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屈辱の谷における私たちの主

NO. 2281

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1892年11月6日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1890年6月5日、木曜日夜


「キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです」。――ピリ2:8


 パウロは、ピリピの聖徒たちを聖なる愛の絆によって結束させたいと願っている。そうするために、彼らを十字架のもとに連れて行く。愛する方々。十字架の中には、あらゆる霊的な病に対する治療薬がある。《救い主》のうちには、あらゆる霊的な美徳のための食物がある。私たちは、どれほど頻繁に主のもとに行っても十分ではない。主は決して涸れ井戸でも、房という房を取られた葡萄の木でもない。私たちはどれほど主のことを考えても十分ではない。私たちが貧しいのは、十字架の回りに横たわる黄金の国に行かないからである。私たちがしばしば悲しんでいるのは、十字架の星座から輝き出している明るい光を見ないからである。その星座から発される光箭を悟り知るなら、たちまち喜びと安息を与えられるであろう。人々の魂を愛する者が、可能な限り最上の奉仕を行ないたいと思うなら、常に人々をキリストの近くに連れて行くであろう。パウロは常にそうしている。そして、ここでそのことを行なっているのである。

 使徒は、和合を作り出すには、まず心のへりくだりを生じさせる必要があることを知っていた。人々は、その野心に終止符が打たれたときに相争うものではない。ひとりひとりが最も小さな者となりたがっているとき、また、あらゆる者が自分の同胞を自分よりも高めたいと願っているとき、そこでは党派心が滅び失せる。分派や分裂は、みな過ぎ去る。さて、心のへりくだりを作り出すためにパウロは、神の御霊の教えの下で、キリストのへりくだりについて語った。彼は私たちを低く下らせたかった。それで、私たちの《主人》が低く下っていくのを見せようとするのである。彼は、栄光の主がそのへりくだった道を辿られたあの急階段へと私たちを導き、本日の聖句の言葉によって、しばし立ち止まるよう命じる。彼は私たちに、このへりくだったキリストを指し示している。「キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです」。

 このように書き記す前に、彼はすでに、一言か二言で、イエスが下って来る前におられた高みを示唆していた。彼は主についてこう云う。「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで」[ピリ2:6]。あなたや私は、神と同等であるということが、いかに高い栄誉であるか全く考えつけない。それゆえ、いかにして私たちが、キリストの下降を測ることができるだろうか? 私たちは、いかに高遠な思いをもってしても、キリストが下りて来る前におられた高みを完全には悟れない。主が下った深みは、私たちがかつて下ったことのある、いかなる点よりも測り知れないほど低い。そして、主が来る前におられた高さは、私たちのいかに崇高な思いをも越えている。しかしながら、イエスがしばしの間わきに投げやられた栄光のことを忘れてはならない。思い起こすがいい。主がまことの神よりのまことの神であること、また、主が至高の天にその御父とともに住んでおられたことを。だがしかし、主は、このように無限に富んでおられたにもかかわらず、私たちのために貧しくなられた。それは、私たちがキリストの貧しさによって富む者となるためである[IIコリ8:9]。

 使徒は、イエスがいかなるお方であられたかに言及してから、返す一筆で、私たちの人性をまとわれた主を啓示する。彼は主についてこう云う。「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです」[ピリ2:7]。大いなる驚異はその《受肉》である。永遠の神が、私たちの人性を取ってご自分と結び合わせ、ベツレヘムで生まれ、ナザレで暮らし、私たちに代わってカルバリで死なれたことである。

 しかし、本日の聖句は、人となられたことにおけるキリストの謙卑について語るよりも、私たちの性質をまとわれた後のその謙卑について語っている。「キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし」。主は、その下降において最低の点に達するまで決して止まらなかったように思われる。死に至るまで従い、あらゆる死の中でも最も恥ずべき死、「実に十字架の死にまでも」従われた。私は正しくもこう云わなかっただろうか。私たちは、主が来る前におられた高みに達することができないのと同じく、主が下られた深みを測り知ることもできない、と。ここに、――その栄光の天国とその死の恥辱との間の、測り知れない距離の中に、――あなたが感謝する余地がある。あなたは喜びの翼をかって上って良い。自己否定の深淵へと下って良い。だが、どちらの場合においても、あなたの天来の主の経験に達することはないであろう。主は、このように、あなたのために天から地へと来られた。それは、あなたを地から天へと連れ上るためであった。

