現代化された1つの古い質問
NO. 2286
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「すると、民は私に尋ねた。『あなたがしていることは、私たちにとってどんな意味があるのか、説明してくれませんか』」。――エゼ24:19
エゼキエルの妻は死んだ。彼の心は痛んでいた。だが彼は、その天来の《主人》から命令を受け取った。嘆いてはならず、泣いてはならず、いかなる服喪のしるしも表わすな、と。それは奇妙な命令だったが、彼は従った。民は、エゼキエルがその一切の行ないにおいて自分たちに対する預言者であると理解していた。彼の行為は、彼ひとりに関係するものではなかった。彼は単にその言葉のみならず、その行為によっても教師であった。それで民は彼の回りに集まり、彼に云った。「その意味は何ですか? それは、私たちのふるまいについて何かを意味しているのですね。それが私たちにどんな関係があるか教えてください」。彼はすぐさま彼らに説明した。すなわち、じきに彼らもまた剣により、疫病により、飢饉により、自分の愛する者を失うことになる。そして彼らは、死んだ者のために全く嘆くことができないであろう。彼ら自身が非常な苦悩の中にあるため、死者は哀悼されることがないであろう。生者は自分自身の個人的な悲しみの種だけで手一杯にならざるをえないからである、と。それはすさまじい教訓であり、すさまじいしかたで教えられた。
さて、愛する方々。エゼキエルがその主の命令によって多くの奇妙な事がらを行なったのが、全く他の人々のためであったように、私たちも思い出さなくてはならない。私たちの行なう多くの事がらは、他の人々に何らかの関係があるのだ、と。この地上にいる限り、私たちは決して、自分の周囲の環境から絶縁しているかのように孤立することはできない。また、他の人々のふるまいが目にとまるときには、民がエゼキエルに対してしたように、私たちも誰かに向かって――その人々自身にでなくとも――こう云うことはしばしば良いことである。「そのことは、私たちにとってどんな意味があるのか、説明してくれませんか」、と。
私は今回この聖句を次のように用いたいと思う。第一に、これは私たちの天来の《預言者》、主イエス・キリストに対するあなたの質問とすべきである。主が宿営の外で死ぬために連れ出されるのを見るとき、私たちは厳粛にこう主に尋ねて良いではないだろうか? 「あなたがしていることは、私たちにとってどんな意味があるのか、説明してくれませんか?」 そのことについて多少語った後で私は、今晩、私たちが、私たちの主の晩餐に集まるのを見るだろう人々に向かって語りたいと思う。これは、教会に対するあなたの質問となるであろう。「あなたがしていることは、私たちにとってどんな意味があるのか、説明してくれませんか?」 その件について説明し終えてから、私は、私たちとともに聖餐卓のもとに来ようとせず、家に帰るか、上の桟敷席に座ろうとする友人たちに対して語りたい。私はその人たちに向かって、これがあなたに対する私たちの質問であると云うであろう。「あなたがしていることは、私たちにとってどんな意味があるのか、説明してくれませんか?」
I. まず第一に、《これは、主イエスに対するあなたの質問たるべきである》。非常な畏敬とともに、だが――少なくとも私に関する限り――非常に弱々しく、私たちの天来の《主人》に近づき、その異様な受難のうちにある主を仰ぎ見よう。真剣に主に尋ねよう。「あなたがしていることは、私たちにとってどんな意味があるのか、説明してくれませんか?」 あなたには主が見えるだろうか? そこに主がおられる。橄欖の暗い木陰の中でうずくまり、神に嘆願しておられる。嘆願し、嘆願し、さらに嘆願しては、汗まみれになる。汗、そう云っただろうか? 血である。それも、あまりに多すぎて地面に落ちるほどの血である。「汗が血のしずくのように地に落ちた」[ルカ22:44]。人は、命の糧たるパンのために汗する。だが、いのちそのものを獲得するには血の汗が必要であり、イエスはそれを流しておられる。愛する《主人》よ。その苦き杯があなたの口元にある間、しばし止まって、あなたがしておられることが、私たちにとってどんな意味があるのか、説明していただけないでしょうか? 主はこうお答えになる。「罪は、はなはだしく苦いものなのだ。そして、それを取り除くには、わたしの魂の苦悶という代価が必要なのだ。神の御怒りを忍ぶのは容易なことではない。すでにわたしはこう叫んだ。『できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください』[マタ26:39]、と。だが、あなたを救いたければ、それは不可能なのだ」。これを聞くがいい。私の兄弟たち。耳を傾け、良く学ぶがいい。決して罪をもてあそんではならない。決して血の汗によって洗い流されなくてはならないような部分を作ってはならない。決して、キリストが苦悶せざるをえなかったものを笑い飛ばしてはならない。そして、決して贖いを些細なこととみなしてはならない。主にとってそれは、ご自分の魂を死へと注ぎ出すことだったのである。
