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神との出会いへの熱望

NO. 2272

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1892年9月4日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1890年9月14日、主日夜


「ああ、できれば、どこで神に会えるかを知りたい」*。――ヨブ23:3


 「ああ、できれば、どこで彼に会えるかを知りたい!」<英欽定訳> 着目するがいい。ヨブは、彼の唯一の大望に夢中になる余り、他のあらゆる人がそれと同じようには考えていないことを忘れてしまっている。それで彼は代名詞[彼]を使っているのである。彼がそれ以前には神の御名を口にしていなくとも関係ない。この人は、自分の願望にわれを忘れている。彼は、「ああ、できれば、どこで神に会えるかを知りたい」、と云っているのではなく、「どこで彼に会えるかを知りたい」、と云っている。1つの圧倒的な情動は、しばしばこのように語るものである。かの甘やかな愛の賛歌である雅歌が、どのように始まっているか見てみるがいい。「あの方が私に口づけしてくださったらよいのに。あなたの愛はぶどう酒よりも快く……」[雅1:2]。そこには、いかなる人物の名もない。私たちは、あることに夢中になっているとき、多くのことを忘れてしまう。私たちは、ガイオン夫人が次のように書いたことを忘れてしまう。――

   「いかな心も 冷えぬ、諸方(よも)にて」。

そして、自分の心が暖まると、他のすべての心も暖かいものと思い込んでしまう。思い出すがいい。復活の日の朝、マグダラのマリヤが私たちの主と出会ったとき、いかに「それを園の管理人だと思って」、主に語りかけたかを。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります」[ヨハ20:15]。否。だがマリヤよ。あなたは、その方の名を口にしていないではないか。あなたは、「あなたが、あの方を運んだのでしたら」、と話し出している。あなたが誰のことを話しているか、他人にどうして分かるだろう? これこそ、自分のことに凝り固まった者のあり方である。それは、何らかの対象に心を定めると――死に物狂いで定めると――、自分が誰に向かって話をしているか忘れてしまう。それは、自分の情愛の的である愛する者のことしか思い出さない。

 さて、これを1つの理由として、神を熱心に求めている人は、しばしば誤解されるのである。その人は、冷静で落ち着いている人が語るようには語らない。その人の心は内側で熱くなっており、その人の言葉は一片の火である。それで、回りにいる人々は云う。「あの男は気違いだ。以前と違って、まともじゃない。頭がおかしくなっているのだ」。願わくは、多くの人々が魂の底からこう叫ぶほど気違いになってほしいと思う。「ああ、できれば、どこで神に会えるかを知りたい!」 というのも、もしあなたがどなたを求めているかを神が知ってくださるとしたら、あなたの同胞がそれを知ろうが知るまいが、大した問題ではないからである。もし神があなたを受け入れてくださるとしたら、人々から誤解されようと打ちひしがれてはならない。

 こういうわけで、見ての通り、ヨブの熱望はすべてを呑み込むようなものであった。それは、また個人的なものでもあり、彼は個人的に神を見いだしたいと熱望した。私の知る多くの人々は、大きな熱望をいだいているが、ヨブの熱望にくらべれば、取るに足らないような物事を求めている。ヨブは理解不可能なものを理解しようとして吐息をついているのではない。天来の聖定を見つけ出そうと願っているのでもない。自由意志の行為と予定とがどこで合致するかについて気に病んでいるのでもない。単なる好奇心から、あるいは、不毛な知識欲のために、知ろうとしているのではない。むしろ、彼は叫ぶのである。「あゝ、できれば、どこで神に会えるかを知りたい! あゝ、できれば、神のもとに行きたい! あゝ、できれば《いと高き方》と言葉を交わしたい! あゝ、できれば、神との完璧な平安を感じ、神のうちに安らい、御顔の光の中で幸いになりたい!」 さて、あなたがたの中のある人々は、ことによると、過ぎ去った年月の間、種々の神学的問題について非常に興味をいだき、気にかけていたかもしれない。かつてのあなたは、所かまわず人に議論をふっかけていたであろう。だが、今やはそうしたすべてをやめてしまっている。そして神を見いだし、神と和解させられることを欲している。あなたは、神ご自身の口から、あなたとの間に平和があること、また、神があなたを愛しておられ、決して愛するのをやめることはないことを聞きたいと思っている。ことによると、あなたは何週間もの間、神に近づく道を探し出そうとしてきたかもしれない。また、たといそうした道があるとしても、それはあなたには閉ざされており、まだ悟られていない。この1つのことであなたの思いは一杯になっている。神についてあれこれ知ることでもなく、神に関して教理的な理論の重箱の隅をつつくことでもなく、《神を》あなたが見いだすことである。願わくは、この会衆の中にいるあらゆる人がそうあってほしいと思う。あなたが神を自分のものとしているか、神を求めて吐息をつき、叫んでいるように。これは、いかなる人も中立を決め込んでいられる点ではない。私たちは神を見いださなくてはならない。そうでない場合、私たち自身が失われてしまうからである。

