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洞窟の中におけるダビデの祈り

NO. 2282

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1892年11月13日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1890年5月10日、主日夜


「ダビデのマスキール。彼が洞窟にいたときに。祈り」。――詩142、題名


 「彼が洞窟にいたときに。祈り」。ダビデは、洞窟にいたときには本当に祈っていた。王宮にいるときの彼が、洞窟にいたときの半分も祈っていたとしたら良かったであろうに、悲しいかな! 王となった彼は、私たちの見いだすところ、夕暮れ時に床から起き上がり、宮殿の屋上から外を見ては、誘惑に陥っているのである[IIサム11:2]。もし彼が天を見上げていたとしたら、もし彼の心が神との交わりのうちにあったとしたら、彼は決して一生涯の深い汚点となるような大罪を犯すことはなかったかもしれない。

 「彼が洞窟にいたときに。祈り」。神は、陸上の祈りも、海上の祈りも、海の下からの祈りさえも聞かれるであろう。私は、ある兄弟が祈りの中で、この最後の云い回しを用いていたのを覚えている。その祈祷会にいたある人が、いささか呆気に取られて、こう尋ねた。「いかにして神は海の下からの祈りを聞こうというのです?」 訊いてみると、この言葉を口にした人は潜水夫であって、しばしば難破船の残骸を求めて海底に潜ることが分かった。そして、海洋の深みで働いていた間も、彼は神との交わりを持ってきたというのである。私たちの神は山の神であるだけでなく、低地の神でもあられる[I列20:28]。海と陸の双方の神であられる。神は、あの不従順な預言者ヨナが山々の根元にいて、地の閂がいつまでも彼の上にあるかのように思われたとき[ヨナ2:6]、彼の祈りを聞かれた。あなたは、どこで働いていようと祈ることができる。どこで病床に伏していようと祈ることができる。どこに追放されようと、神が間近におられないことはないし、日中であれ夜であれ、いかなる時も神の御座に近づけないことはない。

 「彼が洞窟にいたときに。祈り」。数々の洞窟は、最上の祈りを聞いてきた。ある種の鳥は、籠の中にいるとき最も美しい歌を歌う。聞くところ、神の民の中のある人々は、暗闇の中で最も明るく輝くという。天の相続人たちの多くは、必要上祈りに追い立てられるときほど素晴らしい祈りをささげることはない。ある人々は、その病床の上で大きく声を張って歌うが、その声は、元気なときにはほとんど聞こえない。また、ある人々は火の中で神への称賛を歌うが、試練がやって来る以前には、しかるべく神を賛美していなかった。悩みの炉の中で、聖徒たちはしばしばその最上の姿を現わす。もしも今晩、あなたがたの中の誰かが、暗く陰鬱な立場にいるとしたら、また、あなたの魂が自分の内側でうなだれているとしたら、今が特別な時となり、格別に力ある交わりととりなしがなされるように。また、この洞窟における祈りが、あなたの祈りの中でも最上のものとなるように!

 私は今晩、この洞窟の中におけるダビデの祈りを用いて、苦難の中にある敬虔な人々の祈りを描き出そうと思う。だが、第一にそれを、深い罪の感覚の下にある魂の状態の姿として語るであろう。この洞窟の詩篇は、罪の感覚の下にある人の性格と非常によく似ている。それから私はそれを用いて、迫害されている信仰者の状態を表わしたい。そして第三に、それまでに達していたよりもさらに大きな栄誉と、広い奉仕へと備えられつつある信仰者の状態をはっきり示すものとして語ろうと思う。

 I. 第一に、この詩篇を、《深い罪の感覚の下にある魂の状態》を示す姿として用いてみさせてほしい。

 少し前までのあなたは、この世という広大な野原で好き勝手に罪を犯し、その汚染された谷間に生えた花々を摘み取っては、その致命的な香りを楽しんでいた。あなたは、自分の罪深い心に可能な限り幸せだった。というのも、あなたは浮薄で、無頓着で、無思慮だったからである。だが、神はあなたを引き留めてくださった。あなたはキリストによって捕えられ、牢に入れられ、今や足に足かせを掛けられている。今晩、あなたは明るい陽光と爽快な大気の中から、暗く悪臭を放つ洞穴へと入り込んでいるような気分がしている。そこではほとんど何も見えず、何の慰めもなく、何の脱出の希望もないかのように見える。

