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《即応》パウロ

NO. 2285

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1890年12月4日、木曜夜の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「私は、即座に応じたいのです」。――ロマ1:15 <英欽定訳>


 

 思うにパウロは、この言葉を自分の座右の銘としていたのかもしれない。わが国には、かつて《無策王》エセルレッドと呼ばれたサクソン王がいた[968?-1016]。ここに私たちが有しているのは、《即応》パウロとでも呼ぶべき使徒である。主イエスが天から、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」、と彼をお召しになるや否や、彼は「主よ。あなたはどなたですか」、と答えた。ほとんどその直後に、彼の発した問いは、「主よ。私はどうしたらよいのでしょうか」[使22:10]、であった。回心するや否や彼は、聖なる奉仕に即座に応ずる用意があったのである。そこで彼は、ダマスコの諸会堂で「ただちに……宣べ伝え始めた」[使9:20]。彼は、その全生涯を通じて、いかなる事態に臨んでも、常に即応する用意ができていた。町通りの群衆に向かって語らなくてはならない場合、彼は、ぴったりの言葉を用いることができた。あるいは、アレオパゴスで選良に語らなくてはならない場合に、哲学者たちに即応できた[使17:22-31]。パリサイ人たちを相手に語る場合、彼はいかにして彼らに語りかけるべきかを知っていた。また、サンヘドリンの前に引き出され、議場がパリサイ人とサドカイ人で構成されているのを見てとったとき、いかに彼らの間の嫉妬心を用いれば、自由になるのに役立つかを知っていた[使23:6]。ペリクスや、フェストや、アグリッパの前に立つ彼を見るがいい[使24-26]。彼は常に即応する用意があった。そして、彼がネロの前に立つことになったとき、神は彼とともにおられ、獅子の口から彼を救い出してくださった[IIテモ4:16-17]。船上にある場合も、彼は嵐の中で人々を慰めることに応じられた[使27:21-26]。また、難破した囚人として浜辺に着いたとき、彼は柴をたばねて、火を起こすことに即応できた[使28:3]。いかなる点においても、彼は万能の人であり、あらゆることに即応できる人であった。自分の《主人》が遣わす所どこにでも行き、自分の主が命ずることは何でも行なうことに応ずる用意があった。

 今のこのとき、パウロのこうした用意の良さについて語るにあたり、私は第一に、「私は、即座に応じたいのです」、と宣言することによって示唆された、パウロの心構えについて少し詳しく語りたいと思う。第二に、この心構えがこの上もなくすぐれた種々の原理から生じたものであることを示したいと思う。そして第三に、こうした用意の良さは、それが見いだされるところどこでも、賞賛に値する結果を生み出すことを指摘したいと思う。

 I. 第一に考えたいのは、「私は、即座に応じたいのです」、と云わしめた《パウロの心構え》である。私はあなたに、彼が自らの用意の良さを云い表わしている4つの箇所に注目してほしいと思う。まず本日の聖句である。ここで私たちは、その働きに対するパウロの用意の良さがわかる。「ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも福音を伝えることに、即座に応じたいのです」 <英欽定訳>。彼は福音をアジヤ[小アジヤ]の大部分で宣べ伝え、ヨーロッパに渡り、ギリシヤ全域でみことばを宣言してきた。そして、もし世界の首都[ローマ]に行くことのできる機会がありさえしたら、わが身にいかなる危険がふりかかろうとも、出かけて行く用意があった。イエスのためならどこへでも行き、福音を伝えるためならどこへでも行き、魂をかちとるためならどこへでも行き、神の民を慰めるためならどこへでも行くことに即座に応じようとしていた。「私は、即座に応じたいのです」。パウロが即座に出発に応じられないような場所は1つもなかった。彼はイスパニヤに行く用意があった[ロマ15:28]。そして、たとい彼が私たちのこの島に来なかったとしても――それは疑問のある点だが――、疑いもなく彼は、海の果てにある島々への旅、未知の国々や川々への旅に応じて、その《主人》の力あるみことばを携えて行く用意があった。果たして私たちは、パウロのように、イエスのためならどこへでも行く用意があるだろうか? それとも、私たちは自分の国でしかキリストのためには働けないと感じているだろうか? 米国だの、オーストラリアだの、どこかの異教国だのには行けないと感じているだろうか? おゝ、願わくは神が、私たちを常に爪先立ちにさせ、次の一歩を期待させてくださるように! 雲が動けば即座に自分も移動に応じ、雲が動かなければ、それと同じくらい自分の居場所にとどまることに応ずることができるように!