 この聖句をさらに読むとき、私は、神に達したいというヨブの決意を一層喜ばしく感じる。彼は云う。「ああ、できれば、どこで神に会えるかを知りたい!」 彼は、自分が神を見いだせる場所について、何の条件もつけていない。もしそれが天なら、彼はその高みをきわめようとするであろう。もしそれが深淵の中だとしたら、彼は希望をもってその深みに没入しようとするであろう。もし神が、地の最果ての遠方にいるとしたら、ヨブは喜んでそこに行こうとしている。たとい神が見いだされる場所が、その宮の中であろうと、さらに云えば、地下牢のどん底であろうと、ヨブはただ、自分が神を見いだせる所を知ることだけを欲している。そして、もし神を見いだせるとしたら、それがどこかについて、何の条件もつけようとしていない。ここを読む中で注目したのは、ヨブがこう云っていることである。「ああ、できれば、どこで神に会えるかを知り、その御座にまで行きたい!」 彼は、他のどこでも神を見いだせないとしたら、神の審きの座にすら喜んで行こうとしていた。

 もしあなたが神を見いだすことに必死になり、自分がどこで神を見いだすかについて何の制限も設けようとしなくなるほどだとしたら、それは大きなあわれみであろう。あなたは、自分が普通礼拝している所で神を見いだすとしたら喜ぶであろう。だが、それとは全く別の人々の間で神を見いだすことになるとしても、同じくらい喜ぶであろう。あなたは、自分の私室の中で膝まずいて祈りをささげているときに神を見いだすとしたら感謝するであろう。だが、仕事の最中に神を見いだすことになるとしても、同じくらい喜ぶであろう。あなたは、昼日中の暑さの中であろうと、深夜の冷ややかさの中であろうと、神を見いだすなら喜ぶであろう。あなたはこう叫んでいる。「ただ神を見いださせてください。時間や場所など、私にはどうでも良いことです」。

 また、媒介となる人に関して云えば、あなたは学識のある雄弁な教役者によって神に回心させられることを喜ぶであろう。だが、それと同じくらい、まるで無知文盲な手段によってキリストを見いだすことも望んでいるであろう。あなたは、神があなたへの祝福を授ける手段としてくださるなら、これまで偏見をいだいていた人にも全く満足するであろう。左様。たといそれが、あなた自身の下女であっても、町通りにいた少年であろうと、もし彼らがあなたに救いの道を告げることができ、それであなたが神を見いだせたとしたら、あなたは完璧に満足するであろう! 私はあなたがそうすると知っている。というのも、あなたはいかなる「ただし」も、「とはいえ」も、種々の条件も、差し挟まないからである。あなたの唯一の叫びは、「ああ、できれば、どこで神に会えるかを知りたい!」、である。あなたは、その1つの願望で心を奪われている。あなたの魂全体は、神を見いだすという、この1つの熱望に取りつかれている。この願望は、強烈に個人的かつ実際的なものであり、それは、あなたに断固たる決意を吹き込んでいる。もしどこに神がおられるかを見いだすことができさえするなら、いかなる代償、いかなる危険があろうと、神のもとに行こう、と。

 さて、私はこの、神を見いだしたいという願望について語ろうと思う。私は、この場にいる一、二名の非常に心悩んでいる人々から、これが彼らの昼夜を問わない霊の叫びであると聞かされた。「ああ、できれば、どこで神に会えるかを知りたい!」 彼らの状況に対処するにあたって、私たちはまずこう尋ねたい。これは、いかなる種類の願望だろうか?――ひとりの男を、あるいは、ひとりの女を、あるいは、ひとりの子どもを、「ああ、できれば、どこで神に会えるかを知りたい!」、と叫ばせるのは、いかなる願望だろうか? それから第二に、それに対する答えは何だろうか? いかにすれば彼らは神を見いだすことができるだろうか? そして第三に、なぜある人々は、神を見いだすのにこれほど長くかかるのだろうか?

