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スカルの罪人が救われる

NO. 2277

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1892年10月9日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1890年4月13日、主日夜


「イエスは答えて言われた。『もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう』」。――ヨハ4:10


 私は、先の聖書朗読で、こう云わざるをえなかった。私たちの主に対するこの女の答えは、無礼とまでは行かなくとも、少なくとも、ぞんざいなものであった、と。だが、大いなる柔和さをもって、イエスはそれに注意をとめたり、彼女の口調を、また、その不親切な態度を咎めたりすることはなさらなかった。主は、彼女の魂を救うことにあまりにも余念がなかったため、彼女の側のちょっとしたぞんざいさに目くじらを立てたりなさらなかった。私たちの主のふるまいから1つの教訓を学ぼうではないか。あなたが魂を扱っているときには、必ずしも常に彼らが、たちまちあなたになびくものと期待してはならない。あなたの説諭に感謝することすら期待してはならない。はねつけられること、また、嘲りすら受けることを覚悟するがいい。そして、それが起こったときには、癇癪を起こしたり、気を落としたりすることなく、どこを通るにせよ自分の道を真っ直ぐに進み続けるがいい。

 私たちの《救い主》は、この女のぞんざいさに腹を立てる代わりに、「もしあなたが……知っていたなら」、と云われた。あゝ、あわれな魂よ。あなたは知らないのだ。自分がどなたに向かってこのようにぞんざいに語っているかを! 「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう」。おゝ、私たちが人々の魂に対する熱情を持てるならば、どんなに良いことか! 願わくは私たちが、自分たちの願いにおいて熱烈になり、えにしだの炭火[詩120:4]のように熱く燃える愛を有しているように! 願わくは、私たちがいかなる落胆によっても気をくじかれることがないように。むしろ、こう決意しようではないか。私たちは、いかなるあわれな罪人との関係を断つ前にも、自分の全力を尽くしてその人をキリストのもとに導くことにしよう。そして、たとい人々が失われるとしても、それが私たちの過失とはならないようにしよう。また、もし彼らが救われるとしたら、少なくともこの点においては、それにあずかる者となるようにしよう。すなわち、私たちがキリストを彼らの前に、彼らの魂の唯一の望みとして、はっきりと指し示したという点においてである。

 さて、私たちの《救い主》は、このように私たちのために、大きな柔和さという模範を示した後で、この女の心を、非常に異様なしかたで読みとられた。そして、彼女の心を読みとった上で、その無知が取り除かれたならば彼女の行動がいかなるものとなるかを予告された。これこれの状況下で人々が何をすることになるかを予測するのは難しい。人々は非常に説明のつかない存在だからである。だが主はこの女が何をすることになるか予言された。それが私の第一の点となるであろう。イエスは、彼女の無知が取り除かれたなら、彼女が何をするかを予告された。それから第二に私があなたに示したいのは、事実はその予言の正しさを裏づけたということである。この女は、自分と話しているのがどなたかを知るや否や、その生ける水を求めた。イエスはそれを彼女にお与えになり、彼女は喜びながら[使8:39]帰って行った。

 I. まず第一に、《イエスは、彼女の無知が取り除かれたならば彼女の行動がいかなるものとなるかを予告された》。主は、彼女の中に、正しい物事に対する生得の性向を見てとられた。だが、彼女は自分の無知によって妨げられていた。もしその妨げを取り除くことができたとしたら、彼女はたちまち正しい路を進もうとするであろう。

