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言葉に表わせないほどの神の賜物

NO. 2290

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1893年1月8日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「ことばに表わせないほどの賜物のゆえに、神に感謝します」。――IIコリ9:15


 もしもあなたが、家に帰って本日の聖句が取られた章を読めば分かるように、パウロはここで、コリント人たちを奮い立たせて贈り物を与えさせようとしていた。先に彼は、彼らが何を行なうことになるかを自慢していたし、彼らが遅れを取るのではないかという一抹の不安を覚えてもいた。彼らを代弁して約束したほどのことは行なわれないのではないかと心配していたのである。彼は、彼らを奮い立たせて惜しみない贈り物を与えさせようとして、少しだけ蒔く者は少しだけ刈り取るのだ、と告げている[IIコリ9:6]。だが、ひとたび与えるという題目を取り上げると、彼は、もう1つの与えられたものについて語らずにはいられなかった。彼は、本街道からちょっと入った所に一本の小道を見てとり、それが自分の神と、自分の《救い主》とに直結しているのを感じた。それで、まだ自分の洋筆の墨も乾かぬうちに、そのことについて書き始めるのである。それは、あたかもこう云うかのようであった。「私がいま考えているのは、あなたがたの与える賜物のことよりは、もう1つの賜物のことです。主の貧しい民にあなたが与える賜物のことよりは、あなたがた、主の貧しい民に与えられた主の大いなる賜物のことです。言葉に表わせないほどの賜物のゆえに、神に感謝します」。

 ある人が、とある立派な目的のための寄付金を募るために、ある日ひとりの友人を訪問した。そして、ふんだんに寄付してもらおうとして、非常に強く彼に訴えた。しばらくしてから、その人はその問題を全く棚上げにしたような調子でこう云った。「私はあなたのお父君を存じていますよ」。「本当ですか?」 「ええ。いま私があなたを訪れているように、ある用向きでお父君のもとを訪問したのですよ。でも、お父君には何も訴えることはありませんでした。ただ、『内容を説明し給え』、と仰るのです。そして説明が終わるや否や、ご自分の財布を引っ張り出し、私が期待していたよりも十倍も多く寄付してくださいましたよ」。見ての通り、私たちの友人は、その物語を告げたとき、正確にはこの息子に対して請願していたのではない。だがしかし、いかにすればこれ以上に力強く請願できたか私には分からない。父の名前への畏敬、また、父の基準に劣る者と見られたくないという思いは、まさに彼に対して用いることができただろう最高の議論だったからである。それで私はパウロの知恵に感嘆するのである。このコリント人たちに、ユダヤにいる貧しい兄弟たちへの贈り物を、格段に惜しみなく与えさせたいと思ったとき、彼は、まるでついでのことでもあるかのように云うのである。「あなたの父、また、私の父である神に、その言葉に表わせないほどの賜物ゆえに感謝します。あなたが何を与えるとしても、そのことについてなら私は語ることができます。しかし、神が与えてくださったものは、あらゆる言語を絶しています。言葉に表わせないほどの賜物のゆえに、神に感謝します」。

 さて、今晩の私は、この聖句によって3つの語るべき事がらが与えられている。第一に、キリストは賜物であるということ。第二に、賜物として、キリストは言葉に表わせないということ。そして第三に、言葉に表わせない賜物として、キリストは神への賛美を私たちから呼び起こすということである。

 I. まず第一に、《キリストは賜物である》

 いかにしばしばあなたは、人々がキリストとその救いのことを、まるで功績への報いででもあるかのように語るのを聞くことであろう。あたかも私たちが、何かを行なったがゆえに主の天来の恩顧をかちとったかのようである! たとい彼らが、救いは私たち自身の行ないを通してやって来るとまでは教えていなくとも、それでも、彼らによると、それは私たちが種々のことを感じたり経験したりした結果なのである。この良く見受けられる概念によると、私たちは、あれやこれやのしかたで、神の賜物を受けるにふさわしい者とならなくてはならないという。このようにして、私たちのもとにやって来るものは、天的な愛によって与えられた物というよりは、私たちに当然与えられるべきものとなるのである。ためらうことなく云うが、この教えは神のことばの全体と矛盾している。聖書の至る所における合言葉は功績ではなく、恵みである。当然の価値があるからではなく、無代価で、私たちの神の大いなるあわれみを受け取ることである。

