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信仰者たちの模範、アブラハム

NO. 2292

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1893年1月22日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「信仰によって、彼[アブラハム]は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です」。――ヘブ11:9、10


 アブラハムの生涯は、文字通りに取っても、教えに満ちている。だが、賢明なのは、その精神をとらえて、それを私たち自身のものとすることのはずである。私たちはアブラハムが生きた通りに生きることはできない。だが、アブラハムの生涯の根幹にあった偉大な諸原則を実行に移すことはできる。そして、もし聖霊が、この聖なる族長のそれと似た程度の信仰を私たちの内側に作り出してくださるとしたら、私たちは、彼がしたのと同じように、私たちの生涯によって神の栄光を現わすことができるであろう。

 私たちが彼について行かなくてはならない第一の点は、私たちの生涯が信仰の生涯でなくてはならないということである。信ずることを貫いたアブラハムの子どもたちになりたければ、信ずることによって生きなくてはならない。もしあなたが自分の五感に従うなら、あなたは見る所によって歩むであろう。さて、このあわれな肉が願い求めるよう教えるものによっては、アブラハムの生涯について何も分からないであろう。彼は、目では決して見えないものを見ていた人であった。彼は、耳では決して聞こえないものを聞いていた。そして、世の人々に決して感じられないもろもろの動機によって感動させられ、導かれ、動かされていた。彼は一個の偉人であり、人々の間にあってまさに君主であった。信仰を有するあらゆる人々の中でも第一人者であり、かしらであり、父であった。だが、彼の性格が卓越したものとなっていたのは、その信仰の偉大さゆえである。私たちは彼の信仰を有さなくてはならない。また、彼が信仰によって生きたように、信仰によって生きなくてはならない。そのとき神は、私たちのようにあわれで、弱々しい生き物さえも、何がしかの者とすることがおできになるであろう。6節に記されていることを思い起こさせてほしい。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです」。もし私たちが「信仰の人アブラハム」[ガラ3:9]のようになりたければ、信仰者となることによって始めなくてはならない。

 アブラハムは、3つの事がらにおいて、信じる私たちの模範である。そして、そうした3つの事がらが、今晩の私たちの主題の区分となるであろう。彼が私たちにとって模範であるのは、第一に、その生きるあり方においてである。「彼は約束された地に他国人のようにして住み、……天幕生活をしました」。第二に、アブラハムが信仰者たちにとって模範であるのは、彼がいかなる人々と親しく交わっていたかにおいてであった。「同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました」。そして第三に、アブラハムが信仰者たちにとって模範であるのは、彼がいかなる故国を待ち望んでいたかにおいてである。「彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です」。

 I. 第一に、愛する方々。私たちが霊的にアブラハムに見習おうと熱心に願うべきことは、《彼の生きたあり方において》である。彼はどのように生きただろうか?

 よろしい。最初に彼は、自分の古い知り合いたちから遠く離れ出た者として生きた。彼は、元々はカルデヤのウルに暮らしていた。聖書が云うところの、「ユーフラテス川の向こう」[ヨシ24:2]の地である。そのとき、彼は、自分の親族、土地、国を捨てて、今まで見たこともない国、また、神が究極的には彼の家族に永遠の相続地として与えると約束された地に行くように召された。アブラハムは不従順ではなかった。自分の国を離れた。そして、自分に指し示された地へと旅をした。さて、愛する方々。私たちは、一般的には、自分の友人や親戚から離れるべきではない。もしそうするとしたら、非常に狭量で恩知らずということになるであろう。しかしながら、場合によっては、そうすることさえ行なわれなくてはならないこともありえる。だが、私たちは、本当の意味で、私たちの古い知り合いたち――霊的でなく、罪深く、この世的な知り合いたち――を後にして、真っ直ぐに出て来るべきである。あなたがた、キリスト者である両親から生まれ、敬虔な家庭で暮らしている人たちは、このように出て来ることがいかに大きなことか分かっていない。というのも、あなたは普通はありえないようなしかたで保護されているからである。だが、この場にいるある人々は、キリスト者になるとしたら、家中の人々から「総すかんを食う」であろう。彼らの場合、家族の者がその人の敵となる[マタ10:36]。彼らは自分の現在の仕事を辞めなくてはならないであろう。多くの不敬虔な男女とのつき合いから離れなくてはならないであろう。不敬虔さの中にある、古くからの親類縁者から真っ直ぐに出て来なくてはならないであろう。そして、彼らはひとり残らず、私は主の側につくと云わなくてはならないであろう。

