みことばで養われる
NO. 2278
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「わたしに聞き従い、良い物を食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づこう」。――イザ55:2
いかに重要なことであろう。私たちが神に聞き、そのみことばに耳を傾けることは。また、みことばが私たちの耳を通して私たちの魂に達し、私たちにとって自覚的に、生ける神の生けるみことばとなることは! 天国と《人霊》の町との間の大通商用の門は《耳門》である。私たちは御国の事がらについて、僅かしか見ることはできないが、それらについて多くのことを聞くことができる。
私たちは、単に神に「聞く」だけでなく、「聞き従う」ようにも告げられている。正しい種類の真理はいくら聞いても十分ではなく、正しい種類の聞き方はいくらしても十分ではない。ある人々は数少ない説教、それもごく短い説教しか好まない。だが、ある魂が神と永遠のいのちとに飢えているとき、それはこの、「聞き従え」という勧告に新しい意味を込める。それは、いくら聞いても十分ではない。いくら頻繁に聞いても十分ではない。いくら真剣に聞いても十分ではない。信仰は聞くことから始まる[ロマ10:17]。このゆえに、サタンは、このあわれみの門口を塞ごうとする。もし彼が人々を説き伏せて、聞かないようにさせることができるとしたら、彼らを恵みの道から遠ざけておけるのである。だが、本日の聖句の勧告はこの救いの扉を大きく開いている。そこに主ご自身が立って、こう叫んでおられる。「わたしに聞き従え」、と。
愛する方々。あなたがたは、主のことばを聞くのを愛している。それゆえ、この勧告について長々と語る必要はない。だが、私は誰もむなしく聞くことがないように切に祈るものである。「聞いていることによく注意しなさい」[マコ4:24]。また、「聞き方に注意しなさい」[ルカ8:18]。単に《耳門》を開くだけで自足するのではなく、むしろ、《王》ご自身がその門を通って、《人霊》の町の要塞そのものに馬を乗り進め、あなたの心の城を所有されるまで満足しないようにするがいい。
この短い序論をもって、本日の聖句の主文の考察に進むことにしよう。それは、「聞き従え」という勧告の後に続いている。私たちが「聞き従う」べきは、主の口から出たこの使信である。「良い物を食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づこう」。ここには四つの事がらがある。第一に、食物。次に、養われること。それから、迎え入れられること。そして最後に、元気づくことである。
I. 第一に、ここには《食物》がある。「良い物を食べよ」。
まず最初に、この食物について尋ねてみよう。それはいかなるしかたで私たちに差し出されているだろうか? 無代価で私たちに差し出されている。この招きは、「さあ……食べよ」[イザ55:1]である。そこには買うことについての言葉があったが、聖書朗読のときに云ったように、それはすぐに、「金を払わないで……買い、代価を払わないで……買え」、との言葉で覆い隠された。他の人々は救いを、自らの種々の努力で得ようとしている。富者はその金銭を費やす。貧者はその労働を費やす。だが、こうした道はどちらも自我から出ており、自己救済を意味する。――誰もが自分自身の救い主なのである。これは、あなたが召されている方法ではない。あなたは実際、その道から追い払われている。「なぜ、あなたがたは、食糧にもならない物のために金を払い、腹を満たさない物のために労するのか」[イザ55:2]。あなたの魂が生きるため、あなたに求められているのは、単に聞くことである。また、聞いた上で、あなたに命じられているのは、神が供してくださった良いもの、また、豊かなものに無代価であずかることである。私たちは今なお神の恵みが無代価であると云う必要がある。いかなる功績も求められてはいない。あなたを、それを受けるにふさわしい者とする何物も、また、神に対してその賜物の代償として何を与えることも求められていない。永遠の救いは、それを受けたいと望む、あらゆる飢えた、困窮する、破綻した魂に対して、一銭の代価もなしにやって来る。