 救いに至る知識の中でも、彼女にとって知ることが望ましかったいくつかの点に言及させてほしい。

 最初に、救いの性質があった。「もしあなたが神の賜物を……知っていたなら」。世界中のおびただしい数の人々は、救いが何を意味するか知ってはいない。たとい彼らがそれについて少しでも何らかの概念を有しているとしても、地獄から逃れて、死んだら天国に行くのだと思い描く程度であり、それは非常に不完全で不正確な救いの観念である。「神の下さる賜物は……永遠のいのちです」[ロマ6:23]。そして、それが救いである。神はキリストを信ずるすべての人々に新しいいのち、生きた原理を与えてくださる。彼らの内側に常にあって、彼らの人生を統括し、支配する原理である。救いは、罪からの救いを意味する。酔いどれにとって、それは飲酒からの救いである。悪態をつく者にとって、それは卑俗な心からの救いである。みだらな者にとって、それは不純行為からの救いである。それは、人生の中の悪の力からの解放を意味し、善にして恵み深いものの力に屈伏し、それによって罪が放逐されることを意味する。あなたは、イエスという名前の意味を覚えているであろう。「その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」[マタ1:21]。私たちが宣べ伝えなくてはならない救いは、心の変化を生み出す。性質の刷新、悪魔の力からの解放を生み出し、そのように更新された人を神の聖霊という至高の力のもとに置く。もし誰かがこのことを知っているとしたら、その人はそれを求め始めるであろう。この場にいる多くの人々は、心機一転して真人間になるべきだと感じていながら、そのやり方が分かっていないのではないだろうか? そうした人々には、ある程度までは意志があるとしても、その力がない。さて、救いはあなたに、意志と力の双方をもたらす。それはあなたを単に必ず来る御怒りから救うだけでなく、今あなたの中にある罪から救う。それが救いの性質である。

 この女は、救いの無代価さを知らなかった。「もしあなたが神の賜物を……知っていたなら」。――「神の賜物」。ことによると、彼女は、それは金銭で買い取らなくてはならないとか、種々のいけにえによって獲得されなくてはならないとか、長い間準備を積んだ上での善行によって到達されなくてはならないとか思っていたかもしれない。《救い主》は彼女に、救いは神の賜物であると請け合われた。それは、受ける値があるからではなく、神が恩知らずの悪人[ルカ6:35]をさえ祝福することをお喜びになるからこそ、無代価で与えられる。悔悟や、種々の禁欲生活や、無数の祈りや、滂沱の涙ゆえにではなく、イエス・キリストに対する信仰によってそれを受けたいと望むあらゆる魂に対して無代価で与えられるのである。おゝ、もし多くの人々がこのことを知るならば、彼らはそれを得ようと求めるであろう。だが、彼らは救いがいかなるものかを知らない。また、それがただで、またその場で受けられることを知らない。「もしあなたが神の賜物を……知っていたなら」。

 さらに、この女には、キリストのご人格を知る必要があった。「もしあなたが……あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう」。ある人々はキリストが誰であるかを知らない。キリストは地上に来て、生きて、死に、天に行かれ、何万もの説教者たちによって宣べ伝えられており、そのほむべき《書》は今日まであなたとともにあるが、それでも、あなたはこの《救い主》が万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神[ロマ9:5]であること、聖なる《三位一体》の第二《位格》であること、神の御子でありながら《人》でもあられることを知らない。このお方が人間の性質をまとい、この世の中に生まれ、苦しみと従順の生涯を送ったこと、不名誉な、苦痛に満ちた死を遂げたこと、今は死者の中からよみがえり、父なる神の右の座に着いていること、私たちの福音に従って、生きている人々をも死んだ人々をも審くためにすぐにも来ようとしておられることを知らない。さて、この方こそ、この神、この《人》、この神と人々との間の《仲保者》こそ、信頼されるべきお方である。このお方は神によって任命された。それゆえ、キリスト、すなわち油注がれた者と呼ばれた。このお方は、ご自分を遣わされたお方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げるという目的をもってこの世に来られた[ヨハ4:34]。おゝ、あなたがた、人々の子らよ。もしあなたがたが救われたければ、あなたがたは来て、この《受肉した神》に自ら信頼しなくてはならない。あなたの骨の骨、あなたの肉の肉なるお方に!

 この女はまた、キリストの無代価さをも知らなかった。というのも、私たちの《救い主》が、「もしあなたが神の賜物を……知っていたなら」、と云われたとき、主は文字通りにはご自身のことを意味しておられたからである。パウロは云う。「ことばに表わせないほどの賜物のゆえに、神に感謝します」[IIコリ9:15]。これが、この方である。御父の賜物である。キリストがこの世に来られたのは、単に金持ちや、学者や、試験に次ぐ試験を突破して人知の高い学位に達そうとする者たちを救うためだけではない。この方は、貧者のため、あなたがた、自らの無知を知り、それを嘆じている人たちのため、あなたがた、自分が罪人であることを知り、それを悔やんでいる人たちのためにも死なれた。この方は正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来た[ルカ5:32]。神はご自身の御子イエス・キリストを与えられた。無代価で与えられた。あなたは、願うだけで御子を自分のものにできる。ただ御子を受け取るだげてよい。「御子を信じる者は永遠のいのちを持つ」[ヨハ3:36]。そして、もしあなたが御子に信頼しさえするなら、永遠のいのちがあなたのためにある。この女がこのことを知るのは重要であった。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら」。

 もしあなたがこの聖句を眺めるなら、あなたは今、この救いに至る知識にいかなるふるまいが続くか見てとるであろう。キリストはこの女の無知が取り除かれるとき、彼女が何をするか予告された。何を彼女はするだろうか?