 もしパウロがローマに行ったとしたら、獅子の口に入ることになったであろう。だが彼は、それにも即座に応じようとしていた。獅子たちは彼にとって全く恐ろしくなかったからである。彼はエペソで獣と戦ったことがあった[Iコリ15:32]。霊において彼は何度となく獅子の口の中で死んだことがあった。自分のいのちなど少しも惜しいとは思わなかった[使20:24]。私が願うのは、私たちがあらゆる危険、あらゆる中傷、あらゆる無礼、あらゆる困窮、キリストが知られていない場所でキリストを宣べ伝える際に払わなくてはならないあらゆる犠牲に、即座に応ずる用意のある者となることである。使徒は福音を携えてどこに行くことにも即座に応ずる用意があった。だが、ほかの福音を宣べ伝えることには応じられなかった。いかなる者も、それに彼を応じさせることはできなかった。彼は、福音を隠すことには応じられず、それに手心を加えることには応じられず、その一部を省略したり、水増ししたりすることには応じられなかった。彼は云う。「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です」[ロマ1:16]。福音を宣べ伝えるという件にかけては、パウロはいつでも即座に応じようとしていた。その真理の1つをも、その教えのいかなる部分をも押し隠すことはしなかった。たといそれが自分に嘲りと軽蔑を招くことになろうと、また、それがユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚か[Iコリ1:23]であろうと、パウロはこう云うのだった。彼らすべてに対して、「私としては、福音を伝えることに、即座に応じたいのです」、と。彼は、必ずしも常に同じように、その働きにふさわしい状態にあると感じていたわけではない。必ずしも常に、同じような開放感、同じような言葉の自由さを見いだしていたわけではない。だが彼は、主が機会を与えてくださる所ならば、いつでも説教に応ずる用意があった。

 使徒21:13に目を向けてもらえば、あなたは第二のこととして、パウロが苦難にも即座に応ずる用意があったことが読みとれるであろう。彼は云っている。「私は、主イエスの御名のためなら、エルサレムで縛られることばかりでなく、死ぬことさえも覚悟しています」。これは先のことよりも偉大なことかもしれない。苦難に即座に応ずるのは、奉仕に即座に応ずるよりもたいへんなことである。私たちの中のある者らにとって、福音宣教に即座に応ずることは習い性のようになってしまっている。だが、ここには、主イエスの御名のためなら、苦しむことにも即座に応ずる用意があると云う人物がいたのである。その堅い覚悟は、だれにも翻意させることができなかった。彼が福音を宣べ伝えるのはいいだろう。だが、なぜエルサレムへ行かなくてはならないのか? 世界中が彼を待っていた。なぜ迫害の待ち受ける町へ行かなくてはならないのか? だれもが彼に、鎖につながれ、牢に入れられ、ことによると死ぬことになると云った。だが、彼はそれらすべてを一蹴した。「私は即座に応じます。私はその用意があります」。

 愛する方々。私たちは、鼻で笑われ、馬鹿だと思われ、古代の化石同然にみなされることに応ずる用意があるだろうか? あるかもしれない。私たちは、どうしてもそうしなくてはならないとしたら、キリストのために友人を失い、キリストのために白い目で見られることに応ずる用意があるだろうか? あるかもしれない。では私たちは、主のみこころであれば、家に帰ってから二階にかつぎあげられ、そこでこれから三箇月の間寝たきりになることに応ずる用意があるだろうか? 私たちは、こう云ったあわれな婦人のような覚悟ができているだろうか? 「主は私に云われました。『ベティー。家事に精を出し、子どもたちの世話をしなさい』。それで私はそうしました。まもなくして主は云われました。『ベティー。二階に行って、十二箇月の間、咳をしていなさい』。それをも私はすべきではないでしょうか? そして不平を云わないようにすべきではないでしょうか? それが私にできるすべてなのですから」、と。「私は、即座に応じたいのです」。あなたは、米国バプテスト宣教協会の紋章の上に何がついているか覚えているだろうか? 片方にあるのは鋤をつけた雄牛であり、もう片方にあるのは絞首索である。これは、そのどちらにも即座に応じられるというしるしである。奉仕することにも、苦しむことにも。人は、神のみこころが何を命じようと即座に応じられるようになるまで、最高度の用意の良さに達しているとは云えない。こうした見地によると、ごく普通に見受けられるのは、用意のできていない状態である。だが、それは、制圧されていない人間性を示している。それは、反逆心のなごりである。というのも、私たちが完全に聖化されているとき、あらゆる思いが神のこころに服従させられているとき、そこにあがる声は、「私の願うように」、ではなく、「あなたのみこころのように」、だからである[マタ26:39]。