   「古きわが仲間(とも) いざさらば、
    汝れとは同伴(ゆ)けじ、地獄(よみ)までは」。

さて、アブラハムはこのことを行なった。そして、決して後戻りしなかった。ある者たちは、しばらくの間は自分の古い主人から逃げ出しても、やがてその残酷な奉仕へと舞い戻り、自らの破滅に至る。だが、彼は違った。

 思うに、アブラハムが自分の暮らしていた場所から召し出されて、分離した生き方を送らされたのは、彼の親戚や知人たちが偶像礼拝者たちだったからであった。主は、ヨシュアを通してイスラエルに云われた。「あなたがたの先祖たち、アブラハムとナホルとの父テラは、昔、ユーフラテス川の向こうに住んでおり、ほかの神々に仕えていた」[ヨシ24:2]。それゆえ、アブラハムは、そうした結びつきから取り去られ、生けるまことの神に仕えるようにされなくてはならない。「それはそうですが」、とあなたは云うであろう。「彼がパレスチナに行ったときには、偶像礼拝者たちの間にいることになりましたよ」。しかり。だが、偶像礼拝者たちの間を行きつ戻りつすることと、彼らと同じ家庭の中にいることとは全く別物である。アブラハムは、カナン人の間を点々と移り住み、彼らの卑猥な礼拝を目にしているときには、偶像礼拝を十二分に避けることができた。だが、彼らの父親の家のように上品で体裁の良い家にあっては、それを避けられなかった。そこではテラフィムがひっそりと崇敬されており、カナンで良く見受けられたような気色悪い忌まわしさを抜きにした、偽りの神々礼拝が行なわれていた。私は、中途半端なキリスト者たちによって失われる人々の方が、放蕩者たちによって失われる人々よりも多いと思う。人々は、酔いどれによっては、めったに酔いどれになるものではない。彼らが酔いどれになる原因は、――よろしい。そのことについてこれ以上は云々するまい。あなたは、私が何を意味しているか知っているはずである。また、人々が不正直になることをしばしば学ぶのは、大泥棒たちの模範を通してではないと思う。むしろ、それは正直だと思われていながら、しかしちょろまかすことのできる人々の真似をすることによってである。あゝ、愛する方々。ある人をこの世から真っ直ぐに出て来させることは良いことである。それが、この世の最上の部分からであっても関係ない。というのも、この世の最上の部分は十分に悪く、そこから完全に分離し、そこと私たちとの間に深い淵を置いておくことが、私たちの霊的な健康のためには本当に必要なのである。

 さて、アブラハムについて次に云えるのは、彼は、自分の国から遠く暮らしている間、約束の地で暮らしていたということであった。これは奇妙なことだったではないだろうか。――彼が、約束の地で他国人のようにしていたのである。神はすでにそれを彼と彼の子孫とに、塩の契約をもって与えておられた。だがしかし、彼はそれを足一歩分さえも所有することはなかった。例外は、彼がヘテ人から墓地として買った土地[創23:9]だけである。それが、彼の有したものすべてである。そのように、今日、この世の中では、ことによると、あなたがたの中のある人々が持つことになるものは、せいぜい、ほぼ六尺の墓地用の土地だけかもしれない。だがしかし、世はすべてあなたのものである。すべてあなたのものである。あなたは約束の地で生きている。「柔和な者は……地を相続するからです」[マタ5:5]。主を恐れる人々は、世の真の所有者である。そして、来たるべき日には、この貧しい世界そのものさえ、神のキリストによって征服され、私たちのものとなる。実際、それはすでに私たちのものであり、使徒が云う通り、世界をも大きく越えたものが私たちのものである。「現在のものであれ、未来のものであれ、すべてあなたがたのものです」[Iコリ3:22]。アブラハムは約束の地にいたが、まだ、その中では他国人であった。

 この点で、あなたは彼のようでなくてはならない。あなたの回りの一切のものを自分のものとみなし、だがしかし、現実には、墓地の中の小さな一区画以外、何も所有していないのだと考えるがいい。その区画には、最愛の者が眠っており、主が来られない限り、あなたもやがて眠ることになるからである。覚えておくべき点は、私たちがこの世では他国人たるべきだということである。この世の市民と取り違えられるようではいけない。この世の中では、他国人だと分かるようにしているべきである。アブラハムは、あの君主のように堂々としたヘテ人たちに対してさえ、赤面することもなくこう云った。「私はあなたがたの中に居留している異国人です」[創23:4]。彼は、彼らからカナン人だと思われたくなかったのである。もしも彼らがそのような考えに陥っていたとしたら、彼が何をしたか私には分からない。キリスト者である人たち。もしあなたがしかるべきあり方をしているとしたら、人々は、あなたがこの不敬虔な種族には属していないことを知るであろう。あなたは人々の間から贖い出されている。彼らには縁もゆかりもない新しいいのちを授けられている。ならば、あなたの日々の歩みと会話の中で、あなたが別の国を求めていることが明白になっているべきである。この世はあなたの国ではなく、決してあなたの国になることはありえない。