 よろしい。最初に、彼女は何かをキリストに与えるという考えを完全に退けるであろう。主はこの罪深い女に、「わたしに水を飲ませてください」[ヨハ4:7]、と云って声をかけたが、後にはこう云っておられる。「もしあなたが神の賜物を知……っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう」。私は、回心者からも他の人々からも、絶えず、回心の描写として、「私は私の心をキリストにささげました」、という云い回しを聞かされる。さて、私はその云い回しにけちをつけているのではない。私たちは自分の心をキリストにささげなくてはならないからである。だが、非常に深刻にこう云わせてほしい。残念ながら、その語句は、よくよく慎重に条件をつけた上で用いない限り、大きな害悪をもたらすのではないかと思う。福音は、「あなたの心をキリストにささげなさい。そうすれば、あなたは救われます」、ではない。福音は、「主イエス・キリストを信じなさい」――すなわち、信頼しなさい。「そうすれば、あなたも救われます」*[使16:31 <英欽定訳>]、である。そうするとき、あなたは、すぐにではなくとも、やがてあなたの心を主にささげるに違いない。救いは、あなたがキリストに何かを与えることによるのではなく、キリストがあなたに何かを与えることによるのである。私は、あなたが自分の心をキリストにささげたことを嬉しく思うが、あなたはまず、主がご自分の心をあなたのためにお与えになったという教訓を学んだだろうか? 私たちは、キリストに何かを与えることによって救いを見いだすのではない。それは救いの実である。だが、救いは、キリストが私たちに何かをお与えになることによってやって来る。――何か、と私は云っただろうか?――すべてをお与えになること、ご自身を私たちにお与えになることによってやって来るのである。私がこれまで注意してきたところ、子どもたちに対する《日曜学校》の教えの大方は、「愛する子どもたち。イエスを愛しなさい」、であった。それは救いの道ではない。救いの道はイエスを信頼することである。救いの実は、その愛する子どもたちが実際にイエスを愛することである。だが、それは救いの道ではない。救いの道とはキリストを受け取り、キリストに信頼することである。あなたが救われるとき、その証拠は、あなたが自分の心をキリストにささげることであろう。だが、物事をあべこべにしてはならない。私たちが、小さな間違いから始まって大きな誤りに至り、かつて世界を暗闇に沈めた破滅的な教理を再び打ち立てるといけないからである。自分自身の行ないによる空想上の救いという教理を。

 次に、この聖句が示唆するのは、キリストに乞い求めることを私たちは真っ先になすべきであるという考えである。いかに多くの人々が、救いは賜物であると知っていることであろう。だが、彼らは決してそれを求めない! 彼らはそれがことごとく恵みによることを知っている。だが決してそれを求めようとしない。夜、寝ぼけまなこでささげる時おりの祈り。もう少し良い人間になりたいという、時たまの願い。それが、あなたが行なう努力のすべてである。主は云われる。「もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう」[エレ29:13]。人々は、一千も心を持っているかのように黄金を捜し求める。だが、恵みの方は、自分の心が一千分割されてでもいるかのように捜し求め、ほんの千分の一の心だけでしか祝福を追い求めない。この女は、実際にキリストにそれを下さいと求め、熱心にそう求めた。そして、あなたもそれと同じように行なわなくてはならない。もしあなたがキリストを知っていさえしたなら、もしあなたがキリストの救いの価値を知っていさえしたなら、もしあなたがその無代価さを知っていさえしたなら、話をお聞きの方々。あなたは膝まずき、あなたの魂を唯一お救いになれるお方を見いだすまで、決して立ち上がらないであろう。あなたがた、まだ救われていない人たちに尋ねさせてほしい。あなたは、あわれみを求めて神に叫んでいるだろうか? そのことに真剣だろうか? あなたの魂そのものは祈りにおいて神のもとに上っているだろうか? そうでないとしたら、あなたが今なお苦い胆汁[使8:23]の中にいるとしても不思議がってはならない。いかにして、あなたが心から求めるだけ重んじてもいないものを神があなたにお与えになるなど期待できようか?