さらにそれは、このように、それを獲得するための労働ということで無代価で差し出されている一方で、その質、すなわち、その最上の品質ということでも無代価に差し出されている。あなたは、無代価で水を飲むことが許され、それから葡萄酒を購入するのではない。やって来て、無代価で良いものを食べるように招かれ、それから脂肪のためには労するように云われてはいない。しかり。神の家のいかに豊かな珍味佳肴も、神が飢えた魂にお与えになるパンと同じように無代価なのである。あなたは、もし卓子から落ちるパンくずにでもあずかることを許されるとしたら、非常な恩恵をこうむるものと考えるし、実際、それはその通りである。だが、その食卓の上の最も美味な食物も、あなたに対しては、そのパンくずと同じくらい無代価なのである。聖化は、義認と同じくらい神の賜物である。天国における最高の完璧さは、最初の、「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」[ルカ18:13]、という叫びと同じくらい恵みの賜物である。それはみな、恵み深く与えられるものである。そして、あなたは水辺に来るよう招かれているばかりでなく、葡萄酒と乳を飲み、良いものを食べ、脂肪で元気づくよう招かれているのである。
この王者らしい気前の良さは無代価で与えられている。また、最も値しない者にも無代価で与えられている。唯一の制限は、全く無制限であるということである。「ああ。渇いている者はみな」[1節]! あなたがた、満たされていない、あるいは、満足していないすべての人たち。自分の欲するものを得てこなかった人たち。何かを切望している人たち。あなたがた、自分が何を切望しているかほとんど分かっていない人たち。あなたがた、癒されることのないほどの、だが、言葉では云い表わしがたい渇きを驚くほど覚えている人たち。今晩こう云いながらここに来た人たち。「私もそれが持てたなら、どんなに良いことか。私の知っている他の人々はそれを持っている。私は、彼らの持っているものが何かほとんど分からない。だが、おゝ、私もそれを持てたなら!」――あなたは、それを受けたとき、それがを何か見いだすであろう。あなたは、葡萄酒と乳の味がいかなるものであるか、まだほとんど分かっていない。キリストの大いなる福音の宴会の一部である、あの髄の多いあぶらみ[イザ25:6]がいかなるものでありえるか、まだほとんど分かっていない。やがてそれが分かるであろう。だが、あなたがいかなる者であろうと、来て、迎(い)れられるがいい。罪人よ、来るがいい。もしあなたが何も有していなくとも、キリストはすべてであられる。あなたが無価値であっても、主は無限に価値あるお方である。そして、それで主はあなたに対して今晩、可能な限り最も無代価な条件で、食物を差し出しておられる。あるいは、実際、いかなる条件も条項も抜きにして、差し出しておられる。というのも、それをこう云い表わしておられるからである。「良い物を食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づこう」。
次に私が問いたいのは、この食物とは何か?ということである。答えよう。最初に、それは神のことばである。魂が、知性と良心と心の満足が行くまで養われるには、天来の啓示された真理によって養われるしかない。あなたは、神があなたに知らせたいと望んでおられることを知らなくてはならない。それゆえ、耳を傾け、聞き従い、神が口から発された真理があなたの霊の栄養となるようにするがいい。
それよりさらに良いこととして、この食物は、《受肉した神のことば》である。というのも、人の子であり、神の御子であるキリスト・イエスは、《ことば》だからである。もし人々が主を養いとするなら、彼らは主の肉がまことの食物、主の血がまことの飲み物であることを見いだすであろう[ヨハ6:55]。主ご自分のことばを思い出すがいい。「これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です」[ヨハ6:50-51]。これは、あなたに与えられた神の《パン》、神の《ひとり子》、人間の肉をまとい、人々の子らのために生きて、死なれたお方である。幸いなことよ、この天的なマナを養いとする人々は。
このパンとは何だろうか? よろしい。それは、神の恵みである。この章を読み通すとき、あなたは主がまず、ご自分のみことばに言及し、それに聞くようあなたに命じておられることに気づく。次に、神はご自分の御子についてお語りになる。その御子を神はご自分の民への証しとしてお遣わしになった。これより先に、神はご自分の恵みを賛美し、その恵みを受けた者たちの中で行なわれる数々の素晴らしい変化について語っておられる。おゝ、神の恵みがいかに満ち足らせることか! 「神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます」[ヤコ4:6]。私たちは恵みを養いとして生きる。それが私たちの日々の糧である。あらゆる試練のための恵み、あらゆる義務のための恵み、あらゆる罪のための恵み、あらゆる恵みのための恵みが。「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた」[ヨハ1:16]。罪のために渇いていようと、あなたの罪は恵みによって消される。願わくは神が私たちに与えてくださるように。恵みに養われる恵み、ご自分のみことばを養いとして生きる恵み、ご自分の御子を満喫する恵みを!