 I. 神を見いだしたいというこの熱望に関する、私たちの最初の質問は、《これはいかなる種類の願望なのか?》である。

 答えよう。最初にこれは、その願望をいだく人の環境に従って、数多くの形を取るものである。ヨブの場合、それは、神の法廷に出て、自分の義を確立したいという、いささか危険な願望であった。疑いもなく、誹謗されたり愚弄されたりする中で魂が苦々しさを覚えるとき、多くの真摯な人々は、できれば神の方を向いて、神によって事の裁きをつけてもらいたいと願ってきたに違いない。「あなたはご存知です」、とその人は云う。「私が悪人ではないことを。私は嘘を云ってはいません。私は不実な者ではありません。私に対する告発が、万物の大いなる《審き主》によって審理されますように。この方は義であり、公正だからです。ああ、できれば、どこで神に会えるかを知りたい!」

 しかし、この願望がより健全で、有益なものとなるのは、神の御顔の光を失ったときの、神の子どもたちの側においてである。愛する方々。模範的なキリスト者とは、神が光の中におられるように[Iヨハ1:7]、常に光の中を歩んでいる人である。しかし、比較すればこうした人々は、いかに僅かしかいないことか! 多くの人々は――残念ながら、私たちの中のほとんどの者がそうではないかと思うが――、時として暗闇の中にいる。私たちはさまよい、自分の初めの愛[黙2:4]を失ってしまう。なまぬるくなってしまう[黙3:16]。それで神は、その御顔を隠される。真に神の子どもである幾多の者たちは、自分の霊の底から吐息をついてきた。「ああ、できれば、どこで神に会えるかを知りたい!」 あなたがたの中に、誰か以前よりも幸せでなくなっている人がいるだろうか? あなたは以前よりも聖くなくなっているだろうか? 数年前よりも祈ることが少なくなっているだろうか? 良心の鋭敏さが減じているだろうか? 主にある喜びが少なくなっているだろうか? イエスのために働くことが少なくなり、ちょっとしたことを行なうだけで満足するようになっているだろうか? あなたは後退しつつあるだろうか? よろしい。ならば、たとい神がまだ御顔をあなたから隠されていないとしても、十中八九は、これからお隠しになるであろう。そして、そのとき、あなたは、水のない、砂漠の衰え果てた地で[詩63:1]、谷川の流れを慕いあえぐ[詩42:1]失神寸前の鹿のようになり、神を叫び求めるであろう。もしあなたがそうしないとしたら、それは破滅的なしるしである。もしあなたがあなたの神なしで生きていけるとしたら、あなたがた、神の子どもであると告白している人たち。あなたは、一度も神の子どもではなかったかのように思われるであろう。神によって、私たちの中のある者らは、この世では我慢ができなくなっている。私たちにとって、この世の種々の快楽を捨てることは自己否定の問題ではない。というのも、私たちはそれらを全く好ましく思っていないからである。もし私たちが神のうちに喜びを見いだしていないとしたら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者[Iコリ15:19]である。その小川や水ためは、乾いている。そして、もし打たれた岩が私たちに何の水も生じさせないとしたら、私たちは渇いて、失神して、死ぬ。

 しかし、愛する方々。私が大いに語りたいと思うのは、罪を確信させられていながら、まだ神にある喜びを得ていない罪人から出るものとしての、この叫びについてである。その人は、のしかかる重荷をかかえている。そして、イエス・キリストにある神の恵みによらなくては、自分がそれを取り除けないことを知っている。そして、それを取り除きたいと願っている。それで、日夜こう云うことになるのである。「ああ、できれば、どこで神に会えるかを知りたい!」 私は、こうした形の願望を何にもまして嬉しく思う。そして、このように自分の《救い主》としての神を求めている人を励まし、助けるためとあらば、喜んで財を費やし、また私自身をさえ使い尽くすであろう[IIコリ12:15]。

 このことは、そのような者としてこの場にいるあらゆる人に云わせてほしい。この願望は、天性の願望とは全く正反対である。あなたは自分が失われていると感じているが、だがしかし、この叫びがあなたの舌にやって来る。「ああ、できれば、どこで神に会えるかを知りたい!」 愛する方々。これは天性の願望ではない。あなたがこの世で満足していたときには、決してこのような願望をいだかなかった。かつては、それは一瞬もあなたの魂をよぎったことがなかった。アダムとエバが罪を犯したとき、彼らは神に会いたいとは思わなかった。彼らは園の木々の間に身を隠した[創3:8]。そしてあなたも、罪を愛している間は、神に会いたいとは思わなかった。あなたはヨナのようであり、自ら進んで船に乗り、神の御顔を避けてタルシシュヘすら逃れて行こうとした[ヨナ1:3]。しかり。聖霊を持たない、生まれながらの人は、決して、「ああ、できれば、どこで神に会えるかを知りたい!」、と云ったことがない。私は、あなたが、こうした指摘から、ほんの一筋の光を得てほしいと思うが、それ以上ではない。その光の筋は、私たちが先に進む間に、あなたを励ますであろう。