 この女は、その無知が取り除かれたとき、求めることを第一にするよう導かれ、そのときには本当に求めるよう導かれた。そして次に、求めることの後で、恵み深くも、受け取ることが続くことになった。私はこのことばにあなたの注意を引きたい。「あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう」。話をお聞きの愛する方々。もしあなたが求めていたとしたら、あなたは受け取っていたはずであろう。「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです」[ヤコ4:2]。今晩あなたがその会衆席に、神なく、キリストから離れて座っているのは、一度もキリストを求めたことがなかったからである。キリストを求めて叫んだことがなかったからである。あなたが主を求めていたとしたら、見いだしていたであろう。「だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれ」[マタ7:8]るからである。私は単にこの真理を口にするだけでよしとはしない。私は、それをあなたの心に強く突き入れることができればと思う。そして、あなたにそれを感じさせたいと思う。もしあなたが求めたことがないとしたら、あなたがそれを受け取っていないとしても当然であり、もし求めていたとしたら、あなたの求めが無駄になることはなかったであろう。「あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう」。

 そのとき、彼女は受け取るであろうし、その賜物の尊さは明白であったであろう。その結果として、彼女は幸いな女となっていたであろう。神の賜物を大いに尊び、愛する《救い主》を大いに重んじ、喜びに満ちて歌うことになったであろう。なぜなら、彼女は彼女のすべての罪を取り去ることのできるお方を見いだしたからである。このお方は彼女を、更新された女としてスカルに送り返すことがおできになった。人々の魂を滅ぼす者である代わりに、彼女は彼らに十字架を先触れする者、彼らの救いの手段となるであろう。

 そのように私たちの《救い主》は、彼女が行なうだろうと描き出された。このことが、この場にいるあなたがたの中の誰かについて真実かどうかと私は思う。あなたが祈らずにきたのは、ただ、事を良く知らなかったためだけだろうか。あなたがキリストを見いだしたことがなかったのは、実はあなたがキリストについて何も知らなかったためだろうか。あなたは過ちや間違いを犯してきた。そして、それがあなたが救われていない理由である。さて、私たちは事をあなたに説明してきたし、あなたはそれを見てとることができる。あなたは、もはや一日も過ぎ去らせることなく、キリストを求め、見いだし、そのようにして永遠のいのちに入ることだろうと思う。

 さて、この教えが私たちに示唆している行動のあり方を考察するがいい。

 もしも、多くの場合において、無知以外の何物も人々を永遠のいのちから遠ざけてはいないことが事実だとしたら、また、もし多くの人々が知っていさえしたら、自分の方から求めて受け取っていたことが真実だとしたら、ならば、あなたがまだキリストを見いだしていない場合、賢くなって、キリストについて一切のことを学ぼうとするがいい。知らぬが仏ではなく、むしろ無限の災厄であるような場合は、知らないままでいてはならない。目を覚まし、こう云うがいい。「救いが何であるかを見つけ出せるものなら、見つけ出そう。たとい、夜っぴて努力しくてはならず、この聖なる《書》の中を捜索することでこの目をすり減らすことになるとしても関係ない。読むだけでなく、話を聞くこともしよう。私は、救いについて、また、この、ことばに表わせないほどの賜物である、神の御子イエスについて、知りうる限りのことを知るようにしよう」。よろしい。キリストが最も良く宣べ伝えられている所に行くよう注意するがいい。ひとりの小さな少女が、母親のこのような言葉を耳にした。「私たちは、イエス様について聞きに神の家に行くのよ」。「お母さん」、と少女は云った。「おばちゃんが行ってる所では、イエス様について何も聞けないわ。きっとそうよ。だって、いつおばちゃんについて行っても、イエス様のことなんか全然聞いたことがないんだもの」。キリストが宣べ伝えられていない所に行ってはならない。そうした所には、救われるべき魂を全く有していない人々が行くがいい。――そのような人々がいればだが。だが、あなたは、話をお聞きの愛する方々。心悩む状態にある。あなたは救いを見いだしたいと欲している。ならば無知があなたの妨げとならないように、自分の聞くことに、また、聞き方に注意するがいい[ルカ8:18]。私は《救い主》を最初に求め始めたときには、子どもでしかなかったが、今でも明確に覚えているように、自分の小さな寝室に太陽が差し込むや否や、当時の私は目を覚ました。そして、何を私は読んでいただろうか? ドッドリジの『魂におけるキリスト教信仰の上昇と向上』、アリーンの『未回心者への警告』、そして、そうした種類の何冊かの書物である。私は、ほんの子どもでしかないときに、どうにかしてキリストを見いだしたい、そして救われたいと望みながら読んだ。私が礼拝所に行くときには、風琴の音楽だの、説教者の雄弁だのには何の注意も払わなかった。私は、この1つの思いだけをいだきながら聞き続けた。「おゝ、私が救いを見いだすことができさえしたなら! おゝ、キリストを見いだせさえしたなら!」 誰かについてこのようなことが云えるならば常に、嘘ではない。遅かれ早かれ、道を遮っている障壁は溶けて消え去るであろう。そして、あなたは求めることになり、神はお与えになり、あなたが救われたゆえに天国には喜びがあり、あなた自身の心にも喜びがあるようになるであろう。