 なぜアブラハムは、その国の中で他国人とされたのだろうか? それは、彼が試みを受けるため、また、その試練の中で種々の恵みが発展させられるためだったと思う。そうした恵みは、それ以外のしかたでは決して発現できないからである。そして、あなたは、あなた自身の友人たちの真中でも他国人となるべきである。あなたの忍耐が試みられ、あなたの信仰が行使され、より良い国を求めるあなたの聖なる切望がしばしば迸り出るようになるために。

 また、彼がそこに置かれたのは、故郷から離れていた彼が、信仰によってそれを待ち望むことを学ぶためではなかっただろうか? あなたは、とてもまだ天国に入るべきではない。まだ、あなたがそこへ行くべき時ではない。あなたが天国から離れているのは、それを待ち望むようになるため、また、より強い欲求をもってそこに行けるようになるためである。寄宿学校に行った少年は、休暇で里帰りしたときには、ずっと強く家を愛すると思う。おゝ、神の民の中のある者たちにとって天国はいかなる天国となるであろう。その人々は、ほとんどの時間を固い寝床に横たわって過ごし、長年横たわっていることによってその寝床はますます固くされしまう。彼らはこの世における慰安を何も得られない。ことによると、来たるべき世の慰めすらあまり多くは得られない! 私たちの神とともにある一時間は、地上で私たちが苦しんでいる一切のことを埋め合わせるであろう。だが、私たちが苦しむことは、私たちがいざ天国に行き着いたときに、天国をいやまさって真実に天国にすることに大いに役立つであろう。

 アブラハムが、他国人としてカナンに置かれたということは、彼がヘテ人たちを悩ましていた思い煩いの多くとは全く関わりを持っていなかったことを意味していた。あなたもキリスト者として、この世の子らを悩ませる思い煩いとは全く関わりがない。あなたは金持ちになりたいと思い煩うべきではない。あなたは地上では他国人なのである。まもなく立ち去ろうというときに、なぜ家具また家具を積み重ねたいと思うのだろうか? あなたは、この世の子らのような苛立ちや心配事を覚えるべきではない。彼らは自国にいるのだから、苛立っても良い。その家は腐りつつあり、その家具は修理に出されることになっている。だが、それがあなたにとって何だというのか? それは全くあなたのものではないのである。あなたは単に宿屋に泊まっている旅人にすぎない。そして、たといその場所が明日には崩れ落ちるとしても、あなたは遠い所にいるであろう。あなたは故郷に帰る旅の途中にある。こうした人々のように定着してはいない。彼らが最も気を揉んでいる事がらにも、ごく僅かな関心しか寄せない。私は、マントンに行っても、仏蘭西の政局について心配したりしない。誰がその共和国の大統領かは知っているが、彼の右手や左手に座っている大物たちの名前は知らないし、知りたいとも思わない。もし政治について何か聞くとしたら、私自身の愛する祖国で何が起こっているを知りたいと思う。そのように、キリスト者たち。あなたの国籍は天にある[ピリ3:20]。この下界にあるこうした物事について云えば、神の国、また、あなたの同胞である人々の益に関わる限りにおいて関心を寄せることである。だが、あなたは決して政党人ではない。なぜそうなるべきだろうか? あなたは他国人また外国人なのである。だから、政党の抗争からは超然としたままでいることである。また、この世の人々がきわめて重要視する思い煩いや他の事がらからも局外に立っていることである。

 また、やはり思うに、アブラハムが他国人としてカナンに送られたのは、神の証し人となるためであった。この人々は、じきに滅ぼされることになっていたが、彼らの咎はまだ満ちていなかった[創15:16]。それで、彼らは、ひとりの神の人、ひとりの神の預言者が彼らの間に生きていることによって、もう1つの機会を得たのである。あなたがた、キリスト者である愛する人たちは、地上では他国人である。そして、あなたが地上で生きているのは、自分の周囲の人々の益のためである。あなたは、火の中から何本かの燃えさしを取り出すことがあるかもしれない。そうだとしたら、満足してとどまっているがいい。

