかまいません。

   『よし汝れすべて 取らせ給えど
    なお我れ云わじ 逆らい言(ごと)を。
    それらわが手に わたる前には
    ことごとく汝が ものなれば』。

あなたが私にキリストを与えてくださった以上、あなたは、他の事がらについては、お望みのままに私に行なってくださってかまいません」。キリストが尊ばれていない所では、黄金が偶像になる。キリストが重んじられていない所では、健康が偶像になる。キリストが愛されていない所では、学識や名声が偶像になる。キリストがまず第一にされていない所では、個人的な美しさすらもが偶像になる。しかし、キリストが私たちのすべてのすべてとなる所では、私たちの目がその御救いを見たゆえに、偶像たちが倒れる。ダゴンは壊される[Iサム5:4]。私たちは解放される。そして私たちは、こうしたすべての事がらについて云える。左様。あなたがたが来ようが、あなたがたが行こうが、あなたがたが家の主人ではない。あなたは、これ以後は、また、永遠に、私にとっては、来たり行ったりしているだけの者でしかない。キリストが神の救いであると明確に悟り、キリストを私のものとして完全につかみとることによって、私の《霊》は、これまで私をとりこにしていたあらゆる枷から自由にされているのである。

 IV. ここで止まることはできない。なぜなら、私はあなたに注意してほしいからである。「私の目があなたの御救いを見た」と云えることによって、いかに人は《たじろがない勇気》を与えられるかを。

 ひとたびキリストを神の救いとして見てとった人は、死を見ることを恐れない。その人は云う。「私は今では、恐怖なしに死を真っ向から見ることができます。私は神の救いを見たからです」。その人は、天の雲の上に据えられるであろう、あのすさまじい審きの座を恐れない。「イエスから目を離さないで」[ヘブ12:2]いる人は、大地が揺れ動き、よろめく日をも、その上にある万物がゆさぶられて破滅する日をも恐れない。苦よもぎと呼ばれる星[黙8:11]をも、天と地が燃え上がるのを見ることも恐れない。「私の目があなたの御救いを見たからです」、とその人は云う。そして、どこへ行こうと、この栄光に富む幻を携えて行く。その人にとってそれは、いかなる地上的な魔除けにもまさるものである。神秘家だの魔術師だのの最強の魔力よりも強いものである。このような人は安全である。安全であるに違いない。その人の目は神の御救いを見たのである。

 もしあなたに最も真実な種類の勇気――いかなる酒類の刺激も、いかなる喇叭や太鼓の騒音による興奮も必要としない勇気――痛みを忍び、叱責に耐え、中傷にも平然とし、ひとり孤立することのできる平静な勇気――地獄の悪鬼そのひととも激しく刃を切り結びながら、それでも恐れない勇気を持ちたければ、――もしあなたがそのような勇気を持ちたければ、あなたはキリストを腕に抱かなくてはならない。というのも、そのときその人はシメオンとともにこう云うはずだからである。「主よ。何が起ころうと、私は何も恐れません。というのも、私の目はあなたの御救いを見たからです」。

   「地獄(よみ)も 凄惨(すさま)じ 死をも恐れず、
    われは破れり、あらゆる敵を。
    愛の翼と 信仰の腕、
    われを運ばん、勝利者(かちて)とて」。

 V. 私はあなたを長々と引き留めはすまい。時間がほとんどなくなっているからである。だが、このもう1つのことは云おう。キリストをつかむ者は、キリストのことを《喜ばしく自分のものとする》。その人がキリストを見るとき、また、キリストがいかなるお方かを明確に了解するとき、そこには、個人的にキリストを自分のものとすることが伴う。

