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「雨の後に照る光」

NO. 2284

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1892年11月27日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1890年7月20日、主日夜


「雨の後に、地の若草を照らすようだ」。――IIサム23:4


 これは国にとって何たる祝福であろうか。特定の季節に、雨の後で光が照るとは! 状況によっては、日光のほか何も、刈り入れ間近な収穫を救えないことがあろう。そして、農業関係者が、そして実際、私たちすべてが大損害をこうむらないためには、必要なときに日光がなくてはならないであろう。私たちは決して主に祈ることを怠ってはならない。主だけが、雨の後で照る光を自然界に与えることがおできになるのである。

 しかしながら、本日の聖句にはそれよりも高い意味がある。この言葉は、適任で、真実で、賢明な支配者についてダビデが描写した後で発されている。あらゆる支配者が、支配するのにふさわしいとは限らなかった。実際、ダビデの時代にも、また、現代のほとんどの東洋諸国においても、王や、スルタンや、皇帝や、シャーたちが支配してきたのは、みな自分のためだった。彼らの1つの大きな務めは、人民からゆすり取れるだけの税をゆすり取り、なるべく僅かなものしか彼らに報いないことであった。羊の毛を刈ることは、東洋の羊飼いの大きな務めだが、羊に食物を与えることは彼らの頭に入らないように見受けられる。しかし、ダビデは云う。支配者たちが賢く、正しく、廉直なときには、彼らの国は繁栄した、と。良い支配者は、――特に王座に着くときに万事を掌握する東方においては、――「雲一つない朝の光のよう」であり、彼の回りにいる人民は、激しい雨の後で、太陽が朗らかな光箭とともに顔をのぞかせ、大地を暖める時期の若草のように青々と育つ。愛する方々。私たちは、独裁統治がいかなるものか知らないことを感謝して良い。というのも、時たま良いものになりえるとはいえ、それは耐えがたいほどの悪政となりえるからである。他の国は好き勝手な主人を持っても良いが、私たちは自由でいよう。また、私たち自身の主人たちを安定させておこう。私たちに微笑みかけてこられた恵み深い神の摂理のおかげで、私たちが今もそうある通りに。

 こうした善王の支配についてダビデが述べた美しい比喩を、私は、第一にその前後関係から取り出し、それを別の目的のために眺めることにしよう。そして、それから再びその前後関係の中に戻し、ダビデが用いたように、ただし、より高い意味において、それを用いることにしよう。彼が描いている美しい絵画は、1つの組合せによって作り出されている。まずは雨、次いで、雨の後に照る光である。そして、最も生き生きと成長する霊性の状態を生み出すのも、同じこの2つの原因なのである。雨と日光という組合せの結果として生じるのである。私たちは、雨ばかりで何の日光もなければ、決して最高の霊的状態には上らない。また、私たちの好みにはかなうかもしれないが、日光しかなく全く雨がなければ、決して最も充実した果実を結ぶようにはならない。神は、あるものを別のものと――雲と嵐の暗い日を、陽光の照る穏やかで暖かい日と――向かい合わせになさる。そして、この2つの影響力が魂の中でともに働くとき、自然界においてと同様、それらは最も豊かな肥沃さを、また、心と生き方における最高の状態を作り出すのである。

 私はこの聖句を四つのしかたで用いようと思う。まず第一に、この「雨の後に照る光」<英欽定訳> が、回心者の心の中でいかに明らかに現われるかを示したい。第二のこととして指摘したいのは、この「雨の後に照る光」がいかにしばしば、信仰者の魂の中にあるものに最高の状態をもたらすかということである。第三に証明したいのは、この聖句が、みことばを伝える奉仕において、1つの非常に幸いな組合せを作り出しているということである。そして、しめくくりとして語りたいのは、来たるべき時代における「雨の後に照る光」についてである。