 アブラハムがそこに暮らしていたのは、神がご自分に信頼する者たちのために何をおできになるかを人々に示すためであった。彼は、その地では単なる流浪人であり、自分の天幕をかかえて動き回っていた。だがしかし、彼らの間で最も富裕な者になることとなった。アブラハムは羊や牛において大いに祝福された[創24:35]。神が彼の面倒を見てくださったからである。そして、神がそうされたのは、このカナン人たちにこう云うためであったと思う。「あなたがたは見たか。あなたは始終苛立ったり、気を揉んだりしているのに、神のしもべアブラハムは、あなたよりもずっと優雅に暮らしているのだ」、と。それで、ソドムの王がアブラハムに富を差し出したとき、彼は太っ腹にも云うのである。「糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ。』と言わないためだ」[創14:23]。それでも、この人物は栄えた。そして、その繁栄によって人々にこの教訓を与えた。神に信頼する人は決して愚か者ではない。神に信頼する者は、この現世においてさえ見いだすのである。その人に耐えられ、また、主がふさわしいとお考えになる限りにおいて、主は、「神を求める者には報いてくださる方である」[ヘブ11:6]ことを。

 それでも、アブラハムはどこから見ても、彼に属していた地にあって一個の外国人であった。それと全く同じように、あなたも、あなたに属している世界にあって他国人である。あなたの主も、ご自分の国に来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった[ヨハ1:11]。神ご自身も、ご自分がお造りになった世界で余所者となっておられる。まさにダビデが主に向かってこう云った通りである。「私はあなたとともにいる旅人で、私のすべての先祖たちのように、寄留の者なのです」[詩39:12]。

 アブラハムが生きたあり方について、この点をさらに明確にするために、アブラハムが天幕暮らしをしていたことに注意してほしいと思う。彼は決して家を建てなかった。仮小屋も作らなかった。単に自分の天幕を持って、それを張るか、あちらこちらへと移すかするだけであった。それはなぜだろうか? それが何を意味していただろうか? あなたも天幕生活をすべきだということではない。むしろ、あなたがこう感じるべきだということである。すなわち、あなたの持てる一切の物、あなたの回りにある一切の物、あなたの一切の所有物は、もろいものでしかなく、ともすれば変化するものなのである。あなたは、そのちょっとした財産を非常に確かなものだとみなし始める。それは私も承知している。だが、考え違いをしてはならない。唯一確実なのはあなたの神である。あなたは、この世での自分の収入をしごく確かなものだとみなし始めており、それで、それを頼りにする。だが、あなたが頼って良い唯一のものは、あなたの神の忠実な約束である。今のあなたは自分の妻がこれからも生きていると思っているのか。あゝ、何としよう! 私はあなたを悲しませたくはない。たとい私に預言ができたとしても、私はあなたに、いかにあっというまに彼女が取り去られることになるか告げたいとは思わないであろう。あなたは自分の子どもたちが、定命の者たちの中でも若い方だとみなしている。だが、そうではない。あなたが彼らを葬ることになるか、彼らがあなたを葬ることになるかである。地上の一切の物事は過ぎ去る。私がマントンにおける地震の後で、いかに奇妙な喜びを感じたかをあなたに告げることはできない。私は、倒壊した多くの家屋を見たし、二軒の教会ははなはだしい被害を受けていた。地震の惨禍は至る所に見られ、その恐ろしさや力強さは全く身にしみて分かった。そして、自分の旅館の階段を上ったとき、私は思った。「よろしい。この建物も、にわかにいつ崩れ落ちないとも限らないのだ。私が寝床に就いたときに、すべてのたがが外れることもありえるのだ」。そのとき私は、こうした考えに非常に大きな喜びを覚えた。私は、夢の中ではなく、事実として、このあわれな揺れ動く世界の不安定さを、また、その中にいる一切のものがいかに土台のないものかを実感した。それは、いついかなる瞬間にも倒れてしまう天幕でしかない。一陣の突風で吹き飛ばされてしまうのだった。私たちがその中でこの上もなく居心地良くしているときに、こう告げる声を聞くことになるかもしれない。「立ち上がって、そこを去れ。自分の天幕をまとめて、どこか別の場所へ旅立て」。私はあなたに切に願う。この世にとらわれない心でいてほしい。この呪われた土壌にあなたの根を入り込ませてはならない。すぐにも来世で生きることになっている者のように、現世で生きるがいい。また、この喇叭の音が鳴るまでの間だけとどまっている人々であるかのように地上にとどまるがいい。「出発の時が来た。立ち上がって、そこを去れ。ここがあなたの安息ではないからだ」。そのように生きているとき、私たちはアブラハムがしていたように暮らしているのであり、神が望まれるような生き方をしているのである。