 私たちの主イエス・キリストは、もし私たちが主を所有することになるとしたら、私たちにとって賜物である。主が私たち、人の子らのもとにやって来るしかたは、賜物でしかありえなかった。少しでも主のご人格の威光を考察し、それから問うてみるがいい。いかに私たちが、主のようなご人格に地上に来てもらい、生きて死んでいただけるような値打ちを有していることがありえたなどと考えられるかどうかを。人は、その同胞の人間たちの間であれば、それなりの誉れを得る功績があると考えられる。だが、いのちの《君》、栄光の主、御父に等しいお方、《王の王》、主の主、まことの神よりのまことの神について考えるとき、また、このお方が人間たちに代わって死ぬためにご自分をお捨てになっている姿を見るとき、私たちがそのような犠牲に値することがありえるなどという考えに、私は自分の血が煮えくり返らされるのを感じる。完璧な人生を送れば、キリストという賜物という報いに値することがありえるなどと考えるほど極端に走る人間の高慢さに、私は激昂してしまう。しかり。私の兄弟たち。たとい私たちが神の律法を何の欠陥もなく守ってきていたとしても、たといいかなる義務を省くことも、いかなる罪を犯すこともなかったとしたとしても、また、それに合わせて完璧な世界という功績を取って神の足元に置くことができたとしても、そこにキリストが人となってくださるほどの値打ちはありえなかった。キリストが貧困の中に生き、人のために恥辱の中に死なれるほどの価値はありえなかった。もし人が罪を犯していなかったとしたら、キリストの死など全く必要なかったであろう。だが、そうすることが必要だったと考えられた場合でさえ、たとい私たちが、エデンの園における《堕落》前の私たちの最初の両親のように罪のないままであったとしても、キリストの犠牲という報いを得ることはできなかったであろう。確かに、地上で神が受肉し、《天来の御子》が私たちの性質を取ってこの世に来られ、カルバリの十字架上でその恥ずべき死を遂げられることに、何らかの人間的な功績が値するなどという考えには、あなたがたの中の誰ひとりして一瞬たりとも我慢できないに違いない。

 しかし、次に、このことは、キリストがなすべきものとして与えられた働きの性質からして明々白々であろう。聖書から明らかに分かる通り、キリストは値しない者たちのために与えられた。キリストがお引き受けになったのは私たちの義ではなかった。キリストがお取りになるような義は何もなかったからである。むしろ、まさに先ほど朗読したように、「主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」[イザ53:6]。聖書における顕著で主要なキリスト観は、いけにえをささげる《祭司》としての観念である。だが、その《祭司》は、自分のもろもろの罪の贖罪を必要としている人々のためのものである。なだめも、犠牲も、罪のためのいけにえも、咎ある人々のためのものである。いかにしてキリストが、価値ある人々のために十字架上で死ぬことなどありえただろうか? そのような考えは馬鹿げている! 癒される必要のない人々のためには、いかなる打ち傷も要されなかった。神から良くしてもらう価値のあった者たちのためには、いかなる懲らしめ[イザ53:5]によって平和がもたらされる必要もなかった。キリストの死という、「私たちを神のみもとに導くため」に「正しい方が悪い人々の身代わりとなった」[Iペテ3:18]みわざそのものに、私たちが神から遠く離れていたことが暗示されている。また、私たちの不正も暗示されており、その結果、私たちが神の御手からそのような賜物を受けるに値することが全くできないことが暗示されている。しかり、しかり。《救い主》は罪人たちのためのものである。死に給う《救い主》は、死んで当然の者たちのためのものである。それゆえ、キリストは、ご自分にふさわししい私たちのもとにやって来られたのではない。キリストは、言葉に表わすことのできない神の賜物である。

