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溶かしてためされる神の民

NO. 2274

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1892年9月18日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1891年2月19日、木曜日夜


「それゆえ、万軍の主はこう仰せられる。『見よ。わたしは彼らを溶かしてためす。いったい、わたしの民の娘に対し、ほかに何ができようか』」。――エレ9:7


 ここで着目してほしいのは、神がご自分の民をどうすれば良いのか懸命に知ろうと努めているお方としてご自分を表わしているということである。もちろん、神は人間的な云い方[ロマ6:19]をしておられる。というのも、無限の知恵に富み、すべてのことを初めから知っている神として、エホバはご自分が何をするか知っておられたからである。だがしかし、その神聖な御思いの働きの何がしかを私たちが理解できるようにと、神はご自分を全く途方に暮れたお方として表わし、本日の聖句のことばにあるように、こう云っておられる。「いったい、わたしの民の娘に対し、ほかに何ができようか?」 この世にいるある人々は、彼らを愛し、彼らの幸福を願っている人々を大いに困惑させているように見受けられる。彼らは、自分とともに暮らし、自分の益のために労苦している人々にとって大きな困惑の種である。そして、あたかも神ご自身も、こう云ったときには、それを困惑する事がらとみなしておられるかのように見える。「いったい、わたしの民の娘に対し、ほかに何ができようか?」

 しかし、次に注意してほしいのは、主はご自分の民を救おうと堅く決意しており、愛する者らをひとりでも失うくらいなら、考えうる限り最も厳格な手段をも用いようとされるということである。ここで神はこう云っておられる。「わたしは彼らを溶かしてためす。彼らを炉に投げ込み、るつぼに入れる。烈火を燃やし、彼らの鉄の心が溶かされるようにする。そして、確かに彼らは地獄で鍛錬された鋼鉄のようで、何の感覚にも欠けているが、私は彼らのためにこれを大いに熱くし、彼らが溶かされるようにする。人々が金属の検定をし、溶融した塊を赤熱した、あるいは、白熱した状態で注ぎ出すように、わたしは彼らを溶かしてためす」。罪人たち。神はあなたを救おうとして、最も手荒な手段をお取りになる。神はここで、いかなる種類の悲しみ、あるいは、いかなる類の損失、あるいは、いかなる程度の絶望感をもあなたに対して差し控えようとはされない。それは、あなたをご自分のもとに引き寄せるためである。神はこうお尋ねになる。あたかも、ご自分の荒々しい仕業を避けたくてたまらないかのようにである。「いったい、わたしの民の娘に対し、ほかに何ができようか?」 しかし、神はその問いに対して、全能の愛の全き峻厳さをもってお答えになる。「見よ。わたしは彼らを溶かしてためす。彼らには他に何をすることもできない。それで、わたしは彼らを救うことのできる唯一のことを行なおう」。

 さらにまた、この前置きの中で着目してほしいのは、神がご自分の民に対していだかれる関心、また、彼らに対して異様な手段を用いようとする決意が、彼らと神との関係から生じているということである。神はこう云っておられる。「いったい、わたしの民の娘に対し、ほかに何ができようか?」 「わたしの民」。彼らは神のものであった。彼らがその邪悪なあり方によって神からいかに遠く隔たっていようと関係ない。確かに彼らは悪から悪に進み、その生き方によって神をはなはだしく憤らせたが、それでも神は彼らとの縁をお切りにはならなかった。神は彼らのためアブラハム、イサク、ヤコブと結ばれた契約を覚えておられた。そして、その契約ゆえに、彼らのためになることを思いはかり、何とかして彼らを救おうと決意された。神がある人を世界の基の置かれる前から選び、その人をキリストに、そのいのちの激しい苦しみ[イザ53:11]に対する報酬の一部として引き渡しておられるとき、神はご自分の神聖な目的を成し遂げるために異様な手段をお取りになり、いかなる代償を払っても、その目的を実行される。

 私たちは、こうした原則を3つのしかたで適用することにしよう。第一に、回心という件に対して。第二に、キリスト者生活という件に対して。そして第三に、その全体として立場にある神の《教会》に対してである。

