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嬉しさが信仰を妨げる

NO. 2279

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1892年10月23日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1890年5月25日、主日夜


「それでも、彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、『ここに何か食べ物がありますか。』と言われた。それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、イエスは、彼らの前で、それを取って召し上がった。さて、そこでイエスは言われた。『わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。』そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて」。――ルカ24:41-45


 弟子たちは、戸を固く閉ざして集まっていた。ユダヤ人の群衆を恐れていたからであった。そこへ突然、《その方》が来られた。彼らの思いの念頭にあった《その方》、《十字架》の上で死んだのを彼らが見届け、彼らの中の何人かがその埋葬を手伝ったキリストである。その主が彼らの前に立たれ、「彼らは驚き恐れ」た[ルカ24:37]。以前、ガリラヤ湖上で起きた場合のように[マタ14:26]、今の彼らも、「あれは幽霊だ」、と云って、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。《救い主》は手を尽くして、彼らの思いからその間違いを覚まされた。主は彼らに云われた。「わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています」。イエスはこう云われて、その手と足を彼らにお示しになった[ルカ24:40-41]。主は、ご自分にできる最大限のことをして、ご自分が肉や骨でできたまことの人であることを証明された。

 そのとき彼らは信じた。主が死者の中からよみがえり、自分たちの真中におられることは、完璧に明らかだったからである。だが、自分たちの主が真に彼らとともにおられると信じようとし始めたとき、彼らは、それがあまりにも素晴らしすぎて、本当とは思えなくなった。喜びの波が逆巻き押し寄せては、再び退き戻り、彼らもそれにさらわれてしまったかに見えた。彼らは、嬉しさのあまり信じられなくなった。驚愕させられ、不信に満たされてしまった。いったんは信じた。さもなければ、何の嬉しさも感じなかったであろう。だが、その嬉しさそのものが、それを生み出した元となることを呑み込んでしまい、過度の嬉しさのため信じられなくなってしまった。これは、ごく普通の経験である。そして、私がこの聖句を今晩取り上げているのは、すでにキリストを見いだしており、救われていながらも、今は、それが本当とは思えないほど素晴らしいために思い悩んでいる人々を取り扱いたいと思うからである。

 では今晩、もし私にそうする力があるとしたら、第一に語りたいのは、彼らが苦労を覚えた困難についてである。「彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず」。第二に語りたいのは、私たちの主が、いかにして彼らにこの困難を克服する助けを与えられたかということである。主は最初、彼らの前で魚と蜂蜜[42節 <英欽定訳>]を取って召し上がった。それから、聖書を悟らせるために彼らの心を開かれた。

 I. まず第一に、《彼らが苦労を覚えた困難》である。「彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず」。

 これは、嬉しさが信仰の流れを塞ぐかに思われた最初の事例ではない。それは、別の折にも起こったことがある。創世記にはその古い例がある。創世記45:25、26に目を向けてもらえるだろうか? ヤコブは自分の愛するヨセフを失っていた。彼が死んだと信じていた。血染めの上着を見せられ、それを息子のものだと認めていた。だが、今や兄弟たちがエジプトから帰って来て、ヨセフはまだ生きており、エジプト全土を支配しているのだと云うのである。「彼らはこうしてエジプトから上って、カナンの地にはいり、彼らの父ヤコブのもとへ行った。彼らは父に告げて言った。『ヨセフはまだ生きています。しかもエジプト全土を支配しているのは彼です。』しかし父はぼんやりしていた。彼らを信じることができなかったからである」。それは、本当のことにしては素晴らしすぎた。それで、彼はがっくりしてしまった。「お前たちはわしをかつごうとしているに違いない」、と彼は云った。彼は、自分の息子たちが以前にも嘘をついたことを知っていた。実際、もしこの報告が本当だったとしたら、彼らは以前に嘘つきだったことになるのだった。それでいま彼は、彼らの知らせを信じられなかった。それは彼にはあまりのことであった。それで、この老人は呆然としているのである。それと同じように、私が出会ってきた多くの人々は、キリストが彼らを救ってくださったと告げられ、それを信じた。だが、信じた後で、そうしたことを信ずるのは増上慢だったかのように思われ、再び疑いと意気阻喪へと投げ込まれてしまった。