別のことを問うてみよう。この食物にはいかなる性質があるだろうか? それは良いものである。「良い」という言葉のあらゆる意味において良いものである。それは満足させる。それはきよい。それを食べることによって、いかなる害ももたらされることがありえない。この天的な食物は良い。そして、あなたにとって良い。今晩のあなたにとって良い。いかなる時のあなたにとっても良い。生きているあなたにとって良く、死につつあるあなたにとって良い。人々が追い求める他の一切の食物には実質がない。それらは食べ過ぎることはあっても、満足させることができない。食傷することはあっても、満ち足らせることができない。だが天から下って来たこの食物は、人がそれを自分の中に取り入れさえするなら、その人がこれまで食べたことのある中で最上の食物となるのである。
さらに、この食物はここで脂肪と延べられている。「あなたがたは脂肪で元気づこう」。神のことばの中には、いくつかの、いやまさってえり抜きの真理がある。いくつかの、いやまさってえり抜きの喜びがある。恵みの中には、いくつかの、人が最初の悟ることにいやまさるえり抜きの経験がある。それは単にパンと食物であるだけでなく、髄と脂肪なのである。主の子どもたちのためには、いくつかの「一口のおいしいもの」がある。「あなたがたは脂肪で元気づこう」。「万軍の主はこの山の上で万民のために、あぶらの多い肉の宴会、良いぶどう酒の宴会、髄の多いあぶらみとよくこされたぶどう酒の宴会を催される」[イザ25:6]。私が望むのは、今晩の集会が終わる前に、幾人かのあわれな魂をこの脂肪に――この神の最も聖なるみことばのえり抜きの、特別な部分に――導き入れることである。神があなたに与えておられるのは、脂肪のない肉ではない。骨から削り落としたようなものではない。むしろ、神は王者にふさわしいしかたで私たちを養われる。ご自分の有する最上のものを、それも、ふんだんに与えてくださる。「日々、私たちのために、重荷をになわれる主」[詩68:19]。神は私たちに、御使いたちさえ知らないような食物を与えて食べさせてくださる。
「天つ御使い つゆ味わざりき。
贖いの恵み、死に給う愛を」。こうした事がらが、私たちの魂の日々の滋養物である。
II. しかし今、第二に、ここには《養われること》がある。本日の聖句の中で最も重要な言葉の1つは、「食べる」という小さな言葉である。「食べよ。食べよ」。
食物は、食されなければ何の役にも立たない。そして、これこそ、求める魂のきわめて重要な質問である。「私はキリストが私の求めるいのちの《パン》であることは分かります。ですが、いかにして私はキリストを食べるべきでしょうか?」 よろしい。さて、実際には、この点については何の指導も必要とされるべきではない。私たちは非常に多くの孤児たちを《孤児院》に収容する。その中のある者たちは非常に無知であって、非常に多くのことを教えなくてはならない。だが、彼らに食べることを教える学級は設けない。彼らはみな、どうして食べるか分かっているし、それを心から行なうすべも心得ている。もし人々が飢えているとしたら、彼らは、パンさえあれば、それをどうすべきか知っているであろう。人々は、本当には罪ゆえに飢えていないために、私たちのもとにやって来ては、「この食べることとはどういう意味ですか?」、と聞くのである。それでも、ある人々は、その問いを発することにおいて真摯でありえる。そこで、それに答えることとしよう。
食べるとは、最初に、信じることである。ある真理を「食べる」には、それが真実であると信じなくてはならない。キリストを「食べる」には、このお方が神のキリストであることを信じなくてはならない。神の恵みを「食べる」には、それが「救いをもたらす神の恵み」*[テト2:11 <英欽定訳>]であることを信じなくてはならない。
「賢(さか)し疑い、理屈は木の上(え)に
釘づけらよ、イエスとともに」。私は喜んであなたに一本か二本の釘を貸し、鎚も使わせてあげよう。というのも、私はこうした疑いを嫌っているからである。それらは、ぶよのように空中に浮かんでいる。あらゆる所を飛び回っており、何人かの兄弟は、この害虫どもを増殖させようと努力している。しかし、おゝ、あわれな罪人よ。あなたは疑いと縁を絶ち、単純に信じたがっている。確実に真実であることを信じるがいい。というのも、神は偽ることなく[テト1:2]、神が啓示されることは無謬に確かだからである。それを信じるがいい。
よろしい。あなたがそうした後で、食べることは主として自分のものとすることとなる。人は一片のパンを自分の手に取る。だが、自分の口に入れて、呑み込み、それが彼の自己そのものの隠れた部分まで下って行き、彼そのものとなるまで、それを食べたことにはならない。あるものが食べられて消化されるとき、それは元に戻せなくなる。