 この願望は、恵みによらなければ決してやって来ないと思う。それは、神の御霊によってある人のうちに作り出されない限り、決してその人を完全にとらえることはない。つかの間の願望はあるかもしれないが、それが霊的健康のしるしだとしたら、肺病による消耗性紅潮も、その患者が旺盛な体力を有している証拠となるであろう。信仰復興集会の興奮の中で、あなたは、「私もキリスト者になれたらなあ」、と云うかもしれない。だが、この願望を四六時中覚え、自分の内側で常に、「ああ、できれば、どこで神に会えるかを知りたい!」、を魂の深い大うねりとして有していること、それは聖霊のみわざである。この場には、こうした、新しい誕生の最初の痛みを覚えている多くの人々がいるものと思いたい。というのも、神が、この願望を私たちのうちに作り出すことによって、神が私たちを取り扱い始めるところでは、神は、しかるべき時に、それを満足させてくださるからである。もし神が私たちに飢えを与えるとしたら、その渇仰を満たす糧を与えてくださる。もし神が私たちにご自分に対する願望を与えるとしたら、その願望を満たすために私たちにご自分を与えてくださる。

 それから、考えるだに甘やかなことに、この願望は、《救い主》の捜し求めによってかなえられることになる。神を求める人の願望は、その人を求めるキリストの願望と平行している。「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」[ルカ19:10]。さて、一頭の羊がその羊飼いを捜し始めるとき、また、それと同時にその羊飼いが羊を捜し求めているとき、両者が出会うまでにさほど時間がかかるはずがない。先週の木曜の晩に、ひとりのあわれな魂から受け取った一通の手紙を私はあなたがたの前で読み上げた。差出人は、先の安息日の朝にこの場所にやって来た、ひとりの遊女であり、神は彼女と会ってくださったのである。あなたも知る通り、こうした手紙をでっちあげて、慈善を乞おうとすることはごく容易なことである。だが、この手紙には何の名前も記されておらず、一言も慈善を求める言葉はなかった。それは真実の手紙であった。「先生がこの手紙をお受け取りになる頃には、私は父の家に戻っておりますことでしょう。かつて私が、よこしまにも家出してきた家でございます」。あゝ、そこに肝心な点がある。家に帰ること、父のもとに戻ることである! さて、疑いもなく、父親は自分の娘を捜し求めてきたに違いないが、その娘が彼を求め始めたとき、二人の再会は非常に間近になるであろう。もしこの場にキリストを欲している魂がいるとしたら、キリストはあなたを欲しておられる。もしあなたが今サマリヤの井戸の上に座っているとしたら、主はやって来て、あなたの傍らに腰を下ろし、こう仰せになるであろう。「わたしに水を飲ませてください」[ヨハ4:7]。というのも、あなただけが、《救い主》の渇きを満たすことができるからである。その、救いたいという渇きを――赦したいという渇きを――さまよう者を大いなる御父の家に導きたいという渇きを。おゝ、愛する方々。もしこの、「ああ、できれば、どこで神に会えるかを知りたい!」、があなたの叫びだとしたら、私はこの考えの中にあなたを慰めるものを数多く見てとることができる。すなわち、あなたが主を求めている間、主もあなたを捜し求めておられるのである。

 しかし、さらに云い足させてほしい。もしこの願望が神による以外、決して満たされることがないとしたら、それは良いことである、と。というのも、多くの人々は、神を見いだすまで求め続けないからである。ある友人が、手紙の中でこう云っている。「あなたは、私からあらゆる私の慰めを取り去ってしまいました。あなたは、私の自分の義をだいなしにし、あなたが私に説教してくださった神のことばを通して、私をすさまじい状態にしてしまいました。私は、早天礼拝に出るのが常でした。一日に三度も教会に来ました。聖なる聖体祭儀でキリストの本物のからだと血を受けているものと考えていました。私は私のわざにより頼んでいたのです。ですが今、その建物全体がなくなってしまっています。私は、もはやこうした一切のことにより頼むことはできません。これが私の唯一の叫びです(そして今晩、この言葉で終わる賛美歌を歌えたことは喜びでした)。――『キリストなくば われは死ぬのみ』!」

 愛する方よ。あなたの手紙を私を大いに喜ばせてくれた。私はその賛美歌を歌うことにして良かったと思う。だが、ぜひ願いたいが、本当に神を見いだすまでは満足しないでほしい。というのも、知っての通り、あなたはこの場所にやって来て、私たちを欺きおおせることもありえるからである。そして、あなたはバプテスマを受け、教会に加入し、聖餐にあずかり、そのすべてにより頼みながら、キリストに対する、救いに至る信仰はなく、以前、教会の種々の儀式に安住していた頃とくらべても、一吋も神に近づいていないであろう。神だけが、あなたを救うことができ、神だけが、キリストにおいて、あなたの魂に真の安息を与えることがおできになるのである。人々は自分の教会を変えても、単に虚偽の隠れ家を変えただけでしかないことがありえる。だが、もし彼らがキリストのもとに来るなら、どの教会にいようと、もし彼らがキリストを見いだして、キリストに、そして、キリストだけにより頼んでいるとしたら、彼らの幸せは川のように、彼らの正義は海の波のようになるであろう[イザ48:18]。自分の口を開けて、この強烈な願望を慕いあえいでいるあらゆる人を、神が祝福してくださるように。だが、イエスがあなたを慰めてくださるまで、決して慰められないようにするがいい! 天からのパン以外の何物でも養われてはならない。神が私たちの安息として任命されたお方に安息を見いだまで、決して安んじてはならない。さもないと、あなたはつまずき倒れることになるであろう。結局は、致命的につまずき倒れるであろう。