 I. まず最初に示したいのは、この「雨の後に照る光」がいかに《回心者の心の中で》明らかに現わされるか、ということである。

 ある人が真に回心するとき、それがどのようにして明らかに現わされるか、あなたは知っているだろうか? 回心は、すべてが同じようには起こらない。それぞれの間には、非常に大きな違いがある。あるものは非常に明確であり、その人がいつ回心したかは何時何分まで告げることができる。他の回心は非常にあいまいであり、それ以前の長大な準備過程があり、その人がいつ神に立ち返ったか正確に云うことはできない。もしあなたが明日の朝起きて、暦を見ずに東の方を向き、いつ太陽が昇ったかを鉛筆で書き留めようとしたら、十中八九、その任務を正しくやり遂げることはないだろうと思う。極端なほど晴れ渡った明るい朝であれば、日輪の端が地平線の上に現われた時間が秒単位で分かるかもしれない。だが、近頃、晴朗な明るい日はめったにない。最近では、太陽を見ることもあまりない。そして、おそらくあなたは、自分が鉛筆の記入をするより先に太陽が昇っていることに気づくであろう。ほぼ間違いなく、自分の知らないうちに太陽が昇っていたことが分かることであろう。天来の恵みの働きも、しばしばそれと同じである。ある人々は神の光を受けていても、その光がいつ自分のもとにやって来たかは分からない。自分はいつ回心したか分からないのだから、回心してはいないのだ、などとは、いかなる人も決して想像してはならない。さもないと、あなたは、ある老婦人に私がこう云った場合と同じくらい愚か者となるであろう。「いま、おいくつですか?」 「八十かそこらへんになります」。「ですが、お誕生日はいつですか? ご自分のお誕生日を覚えていないのですか?」 「はい、先生。覚えていないんですよ」。かりに私が彼女にこう云ったらどうなるであろう。自分の誕生日が分かっていないからには、あなたは生きていませんね、と。私は途方もない愚か者となるであろう。では、あなたが自分に向かってこう云ったとする。「魂よ。お前は一度も新しく生まれたことはないのだ。なぜなら、お前はその出来事がいつ起こったか知らないのだから」。あなたも、やはり非常な愚か者となるであろう。もしもあなたが、「ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです」[ヨハ9:25]、と云えるとしたら、それで満足し、感謝するがいい。その偉大な奇蹟がいつ行なわれたか、あなたに分からなくとも関係ない。このように、回心はみな同じようではないのである。

 それでも、大抵の場合、恵みの働きは心の中において、陰鬱な時とともに始まる。雲が寄り集まる。至る所でじめじめとしてくる。魂は疑い、恐れ、怯えが一杯にしみこんでいるかに思われる。何かが来ようとしているが、魂はそれが何かを知らない。魂は、自分が非常に罪深い者であること、神がお送りになるだろういかなる罰にも値していることを感じる。ことによると、あなたがたの中のある人々は、今しも、こうした経験の段階をくぐり抜けつつあるかもしれない。あなたは、以前よりも悲しい気分をしているが、日増しに一層悲しくなっていく。だがしかし、それがなぜか全く分からない。あなたは劇場に行くのを常としていて、それを楽しんでいた。だが、先日行ってみると、それはあなたにとって非常に物憂いものに思われ、実際に物憂いものである。快活な仲間たちの所に出かけた。かつてなら非常に陽気になることができた場所である。だが、あなたは全く意気が上がらず、彼らの陽気さに加わることができなかった。家に帰るとせいせいした。あなたを何かが悩ませている。何かが悩ませている。しかり。雲があなたの頭の上に群がりつつある。それこそ、神が救い、祝福しようとしておられる魂の中で、恵みが普通、働き始めるしかたである。

 雲の後で、次のこととして雨が降る。神の御霊の真の働きは、しばしば、内なる霊の抑鬱に続いて起こる。今やあなたは本当に罪について後悔し始める。今やあなたは、過去を悔やんでいる。今やあなたは、ため息をつき、キリストを求めて叫び始める。キリストを知りたいと願う。キリストを愛したいと願う。涙がしたたり始める。あるいは、現実にあなたの目から流れ落ちなくとも、内側では泣いている。あなたの魂は、深い悔恨と、罪への憎悪と、神の怒りへの怯えと、必ず来る御怒りへの恐れ、そして、永遠のいのちをつかみたいという願いでじっとりと濡れつつある。さて、この雨季――このほむべき雨季――がやって来ては、あなたの心を柔らかくした。もし私たちが夏の間、すなわち、太陽が焼けつく炎熱に輝いているときに畑に水を撒くとしたら、それはほとんど何の役にも立たないであろう。私のアイルランド人の友人がかつてこう云ったことがある。彼が慎重に注目してきたところ、太陽が照っている間は雨が降ったことがなく、雨が降るときには常に、日光を寄せつけない何らかの雲があるのだというのである。この友人が云ったことには大きな真理がある。雨は、あらゆる周辺地域がそれを受け入れるのにふさわしいとき、大地にとって二倍も尊いものとなる。あらゆる環境が湿り気を帯びるようになる。だが、もしすべてが乾いていて暖かなときに雨が降るようなことがあると、そこからは害悪が生じかねない。よろしい。さて、神の聖霊は、やって来て、人のうちに好適な環境、聖なる柔らかさを作り出し、敬虔に心が打ち砕かれるようにすることを愛される。そして、雲とともに御霊は天的な雨をもたらされる。

