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「ダニエルのごとなれよかし」

NO. 2291

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1893年1月15日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「ダニエルは、王の食べるごちそうや王の飲むぶどう酒で身を汚すまいと心に定め……た」。――ダニ1:8


 私たちの将来の生き方は、その大半が、ごく若年の頃のあり方によって左右されるものである。私は、ラスキン氏のこのような指摘が気に入っている。それは何かに書かれていた文章で、一字一句まで正確には引用できないが、彼はこう云っている。「人々はよく、『若気の無分別さは勘弁してやろう』、と云うものだ」。だが、と彼は云う。「否。それを勘弁すべきではない。私はむしろ、人が自分の仕事をなし終えた後の老年の無分別さについて、はるかに多く許してやりたいと思う。だが、無分別な若者のために、いかなる弁解を見つけられるだろうか? 考えるべき時は、人生が始まろうとしている際であり、いかなる時期にもまして思慮深さが要求されるのは、あるいは、必要とされるのは、私たちの若い頃である」。私は、若い人々にはそのように考えてほしいと思う。彼らは、「若気の無茶」をしなくてはならないと云う。否、否。愛する若い方々。そうした無茶をする前に考えるがいい。そして、そうしたものを蒔けば、何を刈り取ることになるか思い出すがいい。蒔くものを変えれば、もっとまともな刈り取りができないかどうか見てとり、そうしたものを蒔くがいい。また、それをどのように蒔くか、また、いつ蒔くかも考えるがいい。というのも、もしあなたが蒔き方について考えなければ、――

   「その収穫(かりとり)は いかにあらん?」

もし農夫に考えるべき時があるとしたら、確かにそれは畑を耕し種を蒔く初期の頃に違いない。そのとき考えないとしたら、後で考えてもほとんど役に立たないであろう。

 ダニエルは若者であり、本当に考えることをした。そして、彼の誉れとなることに、彼は1つの心を定め、決意を固めた。上滑りな「これこれしてみるか」、といったものではなく、彼は「心に定めた」。そして、自分が慎重に定めた、ある特定の明確な目的に全身全霊を傾けた。彼は若者であり、補囚の身でもあった。なればこそ、彼がこのような決断に至ったことは、さらに尋常ならざることとなる。彼は自分の父の家から無理矢理に外国に連れ込まれていた。知っての通り、人々は、「郷に入りては郷に従え」、と云うものである。しかし、ここにいるひとりの若者は、バビロンに入りながらバビロンには従おうとしなかった。王宮にいる若者でありながら、王の食べるものを食べようとせず、王の飲むものを飲もうとしなかった。彼は補囚の身で、自分の故国と自分の神を忘れさせるために自分の名前さえ変えさせられていた。というのも、先の聖書朗読のとき告げたように、名前の変更は、宗教を変更する意味を表わしていたからである。

 しかし、人々はダニエルの名前は変えられたかもしれないが、彼の性質を変えることはできなかった。また、彼も、自分の正しいと信ずるいかなることをも手放そうとはしなかった。補囚の身ではあったが、彼には正しい、王のような魂があった。そして彼は、バビロンにおいても、エルサレムにいた頃と同じくらい自由であったし、そのような者のままでいようと決意した。というのも、「ダニエルは、王の食べるごちそうや王の飲むぶどう酒で身を汚すまいと心に定め」たからである。おゝ、わが国にいる大勢の青年たちが、いかに足を踏みしめて立つべきかを知っていたとしたらどんなに良いことか! わが国のおびただしい数の人々は今、どこに足を踏みしめて立つべきかを見回しており、最も堅固な地面の上にではなく、最も芝が多く、最も足にとって安楽で、柔らかい地面の上に足を載せようとしている。願わくは神が、古風なキリスト者たちの中にあるのが常であった昔ながらの度胸を私たちに回復させてくださればどんなに良いことか! 彼らにとっては慣習など何でもなく、神のことばがすべてであった。彼らにとっては結果としての損得など大したことではなかった。むしろ、彼らは正しいことを行ない、正しいことに従った。その代償のいかんは関係なかった!