 I. 第一に、こうした原則は、《回心という件に》適用できよう。救われるには、ごく単純な道がある。それは、望むらくは、普通の道である。すなわち、恵みの召しに従うという単純な道である。これが、あなたの道であるべきである。私はそう希望する。福音が説教され、あなたがそれを信ずる。キリストがあなたの前にはっきり示され、あなたはキリストを受け入れ、キリストに信頼し、救われる。あなたの心は、いかなる乱暴を受けることもなく開かれる。あたかも恵みの錠前道具によるかのようにである。神が戸口にその鍵を差し入れると、一言も云わずにあなたの心に踏み込まれる。「主は彼女の心を開いて」[使16:14]、とルデヤについては記されている。たといあなたが主を恐れること[IIコリ5:11]を全く知らなくとも、また、たといあなたにいかなる異様な感情の激動や、地震や、暴風や、雷鳴も起こらなくとも、神はかすかな細い声[I列19:12]の中におられる。そして、あなたは、ずっと深い経験をした人々と同じくらい神の恵みによって救われる。

 これが救いの道である。だが、ある人々はこのようにしてはやって来ないであろう。そこに《くぐり戸》がある。彼らが叩きさえするなら、開かれるであろう。だが、彼らはぐるりと回り道をして《落胆の沼》を通るか、世才氏の世話になって、道徳村に住んでいる遵法者の家へと向かわされ、そこで自分たちの重荷を負ったままにされるのである。そうした重荷は、本来なら一刻も背負っている必要のないものである。イエスを仰ぎ見て、信じようとしさえすれば、たちまち転がり落ちるものだからである。しかし、彼らはそうしようとはしない。そこには、神がこう仰せにならなくてはならない人々がいる。「いったい、わたしの民の娘に対し、ほかに何ができようか?」 なぜそうなるのだろうか?

 よろしい。彼らの一部は、ゆがんだ種類の精神をしており、何かを真っ直ぐに信じることが決してできない。彼らは回り道をせざるをえないのである。私の知っているひとりの友人は、常にそうした類の会話をする。かりに彼がウィリアム王通りにいて、私がバラにいるとすると、彼はロンドン橋を渡って私の所に来ることができない。彼は、少なくともハマースミス橋まで行ってから川を渡る必要があると考え、それからぐるりと回って私のもとにやって来るのである。そうした話し方を彼は常にする。時として私は、そうした様式にややうんざりする。そして、彼が即座に要点に達してくれればいいのにと思う。世にはそうした類の精神をした人がいるものである。ある人々に、「信じて生きよ」、と云うとする。すると彼らは自分の頭を少し掻いては、こう云い出す。「信じるとはどういうことだろう? 生きるとはどういうことだろう? それに、いかにして人は信ずることによって生きることができるのだろうか? また、その人は信じるのが先だろうか、それとも、生きるのが先だろうか? また、もしその人が信じるより先に生きるとしたら、いかにして信じることでその人は生きることになるのだろうか?」 私は、そうしたければ一晩中でも、そのようにして頭を悩ませ続けることができるであろう。どんな馬鹿でも、腰掛けを道に並べて、人がつまずいて倒れるようにすることはできる。ある種の精神は、私が迂遠な云い方と呼べるようなものでできあがっているように見受けられる。それは、神が云い表わされる通りの真理を受け取ることができず、子どもが父親を信ずるようには神を信じられない。彼らは何とかしてそれをひねり、ねじり、ゆがめ、ひずませなくてはならない。おゝ、主が彼らに別の精神をお与えになるとしたらどんなに良いことか! 「あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません」[マタ18:3]。おゝ、あなたがた、賢い人たち。あなたがた、深遠で頭の切れる人たち。あなたがた、非常に思慮深い人たち。神が仰せになることを本気で云われたものと考えることができず、罪人がキリストを仰ぎ見さえすれば生きるとは考えられず、むしろ、何か特定の種類の華々しい光景を擦り切れるほどに眺めなくてはならないか、眺めるだけでなく自分も何かすべきであると想像する人たち。おゝ、あなたがたがこうしたことをみな打ち捨てるならばどんなに良いことか。というのも、あなたは自分の救いのわざを必要もなく難しくしているからである! あなたのような者たちについてこそ、神はこう云われるのである。「いったい、わたしの民の娘に対し、ほかに何ができようか?」

 しかし、別のある人々は根深い罪にとりつかれている。彼らもそれが嬉しいわけではないが、それをやめようとはしない。彼らは、自分の良心と非常に深刻に語り合ったことがあり、自分が間違っていると分かってはいるが、執拗に間違ったままであり続けようとしている。彼らは、いつかは正しくなるつもりだが、今ではない。どうにかしてその困難を克服したいと思うが、それに直面できない。自分たちの悪習慣を断つことができない。なおもそれにしがみ続ける。そして、いかにしばしば説得されても、脅かされても、感動させられても、なおも常に立っていた所に立っており、頑固に罪の中にとどまり続ける。それで神は、この問いかけを繰り返されるのである。「いったい、わたしの民の娘に対し、ほかに何ができようか?」

