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神がダビデの上に手書きされたこと

NO. 2280

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1892年10月23日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1890年5月25日、主日夜


「これらすべては、私に与えられた主の手による書き物にある。彼は、この仕様書のすべての仕事を賢く行なう」。――I歴28:19


 主の宮はダビデの、あるいは、ソロモンの、あるいは、他のいかなる人間の設計に基づいても、建てられるべきではなかった。それは、1つの仕様書に基づいて建てられるべきであった。神ご自身が作成された仕様書である。神のみこころのことについて、私たちは、私たち自身の判断や工夫に従うよう放任されてはいない。むしろ、私たちは教えと証し[イザ8:20]に指示を求めるべきである。常に神のことばに赴いて命令を受けなくてはならない。神が命じておられることは、その《教会》内にいる私たちを拘束している。神が命じておられないことは、せずにおいて全く差し支えない。

 あなたも注目するであろうように、ここでダビデは、自分がこの宮の設計や詳細を神から受け取ったのだと云っている。神はそれを、石の板の上にではなく、ご自分のしもべの心の上に、ご自分の手で書きつけられた。さて、この宮のためには、一切のことが整えられ、計画され、1つの仕様書に基づいて建てられることが非常に必要であった。というのも、それはキリストの予型――卓越した予型――であり、その《教会》の予型でもあったからである。《教会》は、神ご自身がお住まいになる宮なのである。さて、神がその宮によって何を教えようとしておられたかを知る者は誰もいなかった。このため、もしその建設が人間の判断にゆだねられていたとしたら、それは真の予型にはならなかったであろう。何を予表すべきかを知らない者が、いかにして予型を作れるだろうか? 神だけが、この建物によって教えようと意図していたものをご存知であった。それで、この宮が、天来の教えを伝えるものとなるためには、天来の命令に基づいて整えられなくてはならないのである。

 さらに、この宮は神ご自身のお住まいであった。《いと高き方》はご自分のみこころにかなう家をお持ちになるべきではないだろうか? もしこのお方が《居住者》となるとしたら、それはこのお方にふさわしく建てられるべきではないだろうか? そして、ある住居に神が何を要求なさるかを、神以外の誰が知っているだろうか? 人の手で建てることのできる最上の建物でさえ、神には貧しすぎる。ステパノはこう云った。「神のために家を建てたのはソロモンでした。しかし、いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません」[使7:47-48]。それでも、予型においてでさえ、それを神の御住まいとすべきだとしたら、それは神ご自身の要件に基づいて建てられなくてはならない。

 それに、この宮は大いなる《王》の御座となるべきであった。もしその御座の建てられるべき土台が、人間自身の判断による好き勝手な礼拝[コロ2:23]だったとしたら、その大元において、服従という大原則への違反があることになったであろう。私はこう信じる。神の《教会》においては、私には何事を規定する権利もなく、ジョン・ウェスレーにも、ジャン・カルヴァンにも、そして彼らより偉大な何人にも、そのような権利はない、と。神だけが至高者であられる。キリストはその《教会》の唯一の《かしら》であられる。そして私たちは、主の《教会》を建てる際に行なう一切のことにおいて、主に伺いを立てなくてはならない。さもないと、私たちは無法な原則に立って行動することになり、《教会》の真の《王》であり《かしら》であるお方の権威を投げ捨て、何か他の法に服していることになる。これは、私たちの聖なる奉仕の中心そのものに、無法さと神への反逆との模範を打ち立てることになるであろう。そのようなことは決してあってはならない。神の宮は、神ご自身の作成された仕様書に基づいて建てられなくてはならない。そして祝福を期待したければ、神の《教会》と、あらゆる聖なるわざは、神の指図に基づいて進められなくてはならない。

 私があなたの注意を引きたい点はこのことである。神がその指図をダビデに与えられたのは、それらを彼の思いに、また、彼の心に、神ご自身の御手によって印象づけることによってであった。神は、ある図面を引いて、それをダビデに手渡し、「この図面に基づいて宮を建てよ」、と仰せになるのではなく、この件についてダビデを慎重に、また、祈り深く考えさせられた。ことによると、夜の幻の中で、また、しばしば、日中この主題について彼が思い巡らしていたときに、神の御霊がやって来ては、この家がいかに建てられるべきかについて知る必要のあることをダビデに啓示されたのかもしれない。「これらすべてを、主の手が私の上に書く中で、主はこの見本のすべての仕事を私に理解させてくださった」<英欽定訳>。