 よろしい。今、私たちの前にある詩篇によると、――これは、ダビデのためであるのと同じくらいあなたのためのものでもあるが、――あなたの最初の務めは神に訴えることである。私も、あなたのもろもろの疑いは承知している。あなたが神を恐れていることは知っている。神の御名に言及されただけで、いかにあなたが怯えさせられるかは分かっている。だが、私はあなたに命じる。もし現在の暗い場所から出たければ、すぐさま神のもとに行くがいい。見るがいい。この詩篇はこう始まる。「私は主に向かい、声をあげて叫びます。声をあげ、主にあわれみを請います」。家に帰り、声を上げて神に叫ぶがいい。だが、声を出せる場所が全くなければ、沈黙のうちに神に叫ぶがいい。何はともあれ神に叫ぶがいい。神の方を向くがいい。もしそれ以外の方角を見るなら、すべては闇である。神の方を向くがいい。そこにこそ――そこだけにこそ――希望がある。「ですが、私は神に対して罪を犯してきたのです」、とあなたは云うであろう。しかし、神は赦しの神であり[ネヘ9:17]、大いなる贖罪を供してくださった。それによって神は、いかに大きな違反をも正当に赦すことがおできになるのである。神の方を向いて、祈り始めるがいい。私の知っているある人々は、それまでほとんど神を信じていなかったのに、そのようにした。そうしたいという微かな願いを持っていたために、叫んだ。それは貧しい祈りではあったが、神はそれを聞かれた。私の知っている幾人かの人々は非常な絶望の中で神に叫んだ。彼らは、それが何の役に立ちうるかほとんど信じていなかったが、それでも他にすがれるものはなかったし、祈っても何の害もないと知っていた。それで彼らは膝まずいて叫んだ。素晴らしいことに、いかに貧しい祈りをも神は聞き、かなえもしてくださるのである。走るための足を持たない祈り、つかむための手がない祈り、そして、非常に小心な祈り、だが、それでも神はそれをお聞きになり、受け入れてこられた。膝まずくがいい。あなたがた、自分に咎があると感じている人たち。膝まずくがいい。もしあなたの心が罪ゆえにため息をついているとしたら、もしあなたの不義の暗い陰影があなたの回りの闇を濃くしつつあるとしたら、神に叫ぶがいい。そうすれば、神はあなたの声を聞いてくださるであろう。

 次にすべきことは、洗いざらい告白することである。ダビデは云う。「私は御前に自分の嘆きを注ぎ出し、私の苦しみを御前に言い表わします」[2節]。人間の心は自分の思いを表わすことを切望する。悲嘆が言葉で表明されないまま魂の中に横たわり、くすぶっていると、その黒煙は霊の目を見えなくしてしまう。何人かのキリスト者の友人に向かって、自分の心の苦悶について語るのは時として悪いことではない。私は、あなたがそれを真っ先にするよう励まそうとは思わない。とんでもないことである。だが、それでも、それは一部の人々にとって役に立つものとなりうる。しかし、いずれにせよ、主に対して洗いざらい告白するがいい。自分がいかに罪を犯したか主にお告げするがいい。いかに自分で自分を救おうとして、失敗に終わったかをお告げするがいい。自分がいかにみじめな者で、いかに気紛れで、いかに高慢で、いかに奔放であるか、いかに自分の野心が暴れ馬のように自分を引きずっているかをお告げするがいい。あなたのもろもろの欠点を、思い出せる限りお告げするがいい。何事も神に隠し立てしようとしてはならない。それは不可能である。神にはすべてお見通しである。それゆえ、ためらわず一切を神にお告げするがいい。最も暗い秘密を、あなたが夕暮れの微風にそっと囁きたいとさえ思わないような罪を。すべてを告げるがいい。すべてを告げるがいい。神への告白は魂のためになる。「自分のそむきの罪を……告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける」[箴28:13]。私は、あなたがたの中の、いま陰鬱な洞窟の中にいる人たち全員に強く勧めたい。人目につかない静かな場所を求め、神とふたりきりになり、自分の心を御前に注ぎ出すがいい。ダビデは云う。「私は……私の苦しみを御前に言い表わします」。信心深げな言葉が何か役に立ちうると考えてはならない。あなたが発さなくてはならないのは単なる言葉ではない。あなたの一切の苦しみを神の前に置かなくてはならない。子どもが母親にその悩みを告げるように、主にあなたの一切の悩み、あなたの嘆き、あなたの窮状、あなたの恐れを告げるがいい。それらをことごとく申し上げるがいい。そうすれば、大きな心の安らぎがあなたの霊にやって来るであろう。それで、まずは神に訴えるがいい。二番目に、神に告白するがいい。