あなたは私の家を取り上げることができる。私の金銭を取り上げることができる。だが、私から昨日の夕食を取り上げることはできない。あなたは、自分の食物を食べるのと同じようにキリストを取り込まなくてはならない。すなわち、自分のものとすることである。云うがいい。「主は私のものです。私は主を全く私のものとして受け取ります。このキリスト、この恵み、この赦罪、この救い、これを私は信じます。そして私は今これに信頼し、これにより頼み、これを自分のものとし、これを私自身のものとして取ります」。「かりに、それを受け取る際に私が間違いを犯すとしたらどうでしょう」、とある人は云う。誰も、そのようなことをした試しはない。もしあなたがそれを受け取るなら、神がそれをあなたに与えられたのである。もしあなたがキリストをつかむ恵みを有しているならば、そうする自分をあなたが盗人だと考えていようが、そこにはいかなる悪事もない。神があなたの前に置いておられるものを取って、何の質問もしないがいい。おゝ、ある魂が神のことばに養われ、神のキリストに養われ、神の恵みに養われることができるとき、それは何とほむべきことであろう! あなたはそうすることで間違うことがありえない。こう書かれている。「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」[ヨハ6:37]。「渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい」[黙22:17]。
しかし、あなたが食べた後で、あなたは知るであろう。食べるという全過程には消化が含まれていることを。いかにして私は神のことばを消化するのだろうか? 私は、みことばを読み、心に留め、そこから学ぶとはどういうことかは知っている。だが、いかにして私は内的にそれを消化するだろうか? それについて瞑想するときである。おゝ、何とほむべきわざであろう。その、ひそかな瞑想のわざは。思いの中で真理を何度も何度も何度も考え巡らし、それを記憶という酒ぶねの中に入れ、思索という足で踏み、その紅玉の果汁が流れ出すまでとし、それをあなたは飲んで、満足するのである! みことばを瞑想するがいい。神があなたのために何をされたかとくと考えるがいい。神の御思いを熟考するがいい。そのことばを思い巡らすがいい。そして、このようにしてあなたの魂は強くなるであろう。
養われることは、また、自分を全くキリストにゆだねることも意味する。自分の朝食を食べる人は、その朝の食事が自分に与える力に信頼して仕事に出て行く。そして正午になると、ふらふらして来るので、再び食べる。自分の食べるものが自分に滋養物を与えることを全く疑わずにそうする。それから自分の働きに戻り、筋肉と腱を用いる。自分の食物が自分に力を供給することを信頼してそうする。キリストについても全くそれと同じである。主を受け入れ、主があなたを助けてくださることを信ずるがいい。あなたが自分の務めに取りかかれるようにし、自分の苦難を負い、自分の敵に当たれるようにし、倦むことなく仕え、疲れることなく走れるようにしてくださると。これが、良いものを食べるということである。それは、あなたの自己そのものの中にキリストを、その恵みを、そのみことばを無代価で取り込み、それに頼って生きること、それによって強くなることである。
私はこのことをあなたがたの中のすべての人々に平易にしたいと思う。だが、私は、これ以上それを平易にすることはできない。あなたは自分の前にキリストを有している。キリストを取るがいい。「おゝ、ですが私はふさわしくありません」、とある人は云うであろう。非常に空腹な人でも、自分が夕食に「ふさわしくない」と云うかもしれない。だが、分別のある人であれば、かぶりついて食べるだけである。あなたも同じようにするがいい。あなたがいかにふさわしくなくとも、あなたはこの章の数々の招きによって歓迎されている。さあ、やって来るがいい。今すぐ宴会場に入り、いやというほど養われるがいい。
III. 私の第三の項目は、《迎え入れられること》である。主は何と云われるだろうか? 「良い物を食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づこう」。
あなたには見てとれるだろうか? 最初に、ここには何の出し惜しみもないことを。「食べよ。食べよ。食べよ。そして、脂肪で元気づくがいい」。こうは云われていない。「ここに一組の秤がある。ここには皿があり、ここに短刀がある。律法があなたに許しているのは、何々両だけである。そして、あなたは半両たりともそれを越えて食べてはならない」。こうした種類のことは何もない。あなたは、ただ食卓に連れて行かれ、こう勧告されるのである。「心ゆくまで食べるがいい。そして脂肪で元気づくがいい」。そこには何の出し惜しみもない。