 私が今晩、第一にあなたの注意を引きたいのは、ダビデに与えられたこの異様な指示についてである。それから、私たち自身に深く関わることとして語りたいのは、神の真理において聖徒たちが受ける霊的な教えについてである。これは、ダビデに与えられたこの指示と非常に類似している。それから、しめくくりの前に、私は、受けたことを伝えるという私たちの義務について二言三言語りたいと思う。もし神が私たちに教えてくださったとしたら、私たちはダビデがしたことを行なわなくてはならない。同じことを忠実な人々にゆだねなくてはならない。それは、私たちが世を去る前に、他の人々に主のためのわざを始めさせ、神のわざを成し遂げないまま私たちが引退するようなことがないようにするためである。

 I. まず第一に、愛する方々。私があなたの注意を引きたいのは、《ダビデに与えられた異様な指示》についてである。

 ダビデが彼の指示を受け取ったのは、彼の心の上に神がご自身の御手をもって書き記すことによってであった。このことに注意するがいい。ダビデはそれを、他の人々との協議によって受けたのではなかった。ダビデは、ツロの王ヒラムに使いをやって彼の判断を尋ねたり、ベツァルエル[出31:2]並みの、また、その他の名工たちを召して、その助言を求めたりはしなかった。神ご自身が彼を教えられた。ここから思い出されるのはパウロが云ったことである。「私は人には相談しなかった」*[ガラ1:16]。「兄弟たちよ。私はあなたがたに知らせましょう。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです」[ガラ1:11]。嘘ではない。もしあなたが何かを正しく学ぶとしたら、それは神から学ばなくてはならない。そして、他の人々との協議は、いくつかの点では非常に役に立つことがしばしばあるが、あなたが神のことばを信じるか否かという問題については人に相談を持ちかけてはならない。それは至高の権威を持つということである。そして、たとい一部の人々が神のみこころのことにおいて深く教えを受けているとしても、また、時にはあなたの助けになるとしても、あなたは彼らが云うことに従って、主ご自身があなたに与えられる指示を取り逃がしてはならない。いかなる人の声も、あなたにとって最高のものとなるべきではない。最高のものはただ、この《書》から語りかける聖霊なる神の御声だけである。ここには、いのちと敬虔についてあなたが知る必要のあるすべてのこと[IIペテ1:3]が含まれている。願わくは聖霊なる神があなたに、自分のすべての指示をそこから引き出す恵みを与えてくださるように! ダビデは、宮を建てることについて他の人々と協議しなかった。私たちも、私たちの信条を獲得するのに、他に人々と協議すべきではない。神ご自身のもとに行き、神に祈るべきである。それを私たちの心の上に、ご自分の御手によって書き記してくださるように、と。

 また、注目してほしいが、ダビデは、以前の模範に盲従的にならいはしなかった。荒野におけるイスラエルには、エホバと民との会見の場として、獣皮で覆われた天幕があった。それは単純な構造で、容易に移動させられた。だが、今やその幕屋は、この宮に呑み込まれるべきであった。そして、たといその宮の全体的な形が、非常に強く幕屋の面影をとどめているとしても、それでもダビデには自分の行なったことについて、清新な啓示、清新な導きを有していた。私は、人が昔ながらの事がらを固守しているのを見ると嬉しく思う。だが、そうする際においてすら、その人は間違いを犯すことがありえる。昔ながらの事がらの中には、より新しく、よりすぐれたものに取って代わられて良いものがありえるからである。あなたの目を神に向けて上げ続けるがいい。神にとっては何事も古くはなく、何事も新しくはない。神の足台のもとで待つがいい。あなたの心を書き板のように差し出すがいい。そこに、神からその一切の指示を書いていただき、それから神が云われた通りに行なうがいい。