 さて、ダニエルは、まだ若者で、補囚の身で、学生であったうちからこれほど決然と事を行なっていたからこそ、その後半生があれほど輝かしいものとなったのである。彼が「大いに愛されている人」[ダニ10:11 <英欽定訳>]と呼ばれるようになったのは、ひとえに彼が、恵みによって大いに決然とした若者となっていたからであった。今しがた朗読したように、彼がクロスの治下まで長らえたのは、彼がネブカデネザルの治下で堅固に立っていたからにほかならなかった。人生の夕暮れは、人生のあけぼののうちに読みとることができるし、あなたの夕暮れがいかなるものとなるかは、あなたのあけぼのがいかなるものであるかによって決まる。願わくは、神があなたがた、人生を始めようとしている人たちを助けてくださるように。というのも、神があなたとともに始めてくださり、あなたが神とともに始めるとしたら、あなたの人生は幸いに用いられるものとなり、真に幸福な結末を迎えるからである!

 私が今から語っていこうとしているのは、ダニエルについてというよりは、今のような時代における決然たる精神という主題全体についてである。私たちの最初の項目となるのは、ダニエルの頃と同じように今も種々の誘惑に私たちは抵抗すべきである、ということである。第二に、誘惑に抵抗するには正しい方法があるということである。第三に、このように私たちが誘惑と戦う過程の中にある間、いくつかの点が、経験によって証明されなくてはならないだろうということである。

 I. 《今も種々の誘惑には抵抗すべきである》。これまで信仰を有していながら種々の試練に遭わなかった人などひとりもいなかった。神を信じる信仰のあるところ常に、それは何らかの時点で試されるであろう。そうなるに違いない。家を建てる場合は、たとい岩の上に建てられようと、雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけ[マタ7:25]ずにいるままではありえない。それは、倒れないにせよ、天来の支えがなかったとしたら倒されていただろう力によって試されることになる。

 さて最初に、ダニエルの受けた誘惑を眺めてみるがいい。彼の場合、その誘惑は非常にまことしやかなものであった。彼が食べるように命じられたのは、王の食卓から毎日割り当てられる食物であった。これ以上のことを願えただろうか? また、彼が飲むように命令された分の葡萄酒は、普通は世界で最もすぐれたもので、王の食卓から送られたものであった。彼は一個の君主のような飲み食いができたはずであった。それにいかなる反対ができただろうか? 彼が反対したのはただ1つ、それが自分を汚すだろうということであった。あなたは、それによって彼が何を意味していたか理解できるだろうか? バビロン人によって用いられていた、ある種の食物――例えば、豚の肉や、野兎の肉、特定の魚など――は汚れたものであった[レビ11]。そして、それらが王の食卓のもとからやって来たとき、もしダニエルがそれを食べれば、彼はレビ記で与えられたモーセ律法を破ることになり、そのようにして身を汚すことになったであろう。思い出すがいい。イスラエルに許された食物は、ある特定の方法で殺されたものたるべきであった。血は完全に肉から流し出されなくてはならなかった。というのも、血を食べる者はそれによって身を汚したからである。さて、バビロン人は、そのようなしかたでは自分たちの獣を殺さなかった。そして、律法に従って殺されなかった肉を食べればダニエルは汚されることになったであろう。知っての通り、今日に至るまでユダヤ人は、自分たちの食べる食物の屠殺に関して非常に注意深くしている。それ以上に、ネブカデネザルのような王は、食物を食べる前にそれを自分の神に奉献するのが常であった。ベル-メロダクは、神としてネブカデネザルによって大いに崇拝されていた。それで、メロダクに対しては葡萄酒の御神酒が注がれたし、食物の中のある特定の部分が取り分けられた。こういうわけで、事実、それは偶像にささげられていた。それでダニエルは感じたのである。もしも自分が、汚れているかもしれないもの、また、偶像にささげられたに違いないものを食べたなら、身を汚すことになるだろう。それは神の律法を破ることになるだろう、と。それでダニエルはそれを食べようとはしなかったのである。

 しかし、そうするようにとの誘惑は非常に強かったに違いない。というのも、ある者はこう云おうとしただろうからである。「何と、何を食べるか、何を飲むかで、何の違いが生じるというのだ?」 キリスト教の経綸の下では、それは別の問題かもしれない。だが、ユダヤ教の経綸の下では、人があるものを食べるか飲むかすることは非常に大きな違いを生じさせた。他の人々はこう云おうとしたであろう。「なぜダニエルはこのように几帳面なのだ? ここにいる他のユダヤ人たちは、ためらわずに王の食物を食べているではないか。エホヤキン王について書かれているところ、彼は毎日王の食卓から食物の割り当てを受けていたというが、彼はそれに何の反対をしたとも見受けられない。なぜこの若者はそれほど入れ込んで、それほど異様な者となり、他の誰とも違うようになるのか? 何の役にも立たないではないか。それほど厳格に、小さな事がらについて最後まで抵抗しても」。それで、ダニエルのもとにやって来た誘惑は、非常にまことしやかなものであった。