 これは、多くの人々にとって当惑の種である。この一週間、私は何人かの人々と話をしてきた。私から、救いの道に関する話、また、キリストの尊さについての話を聞いた人々である。そして、こうした求道者の方々の多くは、こういう疑問をいだくのである。「どのようにすれば私たちはキリストをつかめるのですか? 私たちは、先生がキリストについて云われたことをみな信じます。キリストは神の御救いです。ですが、どうすれば私たちはキリストを自分のものとして受け取れるのですか? 先生は、まるでキリストが何の疑いもなくご自分のものであるかのように扱っておられるようです。どうすれば私たちも同じようにできるのでしょうか?」 私はこう答える。ひとたび、いかにして《救い主》がお救いになるかを知ったなら、また、いかにしてこの方が神の御救いであるかを知ったなら、この方があなたを救うと信頼するがいい。その信頼が主を握り、主をつかむのである。そして、もしあなたが主をつかめるとしたら、主はあなたのものである。私たちの間には、いくつかの不動産所有権がある。そして、ある家が本当に自分のものであることを証明したい人は、自分の権利証書を持ち出さなくてはならないであろう。だが、恵みの御国において、あなたに必要な唯一の権利証書は、あなたがキリストをつかんでいることである。ならば、私は何の権利がなくとも主を取れるのだろうか? しかり。キリストを取ることによって、あなたにはキリストを取る権利が与えられるのである。「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」[ヨハ1:12]。そこの卓子の上には一片のパンがある。私はそれを自分のものにしようと思う。その件についてあなたが私と議論しようと何の役にも立たない。というのも、私はそれを一切の議論を越えたものとするからである。いかにしてか? 私はそのパンを私の手に取るであろう。よろしい。あなたはそれを私からもぎ取ることができる。私はそれ以上のことを行なうであろう。それを食べるであろう。それを消化するであろう。それは私自身の存在の一部となるであろう。そのとき、それを私から取り上げることはできない。そのような場合、現実占有は九分の勝ち目以上である。消化と吸収は、勝ち目十分に違いない。さて、キリストについてもそれと全く同じである。あわれな魂よ。主を取るがいい。主を信じるがいい。主を信頼するがいい。主を自分のものとするがいい。さらに、さらに、さらに、主を信頼するがいい。悪魔があなたから主を取り去ろうとすればするほど、いやまして主を信頼するがいい。救いという海になおも深く深く没入し、いやましてキリストを信頼するがいい。

 ことによると、ある人は云うであろう。「しかし、そもそも、いかにして私はキリストを信頼する権利があると分かるのですか?」 あなたにキリストを信頼する権利があるのは、そうするようあなたが命じられているからである。「主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、あなたも……救われます」[使16:31 <英欽定訳>]。この偉大な祝福に向かって突進するがいい。とにかく今晩キリストを取るがいい。というのも、主を取ることがあなたにとって窃盗のように思われようと、それでも、いったん主を取るなら、主は決してあなたから取り上げられないからである。私は云いたい。今晩キリストに向かって突進し、キリストを取りつつ、こう云うがいい。「私は主を信じます。信頼します。主に私をゆだねます」。天と地は過ぎ去るであろう。だが、もしあなたが本当にキリストを信頼するなら、あなたは決して恥を見ることがない。思い切ってキリストを信頼した人のうち、キリストが自分の必要にとって足りないとか、自分の欲するすべてを全く満たすことができないと分かった者はひとりもいなかった。

 シメオンはキリストを自分の腕で取り上げた。誰かがこう云ったかもしれない。「ご老人。あなたが、この新しく生まれた《王》と何の関係があるのですか? ご老人。あなたは正しく敬虔かもしれません。ですが、《受肉した神》を手に取るなどという大それた事をして良いのですか? 神が御国の鍵をその両肩の上に置かれたお方をなで回すなどということをして良いのですか? その名は《不思議な助言者》、《大いなる神》、《永遠の父》、《平和の君》[イザ9:6]なのですよ。そのお方に触るなどという大それたことをして良いのですか?」 しかり。彼はその大それたことをする。彼は主を自分の腕で抱く。自分の胸に抱きしめる。主について喜び、キリストを見いだした今、歓喜とともに死ぬことができる。さあ、あわれな悩める人たち。今晩やって来て、キリストをあなたの腕で抱くがいい! そして、あなたがた、愛する神の聖徒たち。このことをとうの昔に行なった人たち。もう一度そうするがいい! 主を、今なお赤子ででもあるかのように、あなたの腕で抱き上げるがいい。主をさらに取ってあなたの心に押しつけ、云うがいい。「主は私にとってすべてです。――私の愛、私の希望、私の兄弟です。このほむべき《受肉した神》は、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった[ガラ2:20]のです」。もしあなたがそうできるとしたら、それは今あなたにとって良いことであろう。あなたが死に臨むとき良いことであろう。永遠を通じてあなたにとって良いことであろう。