 もう1つのことがある。もしあなたが真理を本当に発見するなら、それについて、さらに学び続けて、それを他の人々に告げられるようになるがいい。神の恵みには、そうした性質がある。それは、ある心に入ると、他へとあふれ出したがるのである。スカルの女はイエスを信ずる。今や彼女は行って、町の人々にキリストについて告げなくてはならない。彼女は、かつて自分とともに罪を犯した男たちのもとに行っただろうかと思う。こうした東洋の地域の女たちは、表立って男たちに話しかけることがまれである。だが、この女はそうした。彼女はすでに、上品さの律法をも、神のことばの律法をも破っていた。それで、彼女は出て行くと、男たちにこう云うのである。「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか」[ヨハ4:29]。私は云うが、キリストについて学び続けて、それを他の人々に教えられるほどになるがいい。そして、あなたの《主人》について誰かに語らなかったとしたら、また、少なくともどこかに、主を賛美することになる実を結ぶべきごく小さな種を落としてこなかったとしたら、一日をよく費やしたとは決して考えてはならない。私たちの《救い主》は、この女が、自分を押さえつけていた無知を取り除かれさえしたら、求めるだろうこと、受け取るだろうことを予言された。

 II. 私の第二の点は、こうしたすべてが実現したということである。《この事実は、その予言の正しさを裏づけた》。この女の無知が取り除かれたとき、彼女はキリストによってするだろうと云われた通りのことをした。

 最初にあなたに思い出させてほしいが、彼女が知っていたことは、彼女に大いに役立った。彼女は、キリストのもとに来たときには回心していなかった。そこからは、はるかに隔たっていた。だが、キリストについて何らかのことは知っていた。というのも、主に向かってこう云ったからである。「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています」[ヨハ4:25]。あなたが何かを知っているとき、それは良い出だしである。私は昨日、非国教徒たちに関する一片の偏狭さについて耳にした。それは一瞬私を驚嘆させ、それから私は云った。「それを聞くのは、どちらかと云うと嬉しいことだ。というのも、私は近頃何かを信じている人々に出会うことを好むからだ。大多数の人々は全く何も信じていない。本当に何かを知っており、何かを信じている人々には希望がある」。もしあなたのどこかに、1つでも堅固な所があるとしたら、私たちはそれを私たちのてこのための支点とすることができ、あなたを動かすことができる。この女は、「私は……メシヤの来られることを知っています」、と云った。《日曜学校》で子どもたちを教えている教師たち。それは今からもう何年も先になるかもしれない。だが、もしあなたがある子どもに、本当に何かを知るよう教えたとしたら、その知識はその子の救いの始まりとなりえる。それは、部分的には、共通の伝統によるものであったかもしれず、部分的には会話によるものかもしれず、部分的にはこの女の知り合いたちがいだいていた信仰によるものだったかもしれないが、それで彼女は、「私は……メシヤの来られることを知っています」、と云うようになったのである。