 II. さて、ごく手短に、次のこととして私たちがアブラハムを見習わなくてはならないのは、《彼がいかなる人々と親しく交わっていたかにおいて》である。「同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました」。

 これは何という幸運、否、何と恵み深い状況であったことであろう。アブラハムは、自らの近隣において最上の人々と親しく交わることができた! 私の知っている一部の人々は、聞くところ、家の外、例えば、酒場の特別室や、宴会の席上では、つき合って面白く、一緒にいると素晴らしい時を過ごせるという。だが、彼らは、家の中では全く我慢がならない人間である。無愛想で、荒々しく、狼のようにとげとげしい口調、これしか家族の者はその人から受けられない。ひとたび家の中に入ると、彼らはまるでくつろげない。外にいて、遠く離れていると、全くくつろいだ様子になる。

 しかし、ここにいるアブラハムは、天幕暮らしをしながら、自分の家族の中に、親しくつき合うべき最高の相手を見いだすという幸福を有していた。彼は、イサクとほぼ七十五年間ともに暮らしたと推測される。計算してみれば、およそそのくらいの期間であることが分かるであろう。彼はヤコブとともに暮らしただろうか? しかり。彼はそれと同時に、ほぼ十五年間、ヤコブとともに暮らしたに違いない。彼は、自分の愛し子イサクが結婚し、双子の子どもたちが生まれるのを見た。そして、ヤコブが穏やかな人となり、天幕に住む性質の者であること[創25:27]を見てとるだけは、孫たちの人生に目をとめていた。そしてアブラハムは、彼自身の愛する家族と、この上もなく甘やかに親しく交わることになった。願わくは、主があわれみにより私たちの子どもたちの全員を、また、彼らの妻たち、その子どもたちを回心させてくださるように! また、願わくは、アブラハムが天幕の中に1つの教会を有していたように、私たちも家の中に1つの教会を有せるように! 幸いなことよ、最上の人々と親しく交わることが家庭内でできる人は!

 しかし、それは私が言及したい点ではない。アブラハムは、自分と同じ思いをしている人々とともに天幕生活をした。私たちは、人をそのつき合う相手によって知ることができる。そして人は、そのつき合う相手によって祝福されも呪われもする。アブラハムは、イサクとヤコブとともに天幕生活をした。彼自身と同じ精神をした人々である。性格は似ても似つかないが、同じ恵みによって救われた人々、同じ神を礼拝する人々、同じ目的のために生きている人々、同じ数々の原則によって動かされている人々、約束の地を自分と共同して相続する人々である。これこそ、私が親しく交わっている人々である。こうした人々こそ、私の知る最愛の友人たちである。もしあなたが陽気な夜を過ごしたければ、神の子どもよ。あなたと同じように神の子どもたちである人を五、六人集めるがいい。いずれ楽しく思い返せるような夜を過ごしたければ、そうした仲間たちを集めるがいい。それがいかに貧しい信仰者たちであるかなど気にしてはならない。ことによると、貧しければ貧しいほど良いかもしれない。というのも、彼らはしばしば、私たちのいわゆる上流階級の人々の一部よりは、ずっと自由に神と語り合うだろうからである。下層階級――と私がしばしば呼ばなくてはならない人々――、日々の糧のために本当に神を待ち望まなくてはならない神の子どもたちは、しばしば、社会のいかなる階級の人にもまさって信仰に満ちている。この世の苦楽浮沈を知っている神の民、世で手荒な取り扱いに耐えてきた人々、日々自分たちを嘲る不敬虔な人々と入り混じっている人たち、こうした人々こそ本当に真剣に神のもとにやって来る人々である。彼らのキリスト教信仰は遊びではない。彼らは信仰を生きている。人生における彼らの身分や地位を気にしてはならない。もし彼らが神から恩顧を受けているとしたら、あなたの恩顧をも受けさせるがいい。また、神の民の中でも、あなたが最もえりすぐって親しく交わる人々とするがいい。私の見たことのある一部の人々は、神の子どもであるとは自称していながら、神の最上の民を鼻にもひっかけない。それは、彼らが下層階級の言葉遣いをし、聞き苦しい話し方しかできないからというのである。何ともはや! もし彼らの心が神と正しい関係にあるとしたら、彼らの話し方が不完全だろうと何が問題だろうか? あゝ、いかにしばしば私たちの魂は、ありとあらゆる文法的正しさを踏みにじるような祈りによって、天国に引き上げられてきたことか! また、いかにしばしば私は、見事なほど美しい言葉遣いの祈りによって、死ぬほど鈍重に感じさせられてきたことか。それは冷たい月光ではあっても日光ではなく、小綺麗な絵ではあっても、そこには何のいのちもなかった! 神のいのちを与えてほしい。そして、私たちはイサクやヤコブとともに天幕生活をし、そこにイサクの神、また、ヤコブの神を見いだそうではないか。そうすれば、悪いことはないはずである。