 話をお聞きの方々の中には、誰かこのきわめて重要な務めを先延ばしにしている人がいるだろうか? 折を見て[使24:25]そうしようと引き延ばしている人がいるだろうか? その人たちに云わせてほしい。その人たちが冒している危険について警告するようなことを。昔々、暗闇の《王》が配下の悪霊たちにこう云った。「余は、お前たちの中で誰が余の最上のしもべか見てみたい。福音が諸処で宣べ伝えられており、多くの人間どもがそれを聞いておる。そして余は、余の王国が損失をこうむるのではないかと頭を痛めておる。何か手を打たぬ限り、多くの者がこの黒旗の下から脱走し、ナザレのイエスの軍隊に入隊する恐れがあるのだ。余はそれを妨げたい。お前たちの中で、余の助けとなる者はおらぬか?」 とある悪霊が立ち上がり、こう云った。「私が行って、聖書など真実ではないと云いましょう。キリストなど神ではなく、宣べ伝えられていることは真理ではないと云いましょう」。しかし、この底知れぬ所の大王は彼に答えた。「お前は、今は余の役に立たぬわい。お前が有用な場所も二、三ありはするが、このみことばに耳を傾けているほとんどの者はお前をはねつけ、追い返すであろう。お前では、余が使いを出した場所の臭気が鼻につきすぎる。お前では、いま余が望んでいることを果たせぬわ」。この邪悪な群れの中から別の者が立ち上がって云った。「私を行かせてください。私は何か新しい真理の見解を提出しましょう。種々の目新しい教えを持ち出しましょう。そして、それらによって人々の考えを昔ながらの信仰からそらしてやりましょう」。しかし、空中の権威を持つこの支配者[エペ2:2]は答えた。「お前もまた、余の優秀なしもべであり、別の時なら大いに余に役立つ者だ。だが、この時ばかりは、余のもくろんでいる任務に当たるべき者ではないわ」。すると、ある者が口を開いてこう云った。「おゝ、暗黒の君よ。私はこの時に当たってあなた様の忠義の兵士となれると思います。ここに私がおります。私をお遣わしください」。「して、お前は何をするのだ?」、とベエルゼブブが云った。「何をしようというのだ?」 「私は行って、人々に告げてやりましょう。この説教者の警告は真実であり、福音の声は神の声である、と。私はいかなる反対によっても彼らの目を覚まさせたり、彼らを起こしたりしません。むしろ、彼らに告げてやります。こうした事がらに注意を払う時間は、そのうち十分にあるさ、と。私はそれぞれの者の口にこの言葉を授け、説教者に云わせてやります。『今は帰ってよい。おりを見て、また呼び出そう』」。そのとき、かの底知れぬ所の残忍なあるじは、にやりと笑って云った。「行くがいい。余の忠実なしもべよ。お前こそは、余の目的を完全に果たすことができるであろう。そして、かの説教者の裏をかき、きゃつの発する言葉を地に落とすことができよう」。ここには、いま私の言葉を聞いている誰かのための使信がないだろうか?

 「私の目があなたの御救いを見たからです」。私はいかに願っていることであろう。これを知らないまま、この場にいる人々に、救いの道がいかに天来のしかたで単純であるかを理解させることを! あなたは罪人であり、咎あり、罪に定められている。キリストは人となって、あなたのもろもろの罪を引き取り、あなたに成り代わって苦しみをお受けになる。あなたは、キリストが自分の代理として立つことを受け入れる。あなたは、あなたの信仰によって、キリストがあなたの《身代わり》として受け入れられることを認める。すると、あなたは「愛する方にあって受け入れられ」[エペ1:6 <英欽定訳>]、その方にあって救われるのである。おゝ、もしあなたがそうできさえしたら、――そして、あなたは今晩この場所を離れる前にそうしてかまわないし、そうすることを私は望むが、――もしあなたがそうするなら、あなたが若かろうと老いていようと、あなたのもとには、生のための心からの祝福が、また死のための最上の備えのすべてがやって来るであろう。あなたがこう云えるとしたら、まことにあなたは幸いになるであろう。「私の目があなたの御救いを見たからです」。

 私は、キリストを神の御救いとして見た後では、あたかも他の何も見たくないかのように思われる。ある回教徒たちについて、このような話がある。彼らはしばしば非常に狂信的になり、その狂信によって非常に異様で、身の毛もよだつほど恐ろしいことを行なう。だが、彼らはメッカに行き、彼らの預言者の墓に詣でることで知られている。そして、彼らがその墓を見た時には、彼らは熱した剣を手に取っては、それで自分の目をなで切りにし、二度と他の何も見えなくなるようにするという。実際、彼らは、このにせ預言者の墓を彼らが最後に見た光景として死ねるようにするのだという。さて、それは私たちが行なうことではない。だが、それでも私たちはそうした精神で行動したいと思う。「私の目があなたの御救いを見たからです」。俗に、「ナポリを見て死ね」、と云う。これはそこがあまりにも麗しいので、それを見た後では、それ以上の何も見るべきものはないという意味である。キリストを見るがいい。そのとき、他の何を見るべきだろうか? さあ、果たしてあなたが紺碧の海原を、それ以上に青い蒼天の下で航海しようと、あるいはこの陰気な大気の深みに潜り込もうと、王宮にいようと地下牢にいようと、病んでいようと躍動する健康一杯であろうと、こうしたすべては、大して重要なものではない。もしあなたの目が神の御救いを見たとしたら、神はあなたを、神だけがあなたを祝福できるようなしかたで祝福してくださったのである。行って、安らかに生きるがいい。また、行って、安らかに死ぬがいい。そして、あなたにこのような《救い主》を与え、見させ、また、見る力も与えてくださったお方の御名をたたえるがいい。愛する方々。主があなたを祝福し給わんことを! アーメン。アーメン。

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シメオンの白鳥の歌[了]


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