 あゝ! 愛する方々。私があなたに微力ながらもこう語っている間、あなたが自分にこう云っていても不思議はないであろう。「これは、まだ私の及ぶところではない。私たちは、もっと多くの聖霊の教えを受けなければ、未知の苦しみや、孤独な苦しみや、何の役にも立たないように見える苦しみや、窓際に追いやられることや、神の家での聖なる奉仕を行なえなくなることや、かつては私たちがキリストのために行なうことができたささやかな働きができなくなることなどに応ずることはできない」、と。あなたは即応する用意があるだろうか? こう答えられるだろうか? 「できます。そうです、できます」、と。あなたがキリストに属しているならば、そうあるべきである。パウロはそのようにしていた。

 私がいま引用しなくてはならない三番目の箇所は、正確に同じ言葉遣いではないが、他の箇所と同じ意味である。それが告げてくれるところ、パウロは不愉快な働きにも即座に応ずる用意があった。残念ながら、神の多くのしもべたちは、この点に欠けていると思う。その箇所とは第二コリント10:6である。「また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです」。コリント教会は、非常に悲しい状態に沈み込んでいた。それは、だれも教役者がいない教会であった。牧会の務めは万人に開かれていた。そして、そうした類のしろものからいかなる害悪がもたらされるかはだれにも見当がつかないものである。パウロが彼らに勧めたのは、教役者がいれば彼らのために何ができるかを試してみることであった。彼はこう云っている。「兄弟たちよ。あなたがたに勧めます。ご承知のように、ステパナの家族は、アカヤの初穂であって、聖徒たちのために熱心に奉仕してくれました。あなたがたは、このような人たちに……服従しなさい」[Iコリ16:15]。彼らは、あまりにも豊かな賜物を有しており、だれもが語りたがっていた。教会がすべて口であったとしたら、からだはどうなるだろうか? もしそれがすべて口であったとしたら、それはただの真空であり、他の何物でもないであろう。そしてコリント教会はまさにそうなりかかっていた。戒規を執行する務めはだれも担っていなかった。だれもがそれを行なっていたからである。そして、周知のように、だれもが行なっていることには、だれも責任をとらないものである。それで、いかなる戒規も執行されておらず、この教会は、云わばシッチャカメッチャカの状態に陥っていた。これは、そうした教会統治の方法――無統治の方法というべきかもしれないが――に対する永遠の警告として聖書の中に屹立している。

 パウロは、こうした人々のもとに行ったときには、戒規を執行し、物事を正常化しようと決心した。彼は、コリントに剣を持って、あるいは何か肉的な武器を持って、あるいは何か不親切さや短気さを持って行こうとはしていなかった。むしろ、神のことばを持って行こうとしていた。彼はこう記している。「私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです」[IIコリ10:4]。そして彼は、コリントの信仰告白者たちのもとに行って、教会内に入り込んでいた異教的な悪徳という要塞を破るつもりであった。そうした悪徳がはびこっていたあまり、彼らの中のある者らは、主の食卓においてすら酔っ払っているほどであった[Iコリ11:21]。パウロは、キリストの御名に恥辱を与えているすべての者を率直に取り扱うつもりでいた。さて、愛する方々。私は特に、神が教職に、あるいは教会内の役職につけてくださった兄弟たちに語るものである。あなたは、こうした不愉快な義務に即座に応ずる用意があるだろうか? おゝ、私たちの中のある人々にとって、強硬なことを云うのは非常に大きな苦痛を伴う! ことによると、かんしゃくを起こすのでもない限り、全く云えないかもしれない。だが、そうするくらいなら、何も云わない方がましである。断固とした言葉遣いをしながら、それを口調に甘やかさを結びつけるのは簡単なことではない。友人たちに祝いを述べることは簡単であり、彼らを十把一絡げに非難することも難しくはない。だが、過ちを犯しているひとりひとりの人に個人的に、かつ忠実に語りかけ、その件について自分が責任を有する限りは、陣営の中のひとりのアカンも大目に見ず、神の家の中で承知の上で悪が行なわれるのを許しはすまいと自分の魂の中で決意することは、また別の話である。私たちは、神が私たちを監督にお立てになっておられる以上、悪である物事を看過せず、むしろ私たちの責任にゆだねられているあらゆる事がらを監督し、間違いは何であれ正すよう、真剣に努力すべきである。