 文脈によると、神はこの働きの詳細についてダビデに種々の指示を与えられた。あなたには、この章を読むことを勧める。これは、最初はその中にほとんど何もないように見受けられる。だが学べば学ぶほど、大きく教えられるであろう。とりわけ神がダビデに啓示されたのは、「玄関広間、その神殿、宝物室、屋上の間、内部屋、贖いの間などの仕様書」[I歴28:11]である。神は、もしあなたが神を待ち続けるとしたら、教えてくださるであろう。あなたの働きの詳細を、ご自分の福音の詳細を、あなたの経験の詳細な説明を。「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」[箴3:6]。先日ある人が私にこう云ったが、それは非常に知恵のある言葉だと思った。「神はご自分のしもべたちの歩みを指図されますが、ご自分のしもべたちの足踏みをも指図されます。彼らが何の歩みもできず、立ち尽くさざるをえないと感じるときにはそうされるのです」。神は彼らを、行動することにおいても、行動しないことにおいても指図してくださる。あなたは神のもとに行き、詳細な導きを求めて良い。特に、神への奉仕においてそうである。もしも、何が神のみこころか知りたければ、聖霊の教えに身をまかせ、この《書》を調べるがいい。というのも、これはあなたに、玄関広間や、神殿や、宝物室や、屋上の間や、内部屋や、贖いの間についての一切のことを、また、あなたが知る必要のある一切のことを告げてくれるからである。

 さらに、彼に与えられた指図はきわめて精密であった。先の聖書朗読の際にあなたも注意したように、そこには、燭台とその上にあるともしび皿との黄金の目方が記されていた[I歴28:15]。さて、いかなる人も、以前に枝付き燭台か、そうした類の燭台を作ったことがない限り、どれだけの量の黄金が入用かは分からなかったであろう。この場にいるいかに熟練した職人であれ、たといそうした事がらを専門にしているとしても、必要とされた黄金の目方を正確に知るのは容易でなかったであろう。だが、もしもその知識を必要とする者がそうした事物をそれまで一度も作ったことがなかったとしたら、また、もしもその者が剣に馴染んだひとりの王だったとしたら、いかにして彼は、燭台のためにどれだけの目方の銀が必要で、七本の枝付き燭台のためにどれだけの目方の金が必要で、その上にあるともしび皿にどれだけの目方が必要かを知りえただろうか? これは、霊感に何ができるかを示す素晴らしい実例である。いかに神の御霊は、ご自分のしもべダビデに、主の家のための様々な器を、一枚一枚の杯に至るまで、このように素晴らしく作るための全詳細を教えることがおできになったことか。「金の杯については、それぞれの杯の目方、銀の杯について、それぞれの杯の目方」[I歴28:17]。すべての手筈が正確に整えられた。もし私たちが、聖霊の導きの下で神のことばに厳密に従おうとするなら、私たちは、それが私たちの個人生活の詳細に入り込み、教会生活の詳細にわたり、私たちの種々の苦難、必要、喜びの詳細をうがつことに気づくであろう。神は、あなたが指図を受けようとするなら、あらゆることにおいてあなたを指図してくださるであろう。「あなたがたは、悟りのない馬や騾馬のようであってはならない。それらは、くつわや手綱の馬具で押えなければならない」*[詩32:9]。むしろ、喜んで神の指図を受けようとするがいい。そうすれば、あなたはごく小さな事がらにおいてさえ、指図に欠けることはないであろう。

 さらにまた、最も奥深い事がらもダビデの前にはあらわにされた。ケルビムを見た者は誰ひとりいなかった。これは大雑把な云い方である。というのも、一年に一度、大祭司は聖所に入ったからである。だが、そのとき彼はほとんどケルビムを目にはしなかった。「贖いのふた」の前に立つ彼の回りでは、立ち上る香[レビ16:13]の煙が、その場所にあるあらゆるものをぼんやりと霞ませたに違いない。それらは、ほとんど目にされない対象であった。だが、ダビデはその心の目でそれらを見ていた。彼の心の上には、神の御手によって、ケルビムの肖像が書き記されていた。というのも、こう書かれているからである。「主の契約の箱の上で翼を伸べ、防ぎ守っているケルビムの車のひな型の金のことが示されていた」[I歴28:18]。このことのひな型が、ダビデの知性と心の上には焼きつけられていた。おゝ! しかり。主はあなたに、見ることのできる一切のものを見させてくださるであろう。喜んで見ようとする人に対して、主の啓示の中には何の出し惜しみもない。そこには、口に出すことのできない言葉がある。だが、パウロはそれを聞いた[IIコリ12:4]。それを告げることは決してできなかったが関係ない。彼にはそれを語ることを許されていなかった。主には隠された事がらがある。だが、それらは、「ご自身を恐れる者とともにあり、主はご自身の契約を彼らにお知らせになる」[詩25:14 <英欽定訳>]。ある種の事がらは、ほとんどの人々に関する限り、幕の内側にある。だが、キリストにある人にとって、その垂れ幕は引き裂かれており、その人自身の心と思いの上にかかっている顔おおいも神の御霊によって取り除かれているため、その人は、ダビデと同じように、神のみこころのことを見てとり、それを喜べるのである。