 ヨブもかつて同じような状況にあった。というのも、彼はヨブ記9章16節でこう云っているからである。「たとい、私が呼び、私に答えてくださったとしても、神が私の声に耳を傾けられたとは、信じられない」。彼は神を恐れることはなはだしく、自分自身の無価値さと神の偉大さを痛感していたため、こう云うのである。たとい自分が祈り、神が自分の声を聞いてくださったとしても、自分にはそれが本当とは信じられなかっただろう、と。これはヤコブの場合よりも霊的であったが、嬉しさそのものが不信仰を引き起こしうるという事実に関しては、非常に類似するものがある。

 同じ考え方は詩篇126篇にも現われている。あなたもこの言葉を覚えているであろう。「主がシオンの捕われ人を帰されたとき、私たちは夢を見ている者のようであった」[1節]。彼らはこう云ったかのようである。「私たちにはそれが信じられなかった。それがみな空想か、幻想の気紛れか、眠りについた霊のいたずらだとばかり思った」、と。

 もしあなたが別の例を知りたければ、『使徒の働き』12章に記されているペテロの場合がある。ペテロが監獄から連れ出された後で、御使いは彼を町通りに進ませ、彼は自分が自由になったことに気づいた。だが彼には、「御使いのしている事が現実の事だとはわからず、幻を見ているのだと思われた」[9節]。彼は、自分の脱出に対するあらゆる障壁が取り除かれ、自分が本当に監獄から外に出たとは信じられなかった。同じ章には、ひとりの若い婦人のことが言及されているが、彼女もペテロと非常によく似た思いに陥った。13節、14節を読むがいい。「彼が入口の戸をたたくと、ロダという女中が応対に出て来た。ところが、ペテロの声だとわかると、喜びのあまり門を開けもしないで、奥へ駆け込み、ペテロが門の外に立っていることをみなに知らせた」。なぜ彼女は彼を中に入れなかったのだろうか? あゝ! 彼女はそうするにはあまりに喜びすぎたのである。あの井戸のそばの女が、キリストを見いだしたとき、自分の水がめを置いてその場を去ったように[ヨハ4:28 ]、ロダはペテロを戸の外側に立たせたままにしてしまった。彼女は喜びのあまり彼を中に入れなかったのである。飢えた人は、ようやくパンを見いだしたとき、喜びのあまりをそれを食べられないかもしれない。喉が渇いた人は、泉のもとにやって来ると、しばらくは喜びのあまり、かがみ込んで、その冷たい流れから飲むことができないかもしれない。人間とは不思議に逆説的なものである。私たちは逆説によって成り立っている。私たちは世界中で最も奇異な生き物である。私たちは信じて喜びを覚える。それから、喜んでいるがゆえに信じなくなる。それが真の喜びだとか、真の信仰ではありえないと考えるからである。私の兄弟たち。私はあなたが理解できない。なぜなら、私自身をも理解できないからである。そして、私は、あなたがあなた自身を理解できるとも思わない。ありがたいことに、あなたは、自分を理解する必要がない。あなたは、偉大な《医者》の手の中にある。そしてこのお方は、あなたについて何もかも知っており、あなたが自分でも何が問題か見当のつかないところでも、あなたのための処方を書いてくださる。

 私はあなたに聖書の中から3つの例を示したが、このような場合は私たちの経験の中でごくありがちなことができる。ここに、信仰による即座の救いの教理が宣べ伝えられるのを聞いた人がいる。その人はこのことを理解する。

   「罪人は 十字架につける 御神をば
    信じて頼る その瞬間(とき)に
    たちまち受くなり その赦し
    御血潮による みすくいを」。

その人は信じ、完全な贖いを受け入れた。だが今、自分に向かってこう云う。「これは本当に真実でありえるだろうか? 何と! 私のもろもろの罪が赦される? 私は雪よりも白いのだろうか? 私のあの大きな罪、私の全存在を緋とも紅ともするように思われたあの罪が、洗い流されたのだと?」 それは本当にしては素晴らしすぎるように思われる。そしてその人は、自分のつかんだ赦罪の大きさそのものを理由にして、もろもろの疑いによって厚くのしかかられるのである。