 最近キリストのもとに来たばかりの、愛する若い方々。神の民と親しい交わりを保つように気をつけるがいい。口をきける顔見知りの人をたくさん作れというのではない。むしろ、ひとりか二人の人、そうした人を持つがいい。ことによると、ひとりよりは二人の方が良いかもしれない。だが、ひとりで十分である。あなたが行って、自分の悩みを告げることのできる敬虔なキリスト者がひとりいれば良い。あなたよりも年長で、あなたよりも少しだけ路を先に進んでいる人であれば良い。そうした聖徒たちと話をするがいい。おそらくヤコブが父イサクと、また、イサクが父アブラハムと、同じ宿営地でともに暮らし、天幕生活をしていた間にそうしていたであろうようにするがいい。

 III. さて、最後に私が云いたいことは、あなたの心を、このあわれな、死んだ、鈍重な世界から遠く引き離すだろうようなことである。私たちはアブラハムが《いかなる故国を待ち望んでいたかにおいて》見習おうではないか。「彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です」。

 最初に注意すべきは、あらゆる聖徒は、時間を越えた所を視野に入れつつ生きるということである。知っての通り、馬や牛は、まぐさ棚か飼い葉桶にものがありさえすれば全く満足している。彼らは、来たるべき月々に対して何の準備もしない。若い人たちは、人生を始めるときには、自分の手に入るものをしばしばすべて費やし、老年のための準備を全くしない。もしあなたがそうしてきたとしたら、それは知恵あることだとは云えない。だが、私たちは切にあなたに願う。どうか地上にいる間に必要となるもののことしか考えないのではなく、死後のことをも考えてほしい。私たちは、このはかない時の間を通って生きながら、自分が永遠に生きなくてはならないことを全く思い出さないなどということができるだろうか? 私たちは、自分の全時間を時のために用いながら、永遠については全く見越さないなどということができるだろうか? 《愚か者、愚か者、愚か者》と特筆大書すべきは、この世を用いながら、それを自分たちの永遠の状態という大扉を開く蝶番であると決してみなさない者たちである。神の子どもたちは、来たるべき世を視野に入れる。彼らは、「黙(もだ)し追わるる家畜ら」*1のようには生きない。むしろ、死によって――あるいは、キリストの来臨によって――すみやかに自分たちが至らされるであろう、変化のない状態のことを考え、その状態を視野に入れつつ生きる。

 聖徒たちには、そのように生きるべき立派な理由がある。彼らは、普通は、地上で大したものを持っていない。「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です」[Iコリ15:19]。

   「あな悲し、地が わがすべてにて、
    彼方に何も なかりせば!」

もしも神を信じる信仰者が、地上で有するものだけしか得られないとしたら、それほど悲惨なことない! 確かに、もしこの世が私たちのすべてを含んでいるとしたら、最大の目的をとらえそこなったとして私たちは大いに憐れまれるべきである。しかし、この世は私たちのすべてを含んではいない。キリスト者たちには、墓の彼方に1つの希望がある。それは、この場にいる、死ななくてはならない、だが、それから自分がどうなるか全く分かっていないあらゆる者にとって、何と恐るべきことに違いないことであろう。――あるいは、たとい良心の奥底で、薄々どうなるか分かっているとしても、それは、「さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはない」[ヘブ10:27]のである! いかにしてあなたは、幸福な気分で家に帰れるというのか? いかに多くの人々が町通りで死ぬことであろう! いかに多くの人々が眠っている間に死ぬことか。私は切に願う。永遠の破滅の瀬戸際にありながら、決してそのことを考えないほど無関心ではいないでほしい。願わくは、神があなたに墓を越えたものを眺めさせ、永遠のための確かな備えをさせてくださるように!