 三番目に、神に対して、そのあわれみによるしか自分には何の望みもないと認めるがいい。ダビデが云い表わしたように云うがいい。「私の右のほうに目を注いで、見てください。私を顧みる者もなく」[4節]。あなたにとっての希望は1つしかない。それを認めるがいい。ことによると、あなたは自分の良い行ないによって救われようとしてきたかもしれない。それを山と積んでも全く無価値である。おそらくあなたは自分の信心深さによって救われることを期待しているであろう。その半分は偽善である。では、人はいかにしてその偽善によって救われることが望めるだろうか? あなたは、自分の感情によって救われることを期待しているだろうか? あなたの感情とは何だろうか? 天候のように変わりやすく、風が一吹きしただけで、あなたの晴れ晴れした気分はつぶやきと、神への反逆になってしまう。おゝ、方々。あなたには神の律法を守ることができない! それが天国へのただ1つの別の道である。あなたがただ1つの罪も犯さないできたとしたら、神の戒めを完璧に守ることによってあなたは救われるであろう。だが、すでに罪を犯している以上、その道によってさえも今やあなたは救われない。というのも、今後いかに従順であっても過去の不従順は拭い去られないからである。ここにこそ、――神が罪のためのなだめの供え物として公にお示しになったキリスト・イエス[ロマ3:25]のうちにこそ、――あなたにとって唯一の希望がある。それをつかむがいい。あなたの疑い、恐れの洞窟の中で、あなたが絶望的な失意に締めつけられ、必ず来る御怒りへの怯えに寒気を覚え、麻痺させられるとき、それでもキリストによって、思い切って神をあなたの唯一の頼みとするがいい。そうすれば、あなたは完璧な平安を持つことであろう。

 それからさらに、もしもあなたが、なおも疑いと罪の洞窟の中にいるとしたら、思い切って神に、自分を自由にしてくださいと嘆願するがいい。あなたがささげることのできる祈りとして、この洞窟の中のダビデの祈りにまさるものはない。「私のたましいを、牢獄から連れ出し、私があなたの御名に感謝するようにしてください」[7節]。あなたは今晩、牢獄の中におり、自力では外に出られない。その鉄格子をつかみ、前後に揺すろうとすることはできても、それはがっちりはめ込まれていて微動だにしない。あなたの手でそれを壊すことはできない。瞑想し、考え込み、想像にふけり、あれこれ思い巡らすことはできよう。だが、この大きな鉄門を開くことはできない。ただし1つの手は、青銅のとびらを打ち砕き、1つの力は、鉄のかんぬきをへし折ることができる[イザ45:2; 詩107:16]。おゝ、鉄の檻に入れられている人よ。1つの手はあなたの檻を粉砕し、あなたを自由にすることができる! あなたが囚人となっている必要はない。閉じ込められている必要はない。《救い主》イエス・キリストによって、あなたは大手を振って歩くことができる。ただ主に信頼し、信仰をもって今晩こう祈るがいい。「私のたましいを、牢獄から連れ出し、私があなたの御名に感謝するようにしてください」。そうすれば、主はあなたを自由にされるであろう。あゝ、罪人たちは、牢獄から外に出るとき、心底から神の御名を賛美する。私も、自分が自由にされたとき、いかに四六時中歌っていたい気分がしたかを覚えている。私は、ウォッツ博士のこの言葉を自分でも云えた。

   「おゝ、千の舌にて 歌わばや、
    わが大いなる 贖罪主(きみ)を称えて!」

私の古い友人であるアレグザンダー・フレッチャー氏の姿が、いま髣髴とするように思われる。というのも、牢屋から出された人々がいかに自分を自由にしてくれた人をほめたたえるかについて、彼が子どもたちに話しているのを聞いた時のことを思い出すからである。彼が、ある日オールド・ベイリー[中央刑事裁判所]に下って行くと、ひとりの少年が頭で逆立ちし、側転し、盛んにホーンパイプ踊りをし、ありとあらゆるしかたで飛び跳ねているのを見た。それで彼は少年に云った。「何をしてるんだい? 途方もなく幸せな様子だが」。すると少年は答えた。「あゝ、おっちゃん。六箇月もぶちこまれた後で、釈放されたばかりだったとしたら、おっちゃんも幸せになるよ!」 それは、きわめて真実なことに違いない。ある魂が、ニューゲート監獄よりもはるかに悪い監獄から解放されるとしたら、彼は、「代価(かた)なき恵みと死に給う愛」をほめたたえ、何度も何度も何度も「その妙なる鈴を鳴らす」に違いない。そして、ありったけのいのちで解放者キリストへの賛美を奏でるに違いない。