 さらに、その人の耳にこう囁かれたとしてみよう。「あなたは、1つの特別な贖いによって人々の間から贖い出されています。というのも、キリストは《教会》を愛し、《教会》のためにご自身をささげられた[エペ5:25]からです。良い《牧者》は羊のためにいのちを捨てます[ヨハ10:11]。そして、あなたは主の《教会》の一部です。主の羊のひとりです。それゆえ、特別に、また、独特に、人類の中から贖い出されているのです」。その人は、このことを考え巡らす際に、あらゆる罪人たちのための普遍的な救済は信じる。だが、この特別な、独特の、有効的な代償は信じられない。それで、自分に向かってこう云う。「これは、私のものであるには素晴らしすぎる。私が、キリストの行なわれたみわざの中で、その特別な部分を持てるなんて、どうしてそのようなことがありえよう?」 あなたは、最初はそれを信じたがゆえに喜ぶが、それから自分が喜んでいるがゆえに疑い始める。ことによると、あなたの耳にはさらにこうも囁かれるかもしれない。「あなたは、世界の基の置かれる前から選ばれていたのです。あなたは、永遠の契りによってキリストと結ばれ、結婚させられています。あなたは、キリストのからだの部分なのです。そして、キリストが生きるので、あなたも生きるのです。あなたはキリストがおられる所にいることになり、キリストの栄光を目にするようになります」[エペ1:4; 5:30; ヨハ14:19; 17:24]。あなたは歓喜に満たされるのを感じ、自分を抑えられなくなる。だが、あなたが歓喜し始めるや否や、こういう囁きがやって来る。「それは話がうますぎる。これはみな何かの間違いに違いない」。そのようにしてあなたは、嬉しさのあまり信じなくなる。

 かりに、あなたが時としてこうした非常に高貴な楽しみ、愛の饗宴、キリストとの愛という宴会の家を有するとしよう。かりに、あなたが、聖なるヨハネとともに、あなたの頭を主の御胸にもたせるようになり、単に主の愛を知るだけでなく、いわば、主との直接的な交わりという第三の天に引き上げられたとしよう。さて、あなたは、嬉しさそのもののあまり死んでも良いほどに感じるが、やがて、この冷たい、ぞっとするような疑いがやって来る。「お前は全く間違っている。お前はただの狂信者なのだ。熱狂主義者なのだ。というのも、神はお前のような人間に、これほど親密な交わりを認めてくださったはずがないからだ」。私はしばしばこのようなしかたで思い悩む人々に出会ってきた。そして、私は、そうした人々に対して語っているのである。

 さて尋ねさせてほしい。その困難は何をきっかけとしているだろうか? なぜあなたは神の大いなるあわれみについて、そのような疑いをいだくのだろうか? 答えよう。最初に、自分の無価値さを深く感じるからである。もしこの場にいる誰かがありのままの自分を見てとり、それから自分に対する神の満ち満ちた愛の豊かさを見てとることができたとしたら、私の信ずるところ、それはその人の髪の毛一本一本を驚愕のあまり逆立たせ、それに次いで、崇敬を伴う驚異によって、その人を有頂天にするであろう。「私のようにみじめな者、私のような獣、ほとんど悪魔のような者が、それでいながら神から愛されているとは!」 それは、その人を飛び上がらせるであろう。それをダビデがいかに云い表わしているか聞くがいい。「私は、愚かで、わきまえもなく、あなたの前で獣のようでした。しかし私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手をしっかりつかまえられました」[詩73:22-23]。私たち自身の荒廃した状態を感じとることによって、私たちが真に救われているなど、本当だとしたら素晴らしすぎるように思われる。

 次に、私たちの中のある者らに見られる恐れの性癖が、この困難を作り出す。私たちは自分の罪を絶望的に考えるのに慣れていた。何箇月も何箇月も、私たちの中のある者らは希望を見ることができなかった。否、ほんの一筋の光さえ見えなかった。それで、光が本当にやってきたとき、それは私たちのあわれな目にはまぶしすぎた。あなたはこれまで一度も、突然に光の中に入れさせられ、暗闇の中にいたときよりもものが見えなくなったのに気づいたことがなかっただろうか?