しかし、あなたは木立越しに角灯がまたたいているのが見えるだろうか? 人々が近づいて来る。悪人どもが、荒々しい声をし、松明と角灯と棍棒をかかえて、このほむべき嘆願をささげておられるお方を捕えにやって来る。主は身を起こして彼らと対決される。主が一言発されるや、彼らは倒れ伏してしまう。主はのがれることがおできになる。捕縛される必要などなかった。だが、主は手向かうことなくご自分を引き渡される。それで彼らは主を捕え、そのよこしまな心の赴くままを行なう。愛する《主人》よ。あの裏切り者の口づけがまだ乾かぬうちに、また、あなたが縛り上げられてカヤパのもとに連行されつつある間に、私にお教えてください。こうしたすべてによって、あなたは何を意味しておられるのですか? これは、私たちにとってどんな意味があるのですか? 主はお答えになる。「わたしは自分の意志で行くのだ。私は縛られなくてはならない。罪があなたを縛っていたからだ。罪はあなたの手を縛っていた。罪はあなたを拘束し、不具にし、牢獄に入れていた。あなたはサタンの奴隷である。それで、わたしは、あなたを自由にするために縛られなくてはならないのだ」。おゝ、愛する方々。この教訓を良く学ぶがいい。罪は常にあなたを奴隷にする。最も高い意味における自由な思想、自由な愛、自由な生き方は、ただ神に仕える中にのみ見いだされるべきである。罪は何の自由ももたらなさい。ただ縛るだけである。キリストが縛られて、死へと引き渡されたように、罪は人を縛り、第二の死へと引いて行く。これこそ、イエス・キリストがご自分を捕える者たちに服従されたことによって、私たちに意味されていることである。
しかし、いま彼らは、主をその裁き手たちの前に連れ出している。主はアンナスとカヤパ、そしてピラトの前に立たれる。主の敵どもは激しく主を告発する。だが主は一言もお答えにならない。ピラトが主にこう云う。「私に何も答えないのですか」。狼のただ中にいる小羊のような、ほむべき《受苦者》よ。一言でもお語りになるとしたら、教えてください。なぜこのように沈黙なさるのですか? すると主は、ご自分の愛する者たちの心にこう囁かれる。「わたしが沈黙しているのは、何も云うことがないからだ。あなたの《弁護者》になろうとしているわたしに、何が云えただろうか? わたしは罪を犯したことがないが、あなたは罪を犯してきた。わたしは、自分のためなら抗弁できたろうが、わたしはあなたの代わりに、代理として、あなたに成り代わって、そこに立っていたのだ。では、わたしに何が云えただろうか? いかなる云い訳、いかなる弁解、いかなる情状酌量を申し立てることができただろうか?」 云えることはただ1つ、「有罪です、主よ。有罪です」、であった。それこそ、あなたがあえて神に云いうる一切のことである。というのも、あなたは、あなた自身の功績という根拠に立つとき、何も申し立てられないからである。そして、そのようにこの沈黙せるキリストは罪の断罪において雄弁であった。そして、私たちは、悪人どもがおめき声を上げているときに、主が一言もお答えにならなかったことに感謝するのである。
しかし今、あなたには見えるだろうか? 彼らは主を鞭打っている。主に茨の冠をかぶせている。主をからかい、主に目隠しをしてから平手打ちをしている。何たる嘲り、何たる恥辱を彼らは主に浴びせかけたことか。ほむべきお方、ほむべきお方。こうしたことが、私たちにとってどんな意味があるのか、説明してくれませんか? 私は、主が、かつて傷つけられたそのみかしらから、こうお語りになるのが聞こえる気がする。「わたしは、はずかしめられなくてはならないのだ。というのも、罪は恥ずべきものだからだ。いかなる嘲りも、罪にとって大きすぎはしない。罪は忌み嫌われ、軽蔑をもって扱われ、不潔で卑しく見下げ果てたものとして宇宙の壁に叩きつけられて当然のものだ」。キリストは、ご自分のその大いなる恥辱によって、私たちに教えてらおられるのである。罪を憎むことを、罪を軽蔑をもって扱うことを、嫌悪とともに罪から顔を背けることを。というのも、被造物がその《創造主》に反逆し、人がその神の敵となることは、下劣なことだからである。