 さて、これがあなたがた、魂の苦しみゆえに洞窟の中にいる人たちに対する私の助言である。願わくは神が、それをあなたにとって祝福としてくださるように! あなたは、今晩これから私が云う他のことについて何も注意する必要はない。もしあなたが罪の感覚の下にあるとしたら、私がここまで語ってきたことをよくよく心に留めるがいい。そして、この説教の残りでは、他の人々にずっと当てはまることについての話を、彼らに聞かせやってほしい。

 II. 第二の点に移ろう。この詩篇は、《迫害されている信仰者の状態》を述べるため実に良く役立つであろう。

 迫害されている信仰者! そのような人など近頃いるのだろうか? あゝ、愛する方々。そうした人はたくさんいる! ある人がキリスト者になるとき、その人はたちまち、それ以外の仲間たちとは違った者となる。私は、とある町通りに住んでいた頃のある日、窓のわきに立って次にどのような説教を語ろうかとあれこれ考えていたところ、一群の鳥の群れを見た。そこには、かごから逃げ出した一羽の金糸雀が向かいの家々の屋根瓦の上を飛んでいた。そして、それは二十羽かそこらの雀その他の気の荒い鳥たちに追われていた。そのとき私はこの聖句を思いついた。「私の相続地は、私にとって、まだらの猛禽なのか。猛禽がそれを取り巻いているではないか」[エレ12:9]。何と、彼らはこう云い合っているように思われた。「あそこに、黄色い奴がいらあ。ロンドンじゃ見かけねえ奴だな。あんな奴はここじゃお呼びじゃねえ。奴のきれいなおべべを脱がしてやれ。奴を殺すか、俺たちみてえに暗くてくすんだ色にしてやろうぜ」。それこそ、この世の人々がキリスト者たちに対してしようとすることである。ここに、ある工場に勤めているひとりの敬虔な青年がいる。あるいは、大人数が雇われている所で、本を折るか、何か別の仕事をしているキリスト者の少女がいる。こうした者たちは悲しい話を告げるであろう。いかに自分が不敬虔な同僚たちから追い回され、嘲られ、物笑いの種にされてきたかを。今、あなたは洞窟の中にいるのである。

 あなたは、ここで描写されているような状況にあるかもしれない。あなたは何をすべきかほとんど分からない。あなたは、この第3節を書いたときのダビデのようである。「私の霊が私のうちで衰え果てたとき」。迫害者たちはあなたに激しく敵対してきた。また、若い信仰者であるあなたにとって、それは全く新奇なことだった。それであなたは全く困惑し、何をすべきか分からず途方に暮れている。彼らは実に辛辣で、実に猛烈で、全く息つく暇を与えない。そして彼らは、あなたの弱みを見つけ出す。いかにすれば、あなたの泣き所に触れることができるかを知っている。それであなたは、実際なすすべがなくなる。あなたは狼の群れのただ中にいる子羊のようであり、どこへ向かえば良いか分からない。よろしい。そのときには、ダビデのように主に向かって云うがいい。「私の霊が私のうちで衰え果てたとき、あなたこそ、私の道を知っておられる方です」。神はあなたがどこにいるか、また、何を忍ばなくてはならないかを正確にご存知である。そのことに信頼するがいい。あなたが何をすべきか分からなくとも、あなたが神に信頼するなら、神はあなたの道を導くことができ、導こうとしてくださる。

 それに加えて、あなたは大きな誘惑を受けているかもしれない。ダビデは云った。「彼らは、私に、わなを仕掛けているのです」[3節]。これは、問屋で働いているか、何人もの事務員とともに会社勤めをしている青年にとって、しばしば云えることである。彼らは、ある若者がキリスト者になったと知ると、彼の足をすくって倒そうとする。できるものなら、何らかの悪企みを仕組んで、彼に濡れ衣を着せようとする。あゝ、あなたには大きな知恵が必要であろう! 私は神に祈るものである。あなたが決して誘惑に屈することなく、天来の恵みによって自分を堅持できるようにと。若きキリスト者の兵士たちは、しばしば兵舎の中で荒っぽい扱いを受ける。だが、彼らが真の兵士であることを証明し、脇道にそらそうとする者らに一吋たりとも屈さないことを私は望む。