   「恵みの御名を 啓示(あか)されて
    わが身の憂い 変わるとき
    わが歓喜(よろこび)は 夢幻(ゆめ)に似ぬ、
    恩寵(めぐみ)はかくも 大なりき」。

これは、それが以前に陥っていた憂いの状態のためである。

 それから、ことによると、何にもまして信ずることが困難と思われるのは、私たちの以前の不安の激しさのためである。この弟子たちは、それまでキリストについて特に思い惑っていたし、キリストについて案じていた。それで、彼らは、主が本当に死者の中からよみがえったと一瞬のうちに信じることはできなかったのである。そして、ある人が自分の魂について長いこと考えてきたとき、また、その人が自分の罪を鉛のように感じてきたとき、また、無限の正義が凄まじく燃えるをのぞき込んできたとき、また、いわば、「のろわれた者ども。離れて行け」*[マタ25:41]との宣告が耳に響き渡るのを聞いてきたとき、その人が本当に自分は赦されたかどうか念には念を入れて確かめたいと思うとしても不思議はあるだろうか? その人は、それを当たり前のこととみなせない。その人は見つめて、見つめて、見つめて、なおも見つめる。そして、自分の罪がみな拭い去られたこと、自分が「愛する方にあって受け入れられ」[エペ1:6 <英欽定訳>]ていることを確信するまで安らぐことができない。こういうわけで、キリストに対する信仰によって義と認められたという考えの歓喜そのものでさえ、心に疑いを入らせる原因となるのである。

 さらに、あなたが救いの道の単純さについて考えるとき、疑いがやって来るのも無理はない。見よ! 私は何年もの間、自分を救おうと努めてきた。私は、アマナやパルパル[II列5:12]に行き、この身を洗って、洗って、洗ってきたが、それでもらい病人のままだったのだ。だのに、ある日、私はただ信じる。行ってヨルダンで、ただからだを洗う。すると、たちまち私のらい病はなくなってしまうのである。もしもあの、キリストの衣のふさに触ったとたんに出血が止まった女[ルカ8:44]が、自分のからだの中で、その病が癒されたのを感じたとしたら、その一瞬後にはこういう恐れをいだいたに違いないと思う。「でも、これはまたぶり返すに違いないわ。こんなに簡単なしかたで治るはずがないもの。私は医者という医者にかかり、有り金全部を使い果たしてしまっても、悪くなる一方だったのよ。私は本当に癒されたのかしら?」 そのように、ある罪人が、ただ信じるだけ、ただキリストに信頼するだけで救われたのを見てとるとき、まずこう考えるとしても不思議があるだろうか? 「これは本当だとしたら話がうますぎる。こんなに単純に救われるなんて」。

 これに、天来の恵みの迅速さを加えるがいい。そうすれば、どこで困難が生ずるか理解できよう。もしも人が救われるのに一箇月もかかるとしたら、また、罪を取り除くのに七年間もかかるとしたら、その過程で私たちはだんだんに信ずるようになると理解できよう。その過程で新しい疑いが次々に生ずることはまず間違いないかもしれないが関係ない。だが、一瞬にして救われ、まばたき1つするより早くいのちから死へと移り、時計が一度チクタク云うよりも速く一切の罪が赦されるということ、これが救いのみわざであり、新しく生まれさせられることであり、免責および忘却法の通過であり、これには全く何の時間もかからない。

   「成し遂げられぬ! 大いなる取引(わざ)、
    われは主のもの、主はわれのもの」。

そして、そのとき救われた魂は、振り返って云うのである。「私が真に救われたなどというのが本当にありえるだろうか? たった今まで絶望のどん底にいたこの私が?」

 さて、私はただ、この困難を次のように二言三言で扱って、あなたに、それが何の堅固な基盤も有していないことを示そうと思う。あなたは、それがあまりにも素晴らしいために、「これが本当でありえようか?」、と云う。私の答えはこうである。――あなたは、何か素晴らしいものを必要としてはいないだろうか。あなたはは何か、途方もなく素晴らしいものが必要としている。大いなる恵みの行為のほか何があなたを救いえただろうか? 教えてほしい。あなたは、こう祈ったときのリチャード・バクスターと同じ思いではないだろうか? 「主よ。私に大いなるあわれみをお与えください。さもなければ、何のあわれみも与えないでくださいい。小さなあわれみでは、私の役に立たないからです」。もし誰かが、「それは本当だとしたら素晴らしすぎます」、と云うとしたら、云うがいい。「それは、私が必要としていることにぴったりです。私には完璧な赦罪が必要です。完全な刷新が必要です。神の子どもとされることが必要です。私は救われることが必要です」、と。それが本当であるためには、素晴らしすぎはしない。というのも、それは、あなたが必要としていることとしては素晴らしすぎないからである。