 それから彼女は、別のことも頭に入れていた。メシヤが来るときには、彼らに一切のことを知らせるだろうということである。「その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう」[ヨハ4:25]。要するにこの女は、自分の信じていたことによって、こう云うことになったのである。「メシヤが来られるときには、私たちのすべてが正しくされるでしょう。今は、私たち、ユダヤ人とサマリヤ人はどこで礼拝すべきかについて云い争っています。サマリヤ人はゲリジム山が祝福の宣告された場所だ、ここで礼拝すべきだと云います。彼らは、あなたもご存知の通り、モーセの五書しか信じていません。あのモーセの五つの書物は、エルサレムについても、神殿についても、ほとんど語っていません。あの壮大な古の五書を堅く守って、私はここゲリジム山で礼拝することが正しいと思っています。ですが、ユダヤ人によると、私たちはエルサレムで礼拝すべきだというのです。よろしい。メシヤが来られるときには、私たちに一切のことを知らせてくださるでしょう」。

 彼女は、そうした考えを頭の中に叩き込んでいた。どこからそれを得たのだろうか? その箇所を読み上げれば、あなたも、いかにある一聖句が、魂のひっかかる鉤となりうるかが分かるであろう。ある聖句は、堅い岩の小さな一片かもしれないが、そこにてこを置くと、不滅の魂というすさまじい重みを持ち上げ始めることができる。申命記18章の15節以下にはこう記されている。「あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。これはあなたが、ホレブであの集まりの日に、あなたの神、主に求めたそのことによるものである。あなたは、『私の神、主の声を二度と聞きたくありません。またこの大きな火をもう見たくありません。私は死にたくありません。』と言った。それで主は私に言われた。『彼らの言ったことはもっともだ』」。彼らは、ひとりの《仲保者》を必要だ。彼らには、わたしからのことばを彼らに語る、ひとりの《仲保者》を与えよう。《さて》、ここに特別な節がある。わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのようなひとりの《預言者》を起こそう。わたしは彼の口にわたしのことばを授けよう。彼は、わたしが命じることをみな、彼らに告げる[申18:15-18]。この女は、この節をいささか乱暴に扱ったが、そこからこのようなことを引き出した。「やがて、ひとりの偉大な《預言者》がやって来るのです。神に油注がれた《預言者》、メシヤ、キリストが。そして、その方が来られるときには、私たちはこのことによってその方を知ることでしょう。彼は私たちに一切のことを知らせてくれるのです。彼は、私たちがいま惑っていることについて、神の真理をより完全に解き明かしてくれるでしょう」。これが、彼女の知っていたことであり、それは彼女の大きな助けとなった。

 しかし、次に、私たちの主が彼女にお告げになったことは、彼女にとってさらに大きな助けとなった。というのも、主は彼女をご自分へと向けられたからである。主はまず、彼女に福音を宣べ伝えることから始められた。主は彼女に生ける水を与えようとされた。そして、もし彼女がそれを飲むなら、それは彼女のうちで泉となって永遠にとどまり、永遠のいのちへの水を湧き出させることになるであろう。そして、主はこの生ける水を、その場で即座に彼女にお与えになろうとしていた。

 次に、主は彼女の人生を彼女の前で明らかにされた。主は彼女に、彼女には五人の夫があったが、そのとき彼女がともに暮らしていた男は彼女の夫ではないとお告げになった[ヨハ4:18]。二筆か三筆で、主は彼女の肖像画を描かれた。彼女はそれに驚嘆した。ある人々が自分自身を見てとることは大いなることである。そうした人々が自分の《救い主》を見てとることは、それよりさらに大いなることである。あなたがいったん回心した後では、自分自身を研究してはならない。あなたの主を研究するがいい。神は魂の目がとめるべき1つの目標を与えておられ、それはキリストである。あなたの目を常に主にとめておくがいい。しかし、彼女の回心のために、彼女は自分自身を見させられた。忌み嫌うべき罪の中に生きていた、みじめな女である。そして、彼女はその光景に驚愕させられたが、それすらも彼女の助けとなった。