 ここでは、アブラハムが都を待ち望んでいたと告げられている。それは、天国の霊感された描写である。地上では、アブラハムは何の都も有さなかった。ロトは都を求めてソドムへ離れ去ったが、その都市は火と硫黄で焼かれ、ロトはいのちからがら脱出した。アブラハムは自分の天幕から離れなかった。彼は都市生活については何も知ることがなかったが、「都を待ち望んでいた」。

 なぜ天国は都と呼ばれているのだろうか? それは、それが人々が互いに相会う交わりの場所だからである。知っての通り、遠い田舎の方には、時としてぽつんと孤立した農家があり、人が通り過ぎるのを見るのは六週間に一度ほどである。そうした家の人々は、郵便配達人さえ決して見ることがない。自分たち宛の手紙は自分で取りに行かなくてはならない。だが天国は、そうした寂しい場所ではない。私たちの待ち望む天国は、私たちと見解と意見を同じくする五、六人の人々しかいないような所ではなく、誰にも数えきれないほどの大群衆の間で、広い交わりがあるだろう大きな都なのである。

 それは、安全のための都であろう。そこを囲む城壁は決して攻撃を受けることがありえず、その街路を敵が歩くことは決してない。天国が都であるのは、それが光輝の場所だからである。国々は、その都の偉大さを誇りとしている。だが、《新しいエルサレム》[黙21:2]のような都はどこにもない。

 それは、貯えの場所である。都には莫大な富があり、そこに膨大に蓄積されている有用な品々は、村々や部落には見いだされないほどのものである。天国には、心の願いうる一切のものがある。大いなる主がその愛する者のために蓄えた果実が、新しいのも、古いのも[雅7:13]ある。

 天国は自由の場所であり、それゆえ、それは都と呼ばれている。人々は、ここでは「都市公民権」を得るし、彼らはそれを可能な限り誇りとしている。しかし、おゝ、栄光の自由人となり、完璧な人々の集いの自由人となり、《新しいエルサレム》の市民となる素晴らしさよ! それこそ私たちが待ち望むことである。私たちは都を待ち望んでいる。私たちは、この、ロンドンの都と呼ばれる一切のものを、消滅していく眺めだと考える。この英国という偉大な国を、すぐに打ち倒されるだろう骨牌一組めいたものにすぎないとみなす。全世界を一場の夢でしかないと思う。1つの都があり、私たちはそれを待ち望んでいるのである。

 この聖句によると、アブラハムは、「堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいた」。聖徒たちは、永続的なものを待ち望んでいる。アブラハムは、天幕の杭を引き抜くことに慣れていた。彼のしもべたちが大きな天幕の支柱を解体し、天幕を丸めると、たちまちその場を立ち去ることになり、自分たちの羊や牛たちとともに、その国のあちこちに移り住んだ。その天幕には何の堅い基礎もなかった。だが、アブラハムは堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいた。地上には、本当の意味で堅い基礎を有するものは何もない。この上もなく堅固と思われる建物も、最後の大いなる火の中では溶けて、焼き尽くされるであろう。それらはみな、「夢と同じ糸で織られて」*2いて、ほどなくして消え失せてしまう。だが、私たちの待ち望んでいる都には堅い基礎がある。永遠の愛、永遠の真実さ、無限の力、果てしない至福、不滅の栄光が基礎となっている都へと、私たちは今ゆっくりと進みつつあり、そこではすべてが平安と喜びであって、それを乱すものは何もない。私は、すでにそこにいる、私たちの愛する友人たちの何人かについて思う。この都から、その堅い基礎の上に建てられた都へと去った彼らを思うとき、彼らに戻ってきてほしいなどと願えるだろうか? あなたは、このあわれな試練の人生に伴う悲しみと悲嘆へと、彼らに戻ってきてほしいなどと願えるだろうか? 今や彼らが、「神の下さる建物……人の手によらない、天にある永遠の家」[IIコリ5:1]を得ているというのに、すでに壊れてしまった天幕のもとへと戻ってほしいと願えるだろうか? 否。愛する者たちよ。あなたが今いるところにとどまるがいい! 私たちはじきにあなたと一緒になることを希望している。私たちには、来たりつつある戦車の音が聞こえる。そして、すぐにあなたとともに、イエスがおられる所にいるであろう!