 さて、私たちはこの聖句でこう告げられており、私はその言葉そのものに立ち戻らなくてはならない。「主の手が私の上に書く中で、主は……私に理解させてくださった」<英欽定訳>。ダビデは、単に詳細を知っただけではない。それを理解した。彼は、与えられた指示によって神が何を意図されたか明確な洞察を得た。さて、愛する方々。この世で最も困難なことは、人に理解力を与えることである。私たちには、自分の説教と教えによって、物事をきわめて明確に理解させようとする義務がある。だが、もし人々に何の理解力もないとしたら、私たちがそれを彼らに与えることはできない。だが、神にはおできになる。理解力そのものが暗くなり、理解力であることをやめるときも、神はそれを刷新して、それをことごとく明確で明るくすることがおできになる。そして、神のみこころのことを理解できるようになさる。「主は……私に理解させてくださった」。おゝ、何たる特権であろう! 単に、「私に聞かせてくださった」、ではなく、「私に理解させてくださった」。では、いかに主はそれを行なわれたのだろうか? 「主の手が私の上に書く中で」、とダビデは云う。このように書くことは、ダビデ自身の精神の上になされた。彼は、二階に行ってそれを取ってくる必要はなかった。「私は、いつもそれを持ちかかえてはいられない」、と云う必要はなかった。むしろ、彼は実際、どこへ行こうと常にそれをかかえていた。というのも、神はダビデ自身の上に書かれたからである。

 そして、それは神の御手によってそこに書かれた。さて、私はここで私の本題に達しつつある。「主の手が私の上に書く中で、主は……私に理解させてくださった」。神はご自分の律法を聖書に書かれるが、私たちはそれを理解しない。神がそれを私たちの心の上に書かれると、そのとき私たちはそれを本当に理解する。それは、その文字の中にあり、私たちは悟りが鈍く、それを理解しないかもしれない。だが、もしそれが、その霊においてここにやって来ると、私たちの心はもはや鈍くなくなり、神に生かされており、神の御霊の事がらを受け入れるのである。肉の思いは、霊的な事がらが分からない。だが神は私たちに霊的な思いをお与えになり、そのとき私たちは霊的な事がらを理解し始めるのである。「主の手が私の上に書く中で、主は……私に理解させてくださった」。私たちは、神の御手から出た賜物からも多くを学ぶ。だが、何よりも多くを学ぶのは、その御手そのものからである。時として神は、御手を非常に重くその子どもの上に置かれる。あなたは、神の種々の賜物を忘れることはできるが、その御手の重圧を忘れることはできない。時として、神は御手を私たちの上に置き、私たちの心そのものまでお砕きになるように思われるであろう。私たちはよろめき、苦悶が私たちの霊を打ち砕くであろう。神が鋼鉄の洋筆で魂の上にお書きになるような書き物はどこにもない。そして、時として神は非常に重く鋭い一筆を振り下ろしては、切り裂きながらはね上げなさる。主が、エルサレムにある宮の建築に関する全詳細をダビデの心に書き記されのと同じように、心という肉の書き板に、ご自分の思いとみこころを書き記されるときにはそうである。

 II. さて、そこから私の第二の点に移る。それは、《神の真理において聖徒たちが受ける霊的な教え》についてである。

 最初に指摘したいのは、神は今なお人々の心にものを書いておられる、ということである。神は、紙と墨にまさって、肉の書き板とご自分の御霊をお好みになる。パウロはコリント人たちにこう書いた。「私たちの推薦状はあなたがたです。それは私たちの心にしるされていて、すべての人に知られ、また読まれているのです。あなたがたが私たちの奉仕によるキリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれたものであることが明らかだからです」[IIコリ3:2-3]。神は、書き記すべき新しい心をお作りになる。そして、新しい心を作ると、ご自分の洋筆を取って、そこにご自分の家の律法を記されるのである。あなたは、自分の心の上に神のことばが書かれたことがあるだろうか? あなたがたの中のある人々が、そうされたことがあるのを私は知っている。だが、残念ながら、あなたがたの中のある人々はそうされていないのではないかと思う。なぜなら、私は知っているからである。ある説教を聞き、また、聖書を読んで、「おゝ、素晴らしいことだ!」、と云った後で、この世に出て行き、説教者から聞いたこと、あるいは、神のことばに書かれているのを見いだしたこととは、きれいに正反対のしかたで行動することが、いかにたやすいことかを。