 別のある人々は、いかなる罪を告白することにも気が進まない。彼らは自分が間違っていると思う。だが弁解しようとする。彼らは間違ってはいるが、それほどはなはだしく間違っているわけではない。自分はこんなにもあわれで、もろい人間なのだ。こんなに大きな誘惑を受けているのだ。自分たちが罪を犯すとしても、非常に間違っていることはありえない。その精神は、あまりにも簡単に脇道へそらされてしまう。確かに、それは遺伝のせいに違いない。あるいは、環境のせいに違いない。あるいは、それは――よろしい。彼らは本気でそれが神のせいであると云うのである。たとい口に出してそう云うほど大胆にはならなくとも、思いの中でそう云うのである。しかし、自分たちが罪人であると告白することについて云えば、彼らはそうしようとはしない。思うに彼らが、「おとうさん。私は罪を犯しました」*[ルカ15:18]、と叫ぶようになる前には、まず溶かされなくてはならないであろう。自分の不義を告白するようになる前には、るつぼをくぐり抜けなくてはならないであろう。

 それから、ある人々は、救われてはいないが、外的には非常に信心深い様子をしている。彼らは教会出席を欠かしたことがない。それは教会ではなく集会所かもしれないが、とにかく、この2つのうちで、より良いと思うものへの出席を欠かしことがない。また、彼らは注意深く育てられてきて、定期的に祈りを唱えてきたし、家庭礼拝も行なってきた。彼らは聖書を持っている。大して読みはしないが、それでも持ちはしている。彼らは非常に行儀の良い人々で、誰もが彼らはキリスト者だと考えている。だが、こうした彼らのキリスト教信仰すべてには一銭の価値もない。というのも、そこには何の心における働きも、罪の悔い改めも、神への愛も、キリストに対する信仰もないからである。自分を義としている彼らの衣は、彼らにへばりつき、彼らがイエスにある安息へとやって来るのを妨げる。罪深い自我は、それだけでも取り除くのに苦労させられるが、義である自我はそれよりも悪い。自分を義とすることは、容易には払い落とせない泥のようなものである。これを跳ねかけられた者は、それを乾かすことがない。それを日々に新たにする。自分を義とする人は、罪人の通る道によって天国に行くには自分は善良すぎると考え、それで決して全く行くことがない。

 ある人々は、キリスト教信仰の形は有していないが、それにもかかわらず、素晴らしく自分を義としている。彼らはキリスト者ではない。だが、彼ら自身の意見では、キリスト者と全く同じくらい善良である。事実、はるかにまさってすぐれていると思っている。だが、彼らの良心は、彼らにそれが嘘であると告げているに違いない。それでも、彼らは自分自身のうぬぼれの中で自分にへつらい、虚偽の隠れ家にひそみ、神が、「いったい、わたしの民の娘に対し、ほかに何ができようか?」、と仰せになるまでそうしている。そして、私たちがこの問いに対して返せる唯一の答えは、この聖句の言葉しかない。主は云われる。「それゆえ、わたしは彼らを溶かしてためす」*。彼らは火の中に入り、溶かされない限り、《主人》にとって有益なもの[IIテモ2:21]となることができないであろう。

 別のある人々がキリストのもとに来ようとしないのは、軽薄さと気紛れに満ちているためである。彼らにとって真面目なことは何もなく、すべては戯れである。彼らは蝶々のように生きている。花々から甘い汁を吸っては、次から次へとひらひら飛び回るだけである。彼らは、あれこれと簡単に感銘を受けるが、そこには何の心もこもっていない。「エフライムは、愚かで思慮のない鳩である」*[ホセ7:11]。彼らには堅固なものが何もなく、気紛れである。たちまち吹き払われる朝もやか、日の出の光によって溶け去る朝露のように、彼らの誠実はたちまち消え去ってしまう[ホセ6:4; 13:3]。いかにして彼らは救われるだろうか? あなたがたの中のある人々は、すでに五十回も覚醒されたことがある。そして、もしあなたが何らかの礼拝所に行ったことがあるとしたら、あなたは云うであろう。自分は十数度は回心したことがある、と。だが私たちは決してあなたにへつらって、そうした迷妄をいだかせはしないと思いたい。私はある人々が、何度となく回心したことがあると云うのを耳にしたことがある。いかにして人は一度以上新しく生まれることがありえるだろうか? 私は新しく生まれると聞いたことはあるし、それが可能であると知ってはいる。だが、新しく生まれ、また新しく生まれ、また新しく生まれることは不可能に違いない。ありえないことである。だがこうした種類の人々は、そのときの気分次第で善人にも、悪人にも、無関心な者にもなる。というのも、彼らは気紛れで、変わりやすいからである。彼らがどう転ぶかは全く予測がつかない。