しかし今、見ると彼らは主を引き出し、エルサレムの街路を進ませている。かの《悲しみの道》沿いに、主はのろのろと歩まれ、血の滴りが舗道に落ちる。主ご自身は十字架の下でよろめいておられる。なぜ彼らは主を休ませないのだろうか? あの泣いている女たちなら、主の宿り場を見つけだせたであろうに。否。主が休んではならない。エルサレムが主をとどめておいてはならない。主をかかえておける家があってはならない。主に宿り場を与えることのできる者はひとりもいない。主は死ぬために表に出て来ているからである。主は町の門の外に行かなくてはならない。私は、そこに「遠い緑の丘」があったかどうか知らないが、それが「都の外」であったことは知っている。わが《主人》、わが《主人》。なぜあなたは都の外に行かれるのですか? 教えてください、イエスよ。なぜあなたはそこに行かれたのですか? その公開処刑場に、そのエルサレムのオールドベイリーに、そのエルサレムのタイバーンに。なぜあなたは、ここにおられるのですか? すると主はお答えになる。「わたしが門の外で苦しみを受けるのは、神がご自分の都の中に罪があることをお許しにならないからだ。罪は汚れたものであり、わたしは、わたし自身が汚れてはいないが、汚れた者たちに成り代わって立つ者として、都の外で死ななくてはならないのだ」。そして私が見ていると、彼らは主を仰向けに放り出し、その手と足を十字架に釘づけ、それから主を掲げ上げては、咎ある人々の物見の種にする。おゝ! 何と。おゝ! 何と、あなたが、神の御子であるあなたが、モーセの青銅の蛇のように上げられるのですか? なぜあなたは地と天の間に掲げられるのですか? すると主はお答えになる。「それは、わたしがすべての人をわたしのもとに引き寄せるためなのだ。地はわたしを拒み、天はわたしに宿り場を与えない。わたしはここに、《正しい者》が悪い人々の身代わりとして吊り下げられている。それは、人々を神のもことに導くためなのだ[Iペテ3:18]」。いかに私は願うことであろう。十字架につけられた、私の《主人》のこの説明を、もっと肺腑を刺し貫くような、だが、もっと繊細な調子で語ることができたならと! 話をお聞きの方々。あなたがこの崇高な神秘を理解しない限り、救われることはできない。イエスが死なれるのは、私たちが死なずにすむためである。主が呪いとされるのは、私たちが祝福を得るためである。主が大罪人として扱われているのは、私たちが神の子どもたちとして扱われるためである。主の御名はほむべきかな。このようにして主は私たちに、主がしているこうした事がらが、私たちにとってどんな意味があるかを説明されたのである!
彼らは主を十字架から取り下ろす。主が死なれたからである。だが、主を取り下ろす前に、彼らは主の心臓を刺し貫く。すると、死んだ後でさえ、その心臓は私たちにため、そのあかしを注ぎ出す。この地球上の物質の中のどこかに、主の御脇から流れ出た血と水があるのである。そして、ことによると誰も私と同じ考え方はしないかもしれないが、それでも私はこのことを、この事実に対置したい。すなわち、地上のどこかには、モーセが山の麓で砕いた[出32:19]2つの石の板のかけらがあるのだという事実である。それにもまさって、キリストの驚嘆すべき贖罪は常にここにあり、常に働いており、常に人々を神に和解させ、常に咎ある人々が義なる主に近づける道を開きつつあるのである。もう一度私は云いたい。主の聖なる御名はほむべきかな!
しかし、彼らは主を葬ってしまい、主はその墓にひとり横たわり、その長く暗い死の夜を過ごされる。だが、三日目の朝に、主はよみがえられる。あるいは、日が昇るよりも前に、《義の太陽》[マラ4:2]が、その翼に癒しを載せて昇られたのである。イエスは墓を後にされた。そして、私はあらゆる罪人に対して、よみがえられたこの《贖い主》に向かってこう云うよう招くものである。「あなたがしていることは、私たちにとってどんな意味があるのか、説明してくれませんか?」 私の理解するところ、主の復活は私たちにとってこのようなことを意味している。主は、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになる。主がいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからにはそうである[ヘブ7:25]。
主は、単に死者の中からよみがえるだけでなく、ご自分の御父のもとに昇られる。今や主は故郷に帰っておられる。主は雲に包まれて、従う者たちから見えなくなられた[使1:9]。大いなる喇叭の音とともに、主はご自分の御国に、また、ご自分の御座に戻られた。それによって主が何を意味しているか訊いてみるがいい。主はお告げになるであろう。主は、捕われた者をとりこにし、「人々のために貢ぎ物を受け、反逆する者のためにも受けられる」[詩68:18 <英欽定訳>]のである。これは、反逆を自覚するあらゆる心にとって何という言葉であろう! キリストはあなたのために貢ぎ物を受けられた。その教訓を学ぶがいい。ぜひにと願う。主を信じて生きるがいい。主の足元に身を投げ出し、赦されるがいい。自分を主に明け渡し、これから永久に主のしもべとなるがいい。