 また、主の恵みの光輝について考えさせてほしい。主を通して私たちのもとにやって来る、あり余るほど豊かな祝福のことである。あなたがたは知っているではないだろうか? キリストを信じているあなたがたは、永遠のいのちをもって生きるようにさせられていることを。今晩あなたの中には、永遠のいのち、天国のいのちが脈打っている。あなたは、永久永遠に続くことになるいのちを、すでに生き始めているのである。あなたがたは知っているではないだろうか? あなたがたが聖霊によって新生させられており、子とされて神の家族に入れられていることを。あなたは《いと高き方》の子どもたちである。「私たちが神の子どもと呼ばれるために、――事実、いま私たちは神の子どもです。――御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう」[Iヨハ3:1]。あなたは、これに値しただろうか? これに値することなどありえただろうか? それが可能だろうか? 子とされて天的な家族に入れられたあなたは、義と認められており、神の御前で正しい者とされている。今あなたは、自分が永遠の愛で愛されていること、地上で神の栄光を現わすようになるため、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められていること[ロマ8:29]を知っている。神の聖定によって、神があなたのために用意しておられる王座に着くこと、また、主とともに永久永遠に王となることが定められているのを知っている。あなたは、これに値しただろうか? あなたがこれまでしてきたことのうち何が、これほど途方もない恩恵によって報いられるようなものであったと思い描けるだろうか? ひとりの少年が私のために使い走りをするとしたら、私はその子に二ペンスやるであろう。あるいは、私の気前が良ければ六ペンスやるであろう。だが、私が一千ポンド与えるとしたら、その子は、それが自分の奉仕に対する代金だとは信じないであろう。そのようなことが可能だとは思いもしないであろう。その報いは、自分が稼ぎとったいかなるものをもはるかに越えていると感じるであろう。自分の奉仕など、これほど大きな賜物にとっては全く無価値だったと感じるであろう。そして、もしこれほど多額の金銭が本当に自分のものになるとしたら、それは私の純粋な寛大さによって自分に与えられたものに違いないと結論するであろう。その子は、自分がそれを稼ぎとったなどとは夢にも思わないであろうし、自分は自分の使い走りをこの世で最も勤勉に行なったのだとさえ考えないであろう。そして、神のいかなる子どもも、いかに大きな働きを自分の主のため行なってきたとしても、自分が神の子どもになるのに値していたとか、天国の相続人になるのに値していたとか、王である祭司になって、永遠に神の右の座で、云い知れない祝福の中で生きるようになるのに値していたとか決して考えないであろう。おゝ、しかり。こうしたすべては賜物でなくてはならない。私たちがこのような祝福を稼ぎとったはずがない。

 知っての通り、賜物が与えられるには2つのことが必要である。そこには、まず最初に、それを与える者がいなくてはならず、次に、それを受け取る別の者がいなくてはならない。あなたはキリストを受け取っただろうか? キリストをあなたにとっての賜物としない限り、決してあなたがキリストを受け入れることはできない。あなたが、神の授けてくださる値もつけられない宝物を、自分の空っぽの手で受け取ることは、全く大したことではない。空の杯のように、あなたが湧き出る泉の下に立ち、その水晶のような流れが流れ込んで来るにまかせることは、全く大したことではない。だが、その賜物を完成させるためには、それが必要なのである。私は、神がその言葉に表わせないほどの賜物を与えてくださった後で、あなたがそれを受け取っていない限り、そのことで神に感謝するようあなたに求めようとは思わない。あなたがキリストを受け取ることは、おゝ、これほど無代価でかまわない! もし救いが有償のものだったとしたら、また、もしそれを稼ぎ取る必要があったとしたら、あなたは災いである。だが、賜物である以上、これほど無代価なものはない。この世で最も貧しい人でも、賜物を受けることはできる。震える手も賜物を受け取ることはできる。もしそれが功績から来るものでも、報いということで来るものでもなく、全く授ける側の気前良さから出て来るとしたらそうである。おゝ、あなたや私が、そして私たち全員が、言葉に表わせないほどの神の賜物を受けることができるとは、何と栄光に富むことであろう!

 ひとたび受け取り、受け入れたなら、キリストは私たちのものである。もしある人が私に贈り物をしてくれたとしたら、私はその人の気持ちを傷つけるようなことを何も云おうとは思わないが、それはもはやその人のものではない。もしその人がそれを私に与えたとしたら、それは私のものである。ある人が以前、私に一軒の家を譲り渡してくれた。私が行なわなくてはならない働きの、ある特定の部分に属するものとしてである。そして、もし私が、それを与えられた時点でその家を所有していたとしたら、それは私のものとなっていたことであろう。だが、私はそうしなかった。その人は死んだ。そして、確かに私は権利証書と書きつけを有していたが、その賜物は死手譲渡の法律によって無効となった。その家が譲られたときに私がそれを所有していたとしたら、それは私のものとなっただろうが、そういうわけで私のものにはならなかった。私は、もし私がそれを所有していたとしたら、その家を与えようとしている人に向かってこう云わなくてはならなかったであろう。「あなたは、ここから出て行かなくてはなりません。さもなければ、どれほど名目上のものであっても良いですから、私に賃料を支払わなくてはなりません。この家が本当に私のものであり、あなたがそれを私に譲り渡していることを認めるためにです」、と。しかし、私はそのようなことを願うことはできなかったし、そうしようなどと夢にも考えなかった。それゆえ、その賜物は無効となり、その家は主の御国を進展させるために私のものとなることはなかった。さて、愛する方々。もしあなたが神の与えてくださる賜物を受け入れるとしたら、覚えておくがいい。それはあなたのものとなる。キリストはあなたのものとなり、永遠のいのちはあなたのものとなる。あなたは自分の相続財産の権利証書を得るであろう。それを所有することになるであろう。しかし、それを死ぬまで引き延ばすことは、ぜひともしないでほしい。《しかり》。神が、あなたへの賜物として、また、永遠にあなたの所有として、あなたに譲り渡してくださる、そのキリストをいま所有するがいい。