 そして、同様に、別の種別の人々は不誠実である。彼らの土は全く深くない[マコ4:5]。彼らは、自分では感じていると思っていることを本当は感じていない。また、信じていますと彼らが云うとき、心から本当に信じているのではない。彼らは、病気になると約束もする。もし主が自分を再び起こしてくださるなら、どれほどの聖徒になるかを約束する。だが、病が治っても彼らは聖徒にはならない。いかに多くの者たちが約束し、誓いを立ててきたことであろう。もしも自分がこれこれの事故を逃れさえするなら、あるいは、これこれの病から生き延びられさえするなら、主を求めます、と。だが、彼らはそうした種類のことをすることがない! それでやはり今晩も、彼らについて、この問いが神から発されなくてはならないのである。「いったい、わたしの民の娘に対し、ほかに何ができようか?」

 さて、あなたの前に、こうした種々の人格を持ち出した後で、あるいは、神のことばという姿見を掲げてそうした人々がそこに自分の姿を見られるようにした後で、あなたに注意してほしいのは、いかなるしかたで神はこうした人々を非常にしばしばお取扱いになるかということである。本日の聖句によると、彼らは炉を感じなくてはならなくなる。

 私が相当な長期間にわたって注意してきたところ、自分を義とする、また、外的に信心深い様子をした人々の中のある人々が火の中に入れられ、溶かされるのは、何らかのはなはだしく重い罪に公然と陥ることを許されることによってである。私の知っていたひとりの青年は、あらゆる点から見て衆にすぐれた立派な若者だったが、自分自身の義で完全にくるみこまれており、彼には全く手が届かなかった。だが、職場で突然、激しい誘惑を受けた彼は、明白な嘘をついてしまった。それは非常に痛ましいことだった。彼以外の誰も、彼がそうしたことは知らなかった。それは決して露見しなかった。だが彼は、自分が明白な嘘を意図的についたことを知っていた。それで彼は自分を恥じたあまり、自分を義とする彼の小綺麗な建物は一瞬にして消え失せ、彼は、以前そうであったように偉ぶった、大物めかした様子をやめて、あの取税人の祈りとともにキリストのもとにやって来ざるをえなかった。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」[ルカ18:13]。彼は、非常に鋭い善悪の感覚を持っていたため、自分自身を徹底的に罪に定めた。彼が私のもとにやって来たときには、すさまじい精神状態をしていた。彼が行なったようなことをする人々はごまんといたであろうし、それによって、自分のことを少しも悪くは考えなかったであろう。だが彼には良心があり、誠実な精神があり、自分の主人に嘘をついたことで汚物のように卑しく感じていた。神は、その経験を彼にとって祝福としてくださった。彼はあからさまに溶かされた。そして、その霊の苦々しさの中で、何週間もあわれみを求めて叫び、《救い主》の足元にそれを見いだして非常に喜んだ。私は神に願う。あなたがた、自分を義とする人たちが、公然たる罪に進み入るがままにされないことを。だが、もしかすると主はあなたを放っておき、あなたが本当はいかなる者であるかをあなたに見てとらせなさるかもしれない。あなたはおそらく、自分がいかなる者かまるで見当もついていないからである。私は、神のしもべとして、もしあなたから抑制が外された場合、あなたがこれから何をすることになるか預言できたとしたら、私の顔を滂沱の涙で濡らし、あなたについて大声で泣くことができよう。というのも、あなたの心の中には、ありとあらゆる種類の罪の卵があり、好適な環境さえあれば、それが孵って、非常に不潔な鳥たちの巣窟へと変じうるからである。それが、私の見てきたところ、人々が溶かされる1つのしかたである。