 それから、その誘惑は栄誉への路のように思われた。王の食物を食べ、王の葡萄酒を飲むことに同意するのは、バビロンにける栄達街道を進むかのように思われた。人々はダニエルにこう云おうとしたであろう。「確かに、もしも君主がその食卓からあなたに送るものにのっけから反対するとしたら、あなたは決して宮廷では成功しませんよ。良心のある人々は宮廷に行くべきではないのです」。今日では私もそうは云わない。だが、良心のある人々が国会の議員になるべきでないとは思う。良心のある人がそこを出入りするのは、驚くほど困難なことに違いない。しかし、ダニエルがこのような良心をもって始めること、それも、王の葡萄酒の杯や、王の食物の一口にも損なわれるほど著しく繊細な良心をもって始めることについては、どれほど善良な、年長の父親らしい人でもこう云ったであろう。「ねえ君。それでは決して成功できないよ。君の宗教が常に君の邪魔をすることになるからね。君が決して大して出世できないことは確実だよ」。しかしながら、それは大間違いということになったであろう。というのも、ダニエルは偉大な支配者となり、彼の将来の見込みを全く台無しにすると思われた当のその潔癖さによって、世間で栄えることになったからである。

 人によっては、ダニエルの耳にこう囁こうとしたであろう。「それは、この国の法律なのだよ。主権を有する王が命じているのだよ。君が毎日この分け前を食べ、この分の葡萄酒を飲むように、と」。しかり。だが、法律がいかなるものであれ、また、慣習がいかなるものであれ、神のしもべたちは、さらに高い《王》に仕えており、彼らには唯一の規則、唯一の慣習しかない。「人に従うより、神に従うべきです」[使5:29]。彼らは、ある特定の点までは、喜んでこの上もなく従順な臣下になるべきだが、神の律法が入り込むときには、強情とも云えるほど頑固になる。彼らは身を焼かれることはできても、身をひるがえすことはできない。死ぬことはできても、自分たちの神である主の律法は否むことはできない。

 ダニエルの場合、もし彼が、行なうように提示されたことを行なっていたとしたら、それは分離した生き方をやめることになっていたであろう。彼はこう感じた。もし自分が絶えず《王》の贅沢な食物を常食としていたら、彼は王のようにカルデヤ人とみなされるであろう、と。だが、彼らは選ばれた子孫に属しており、その子孫についてバラムはこう預言していたのである。「この民はひとり離れて住み、おのれを諸国の民の一つと認めない」[民23:9]。そうした自分の分離を保つために、ダニエルは自分に供された王家の食べ物から食べようとはしなかった。食べていたとしたら、彼はカルデヤ人に溶け込んでしまい、もろもろの約束の属するイスラエル人であることを捨てることになっていたであろう。これは現代の誘惑である。キリスト者であるとの告白はせよ。だが、この世の一般の流れに乗って生きよ。キリスト者という名は名乗り、定期的に礼拝所に通い、あれこれの儀式は受けるがいい。だが、自分の宗教を仕事に持ち込んではならない。他の人々がするように行なえ。これが時代の誘惑である。大部分の人々が考えるようにあなたも考え、大部分の人々が云うようにあなたも云い、大部分のキリスト教の信仰告白者たちが語るようにあなたも語れ。これが、わが国の諸教会をむしばんでいるサタン的な誘惑であり、私には到底思いも及ばぬほどの害悪を神の人々に加えている。しかし、ダニエルは、そのように行なうようにとの強力な誘惑を受けたにもかかわらず、屈そうとしなかった。彼は、「王の食べるごちそうや王の飲むぶどう酒で身を汚すまいと心に定め……た」。

 さて、私たち自身の場合、具体的にいかなる誘惑に、信仰を有する人間としてさらされているだろうか?