 そして、私はもう1つのことをあなたに云うであろう。ひとたびこの賜物を受け取ったなら、あなたは決してそれを失うことがないであろう。「神の賜物と召命とは変わることがありません」[ロマ11:29]。つまり、神は決してご自分がこの言葉に表わせないほどの賜物を与えたことを後悔されないということである。神は決して、「もう一度それをわたしによこせ」、とは仰せにならない。もし神があなたにキリストを与えてくださったとしたら、また、あなたがキリストを受け入れているとしたら、キリストは永遠にあなたのものである。そして、これこそ、この天来の賜物の栄光にほかならない。いつ失うか分からないような所有物は、結局のところ、非常に貧弱な所有物である。私は訴訟に巻き込まれて、自分のものだと思っていたものを失うかもしれない。私はそのような所有物を持ちたくはない。それを失うのではないかという不安のため夜眠ることもできないであろう。だが、もし神が私にキリストを与えてくださり、私がキリストを受け取ったとしたら、キリストは私のものである。死も、地獄も、他の何物も、決して魂をキリストから、あるいは、キリストを受け入れた魂をキリストから引き離すことはできない。次の言葉は至言である。「キリストのほかパンの皮しかなかるとも、左様。キリストのほかパンの皮すらなかるとも、キリストのなき全世界にもまさるなり」。おゝ! キリストを与えられて死ぬ方が、キリストを抜きにして生きるよりもましである。キリストのいない人生など、真の人生と呼ぶことはできないからである。キリストこそは、「道であり、真理であり、いのち」[ヨハ14:6]である。

 あなたがたの中のある人々が、言葉に表わせないほどの神の賜物を獲得しようとして何かを行なおう、何かになろう、と無理に無理を重ねてきたことは私も承知している。その賜物をあなたは得たいだろうか? ただで得たいだろうか? あなたのあわれで、みじめな功績を、キリストという神の無代価の賜物の代償として持ち出すようなことをして神を侮辱してはならない。ありのままのあなたでやって来るがいい。そして、神が無代価で与えてくださるものを無代価で受け取るがいい。そうすれば、キリストは永遠にあなたのものとなる。

 先日、驚いたことに私は、深い絶望に陥った、ひとりのあわれな魂が、私の行なった1つの説教から慰めを得たということを知った。その説教の題目は、人間の普遍的贖いでも、救いの無代価の提供でもなかった。その人は、永遠の契約と選びに関する説教の鋭く尖った角をつかんだのである。そのことについて聞いたとき、私は、いかに神が、その主権的な恵みを明示するだけで、ある魂に慰めを与えることがおできになるかを見てとった。「事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです」[ロマ9:16]。おゝ、魂よ。もしあなたがキリストを賜物として得たければ、今晩にでもキリストを得られるのである! 家に帰る必要はない。一瞬たりとも待つ必要はない。しかし、もしあなたがキリストを賜物として得たくなければ、決してキリストを得られないはずである。というのも、ただ神の無代価の賜物としてキリストを受け入れるよう恵みによって導かれない限り、他のいかなるしかたでもキリストがあなたや私に属することはありえないからである。

 第一の点については、ここまでで十分としよう。私たちの時間を考えると十分すぎたかもしれない。キリストは賜物であり、神の恵みの無代価の賜物である。

 II. さて、第二のこととして考えたいのは、《賜物として、キリストは言葉に表わせないほどである》という事実である。「ことばに表わせないほどの賜物のゆえに、神に感謝します」、と使徒パウロは云った。また、私たちも同じように云うものである。「それではなぜ」、とある人は云うであろう。「あなたはキリストについてそのように語るのですか?」 よろしい。基本的には、キリストが言葉に表わせないほどのお方だからである。ほぼ千九百年も経った今、もし私たちの説教しなくてはならない題目が言葉で表わせる程度のものだったとしたら、とっくに語り尽くしてしまっていたであろう。だが、言葉に表わせないほどの、果てしない海原、底知れぬ海洋であるがゆえに、私たちは、今からもう千九百年――主が来臨されなければ――説教し続けても、この題目の最後には決して到達しないと私は確信している。ある教役者が、その話を聞いている人々のひとりに、こう説明したと聞いたことがある。説教を1つこしらえるのに、自分がどれほど苦労しているかと云うのである。「おゝ!」、と彼は云った。「それには何日もかかるし、私の頭は痛くなる。私はどうして良いか分からない」。「先生」、と彼の友人は答えた。「もしそんな具合におなりだとしたら、先生は、たらいの底に近づいてきとるんだと思いますわな」。そして、私もそうだと思う。しかし、キリストについて語る段になれば、私たちには言葉に表わせないほどの主題があるのである。ここには、あふれ流れる泉が湧き出ていて、私たちは永遠にこの言葉に表わせないほどの題目について語ることができる。