 また、ある人々は数々の現世的な災難によって溶かされてきた。私の見ていた、ある非常な大立者は、その指に金剛石の指輪をはめていた。――「そして、足指には鈴をつけていた」、と私はほとんど云いそうになった。というのも彼は、できるものならそうすることを好んだであろうからである。それほど彼は、自分の優越した立場と、その卓越した身分に注意を引きたがっていた。彼は紳士であったし、自分でもそう感じていた。そして、彼をあわれな罪人として説教することについて云えば、彼はそうした考えに立腹した。彼は非常に健康で、強壮でもあり、死ぬことなど考えもしなかった。最も賢明なことの1つは、「鬱陶しい心配など追い散らす」ことだとみなしていた。彼は喜びに満ちた心をしており、覇気があり、福音は彼に対して何の力も及ぼさなかった。「それは死にかけた連中に持って行くがいい」、と彼は云った。「貧民街の貧しい連中に持って行くがいい。彼らにとって、それはお誂え向きのものである。だが、私は――私はそれを必要としてはいない」。しかり。だが、彼の財産が溶け去ったとき、彼は少し溶け始めた。そして、彼の健康がなくなったとき、彼は自分が病床についていることに気づき、以前は自分に敬意を表していた連中が自分のことを忘れ果て、自分がほとんど誰ひとり友を持っていないことに気づいたとき、彼は、ぐるりと回って、何とか裏口から神のもとに行くことを欲して、こう叫んだ。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」。おゝ、しかり。ある人々は、自分の口に銀の匙をくわえている限りは救われることができない。だが、彼らが貧しくさせられるとき、それは御父の家に向かう最短の巡り道となる。遠い国からやって来る巡り道となる。その国では、彼らは豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどなのである[ルカ15:16]。何年か前に、敬虔な人を父親に持つ、ひとりの紳士が私に、自分は何頭かの競走馬の馬主であり、賭け事もしているのだと告げた。私は彼に云った。「それは結構ですな。あなたの持ち金全部を賭けなさい。そして、あなたが無一文になったとき、あなたはお父上の神のもとに行くことでしょう。もしかすると、それこそあなたが家に帰る道なのでしょう。からっぽのかくし、ボロボロの外套、そして病んだからだが。そのときには、あなたも神に立ち返るかもしれません」。主はしばしば人々にそうしてこられた。私が話しかけている人々の中には、誰かそうした試練をくぐり抜けつつある人がいるだろうか? 願わくは神が、あなたの貧困によって、あなたを最高の富へと至らせ、あなたの病によって、あなたを永遠の健康へと導いてくださるように!

 別の折には、あからさまな罪が何もなく、現世的な苦難は何もなくとも、神は人々をその同胞たちから引き離し、ひそかに彼らを鞭打たれることがある。私は、そうした状態にある何百という人々のみならず、おそらく何千といっていい魂と面会する巡り合わせとなった。そして私は、どこへ行こうと、みじめで、心の打ち砕かれた魂と出会うことを強い幸福と感じる。というのも、私の信ずるところ、彼らは新しい心とゆるがない霊[詩51:10]を所有する途上にあるからである。神は彼らを愛の道で取り扱っておられる。たといその道が彼らにとっては非常な険路と見えても関係ない。私は彼らを元気づけようと努めてきた。彼らとともに、また、彼らのために祈ってきた。彼らは私に、彼らの罪が日夜自分に取りついているのだと云った。彼らにはあわれみが望めなかった。神が自分たちのそむきの罪を拭い去ってくださるなどとは考えられなかった。彼らが聖書を読むとき、それは彼らに雷鳴を轟かすように思われた。彼らの心は重く、彼らの友人たちは彼らを鬱病だと思い、彼らを精神病院に入れようかと話し合っている。彼らは打ちひしがれ、衰え果てている。これはみな、彼らの益となるために働いている。彼らはそれ以外のしかたでは神のもとに来ようしないであろう。このような経験によってこそ、神はそのことばを果たしておられるのである。「わたしは彼らを溶かしてためす」。

 こうしたすべてにおいて、神には1つの大目的がある。それは、まさにこのことである。まず、人々から高慢を剥ぎ取ること。神は、私たちが高慢なままでは、私たちをお救いにならない。私たちの中の誰にも、自分の帽子を放り上げさせ、自分の救いについて自らに栄光を与えさせようとはなさらない。恵みが、最初から最後までその栄光を有さなくてはならない。