 さて、もし私にそうする力が与えられるとしたら、私はあなたを導いて、第一に、私たちの主の謙卑に関する諸事実を考察したいと思う。そして第二に、それらを考察してから、あなたには、それらからいくつかの有益な教訓を実際的に学んでほしいと思う。

 I. まず第一に、《私たちの主の謙卑に関する諸事実を考察するがいい》

 最初にパウロは、主がさらなる下降を始める元となった点について語る。「キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし」。私の恵み深い主よ。あなたはすでに十分に遠くまでやって来られました。あなたは、今おられる所でお止まりになるでしょうか? あなたは、神の御姿であられたのに、今では人間の姿をしておられます。それは、言葉に尽くせない屈従です。あなたは、なおもご自分を卑しくされるのでしょうか? しかり、とこの聖句は云う。「キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし」。しかり。確かに人には、主が十分に低くなったと考えられたであろう。天と地をお造りになった《創造主》であり、造られたもので、この方によらずにできたものは1つもない[ヨハ1:3]お方でありながら、しかし主は、処女の胎の中におられた。誕生された。そして、角を生やした雄牛たちが餌を食べる所を揺りかごにして寝かされた。この《創造主》は、被造物にもなっておられる。神の御子は、人の子となっておられる。何と異様な組み合わせであろう! 《無限者》が幼子と結び合わされ、《全能者》が新生児のかよわさと結び合わされる。これを越えたへりくだりがありえようか?

 しかり。それですべてではない。たとい、いのちと栄光の主が一個の被造物と結ばれなくてはならず、《いと高く力ある方》が造られた存在の姿を身にまとわなくてはならないとしても、なぜ人の姿をお取りになるのだろうか? 被造物なら他にもいた。星々よりも輝かしい、高貴な霊的存在たち、熾天使や智天使たち、暁の子たち、永遠の御座の前にいる御使いたちがいた。なぜ主は彼らの性質を取られなかったのだろうか? もし主が一個の被造物と結合しなくてはならないとしたら、なぜ御使いたちと結び合わされないのだろうか? しかし、「主は御使いたちの性質を取られたのではなく、確かに、アブラハムの子孫を助けてくださるのです」[ヘブ2:16 <英欽定訳>]。人は虫けらでしかなく、多くの弱さある被造物である。その額には、死がそのすさまじい指で書き記している。これは朽ち果てる者であり、死なくてはならない、と。キリストがその性質をお取りになるのは、キリストもまた苦しんで死ななくてはならないからだろうか? その通りであった。だが、主がそこまで至られたとき、私たちはほとんどその途中に身を投げ出して、それ以上先にはお進みにならないよう主を止めなくてはならないような気がする。この屈従で十分低くはないだろうか? この聖句はそうではないと云う。というのも、「キリストは人としての性質をもって現われ」、その後でなおも「自分を卑しく」された。

 御父から与えられた私たちのために、キリストが行なおうとされないことが何かあるだろうか? 主の愛には何の限界もない。主の恵みを悟りきわめることはできない。おゝ、いかに私たちは主を愛し、主に仕えるべきであろう! 主が私たちを救うために低く屈めば屈むほど、私たちは自分の崇敬と畏敬において主をいや高く上げるべきである。主の御名はほむべきかな。主は屈んで、屈んで、屈まれる。そして、主が私たちの水準に達し、人となるとき、主はなおも低く、なおも深く屈んで、屈んで、屈まれる。「キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しく」された。