 それに加えて、あなたの友人たちがあなたに敵対するとき、それは非常に痛ましいことであろう。ダビデはこう云った。「私を顧みる者もなく」[4節]。あなたもそうだろうか? あなたの父母はあなたに敵対しているだろうか? あなたの妻か、あなたの夫はあなたに敵対しているだろうか? あなたの兄弟や姉妹たちは、あなたを「勿体ぶった偽善者」と呼ぶだろうか? 言葉の意味もわからずに、あなたを「メソジスト」だの「長老派」だのと呼ぶだろうか? あなたが帰宅すると、嘲って指差すだろうか? また、あなたが非常に幸いな聖餐式の後で家に帰ると、扉をくぐるなり悪態を聞かなくてはならないことがしばしばあっただろうか? 私は、あなたがたの中の多くの人々にそれが当てはまることを知っている。ロンドンにおけるキリストの《教会》は、ソドムにおけるロトのようなものである。特にこの近隣でキリスト者が暮らすのは非常に困難である。町通りを歩けば、不潔な言葉遣いで耳を襲われずにはすまない。また、あなたの子どもたちに、そうした町通りを走り回るのを許すことはできない。周囲の至る所にある忌み嫌うべき汚れのためである。こうした事がらは、私たちにとって良くなるどころか、悪化しつつある。より明るい時勢を見ようとする人々は、目を閉ざしてものを見なくてはならない。このような町で回心した若い人々のためには、特に祈るべき深刻な理由がある。彼らの最悪の敵は、しばしば彼ら自身の家庭の中にいるからである。「助けを求めに行けるキリスト者の友人なんて、いてもいなくてもどうでもいいです」、とある人は云うであろう。「先日そうした人に話しかけたら、私のことになどまるで関心がない様子でしたから」。何が若い回心者を傷つけるか話してあげよう。ここに救われたばかりの人がいる。その人は本当に、愛をもって、自分の心をキリストにささげている。そして、その人の職場の長や支配人はキリスト者である。その人は、自分があざ笑われることに気づき、思い切ってこのキリスト者である人に一言告げてみる。相手は、あっと云う間にその人を黙らせてしまう。その人に対して何の同情もしない。よろしい。別の、信仰を告白する老キリスト者が同じ長椅子の近くで働いている。そこで、この若い回心者は彼に自分の苦しみについて少しばかり語り始める。だが彼は非常に不機嫌になり、腹を立てる。私が目に留めた何人かのキリスト者の人々は、自分の中に閉じこもっているように見え、天来のいのちの初信者の種々の苦しみに注目しないように思われる。あなたがたの間では、そうであってはならない。私の愛する兄弟姉妹。キリストの軍隊に入って、もろもろの敵に付きまとわれている人々への大きな愛を涵養するがいい。彼らは洞窟の中にいる。自分の知ったことかと云ってはならない。彼らは最善を尽くそうとしている。彼らの隣に立ってやるがいい。そして云うがいい。「私もキリスト者なのだ。もし諸君がこの若者を嘲りで遇するというのであれば、私にもそれを分けてもらおうか。もし諸君がこの人に軽蔑を浴びせるというのなら、私にもあずからせてもらおう。私もこの人と同じように信じているのだから」、と。あなたはそうしようとするだろうか? あなたがたの中のある人々は確かにそうすると私は知っている。神の人が、主の啓示された真理の正しさを立証するとき、あなたはその人のそばに立とうとするだろうか? あなたがたの中のある人々はそうするであろう。だが、おびただしい数の連中は、かすり傷1つ負おうとはせず、正義のための戦いからこそこそ這い出ることができたなら、喜んで家に帰って寝床につき、戦いが終わるまで眠って過ごすであろう。神が私たちを助けて、これほど多くの駄犬ではなく、より多くの獅子たちがいるようにしてくださるように! 私たちが、骨の髄まで神のため、また、神のキリストのために生きる人々のかたわらに立つ恵みを与えられ、主の現われの日には、彼らとともに思い出されるように!