 これは、一般信徒であるあなたがた、教会員の人々にもあてはまらないだろうか。時としてあなたには、罪を叱責することが難しく思われないだろうか? 神の御名を汚す悪態が、多くのキリスト者の注意にとまるときすら、彼らから何の叱責の言葉も受けることがないであろう。彼らは、自分たちが口をつぐんでいることが最善であると思ったのだと云う。自分にとって一番楽なことだと思ったという意味であろう。時として、よく知られた邪悪なことが、キリスト者の目に入ることがあるが、彼らは云い訳をして、こう云う。「私たちは他人に干渉したくなかったのです」、と。「たぶん彼らは優しすぎたのだ」、とあなたは云う。だが私の考えでは、怠け者すぎたのである。自分を後生大事に守ろうとすることに、汲々としすぎていたのである。人生を波乱なく生きることに一所懸命で、イエス・キリストのりっぱな兵士として、苦しみをともにする[IIテモ2:3]ことを望まなかったのである。あなたは、パウロがそうであったように、罪に対する聖なる憤りを外にあらわし、愛情をもって優しく、だが断固として、主の御名によって、悪が叱責を受けずにすまされないようにするだろうか? もしだれかがこのようなことをする羽目になるとしたら、私もその人がうらやましいと云いはしない。だが、私はそのようにしているところを見いだされたいと願う。それで、主が来られるときには、この世代の悪のいかなるものの責めも私には負わされないでほしいと思う。主が来られるとき、また、ご自分の教会がなまぬるく、信仰がなく、世俗性やありとあらゆる種類の異端によってまぜ物をされているのを見いだされるとき、私は願う。主が、不忠実な牧師たちに指を突きつけて、私たちのいかなる者についてもこう云わざるをえないようなことがないように、と。「お前こそは、この悲しい事態に責任のある人間だ」、と。おゝ、願わくは神が私たちを、私たちに負わされているいかなることについても、即座に応じられる者としてくださるように。その務めがいかに不愉快で、私たちの思いや感情をいかに逆なでするものであっても、願わくは私たちが、主のみわざに即座に応じられる者となるように。忠実に、最後まで!

 さて、もう一度、第二テモテ4:6に目を向けてもらえるだろうか? そこには、だれもがよく知っている節がある。「私は今や注ぎの供え物となることに応じます。私が世を去る時はすでに来ました」 <英欽定訳>。パウロは死に応ずる用意があった。彼は自分のもやい綱を地上から解き放し、ほむべき者たちの停泊地への船出へと即座に応ずる用意があった。また、彼はそうできて当然であった。というのも、彼はこう云い足しているからである。「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです」[IIテモ4:7-8]。愛する方々。私たちが死に応じられるようになるには、いかに生きるべきかを教えられなくてはならない。私たち――活発に過ごし、用いるべき才能があり、そうした才能を用いることのできる健康と力を有する者たち――も、この「世における最大の戦闘」を、「私は勇敢に戦いました」、と云えるまで続けなくてはならない。私たちはキリスト者としての競走を、「私は、走るべき道のりを走り終えました」、と云えるまで、走り続けなくてはならない。私たちは神のことばを守り、神の真理を堅く保つことを、「私は、信仰を守り通しました」、と云えるまで、やり通さなくてはならない。もし不忠実にしてきたとしたら、横たわって死に臨むのはつらい務めであろう。神の無限のあわれみが介入し、私たちを赦して、助けてくれるであろう。また私たちは、「火の中をくぐるようにして助か」るであろう[Iコリ3:15]。だが、もし私たちが、何の脅えも恐れもなしに、むしろ今晩、自分の寝床につく用意があるのと同じくらい完全に死に応ずる用意がある者となりたければ、私たちは神の全能の恵みによって神に忠実な者として保たれなくてはならない。信仰が私たちを保たなくてはならない。そうすれば、私たちは信仰を保つに違いない。

 このようにして、見ての通りパウロは、即座に奉仕に応じ、苦難に応じ、不愉快な義務に応じ、死に応ずる用意があった。もし私がこのタバナクル中を巡り歩いて、ひとりひとりに、「あなたは、この4つのことに即座に応ずる用意がありますか?」、と尋ねるとしたら、あなたがたの中の何人が、「あります」、と答えられるだろうか? 残念ながら、多くの人々は首を振り、こう云わざるをえないのではないかと思う。「私には何と答えてよいかわかりません。私は、それなりのしかたで最善を尽くしています。ですが私は、自分が使徒の主張したように即座に応ずる用意があると云うことはできません」、と。