 さて、神がご自分のみことばの偉大な諸真理をいかにして私たちの心にお書きになるか、もう少し詳しく示させてほしい。私たちはこのほむべき《書》のもとに行き、人が堕落していること、罪によって破滅していることに気づく。あなたは、自分についてそれがその通りであると感じたことはあるだろうか? あなたは覚えているであろう。自分が堕落していると知ったときのことを、自分の心が腐敗していると見てとれたときのことを、自分が失われ、滅びて、破滅した者であると感じたときのことを。あゝ! そのとき主は、その手があなたの上に書く中で、あなたに理解させてくださったのである。この《書》が私たちに告げるところ、キリストを離れて私たちには何もできない。私たちは死んでいる。何の力もない。あなたは、一度もそうだと気づいたことがないだろうか? 何と、あなたがたの中のある人々は、主を求め始めたときに気づいたはずである。あなたご自慢の力が、ことごとく蒸発してしまっていることを! あなたは正しく感じることも、正しく考えることも、正しく行動することもできなかった。いかに懸命に試みても、髪の毛を剃り落とされたときのサムソンのように、虚弱にすぎて、何の良いことも成し遂げられなかった。そのとき、あなたは1つの教理をそのようにして学んだのである。私はそれをあなたの耳に説教してきたかもしれない。だが神がそれをあなたの心の上に置かれたのである。あなたには、それと分かったはずである。主はそれをあなたにご自分の御霊によって教えてくださったからである。そして、今やいかなる者もそれをあなたの中から運び去ることはできないからである。それから、こういう時が訪れた。あなたは聖書の中で、キリストがその民の《救い主》であること、また、キリストを仰ぎ見る者は誰でも生きることを読んだ。あなたは、そう説教されるのを聞いて、また、この《書》の中でそう読んで、それを信じた。そして、本当に仰ぎ見た。あなたはキリストを仰ぎ見た。自分のために、あの呪われた木にかかっておられるキリストを凝視した。さて、聞かせてほしい。あなたは、自分が仰ぎ見たとき、即座に栄光に富む救いを見いださなかっただろうか? 重荷があなたの両肩の上から転がり落ちなかっただろうか? 病があなたの心から去らなかっただろうか? 今晩あなたはこう云えないだろうか?――

   「幸いな日よ、幸いな日よ。
    主はわが罪を 洗い去りたり」。

そして、そのとき、贖罪の犠牲の教理、すなわち、神の御子イエス・キリストの血が私たちをすべての罪からきよめるという教理、それをもあなたは、主の手があなたの上に書く中で、理解させられたのである。そして、地上にある、あるいは、地獄にあるいかなる力も、その教理をあなたから取り去ることはできない。その時以来、あなたは他の諸教理を学んできた。おそらく、カルヴァン主義の五要点を、あるいは、他の何らかの体系の五十要点をさえ学んできたであろう。だが、あなたは決してそれらを単に聖書の中に読むことで学んだのではない。あなたがそれらを本当に知ったのは、神の洋筆があなたの内なる性質の中で上下に動き、あなたの心が主のお伝えになろうとした印象を受けとめたときであった。あなたの心には、これからなおも書かれるべき真理がもっとあるであろう。だが、私たちは故国に行き着き、私たちの御父の家に行くまで、そのすべてを知ることはないはずである。その間、神のことばをさらに読み続け、その真理をより多く自分のものとし続けよう。だが、嘘ではない。主要なことは、神の啓示によって記されていると悟り知るものを、真の個人的経験によって得ることである。「主の手が私の上に書く中で、主は……私に理解させてくださった」。願わくは主が、この場にいるすべての、キリストに仕える教役者たち、《日曜学校》教師たち、また、あらゆる種類のキリスト教の働き人たちをそのようにしてくださるように! 願わくは私たちが、この《書》に書かれていることを、私たちの心に書かれていることによって知るように!