 あなたに関する最悪の点は、自分を非常にか弱く感じることであろう。あなたは云う。「私は、自分が強いと感じるなら、迫害のことなど気にしません。ですが、私は非常に弱いのです」。よろしい。さて、強く感じることと、強くあることとは常に区別するがいい。強いと感じている人は弱く、弱いと感じている人こそ強い人なのである。パウロは云った。「私が弱いときにこそ、私は強い」[IIコリ12:10]。ダビデはこう祈っている。「どうか、私を迫害する者から救い出してください。彼らは私よりも強いのです」[詩142:6]。ただ神の強さの陰に身を隠すがいい。大いに祈るがいい。神をあなたの避け所、また、あなたの分の土地[5節]とするがいい。神に対する信仰を持つがいい。そうすれば、あなたはあなたのもろもろの敵よりも強くなるであろう。彼らはあなたをひっくり返しそうに見えるかもしれない。だが、あなたはすぐに立ち上がるであろう。彼らは、あなたに解けない謎を突きつけるように見えるかもしれない。その科学知識をもってやって来るかもしれない。そして、あなたは軽んじられるかもしれない。だが、決して気にしてはならない。あなたを洞窟の中に導き入れた神は、いつの日か、あなたにとって形勢を一変してくださるであろう。ただ踏みとどまり、最後まで持ちこたえるがいい。私は、キリスト者であることにある程度の苦しみが伴うことを、むしろ喜んでいる。というのも、キリスト者であると告白することが今は非常に一般的になっているからである。私の間違いでなければ、人が、「私はキリスト者です」、と云うことは、今よりもずっとまれなことになるであろう。来たるべき時代には、鮮明な一線が画されることであろう。私たちの地引き網は、可能な限りの人々を引き込む助けにはなるだろうが、その一方で彼らは、キリスト者の衣を着ようとせず、キリスト者と名乗ろうとせず、結局は世俗の子らと同じように行動し、世俗の子らの種々の娯楽や愚行を愛するのである。いいかげんに、主の上院には区分がなされるべきである。そして、「賛成派」は一方の控室へ、「反対派」はもう一方の控室へ行くべきである。私たちはあまりにも長く入り混じり合いすぎていた。そして、私としては云いたい。あらゆるキリスト者たちが鞭打ち刑を受けざるをえない日が早く来れば良いのに、と! それは、純粋な信仰を告白するキリスト者たちにとって良いことであろう。それは麦からもみがらの一部を吹き飛ばすだけであろう。火が熱くなり、るつぼがそこに入れられれば、なおさら純度の高い金が得られるであろう。そのとき金滓は純粋な金属から分離されるからである。たといあなたがいま洞窟の中にいるとしても、勇気を出すがいい。私の兄弟よ。主はあなたを、ご自分のちょうど良いと思われる時にそこから出してくださる!

 III. さて、しめくくりに少し語りたいのは、《さらに大きな栄誉と、広い奉仕へと備えられつつある信仰者の状態》についてである。

 これは奇妙なことではないだろうか? 神がある人を偉大な者としようとしておられるときには、いつでも常に、その人をまず粉々に砕かれるのである。そこには主が、ひとりの君主にしようと意図しておられた人物がいた。いかにしてそうされるだろうか? 何と、ある夜、彼と出会って格闘されるのである! あなたは常にヤコブが格闘したと聞かれさる。よろしい。私も彼が格闘したことは否定しない。だが、第一の格闘者はヤコブではなかった。「ある人が夜明けまで彼と格闘した」[創32:24]。神はヤコブのもものつがいを打ち、彼のもものつがいを外した上で、彼を「イスラエル」と呼ばれた。「神の君主」ということである。その格闘は、彼にその全力をふりしぼらせ、彼の力がなくなったときに、神は彼を君主と呼ばれた。さて、ダビデは全イスラエルを治める王になろうとしていた。ダビデにとって何がエルサレムへの道だっただろうか? 何が王座への道だっただろうか? よろしい。それはアドラムの洞穴[Iサム22:1]のそばを回る道であった。彼はそこに行き、無法者、浮浪者とならなくてはならない。というのも、それこそ、彼が王とされる道だったからである。あなたがたの中の誰も、自分の生涯において注意したことはないだろうか? 神があなたを大きく伸ばし、より広い奉仕の場、あるいは、より高い霊的生活の段階へと引き出そうとしておられるときには常に、あなたが投げ落とされるということに。それが、神の通常の働き方である。神はあなたを食物で養う前に飢えさせ、着物をまとわせる前に脱がせ、大人物にする前に屑同然の者とされる。これがダビデの通った道であった。彼はエルサレムで王になろうとしているが、その王座には洞窟の道を通って行かなくてはならない。さて、この場にいるあなたがたの中の誰かは、天国に行こうとしているだろうか? あるいは、より天的な聖化の状態に行こうとしているだろうか? あるいは、より大きく用いられる領域へ行こうとしているだろうか? 洞窟の道を通ることになっても驚いてはならない。なぜだろうか?

 最初に、もし神があなたを大いに用いられる者にしようとするとしたら、いかに祈るべきかをあなたに教えなくてはならないからである。偉大な説教者でありながら祈ることができないという人は、悪い終わりに至るであろう。祈ることはできないが、聖書学級を導くことでは有名な婦人は、すでに悪い終わりに至っている。もしあなたが祈りなしに偉大になれるとしたら、あなたの偉大さはあなたの破滅となるであろう。もし神があなたを大いに祝福しようと意図しているとしたら、神はあなたを大いに祈らせなさるであろう。自分の王座に至るための備えの中のこの部分で、このように云うダビデに対してなさったことと同じである。「私は主に向かい、声をあげて叫びます。声をあげ、主にあわれみを請います」[1節]。