 II. この願望、「ああ、できれば、どこで神に会えるかを知りたい!」、に関する、私たちの第二の質問は、《これに対する答えは何か?》ということである。

 よろしい。最初のこととして、この願望そのものの中に、あなたを慰めるものがある。というのも、今や神はあなたの近くにおられるからである。もしあなたが神を欲しているとしたら、神はあらゆる所におられ、神はここにおられる。あなたの手や足よりもあなたの近くにおり、あなたの目やあなたの神経よりも、あなたの近くにおられる。神はあなたの内側におり、あなたの回りにおられる。あなたは、詩篇作者とともにこう尋ねて良いであろう。「私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう」[詩139:7]。そして、その課題は不可能であることに気づくであろう。だが、もしあなたが本当に神を見いだしたいと願っているとしたら、あなたはすぐにもそうできるであろう。神はここにおられる。あなたは、エルサレムで祈る必要も、ゲリジム山で祈る必要もない。

   「いずこに求むも 主は見いだされん、
    いずこもなべて 神聖(きよ)き地ならば」。

嘘ではない。いま神に語りかけるがいい。今あなたの心を神に示すがいい。いま神に訴えるがいい。というのも、神はまことにこの瞬間あなたの近くにおられるからである。

 しかし、あなたは神をつかみたいと願っている。ならば、覚えておくがいい。神は信仰によってのみ把握されるのだ、と。この場合、目は何の役にも立たない。《霊》を見ることはできない。この場合、耳は何の役にも立たない。《霊》を聞くことはできない。あなたの五感は今や脇に置いて良い。新しい感覚、新しい目、新しい耳、それが信仰である。もしあなたが信ずるなら、あなたは見るであろうし、聞くであろう。さあ、今あなたの近くにおられる神と、信仰によってやりとりするがいい。神があなたの近くにいると信じるがいい。神に語りかけるがいい。喜んで神に信頼するがいい。信仰は、把握しうる限りの、神のすべてを把握するであろう。また、信仰の中から、他の多くのほむべき事がらが発するであろう。あなたを、あなたの神とより親しませるであろう事がらである。しかし、今、まさに今、内なる信仰の両腕を突き出して、「あなたを信じます」、と云うがいい。信仰は、理解しえないものを理解し、《無限者》を自らのうちに取り込むのである。

 しかし、なおも、あなたがこう云うことを意味しているとしたらどうであろう。「ああ、できれば、どこで神に会えるかを知りたい。神を私自身のものと呼び、神の愛を信じる喜ばしい信仰を持つという意味で」。よろしい。ならば、私はあなたにこう云いたい。もしあなたが神を見つけたければ、神のみことばを調べるがいい。もしあなたが聖書を読み、そうする際に、その頁の間に、キリストにおける神を見いだそうという堅固な決意を持っているとしたら、まず間違いなくあなたは、延々と読み続ける必要はないであろう。ここには、一個の聖なる磁力がある。そして、人がこの聖なる言葉と接触するようになると、それがその人に働きかけ始めるのである。もしあなたがこの《書》を手に取り、神を見いだすべき道を学ぼうとして徹底的に調べるならは、あなたは神を見いだすであろう。それから、書かれたみことばと関連して、行って、語られるみことばを聞くがいい。というのも、ある精神は、それが読むことよりも、語られることによってずっと影響を受けるからである。もしあなたが忠実に福音を語る教役者の話を注意深く聞きさえするなら、じきにあなたは神を見いだすであろう。もしもある人が才知豊かだからというだけの理由で話を聞きに行くとしたら、あるいは、面白い話をする人だからというだけでそうするとしたら、その人から決して何の善も受けないかもしれない。しかし、もしあなたが、こう云いながらやって来るとしたらどうであろう。「私はこの礼拝中にキリストを見いだしたい。私の魂が永遠に救われるために、神をつかみたい」。あなたは、そうした礼拝所を訪れるようになってさほどしないうちに、「私は神を見いだしました」、と云えるようになるであろう。

 それに続いて、もしあなたがみことばを読んだり聞いたりしても益を受けていないように思われるとしたら、祈りによって主を求めるがいい。あなたの私室に赴くがいい。そこであなたの神に叫び求め、その叫びをやめないようにするがいい。というのも、もしあなたが神を銀を求めるように求め、隠された財宝を探すように探すとしたら、確かに神を見いだすはずだからである。祈りは神に素晴らしい効果を及ぼす。神は心から発された叫びを聞くとき振り返ってくださる。神は確かに、あわれみを求めてご自分に叫ぶ者を見つめてくださる。