 さて、次に注意したいのは、主が人となった後で下降されたしかたである。「自分を卑しくし」。私たちは主が私たちの人間性と同じくらい低く屈まれたと承知しなくてはならない。だが主の人間性は、その誕生において、優美な揺りかごに入れらることもありえた。主は、大理石造りの大邸宅で生まれ、紫の衣や細布を来ている者たちの間にいることがありえた。だが、主はそれをお選びにならなかった。お望みになれば、主は子どもとしてではなく、成人として生まれることもできたであろう。幼年期から青年期、青年期から成人へと次第に発達する時期を飛び越すこともできたであろう。だが、主はそうなさらなかった。あなたがナザレの家におられる主を見るとき、また、主が徒弟中の息子として、ご自分の両親に従い、他のどの子どもとも同じように家の細々とした用事をしているのを見るとき、あなたは本日の聖句と同じように云うであろう。主は「自分を卑しく」された、と。そこで主はご自分の両親とともに貧困の中に暮らされた。労働者の男児として人生を始められた。そして、外に走り出ては、幼い仲間たちと遊ばれたと思う。こうしたすべては非常に不思議なことである。外典の福音書は、主がまだ子どものうちから異様な事がらを行なったものと描写するが、真の福音書は主の幼少時代についてほとんど何も私たちに告げていない。主は、ご自分の《神格》をその幼年期の背後に覆われた。エルサレムに上り、律法の教師たちの話を聞いていたとき[ルカ2:46]、主はその質問や答えで彼らを驚かせてはいたが、それでも両親とともに家に帰り、彼らに仕えられた。というのも、主は「自分を卑しく」されたからである。主は決して甘やかされた、ませた子どものように、出しゃばりでも生意気でもなかった。自分を抑えておられた。主はこう決意しておられたからである。人としての性質をもって現われ上で、なおもご自分を卑しくしようと。

 主は成長し、人々の前に姿を現わすときが到来した。だが、主の沈黙の三十年間を思うと、ここには主がご自分をいかに卑しくされたかの驚嘆すべき実例があると感じずにはいられない。私の知っている青年たちは、二年も三年も教育を受けるなど自分たちには、あまりにも長すぎると考えている。彼らはいきなり説教したがる。時として私が彼らに告げるように、頭に卵の殻をつけたままのひよこのように走り去ろうとする。彼らは武具の緒を締める前から出ていって戦いたがる。しかし、キリストはそうではなかった。三十年もの長い年月が主の上を過ぎていったが、それでも何の「山上の説教」も発されなかった。主が現実に世にご自分を現わされたとき、いかに主がご自分を卑しくされたか見るがいい。主は大祭司たちの扉を叩いたり、卓越したラビたち、学識ある律法学者たちを見いだそうとはされなかった。むしろ、主は湖から上がってきた猟師たちを同伴者とされた。――たとい主を単なる人とみなしたとしてさえ、無限に主に劣る者たちてある。主は、男らしい凛々しさと、強大な知性を有しておられた。だが、彼らはほとんど主について行くことができなかった。主が、彼らの弱さに対するあわれみによって、歩調をゆるめてくださったとしても関係ない。主は卑しい者たちとつき合うことを好まれた。ご自分を卑しくされたからである。

 主が話をしに出たとき、その様式は社会の選良たちの集団を目当てにしたようなものではなかった。主は、ごく僅かな、特別に教養のある人々に語りかけはしなかった。「さて、律法学者、パリサイ人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た」。これは正しい引用だろうか? 否、否。「さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た」[ルカ15:1]。こうした人々を聴衆とするとき、主は最もくつろいでおられた。そして、彼らが回りに集まり、小さな子どもたちが主の話を聞こうと立っていたとき、主はその心のありったけを注ぎ出された。主はご自分を卑しくされたからである。あゝ、愛する方々。これでも主イエス・キリストの最低の謙卑ではなかった! 主は悪魔がご自分を誘惑することを許された。私がしばしば不思議に思ってきたのは、いかにして主のきよく聖なる御思いが、また、主の正しい王者の気風が、かの暗闇の王、かの偽りに満ちた汚らしい悪鬼との争闘に耐えることができたのかということである。キリストは、サタンがご自分を試験にかけることを許され、しみなききよさは、破廉恥な極悪さが近寄ることに耐えなくてはならなかった。イエスは勝利された。というのも、この世を支配する者がやって来ても、主のうちには何1つ見いださなかったからである。だが、主はご自分を卑しくし、あの荒野で、あの神殿の頂の上で、また、あの非常に高い山の上で、悪魔が三度もご自分を襲撃することをお許しになった。

 一個の人間として主は、そのみからだにおいて、弱さと、飢えと、渇きを忍ばれた。その御思いにおいては、叱責と、傲慢無礼と、偽りを忍ばれた。主は常に《悲しみの人》[イザ53:3]であった。あなたも知っての通り、かの背教の教会のかしらは、「不法の人」と呼ばれている[IIテサ2:3]。それは常に罪を犯しているからである。そして、キリストが「悲しみの人」と呼ばれるとき、それは主が常に悲しんでおられたからである。いかに不思議なことであろう。主が私たちの人間性に共通の悲しみに苦しめられるほどご自分を卑しくされるとは。だが、それが現実に起こったのである! 「人としての性質をもって現われ」た主は、いわれのない中傷を受け、酔っ払いの大酒飲みと呼ばれ、ご自分の奇蹟をベエルブブブの助けによるものだとされ、人々がこう云うのを聞くことに同意された。「あれは悪霊につかれて気が狂っている。どうしてあなたがたは、あの人の言うことに耳を貸すのか」[ヨハ10:20]。