 次に、神が大いに栄誉を与えようとしておられる人は、途方に暮れるときも常に神を信じなくてはならない。「私の霊が私のうちで衰え果てたとき、あなたこそ、私の道を知っておられる方です」[3節]。あなたは一度も万策尽きたことがないだろうか? ならば、神はあなたを大海原で商売をさせるために遣わしてはおられないのである。遣わしておられるとしたら、ほどなくして、あなたは大嵐の中でなすすべもなく右往左往するはずだからである。おゝ、自分に信頼できるときに信頼するのはたやすい。だが、自分に信頼できないとき、また、自分が完全に疲れ切ったとき、また、自分の霊が完全な絶望の底冷えの中で氷点下に沈むとき、そのときこそ神に信頼すべきときである。もしそれがあなたに起こっているとしたら、あなたには、神の民を導くことができ、他の人々の慰め手となれる人のしるしがあるのである。

 次に、大いに用いられる者となるため、多くの神の人はただひとり孤立することを教えられなくてはならない。「私の右のほうに目を注いで、見てください。私を顧みる者もなく」[4節]。もしあなたが人々から助けられたいと思うなら、あなたは非常に天晴れな従者にはなるかもしれない。だが、神が自分の《助け主》である限り、いかなる人も必要とせず、ただひとり立っていられるという人の場合、その人は一個の指導者となるように助けられるはずである。おゝ、ルターがローマの一兵卒の分限から歩み出たとき、それは壮挙であった。彼の回りには多くの善良な人々がいて、こう云った。「落ち着けよ。マルチン。口を慎まないと火炙りにされてしまうぞ。現状のままローマ教会にとどまろうじゃないか。たとい、大きな不潔な塊を呑み下さなくてはならないとしてもだ。われわれは福音を信じて、なおも、今いるところにとどまっていられるさ」。しかしルターは知っていた。自分は、反キリストに公然と反抗し、ほむべき神の純粋な福音を宣言しなくてはならない、と。また、真理のためにはひとりでも立たなくてはならない。たといヴォルムズの屋根瓦一枚一枚と同じくらい多くの悪鬼どもがそこにいようと関係ない、と。これこそ神が祝福される種類の人物である。この場にいる多くの若い人々が、それぞれの立場にあって、こう感じるだけの勇気を有していればどんなに良いことか。「私は必要とあらば孤立しても良い。私の主人や同僚たちが私と同じ立場に立ってくれれば嬉しくは思うが、もし他の誰も私とともに天国に行かないとしたら、私は彼らに暇を乞い、神の愛する御子の恵みによってひとりで天国に行くであろう」。

 さらにまた、神が祝福するであろう人は、神だけを喜びとする人でなくてはならない。ダビデは云う。「主よ。私はあなたに叫んで、言いました。『あなたは私の避け所、生ける者の地で、私の分の土地です』」[5節]。おゝ、神を私たちの避け所とし、神を私の分たちの土地とすることよ! 「お前は自分の職を失うことになるぞ。自分の収入を失うことになるぞ。自分の同胞たちからの賞賛を失うことになるぞ」。「あゝ!」、と信仰者は云うであろう。「だが、私は自分の分の土地を失うまい。というのも、神が私の分の土地だからだ。神は私にとって職であり、収入であり、すべてなのだ。それで私は神に従うであろう。何があろうとも」。もしあなたが「主をおのれの喜びと」するなら、「主はあなたの心の願いをかなえてくださる」[詩37:4]。今のあなたは、神があなたをお用いになり、大いにお用いになれる状態に至っている。だが、あなたが神を重んじない限り、神があなたを重んずることは決してないであろう。神が私たちを、現世に自分の土地を持つことから救い出してくださるように。というのも、その場合、私たちは神の民の間には全くいられなくなるからである!