 そして、あなたが祈ると同時に、あるいは、祈りと関連して、天来の事がらを瞑想するがいい。特に、《神-人》なるキリストのご人格を瞑想するがいい。キリストのみわざ、特にその贖罪のいけにえを思い巡らすがいい。種々の約束を瞑想するがいい。この喜ばしい《書》に記録された、神の恵みの驚異を瞑想するがいい。考えては祈り、それから再び考えては祈るがいい。そうすればあなたは、ほどなくして、「ああ、できれば、どこで神に会えるかを知りたい!」、と云う必要はなくなるはずだという気がする。

 それでも、あなたに云うべきことがもう一言だけある。もしあなたが神を見いだしたければ、神はキリスト・イエスのうちに見いだされるべきである。この方にあって神は、「この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで」[IIコリ5:19]くださるのである。あなたは《人》なるキリスト・イエスを知っているだろうか? 信仰によってこのお方が見えるだろうか? その足元にひれ伏すがいい。この方をあなたの《救い主》として受け入れ、《与え主》、《赦し主》として信頼するがいい。死から救い出し、いのちを分け与えるお方としてそうするがいい。来て、キリストを受けとるがいい。そうすれば、あなたは神を見いだしたのである。いかなる人もキリストを信じていながら、神の恩顧から離れたままでいることはない。おゝ、あなたが今キリストを信じるとしたらどんなに良いことか! 今朝、私はキリストの受肉、インマヌエル、私たちとともにおられる神について説教した。このことについて大いに考えるがいい。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」[ヨハ1:14]。神が地上の人々の間に来て、定命の被造物のかたちを取り、地上で生き、かつ死なれたのである。そのことを考え、神であり《人》であられるお方を信ずるがいい。それから、主の生涯について大いに考えるがいい。主が癒した大勢の人々について、主が助けた病んだ人々、主の話を聞きに来た罪深い人々、主から愛のことばしか語られなかった人々のことを大いに考えるがいい。キリストのご生涯を考え抜くがいい。そのとき、私はこう確信している。もしあなたが喜んでそうしようとするなら、あなたはキリストのもとに来た人々の間に、あなた自身の状況と平行するような状況にあった人を見いだし、主がそれを愛とあわれみのうちに扱っておられることを見いだすであろう、と。そして、あなたが、この驚嘆すべき愛の生涯を熟読している間に、あなたは神を見いだすであろう。しかし、たというそうならないとしても、もう少し先へ進むがいい。

   「昏(くら)きゲッセマネへ 行けよかし、
    汝ら、誘惑(まどい)を 感ず者らは」。

かの橄欖の陰に立つがいい。神の御子が、その魂の奥底から呻き声を上げるのを聞くがいい。汗が血のしずくのように地に落ちる[ルカ22:44]のを見るがいい。主はそこで罪人たちのため、咎ある者らのために請願された。主の後をピラトの官邸までついて行くがいい。主が鞭で打たれ、つばきを吐きかけられるのを見るがいい。そして、ついにはカルバリに行き、瞑想の中でそこに座り、主のほむべきからだの傷を、かの神聖な血の泉に注目するがいい。主のやつれた体が、白昼の下で残酷な人間たちの凝視にさらされた姿を見るがいい。主を眺め続け、主が、「完了した」[ヨハ19:30]、と仰せになるのを聞くがいい。それから、あの兵士が主の心臓に破れ目を開けるのを見るがいい。というのも、死んだ後でさえ、私たちを思う主の心は、その証しを注ぎ出したからである。あなたは主が天と地を造られたことを覚えている。しかし主は、咎ある者のために、かの木にかかられたのである。信ずるがいい。そして主に信頼するがいい。

 「おゝ!」、とある人は云うであろう。「私には信じられません」。さて、おかしなことに私は、これまで何人もの信じることが難しいという人々に出会ってきたが、しばしば彼らにこう云わざるをえなかった。「よろしい。さて、あなたと私の間には、奇妙な違いがありますな。というのも、あなたは信じることができませんが、私は信じずにいることができないのですよ」。つまり、私は、神の御子キリストが、咎ある人間たちのために死に給う姿を見るとき、自分を信じないでいさせることができない。それは、それ自体の証拠を私の魂に閃かせているように思われる。そして、私は私が見ている光景によって確信させられる。《全能の神》がその罪深い被造物たちと1つであり、彼らを永遠の死から救うために死んでおられるときに、あなたが信じられないとはどういうことだろうか? 「自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました」[Iペテ2:24]。あなたは、この驚異の中の驚異を見るとき、いかにして信じないでいられるのだろうか? 私は、生ける神によってあなたに命じる。十字架上のイエスを仰ぎ見るがいい。あの荒野で、蛇に咬まれたイスラエルが、青銅の蛇を仰ぎ見て、見たことによって生きたように、そうするがいい。