 また、あなたは、大いなることが神にふさわしいとは思わないだろうか? あなたは、神がそのあわれみにおいてちっぽけで、その賜物においてちっぽけで、その恵みにおいてちっぽけであると期待するのだろうか? だとしたら、とんでもない間違いである。というのも、天が地よりも高いように、神の道は、人の道よりも高いからである[イザ55:9]。あなたの受けるいつくしみの大きさは、あなたにとっては、推薦状であるべきである。もしそれが小さかったとしたら、それは人から来たのかもしれない。もしそれが人から来るには大きすぎるとしたら、それは、神から来た証拠である。その大きさによって疑いをかき立てられるよりは、むしろ、安心するがいい。救いの単純な方法から疑いが生ずるときには、あなたにこう云わせてほしい。――他のどの方法があなたを救うだろうか? 私は、信仰の道以外のいかなる道によっても自分が決して天国に行けないことを知っている。私は、自分がこれまでにしてきたこと、あるいは、しようとしていたことのすべてに、ひとかけらの信頼すら置いていない。

   「われは罪人 無の無なれども
    イエス・キリスト すべてのすべて」。

おゝ、話をお聞きの愛する方々。あなたは確かに、あなたにうってつけの道、信ずるという道に満足できるに違いない! 「それは、非常に簡単です」、とあなたは云う。それは、あなたにとっては簡単すぎない。あなたは、それ以上に困難な道を行けなかった。キリストの両腕の中に卒倒し、あなたの一切の重みを主に投げかけること、これをあなたにとって簡単なことだと思ってはならない。というのも、これは、あなたにできる最大限のことだからである。左様。そして、神の恵みがあなたを導かない限り、あなたが行なおうとしないだろうことだからである。それゆえ、この方法が単純すぎるからといって疑ってはならない。他にいかなる方法があなたにあるだろうか?

 さらにまた、神の恵みという賜物について、本当だとしたら素晴らしすぎると云ってはならない。というのも、私たちの中で、その賜物を日々享受しつつ生きている者らは、生来あなたよりも何らまさっていないが、それでもこの賜物は私たちのもとにやって来たからである。なぜそれがあなたのもとに来ないわけがあるだろうか? 私は、これまで、救いという件にかけて、私の背後に回せるような人に出会った試しがない。もし私が、この会衆の中で救われがたい人を推測しなくてはならなかったとしたら、それは私自身だと推測したはずである。私は後列に立っていた。私が他の人々にまさって公然たる罪を犯していたというのではないが、そこには私が絶望にかられるような、いくつかの人格上の要素があった。それでも、私は神の恵みによって取り込まれたのである。では、なぜあなたも導き入れられないことがあるだろうか? 「あゝ!」、とあなたは云うであろう。「私は非常に風変わりな人間なのです」。私もそうである。あなたは、私以上に風変わりではない。「おゝ!」、とある人は云うであろう。「ですが、私はこのように異様なからだをしています」。私もそうである。私は、いかなる名簿からもはじき飛ばされている。あなたがいかなる人であれ、何をしている人であれ、キリストのもとにやって来るがいい。主があなたを投げ捨てることはありえない。こう仰せになったからである。「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」[ヨハ6:37]。愛する方よ。キリストのもとに来るがいい。そうすれば、主はあなたをお捨てにはならないであろう。この真理は、本当だというには素晴らしすぎはしない。私がそれを本当でも素晴らしすぎないことを見いだした以上、あなたがそれが本当だとしたら素晴らしすぎると見いだすことはないであろう。これをつかみ、それを信じるがいい。

 このように私は、あなたの前に、この弟子たちが嬉しさのあまり信じられずにいた際に陥っていた困難を示してきた。

 II. さて、第二のこととしては、手短にしか語ることができないが、《私たちの主が、この困難を克服するため彼らを助けられたしかた》を取り上げたい。

 もちろん、彼らの要点は、イエスが死者の中からよみがえったと信じられないことであった。それは、本当にして素晴らしすぎると思われた。

 主は彼らの助けとして、最初に、ご自分に何ができるかをより良くお見せになった。彼らはすでに主に触っていた。主が真に実質のある、肉と血からなる物質的なからだを有していることを見て、触っていた。主は一切れの魚を手に取ると、それをお食べになる。蜜のしたたる蜂の巣を一片手に取ると、それをお食べになる。そして、私が思うに、主は彼らに同じその食物の一部をお与えになった。もし彼らが主を見、主に触るだけで満足しなかったとしたら、彼らには、主が肉体をとっておられるというさらなる証拠を示されるはずである。というのも、主は、他のどの一個人とも同じく飲み食いすることがおできになったからである。