 「自分を卑しくし」。主ご自身の心には、しばしば大きな葛藤があった。そして、その葛藤によって主は祈りにかられた。主は、神の臨在を意識できなくなることすらあった、それで主は痛ましい苦悶の中で叫ばれた。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか?」[マタ27:46] これらはみな、なおも主がご自分を卑しくされたからであった。私は、この偉大な主題について、あなたにいかにして語るべきか分からない。私はあなたに言葉を語る。だが私は祈るものである。聖霊があなたに、この偉大な神秘について正しい思いを与えてくださるように、と。すでに述べたように、キリストにとっては、人としての性質をもって現われることそのもので十分なへりくだりであったが、その後で主は、なおもこのへりくだる愛の階段を下降し続け、さらに深く深くご自分を卑しくされた。

 しかし、ここで主の下降の規則に注意するがいい。それは注目に値することである。主は「自分を卑しくし……従われた」。私の知っているある人々は、人間の好き勝手な礼拝[コロ2:23]によって自分を卑しくしようとしている。私は、ある修道僧の独房に立ったことがある。彼はそのとき部屋から出ていたが、私は彼が毎晩寝床につく前に自分をむち打つ鞭を見た。私は、この男がそうした苦しみすべてに値することが全くありえると思ったため、そのことで何の涙も流さなかった。一定の数の鞭打ちを行なうこと、それが、自分を卑しくする彼なりのしかただったのである。私の知るある人々は、自発的な謙遜を実践している。彼らは非常にへりくだった口の利き方をし、言葉で自分自身をけなしていたが、その間ずっと《明けの明星》[イザ14:12]ほどにも高慢なままであった。私たちの主がご自分を卑しくしたしかたは、従順によってであった。主は、ご自分を馬鹿げたものにするような何の方法も編み出さなかった。ご自分の貧しさに注意を引きつけるような異様な衣裳を着はしなかった。単に主は御父に従われた。そして、よく聞くがいい。従順にまさる謙遜はどこにもないのである。「聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる」[Iサム15:22]。従うことは、特別な服を着たり、話すときに何か独特の、謙遜と思われるような形で語尾の音を落とすことにまさっている。従順こそ最高の謙遜である。自分自身をイエスの足元に横たえ、何を行なうことが神のみこころか分かっているときにだけ、意志を働かせること。これこそ、真に謙遜になるということである。

 では、いかなるしかたで主イエス・キリストはその生涯において従われたのか? 答えよう。――主は常に、ご自分の御父に対する従順の精神を有しておられた。主はこう云うことがおできになった。「今、私はここに来ております。巻き物の書に私のことが書いてあります。わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります」[詩40:7-8]。主は地上にいた間は常に、ご自分を地上に遣わされた際の、御父の偉大な目的に服しておられた。主は、ご自分を遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げるために来られた[ヨハ4:34]。主は、そのみこころが何であるかを部分的には聖書から学ばれた。見ると主は常に、「聖書が成就するために」[ヨハ19:28]特定のしかたで行動しておられる。主は、ご自分に関してすでに与えられていた数々の預言にのっとって、その生涯を形成された。このようにして主は、御父のみこころを行なわれた。

 また、主のうちには神の御霊がおられ、主を導き指図しておられた。それで主はこう仰せになれたのである。「わたしはいつも、父のみこころにかなうことを行なう」*[ヨハ8:29]。それから主は、常に祈りによって神に仕えられた。祈らなくとも、私たちよりも無限にすぐれたことを行なうことがおできになったのに、それでも主は、私たちをはるかに越えて祈られた。私たちよりも必要は少なかったのに、私たちよりも大きく祈りを喜びとしておられた。このようにして主は、人として神のみこころを学び、それを行なわれた。一度としてそれを省くことも、一度として何らかの点にそむくこともなさらなかった。

 また主は、神のみこころを従順に行ない、ご自分を遣わすことにおける御父のご計画であると知っていたことを最後までやり通された。主は救うために遣わされた。そこで主は救いのみわざに取りかかり、失われていた者を捜しては救われた。おゝ、愛する方々。私たちが神と調和するとき、また、神が願われることを願うとき、また、私たちが神の御心を満たしている偉大な目的のために生きるとき、また、私たちが自分の願いや気紛れをわきに置き、自分の正当な願望すらも捨てて、ひたすら神のみこころだけを行ない、神のご栄光のためだけに生きようとするとき、そのとき、私たちは真に自分を卑しくしていることになるのである!