これは広大な主題である。だが、私の乏しい力では、これ以上この部分、すなわち、主イエス・キリストに対する私たちの質問ということについて語ることができない。
II. さて、愛する方々。ほんのしばし、この聖餐卓からこの繻子地の紋織の掛布を持ち上げてみたい。すると、そこにはパンと葡萄酒が供されていることに気づくであろう。私たちがこの卓子のもとにやって来るのは、私たちの主について考えるためである。すると、あなたがたの中の誰かがこう尋ねるのが聞こえる気がする。「あなたがしていることは、私たちにとってどんな意味があるのか、説明してくれませんか?」 《これは、教会に対するあなたの質問といって良い》。それが私たちの第二の点である。
私たちが今晩ここに来ているのは、キリストの死を記念するためである。私は、愛する方々が自分にできる限り頻繁に聖餐卓のもとに来るのを見ると嬉しく思う。私が毎週ここいることができないとしたら、非常に残念なことである。というのも、もしパンを割くための時が定められているとしたら、それは週の最初の日だからである。毎週その最初の日には、できる限り、あなたの安息日礼拝の一部としてこの卓子のもとに来るがいい。この礼拝式は、キリストの死を記念するためのものである。ある出来事を記念する最高の方法は、円柱を建てることでも、彫像を立てることでも、真鍮の銘板を彫ることでもない。こうしたすべてのことはもろく、消滅してしまう。時の歯は真鍮を食い尽くし、時代の足は彫像や円柱を踏み砕く。ある出来事を最も良く記念する方法は、それを何らかの儀式遵守、すなわち、しばしば繰り返される何らかの式典に結びつけることである。さて、パンを裂くために五、六人のキリスト者たちがともに集まり続ける限り、キリストの死は決して忘れられることがありえない。あなたがいかに貧しくとも、あるいは、いかに無学でも、パンを裂くためにやって来るとき、あなたは永遠の真鍮板に、人類史の中で最も偉大な事実を記録するのを助けているのである。その事実とは、キリストが、聖書の示す通りに、私たちの罪のために死なれたこと[Iコリ15:3]である。もしこれがすべてだとしたら、これは決して小さなことではないであろう。それは、あなたがた、ここに来ない人たちにとっては、こう意味しているのである。私たちの中のある者らは、この記念式を自分の目の前にとどめておこうとしている。あなたはそれを忘れるかもしれない。だが、あなたにとって、私たちの行動は、ある程度まで意義のあるものである。すなわち、あなたが何をしようと私たちは心に決めているのである。生きている限り、このことを永続させよう、と。また、私たちの信頼するところ、私たちの後には私たちの子どもたちが、このことを永続させであろう、と。このことを私たちは、値もつけられないほどの事実であると尊重している。その事実とは、神の御子が咎ある者らのために死なれ、《罪なきお方》が罪ある者らのために死なれたという事実である。これこそ、この記念があなたと関係することである。
しかしながら、私たちがこの卓子のもとに来るのは、単にパンと葡萄酒を眺めるためではない。私たちがそこに行くのは、飲んで食べるため、イエス・キリストの死のもたらす恩恵に私たちが個人的にあずかっていると示すためである。私たちは、私たちを見るすべての人々に知ってほしいと思う。私たちは、キリストの死の結果を享受しているのである。私たちには、主の死によって養われるいのちがある。私たちには、キリストをまことの食物また飲み物[ヨハ6:55]としている希望がある。かつて死なれたキリストには、まことにいのちを与えるものがあり、それは私たちの新しく生まれた霊を維持し、強めるものなのである。もしあなたが、この儀式を見守るために桟敷席に行くとしたら、あなたはその行動によって私たちにこう云っているのである。「このことは、私たちにとってどんな意味があるのか、説明してくれませんか」。よろしい。私たちはあなたにこう云わなくてはならない。すなわち、たといあなたがこうしたイエス・キリストの死の象徴を自分の食物また飲み物としようとしなくとも、ともあれ、私たちはそうしようとするのだ、と。さらに私たちはあなたにこう云う。もしあなたがキリストによって養われていないとしたら、なぜキリストによって養われないのだろうか? あなたには、もっと良いパンがあるのだろうか? あなたは、私たちが主の贖罪の犠牲に対して有している信仰よりも堅固な信仰を何か有しているのだろうか? あなたには、イエスが私たちに与えてくださる平安よりも深い平安があるのだろうか? キリストに対する信仰が与える希望よりも確かな天国の希望があるのだろうか? もっと輝かしい希望があるのだろうか? 私たちは、あなたにそれがないことを知っている。それゆえ、私たちにとって主の肉はまことの食物であり、まことの飲み物であるが、あなたにとってこうした事がらは叱責であり、質問であり、あなたの中に欠けている何かを示唆するものなのである。