そこには、何の出し惜しみもないのと同じく、何の除外もない。こうは云われていない。「さて、あなたはこの2つのものは食べても良い。だが、向こう側にある、最上のご馳走には手をつけてはならない。あれはヨセフのためのものだ。それは、特別なお気に入りのためのものであって、あなたのためのものではない」。否。あわれな魂よ。神があなたをご自分の食卓にお招きになるとき、あなたはその食卓の上にある何でも食べてかまわない。それが永遠のいのちであれ、キリストとの交わりであり、不変の愛であれ、それを食べることができる。取るがいい。取るがいい。というのも、あなたは、人がよく云うように、目下の者らとともに「下座に」着くようにここに招かれてはいないからである。あなたは、君主たちの誰にも劣らず席に着くように招かれており、この大いなる《王》ご自身がこう云っておられる。「良い物を食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づこう」。
また、それと同じく、この宴会には何の終わりもない。「食べよ。食べ続けよ。脂肪で元気づくがいい。脂肪で元気づき続けるがいい。あなたは決してそれを食べ尽くすことはないであろう」。私は以前ある国について読んだことがある。相当に眉唾な話だが、その国の牧草は、牛たちの食べる早さよりも早く伸びるという。よろしい。私の知っているある国では、羊たちが食べる早さよりも早く牧草が伸びる。あなたは、天来のみことばの中から好きなだけのものをみな食べてかまわないが、自分の取ったよりも多くのものが残されているのを見いだすであろう。そして、それはあたかも、あなたが取った後の方がずっと多く、あなたがむさぼり食うにつれて、よりぐんぐん伸びるかのように思われるのである。あなたは、その通りであることを見いだすであろう。神は、何の時間制限も設けておられない。朝に、そのみことばを養いとするがいい。正午に、かの《聖なる書》から飲んであなたのいのちを強めるがいい。そして夜に、さらに再び、あなたの夜の分け前で、あなたの心を養うがいい。
私はあなたに、この養いについて少し語りたいと思う。特に、天来の真理の脂肪に関連してそうである。神の民の中のある人々は、みことばの、より豊かな糧を養いとしていない。あわれな魂たち。彼らの中のある者らは決してそれを味わうことがない。ことによると、彼らはそうした、より豊かな糧が決して引き出されないような牧会者のもとに集っているのかもしれない。福音の「肩だの首の下部だのの肉」は受け取るが、骨付きの大きな肉、福音の最上の部分は受けないのである。よろしい。よろしい。もしも彼らがその程度のものしか自分の教役者たちから与えられないとしたら、彼らの方でその教役者たちを見限るのが良いであろう。だが、もし誰かが経験によって、神の深み[Iコリ2:10]を、また魂の支えとなるような糧を養いとすることを学んできたとしたら、その人は、しかるべき時期に、それを子どもたちの食卓に乗せることを怠ってはならない。何と、あなたがたの中のある人々は、選びの教理を美味しく食べることをあえてしようとしない! そうしたとしたら、あなたはそれが「髄の多いあぶらみ」を含んでいることに気づくであろう。聖徒の堅忍の教理、神の不変の愛の教理、信仰者とキリストとの結合の教理、決して頓挫しない永遠の目的の教理――何と、私の見てきた神の多くの子どもたちは、こうした事がらを鼻であしらうのである! よろしい、よろしい、よろしい。彼らには口やかましく云わないようにしよう。もちろん、赤ん坊は肉を好まない。あわれな者たち。彼らは肉を噛めるだけの歯が生えていないのであり、私たちは彼らに乳を与えなくてはならない。赤ん坊には、肉を食べられる私たちを蹴りつけさせておこう。私たちは堅い肉を食べなくてはならない。それは、私たちの魂の食物そのものだからである。