 それは、どれほど言葉に表わせないのだろうか? 最初に、キリストについて最上のことを語った人が、キリストは言葉に表わせないほどだと宣言した。あなたは、霊感されていたとはいえ、パウロにまさってキリストについて良いことを語った者が誰かいると思うだろうか? いかに荘厳な文章、いかに素晴らしい段落がパウロの書いたものの中には見いだされることであろう。そこで彼は、自分の言葉を山また山と積み重ねては、キリストの栄光を現わそうとしている! もし誰か、キリストをアルファからオメガまで云い伝え、キリストに関するすべてを告げることができる者がいたとしたら、パウロこそその人であった。だが、確かに彼はこのほむべき務めを投げ出すことなく、それに従事しながら生き、かつ死んだにもかかわらず、神の賜物は言葉に表わせないほどだと宣言したのである。ならば私は、確実にそうだと思う。

 次に、《救い主》を最も必要としている人はあなたに、キリストは言葉に表わせないほどの神の賜物だと告げるであろう。あなたはその人を知っている。その人は、自分の魂の深い苦悩の中に座り込んでおり、その重苦しい頭をかかえている。だが、その重苦しい心を手でつかむことはできない。それを持ち上げようとすれば腕が砕けるであろう。咎にのしかかられ、恐れに満ちてその人は云う。「私にはキリストによる以外に何の救いもありません。おゝ、私がキリストを得られるとしたらどんなに良いことか! おゝ、私がキリストを得られるとしたら! もし私がキリストを信じることができさえしたら、それは言葉に表わせないほどの祝福となるでしょう」。私は、先日の晩こうしたことを自分の母親に語った人を知っている。「どうしたの、ジョン」、と彼女は云った。「いったい何て苦しそうな顔をしているの! まるで全世界がおっかぶさっているように見えるわよ」。「お母さん」、と彼は答えた。「キリストと一緒に全世界を背負った方が、キリストなしに生きるよりもましだよ」。人がこのようにキリストを必要としていると感じるとき、その人はキリストが言葉に表わせないほどの神の賜物であることが分かるのである。

 あなたがキリストを受け取るとき、あなたは見いだすであろう。キリストを最も喜びとする人は、キリストを言葉に表わせないほどの賜物と感じるものだ、と。私たちは、大してキリストを喜びとしていないときには、キリストの魅力について鸚鵡のように口真似することができるであろう。だが、自分の魂がキリストで満たされているとき、普通はキリストについて全く語ることができない。キリストが自分のものであること、また、自分が救われていること、キリストが自分を天的なあらゆる宝で満たし、一切のものを所有させてくださったことを感じている人、――そのような人は、キリストについて語ろうとし始めるとき、絶句してしまう。涙がその人の目に浮かぶ。「おゝ!」、とその人は云う。「私を家に帰らせてください。私をひとりで座らせてください。そして、この主題を黙ってよくよく考えさせてださい。それは全く言葉に表わせないほどなのですから」。キリストについて知っていることをすべて告げられると考えている人は、自分が大して良く知ってはいないとも結論するであろう。というのも、キリストについて最も良く知っている人は、キリストが言葉に表わせないほどの神の賜物であると感じているからである。

 そして、愛する方々。キリストを最も良く用いてきた人、また、キリストを最も長く用いてきた人は、あなたにそう告げるであろう。最初、キリストは、新しく生まれた魂にとって1つの方向においてのみ、すべてである。だが、徐々にキリストは、別の方向においてもすべてとなる。そして最後には、キリストはあらゆる方向においてすべてとなる。私に教えてほしい。白髪頭をした愛する方々。あなたはキリストについてどう考えているだろうか? もしあなたがキリストを五十年も知ってきたというなら、キリストは何について最もすぐれておられるだろうか? 「最も?」、とあなたは云うであろう。「主はすべてにおいて最高ですとも」。そして、主はまさにその通りであられる。また、人生の戦いのただ中にある私の兄弟たち。あなたは、キリストを何のために用いるだろうか? あなたはキリストが兜として、胸当てとして、靴として、帯としてすぐれているのを見いだしているだろうか? 「おゝ!」、とあなたは云うであろう。「キリストはすべての武具としてすぐれておられます。私の欲するすべてがキリストの中に見つかります。しかり。すべてを越えてです」。キリストを用いることのできるすべてのことを告げるのは不可能であろう。あなたがた、キリストを最も良く、また、最も長く用いてきた人たちは云うであろう。「主は、言葉に表わせないほど私たちにとって尊いお方です。というのも、主は病においても健康においても、貧しさにおいても富においても、喜びにおいても苦悩においても、私たちにとっていつくしみ深くあられたからです。主はあらゆる所において等しくすぐれておられます。おゝ、私たちがなおもずっと主のことを知り続けるとしたらどんなに良いことでしょう! 私たちに対する神の大いなる賜物として、主は言葉に表わせないほどのお方だからです!」