 さて、私の信ずるところ、主はこのことを私たちの大いなる《見本》に関して行なわれる。「これらすべてを、主の手が私の上に書く中で、主はこの見本のすべての仕事を私に理解させてくださった」。私たちには、ひとりの偉大な《見本》があり、みながその方を見習うべきである。あなたは、私たちが非常にしばしば歌うそのお方がどなたか知っている。――

   「なり給え、わが 手本(かがみ)と。われに
    うつさせ給え、汝れがかたちを!」

願わくは主ご自身が、その栄光に富む《手本》に従って、私たちの上に書いてくださるように! 聖霊以外のどなたが私たちのうちに作り出すことができるだろうか? キリストの謙遜、キリストの勇気、キリストの自己否定、また、キリストがおささげになったほどの、御父のみこころへの完全な従順を。私たちがこのように歌うキリスト以外のどなたが、そうしたすべてを私たちに与えることができるだろうか?――

   「冷えし山々、夜闇の大気(いぶき)、
    見てとりぬ、汝が 熱き祈りを。
    砂漠(あれち)は知れり、汝が誘惑(まどわし)も
    汝が争闘(たたかい)も、また、汝が勝利(かち)も」。

私たちの中の誰も、自分はキリストのようにはなれないと考えてはならない。誰も、「この《見本》は真似するには難しすぎる」、と云ってはならない。否、否。私の兄弟。私たちは、自分がそれほどまでに不十分な者であることで涙に暮れ、その上で、自分のうちに力強く働くキリストの力によって奮闘し[コロ1:29]、実際に主に似た者となるまで決して満足しないようにしよう。《詩篇作者》は何と云っているだろうか? 「私は……目ざめるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう」[詩17:15]。そのときまで、私たちは決して満ち足りない。それゆえ私たちは、キリストが私たちの上に現像されるまで、キリストの光の中に座し、この天来の《見本》の生き写しとなって出て行くようにしよう。

 もう数分かけて、あなたに示したいのは、主がいかにあなたがた、主を愛し、主を恐れる主のしもべたちに、この偉大な救いのみわざについてあなたが知る必要のある一切のことを明らかに示すことがおできになるかということである。神のことばの中には、救いの模範が1つあり、あなたがた、他の人々に教えたいと思っている人たちは、自分の教えのすべてをこの模範にならわせなくてはならない。主はあなたに、ご自身の教会と、ご自身の救いの宮とについて、あなたが知る必要のある一切のことをあなたに教えることがおできになるし、教えてくださるであろう。この章の11節をもう一度読むがいい。「ダビデはその子ソロモンに、玄関広間……などの仕様書を授けた」。おゝ、あなたがた、これから教役者になろうとしている青年たち。この玄関広間の仕様書について、はっきり明確な見方をするよう心がけるがいい! 罪人にはありのままでキリストのもとに来るよう告げるがいい。種々の感情だの備えだのといった小綺麗な張り出し玄関を打ち立て始めてはならない。玄関広間とくぐり門を打ち立て、それを通して光を射し出させるがいい。それから、この言葉をその上に書いておくがいい。「たたきなさい。そうすれば開かれます」[マタ7:7]。虚ろな罪人たちに、満ち満ちたキリストを宣べ伝え、彼らに告げるがいい。主が彼らに要求されるふさわしさのすべては、彼らが主を必要と感ずることだけでしかない、と。また彼らに告げるがいい。主はそれすらも彼らに与えてくださる。彼らはそれを自分の内側で探す必要はない、と。もし彼らが自分たちの必要を感じなければ、彼らは主のもとに来て、自分たちの必要に対する感情を得なくてはならない。というのも、最初からそれはすべて恵みによるもの、また、すべてキリストによるものだからである。それで、私の兄弟たち。この「玄関広間の仕様書」を明瞭に見てとるがいい。

 「その家々」<英欽定訳> とは、祭司たちとレビ人が住んでいた場所である。キリストがご自分の民の住まいとしてお与えになる家々を明瞭に見てとるがいい。いかに彼らが主とともに住むか、いかに彼らが主とともにとどまり、もはや永遠に外に出て行くことがなくなる[黙3:12]かを。私にはこのことを詳しく語ることができないが、あなたはそれを自ら熟考し、あなたの話を聞く人々や、生徒たちに説明できよう。こうした、現在の喜びと未来の至福という住まいについて考えるがいい。これは、真の、生きた道、すなわち、キリスト・イエスを通って来た人々が有することになる住まいである。キリストこそは、救いの宮に入るべき唯一の道なのである。