しかし、愛する方々。私たちは単に食べたり飲んだりするためにこの卓子のもとに来るのではなく、ともに集まり、イエス・キリストにある私たちの一致を宣言するためにも聖餐式にやって来るのである。たとい私が家に帰り、自分ひとりでパンを裂き、葡萄の果汁を飲むとしても、それは主の晩餐を守ったことにはならないであろう。主の晩餐は、合同であずかるものである。祭りである。兄弟関係のしるしであり、表明である。今晩この卓子のもとに来る人々は、実質的にこう云うのである。「私たちは1つです。『大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです』[ロマ12:5]」。あなたがこう云うのが聞こえる気がする。「あなたがしていることは、私たちにとってどんな意味があるのか、説明してくれませんか!」 よろしい。これは、あなたにとってこういう意味がある。すなわち、もしあなたがキリストを信じていないとしたら、あなたは兄弟ではないということである。もしあなたがキリストに養われないとしたら、あなたはキリストと1つではなく、その民と1つではない。もう1つの兄弟関係がある。そして、もしあなたがキリストにある兄弟関係に属していないとしたら、あなたは他の兄弟関係に属している。イサクとともにいない者たちは、イシュマエルとともにいる。ヤコブとともにいない者たちは、エサウとともにいる。女の子孫でない者たちは、蛇の子孫である。今晩、抜き身の剣をもってするように、キリストはこの会衆を2つに分断しておられる。もしあなたが主を信じるなら、あなたは主のものである。だが、もしあなたが主を信じなければ、いま審きはあなたの上にとどまっている。あなたがこの事実を知るのは良いことである。神の民が聖餐式のためにともに集まるとき、それは付随的に、彼らがこの会衆の残りを背後に残していくことを意味するのである。
さらにまた、この聖餐式が終わるとき、生きていれば私たちは再び次の主日にも集まり、それが終わって、いのちながらえていれば、再び翌週の主日にも集まるであろう。私たちは集まり続けて、イエス・キリストの再臨に対する私たちの信仰を示すのである。年に五十二回以上も、この卓子は私たちのただ中で広げられる。というのも、しばしば、タバナクルのそれぞれ別の部分で、長老たちや執事たち、そして別の友人たちが集まり、主と交わり、主を覚えてこのことを行なうからである。ここに私があなたの注意を引いている点がある。私たちはこのことを「主が来られるまで」[Iコリ11:26]行なうべきである。主の晩餐は、執行されるたびに、喇叭の音によってではないが、やはり明瞭な響きによって、こう云っているのである。「主は来たりつつある。主は戻りつつある。これは、主が再び来られることを示すしるしの1つである」。ご自身について主は、世を去る前に大いなるナジル人の誓いをなされた。主は、御父の御国で、ご自分の弟子たちと新しく飲むその日までは、もはや、葡萄の実で造った物を飲むことはないと云われた[マタ26:29]。そして主は、偉大な《禁酒家》としてとどまられた。御父の御国の新しい葡萄酒で再び弟子たちのために乾杯するときまで、決して杯から飲まないと誓約された。だが主は、私たちにはこう命じておられる。ご自分が再び来て、彼らをご自分のもとに迎え入れ、主がいる所に私たちもいるようになるまでは[ヨハ14:3]、これを飲み続けるがいい、と。
ことによると、あなたはなおも、「あなたがしていることは、私たちにとってどんな意味があるのか、説明してくれませんか?」、と尋ねるであろう。よろしい。これらは、あなたにとってこのことを意味している。すなわち、あなたがイエス・キリストの来臨を覚えていようといまいと、主は来つつあるのである。主はすぐにも来つつある。「見よ。わたしはすぐに来る」[黙3:11; 22:7、12]、と記されているとき、それは、「わたしは、すぐに地上にいることになる」、という意味ではなく、「わたしは、すみやかに来つつある」、という意味である。ある人は今晩、紐育からすみやかにやって来つつあるかもしれないが、明日ここにはいないかもしれない。来週もいないかもしれない。だが、それにもかかわらず、その人はすみやかに来つつあるのである。キリストは、可能な限りすみやかに来つつある。主と私たちの間には、長大な距離が何哩も横たわっている。そして主は究極の速度でそれを埋めつつあるのである。主の戦車の白熱する車輪は、主が旅しつつある速度のあまり車軸が赤熱しているが、倦むほどに長い道のりを急行しつつある。主はすみやかに来つつある。