 さらに、キリストを最も完全に宣べ伝えてきた説教者は、キリストが言葉に表わせないお方であることを知っている。あゝ、愛する方々。私は、時としていかなる感情が私に臨むか、あなたに理解できるとは思わない。私は時折、説教する中で栄光に富む自由を感じる。私は、ナフタリのように放たれた雌鹿[創49:21]であると感じてきた。そして、私の《主人》について語ることが私自身の喜びとなり、また、あなたの喜びにもなってきたと思う。とはいえ、それから帰宅する途中で、私はこう自問することがあった。「さて、結局、なぜお前はあのように説教できたのだ?」 そして、それは私にとっては、あわれで、みじめな事がらのように思われてきた。私は、私の《主人》の誉れになることを、本来語ってしかるべきことにくらべれば、あまりにも僅かしか語ってこなかったため、なかば再びこの場に戻ってきて最初からやり直したいと思うほどであった。ただ、このような考えだけがしばしば思い浮かぶのだった。「お前が逆戻りしても、なお悪くなるばかりだ。だから、そのままにしておくに越したことはない」、と。私は、ひとりの卓越した画家と、彼の前に十三回も座って肖像画を描いてもらった人のことを知っている。この芸術家は、座っている人の表情をとらえることができなった。私は、彼が画業の途中で絵筆を投げ出して、こう云ったのを見たことがある。「もうお手上げです。私にはできません」。それこそ、私たちが自分の《主人》について時として感じることである。誰が主をしかるべく描き出すことなどできようか? 私たちにはお手上げである。行くがいい。方々。そして、太陽を眺めてから、戻って来て、あなたの画布に太陽を描いてみるがいい。また、キリストを眺めてから、あなたの弁舌でキリストを表現してみるがいい。天性は、いかなる天性を寄せ集めようとも、――

   「主の麗しさ 告ぐるには
    おのれの色彩(いろ)を 混ぜぬべし」。

キリストを最も完全に宣べ伝えている人は、キリストが言葉に表わせないお方であると知っている。あなたは今、私が何度となく、私自身の説教について自分に云い聞かせてきた詩句を歌った方がましである。――

   「惑いてわれは ためせども
    いかな努力(てだて)も 甲斐はなし。
    生者(ひと)の弁舌(ことば)は 唖者(おし)なれば、
    死せずば語れず、キリストを」。

 ここまで来て、私は自分の最後の点に達した。このように栄光に富む題目のためには、もっと時間があれば良いのにと思う。

 III. さて、第三に、《言葉に表わせないほどの賜物として、キリストは神への賛美を私たちから呼び起こす》。「ことばに表わせないほどの賜物のゆえに、神に感謝します」。

 キリストという賜物によって、私たちは感謝をもって神を仰ぎ見させられる。無知な人々がしばしば犯す間違いには、決して陥ってはならない。彼らは、私たちの主イエス・キリストがこの世に来られたのは、神を愛に満ちたお方にするためだと考えるのである。否、否、否。イエス・キリストがこの世に来られたのは、神が愛に満ちておられたからであり、神は私たちに対する愛によってその御子イエス・キリストを引き渡し、私たちに代わって死なせてくださったのである。

   「イエスの御座より くだり来て、
    苦しむ人と なりたるは
    つゆだに燃やす ためならず、
    御民(たみ)へのエホバの 愛の火を。

   「主の忍びたる 死にあらず、
    主の負われたる 激痛(いたみ)ならず。
    神の永遠(とわ)の愛 来たらすは。
    そは神 従前(もと)より 愛なれば」。