 「宝物室」。あなたがキリストを宣べ伝えるときには、このことに注意するがいい。ぜひとも、神の家の数々の宝物に関することが、この《書》の中ばかりでなく、あなたの心にも書いてあるようにするがいい。おゝ、恵みの契約の無限の富よ! おゝ、私たちの主キリスト・イエスの、すべてを満ち足らす十分さよ! おゝ、聖霊のうちに見いだされる力の豊かさよ! おゝ、天来の主にして《主人》なるお方を信ずる者たちのために蓄えられている祝福の山よ! あなた自身の心で、この救いの宮の数々の宝物を明瞭に見てとり、それから行って、それらのことを他の人々に宣べ伝えるがいい。

 それから次は何だろうか? 「屋上の間」である。あなたは、そうした数々の屋上の間に入ったことがあるだろうか? そこからは、これから明らかにされるべき栄光を見晴らすことができるのである。そのとき、あなたは天国の間近にあり、あなたの神の間近にあった。ことによると、あなたはそうした高みにまだ達したことがないかもしれない。そうだとしたら、主があなたの心に、そうした屋上の間の図案を書き記してくださるように!

 「内部屋」。私は、これを読み返し、その奥深くをのぞき込もうとしたとき、この内部屋について多少は知っていると思った。おゝ、そこには甘やかな交わりがある。イエスがおられる所に住み、イエスとともにとどまり続ける人のほか誰も知らない交流がある! その人は何でも好きなものを願うことができ、それはその人に与えられる。そして、イエス・キリストを通して絶えず神を喜ぶことになる。こうした内部屋をよく見てとるがいい。願わくはこうした部屋の仕様書があなた自身の心に書き記されるように。そうしたら、行って、それらのことを他の人々に告げるがいい。

 そして、ここにはもう1つのことがある。「贖いのふたの間」<英欽定訳> である。あなたはしばしばこう歌う。――

   「ある所にて イェスは注がん、
    喜びの油 われらが頭に!
    こは余の場所に まさりて甘し、
    血に染まりたる、贖いの蓋は」。

願わくはあなたが、この「贖いのふたの間」についての仕様書を心に書き記されるように! それは、あなたも知っての通り、幕の内側にあり、契約の箱の上にあり、ケルビムの翼の下にある。それは、神がモーセとアロンと会見された場所、また、その臨在の光を照らし出し、喜んで仕える彼らの目を喜ばせた場所である。願わくは、あなたが日々の経験によって、この贖いのふたにおける祈りの力を知ることができるように! それから、行って、このことについてあわれな罪人たちに告げるがいい。また、それをあわれな聖徒たちに告げるがいい。神の御霊がご自分の御手であなたの心の上に書かれた通りに。

 III. しかし、今や時間はほとんど尽きてしまったので、手短に第三の点について語ってしめくくらなくてはならない。すなわち、《あなたの心に神が書かれたことを、何であれ他の人々に伝えるという義務》についてである。神があなたにお告げになったことを、他の人々に告げるがいい。私たちの主は弟子たちに云われた。「あなたがたが耳もとで聞くことを屋上で言い広めなさい」[マタ10:27]。主は同じことを私たちにも語っておられる。「誰のところに行けば良いのですか?」、とあなたは云うであろう。よろしい。ダビデをあなたの模範とするがいい。

 最初に、ダビデはソロモンにこうしたすべてを告げた。「あゝ」、とあなたは云うであろう。「私の息子はソロモンなどでは全然ありませんよ」。だとしたら、なおのこと、あなたには彼を教える理由があることになる。ことによると、ダビデはソロモンを教えることを免除されて良かったかもしれない。彼はすでにあれほど賢かったからである。だが、彼がソロモンに指示したという事実は、私たちに教えるものである。いかに賢い子どもでも、神のみこころのことを教えられる必要はあるのだ、と。もしあなたの息子がソロモン並みの者でないとしたら、あなたには彼を二倍も、あるいは、必要ならば何倍も教える必要があるであろう。もしも誰かが、「なぜお子さんを二十回も教えるのですか?」、と尋ねるとしたら、こう云うがいい。それは、十九回では彼を救いに至らせなかったことが分かったからであり、彼が救われるまで自分は教え続けるつもりだ、と。このことについてソロモンに告げるがいい。彼に云うがいい。「息子よ。ここに来なさい。そして、耳を傾けなさい。お前の父が、あの素晴らしい《いのちのことば》について何を味わい、何に触れてきたかを。お前の父が天来の恵みについて何を経験してきたか聞きなさい」、と。