 これこそ、神を見いだすしかたであると思う。すなわち、キリストのもとに行くことである。というのも、思い出すがいい。主は死んではいないのである。よみがえっておられるのである。今キリストはどこにおられるだろうか? 主は神の右の座に着いておられる。私たちのためにとりなしをしておられる。しかり。頑迷な者どものためさえも。それは、神であられる主が、そこに住まわれるためである[詩68:18]。あなたは、キリストが罪人たちのためにとりなしておられることを信じるだろうか? ならば、自分の身を主にゆだねるがいい。まず第一に、あなたの《贖い主》としての主に、そして、今はあなたの《とりなし手》としての主にゆだねるがいい。そうすればあなたは、単純な信仰によって、あなたの神を見いだすであろうし、もはやこうは云わないであろう。「ああ、できれば、どこで神に会えるかを知りたい!」、と。

 III. この講話のしめくくりとして、ごく手短に第三の質問に答えることとしよう。《なぜある者たちは、神を見いだすのに、これほど長くかかるのだろうか?》

 答えよう。部分的にそれは、そうした人々が、自分が何を求めているかについて、はっきりしていないからである。もしあなたが神を見いだしたければ、よろしい。ここに神はおられる。あなた自身、神はあらゆる所におられると知っており、それであなたは神を見いだしている。しかし、残念ながらあなたがたの中のある人々が求めていると思われるのは、何らかの種類の目印や、何らかのしるしや、何らかの感情なのである。さて、それは神を求めることではない。あなたは、神に加えて何かを求めている。確かに、試練の時に、何にもまして人に大いに役立つのは、イエス・キリストによって神を信ずる単純な信仰であろう。「おゝ!」、とある人は云うであろう。「私が先日読んだある人は、最も素晴らしい罪の確信の下にあったそうです。また、別の人は非常に尋常ならざる夢を見たのです。それから別の人は自分に語りかける声を聞いたのです」。しかり、しかり。そして、こうしたすべての結構なことは、あなたがキリストに対する信仰を有しているときには、非常に良いものである。しかし、もしあなたが自分をキリストにゆだねていないとしたら、こうした事がらは一銭の価値もない。というのも、いつの日か、あなたは自分に向かってこう云うことになるだろうからである。「いかにして私は、自分があの声を聞いたと分かるのだろうか? 私は欺かれていたのではないだろうか? いかにして私は、あの夢が何かを意味していたと確信できるだろうか? 私は、何か夕食の食い合わせが悪かったためにあのような夢を見たのではないだろうか? そして、私が感じたあの喜びは、ことごとく迷妄だったかもしれない」。しかし、もしあなたがこうした一切の事がら抜きに神を欲するとしたら、あなたは、自分が本当に必要としているものをまさしく欲しているのであり、私はあなたに切に願う。来て、イエスに対する信仰によってそれを取るようにと。ここに私はいる。咎ある罪人である。私は、イエス・キリストが罪人を救うためにこの世に来てくださった[Iテモ1:15]と知っており、信じている。それを、この《書》の証言によって知っている。私にはこう告げられている。もし私が主を信頼するなら、私は救われる、と。私は主を本当に信頼する。私は夢も、幻も、声も、何も求めはすまい。なぜ求めることがあるだろうか? 乞食が選り好みしてはならない。もし神が私に、他の誰かに与えるようなしかたで、その救いを与えてくださるとしたら、私は完璧に幸いである。たとい、私が、告げるべき何の衝撃的な物語も持っていなくとも、また、決して何らかの教訓を与えることも、自分に関する何らかの逸話によって物語を飾ったりしなくともそうである。しかしながら、残念なことに多くの人々は、時として神に伴うことのあるがらくたを欲するほどにも、神を欲していない。