 II. さて、ここからあなたに示したいのは、《パウロの用意の良さは、この上もなくすぐれた原理から生じていた》ということである。これが私たちの第二の点である。

 宣教に対するパウロの用意の良さについては、私はその起源を、福音の真理に対する彼の厳粛な確信に尋ねるべきである。もしある人が福音は真理であると思っているだけだとしたら、その人がそれを宣べ伝えようと宣べ伝えまいと、どうでもよいであろう。だが、もしその人が福音は真理であると知っているとしたら、それを宣べ伝えざるをえない。最近、指摘する必要のある過ちは、決して人々が、神の真理について自信過剰で独断的にすぎるということではないと思う。現在の潮流は全く別の方向に流れている。ほとんど不信仰と取り違えられかねないような虚弱な信仰が、そこら中にあふれている。こういうわけで、即座に口を開いて語る用意の良さは見当たらない。パウロはコリント人への手紙でこう云っている。「『私は信じた。それゆえに語った。』と書いてあるとおり……私たちも、信じているゆえに語るのです」[IIコリ4:13]。もし私が何かをつかんでおり、それが真実であると知っているとしたら、私はそれを他の人々に告げなくてはならない。キリストを宣べ伝えることの背骨は、キリストの真理に対する確信である。

 パウロは、この件において決してひるむことのない勇気も有していた。「福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います!」[Iコリ9:16] 福音を宣べ伝えた場合、自分に何がふりかかるにせよ、彼はその代価を計算しており、自分の行動のあらゆる結果に完全に応ずる用意があった。彼には聖なる自己否定があった。それで、自分自身のことは二の次であった。「私は、何物にも即座に応ずる用意がある。私は、この福音を宣べ伝えることに即座に応じたい。たとい石で打たれても、死んだものとして町から放り出されても、投獄されても、ローマのカエサルの巣に送り込まれても」。パウロは即座に応ずる用意があった。なぜなら、彼の勇気は神から彼に与えられていたからである。

 パウロがローマで福音を宣べ伝えることに即座に応ずることができたのは、彼が、からみつくすべての掛かり合いから自由にされていたからである。あなたは、彼が自分の子テモテへの手紙で、それをいかに云い表わしたかを知っている。「兵役についていながら、日常生活のことに掛かり合っている者はだれもありません。それは徴募した者を喜ばせるためです」[IIテモ2:4]。私たちの中のある者らは、あまりにも縛り上げられ、からみつかれているため、神への奉仕に即座に応ずることができなくなっている。なぜなら、私たちはみな、多くの世俗の務めによってがんじがらめにされすぎているからである。愛する方々。あなたがた、キリストのしもべたち。あなたにからみつくあらゆるものから、できる限り遠ざかっているようにするがいい。あなたは生活の糧を稼がなくてはならない。だが、それを稼ぐ間も神に仕えるがいい。たといあなたが金持ちになる機会を見てとったとしても、そうするためにはキリストのみわざを行なえなくなったり、平日の諸集会に出られなくなったりといった類のことがあるならば、そのようにして動きがとれないようにされてはならない。女王陛下は、その兵士のひとりが農作業に心を傾け、自分は干し草の収穫があるので戦闘に行けませんとか、麦刈りがあるので行けませんとか云い送ってくるなどと期待してはおられまい。兵士は、召集されればいつでも来なくてはならない。そして、幸いなのは、自分の《王》であり《指揮官》であるお方から召されたときにはいつでもやって来ることのできる、イエス・キリストの立派な兵士である。サー・コリン・キャンベルは、インドに出動してほしいと告げられたとき、「準備が整うまでにどのくらいかかりますか? サー・コリン」、と尋ねられた。彼は答えた。「二十四時間です」。そして、二十四時間のうちに、彼は出発する準備ができていた。あるモラヴィア派の信徒が、ツィンツェンドルフによって、グリーンランド宣教のため派遣されることになった。彼はグリーンランドのことなど聞いたこともなかった。だが、自分の指導者が彼を呼び、こう云ったのである。「兄弟。君はグリーンランドに行くかね?」 彼は答えた。「はい、閣下」。「いつ行くね?」 「私の長靴が靴直しから届きましたら」。そして彼は、その長靴が届くや否や出立した。彼は、一足の長靴のほか何も欲さず、即座に出発に応ずることができたのである。パウロは、靴直しから自分の長靴が届くのを待つことさえせずに、こう云った。「私は、即座に応じたいのです」、と。おゝ、神が行かせようとする所ならどこにでも行くことができ、それも、すぐに行くことができるほど物事にからみつかれていない人を見いだすのは至難の業である。