もし私がこの説教を終える前に主が来られるとしても、私は驚くべきではないし、確かに気落ちするべきではない。あなたがたはみな、そこまで云えるだろうか? おゝ、もしこの夕べの礼拝が終わる前に、主がこの演壇の上にお現われになるとしたら、私たちの中のある者らはいかに立ち上がって、狂喜と歓呼のうちに主をお迎えすることであろう! 私には、主が今晩おいでになるべきでない何の理由も知らない。それがいつか、またどういう時かは、私たちには全く分かっていない。私たちは何の予言もあえてすまい。だが私たちは、聖餐の卓子のもとにやって来るたびに、「主は来られる」、とあなたに云うのである。主が来られるとき、主の日はあらゆる不信者にとって光ではなく闇となるであろう。主が来られるとき、その敵どもは災いなるかな! いかに彼らは自分たちの《審き主》に直面することか! さあユダよ。やって来て主に口づけするがいい! さあ、ピラトよ。「真理とは何ですか」[ヨハ18:38]、と尋ねるがいい。さあ、あなたがた、ユダヤ人たち。やって来て、主の御顔につばを吐きかけるがいい! さあ、悔悟しなかった盗人よ。やって来て、面と向かって悪罵するがいい! 彼らは何をしているのか? 見よ、いかに彼らがこそこそ立ち去ろうとすることか。彼らには一言もない。しかり。私には彼らが悲痛な絶叫を上げるのが聞こえる。山々や岩に向かってこう叫んでいる。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう」[黙6:16-17]。あゝ! あなたがた、これまで大威張りで自慢していた人たち。キリストが来られた今や、別の曲を歌うがいい! あなたがた、主を蔑んでいた人たち。あなたがた、主とは何の関わりも持とうとしなかった人たち。いま主があなたの《友》となるとしたら、あなたは何を惜しむだろう? 今晩、主をあなたの《友》とするために、主にあなたの信頼を置くがいい。そうすれば、あなたは主の到来への用意をしたことになるであろう。主がいつおいでになろうと、主の到来は、主を信頼していたすべての者にとって愛と喜びに満ちたものとなるであろう。
このように私は、二組の質問に答えてきた。まず私の《主人》に対する質問、それから教会にいる私たちの兄弟たちに対する質問である。
III. さて、しめくくりとして、《これは、あなたに対する私たちの質問である》。「あなたがしていることは、私たちにとってどんな意味があるのか、説明してくれませんか?」
最初に、今晩この場にいるあなたがたの中のある人々は、あまり礼拝所にやって来ることがない。私はあなたのことを知っている。あなたが日曜日の午前中何をしているか、あなたに告げても良いだろうか? よろしい。そうすることで、善を施される人が誰かいるとも思われない。だから、そうしないことにしよう。私は、あなたが普段、主の日の午後と晩をどのように過ごしているか、あなたに告げても良いだろうか? あなたは私と同じくらい、ことによると、私以上に良く知っている。それで、あなたには告げないことにしよう。しかし、今のあなたはこの場にいる。たまたまそうすることもある。主の家にめったに来ないことによって、あなたは私たちに、あなたの完全な無関心さを教えているのである。あなたの無頓着さは私にこう云っているように思われる。「神など取るに足らない。神など片隅に押し込めておけ。商売繁盛が一番だ。自分に得になることだけ考えよう。神だの永遠だのは、愚か者たちだけのための福音だ。福音? 救い? おゝ、下らない。考えに入れるほどのもんなじゃないさ!」 神がご自分のものとして定めた安息日についてはどうか? 「よろしい。神は七日のうち六日をわれわれに与えた。それで、神からもう一日も盗み出してやれ。神になど、できるものなら一時間でもくれてやるものか。主とはいったい何者か。私がその声を聞かなければならないというのは」。あなたはこう云っているように思われる。「天国が何だ、地獄が何だ」。おゝ、方々。これこそ、あなたの生き方が実質的に教えていることである! もしあなたが無関心のうちに生きているとしたら、あなたは自分の子どもたちにそう教えているのであり、あなたの隣人たちにそう教えているのであり、私に――私が学ぼうとする限りにおいて――そう教えているのである。だが、私はそれを学ぼうとは思わない。というのも、私には、地獄が軽くあしらって良いものとは信じられないからである。あなたは、何でもないことのように地獄に落ち込むことはできるが、何でもないことのように地獄から出てくることはできない。その鉄門は、いったんあなたを閉ざしてしまえば、決して開かない。そして、天国は軽くあしらって良いものではない。私はいかに多くの人々が天国の光を顔に宿らせながら死ぬのを見てきたことか! 私はいかに聞いてきたことか。