 雨の後には何が来るだろうか? そのときには、太陽が輝く。「雨の後に照る光」である。私は、何か全く硬直的なしかたで、人が神に回心する様子を述べているのではない。先に告げたように、人によって経験は違うからである。しかし、一般的に、聖霊の柔らかくし、染み込ませる種々の影響力が人のもとにやって来た後には、雲が去り、雨がやみ、明るく照る光がやって来る。太陽が輝き出すのである。その人は自分が罪人であると悟るが、キリストはその人を救うためにやって来られたことも悟る。自分自身のどす黒さを見てとるが、キリストが自分を雪よりも白くできると信じる。自分自身の度重なる反逆を嘆くが、自分が和解させられた子どもとされること、また、神聖な家族に認め入れられることを喜ぶ。さて、その人を見るがいい。その顔は明るさに満ちている。まるで踊りたがっているように見える。それほど幸せなのである。その人のもろもろの罪は洗い去られている。その人はイエスを信じており、キリストの完成したみわざにより頼んでおり、今や五月の小鳥たちのように陽気である。その人は朗らかにこう叫ぶ。「私はいつも歌っていたい気分です」。というのも、その人は雨の後に照る光を享受しているからである。私は、今晩この場にいる人々の中で、この雨の時期を通り抜けつつあるすべての人を励ましたいと思う。嘘ではない。それは永遠には続かない。あなたはこれから、こう云うことになる。「ほら、冬は過ぎ去り、大雨も通り過ぎて行った。地には花が咲き乱れ、歌の季節がやって来た」[雅2:11-12]。もしあなたが今すぐキリストのもとに行くならば、それはなおさら早くあなたを訪れるであろう。あなたのために十字架上に掲げ上げられているキリストを仰ぎ見るがいい。そうすれば、今あなたは救われるであろう。願わくは神が、あなたを今すぐそうさせてくださるように!

 よろしい。さて、この後に何が起こるだろうか? 私たちは、雨の後に照る光までは至った。この後に何が続くだろうか? 何と! それから一切のものが育つのである。霧と熱がともにあるときには、若草が確実に生えてくる。そして、ある魂も、自らがキリストを必要としていることを感じて、ついにその御顔の光を眺めるとき、それは成長を始める。私が嬉しく思うのは、若い回心者たちがその新しく生まれた信仰の清新さに満ちている姿である。彼らは、自分たちの言葉遣いを他の人々から借りて来ているのではない。私は彼らの熱心を見ると嬉しく思う。彼らは、私たち年長の者たちの中のある者らほどは思慮深くない。見ると、あれをして、これをして、それから、また別の良いことをしている。それで思慮深い人々は彼らに、それほどたくさんのことをしないようにと云う。私の愛する若者たち。彼らの云うことを聞いてはならない! 多くの年長の聖徒たちは、若いキリスト者がより多くのことをキリストのために行なうのを引き留めようとするときに、悪魔の代弁者となってきた。私には、私が主のために働きを始めたとき、特に、説教を始めたとき、多くの親切な友人たちがいた。そして、この親切な友人たちは、無尽蔵の水を私に供しては、私に水を差すのだった。彼らは、私が私の《主人》への奉仕において、あまりにも熱くなりすぎることを心配し、それで常に私の意気込みに水を差そうとしていた。私が思うに、サタンは、若い回心者たちの情熱を抑えつけたいと思うとき、悪人たちの中よりも、善人たちの中の方にずっと有能なしもべたちを見いだすことがある。兄弟たち。若い回心者たちを育たせるがいい。彼らには、熱心に神に仕えさせるがいい。彼らは神のため、どれほどのことを行なっても十分ではない。彼らを激烈な熱心で燃やさせるがいい。世には熱を冷まさせようとする者らがたくさんいる。願わくは私たちの若い友人たちが、そうした冷え冷えとした影響に抵抗し、なおも熱心な力と霊的な強さに満ちあふれていられるように。彼らの《救い主》への奉仕のために!