異なる食物は、恵みの発達において異なる者たちのためのものである。だが、神の子どもたちが習慣的に、福音のより豊かな大肉片を無視するのは遺憾なことである。彼らの中のある人々は、自分自身を他の人々によってはかる。私が真実に信じているところ、神の民の中のある人々は、聖くなりすぎることを恐れている。大して根拠のない恐れだが関係ない。彼の中のある人々は、幸せになりすぎることを恐れている。なぜなら、自分たちにとって晴雨計とも云うべきひとりの愛しい魂を知っており、彼女はさほど頻繁には幸いでないからである。それで彼らは、自分たちが幸いになってはならないと恐れるのである。いかに多くの人々が、薄信者を自分の模範としてきたことか、あるいは、あのしゅもく杖をついた足なえ者を自分の手本の一種としてきたことか! さて、足なえ者は非常に分別のある者だった。彼は、他の人々にしゅもく杖を使うように助言しようとはしなかった。その杖は、彼にとっては良いものだった。だが、自分がそれを決して要さなければ良いと願った。それと同じことが、神の嘆いている子どもにも云える。最上の人々の中にも、悲しみに満ちた霊の者らはいる。だが、私はあなたが彼らのようになることを勧めようとは思わない。たとい食卓の向こう側にいる人が髄や脂肪を食べようとしなくとも、だからといってあなたが、それを楽しめる場合、自分の分を受けるべきでないことにはならない。
また、ある人々は(私は彼らをさばこうとは思わないが)、神の宴会に来るときには、常にこう知ろうとする。どれだけ少ない食物があれば十分なのか、ひとりの人が生きる支えにできる最小限の食物はどれほどなのか、と。オヤオヤ、私は一度もそうした計画を試したことはない。また、あなたに勧めようとも思わない。今晩、医者の所に行って、人が最低どれだけの食物があれば生きて行けるかを知る必要などない。残念ながら、あなたがたの中の多くの人々は、自分の魂に関して、その問題を解明しようとしている。あなたは云う。「よろしい。さて、日曜には一回の説教だけで全く十分だとは思いませんか?」 それから、祈祷会がある。すると、あなたは云う。「それは、ただの祈祷会にすぎません。私たちはそれには行かなくとも良いでしょう」。そのようにあなたは日曜から日曜へと過ごして行く。時として、あなたがた、一週一説教の人たちはこう云う。「あゝ、不幸せな気分だ。私には多くの疑いと恐れがある」。当然だと思う。もしあなたが一週間に一回しか食事をしなければ、時おり多少の虚脱感を覚えるであろう。そして、もしあなたが一週間に一度しか霊的な食事を取らなければ、あなたが弱々しくなるとしても不思議はない。この聖句は云う。「良い物を食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づこう」。これは決して、どれだけ少しの霊的食物で生きていけるか試してみよ、などという奇妙な提案をしてはいない。
他の人々は、非常に真摯であり、自分がどれだけ多くのものを取れるかと常に問うている。私は、ある約束を取れるだろうか? 私はあわれな魂である。私はイエスを自分のものと呼ぶなどということをして良いだろうか? 何と、私は神の民の中でも非常に最低の者である。私は、永遠の愛について考えたりして良いだろうか? だが、あなたがある宴会に行くとき、問題はあなたがいかなる者かではなく、主人がいかなるお方かである。そして、もし彼が食卓を広げて、あなたを招待したとしたら、云わば「遠慮会釈」などなしに、彼があなたの前に置くものを食べるがいい。あゝ、愛する心よ! もし私たちに、自分が当然受けてしかるべきもの以上の何もなかったとしたら、私たちは、あわれみの国で生きていることすらないのである。神が与えてくださるものはみな、功績によるのではなく、恵みによる。それゆえ、あなたは価値のない者ではあるが、それを受け取るがいい。
「おゝ! でも」、とある人は云うであろう。「私は、自分が増上慢なのではないかと心配なのです」。おゝ、しかり。それは分かっている! おびただしい数の人々は、増上慢を恐れて、増上慢が何であるかについて間違いを犯す。ある日、二人の兄弟についてあなたがたに話したことがあると思うが、母親が彼らにこう云った。「さあ、ジョンにトマスや。次の月曜には、丸一日お休みを取って遊びにでかけますよ」。よろしい。それは木曜か金曜のことであった。そして、彼らのうちのひとりは、渾身の力を込めてそのことについて語り始める。「ぼくは次の月曜には遊びに出かけるんだ。行くって分かってるんだ。ぼくは次の月曜には遊びに出かけるんだぞう」。だが、その弟は、「増上慢になるのを恐れて」いた。それで、こう云った。もしかすると、次の月曜にぼくは遊びに出かけるかもしれないけど、増上慢になるのが心配だ、と。もうひとりの男児は、土曜に朝に起きると、「お母さん、もう月曜になった?」、と云った。そして、月曜がじきに来るに違いないという考えで、雲雀のように朗らかにしていた。さて、二人のうちどちらが増上慢だっただろうか? 私は、母親の約束を信じた男児が増上慢だったとは思わない。その子は、善良で、謙遜で、信頼に満ちた子どもだったと思う。だが、もうひとりの子は、「ええと、だけどさ、お母さんにはぼくたちを連れていくだけのお金がないよ。もしかすると、雨が降るかもしれない。それに、お母さんは約束を守らないかもれしない。それを忘れちゃうよ」、と理屈を云ったのである。私は云うが、その子こそ増上慢であって、連れて行かれる値打ちなど全くないと思う。あなたがた、疑っている人たちは、単純に信じるときにそうなる場合よりも、はるかにずっとまして増上慢なのである。