 個々人の問題に立ち入ることはできない。だが、私には想像できる。今晩この場にいるある人が、その立場上、あることを行なうように依頼されていることを。それを行なうのは正しくないことである。しかし、その人は云う。「もしそうするのを拒めば、私は解雇されるでしょう。私は他の者たちがそうしているのを知っています。だから、私もそう行なわなくてはなりません」。愛する若い方よ。ぜひあなたの前にダニエルを置かせてほしい。彼は、王の食物を食べまいと心を定めていた。先日、私はひとりの紳士と話をしたが、彼は英国で最も富裕な人々のひとりの管財人を長年務めた後、今は同じ紳士が自分の子どもたち全員に遺した財産の管財人をしている。この子どもたちはすでに大きくなり、成人してはいるが、彼らは今なおこの人を管財人とし、彼に給料を払って、自分たちの全財産の管理をさせている。それは莫大な額の財産である。私はその人に、どのようにしてそれほどの信頼をその家族から得るようになったのかと尋ねた。彼らは自分たちの持てる一切のものを管理し、自由に裁量できるような立場に彼を就けていたのである。彼は、自分がまだ少年だった頃のことを覚えていると云った。ある日、その組織の長が、「私は留守だと云ってくれ」、と彼に云ったという。そこで彼は答えた。「会長。お願いです。私にはそれは云えません。それは本当ではないのですから」。もちろん、主人は非常に怒ったし、そのような良心の咎めをここまで持ち込んではならないと云った。さもないと、絶対に成功できないぞというのである。だが、主人は二度と再び彼には嘘をつくように求めなかった。そして、信頼の置ける事務員として誰かが必要になるときには、この若者が選ばれるのだった。そして、彼が忠実で真実なことをする人間だと知って、彼の主人は機会をとらえては彼を昇進させ、その時から絶対的な信頼を彼に置いたのである。時としてあなたは、普通でない者となること、そして、正しいことのために普通でない者となることが、栄達のもととなることを見いだすであろう。私は、そのような動機からあなたに誠実さを促したいとは思わない。それでも、そうすることはあなたの身の破滅になるぞと悪魔があなたに告げるだろう以上、私は堅く正道に立ち、常に真実を語り、正直であるようあなたに促すであろう。正直は最上の策であることを、あなたは見いだすだろうからである。真実を語る者は誰であれ、それが長い目で見たときに最上のことであると見いだすであろう。うまく云い抜けし、云い逃れをし、あいまいな答えをし、二股をかけることによってあなたは、山ほどの困難と苦難に巻き込まれてしまう。ダニエルのように真っ直ぐであるがいい。主が、あなたを助けてそうならせ給わんことを!

 しかし、今それは、キリスト者である人々には別のしかたでやって来る。ある人は私たちを誘惑して、神の御国の進展を助けるために、種々の娯楽を用いさせようとするであろう。キリスト者である人々は、ある種の場所に行くよう求められる。それは、よろしい。どう控えめに云っても、非常に疑わしい場所である。そして、時としてこの悪が導入されると、私たちの友人たちのひとりが、今晩の祈りの中で最も真実に告げたように、彼らは神の家に芝居小屋を持ち込むまでとなることがある。彼らは本当にそれを行なっており、混沌と、古の夜、原始の夜とを呼び戻している。おゝ、神がもう一度お語りになり、「光よ。あれ」、と云って、こうした闇の事がらをこれを限りに追い散らしてくださるなら、どんなに良いことか! 私は、この場のキリスト者であるすべての人に命じる。たとい他の人々がこうした事がらを行なっていようと、ダニエルについてと同じく、自分は、王の食べるごちそうや王の飲む葡萄酒で身を汚すまいと心に定めるようにせよ、と。

 そのように、やはり今日ある誘惑は、知的新奇さを愛することである。永遠に神に感謝すべきこの古い、古い福音、また、この古い、古い《書》の代わりに、私たちは科学を啓示に取って代わらせるべきなのである。そうした科学は、一般的には推測でしかないが関係ない。また、人々の種々の思想にょって神の崇高な思想を覆って葬り去るべきなのである。見るところ、諸処の教役者や教会は、こうした誘惑によって惑わされ、道をそらされている。だが、私に関して云えば、たとい他の誰ひとりそう云おうとしなくとも、私は、王の食べるごちそうや王の飲む葡萄酒で身を汚すまいと心に定めている。私たちには、今なお昔ながらの信仰者たちが必要である。たった今、私たちが歌った詩句を歌おうとする信仰者たちが。――

   「余人(ひと)の作りし わざみなが
    狡猾(さか)くわが魂(たま) 襲うとも
    我れ虚言(そらごと)と そを呼びて
    心に福音 結びつけん」。

願わくは、神がこうした種類のダニエルたちを数多く送り給わんことを!