 それに加えて、神は私たちを私たちの罪の中から引き出そうとし、そうするために、罪を私たちにとって苦く、不快なものとなさる。神が行なっておられるすべてのことは、私たちの罪を、私たちが持ちかかえるには重すぎるものとし、私たちを罪にうんざりさせ、キリストを好ませ、熱心に聖潔を求めさせるためのものである。あなたをほとんど粉砕しかけているその打撃はほむべきかな。もしそれが、あなたと罪との関わりを断裂させるとしたらそうである。

 こうした経験すべての主意は、私たちをキリストへ、かの大いなるいけにえへと導くことにあり、キリストのもとに行く唯一の人々は、他のどこにも行く所がない人々なのである。この港に入港する人々はみな、悪天候によって押し込まれた人々である。魂は、キリスト以外のどこにでも行こうとするが、他のどこにも行けないとき、また、死にかけ、破滅し、失われているとき、そのときこそ、キリストのもとに逃れ行き、キリストを自分のすべてのすべてとして受けとるのである。何と、神の子どもでさえ、いけにえによる救いの道を完全に理解するには長い時間がかかるのである。私は昨日、私の尊ぶべき友人ジョージ・ロジャーズを訪ねた。彼はまもなく九十二歳になろうとしており、寝床から離れることができないでいる。彼は寝たきりで、自分ひとりでは何もできない。だが、彼の精神機能は、常と変わらず明晰である。彼のもとに行ってさほど経たないうちに、彼は私に云った。「人々は、今ではキリストの犠牲を楽しく味わっていないようだね。そういえば」、と彼は云い足した。「知っての通り、ペテロは私たちの主の神性を信じていたし、キリストの神性について素晴らしい告白をした。それは、《主人》がこう云われるほどだった。『バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です』。しかし」、とロジャーズ氏は云った。「確かにペテロはキリストの神性を知っていたし、非常に良く知ってはいたが、キリストの犠牲については分かっていなかったのだ。というのも、《主人》が、ご自分は十字架にかかることになる云々と告げ始めるや、『ペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません」』。ペテロはそれが信じられなかったのだ。その犠牲を見てとれなかったのだ。そこで彼の主は、彼を『敵』と呼び、こう云わなくてはならなかった。『下がれ。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている』*[マタ16:17、22、23]」。私の愛する老いた友は云った。「私たちは、キリストの犠牲を見てとれるようになるまで、物事を神の御前で真実ある通りに見てとってはいないのだ。そして、いかなる福音も、たといキリストに栄光を帰し、その中にキリストの神性を含んでいるように見えるとしても、もしそれがキリストの犠牲を省略しているとしたら、それは神のみこころのことというよりは、人のことが臭うものだよ」。ロジャーズ氏は正しかった。そこにはキリストの犠牲がなくてはならなかった。その香りこそ、私たちがあらゆる所で知らせるべきものである。それこそ、私たちが口をきける限り、決して発するのをやめるべきではない、神に対する甘やかな香りなのである。しかし、おゝ、一部の人々がその、神の御子の犠牲というほむべき香りをかげるようになるまでには、非常に長い時間がかかる! それを察知するとき、彼らは平安と、光と、愛と、自由を得る。だがそうなるまでは、神ご自身といえども、彼らについてはこう仰せになっていると思われる。「いったい、わたしの民の娘に対し、ほかに何ができようか?」

 この回心という件について詳しく語ってしまったために、手持ちの時間はぐっと少なくなってしまった。私は、あなたがたの中の祈ることのできる人々に願いたい。どうか神に対する私の祈りに心を合わせてほしい。私がいま語った言葉を神が祝福してくださるように、と。

 II. しかし、第二のこととして、私はキリスト者たちに対して云いたいことがある。というのも、《キリスト者生活という件において》、神はこう云っておられるように思われるからである。「いったい、わたしの民の娘に対し、ほかに何ができようか? わたしは彼らを溶かしてためす」。

 あるキリスト者たちは、喜びから喜びへと進む。彼らの通り道は、光の道に似て、いよいよ輝きを増して真昼となる[箴4:18]。なぜあなたや私がそうなってならないわけがあろうか? なぜ私たちは単純に信じて、信じ続けて、喜びながら歩み、心を尽くして神に仕え、イエスの尊い血により頼んでいることがあってならないだろうか?