 さらに、ある人々は、神を叫び求めていながら、自分自身の種々の偶像たちを熱望している。あゝ! あなたは、あなたが自分で作り上げた義のいくつかを、あるいは、あなたの罪の何らかを取っておこうとするであろう。私たちの友人たちの中のある人は、ノーフォーク湖沼地帯から上京してきた人だが、こんな話を告げてくれた。家に漕ぎ戻る時間が来たとき、彼は自分の櫂を漕ぎ始めた。そして、これはやけに長くかかるなと思った。風景は非常に単調で、いつまで経っても同じ古柳の木があり、最初に漕ぎ始めたときと何もかも変わらなかった。すると、そばを行くある人が云った。「おおい、あんたさん。思うんだが、あんたは錨を下ろしっぱなしじゃないかね?」 それは、まさに彼が忘れていたことであった。彼は錨を下ろしたまま漕いでいたのである。それと同じく、もしあなたが錨を下ろしたままだとしたら、あなたは神を見いださないであろう。私は、あなたの錨がいかなるものか知らない。ことによると、それは葡萄酒の杯かもしれない。あなたは、なおもその一滴を聞こし召しすぎているのであろう。ことによると、それは悪い女かもしれない。ことによると、それは、あなたが用いるのを常としてきた、商売上の何らかのごまかしかもしれない。ことによると、それは口にもできない何らかの罪かもしれない。あなたは、それを保っている間は、神を見いだせない。アカンよ。シヌアルの外套が地面の中に隠してあるとしたら[ヨシ7:21]、いかにして神は、審き以外のために、あなたの天幕に来ることができるだろうか? そうした幾多の偶像が取り除くがいい。そのときあなたは、真の神を見いだすであろう。

 だがしかし、また、ある人々は自分の必要が一層感じられるのを待っている。そして、いま現在感じている以上のことを感じるまで、キリストのもとに行けないと思っている。さて、やはり私はあなたの叫びを変えさせなくてはならない。あなたは、こう叫んでいたと思う。「ああ、できれば、どこで神に会えるかを知りたい!」 しかし、今やあなたの叫びはこうである。「ああ、できれば、私が真に神を必要としているかどうかを知りたい!」 あなたは、そうした経験を十分にしてきたではないだろうか? かつて私は、そのことについて考えすぎたことがあった。私は、深く鋤で耕されることは私たちに善を施すものと信じている。だが、もしある人が常に耕しているばかりで、決して何も蒔かなければ、決して刈り入れをしないであろう。あなたがたの中のある人々は、自分の必要感に目を注ぎすぎている。あなたは、あなたの必要感によって救われるのではない。その必要に対する満たしによって救われるのである。今のあなたのままで来るがいい。「私には砕かれた心がありません」、とある人は云うであろう。砕かれた心を求めてキリストのもとに来るがいい。「私には鋭敏な良心がありません」、と別の人は云うであろう。鋭敏な良心を求めてキリストのもとに来るがいい。あなたは、自分でその働きを半分行なって、それからキリストのもとに来てそれを仕上げてもらうべきではない。今のあなたのままで来るがいい。ありのままの、かたくなな心の、あれやこれやのあなたのまま来るがいい。あなたを伴って来て、自分をイエスにゆだねるがいい。そうすれば、あなたはあなたの神を見いだすであろう。

 残念ながら、非常に多くの人々は、自分がくぐり抜けてきた大きな悲しみによっても、その思いを曇らせているのではないかと思う。というのも、人はあまりにも大きく苦悩し、取り乱すために、はっきりと判断できなくなることがあるからである。あなたは、ハガルのことを覚えているであろう。彼女は皮袋の水を使い果たし、息子は渇きのために死にかけていた。だが、ほんのすぐそこ、彼女の真後ろに井戸があったのである。御使いは彼女に云った。「ハガルよ。どうしたのか」。そして、こう記されている。「神がハガルの目を開かれたので、彼女は井戸を見つけた」[創21:19]。あなたがたの中のある人々の場合、救いがその手元にあるのに、それが分からない。パウロが云うように、それはあなたの口の中にある[ロマ10:8]。だが、あなたにはそれが分からない。さもなければ、あなたはそれを飲み下し、それによってたちまち生かされるであろう。救いは手の届かない高みにあるのでも、地の深みにあるのでもない。使徒はそれをこう云い表わしている。「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」[ロマ10:9-10]。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます」[マコ16:16]。そのように福音は記している。決して他の道を探してはならない。信じるがいい。私は、「感じるがいい」、と云ったのではない。「信じるがいい」、と云ったのである。夢を見てはならない。自分を見失ってはならない。想像してはならない。むしろ、信じるがいい。あなたの心とともにこう云うがいい。「私は、イエス・キリストが罪人を救うためにこの世に来てくださったと信じます。そして、私を救ってくださると主に信頼します。

   『成し遂げられぬ、大いなる取引(わざ)、
    われは主のもの、主はわれのもの』」。

さて、あなたは従順と聖潔との新しい生き方を始めるであろう。それは、あなたがイエス・キリストを信じた結果、あなたの中に作り出されたものである。キリストこそ神が、罪のためになだめの供え物として定められたお方である。罪人よ。あなたはキリストを自分のものとしたいだろうか? キリストを自分のものとしようとしない限り、あなたは滅びなくてはならない。キリストを自分のものにしようとするなら、キリストはご自分を無代価であなたにお与えになる。そして、贈り物ほど無代価なものはない。キリストを受けとるがいい。そして、御使いたちのように幸いになって帰って行くがいい。神があなたを祝福し給わんことを! アーメン。

 

神との出会いへの熱望[了]

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