 このようにして、私はあなたに、イエスが本当に、人となられた後でも下降されたことを示してきた。そして、主の下降のしかたと規則をあなたに指摘してきた。さて、畏怖と畏敬をもって、主が下降された深淵をのぞき込もう。主は、そのすさまじい下降において、ついにはどこに達されただろうか? 何がその深淵のどん底だっただろうか? それは死であった。主は「自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われた」。私たちの主は自ら進んで死なれた。あなたや私は、主がすぐに来られない限り、望もうが望むまいが死ぬであろう。「人間には、一度死ぬこと……が定まっている」[ヘブ9:27]。主には死ぬ必要がなかったが、それでも主は進んでご自分のいのちを明け渡された。主は云われた。「わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父ら受けたのです」[ヨハ10:18]。主は進んで死なれた。だが、それと同時に、主はご自分の手で死んだのではなかった。主は、自殺として自らのいのちを取ったのではなかった。主は従順に死なれた。主は、ご自分の時が来るまで待ち、そのとき、「完了した」、と云うことがおできになった。それから、頭を垂れて、霊をお渡しになった[ヨハ19:30]。主はご自分を卑しくし、進んで死ぬことまでされた。

 主はご自分の死の従順さを、その柔和さによっても証明された。イザヤがこう云った通りである。「毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない」[イザ53:7]。主は決して祭司にも律法学者にも、ユダヤ人の支配者にもローマ人の兵士にも、苦々しいことばを発さなかった。女たちが泣いて嘆いたとき、主は彼女たちに云われた。「エルサレムの娘たち。わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい」[ルカ23:27-28]。主は優しさに満ちておられた。ご自分を殺す者たちにさえ、厳しいことばをかけなかった。主は《罪を負う者》となるためご自分を引き渡された。御父のみこころにも、ご自分の敵たちの冷酷さにもつぶやくことをなさらなかった。いかに主は忍耐強くあられたことか! 主が、「わたしは渇く」、と仰せになるとしても[ヨハ19:28]、それは熱にうかされた病人の怒りっぼい叫びではなかった。キリストの発されたことばには、王者らしい威光がある。あの、云いしれようのない苦い胆汁を含んだ、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」[マコ15:34]でさえ、そこにはいかなる苛立ちの痕跡すら混ぜ合わされていなかった。おゝ、キリストの死はいかなるものであったことか! 主はそこにおいて従順であった。単に死に至るまで従順であっただけでなく、その最後のすさまじい行為において従順であられた。主の従順な生涯は、その今際の時をも包み込んでいた。

 しかし、死も十分に卑しくすることではないかのように、使徒は、「実に十字架の死にまでも」と云い足している。それは最悪の種類の死であった。暴虐な死であった。イエスは、善良な人々がしばしばそうするように、安らかな最後を迎え、眠るように息を引き取ったのではなかった。しかり。主は殺害者の手にかかって死なれた。ユダヤ人とローマ人が手を組み、冷酷な手で主を捕え、十字架につけ、殺した。それはまた、延々と続く苦悶を伴った、極度に苦痛に満ちた死であった。最も神経が集中しているからだの部位が、粗雑な鉄くぎで刺し貫かれた。全体重が、体内で最も繊細な部分にかけられた。嘘ではない。その釘は、主があの木にかかっている間、主の体をむごたらしく引き裂いたに違いない。手の傷はしばしば破傷風と死を引き起こす。だがキリストの両手は十字架に釘づけられたのである。主は、からだと魂における最も激越な苦痛の中で死なれた。それはまた、最も恥辱に満ちた死でもあった。盗人たちが主とともに十字架につけられた。主の敵たちは立って主を嘲った。十字架の死は、奴隷や、重罪犯罪者の中でも最も下劣な者のためだけのものであった。いかなるローマ市民も、そうしたしかたで、――すなわち、天と地の間に吊り下げられ、あたかもその双方から拒まれ、人々から排斥され、神から蔑まれるようなしかたで――処刑されることはありえなかった。それは、刑死でもあった。主が死なれたのは、戦闘中の英雄としてではなく、自分の同胞たちを猛火や洪水から救出しようとして落命した者としてでもなかった。主は犯罪者として死なれた。カルバリの十字架の上に主は吊り下げられた。それは呪われた死でもあった。神ご自身がそれをそう呼んでおられた。「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」[ガラ3:13]。主は私たちのために呪われた者となられた。主の死は最高の意味において刑罰的なものであった。主は「十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました」[Iペテ2:24]。