 他のキリスト者たちは、天来の事がらにおいて大いに進歩しているように見受けられるが、それは真の進歩ではない。ある人々は多大な知識を有しているように見える。まるで自分が何もかも知っているかのように語る。だが、彼らをよくよく吟味してみると、知らなければならないほどのこともほとんど知ってはいないことが分かる[Iコリ8:2]。また、ある人々には非常に素晴らしい経験がある。あなたには彼らが肩をそびやかして歩くのが見え、それを大袈裟に云い立てているのが聞こえ、しまいには、それにうんざりさせられるようになる。ある人が自慢している経験は、本来恥じなくてはならないような経験である。またある人々には、大きな能力があるように見える。彼らが自分にできることを話しているのを聞くと、彼らは教会を自分の前に押し出すことであれ、世界を自分の後に引きずって来ることであれ、何でもござれのように想像される。パウロは云った。「私が弱いときにこそ、私は強い」[IIコリ12:10]。だが、この人々はあまりにも強すぎて、弱さが何を意味している全く分かっていない。一部の信仰告白者たちの聖化における進歩について云えば、何と、少しでも彼らの中のある人々を見て、その大ぼらに耳を傾けてみるがいい! 彼らは何年もの間、罪を犯したことがないという! 罪の原理そのものが、彼らの中で死滅したのだという! あわれな迷わされた魂たち! よく聞くがいい。これは彼らが云っていることであって、私が信じていることではない。彼らの種々の恵みについて云えば、彼らはあらゆるものを有して、満ち足りている。彼らは殉教者たちのように忍耐強い。ジョン・ノックスかマルチン・ルターのように力強く信じている。あなたがた、普通のキリスト者たちは彼らの身丈には達せない。もし彼らが直立して立つとしたら、星々をその場所から叩き落とすことであろう。彼らはそれほど大きく、背の高い者なのである。だがしかし、――だがしかし、結局、彼らの大言壮語は空威張りなのである。私も、彼らが自分たちの素晴らしいキリスト教信仰の大部分が偽りであることを知っているとは云わない。しかり。だが、彼らは誤った諸観念、こんがらかった概念、混乱した頭を有しており、そのため自分たちの真の状態が分からないのである。彼らは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと云っているが、その間ずっと、裸で、盲目で、貧しくて、哀れなのである[黙3:17]。

 彼らの状態について最悪のことは、彼らの中のある人々が自分の真の状態を知りたがらないことである。彼らは、自分の状態が自分が口にしているものとは違うのではないかと、半分は疑っている。だが、そう告げられることを好まない。事実、彼らは、誰かがその真実をほめのかしさえしても非常に向かっ腹を立てる。完璧な人ほど癇癖を起こす人はいない。彼は自分の不完全さをすぐに現わす。まさに彼は、触らぬ神に祟りなしの兄弟である。あなたは、彼から遠く離れて立ち、畏敬を込めて彼を眺めなくてはならなかった。さもないと、たちまちあなたに激しく不満をいだくからである。ある人々は自分の真の状態を知ろうとしたがらない。ことによると、自分が見かけ通りの者ではないという考えがよぎることもあるが、自分の夢が粉々に砕けることを欲さない。指導を彼らは願わない。なぜ指導されるべきだろうか? 彼らは、他の誰かが彼らに教えることができる以上に知っているのだ。そして、彼らは自分におべんちゃらを云う人を好む。自分の云うことがみな福音であると信じさせてくれるような人を好む。さて、わが国のいかなる会衆の中にも、こうした人々はおり、彼らについて神は当然こう云われる。「いったい、わたしの民の娘に対し、ほかに何ができようか?」

 このことを神が行なわれる相手は、今は偽りの種類の恵みによって得意がっているおびただしい数の人々である。「わたしは彼らを溶かしてためす」、と万軍の主は仰せられる。主は彼らを試験にかけられる。ここにいる人は、若干量の延金を持っているが、その値打ちが分からない。それで彼は、金細工職人のもとにそれを持って行き、それがどのくらいの値打ち物かを訊く。「そうすね」、と彼は云う。「正確なとこは分かりませんや。ですが、もう少し時間をいただけたら、これを全部溶かしてみましょう。そうすりゃ、その値打ちをお知らせできますよ」。そのように主も、ご自分の民の多くをお取扱いになる。彼らは、自分は非常に善良になった、非常に大いなる者になったと夢見ている。それで、主は仰せになるのである。「わたしは彼らを溶かしてためす」。

 これは、銀や金にとって自然な試験である。貴金属にとっては、まさに最高の種類の試験である。しかし、その溶融過程において、もしそれをあなたが受けるとしたら、私の兄弟たち。それを私が受ける場合と同じく、非常に多くの嵩が減じてしまう。神が私たちを溶かし始めて、熾烈な腐敗を私たちの内側で燃やさせるとき、あるいは、私たちの霊が抑鬱され、私たちの精神が暗くなるのをお許しになるとき、おゝ、そのるつぼの中では、いかなる縮小が、ほぼたちどころに起こることであろう! そのとき、いかなる恐れが私たちをつかむことであろう。私たちが縮んで無になり、全く消失してしまうのではないか、と!