 また、これに加えて、近頃私たちが有しているのは、全般的な締まりなさへの誘惑である。人々が――キリスト者の人々でさえ――行なっていることは、キリスト者である人々のなすべきでないことである。そして、彼らはその云い訳として他のキリスト者たちの実例を引き合いに出すか、こう云っている。「今の私たちは、先祖たちほど厳格ではないのですよ」。だが、神がお変わりになっただろうか? こう云っている聖句がないのだろうか? 「あなたの神、主は、ねたむ神である」[申6:15]。神はご自分の民が罪を犯すのを許して、それをお喜びになるだろうか? また、私たちはこの戒めを忘れるべきだろうか? 「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」[Iペテ1:16]。この世からは全く分離しなくとも良いのだろうか? また、「もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません」[Iヨハ2:15]、ということは、もはや真実ではないだろうか? 次のような聖句はないというのだろうか? 「それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる」[IIコリ6:17-18]。私は切に願う。兄弟姉妹たち。今こそ――これまでに全くそうしてしなかったとしたら――あらゆることを、あなたにできる限り緊密に固定するがいい。この嵐はあまりにも激しく、今は縮帆して航海する必要がある。おゝ、このダニエル同様の宣言が打ち出されればどんなに良いことか! 自分は、王の食べるごちそうや王の飲む葡萄酒で身を汚すまいと心に定めよう、と。

 この点については、なおもずっと語って行けるであろう。だが、すでに一般的な原則は示したので、あなたはそれを自分で展開できるはずである。キリスト者たちには、この世の知らない食物がある[ヨハ4:32]。私たちには、私たちのレ-クリエーションがある。それが、正しいレクリエーションの発音である。レ-クリエーション、すなわち、再創造である。私たちは、私たちの《創造主》のもとに行き、このお方が私たちを新しくしてくださる。私たちには、私たちの聖なる歓喜の夜がある。私たちの楽しみの昼がある。ひとりの《王》がおられ、その食物の分け前を私たちは喜んで食べ、その葡萄酒を私たちは楽しんで飲む。だが、疑わしい事がらや、この世の事がら、そして生ける神から離れ去る方向に赴きがちな一切のことに関して云えば、私たちは云う。神の恵みによって、私たちは、そうしたもので身を汚すまいと心に定めている、と。

 II. さて、第二の点に目を向けよう。《誘惑に抵抗するには正しい方法がある》

 まず最初の方法は、心を決めなくてはならないということである。「ダニエルは……心に定め……た」。彼は、この件を上から下まで吟味した上で、自分の心の中で決着をつけた。このことについて、何かをシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴに頼む前に、彼は決意を固めていた。おゝ、そうした決意があればどんなに良いことか! おゝ、自分の羅針盤を眺めて、向かうべき所へ自分の船を進めることのできる人がいればどんなに良いことか! 願わくは、神があなたがた、若い人たちに恵みを与え、あなたの軍旗を帆柱に釘づけさせ、こう決意させてくださるように。順風であろうと逆風であろうと、自分は正しい行路を守り続ける、と。ダニエルは、それを心の中で決めていた。神の恵みは大いに心を定めさせるものである。それがやって来る時、人々は堅固で明確になる。主が彼らに益になることを教えてくださる[イザ48:17]からである。

 次のことは、生き方が喜んでそうさせるものでなくてはならない、ということである。ダニエルが自分の決意を実行に移す助けとなったのは、彼自身の個人的性格であった。神はすでに宦官の長に、ダニエルを愛しいつくしむ心を与えておられた[ダニ1:9]。ある人が、誰かから愛され、いつくしまれるようになっており、かつ、善良な人間である場合は常に、その人には何か他人に好印象を与えるものが伴っているのである。愛すべき部分があるのである。さもなければ、愛されはしないであろう。かりにある人が、「私は特定の事がらについて自分の心を決めた」、と云って、そうした件について頑固に戦い続けるとしても、それでいながら、生き方の全体が意地悪で、けちくさくて、愛敬のないものだったとしたら、全く何の役にも立たない。しかり。なりたければ、ありとあらゆる種類の手段によって、殉教者になるがいい。だが、他のあらゆる人々を殉教者として殺してはならない。というのも、あなたのうちに気に障る部分がありすぎて、あなたという存在が気に障るものとなってしまうことは、きわめてありえるからである。ある人々は、堅固さを強情さにまでしてしまい、決意を頑迷固陋さにしてしまっているが、そうしたことは避けるべきである。譲れるものなら何でも譲るがいい。単なる個人的な気まぐれや奇矯さは捨て去るがいい。だが、神のみこころのことについては、岩のように堅く立つがいい。神はダニエルの上に立てられた長官に、ダニエルを愛しいつくしむ心を与えられた。そして、ダニエルのうちには、心の広さや、率直さや、気高い性格があった。それは、権勢を誇るカルデヤ人すら称賛するほどのものであった。おゝ、人の信仰的な決意を支えるような立派な性格があればどんなに良いことか!