 それに加えてパウロには、人々に対する途方もない愛があり、ユダヤ人であれ、ローマ人であれ、他のいかなる民族であれ、彼らを救うためとあらばどこへでも行くことに即座に応ずる用意があった。また彼は、神に対する途方もない情熱も有しており、もしキリストがまだ知られていない所でキリストを宣べ伝られるとあらば、いかに遠い地域へ行くと考えることも幸いと思えるほどであった。彼は他人の土台の上に建てず[ロマ15:20]、自分でその建物の最初の石を置こうとしていた。それで、これこそ、彼が宣教のわざに即座に応じられた理由であった。自分が宣べ伝えなくてはならない真理と、それを宣べ伝えるべき必要とに対する聖なる確信がそれであった。

 しかし、何がパウロを助けて、苦難にも応じられるようにさせていたのだろうか? この場にいるある方々も、宣教師として召されることは全くなくとも、イエス・キリストのために苦しみを受けなくてはならないことがあるであろう。よろしい。愛する方々。私がまず云いたいのは、パウロは完全に主に自分をささげていた、ということである。彼は、もはや自分自身のものではなく、代価を払って買い取られた者であった[Iコリ6:19-20]。このことによって彼は、《主人》がお望みになるなら何でも自分に対して行なってよいはずだと感じさせられていた。彼はキリストに属し、キリストの焼き印を身に帯びた奴隷であり[ガラ6:17]、絶対的にキリストの意のままになる者であった。彼はその主を途方もなく信頼していたので、こう感じていた。「主が私に何をなさろうと、それは良いこと、親切なことであり、それゆえ私は何の条件も設けない。何の留保も付けない。これは主のなさることであり、主がよしと見られることをなさってかまわない」、と。彼は自分の主に仕える決意をしていた。それゆえ、たとい鎖につながれることになろうと、死ぬことになろうと、尻込みしようとはしなかった。彼は、私たちが時々歌うこの歌詞を歌うことができたであろう。だが彼は、それを私たちよりも上手に実行することができた。――「火水(ひみず)越ゆとも イェスみちびかば、われ従わん、主の行く方向(かた)へ」、と。全心を傾けた献身、子どものような信頼、深く根ざした服従、こうしたものによって私たちは、いかなるものであれ苦難に即座に応じられるようになるであろう。

 しかし、いかにしてパウロは、戒規の執行に即座に応じられるよう自分を奮い立たせていたのだろうか? これは、私にとって、何にもまして不快な点である。いかにして彼は、そのようなことを行なう用意ができていたのだろうか? 私が思うにこれは、彼がその福音を人間から受け取ったのでも、人間によって受け取ったのでもなかったからである[ガラ1:11]。また、彼は人間に依存しないこと、自分のいのちを守ろうとして人間からの承認を求めないことを学びとっていた。彼は《救い主》によりかかることができ、自分の主だけをともにして歩むことができた。キリストが自分の側におられる限り、彼は他のだれも欲さなかった。パウロは神を恐れることを学んでいた。それは人への恐れを打ち捨てさせるものであった。「あなたは、何者なのか。死ななければならない人間や、草にも等しい人の子を恐れるとは。……あなたを造った主を、あなたは忘れ……ている」[イザ51:12]。人のことを思い出せば神を忘れることになる。もし私たちが非常に平易な、だが非常に愛のこもった物云いをするようになり、かつあらゆるキリスト者に対して、また不敬虔な人々に対してさえ率直さを保つことに努めるならば、また、だれにもはばからずに真実を語ろうとしているならば、それは周囲のすべての人々にとって何とよいことであろう! 願わくは聖霊が、私たちのうちに神を恐れる心を深めてくださり、人への恐れを取り去ってくださるように! そのとき、私たちひとりひとりは、パウロとともに、いかに不愉快な義務に関することであれ、「私は、即座に応じたいのです」、と云う用意ができるであろう。

 しかし、いかにして彼は、自分が死ぬことにも即座に応じられると云えるようになったのだろうか? 私はこのことを詳しく語りはすまい。すでに語ったように、彼に死ぬ覚悟ができていたのは、自分に関する限り、彼は神から与えられた務めをなし終えており、信仰を守り通したからである。あゝ、愛する方々。神に対して真実を貫くのでない限り、決してあなたは死を友のように扱うことはできない! 義務において1つ怠慢であるだけで、あなたから慰めを奪い取るに十分である。旅人が歩いているとき、ごく小さな石ころが靴の中に入っただけでも、うまく歩けなくなるであろう。そして、神がそのしもべたちに求めておられる誠実さにほんの少し背くだけで、私たちには大きな害悪がもたらされるであろう。あなたは、ギデオンの生涯で、このことに気づいたことがあるだろうか? 彼には七十人の息子が嫡子としてあり、もうひとり遊女の子がいたが、そのアビメレクこそ父親の七十人の息子たちを殺したのである[士9:5]。それと同じく、ある善良な人に七十の美徳があったとしても、もし何か1つ欠点を大目に見ているとしたら、それだけでこの人生のあらゆる良きものの慰めをその人から奪い去るに十分であり、死を迎えたその人は、よたよたと、よろめき進むことになるであろう。左様。そして、その全生涯を通じてその人は、ダビデがそうしたように、墓に至るまで、ぎくしゃくした歩みをしていくであろう。願わくは主が、あわれみと愛によって私たちを正しく保ってくださるように! もし主が私たちにいかに生きるべきかを教えてくださるならば、私たちはいかに死ぬべきかも知ることになるであろう。