 私には、《屈辱の谷における私たちの主》というような驚異に満ちた主題について、あなたに正しく語るだけの精神的な力も、肉体的な力も、霊的な力もない。これまで私は、ただ子どもの指で、キリストを指し示されるだけで満足なことがあった。また人の何の言葉がなくとも、主の御姿の中に十分なものを見いだすことがあった。私が望むのは、今晩のあなたがたもそれと同じであることである。私はあなたを招いて座らせ、あなたの主を見させよう。死に至るまで、実に十字架の死にまでも従われたあなたの主を。これらすべてを主が行なわれたのは、ご自分の謙卑を全うされるためであった。主は、この、あらゆることの中でも最低の点までご自分を卑しくされた。「死にまで……実に十字架の死にまで」。

 II. もしあなたがこの光景を明瞭にあなたの眼前にしているとしたら、私は第二のこととして、あなたに求めたい。《私たちの主の謙卑からいくつかの教訓を実際的に学ぶがいい》、と。

 最初に、贖罪の犠牲に対して堅固な信仰をいだくことを学ぶがいい。もし私たちの主が人となるほどに身を屈めることがおできになったとしたら、また、もし主がそれほどまで低くなられた後で、なおも低く、低く、低く下り、死にまで、実に十字架の死に至るまで従順になられたとしたら、私はこう感じる。その死には、私が必要とするあらゆる効力があるに違いない、と。イエスは、死ぬことによって、律法と正義との正当性を立証された。見るがいい。兄弟たち。もし神がご自分の愛する御子の上に置かれた罪を罰することがおできになるとしたら、それは、私たちを地獄送りにするよりもはるかに大きなことを意味しているのである。血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはない[ヘブ9:22]。だが、主の血は注ぎ出された。それで、罪の赦しがあるのである。主の御傷は、主の生き血を流し出した。1つの大きな深傷は主の心臓にまで達した。それまでにも、主の全身は血糊のしたたる塊となっていた。かの園で、主の汗は血のしずくのように地に落ちた[ルカ22:44]。私たちの主よ。あなたの犠牲を詳しく調べるとき、私には分かります。いかにして神が「義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになる」[ロマ3:26]ことがおできになるかが。信仰はキリストの十字架で生まれる。私たちは単に信仰を十字架に持って行くだけでなく、そこで信仰を見いだすのである。私は、私の神がこうした悲嘆のすべてを人間のからだにおいて忍ばれ、十字架上の死にまで至られたのだと考えた上で、なおも疑うことなどできない。何と、十字架が目に見えるとき、疑いは信仰よりも難しくなる! 十字架につけられたキリストが、私たちの目の前にはっきり示された[ガラ3:1]とき、私たちはひとりひとりこう叫ぶべきである。「主よ。信じます。あなたの死は私の不信仰を殺してしまいました」、と。

 キリストの謙卑からあなたに学んでほしい次の教訓は、このことである。罪に対する大きな憎しみを涵養するがいい。罪はキリストを殺した。キリストに罪を殺させるがいい。罪は主を下へ、下へ、下へと引き下げた。では、罪を引き下ろすがいい。決して罪があなたの心の中で王座を占めないようにするがいい。たといそれがあなたの心の中で生き延びるようなことがあるとしても、それを穴や片隅で生かしておき、それを完全に叩き出すまで決して安心してはならない。あなたの足を罪の首根っこに置き、それを完全に殺そうとするがいい。キリストは十字架につけられた。あなたのもろもろの情欲を十字架につけるがいい。そして、あらゆる悪い欲望を、キリストとともに、この重罪犯人の木に釘づけるがいい。もしパウロとともにあなたがこう云えるとしたらどうであろう。「私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです」[ガラ6:14]。そのときあなたは、彼とともにこう叫べるであろう。「これからは、だれも私を煩わさないようにしてください。私は、この身に、イエスの焼き印を帯びているのですから」[ガラ6:17]。キリストの焼き印を押された奴隷は、主の自由人である。