 さてこれが、ひとりの回心者の普通の進み方である。雲、雨、照る光、それから成長である。私たちは、こうした過程がおびただしい数の人々において見られるように祈るものである。

 II. しかし今、第二に私はこの聖句を別のしかたで用いようと思う。この「雨の後に照る光」は、しばしば、《信仰者の魂において》物事に最高の状態をもたらす。

 あなたは、試練の後に解放が続くとき、こうした物事の状態が明らかに現わされるのを見てとるであろう。私の愛する、試練を経てきた方々。あなたがこれまでにないほど神に近づいたのは、何か非常に重い苦しみの後で、神があなたのために現われ、あなたをそこから引き出してくださったときではないだろうか? 私はただ自分についてだけしか云えないが、こう云わざるをえない。順風満帆のときにもまして私は、非常な悲しみと患難の折に、ずっと神がそば近くにおられるのを感じてきた。そのとき私は、私の愛する主の御胸の中で泣きじゃくりながら眠りにつき、目覚めると、主が無力な私にできなかったことを行なってくださったこと、私を私の敵どもから自由にし、その御名において私を喜べるようにしてくださったことに気づくのだった。そのとき私は主を知った。主は私の魂を死から、私の目を涙から、そして私の足を倒れることから救い出してくださった。ならば、見るがいい。愛する魂たち。あなたがた、主を愛する人たち。あなたは試練を予期してよいし、解放をも予期して良い。というのも、あなたの成長のまさに最高の状態が生ずるのは、この2つのことが一緒になった所だからである。それは、雨と、その雨の後に照る光、すなわち、試練と、それに続く解放である。

 次にこの経験が実感されるのは、自我が屈辱にまみれた後で、主にある喜びが続いたときである。人が自分自身を知らされるのは非常に健全なことである。そして、もし自分を知らされるなら、その人には誇るべき何の理由もなくなるであろう。私たちの性質中のいかなる片隅であれ、私たちがあぐらをかいてこう云える部分はない。「私の中には、私が自力で作り出した良いものが少しはあるのだ」、と。私たちの中に何か良いものがあるとしたら、それは神の賜物でしかない。主はしばしば私たちを、私たち自身の生まれつきの心の中に引き落とされる。そして、そこで私たちを部屋から部屋へと案内し、私たちに自分の不潔さ、下劣さを見てとらされる。私は、この場にいる誰ひとりとして、自分が生来いかに悪人であるかを完全に知ってはいないと思う。それをことごとく知ることができたとしたら、私たちの理性はめまいがするであろう。私たちは、自分の心の堕落ぶりを全く知ったとしたら、二度と希望を持てないであろう。さて、もしある人が雨をたっぷり受けて、いかに自分が悪い者かを感じさせられ、それから、それと合わせて、キリストの偉大さと祝福を、また、自分がキリストの恩恵にあずかっていることを全く確信させられるとしたらどうであろう。罪を見てとり、それから、罪のための1つの偉大な《犠牲》を見てとるとしたら、また、私たちの死を見てとるとしたら、それから私たちのいのちなるキリストを見てとるとしたらどうであろう。それは、私たちの中のいかなる者にとっても、まさに最高の状態に至ることである。あなたにキリストを誇りとさせる唯一の道、あなたが正しくキリストを誇りにできる唯一の道、それは、あなたが、あなた自身とキリストとの距離を知り、あなた自身の生来の堕落を知ることによって、悲しみをも覚えることである。この二重の経験をすることは、私たちにとって良いことである。常に照る光を享受することが許されたとしたら、私たちは増上慢になりかねない。油断せずに目を覚ましている理由など何もないとか、信仰の盾をかかえたり、御霊の剣を振るったりする理由など何もないとか思いかねない。この悪から守られるために、私たちはしばしば、天狗の鼻を一再ならずへし折られる必要がある。私たちは自分の必要を見てとらされ、いやがうえにも、キリスト・イエスにある神の富を尊ぶようになる。この2つを一緒に合わせるがいい。深い自己卑下と、私たちの尊いキリストを高く重んじることとを。そのとき、あなたは神の子どもが成長しうる最高のあり方に達しているのである。