 さて、私が願うのは、今この場にいる、「それは本当のこととしては素晴らしすぎる」、と云っているいかなる人にも、主がご自分の姿をより明瞭に見せてくださることである。もしあなたが、この大いなる救いをあなたにもたらしてくださるお方を、ずっと高く評価するようになるなら、驚嘆の念が減ることはなくとも、疑いは少なくなるであろう。このお方がどなたか考えてみるがいい。御父のふところにおられた神である。そして、御父は、このお方を与えることにおいて、ご自分をお与えになったのである。嘘ではない。神がやって来て行なわれるのは、決して取るに足りない救いではない。もしそれが小さな救いだったとしたら、神はガブリエルを遣わして、こう云うことがおできになったであろう。「行って、あの罪人たちを救って来よ」。だが、神ご自身がやって来てそのわざを行なわれる以上、それは大いなる救いであると考えて間違いない。

 そして、私たちの主が地上に来たとき、主は単に生きて労しただけでなく、苦しまれた。主は、「悲しみの人で病を知っていた」[イザ53:3]。主は嘲られ、つばを吐きかけられ、鞭打たれ、十字架につけられた。死なれた。ただひとり死のないお方[Iテモ6:16]が死なれた。彼方にあるあの十字架は、ちっぽけな救いを意味するだろうか? キリストの呻きは、人々のためのちゃちな賜物を意味するだろうか? 鞭で畔を作られた、あの血みどろの両肩は、取るに足りない罪人たちのための、取るに足りないものを意味しているだろうか? あの五つの傷口は、また、あの冷酷な嘲り、あの大きな受難、それらはみな罪人たちのための小さな救いを意味するだろうか? おゝ! 否。愛する方々。それらは、巨大な罪人たち、アナク人たち[民13:33]のための大いなる救いを意味している。地上で生を受けたことのある最悪の罪人たちのための大きな救いを意味している。カルバリの十字架のことを、また、その上のキリストのことを考えるがいい。そうすれば、あなたは決して云わないであろう。主が作り上げられた大いなる救いが、本当のこととしては素晴らしすぎるなどとは。

 しかし、主は生き返えられた。そして、彼方に上り、智天使や熾天使たちの輝かしい階層を突き抜けて、神の御座に着かれた。では、主は何をしておられるだろうか? 罪人たちのために嘆願し、そむく者たちのためにとりなしをしておられる。キリストの願い事は小さなことだろうか? もしそれが何か取るに足りない事がらだったとしたら、主はご自分の聖徒たちのひとりをとりなし手とすることがおできになったであろう。だが、それは大いなる、値もつけられないほどの、無限の恩恵であり、そのためにキリストは御父の御前で願っておられるのである。

 さらにもう一度よく聞くがいい。キリストはご自分の御名の栄光と救いのみわざとを結び合わされた。主は、《王》となるよりもずっと《救い主》となりたいと思われた。主の最高の栄光は、底知れぬ所に下って行く人々を救出なさることからやって来る。創造は神の栄光を現わす。世界が造られたときには、明けの星々が共に喜び歌い、神の子たちはみな喜び叫んだ[ヨブ38:7]。だが、神はそれが喜ぶべきみわざだとはお考えにならなかった。それは良いと云われただけであった[創1:31]。神は、お望みになれば、もう五十も、左様、もう五千万も世界を造ることがおできになったであろう。しかし、イエスが、ご自分の選民のためにいのちを投げ捨てて人々をお救いになるとき、こう記されている。「主は……その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる」[ゼパ3:17]。考えてみるがいい。エホバが、かの《三一の神》が、歌い出しておられる! 神はお歌いになる。というのも、そのご栄光のすべては、人々の救いにくるみこまれているからである。ならば、それは取るに足りないことだろうか? 否。私は救いの偉大さを喜ぶ。そして、それがこれほどに偉大であり、これほどに神の栄光にふさわしいものであればこそ、なおさらそれを信じる。あなたや私は、嬉しさのあまり信じられなかったあの弟子たちのような困難には陥らないだろうと思う。

 しかし、いま私たちの《救い主》は別のことを行なわれた。このようにご自分を現わされた後で、主は彼らに対して聖書を開き始められた。あゝ! それこそ、私たち全員が、自分の疑いを取り除くため必要としていることである。その発行部数の割に最も読まれていない《本》、それが聖書である。『ジャックと豆の木』の方が、その本を持っている人の数に比せば、聖書よりもずっと読まれていると思う。それは悲しいことである。卓子の上には日刊紙があり、いわゆる週刊宗教紙があって、その2つが一緒になって聖書を隠してしまっている。私たちは自分の聖書をもっと読む必要がある。自分の聖書をもっと読まなくてはならない。そうするなら、そこには何と書いてあるだろうか?