 そして注目すべきことに、その抗議は丁重なしかたでなされなくてはならない。ダニエルは、断固たる決意をしてはいたものの、その抗議においては非常に丁重であった。彼は長官のもとに行き、自分の良心の咎めについて打ち明けた。彼は、自分が身を汚さないようにさせてくれと願った。同じことをするのでも、その方法は多々ある。そして、ある人々は何をするにも常に最も不快な方法を選ぶ。正しいことを行なう際には、知恵と思慮深さを願い求めようではないか。堅い決意は、実行する際の物腰の優しさによって飾られるべきである。若きダニエルはそうであった。

 これに続いて、自己否定が求められなくてはならない。ダニエルが肉を食べたり、葡萄酒を飲んだりすることに何ら異論があったとは思われない。というのも、明らかに彼は、この《書》の別の部分によれば、その双方を行なっていたからである。だが、彼が異を唱えていたのは、信仰上の理由によって、王の食物と王の葡萄酒を飲食することであった。それで彼は云った。「私の口に入るものが、決して偶像に奉献されたものでないことを確実にするために、私には野菜、平豆、隠元豆、豌豆、そういったものだけを食べさせてください。また、飲み物としては、王たちがあまり多く飲まないものを与えてください。水だけを飲ませてください。偶像にささげられた御神酒を私が決して飲まないことを確実にするために」。それで、ダニエルと彼の三人の仲間たちは、ことによると彼らも他のいかなる人とも同じくらい楽しんでいたかもしれない贅沢を我慢し、バビロンの偶像と関わったいかなるものによっても決して身を汚さないようにしたのである。もしあなたが徹底的に神のために生きようとするなら、自己否定を予期しなくてはならないし、自己否定に慣れなくてはならないであろう。不評判を覚悟するがいい。喜んで頑迷固陋だと呼ばれるがいい。友情を失う心備えをしておくがいい。ご自分の尊い血をもってあなたを買い取ってくださったお方のもとに堅く立つことができる限り、いかなることにも心備えをしておくがいい。地上と地獄で一千年も鞭打ちの刑に遭っても、自分の誠実を保つ人は、自分の失った一切のものによって得をすることになるのである。その人は、自分の受けた一切の悲しみによって永遠の喜びを増し加えることであろう。それゆえ、私はあなたに命じる。ダニエルの精神を求めるがいい。

 それから、大胆な試しがなされなくてはならない。ダニエルはその信仰を示して、世話役にこう云った。「私と、私の三人の仲間たちに、この普通の食事をさせてください。私たちには他に何も与えないでください。私たちは、自分の計画通りのことを十二箇月させてくださいとは求めません。短い間、私たちを調べてみてください。一日や二日とは云いません。むしろ、あなたのお好きな日数だけお取りください。私たちを試してください。そして、もし定められた期間の終わりに、私たちが自分たちのあっさりした食事によってずっと健康になっていないとしたら、そのときは私たちもそれなりの考えをいたします。ですが、現在のところは、私たちを試していただけないでしょうか?」 キリスト者である人は喜んで試されようとすべきだと私は思う。自分のキリスト教信仰が試されることを快く受け入れるべきである。「さあ」、とその人は云う。「よろしければ、いくらでもお試しください」。あなたは、羽根布団に乗って天国に運ばれたいと思っているだろうか? あらゆる人の嘲りや渋面から常に保護されていたいと思っているだろうか? また、あたかもロンドン市長就任日の披露行列で馬車に乗っているかのようにして天国に行きたいと思っているだろうか? よろしい。もしそうだとしたら、そうなると考えているあなたは大間違いである。願わくは神があなたに勇気を与え、ご自分を信ずる信仰によって、それをさらにさらに増し加えてくださるように! 願わくはあなたが自分のキリスト教信仰を、しかるべき一切のしかたで試させようとするように。人生の試験にも、死の試験にも!