 次に、雨と照る光は、もう1つの幸いな組合せだと思う。すなわち、繊細さが確信と入り混じることである。私は、バニヤン氏がその『天路歴程』の中で語っているこの人物に出会うことを嬉しく思う。彼は、多くの人にまして、罪に敏感であった。獅子たちなどは恐れなかった。だが、罪という罪をすさまじく恐れていた。彼は《空の市》など恐れなかった。それは、彼にとって何の魅力もなかった。だが、彼は自分が天の国に入る恩恵にあずかっていることについて、多少の疑いをいだいていた。私が出会って嬉しく思う神の子どもは、恐怖者のように非常に罪に敏感な人である。私の知っているある人は、間違いを犯すことを恐れるあまり、思い切って片足を踏み出すこともできない。こうした敏感さが病的になることは私も好まない。そのとき、それは不必要な悲嘆をもたらすからである。だがしかし、聖なる敏感さは、神の子どものうちにある非常に美しい性格であり、それが、完全な確信という照る光と入り混じっているときそうである。その確信によって、その人はこう云うことができる。「私は、自分の信じて来た方をよく知っており[IIテモ1:12]、自分が神の子どもであると知っている。私は、誰も私を神の御手から奪い去ることがないと知っている[ヨハ10:29]」。

   「幸い増せども 安泰(たしか)さ変わらじ。
    栄えを受けし 天つ霊らは」。

こうした2つのこと、敏感さと確信とがともに働くとき、霊的に非常に肥沃な状態がもたらされる。一部の人々の完全な確信ぶりを見ると、ぞっとさせられる。私は、ある人が居酒屋で何杯となく麦酒を飲んで酔っ払ったては、こう云ったと聞いたことがある。「俺あ、好きなだけ飲めるのよ。俺あ、神の子どもなんだからよう」。おゝ、みじめな冒涜者よ! お前の言葉にまさる冒涜がどこにあるだろう? 神の真の子どもである者は自分に向かってこう云う。「私は、安全な一線を越えずにどこまで行けるかなどと自問したりしない。むしろ、誘惑や罪から遠ざけられていたいのだ。そして、もし私のする何かが、私を誘惑にさらすか、他の人々を誘惑にさらすようなことがあるとしたら、私は金輪際それとは関わりを持つまい」。それゆえ、望ましいのは、敏感な心をしていると同時に、自分の敏感さに全き確信を混ぜ合わせている人である。それは、聖潔に至る実を結び、その行き着く所が永遠のいのちである人である[ロマ6:22]。

 さらにまた、本日の聖句が私たちに示唆するのは、経験と知識の混合である。ウェストミンスター神学者会議の『信仰告白』を読むがいい。あらゆる手段を尽くして、恵みの諸教理を明瞭に理解するようにし、他の人々にそれらを説明できるようになるがいい。また、自分がなぜそれらを堅く信奉しているかをわきまえておくがいい。だが、覚えておくがいい。もしあなたがそれらを自分の心の中で経験していないとしたら、また、もしあなたが自分の生き方の中にそれらの力を感じていないとしたら、あなたはそれらについて全く何も分かっていないのである。乾いた教理、神の御霊に潤されていない教理は、あなたの永遠の破滅の燃料となるだけである。人が自分のキリスト教信仰を、自分の頭という最上階の部屋に押し込め、それを決して自分の心という居間に下ろさないとき、その人のキリスト教信仰はむなしい。福音の力は、私たち自身の魂で経験しない限り、私たちにとって何の役にも立たない。

   「げに信仰は ただの観念(ちえ)越え
    知り、感ずもの、なかるべからず」。

キリストについて喋ることは非常に結構である。だが、あなたはキリストをあなたの《救い主》として信頼しているだろうか? 新しく生まれることについて語るのはしごく容易なことであろう。だが、あなたはそれを感じているだろうか? この2つのこと、つまり、まず恵み深い経験という雨を、それから知的な聖書知識という照る光とを一緒にするとき、あなたは神のために実を結ぶようになる[ロマ7:4]のである。