そして、神はそのひとり子を与えるほどに世を愛してくださった[ヨハ3:16]。言葉に表わせないほど神の賜物は、神の愛の原因ではなく、神の愛の成果である。こう云ってはならない。「御父をなだめるために死んでくださったキリストに感謝します」。否、否! 「ことばに表わせないほどの賜物のゆえに、神に感謝します」。神はその御子をお与えになった。だから私たちは《与え主》をあがめ、その御名をほめたたえるのである。かつて私たちは神のことを恐怖とともに考えていた。だが、今や私たちにイエスを与えてくださった以上、感謝とともに神のことを考えている。私たちは、ひとりの神がおられることを喜んでいる。私たちにとって、それは、神がいるかいないかの問題ではない。神がいないとしたら、それは私たちにとって永遠の破滅であろう。だが、ひとりの神がおられる以上、私たちのための天国がある。否、私たちの神こそ私たちの天国なのである。その御名はほむべきかな! このように、私たちは感謝とともに神のことを考える。

 それから次に注意したいのは、私たちがその感謝を表現すべきだということである。使徒は云う。「ことばに表わせないほどの賜物のゆえに、神に感謝します」。しかし、パウロよ。何があなたをこの話題に引き寄せたのか? あなたがこのコリント人たちに語っていたのは、いやいやながらでなく、強いられてでもなく贈り物をするといったことだったではないか[IIコリ9:7]。なぜあなたは、言葉に表わせないほどの神の賜物という主題に至らされたのか? パウロは答える。「何が私をこの話題に至らせたかを告げることなど不可能です。私は常にそのことに関わっているのですから。何について語っていようと、いかなる務めに携わっていようと、私は常に神にその言葉に表わせないほどの賜物ゆえに感謝しているのです」。使徒が突如としてその賛美を迸らせているのは、そうしないではいられなかったからである。彼の魂は、強烈な感謝の念で膨れ上がっていた。それで彼は、こう叫ばざるをえなかったのである。「ことばに表わせないほどの賜物のゆえに、神に感謝します」。

 愛する方々。神への賛美は決して時機外れになることも、場違いになることもない。知っての通り、私たちの中の、キリスト者であると告白している一部の者たちは、世界中で最も秩序を重んずる、最も礼儀正しい人々である。すなわち、私たちは決して自分のキリスト教信仰を他の人々に押しつけはしない。私たちは、ある人と二十年間も顔を合わせていても、しかし決して一言すらその人にキリストについて告げることをしない。私たちには、礼拝中に「ハレルヤ」と叫ぶ、あの恐ろしい人々を有していないではないだろうか。私たちは、恐ろしすぎるばかりに礼儀正しい! それに加えて、私たちは恐ろしすぎるばかりに冷淡でもある。ことによると、もし私たちがキリストを愛しすぎると、キリストについて非常に不謹慎なことを語り、非常に軽はずみなことを何か行なってしまうかもしれない。だが、私たちはキリストを愛することが少なすぎるがために、驚くほど思慮深く、驚くほど礼儀正しい。また、私たちとこの世とは、互いに何の違いもないかのように、ゆったり並んで進んでいる。たといある人が時折、悪態を口から発しても私たちは、非常に遺憾に思いはするが、決してその人を叱責しない。もちろん、否である。あゝ! よろしい。私は、私たちが少なくとも、波止場で荷下ろしに雇われていたひとりの老人と同じくらいは軽はずみになることができれば良いと思う。彼はひ弱で、病んでいたため、人々は彼に他の人々よりも少ない賃金しか払わなかったが、彼は全く満足していた。しかし、ある朝、彼に向かってひとりの荷役人夫が悪態をついたところ、この老人は相手に向かって頭を下げて、何も云わなかった。この冒涜者はもう一度悪態をついたが、老人はもう一度頭を下げた。とうとう悪態をついた方は云った。「この老いぼれめ。何で俺に向かって頭を下げやがるんだ?」 そこでこの善良な人は云った。「わしは、あんたに頭を下げとったのではないよ。じゃが、あんたが神の御名を口にしたので、あなたはせんでも、わしは御名に敬意を表そうと思ったまでじゃ」。老人よ、よくやった! 老人よ、よくやった! 願わくは、この場にいるあらゆるキリスト者が、言葉に表わせないほどの神の賜物ゆえに、何らかのしかたで神に感謝するしかたを見いだせるように! この世が呪えば呪うほど、私たちはほめたたえる。私たちは、恩を感じるのと同じくらい、自分の感謝を表現すべきである。