彼らがまだ地上にいるうちから、その永遠の喜びがすでに始まっていると語るのを! 私たちはしばしば信仰者たちの臨終の床で喜んできたではないだろうか? 彼らは、魂に栄光をあふれさせながら死んでいった。私はこうしたことをあまりにもたくさん見すぎたために、天国を取るに足らないものだなどとは考えられない。私は、もうじき自分もそこに行くと期待している。そして、それがどれだけすぐに来ようとかまわない。先日、ある人が私の老いた祖父を訪ねたときの話を読んだ。彼は祖父に云った。「スポルジョン先生、老けられましたなあ」。祖父は答えた。「そうともさ。もう八十七になる。来週には、くにに行きたいわい。だが、きょう行くことになる方が良いのう。こちらには、もう好きなだけとどまったし、前と同じようには説教できん。くにへ行って、上の方でちっとばかし歌うことにしたいわい」。よろしい。私は自分の祖父が行った天国を軽くあしらうことはできない。そこには、あまりにも多くの友人たちがいるため、自分がそこに入れなくなる危険を冒すことはできない。ことによると、あなたは心中こう考えているかもしれない。「私は失われたくない」、と。ならば、私は切に願う。あなたの無関心をやめるがいい。神にあなたの安息日をささげるがいい。行って、福音が説教されるのを聞くがいい。そして、それを聞いたなら、それを思い巡らし、自分の聖書を読み、祈り始めるがいい。また、自分の子どもたちに神とイエス・キリストと天国について話し始めるがいい。なぜあなたがたの中のこれほど多くの人々が自分の神を忘れてるのだろうか? 神なしにいかにしてあなたが生きられるだろうか? いかにして《救い主》なしで生きられるだろうか? こうした事がらは私にとって嘆かわしいことであり、あなたにとって非常に嘆かわしいことでなくてはならない。そして、すぐさまあなたはこうした無関心と縁を切るべきである。願わくは神があなたを助けて、今すぐそれと縁を切らせてくださるように!
あなたがたの中の他の人々は無関心ではない。あなたは礼拝に通い、熱心に話を聞く。だが、今晩あなたがこれから何をするかに注目するがいい。一階席の全部と、第一桟敷席の大半は陪餐者のために必要となる。だが、あなたは家に帰ることにし、そうすることで私たちに、あなたがこの交わりには全くあずかっていないと告げることになる。しかり。主の食卓は広げられ、キリストは覚えられ、キリストとの交わりは持たれるが、あなたは家に帰って行く! 私には分かっている。向こう側にいる愛する方。あなたはそれを全く好んではいない。あなたの細君を後に残して行かなくてはならないからである。桟敷席にいる愛する少年。君はそれを全く好んではいない。君の母上は後に残ることになり、君は、おそらくどこかでぶらぶらしていなければ、母上とともに家に帰れないからである。私はあなたがたが神の民から離れていくことを好まない。というのも、そのことによって、何年も昔に歌われるのを聞いた、ある賛美歌のことを思い出すからである。
「おゝ、涙ぞあらん、
キリストの 審きの座には!」最後の別れがやって来るとき、また、母親がキリストとともにとどまるために引き上げられ、彼女のいたく愛した男の子が外の暗闇の中に追い出されるときには、涙があり、呻きがあり、歯ぎしりがあるであろう。分け離される日は来ざるをえない。あなたは麦とともに育つかもしれないが、来たるべき時には、毒麦は麦から分離されなくてはならない。主は刈る者らに仰せになるであろう。「まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい」[マタ13:30]。私が望むのは、多くの日曜日に、あなたが愛する人々を聖餐卓のもとに残して帰宅しないようになること、むしろ、キリストをあなたの《救い主》として信頼した上で、あなたが彼らとともにとどまり、主ご自分の定められたしかたで主の死をはっきり示すようになることである。
別の人がこう云っているような気がする。「私は家には帰りません。この儀式を、見守りながらとどまります」。私は、あなたが見守っている姿を常に嬉しく思う。私は、鶏たちが養われているのを鳥たちが見ている姿を嬉しく思う。知っての通り、鳥たちは常にそうするものである。もし人が鶏たちに餌をやるときには、必ずや雀たちが近くの木々の上にとまり、鶏たちが養われている間は待っていて、後になるとその雀たちがやって来て、自分たちの分け前にありつくものである。あなたもそうなってほしいと私は期待している。あなたが、しばらくの間、眺めていた後で、やがて桟敷席から下りてきて、自分もキリストが来て養われる鳥たちの間に入るようになることを。あなたは、幸いな危険の場に入り込んでいる。矢玉が飛び交っている場に入るがいい。そうすれば、そのうちの一発があなたに命中するかもしれない。おゝ、そうなればどんなに良いことか!