 信仰者の魂において例証された、雨の後に照る光という、この非常に興味深い点には、長々とかかずらっていられない。

 III. しかし今、第三のこととして、愛する方々。本日の聖句が非常に幸いな組合せをなしていると思うのは、《みことばを伝える奉仕において》である。

 知っての通り、近頃の人々は、才気のある説教者でさえあれば、どんな話にも耳を傾ける。私はしばしば、ある種の会衆たちに驚かされる。彼らは、純粋で健全な教理を説教する立派な老説教者をずっと擁してきており、私は彼らの教会が正統信仰の牙城だと思っていた。だが、その説教者が死んだとき彼らが選ぶのは、全く何を云っているか分からないような説教者なのである。彼はただ、それを才気たっぷりのしかたで行なっており、それで彼らは彼を受け入れ、永遠の恥辱を招くとともに、神の《教会》に害悪を施すのである。

 良い説教とは何だろうか? よろしい。私は、晩年の老王ジョージ三世とほとんど同意見である。この老人は真理を知り、それを愛していた。そして、自分の宮廷付牧師たちの話を聞いたときには、会堂の外に出ながら常々こう云うのだった。「役に立たん。魂を養うものが何もあらん」、と。老ジョージは、大して脳味噌を持っていなかったが、自分の知っているありったけのことを固守していた。別の折には、会堂を出るとこう云うのだった。「これは良い、これは良い。魂が養われるわい」。それが説教を判断する彼の基準であった。「魂はそれで養われるか?」 そして、魂が養われないとしたら、それはジョージ三世の心に適わなかったのである。望むらくは、この試金石に耐えられない限り、どの説教も、あなたの心に適わないものであってほしいと思う。魂はそれで養われるだろうか? あなたには、支那製の最高の食器類が供されるかもしれない。銀の皿が置かれ、繻子地の紋織物の食卓布が敷かれるかもしれない。だが、もしその卓子の上に干からびた骨のほか何も載っていなかったとしたら、私はあなたがそこに夕食に行くことを勧めない。からだのためであれ魂のためであれ、何も食べるものがなければ、健康は保てない。

 実を結ぶ伝道牧会活動を行ないたい者は、雨の後に照る光を有していなくてはならない。どういうことかというと、最初に律法、次に福音がなくてはならない。私たちは、あからさまに罪を責める説教をしなくてはならない。私たちの宣教には雨がなくてはならない。雲と暗闇、天来の正義が、罪人の良心に重くのしかからなくてはならない。それから、十字架につけられたキリストにおいて、完全な贖罪、単純な信仰、そして明瞭に照り輝く慰めが、信ずる罪人のもとにやって来る。しかし、最初は雨がなくてはならない。甘やかなものしか、また、愛だけしか説教せず、罪の結果について人々に何も警告しない人は、非常に愛に満ちていると思われるであろう。だが実は、人々の魂に対して全く不忠実なのである。あなたがた、婦人たちの中の誰ひとりとして、針もなしに縫うことはできないと思う。だが、あなたの目的は単にものに針を突き刺すことではないではないだろうか。しかり。あなたは木綿の布や、糸や、衣を持って来る必要がある。よろしい。さて、一枚の絹だけで縫えるかどうか試してみるがいい。できはしない。まず針を突き刺さなくてはならないではないだろうか。そして、神のために何らかの働きを行ないたい者も、人の罪をあからさまに扱う際には、鋭い針を持たなくてはならない。それから、キリストの福音という絹糸を後に引き込まなくてはならない。最初は雨が、後から照る光がなくてはならない。

 しかし、愛する方々。あなたを扱おうとするとき、私たちはあなたにこう告げなくてはならない。すなわち、私たちがあなたの中に見たいのは、最初に悔い改めであり、その次に熱心である。雨であり、それから、照る光である。私が常に残念に思うのは、私の伝道牧会活動によって、前触れもなく、いきなりキリスト者になるかのように見える人々を生み出されることである。そこには何の罪の感覚も、何の柔らかくされることも、何の天来の御怒りへの恐れもない。何の雨もない場合、あまりに照り輝く光は地面を干上がらせ、乾燥させはしても、神のために何の真の実も結ばさせないのではないかと思う。愛する方々。私たちの伝道牧会活動においては、そうであってはならない。そして、ここで私は、私自身についてと同様、信仰を同じくするキリスト者たちに対して語っている。あなたがみことばを伝えるのは、《日曜学校》においてかもしれない。路傍伝道においてかもしれない。病人訪問においてかもしれない。だが、あらゆる真の伝道活動には、日光と同じように雨がなくてはならない。