愛する方々。本日の聖句、「良い物を食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づこう」を実践に移すよう、あなたを励まさせてほしい。あなたの魂を尊い真理で養うがいい。「おゝ、それは高踏的な教理です!」、と云ってはならない。私の愛する方々。あなたには、教理を高踏的だの低踏的だのと呼ぶ権利はない。それが神のことばの中にあるなら、それを信じ、それに頼って生きるがいい。「おゝ、ですがそれは深遠な事がらです!」 ある人々は、それが「カルヴァン主義的」だとさえ云う。そうだとしても、気にすることはない。それであなたが害を受けるわけではない。私は、次のように云った老婦人と同じ意見である。彼女は、ある説教者の話を聞いたときにこう云った。「ああした種類の教役者の話を聞くのが好きですよ。あの人は、とても徹底したカルバリ主義の説教者ですからね」。これは、とても良い云い間違いであった。私は、「徹底したカルバリ主義の説教者」になり、全力を込めてイエス・キリスト、すなわち、十字架につけられた方[Iコリ2:2]を高く宣べ伝えたいと思う。キリストのご本性に関する真理か、キリストが行なわれたことか、キリストが約束されたこと、これらに養われることを決して恐れてはならない。栄光に富む食欲をもってかぶりつくがいい。そして、「良い物を食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づこう」。もし何らかの高貴な喜び、恍惚感、陶酔感、歓喜があるとしたら、また、地上で始まったかのような天国にあなたが我を忘れるとしたら、また、もしあなたが自分の身近に主を感じられるとしたら、よろしい。喜び踊る備えをするがいい。「あなたがたは脂肪で元気づこう」。
しかし、祈りや、継続する祈りや、強く力ある祈り、そしてまた、天国の調べに近い賛美といった聖なる勤めについて云えば、それらを差し控えてはならない。あなたの全力を傾けてそれらに従事するがいい。「あなたがたは脂肪で元気づこう」。おゝ、私たちがいかにあわれな、痩せこけた礼拝をささげ、いかに弱く、力ないしかたで神に近づくことか! 願わくは私たちがそうしたあり方から解放され、《いと高き方》との真の交わりという、髄の多いあぶらみへと入れるように!
何にもまして、あなたがまだ受け取ってはいないが、キリストの御手の中にあってあなたのものであるもので養われることをないがしろにしてはならない。これから明らかにされようとしている栄光について、《再臨》に伴う種々の栄光について、特にしばしば深く考えるがいい。そして、それらについて考える際に、あなたの心を燃え立たされ、あなたの霊を熱烈な歓喜によって強くするがいい。《あの方》が来つつあられるからである。あの方はすみやかに来ようとしておられる。そして、いつお現われになるか誰が知ろう? この方の到来の約束を頼りにして生き、それを喜びとするがいい。「良い物を食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づこう」。
IV. さて私の時間は尽きてしまった。それゆえ、第四の項目については説教するまい。それは、《元気づくこと》となるはずであったが、私の主題のこの部分については、ほんの二言三言を語るだけとしよう。
聖なる喜びには何の危険もない。神のことばの中に喜びを見いだすこと、また、キリストにあって喜びを見いだすことには何の危険もない。あなたは、自分に可能なかぎり幸いであって良いし、そこにはなんの危険もないであろう。というのも、「主を喜ぶことは、あなたがたの力であるから」[ネヘ8:10 <新改訳聖書欄外訳>]である。主を喜ぶことはあなたの安全である。また、主を喜ぶことはあなたの回復となるであろう。あなたが主からさまよい出してしまっているとしたらそうである。
この脂肪に養われることからは、いかなる怠惰さも、利己主義も生み出されないであろう。神のことばに養われれば養われるほど、あなたは他の人々の善のために働くようになるであろう。あなたはこうは云わないであろう。「私は救われている。それゆえ、他の人々は滅びるままにしよう」。おゝ、否! あなたは、他の人々を導き入れて、「代価(かた)なき恵みと死に給う愛」に養われるようにさせたいという、強く燃える願望をいだくであろう。人々の魂を誰にもまして愛するのは、自分の主を大いに愛する人々にほかならない。彼ら自身が大いに赦されており、それを知っている以上、彼らは行って、自分の同胞の人々を捜し求め、彼らをこの《救い主》の足元に導こうとする。