 III. さて、しめくくりに当たってあなたに示したいのは、《いくつかの点は、経験によって証明されなくてはならないであろう》ということである。私がいま話しかけているのは、あなたがた、福音の古い諸教理に堅く立ち、昔からの通り道に堅く立とうと志している人たち、また、現代の誘惑によって道をそらされるつもりのない人たちである。さて、何をあなたは証明しなくてはならないだろうか?

 よろしい。あなたは、昔からの信仰があなたに輝かしく朗らかな精神を与えてくれることを証明しなくてはならないと思う。実に、時として私は、一部の他の人々がいかなるしかたで私を見ているかを悟るとき、笑わずにはいられなくなる。ひとりの紳士の述べるところ、私は「絶えず深まり行く暗闇に沈みつつある」という。奇妙なことに、私にはその自覚が全くなかった。あなたがた、私を知っている人たち、また、私がつき合っている人たちは、気づいたことがあるだろうか? この「絶えず深まり行く暗闇」が私の上に降りかかりあることを。私は、人生のあらゆる喜び、自分の一切の慰めを失った人のように説教しているだろうか? たとい天下に私より幸いな人がいるとしても、私はその人と立場を交換したいとは思わない。というのも、私は、物事を自分のもとにやって来るがままに受け取ることで完璧に満足しており、その人が私よりも多くの喜びを有していることを嬉しく思うからである。だが、私はその人が有していて私が有していないものを知らない。私は天に神を有している。地上に神を有している。私の心は強い満足に満たされている。私は、自分が信じていることは真実であり、自分があなたに説教していることは真実であると堅く確信している。私はいつでも審きの座に立って、私が説教してきたことについて報告できる。あなたに信じるように私が今まで願ってきたことを、私自身信じている。そして、もし私がキリストを信じる信仰によって失われ、あなたも失われるとしたら、よろしい。私たちは両方とも失われ、私たちは同じ船に乗ったまま失われるであろう。というのも、私は、海面に下ろせばいつでも自分だけは助かるというような、自分専用の小舟を決して吊り柱にぶらさげたりしていないからである。私は、この古い船にしがみつき続け、誰が離れても自分は離れるつもりはない。そして、私はそれを離れないのが良いであろう。この船が沈むこともないであろう。むしろ、それは私たち全員を望む港へと安全に連れて行くであろう。よろしい。愛する方々。もしあなたがこの真理を守るとしたら、決してそのために陰鬱になってはならない。人々は、「陰鬱なカルヴァン主義」について語る! あなたはこれまで一度も、あの「恐ろしい陰鬱なカルヴァン主義」について読んだことはないだろうか? カルヴァンのことを考えてみるがいい。ほぼ八十三もの別々の病気にかかっていた人物で、自分のからだに関する限り、ありとあらゆる人の中で最も苦痛に満ち、苦しんでいた人である。だが、彼の生涯を眺め、彼の幾多の注解書その他の本を読んでみるがいい。そして、彼の並外れた魂を満たしていた、深く、驚嘆すべき静謐さを見るがいい。彼のカルヴァン主義には全く陰鬱なものはなかった。彼にとってそれは、ことごとく輝きと光と励ましであった。人々は私たちのことを知らないのである。さもなければ、今のようなしかたで私たちを攻撃しないであろう。ことによると、それでも彼らは攻撃するかもしれない。真理の敵たちは常に、その喉の奥で嘘をつこうと待ちかまえているからである。

 私たちが証明しなくてはならない別の点は、愛する方々。昔からの信仰は、生活の聖さを押し進めるということである。ある人々はこう云う。「あの人々は、良いわざをけなしているのだ」、と。私たちがそうしているだろうか? もしあなたが、救いを買うための代価として良いわざを持ち出すとしたら、私たちはそれをけなす。「私たちの義はみな、不潔な着物のようです」[イザ64:6]。そして、ある人々が云うように、「不潔な着物の方がまさっている。それは、私たちの義よりも価値があるからである」。私たちは確かにそう云う。だが、救いの確信の根拠としての良いわざはけなすが、神の栄光を現わすためには、いやまして良いわざにあふれる者となりたいと願っている。一部の人々のもとに行き、彼らが良いわざのことを話しているのを聞くがいい。また、別の人々のもとに行き、良いわざが行なわれているのを見るがいい。私があなたに願うのは、また、自分自身のこととして願うのは、私たちが自分の生き方において際立って聖くなり、自分の会話において際立って恵み深くなることによって、私たちの敵対者たちでさえこう云わざるをえなくなることである。「彼らの教理はどうあれ、生き方は立派なものだ」、と。私たちは、自分が王の食物を食べている者たちよりも良く、からだが肥えていることを証明しなくてはならない。願わくは、神が私たちを助けて、私たちが、このようには尊い信仰を有していない者たちよりも真実で、敬虔であることを証明させてくださるように!