 もしあなたが成功する奉仕を行ない、神に栄光をもたらしたければ、そこにはまず祈りが、それから、祝福がなくてはならない。あなたは祈りとともに出て行かなくてはならない。種入れをかかえ、泣きながら出て行かなくてはならない。それから、その後で、照る光がやって来て、あなたは束をかかえ、喜び叫びながら帰って来ることになるのである[詩126:6]。神があなたの働きを祝福し、栄えさせてくださるのは、あなたがあなたの《救い主》の霊によって精を出す場合である。だが、あなたの魂に深い懸念と、神の前における大きな切望と苦悶がない限り、主に仕えようとするあなたの努力に主の祝福がとどまることは期待できない。

 本日の聖句はまた、柔らかくする恵みを、それから、照り輝く恵みをも意味していると思う。私が願うのは、主がその全《教会》を、どしゃぶりの雨とともに訪れてくださることである。つまり、《教会》を柔らかくし、《教会》を霊において愛に満ちたものとし、魂を切望するものとしてくださることである。そのとき、何が起こるだろうか? 主はすぐに《教会》を、照る光とともに訪れてくださるであろう。そして私たちは、野原に生え出る若草の葉のように数多くの回心を見るであろう。おゝ、来るがいい、来るがいい。天来の露よ。そして、この集会の上に今とどまり、この教会の上にこの週の間ずっととどまるがいい! それから、輝くがいい。おゝ、義の《太陽》よ。栄光に富む暖かさと力とをもって。そのとき、私たちはすぐに大量の収穫を見て、私たちの神に賛美と栄光を帰すであろう!

 これが、みことばを伝える奉仕に当てはめた場合の、この「雨の後に照る光」という云い回しの意味であると思う。

 IV. しめくくりとして、1つだけ語りたいのは、《来たるべき時代における》雨の後に照る光に関してである。

 私は預言者ではなく、預言者の仲間でもない[アモ7:14]。時たま、私たちの町の壁また壁に看板が貼られ、これこれの年に非常に驚異的なことが起こると予告されるのを見ることがある。さて、嘘ではない。兄弟たち。それは起こるかも知れないし、起こらないかもしれない。私は、これこれの年の四月一日に起こるだろうことについて全く確信している兄弟を見ると常に、この人はその主題について何か知っていることがあるのだろうかと訝しく思い始める。近頃、聖なるみことばから離れて予言を行なうあらゆる人々は、ノーウッドの流民なみにしか尊重されるべきではないと思う。だがしかし、私は今から預言者になろう。私の預言を神のことばから取り出そう。

 まず最初は、陰鬱な時期を予期すべきである。このロンドンの町では今、平和を確立することに関する1つの会議が開催されている。私はその会議の壮大な目的について心から共感する。おゝ、戦争という戦争が地の果てまでやむことになったら、どんなに良いことか! 戦争はあらゆる悪行の総和である。それについて賛成すべきことは何1つない。人々が総掛かりで殺し合うなど、ぞっとするほど極悪非道なことである。しかし、キリストの福音を宣べ伝えること以外に、あなたや私にできる何事によっても、戦争がやむことはないであろう。《王》が来たるとき、イエスがやって来られるとき、《王》が正義によって治めるとき[イザ32:1]、戦争はやむであろう。だが、それまでは、戦争のことや、戦争の噂を聞くであろうし[マタ24:6]、一切が砕け散るかのように心騒がしてはならない。雨の後には光が照るであろう。左様。流血が支配しようとも、その後には、私たちの平和なるお方[エペ2:14]が輝き出て、苦しみのない、永遠に続く王国を打ち立てるであろう。キリスト教信仰における事がらにおいては、世界が段々と良くなると期待してはならない。世界がすでに格段に向上しているという信念には、非常に薄弱な事実の土台しかないと思う。私たちは、罪を偽善の衣服のかげに隠すすべは習い覚えたが、結局、大して良い者にはなっていない。罪の形は変えたが、罪はなおもある。さて、諸教会が常に健全で、キリスト教信仰が常に伝播するものと期待してはならない。あなたは見るであろう。誰かは見るであろう。キリストの来臨前に1つの変節が起こり、信仰からの離反が起こることを。「多くの人たちの愛は冷たくなります」[マタ24:12]。いずれ、信仰を求めても、それがほとんど見いだせない時が来るであろう。というのも、「人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか」[ルカ18:8]。ほとんど見られまい。それは、非常な希少品となるであろう。だが、心悩ませてはならない。たとい万人が神のキリストを捨てて去っていこうと関係ない。「雨の後に照る光」があるからである。