 それから、また、この貴金属の型は損なわれる。その美しさはすぐになくなってしまう。その銀の器は美しく形造られている。だが、それが溶かされるとき、その清楚な意匠は何も残らない。人間が形造ったものはみな、るつぼの中では失われてしまう。愛する方々。あなたは、るつぼの中に入ったことがあるだろうか? 私は入ったことがある。私とともに私の数々の説教も、私の体や感情も、そして私のあらゆる善行も入ったことがある。それらは、火が焼き尽くすまでは、そのつぼを一杯に満たしているように見えたが、それから私はそこに何が焼き尽くされずに残っているかと眺めやることとなった。そして、もし私に、私たちの主イエス・キリストに対する単純な信仰がなかったとしたら、残念ながら、そこには何も残っていないのを見いだしたのではないかと思う。これこそ、神が神の民全員に対して行なうであろうことである。彼らが非常に謙遜に神とともに歩んでいない限りそうである。「伏してある者 倒るを恐れず」。純金である者は、溶かされようと何も失わない。だが、自分自身の意見において大物である者は、じきに天狗の鼻をへし折られるであろう。そうなることは良いことである。というのも、そうでないとしたら、私たちはすぐに高慢になり、世俗的になり、無頓着になり、放縦にさえなるからである。というのも、不思議なことだが真実なこととして、完璧な聖潔を自慢することの次に来るものは、ほとんど常に、歴史を通じて、強烈な放縦さだからである。いかにしてそのようなことになるかは、形而上学を研究している人々なら分かるかもしれない。だが、それは人類の歴史を通じて常にそうだったのである。あなたが銃声の外にいると思い描くときには、ごく身近に敵がいるのである。路は安全だと夢想するときには、あなたの真ん前に落とし穴があるのである。あなたが、「私は完璧に聖い」、と云うときには、あなたにそう云わせる高慢そのものによって、自分を義とする致命的な癌があなたの魂そのものをむしばんでいることが示されるのである。

 さて、愛する方々。溶かされた結果は、真実と謙遜である。溶かされた結果は、私たちが物事を真に評価するようになることである。溶かされた結果は、私たちが新しく、また、より良いしかたで注ぎ出されることである。そして、おゝ、私たちは、ほとんどるつぼを欲するであろう。もしあの金滓を取り除けさえするなら、また、もし私たちがきよくなれさえするなら、また、もし私たちが、私たちの主により完全に似たものにかたどられさえするなら!

 もしあなたがたの中の、すでに回心している誰かが今るつぼの中で耐え忍びつつあるとしたら、それにたじろいではならない。それがあなたに起こるのは、何ら思いがけないことではなく、決して悪いことでもない。あなたには、疑いもなくそれが必要である。あなたは、あまりにも鈍感で、あまりにも無頓着になりつつあった。それで、あなたが溶かされることはあなたに必要だったのである。いま神は、ご自分の愛の最高の証明をあなたに与えておられる。このように溶かすこと、鞭打つこと、苦しめること、くじくこと、この肉的な信頼を壊滅させること、この厚顔者を絞首刑にして死なせ、自我が倒れ、イエスがすべてのすべてとなるようにさせることによって。願わくは神がそうしてくださるように!

 III. 私は、《全体としての立場における神の教会の件》において、この原則について語るつもりだったが、それは、主のお許しがあるなら、別の時に語ることにしたいと思う。このことをあなたは当然のこととして良い。すなわち、もし神が私たちを選んでおられるとして、しかし私たちが神の道を行きたがらず、謙遜にイエスに信頼したがらず、イエスを私たちのすべてのすべてとしようとしたがらない場合、主は私たちを打ち捨てることはないが、私たちを溶かしてためされる。そして、主がお用いになることを好まれるいかなる道を走るにもふさわしい者なるまで。

 神があなたを祝福し、あなたを救い、あなたを慰めてくださるように。イエス・キリストのゆえに! アーメン。

 

溶かしてためされる神の民[了]

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