愛する方々。願わくはあなたが神のことばの豊かさによって素晴らしい食事をし、そのことで神聖な満足に至るように。また、エサウのように、「私はたくさんに持っている」[創33:9]、と云うのではなく、ヤコブのように、「私はすべてのものを持っています!」、と云えるように。願わくはあなたがこれ以上何も願えなくなるように! 願わくはあなたがキリストにあって満ち満ちた者となり[コロ2:10]、完全にキリストにあって満たされているあまり、こう云えるようになるように。「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません!」[詩23:1]、と。
願わくは、やはりあなたが、聖なる安心感に至るように。肉的な安心感ではない。それは危険であり、破滅的からである。だが、聖なる安心感に至り、こう云えるようになるように。「私は、自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると確信しているからです」[IIテモ1:12]、と。「あなたは何を信仰しているのですか?」、とある人がもうひとりの人に云った。「私が何を信仰しているかですって? 私はこう信仰しています。あの方は、私のお任せしたものを守ってくださることができるのだ、と」。これはほむべき信仰である。願わくはあなたがそれを有し、一生の間保っているように!
それから次に、願わくはあなたが完璧な安息の状態に入るように! 「主の前に静まり、耐え忍んで主を待て」[詩37:7]。「信じた私たちは安息にはいるのです」[ヘブ4:3]。「したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです」[ヘブ4:9]。しかし、彼らが今でさえ楽しむ安息はある。願わくはあなたがそれを得るように!
また、願わくはあなたが、神のみこころに完全に服従する状態に入るように! もし私たちが、先ほど心からあの美しい賛美歌(691番)を歌ったとしたら、私たちはあらゆることを神にゆだね、神が私たちに対してお望み通りのことを行なうがままにさせることができるであろう。願わくはあなたがまさにこう感じるように。自分の意志は、神のみこころがそうあらせたいという通りのものであり、神のみこころが自分の意志となる、と! そのとき、あなたは脂肪で元気づくであろう。
最後に、願わくはあなたが幸いな期待感に満たされるように! 願わくはあなたが私たちの詩人とともにこう云えるようになるように。――
「わが心(たま)御座の 主ともにありて、
さらなる遅れ 堪えがたし。
瞬間(ときのま)ごとに ただ待てり、
『いざ立ち、来よ』との 御声をば」。おゝ、天国の郊外に暮らし、神の大宮殿の控えの間に入り、そこで止まり、壁の内側の熾天使たちの歌声を聞くことよ! ベウラの丘の上で、彼方の天の都からのそよ風を感じるということがあるのである。その風が正しい方角を向くとき、あなたはしばしば、インマヌエルが《王》であられる栄光の国の香料を嗅ぐであろう。その国で、この《王》の愛する者たちはその御胸に永遠にいだかれるのである。私は切に願う。あなたがみなこうしたことを有するようにと。「私たちにはできません」、と云ってはならない。自分にできないと恐れてはならない。むしろ、この聖句に耳を傾け、それを実行するがいい。「良い物を食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づこう」。
おゝ、あるあわれな魂が、今晩キリストを初めて口に入れることになるとしたらどんなに良いことか! キリストを取るがいい。私は、ひとりの飢えた子どもが母親によってパン屋に寄こされたのを見たことがある。そこには、小さな一片のパンが「目方の足し」として乗せてある。そして、そのあわれなな子は、家への帰り道でそれを食べるのである。私も、今晩あなたがそうすることを許可する。真理をあなたとともに持ち帰り、それを保っておくがいい。だが、家に帰る途中で、そのひとかけらを食べるがいい。今晩、今、あなたがこのタバナクルを去る前に、キリストをつかむがいい。願わくは、主の恵みによって、あなたがそうできるようになるように。そのときには、席について、食べて、食べて、永遠に食べるがいい。この尊い、無尽蔵の、神の愛という食料を。そして、このお方に栄光が永久永遠にあらんことを。アーメン。
みことばで養われる[了]
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