 陰鬱な時期を予期すべきではあっても、光の時代が続くであろう。来たるべき日には、キリストが王となり、栄光がその長老たちの間に輝く[イザ24:23]。そのとき、不敬虔な者らは闇に包まれた場所に身を隠し、柔和な者らが地で支配し、その朝には、神の子どもたちこそ人々の中で最も高貴な者と認められる。これからやって来るのは、義人たちが支配する「千年」[黙20:4]である。(その時期の意味は何であれ)そこでは、地のすべてが神の栄光に満たされ、天の控えの間となる。この栄光に富む真理に慰められるがいい。

 さて、愛する方々。あなた自身に関して云えば、主がすぐにその神殿に来る[マラ3:1]ことがない限り、あなたは年老いるであろう。また、年老いるにつれて、雲が雨の後で戻って来るであろう。からだがめっきり衰える時期になれば、雨、また雨、また雨、また雨があり、ことによると、ほとんど日光が見えなくなるかもしれない。それでも、あなたが死ぬ前には、このことを予期するがいい。あなたは、雨の後に照る光に達することになる、と。ベウラの国と呼ばれる場所がある。それはヨルダンの川縁に横たわっている。だが、その小さな流れの向こう側では、天的なカナンの端にも横たわっているのである。その土地には光と花々が満ちており、私はこう聞いたことがある。もしも風が正しい方角に吹くと、天国の音楽をその土地で聞くことができ、その土地の1つの丘からは、かの《天の都》を見ることができる、と。私が知っていた何人かの老いた人々は、このベウラの国に達していた。最後の日々を迎えた彼らの傍らに座り、語り合うのは私にとって大きな喜びであった。彼らには、雨の後に照る光があった。彼らは私に、あらゆる雨について告げてくれた。子どもたちが死んだこと、とうの昔に妻を葬ったこと、貧困をくぐり抜けてきたこと、迫害を忍んできたこと云々を。それらはみな雨である。だが、彼らは決して照る光のすべてについて私に告げることはできなかった。むしろ、こう云った。自分たちは、天国の外でありうる限り幸せに感じており、とどまるか去るかについて特に願いはない、と。先日私はひとりの老人に会った。九十一歳を過ぎており、ほとんど骸骨のように見えはしたが、この人が神の忠実さについて、また福音の諸教理について語るのを聞くのは素晴らしいことであった。それらの点について、彼は今までと変わらず明晰であり、ことによると、今まで以上に堅固になっていた。この人の話を聞くのは非常に特別な楽しみであった。私は祈る。私たちの中のすべての者らが、しかるべき時に、すべてが明るく幸いである、このベウラの国に行き着くことを。そして、そこに私たちがとどまって待つうちに、《王》からの使者が、かの流れを渡らなくてはならないと云いに来て、私たちはその後、喜びをもって私たちの主を見るであろう。そして、おゝ、いったん私たちが故郷に着いたなら、そこにはいかに輝かしい、雨の後に照る光があることであろう。そのとき私たちは、主の御顔を眺めるのである。私たちは、主ご自身のように死者の中からよみがえっており、完璧で完全な者として立ち、私たちの肉から私たちの神を見る[ヨブ19:26]のである! おゝ、雨が上がり過ぎ去った後で、「いつまでも主とともにいる」[Iテサ4:17]――その栄光と至福よ! 雨を通り抜けるがいい。栄光へ至るまでの途上でいかに濡れそぼるとしても、恐れてはならない。この古き良き路に沿って、あなたにできる限り早く故郷へ行き着くがいい。というのも、雨の後には、照り輝く光が来るからである。この甘やかな安息日の夕べから、このことをあなたがたひとりひとりの座右の銘とするがいい。「雨の後に照る光」。神があなたがたみなを祝福し給わんことを! アーメン。

「雨の後に照る光」[了]


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