 言葉に表わせないほどの神の賜物ゆえに表現する感謝によって、いやが上にも私たちは、キリストが私たちのものであることを確信するようになるであろう。ある賜物を受け取っても、それに見向きもせず、決して与え主に感謝しない人は、次第に自分がそれを有していることをも、その与え主のことをも忘れるようになり、いかにして自分がそれを手に入れたかも忘れてしまうであろう。キリストにあって自分がいかなる賜物を有しているか考えるときには、感恩の精神を培うがいい。キリストゆえに主を賛美するがいい。そうすれば、あなたは再び主を賛美したくなるであろう。そして、主を賛美した後では、もう一度主を賛美したくなるであろう。そして、主を賛美すればするほど、キリストが本当に自分のものであることを確信するようになるであろう。かりにある人に1つの庭園があるとして、その人はそれが自分のものであると知っているとしよう。その人は、それが自分のものであると全く確信している。しかし、かりに二十年間、その人が常にその庭園の果実をことごとく集め続け、それだけを食べて生きてきたとしよう。そのときには、誰ひとりその人の権利に疑いを差し挟めないであろう。その人には所有する権利があり、楽しむ権利がある。その人は自分の庭園を賜物として受けた。そして、この二十年の間、その与え主に感謝してきた。私はその人の資格は十分に明白だと確信する。おゝ、いかにあなたがたの中のある人々が、今よりも神を賛美するとしたら、自分の資格を明らかなものとすることであろう! あなたが神を賛美し、ほめたたえることそのものが、あなたの権利証書の再吟味となり、あなたの確信は完全な確証に育つであろう。あなたは、単に自分が言葉に表わせないほどの神の賜物を受け取っていると知っているばかりでなく、なぜ自分がそれを受け取ったかも知ることであろう。

 最後に、私たちはそうした感謝の思いが広まることを願うべきである。もし私たちが正しい心持ちをしているとしたら、単に自分が、「ことばに表わせないほどの賜物のゆえに、神に感謝します」、と云うだけでなく、パウロが意味したことをも意味するはずである。この言葉に表わせないほどの神の賜物をすでに受け取った、他のあらゆる人をも、そのことゆえに神を賛美させたいと思うはずである。兄弟たち。私たちは神に感謝しようではないか! 姉妹たち。主を賛美しようではないか! 私は、原始メソジスト派のとある集会にいたときのことを覚えている。そこでは、彼らはこのように始まる賛美歌を歌っていた。――

   「兵士等(つわもの)よ、立ち、よく告げえんや?
    いとも驚異(たえ)なる インマヌエルを。
    しかり。ほむべき主よ。われら立ち告げえん、
    いとも驚異(たえ)なる インマヌエルを」。

その賛美歌には、1つの非常に生き生きした合唱曲があり、このメソジスト派たちはそれをも歌っていた。それはこのような歌詞であった。――

   「すべての栄光(さかえ)は 神の小羊(ひつじ)に、
    贖血(ち)にてわれらを 買いし主に!
    われらはじきに ヨルダンを越え
    救わる民に 加わらん!」

 先日の朝、私は賛美における1つの教訓を学んだ。確か五時過ぎの、ちょうど私が目を覚ます時分のことだったと思う。私の耳には一羽の黒歌鳥がやって来ては、私の窓の近くでひとしきり囀るのが聞こえた。一、二分すると、一羽の鶫もやって来て、鳴き始めた。そして、この二羽がともにはっきり目を覚ますと、彼らはズアオトリや五色鶸や、雀を起こすまで満足しなかった。それで、彼らは囀り立てて、私の家の近くにいるあらゆる鳥の目を覚ますまで歌い続けたのである。その鳥の音楽家たちがいかなる賛美の聖譚曲を放ったことか! 彼らは、自分が調べを外していないかどうか確かめるために何の譜面も眺める必要はなかった。だが、一羽一羽は調べから外れることなく、昼の神に対してささげるその歓喜の歌においていや高く、いや高く、いや高く上っていった。そのお方が夜を追い払い、再び朝の光を彼らに与えてくださったからである。さて、私は、今晩その賛美を始めたいと思っている黒歌鳥である。この場には、ありとあらゆる種類の、相異なる色と、種々雑多な羽毛をした鳥たちがいる。彼らは、あらゆる種類の調べを歌うことができる。ともに声を合わせて、あの鳥たちが主に朝の歌をささげたように、夜の歌を主にささげ、これをその基調としようではないか。「ことばに表わせないほどの賜物のゆえに、神に感謝します」。聖餐式のためにとどまる人々以外の人々を解散させる前に、私たちはみな歌おうではないか。――

   「たたえよ 恵みのもといなる神を、
    たたえよ、下界(した)なる すべての被造物(もの)よ。
    たたえよ、天界(うえ)なる 天の万軍(つどい)よ、
    たたえよ、御父を、御子を、御霊を」。

言葉に表わせないほどの神の賜物[了]


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