 本当に難しいのは死ぬことではなく、生きることである。もし私たちが信仰の戦いを勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通すように助けられさえしたら、私たちは十分に正しい死に方ができるであろう。ウェスレー氏に向かって、かの善良な婦人はこう問いかけた。「先生は、死ぬことをお考えになるとき、時には畏れをお感じになりますの?」 「いいえ」、と彼は答えた。「たとい私が明日の晩死ぬことになると確実に知っていたとしても、私は自分がいましようとしているのと全く同じようにすることでしょう。私は今日の午後と夜には(たしか)グロスターへ説教しに行き、友人の誰それのところに泊まるでしょう。私は十時まで彼と起きていて、それから寝床につくでしょう。そして私は五時に起き出して、テュークスベリーまで馬に乗って行くでしょう。そして、そこで説教し、その後、夜には友人の何某のところへ行くでしょう。それから私は十時に寝床につくでしょうし、それから生きていようがそうでなかろうが、私にとっては全くどうでもよいことです。というのも、もし死ぬとしたら、私は栄光の中で目を覚ますからです。それこそ私が、生きるにしても死ぬにしても、しようとすることです」、と。ホイットフィールド氏について云われていることだが、彼は夜寝床につくとき、手袋1つさえ決して所定の場所から外れた所に置いておかなかったという。自らよく云っていたように、彼は自分が取り去られたなら、何もかも準備が整っているようにしておきたかったのである。私には目に見えるようである。この善良な人が、その生涯最後の晩に、寝室用の蝋燭を手に持って、階段の最上段に立ち、その階段に座っている人々に向かってキリストを宣べ伝えている姿が。それから彼は部屋の中に入り、自分を神にゆだね、そのまま天国へと旅だったのである。これこそ見事な死にかたである。だが、もしもあなたがウェスレーやホイットフィールドが生きたように生きていないとしたら、ウェスレーやホイットフィールドが死んだように死ぬことはできない。願わくは神が私たちに、私たちの出立が間近に迫るときには完全にそれに応ずることのできる恵みを与えてくださるように!

 III. さて、しめくくりに私が云いたいことは、《この用意の良さは賞賛すべき結果を生み出す》ということである。

 第一に、それは驚かされることから守られる。不意をつかれることは常に悪いことである。主に対して生きている人は悪い知らせを恐れない。主に信頼して、その心がゆるがないからである[詩112:7]。もしあなたが完全に神のみこころに服従しているとしたら、今晩あなたが家の敷居をまたいだとたんに、あなたの子どもが死んだと聞かされても、あなたの親友が重病に倒れたと聞かされても、あなたはこう云うであろう。「よろしい。私は膝をかがめてそれに服そう。私は子どもたちをもうけたとき、彼らが不死身だとは考えなかった。彼らがいつかは死ぬと知っていた。それで私は、彼らに何がふりかかってもそれに即座に応じられる用意をしてきた」、と。おゝ、兄弟たち。私たちは、服従しておらず、聖められておらず、神のみこころに完全にゆだねていないがためにこそ、ひっきりなしに足元をすくわれ、周章狼狽させられるのである! 願わくは主が、あらゆる緊急事態に即座に応じられる恵みを私たちに与えてくださるように。

 また、ある人に即応できる用意がある場合、それは時間と機会の損失を防ぐ。多くの狩猟家が獲物の鳥を逃がすのは、狙いをつける用意ができていなかったためである。多くの釣り人がその魚を逃がすのは、自分の釣竿をつかんで釣糸を流れに垂らす用意ができていなかったためである。多くの説教者が、疑いもなく、的を外しているのは、キリストについての言葉を云えるときに、それを云う用意ができていないためである。あなたはしばしば家に帰って、自分に向かってこう云ったことがないだろうか? 「今にして思えば、自分が何と云えばよかったのかわかる。あの人がある意見を述べたとのに、そのときはそれに何と答えればよいのかわからなかった。いま自分が何と云うべきであったかがわかった」、と。取り返しがつかなくなってから知恵を得るのは良いことである。だが、それよりもはるかにまさっているのは、私たちが神に仕え、自分を常に即応できる者としてくださるよう願うこと、いかなる場所でも、いついかる時にも、機会がありさえすれば常に、神のために語ることに即座に応じられるようにしてくださいと願うことである。