しかし、今晩のあなたは、ただ見守るだけである。ただ見守るだけ、それが何を意味するか私に説明してもらえないだろうか?
「ひとつの泉 そこにあり
インマヌエルの 血に満てり。
あまたの罪人 飛び込みて
咎よりことごと 放たれん」。だが、あなたはただ見守るだけなのである! そこには私の御父の家があり、放蕩息子たちが立ち返っては、その御腕で抱きしめられ、指に指輪をはめられ、足に靴を履かされている。だのに、あなたは、ただ見守るだけなのである! パリでは、その攻囲戦の間、蟻の這い出る隙間もないほど包囲されていたが、指定の場所の特定の時間には食料が支給されていた。だが、あなたはどう考えるだろうか? もしあなたがそこに行き、窓の所まで来て、その配給を見るのを許されるとしても、あなた自身がただ見守るだけであるとしたら。私は、寒い冬の夜に、ロンドンの料理売店に背をもたせている、あわれな、靴も履いていない浮浪少年たちを憐れに思う。彼らは大きな板硝子に鼻を押しつけ、湯気を立てている骨付きの大肉片のすべてを見ているが、ただ見守るだけしかできない。私は切に願うが、そのようであってはならない。福音の饗宴にはあなたの入る余地があり、心からの歓迎も待っている。
みじめに見守るだけであってはならない。だが、もしあなたがそうするつもりだとしたら、私はあなたにこのことを語ろう。天国には、見守るだけの者はひとりもいない。すべての人は、その饗宴にあずかるか、そこにいないかである。そして、こう云い足すのは悲しいことだが、地獄にも、見守るだけの者はひとりもいない。あなたは復讐の裁定にあずかるか、さもなければ、あわれみの賜物にあずかるかである。それゆえ、ただ見守るのはやめるがいい。
「咎ある魂(たま)よ、逃れ来よ、
イェスの御傷へ 鳩のごと」。来て、不敬虔な者のため死なれたお方に、あなたの信頼を置くがいい。この方を信じる者はさばかれない[ヨハ3:18]。願わくは、あなたが今晩この方を信じるように! 私は、神が私を助けてあなたに語らせてくださったと感じている。弱っている私にとって、これは決してちょっとした話ではなかった。そして今、私は主が私に何人かの魂を与えてくださることを欲している。私は、この奉仕に対して報いられることを期待している。人が喜びと慰めをもって説教し、健康と体力に満ちているとき、その働きには大きな歓喜がある。だが今、今晩、1つの思想をつかんで、それを口に出すのが重労働であるとき、私は、私の賃金が別の形をとることを期待する。そして、私は家に帰って私の《主人》のもとに行き、云いたいと思う。「主よ。私の賃金を下さい!」 もし主が私に何を望むのかとお尋ねになるなら、私は主に申し上げるであろう。「主よ。私はあそこに座っている若者の魂をいただきたいと思います。また、心を吸い込まれるように話を聞いていた、あの天井桟敷席にいる老人の魂をいただきたいと思います。それから、あそこにいる五、六人の若い娘たちを」。私の信ずるところ、私がいったん私の主に嘆願し始めたなら、私はあなたがた全員を求めるだろうと思う。いずれにせよ、なぜ誰かを残しておく必要があるだろうか? 誰を残すべきだろうか? かつて私が、ベッドフォードのハワード氏の大きな鋤置場で説教していたとき(その鋤はみな片づけられて、大会衆が入れるようにされていたが)、氏の愛する老父は私とともに壇上に座っていた。そして私は、その日の午後、何人かの魂を私に与えてくださるよう主に祈った。僅かでも人々が回心するように願った。その礼拝式の後で、この善良な老聖徒は云った。「良い説教で嬉しく思いましたが、あなたの祈りは嬉しく思いませんでしたな。あなたが主に僅かでも魂を与えるよう主に願ったとき、わしは『アーメン』と云いませんでしたよ。愛する兄弟」、と彼は云った。「わしは、主が何百人も与えてくださるまで満足しないでしようよ。今晩の話をするときには」、と彼は云い足した。「何百人も回心するよう祈りなされ」。私は思った。自分よりも大きな信仰を持った兄弟がいるとは何と良いことだろう! さて、願わくは主が、あなたがたの中の、この善良な老ハワード氏のように大きな信仰を持っている人々にこう祈らせてくださるように。主が、今晩この場にいる、この船の乗組員全員を救ってくださるように、と。主の恵みに賛美と栄光が帰されるというのに、なぜ全員が導き入れられていけないわけがあるだろうか? 神がそれをかなえ給わんことを。イエス・キリストのゆえに! アーメン。
現代化された1つの古い質問[了]
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