 よろしい。そこには、《エデンの園》で起こった大いなる堕落について書かれている。知っての通り、人々がいま私たちに告げるところ、アダムが転んだとき、彼はその小指を折ったが、それは手当され、今では治っているという。だが、そうしたことを聖書は語っていない。彼はその首を折り、その首以上に、はるかに多くのものをへし折った。おゝ、そこには何という転落があったことか! 私の兄弟たち。そのとき、あなたや私、そして、人類全体が転落したのである。それは、人間の骨という骨を完全に外してしまう転落であった。よろしい。さて、1つの大いなる転落のためには、1つの大いなる救いがなくてはならない。それゆえ、1つの大いなる救いについて記されていても驚嘆してはならない。それはこの転落という大災厄の意味に含まれているのである。

 それから、その転落は大きな堕落をもたらした。今時の人々は、人間はその転落によって、ごく些細な苦しみしか受けていないという。ちょっとした歯痛か、そうした類の苦しみだけだという。だが、聖書は私たちにそう告げてはいない。人間の頭全体が病んでおり、人間の心全体が弱々しくなり、その足の裏から頭まで、傷と、打ち傷と、打たれた生傷[イザ1:6]しかない。「人の心は何よりも陰険で、それは直らない」[エレ17:9]。さて、この大いなる堕落に対応するには大いなる救いがなくてはならない。この船を回れ右させ、その舵に力強い手を置き、その方向を転換させるには、大いなる恵みのわざがなくてはならない。

 次に、愛する方々。丹念に聖書を読むなら、あなたは、大きな罪というものがあることに気づくであろう。あゝ! それにはあなたの聖書を読む必要もない。あなた自身の心を、聖書の光に照らして読み、あらゆる悪い言葉と同様、あらゆる悪い考えが、左様、あらゆる悪い想像が神の御前で罪であることを思い出すなら、あなたは見てとるであろう。いかに大量の罪によって、ひとりの人間が汚染されているかを。あなたには、大いなる罪ゆえに大いなる救いが必要である。

 さらに、あなたの聖書を読むなら、あなたは、大いなる地獄があることに気づくであろう。聖書のすべては同じ縮尺に沿っている。人々が小さな地獄について語るとき、それは彼らが小さな罪しか考えておらず、小さな《救い主》しか信じていないからである。それらは揃って小粒である。しかし、あなたが大きな罪を感じとるとき、あなたには大きな《救い主》が必要となり、こう感じる。もし自分がそうした《救い主》を得なければ、自分は大いなる破滅に陥り、大いなる罰を大いなる神の手から受けるであろう、と。あなたが大いなる地獄から逃れたい以上、大いなる救いを信ずるがいい。そして、これにより、決してそれが大きなものであるからといって、たじろいではならない。

 そして、それから、そこには大いなる天国がある。おゝ、いかなる天国であろう! 私たちの中の誰か、それがいかなるものに似ているか、考え及ぶ者がいるだろうか? 私たちはじっとそれについて瞑想する。それについて歌う。時には自分がそこにいるのではないかと半ば考えもする。だが、そこからは、はるかに遠い。いったん、かの門の内側に達したならば、私たちはシェバの女王のように云うであろう[I列10:7]。「私にはその半分も知らされていなかった」、と。

   「その時われら 見て、聞き、知らん
    下界(した)でわれらの 願うすべてを。
    すべての力は 甘く仕えん
    永遠(とわ)の喜び 満つるかの世で」。