 別の教訓を学ぶがいい。それは、従順である。愛する方々。もしキリストがご自分を卑しくし、従われたとしたら、いかにあなたや私は従順になるべきであろう! 私たちは、いったん主のみこころが何であるかを知ったときには、何があってもやめるべきではない。私が驚くのは、あなたや私が、キリストに対する自分の従順において、一度でも反問したり、一瞬でも先延ばしするということである。もしそれが主のみこころなら、それを行なうがいい。それも、すぐに行なうがいい。たといそれが何らかの甘い人間関係を断ち切ることになり、涙の川を流すことになるとしても、それを行なうがいい。主はご自分を卑しくし、従順になられた。従順によって私は卑しくされるだろうか? 人々からの低い評価を招くだろうか? 嘲りの種にされるだろうか? 私の天晴れな名前に軽蔑をもたらすだろうか? キリストに従順であろうとしたら、今の私を尊んでくれている社会から爪弾きにされるだろうか? 主よ。これは発する価値もない質問です! 私はあなたの十字架を今すぐ喜びをもって取り上げます。御霊の力によって、完璧に従順になれるための恵みを乞い求めます。

 次に、もう1つの教訓を学ぶがいい。それは、自己否定である。キリストはご自分を卑しくされただろうか? さあ、兄弟姉妹。私たちは同じ聖なる行為を実践しようではないか。誰かがこう云っているのが聞こえないだろうか。「私は侮辱されました。私は、しかるべき敬意を払われていません。私が出入りしても何の注目も受けません。卓越した奉仕をしてきたのに、私については新聞に一段落も載りません」。おゝ、愛する方よ。あなたの《主人》は、ご自分を卑しくされたのだ。だのに、あなたは自分を高めようとしているように見える! まことに、あなたは方針を誤っている。もしキリストが下へ、下へ、下へ降りていったとしたら、私たちが常に上へ、上へ、上へ昇ろうとするのは似つかわしくない。神があなたを高くしてくださるまで待つがいい。それを神はしかるべき良い時に行なってくださる[Iペテ5:6]。それまで、地上にいる間のあなたは自らを卑しくしなくてはならない。もしあなたがすでに卑しい地位にいるとしたら、それで満足すべきではないだろうか? 主がご自分を卑しくされたのである。もしあなたが、今は何の注目もされない所、あなたのことがほとんど考えられもしない所にいるとしたら、それに全く満足しているがいい。

 イエスは、まさにあなたがいる所に来られた。あなたは今のあなたがいる所、神があなたを置かれた所にとどまっていて良い。イエスはご自分を引き下ろし、あなたが今いる所まで降りてくる努力をしなくてはならなかった。その《屈辱の谷》は、世界中で最も甘やかな場所の1つではないだろうか? 天的な国の偉大な地理学者、ジョン・バニヤンは、《屈辱の谷》についてこう私たちに告げていないだろうか? それは烏が上を飛ぶどの地にも劣らぬほどに肥沃な土地であり、私たちの主は以前ここに別荘を持っておられた。そして、空気が快いので、この牧草地を歩くことがお好きであった、と。そこに止まるがいい。兄弟。「私は名をあげたいのです」、とある人は云うであろう。「満天下に私の名を知らしめたいのです」。よろしい。もしあなたがそのような巡り合わせになり、もしあなたが私のように感じるとしたら、あなたは無名になりたいと願うであろう。自分の名前が注目されなくなることを願うであろう。というのも、そこには何の楽しみもないからである。私が思うに幸福な唯一の道は、もし神から選ぶことを許されたとしたらだが、誰にも知られることなく、この世を寄留者また旅人として音もなく過ぎ行き、私たちの真の親族が住んでいる国に行き着いては、そこで主に従ってきた者として知られることである。