 次のこととして、愛する方々。私たちは昔からの信仰が、私たちの同胞の人々に対する大きな愛を生み出すことを証明しなくてはならない。知っての通り、近頃の標語は、「人類への熱心さ」である。奇妙なことは、そうした素晴らしい「人類への熱心さ」を有している諸教会が、私たちのことを、まるで常に神のことを語っており人々のことを忘れているかのように語っていることである。よろしい、よろしい。そうした最新の諸教会のうち、どこに孤児院を有しているものがあるだろうか? キリスト教社会主義について、また、あなたが貧者のために何を行なおうとしているかについて語るのは非常に結構なことである。だが、あなたは何をしてきただろうか? その大半は、ただ単に、くっちゃべるお喋りでしかない。しかし、神がすべてであられることを感じている敬虔な人々こそは、結局において、最も人々のことを気遣う人々なのである。そして、不信仰の罪人が失われるだろうと最も堅く信じている人々こそは、その人が救われてほしいと最も心を砕く人々なのである。かの尊い血によるしか救いはないと信じている人々こそは、キリストにご自分のいのちの激しい苦しみのあと[イザ53:11]を見させようと決意しているのである。救いが最初から最後まですべて恵みによると信じている者たちこそ、機会があれば常に、心と魂をこめてそれを宣べ伝えようと動かされているのである。そして、神がその最終的な清算を行なわれるときには、こう見いだされることになると私は信頼している。すなわち、人々を最も愛してきたのは、まず第一に神を最も愛してきた者たちであった、と。あなたの助けにより、あなたの親切さにより、あなたの慈悲心により、そのことを証明するがいい。そして、人々がやって来て、野菜しか食べず、水しか飲んでこなかったあなたを見比べるとき、結局において、あなたの方が、王の食べるごちそうを食べ、王の葡萄酒を飲んできた子どもたち全員よりも良く、肥えて見えるようにするがいい。魂の回心を求める私たちの労苦を絶え間ないものとするがいい。それをあふれて、あり余るほどにするがいい。

 それから、愛する方々。この昔からの信仰によって私たちが、試練において大きな忍耐を得ていることを証明しようではないか。恵みの諸教理を信じる人は、苦しむことのできる人である。予定と、神の主権を拠り所にしている人は、他の人を押しつぶすような重荷をも担える人である。そして、私たちが死ぬことになるとき、誰が最も良い死に方をするだろうか? 自分自身の義に信頼している人だろうか、それとも、変色爬虫類のように自らに降り注ぐ光によって絶えず移り変わる哲学に信頼している人だろうか? 誰が最も良い死に方をするだろうか? こうした薄っぺらなしろものすべてを有しているあなただろうか? それとも、自分の神を信じ、自分の聖書を信じつつ、イエス・キリストの血と義とを拠り所としている人だろうか?

 最後に、兄弟たち。求められていることは、私たち、昔からの信仰を奉じている者たちが、霊的により良い健康状態にあることである。願わくは、あらゆる恵みが発展させられるように! 願わくは、あらゆる精神機能が聖別されるように! 願わくは、あなたの全人生が神とともに歩むことに費やされるように。また、願わくは、私たちの聖なるキリスト教信仰の真実さの証拠が必要になるときには、私たちが前に出させて、こう云えるような人に、あなたがなるように。「恵みがこの人たちにいかなることを行なったか見てください。恵みの諸教理を信じる信仰によってこそ、この人々は今のような人々になったのです。この人たちにとっては、自分自身が、自ら信じていることの証拠なのです」、と。

 願わくは、ここまで私がごく弱々しく語ってきた言葉を、この場にいる多くの人々にとって神が祝福してくださるように。また、多くの若い人々が――

   「ダニエルのごと なれよかし!
    ただ独りでも 立てよかし!
    心の定め 堅くせよ!
    そを人々に 知らしめよ!」

「ダニエルのごとなれよかし」[了]


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