あなたがそこに至るには、大いなる救いを得なくてはならない。それゆえ、「それは本当だとしたら素晴らしすぎる」、と云い出してはならない。さて今、確かにあなたは愚か者になろうとしてはいないに違いない。この世を手に入れ、そのことで、天国に行く望みを捨てようとはしないに違いない。私がしばしば驚異の念に打たれるのは、いかに神がその無限の愛によって、ある人々を、彼らが決して行こうとも考えなかった道にお進ませになるかを見るときである。今晩、この建物の中には、最近私と話をしたことのある人々がいる。彼らは不敬虔な両親から生まれた子どもたちで、世俗的な娯楽の真っ直中で育てられた。それが突然、彼らの心は柔らかくなり、彼らは考え始めた。それまで愛していた物事を忌み嫌い始めた。それがなぜかは分からなかった。彼らは祈りの家を求めた。救いの道を知り、キリストをつかんだ。今晩彼らが家に帰るとき、家族の中で彼らを暖かく迎える者は誰ひとりいない。彼ら自身、神が彼らの心に働きかけ始められたときには、何とか逃れ去ろうとしてじたばたしたのである。だが、この講壇に立つ銛打ちが、神の恵みによって、あまりにも深々と銛を打ち込んだので、彼らは鯨ではあったが、決してそれを引き抜けなかった。彼らは、さらに深い罪の海へと潜り込んだ。だが、その銛は彼らをつかんでいた。その次に彼らが息を継ぎに浮かび上がったとき、彼らは別の銛を打たれ、とうとうその傷の深手のあまり屈さざるをえなかった。そして、いま彼らは、その意志のありったけの同意をもって、彼らを征服し、とりことし、凱旋式に引き出しておられる主に屈伏している。このことゆえに、神に栄光あれ! 愛する方よ。あなたはいずれにせよ天国へ行くしかない。あなたは栄光に行くことに決まっており、そこへ行かざるをえない。そこに引き船がある。あなたの真ん前にある。それがあなたを栄光へと引いて行く。そして、その途中であなたが失われることはない。そのゆえに、もしそうしたものがあなたの壮大な運命だとしたら、その航海中にあなたが神から、偉大な、時としてほとんど信じがたいほど大きなものを受けるとしても驚いてはならない。

 しめくくりに、もう1つのことだけ語ろう。たとい時として嬉しさのあまり信じることが妨げられるとしても、嬉しさや悲しさについて考えすぎてはならない。年がら年中、快適にしていることばかり考えている人は、普通、この世の中で最も不快を覚える存在である。また、幸せにしていることばかり考えている人は、常に、不幸せになる道をまっしぐらに進むものである。もし私たちが自分の感情によって救われるはずだとしたら、私たちは一日おきに救われたり失われたりするであろう。私たちは、晴雨計にそっくりだからである。彼らは昨日、私にこう云った。「晴雨計が下がりますよ」。それは非常にありそうなことであった。だが、それにもかかわらず雨は降らなかった。それから別の日に彼らは云う。「晴雨計が上がりますよ」。すると、普通は雨が降るのに気づく。それで私は、その計器を放り出し、果たしてそれが本当のことを云うことなどあるのだろうかと疑り出す。時として私の感情は、私に向かって、「お前は神の子どもなどではない」、と云う。それで、私は祈り始め、そのようにして自分の感情が私を欺いたことを知るのである。別の時、感情は私に向かってこう云う。「おゝ、お前は神の子どもだ。それは確実だ!」 すると私は、明けの明星[イザ14:12]ほどにも高ぶり出し、それは神の子どもが決していだかないような思いをいだく。あなたの感情などに注意して何の得があるだろうか? 信仰によって歩むがいい。福音を信じるがいい。神の数々の約束にしがみつくがいい。もしそれらがあなたの期待を裏切るとしたら、すべては失われる。だが、それらが裏切ることはありえない。キリストの完了したみわざに安らうがいい。そして、嬉しさや悲しさについて云えば、――

   「来たるも去るも 気に留めじ。
    その気ままさは 吹く風なれば」。

あなたは、それらに何の頼りも置く必要はない。このことを固守するがいい。「キリストは……不敬虔な者のために死んでくださいました」[ロマ5:6]。「この方を信じる者はみな、すべての点について解放されるのです」*[使13:39]。「御子を信じる者はさばかれない」[ヨハ3:18]。これを固守するがいい。そうすれば、何が来ようと、のるにせよそるにせよ、あなたの魂には何の問題もないであろう。

 主が私たち全員をこのほむべき状態に導いてくださるように。イエス・キリストのゆえに! アーメン。

 

嬉しさが信仰を妨げる[了]

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ほほほほ

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