 これが、アブラハムの生き方であった。自分の回りにある一切のものを、遊牧民の天幕以上に固定された、安定したものとはみなさず、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望む生き方である。

 その都は、あらゆる都がそうであるように、ひとりの《設計者》また《建設者》がいるはずであった。何百、何千もの名前に言及しなくては、このロンドンの都を説明することも、誰がこれを設計し建設したかを述べることもできないであろう。そうした人々について知らなくとも心配する必要はない。彼らは、そのほとんどが、大して善良な人々ではなかったからである。私たちがいま歩いている町通りを設計し建設した人々のことは忘れた方が良い。また、彼らの家々のこともそうした方が良いと思う。しかし、1つの都は、ことごとくひとりの《設計者》によって建てられた。それは、神の都である。そこには何1つ見かけ倒しのもの、一時しのぎのものはないであろう。そこにある一切のものは、極上であり、その住民たちに最も適したもの、また最も見るに麗しいものである。その町通り自体が、きわめて豊かで素晴らしい黄金で舗装されている。地上の最高の設計者たちさえ、天上の偉大な《設計者》、永遠の《建築家》、永久の《熟練石工》とはくらべものにならない。このお方が、ご自分の聖徒たちが永遠に住む多くの住まい[ヨハ14:2]を設計してくださったのである。

 私はあなたには、天国について何も告げることができない。もしもしばらくの間そこに行ってから戻って来ることができたとしたら、来てあなたに告げたいと思う。だが、そのようなことはありえない。何にもまして、あなたは、あなた自身の心の中に天国を入れなくてはならない。というのも、あなたの心を天国に入れたければ、あなたの心の中に天国を有していなくてはならないからである。あなたは、自分のうちに天国を有していて初めて、天国に行くことができる。また、神のことばの経験的な知識によって、主に近く生きることによって、また、主の深い愛とその永遠の真実さを経験することによって、天国のことを学ぶことができる。このように、堅い基礎の上に建てられた1つの都があるのであり、その都を設計し建設されたのは神なのである。

 あなたは、そこに向かいつつあるだろうか? 何と、あなたがたの中のある人々の有しているものは地上にしかない。あなたは、あたかも船が沈没しつつあるときに、自分の財産のすべてを金塊にして腰にゆわえつけている人のようである。それはその人を海の底に沈めてしまう。あなたが有しているすべてのものは地上にあり、それはあなたを破滅へと沈み込ませつつある。キリストを信じている私たちについて云えば、私たちには、通行料金所の料金を払う程度の端金しかない。だが、私たちの宝は上にある。かの川の向こう岸にある。死後の国にある。栄光の丘の頂上に、永遠にほむべきお方とともにある。そこに私たちはすぐにも行こうと希望しているのである。

 聖徒たちは、自分たちの巡礼の果てにある故国を待ち望んでいる。人は、長い旅に出ているときには、自分の家のことを考えて楽しむものである。これまでに何度となくあなたに告げてきたことだが、私の馬たちは何と急いで家へと向かうことか! 彼らは、自分たちの頭が家へと巡らされるのを分かっているかのようであり、するとまっしぐらにひた走るのである。彼らは、ノーウッドで最も高い高台さえ全力を挙げてぐんぐん上って行く。それは家へと向かっているからである。彼らは、この場所に来るときには、それほど速く走らないし、私も彼らを責めはしない。彼らは、どこに自分たちのための良いかいばがあるか、どこに身を横たえる場所があるかを知っている。そして、馬でさえ、頭が家へと向いているときには最高の走り方をするのである。さあ、愛する方々。私たちの頭は家へと向いている。私たちの中の、イエスを信じている者たちはそうである! 私たちは、永遠の丘を上るときには鞭を当てられる必要がない。私たちは、万難を排しても、全力を傾けてできる限り速く家に着こうとするであろう。

 おゝ、だが、私はあなたがたが全員、私たちとともに来てほしいと思う。あなたがたが全員、堅い基礎の上に建てられた都へと続く道を進んでほしいと思う。キリストを信頼するがいい。キリストを信頼するがいい。キリストこそはその《道》である。この世から出て来るがいい。分離した生き方を送るがいい。見えない神に頼って生きるがいい。そうすれば、天に神がおられるのと同じくらい確実に、あなたは神のよみし給う時に天国に行くことになるであろう。というのも、神は決してただひとりの信仰者をも、外の寒空に放り出しておかれないだろうからである。神があなたを祝福し給わんことを。イエスのゆえに! アーメン。

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(訳注)

*1 「黙(もだ)し追わるる家畜ら」。H・W・ロングフェロー(1807-82)の詩『A Psalm of Life――人生讃歌』の中の言葉。[本文に戻る]

*2 シェイクスピア、『あらし』、第四幕第一場(新潮文庫版、『夏の夜の夢・あらし』、福田恆存訳、1971、p.206)。[本文に戻る]

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信仰者たちの模範、アブラハム[了]


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