 神が用いようとなさる者は、神の貧しい民への共感を教えられなくてはならない。こういうわけで、6節にはこのようなダビデの言葉があるのである。「私はひどく、おとしめられています」。大勇氏は、残虐者を、また、巡礼路に横行する他の巨人族を殺すほど強くなくてはならないが、もし他の人々の指導者になるべきだとしたら、自らその路を進んだことのある人でなくてはならない。もし主があなたを祝福しようとしているとしたら、私の兄弟よ。また、もしあなたをご自分の教会内で大きく用いようとしておられるとしたら、嘘ではない。主はあなたを試みるであろう。神に仕える教役者たちの受ける試練の半分、ことによると、十分の九は、彼ら自身のために送られるものではない。だが、それらは他の人々の益のために送られる。すいすいと天国に行く神の子どもたちの多くは、他の人々のためにごく僅かなことしか行なわない。だが、主の別の子どもたちは、あらゆる紆余曲折を経て、信仰者生活の酸いも甘いも噛み分けてきた。それは、ただその人がよりふさわしく他の人々を助け、泣く者とともに座って泣き、喜ぶ者とともに立ち上がって喜べるようになるためであった。洞窟の中に入った愛する兄弟たち。また、深い霊的な経験をしている私の姉妹たち。あなたもそれと同じである。私はあなたの慰めとして、これがあなたを活かすための神の道であることを示したいと思う。神はあなたを掘削しつつある。あなたは、古い排水溝のようであり、これ以上何も入らない。それで神はあなたを掘削して、より多くの恵みのための余地を作っておられるのである。その踏み鍬は鋭くえぐり、土また土を掘り起こしては、一方に投げ上げるであろう。あなたが取っておきたかった、まさにそのものが投げ捨てられ、あなたは空っぽにされ、掘り抜かれ、エリシャのこの言葉が成就するであろう。「『この谷にみぞを掘れ。みぞを掘れ。』主がこう仰せられるからだ。『風も見ず、大雨も見ないのに、この谷には水があふれる』」[II列3:16-17]。あなたは試されるべきである。愛する方々。それは、あなたによって神の栄光が現わされるためである。

 最後に、もし神があなたを用いようとしておられるとしたら、あなたは賛美に満たされるようにならなくてはならない。ダビデが何と云っているか聞くがいい。「私のたましいを、牢獄から連れ出し、私があなたの御名に感謝するようにしてください。正しい者たちが私の回りに集まることでしょう。あなたが私に良くしてくださるからです」[7節]。願わくは神が、この場にいる私の兄弟姉妹たち――自らの益のために試みを受けようとしている人たち――さらに上に進むために苦しめられようとしている人たち――に、神を賛美し始める恵みを与えてくださるように! 歌い手たちこそ前に進むのである。最も良く賛美できる者たちこそ、他の人々を働きに導くのに適しているのである。私は、陰気な指導者に従うのはご免である。おゝ、しかり。愛する方々。私たちは、「《サウル》の葬送行進曲」の節に合わせて働くことはできない! ワーテルローで戦ったわが国の兵士たちは、もしそれがあの日の戦闘のための音楽だったとしたら、決して勝利しなかったであろう。否、否。私たちには《歓喜の歌》を与えてほしい。「主に向かって歌え。輝かしくも勝利を収められたお方に。その偉大な御名を幾度もたたえよ」。それから剣を抜き、激しく切りつけるがいい。もしあなたが朗らかな性質だとしたら、主にあって喜び、いかなる試練や患難を受けた後にも喜ぶがいい。そして、もしあなたが、これほどおとしめられているがゆえに一層喜ぶとしたら、そのときこそ神はあなたを生かそうとしているのであり、神はこれからあなたを用いてご自分の民をより大いなる恵みのみわざへと導かれるであろう。

 私は今晩、ここまであなたに三種類の人々について語ってきた。願わくは、あなたがたの中のそれぞれの人々が、自分に属するものを受けとる恵みを与えられるように! しかし、もしあなたが、この建物を出て行く前に、最初の種類の人を誰か見かけたら、――罪の感覚の下で陰鬱な洞窟の中にいる人を見かけたら、――たとい聖餐式に出席したいと思っても、立ち止まってその人を慰めるべきだと感じるとしたら、後者を行なうよう心がけるがいい。自分のことは二の次とするがいい。礼拝式が終わるたびに、この大廊下では、また、こうした会衆席の中では、素晴らしいわざがなされるべきである。一部の愛する兄弟たちや姉妹たちは、いつもそうしている。彼らは、私の「犬」と自称している。というのも、行って、私が傷つけた鳥たちをくわえて来るからである。彼らが今晩も多くの人々をくわえて来ることができれば良いと思う。おゝ、あなたがたの中のある人々が常に油断せずにいて、ある顔を見たら、そこに何らかの情緒がないか用心しているとしたらどんなに良いことか! その小さな船の周囲を、あなた自身の丸木舟で漕ぎ回るがいい。そして、その船上のあわれな悩める者と意志を疎通させられないかどうか見てとり、悲しい心を励ます言葉を一言発してみるがいい。いつもそうしているがいい。というのも、もしあなたが自分自身牢獄の中にいるとしたら、そこから出る道は、他の者が外に出るのを助けてやることだからである。神は、ヨブがその友たちのために祈ったときに、ヨブの捕われを逆転された。私たちが他の人々の面倒を見、他の人々を助けようとし始めるとき、神は私たちを祝福してくださるであろう。そのようにならんことを。主の御名のゆえに! アーメン。

洞窟の中におけるダビデの祈り[了]


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