 私たちは、私たちの主の謙卑から、人間的な栄光を軽蔑することをも学ぶべきだと思う。かりに人々があなたのもとにやって来て、「私たちはあなたを王にします!」、と云ったとしよう。あなたはこう云うのが良い。「何ですと? あなたがたが私の《主人》にささげた冠は、茨の冠しかなかったではありませんか。私はあなたがたから王冠を受け取りたくはありません」。「私たちはあなたをたたえます」。「何と、あなたがたが私をたたえようというのですか。あの方の愛しい顔につばを吐きかけたあなたがたが? 私はあなたがたのほめ言葉など全く欲しくありません」。キリスト者である人にとっては、拍手喝采されるよりも中傷された方が大きな誉れである。左様。私はどこからそれがやって来ようと気にはせず、こう云うであろう。もしその人がキリストゆえに誹謗中傷されるとしたら、彼の栄誉をたたえるいかなる叙情詩も、彼を褒めるいかなる記事も、その誉れの十分の一にもなりえない。乱闘の中で傷を負い、愛する主のゆえに手傷を受けて戻って来ること、これこそ真の十字架の騎士となることである。おゝ、蔑まれている人よ。人間の栄光は、もはや黄金ではなく、汚れたもの、腐食したものとみなすがいい。それは、あなたの主から出たものではないからである。

 そして、おゝ、愛する方々。キリストがご自分を卑しくしたというこの物語について瞑想してきた後の私たちは、主に対する自分の愛が非常に激しくなるのを感じるべきである! 私たちは、主をしかるべき半分ほども愛していない。半ばローマカトリック教徒だが、全く聖徒であったベルナルドゥスの文章を読むとき、私はあたかも自分が主をまるで愛し始めてもいなかったかのように感じる。また、ラザフォードの書簡集を紐解いて、彼の天来の《主人》に対する愛の白熱を見てとるとき私は、肉の心があるべきところに、このような石の心しかないことを思って、自分の胸を叩けるであろう。もしもジョージ・ハーバートがその奇抜で異様な詩、自分の愛しい主に対する愛で覆われた詩を歌うのを聞くとしたら、あなたは、愛の学び舎における初学者であると思って良いであろう。左様。そして、もしあなたがマクチェーンの霊に深く感銘することがあるとしたら、あなたは家に帰り、自分の頭を覆って、こう云って良いであろう。「私にはこの歌を歌う価値がない。――

   『わが魂を 愛するイエスよ』、と。

私は主の愛に対して、しかるべきものをお返ししていないからだ」。さあ、主の御傷を探り求め、あなたの心を傷つけるがいい。さあ、血と水を流れ出させた主の心臓をを仰ぎ見て、あなたの心を主に差し上げるがいい。あなたの全存在を今、すべてを満ち足らす主の功績という甘やかな香料の間に置き、燃える愛情ですべてに火を放つがいい。そして、その芳香を香の煙のように主の御前に立ち上らせるがいい。

 最後に、キリストに誉れを帰そうという強固な願いに熱く燃え上がろうではないか。もし主がご自分を卑しくしたとしたら、私たちは主に誉れを帰そうではないか。主がその冠を脱ぎ捨てると思われるたびに、それを主の頭に乗せようではないか。主が中傷されるたびに、――そして、人々は今なお主を中傷し続けているが――主のためにすぐさま男らしくはっきりと声を上げようではないか。

   「大丈夫(ますらお)ならば 主に仕え
    無数(さわ)なす敵軍(あだ)に 立ち向かえ。
    危機には高めよ 汝が勇武、
    討てや、力を いや増して」。

あなたは時として、キリストの、信仰を告白する《教会》が、主とその真理にいかなる扱いをしているかを見て憤激することはないだろうか? 彼らは今なお主を閉め出し続け、主の頭が露で濡れ、主の髪の房から夜露がしたたるほどにしている。主を、その偽りの友らの前で《王》と宣告するがいい。主を主と宣告し、こう云うがいい。主のみことばは無謬に真実であり、主の尊い血だけが罪からきよめることができるのだ、と。かくも多くのユダたちが底知れぬ所から飛び出してきて、もう一度キリストを裏切ろうとしているように見えるからには、いやまして勇敢に抵抗するがいい。他の者らが尻尾を巻いて臆病者のように逃げ出すときも、花崗岩の城壁のように堅く、忠実であるがいい。

 願わくは主があなたを助けて、ご自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死に至るまでも従われたお方に、誉れを帰させてくださるように! 願わくは主が、私のこのつまらない言葉を受け入れ、それらをご自分の民にとって祝福としてくださるように。また、何人かのあわれな罪人をご自分のもとに来させ、信頼させる手段としてくださるように! アーメン。

屈辱の谷における私たちの主[了]

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