 それから、《救い主》は彼女を、あらゆる外的な宗教から引き離された。主は彼女に云われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます」[ヨハ4:21]。イエスは彼女に、来たるべき時には、真の礼拝者たちが御父を霊とまことで礼拝することになるとお告げになった。[ヨハ4:23]。また、やはり注意すべきことに、キリストは彼女をサマリヤ的な礼拝からも引き離された。主は、「救いはユダヤ人から出る」[ヨハ4:22]、と云われた。しかし、それから主は彼女をユダヤ的な礼拝からも引き離してこう云われた。「この山でもなく、エルサレムでもない」[ヨハ4:21]。ローマカトリック教徒を、英国国教徒に改宗させようと努めるのはたいへん結構なことである。それは、そうした人々をサマリヤ人からユダヤ人にすることである。人をウェスレー派から独立派に変えること、あるいは、独立派からバプテスト派に変えること、あるいは、アルミニウス主義者からカルヴァン主義者に変えることは非常に結構である。だが実は、あなたはその人をキリスト以外のあらゆることから引き離さなくてはならない。そして、その人に、何の信仰告白も、何の外的儀式も魂を救うことはできないのだと知らせるまでは、あなたの働きをなし終えていないのである。「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるのです」*[ヨハ4:23-24参照]。

 《救い主》はこの女に大いに尽くされた。主は彼女に福音を宣べ伝え、彼女の罪を明らかにし、彼女を自分自身から、また、あらゆる外的な信心深さから引き離された。それから、すべての主眼がやって来た。主は自分自身を彼女に明らかに示し、主の天来の栄光という神聖な威光を明らかにされた。主は彼女に云われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです」[ヨハ4:26]。彼女が、「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています」、と云ったとき、主は即座に、この壮大なことばをお語りになった。「わたしがそれです」。さて、愛する方々。もし主があなたに、たった1つの真理を知るようにしてくださったとしたら、それにすがりつくがいい。そして、願わくは主があなた自身について、また主ご自身についてより多くを教えてくださり、この女に知らせてくださったように、あなたも知るようにしてくださるように。イエス・キリストがただひとり唯一の《救い主》であられることを!

 よろしい。さらにまた、彼女自身がキリストを経験したことによって、彼女の信仰は安定させられた。私の話の筋道を、あなたは見てとれるだろうかと思う。この女は自分の思いの中で、メシヤが来るときには、彼が一切のことを知らせてくれるという考えをいだいていた。彼女はキリストの話を聞き、キリストが彼女の全人生を描き出したとき、何かが彼女の心に囁き始めた。「この人は、お前がしてきた一切のことをお前に告げている。この人がキリストなのだろうか?」 そして、キリストが彼女に、「あなたと話しているこのわたしがそれです」、と仰せになったとき、その働きは完成した。そして、彼女は出て行くと、自分に考えられた最初のことを人々に語った。彼女は云った。「知っての通り、メシヤが来られるときには、一切のことを私たちに知らせてくださいます。モーセは申命記でそう語りました。あなたは五書のあの箇所を覚えているでしょう。今」、と彼女は云った。「私が出会った《人》は、私のしてきた一切のことを私に知らせたのです。少なくとも、ある特定の線に沿った一切のことを。あなたは、この方がキリストだと思いますか?」 そのあわれな、女らしいしかたで、彼女はそうしたことを信じるよう議論づけた。そして、それは健全で、筋の通った議論であるとも私は思う。私の知っている多くの魂は、聖書のある一聖句以上の何の導きもなしに天国に行き着いた。1つの真理がある人を天国に導くのである。1つよりは五十もの真理の方がそうした人々を良く養うことができるだろうが、関係ない。何らかの深い割れ目に橋を架けるとき、何をなすべきだろうか? 第一のことは、一本の矢を射ること、あるいは、砲弾を発射して、糸を一本渡すことである。糸が一本かかったならば、その溝を越えて紐を引くことができる。紐をかけることができたら、もっと太くて強い紐をかけることができる。それは、一本の綱を引くことができるし、その綱はもっと大きな綱を伝えることができ、それは太索を持って行くことができる。そして、やがて、何本もの太索を渡したときには、鉄の橋を造り始めることができるのである。さて、この女の心にあった、この1つの信念、「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています」は割れ目を越えて射られた糸のようであった。「その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう」は、一本の紐のようであった。そして、彼女が、自分に一切のことを告げるお方に出会ったことに気づいたとき、彼女はその割れ目を越えて一本の太索を渡したのである。これこそ、神が無知を取り除かれるしかたである。これこそ、神が信仰を建て上げるしかたである。少しずつである。そして、それゆえ私は切に願う。あなたがたの中の、ほんの少ししか信じていないいかなる人も、それにしがみつき、それを手放さないように、と。聖書を調べ、福音の話を聞き、あなたがもっと多くを信じられるようになるまでそうするがいい。そして、イエスが、罪人を救うために神から遣わされたキリストであると信じて、完全にイエスに信頼し、イエスだけに信頼するがいい。そうすれば、あなたは永遠のいのちに入るであろう。