 よろしい。ことによると、あなたは云うであろう。「はい。私は《救い主》のことを息子たちに話してやろうと思います。他の誰かに語った方が良いでしょうか?」 次に、愛する方々。えり抜きの話相手にキリストのことを語るがいい。私が非常な特権とみなしているのは、えり抜きの青年と個人的な会話ができる場合である。それは、ずば抜けた能力があり、神のために大きな働きを行なうよう神から召されていると信ずべき理由のある青年である。ダビデは、神が宮を建てさせるためにソロモンを選ばれたことを知っていた。それゆえ、自分が主から受けた詳細を彼に与えようと非常に心を砕いたのである。ことによると、あるキリスト者の婦人はこう云うかもしれない。「私が、お若い教役者の先生にお話をするなんてことを仰ってるんじゃありませんよね」。よろしい。私の愛する姉妹。あなたは、プリスキラと彼女の夫アクラについて何と記されているか知っているであろう。彼らは大して偉大な人々ではなかった。ただの天幕作りだった。だが、アポロに対して話をし[使18:26]、そのことによってアポロは生涯、この質朴な男女に恩義を負うことになったのである。神がお用いになった人々、また、これからさらにお用いになるだろう人々の中の何人かは、あなたに告げるであろう。自分たちは、自分たちにキリストについて話してくれた純朴な人々に大きな恩義をこうむっています、と。ベッドフォードで、日向ぼっこをしながら座って糸を紡いだり、靴下の繕いをしたりしていた敬虔な婦人たちが、神のみこころのことについて話し合っていたところ、ジョン・バニヤンが立ち止まり、彼女たちの話していることに耳を傾けた。そして彼は、彼女たちの聖なる語らいによって、その残りの生涯すべてにわたって益を受けたのである。もしあなたに機会があるなら、また、何らかのえり抜きの若い精神と行き合うことがあったとしたら、神があなたに、その大いなる救いのご計画について告げてくださったことを、必ず彼らに告げるようにするがいい。

 そして最後に、ダビデは、すべての人々を集めて、この宮のことを彼らに告げた。次の章にはこう書かれている。「次に、ダビデ王は全集団に言った。『わが子ソロモンは、神が選ばれたただひとりの者であるが、まだ若く、力もなく、この仕事は大きい。この城は、人のためでなく、神である主のためだからである』」[I歴29:1]。彼らはすぐに金や、銀や、青銅や、木や、宝石を宮のためにささげ始めた。神があなたに告げられたことを、あなたにできる限りのすべての人々に告げるようにするがいい。残念ながら、この場にいるある人々は、自分たちの生涯の事業をまだ見いだしていないのではないかと思う。私たちは、説教者たちの中に非常に多くの「タラント」を欲する癖がついている。「タラント」など、底知れぬ所に投げ込まれるがいい! それは、神の《教会》に善を施すより、ずっと多くの害をもたらしてきた。もし素朴なキリスト者の人々が、機会のある所ならどこででも、キリストについて語るようになるとしたら、それは黄金時代を迎え入れることであろう。ことによると、この場には、《救い主》を見いだしたいと願っている、ひとりの悩める罪人が来ているかもしれない。その人に話しかけるがいい。「おゝ!」、とあなたは云うであろう。「その人は気分を害するかもしれません」。そうかもしれない。だが、それであなたが死ぬわけではない。その人にイエス・キリストのことを告げるがいい。そして、もしその人が、あなたの告げることを通して天国に行くとしたら、その人は、あなたが瀟洒な名刺を渡して自己紹介しなかったことも赦してくれるであろう。もしあなたが1つの魂を天国に至らせるとしたら、いきなり語りかける不作法さなど、決してその魂には思い浮かばないであろう。願わくは神が私たちを助けて忙しく立ち働かせ、私たちの心の上にお書きになったことをはっきり語らせてくださるように。そして、神の御名がたたえられるように!

 ことによると、あなたは、あなたの心の上に全く何も書かれていないかもしれない。話をお聞きの愛する方々。ならば、今晩、この単純な祈りによって、主の前にあなたの心を置くがいい。「主よ。お書きください!」 そして、もし主がその上に一言、「イエス」、と書いてくださるなら、それは、あなたに必要なすべてであろう。神があなたがた全員を祝福し給わんことを。イエス・キリストのゆえに! アーメン。

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神がダビデの上に手書きされたこと[了]

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