 用意の良さはまた、あらゆる好機を役立てるように私たちを助けてくれる。何らかの好機が起こるとき常に即応できる人は、その最初の部分をつかむだけでなく、残りの部分をすべてつかむ。その人は、物事全体が進展するのに対処する用意ができている。常に自分の《主人》の務めを行なっている人は、それをいかにして上手に行なうかを会得しているが、時々しか行なっていない人は、他のことにかまけすぎて、自分の技術を忘れかけた不良職人のようなものである。神が私たちをみな、常に即応できる者にしていてくださるように。願わくはあなたが、今晩、家に帰る途中で、だれかに一言有益な言葉を語り、あなたが家に着いたときには、あなたの家庭の中で神に仕えることに即座に応ずる者となっているように!

 即応できることは従順に花を添え、それを最上の形で神にささげることである。あるとき、ある日曜学校の子どもたちが、天でみこころがなるごとく、地でもなさせたまえとは、どういう意味か尋ねられた。そのとき、その子たちは、非常に素敵な答えを返した。ある子は云った。「みんな天国では、神様のみこころをいつも行ないます」。もうひとりの子は云った。「みんな神様のみこころを喜んで行ないます」。だが、別の子がこう云った。「先生、先生。みんな神様のみこころをすぐに行ないます」。まさにその通りである。それこそ、天国で事がなされているしかたである。すぐに。願わくは私たちの心の状態が、主のみこころをすぐに行なう用意のできたものであるように!

 この用意の良さによって、私たちの服従は増し加えられる。つまり、行為の1つ1つが増加するのである。というのも、正しいことを行なうことに常に応じようとしている人は、神の御前では、すでにそれがなされたこととされているからである。主は、それをなされたものと受け入れておられる。そして、それから、もしその人がなおも即座に応じようとし続けている場合、その人は、いわばそれをもう一度行なうのである。そして、それが実際になされたときにも、その人は、なおもそれを再び行なうことに即座に応じようとしている。もしその行為がたった1つであっても、神の目には、そこには、そのことの回りに、おびただしい数の従順な行為があふれ返っているのである。

 即座に応じられること、特に死に応じられることは、死に対するあらゆる恐怖を取り除く。私は、私たちがみな、このように歌った女性のように歌えたらと願っている。眠っている間に死んだ彼女は、その枕元に、一枚の紙にかきつけたこのような詩を残していたのである。――

   「イエス、わがものなれば、われ恐れず脱がん、
    否、喜び捨てん、この土の衣をば。
    主にありて死ぬは 契約の祝福。
    イエスゆえに栄光あり。死が先達なれど」。

もし私たちに、パウロのように即座に応ずる用意があるとしたら、あらゆる死への恐れは私たちから失せ去るであろう。そして、私が思うに、もし私たちが奉仕に応じ、苦難に応じ、死に応ずることが即座にできるとしたら、それは一千もの災厄を取り去るであろう。そちら側にいる親愛なる姉妹よ。私はあなたに1つのことを告げたいと思う。もしあなたが、主のわざと主のみこころに即座に応じられるようになるとしたら、あなたは今のように、しょっちゅう立ち止まることに応じてばかりはいなくなるであろう。また、今にも滅びる用意があるという方々。あなたは、もしキリストに信頼し、苦難にも、《主人》のみこころを行なうことにも即座に応ずる用意ができるようになるなら、そのような悲しい種類の用意の良さから脱することであろう。主には即座に赦免を与える用意がおありになる。願わくは私たちが即座に信仰に応じ、すぐさま主のもとに行き、イエス・キリストによる救いを受け入れ、そうして後、人生の残りの間ずっと、私たちの救いのこの偉大な《指揮官》に向かって、さながら腕利きの水夫たちがその船長の召集に答えるかのように、こう云えるようになるように。「用意あり、アイ、用意あり! 嵐にも凪にも用意あり。あなたが何をお命じになろうと用意あり。あなたが何をお命じになるまいと用意あり!」 愛する方々。主があなたがたを祝福し、あなたがたすべてにこうした用意の良さを与えてくださるように。キリストのゆえに! アーメン。

《即応》パウロ[了]

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