 私には、ある人がこう尋ねるのが聞こえるような気がする。「あなたは、この女が救われたと云おうとしているのですか?」 しかり。私は彼女と天国で会うだろうと期待している。新しいエルサレムの麗しい娘たちの中には、この井戸のそばで待っていたこの女が確かに見いだされるであろう。「しかし、彼女はこれほどけしらかぬ人格だったのですよ」、とある人は云うであろう。彼女はけしからぬ人格であった。私は、この場には、彼女の半分ほども悪い人格の婦人がいないでほしいと思う。だが、そうした婦人はここにいることがありえるし、何人かの婦人たちは彼女をさえしのぐ悪女かもしれない。だが彼女は救われたし、あなたも、彼女と同じ道を通って行くなら救われるであろう。この場には、このあわれな女がかつて踏み込んだことのある悪徳以下の悪徳に陥っている男たちがいるかもしれない。人はえてして女を非難し、男は罪を免れたままでいることが許される。しかし、今晩、私は、あなたが男であるか女であるかに頓着しない。たとい、あなたが同じ――全く同一の――罪を犯していようと、また、神の御前においても、あなた自身の良心の前において咎があってさえも関係ない。イエスがこの女にに云われた2つの事がらに耳を傾けていさえするならそうである。

 最初のことは、こうである。「わたしの言うことを信じなさい」[ヨハ4:21]。婦人よ。キリストの云うことを信じるがいい。男よ。キリストの云うことを信じるがいい。私のことはかまわない。教役者のことも、司祭たちのことも決してかまってはならない。神の遣わされたお方、キリストの仰せになることを信じるがいい。というのも、このお方は偽りを仰せになれないからである。主は真理をお語りになる。主の云うことを信じ、主を信じるがいい。すなわち、主を信頼し、救いのために主により頼むがいい。

 それから、イエスは彼女にお語りになった最後のことばとして、この言葉をその耳の中に響かせておかれた。「あなたと話しているこのわたしがそれです」。キリストこそ、罪人たちを救うために神がお遣わしになったお方であると信じるがいい。キリストこそ、私たちの罪を取り去られたお方、世の罪を取り除く神の《小羊》[ヨハ1:29]であることを信じるがいい。主が、「わたしがそれです」、と仰せになるとき、主を信じ、こう申し上げるがいい。「わたしは、主よ。この女のようです。罪人のかしらのひとりです。ですが、あなたが罪人たちの《救い主》であられることを信じます。そして、自分自身をあなたにゆだねます。私をお救いください。主よ。あなたご自身の御名のゆえに!」

 さて、見ての通り、私は馬たちを水のほとりに連れて行った。だが、彼らに水を飲ませることはできない。私はキリストをあなたの前に示してきた。だが、私はあなたにキリストをいだかせることはできない。願わくは聖霊があなたを助けて、今晩、きっぱりと主を受けとらせてくださるように! 御霊がそうしてくださるまで、この場を去ってはならない。キリストに近づき、キリストをあなたの《救い主》として受け入れるまで、あなたの目を眠らせたり、あなたのまぶたをまどろませてはならない。というのも、あなたが今晩眠りに落ちるとき、地上では二度と目を覚まさないかもしれないからである。希望が決してやって来ることのありえない国で目を覚ますのはすさまじいことであろう。そこで、あなたは神に選ばれた者たちをはるか遠くに目にするが、あなた自身について云えば、あなたと彼らの間には大きな淵が定められていると告げられるであろう。彼らはあなたのもとに来ることができず、あなたは彼らのもとに行くことができないのである[ルカ16:26]。「悔い改めて福音を信じなさい」[マコ1:15]。願わくは、聖霊があなたをしいて、今しもそうさせてくださるように。イエスのゆえに! アーメン。

 

スカルの罪人が救われる[了]

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