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ひとりだが、ひとりではない

NO. 2271

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1892年8月28日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1890年3月2日、主日夜


「イエスは彼らに答えられた。『あなたがたは今、信じているのですか。見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています。しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです』」。――ヨハ16:31、32


 私たちの主は、ご自分の教えの結果として信仰を期待される。そして私は、あらゆる《礼拝》の最後で、主がこう仰せになるのが聞こえるように思う。「あなたがたは今、信じているのか? あなたは話を聞いてきた。話し手を批評してきた。では、今あなたがたは信じているだろうか? あなたは感銘を受けてきた。涙を拭ってきた。だが、あなたがたは今、信じているだろうか? 信仰がなければ、他の何があろうとあなたはまだ救われていないからである」。私は、本日の聖句の問いを、今晩この大きな建物の中で話を聞いているひとりひとりの人に突きつけたいと思う。あなたは、今やもう何年も説教を聞いてきた。「あなたがたは今、信じているのですか?」 あなたは今や白髪になりつつあり、福音はあなたの耳に非常に馴染んでしまっている。あなたは、それが説教されるのを何年も、何年も聞いてきた。だが、「あなたがたは今、信じているのですか?」 これが肝腎な点である。この問いに対して正直に返されるあなたの答えによって、神の御前におけるあなたの状況が決定されるかもしれない。「あなたがたは今、信じているのですか?」

 キリストは、信仰をどこに見ようと愛される。それは主にとって尊いものなのである。信じているあなたがたには、主は尊いお方であり[Iペテ2:7]、誉れである。そして、信じるあなたは、自分が与えうる限りの誉れを主に与える。あなたがより頼むことによって、主は数々の宝石で飾られ、あなたが主に信頼することによって、主の頭には冠が置かれるからである。しかし、私たちの主は、非常に事を峻別するお方である。主は信仰と増上慢を区別される。信仰と、私たちが信仰だと考えるものとを区別される。この弟子たちは今、自分たちは分かったと云った。「いま私たちは、あなたがいっさいのことをご存じで、だれもあなたにお尋ねする必要がないことがわかりました」[ヨハ16:30]。「しかり! しかり!」、と《救い主》は云っておられるように思われる。「それは、あなたが自分自身の信仰を測る物差しである。だが、私はあなたと同じしかたでそれを測りはしない」。かりに誰かがこう云ったとしよう。「信仰という件については、私には何の警告も必要ありません。訓戒などほとんど必要ありません。私は信じています。おゝ! その信仰がどれだけ堅固か、あなたには分からないでしょう」。しかり。愛する方々。そして、ことによると、あなたは、自分の信仰がいかに弱いかも分かっていないかもしれない。いずれにせよ、あなた自身の信仰に対するあなたの信念を、キリストに対する信仰と取り違えてはならない。というのも、あなた自身の信仰に対する信念は、ただの自己過信でありえるが、キリストに対する信仰は神に栄光を帰し、信仰者に救いをもたらすからである。

 弟子たちの天狗の鼻をへし折るために、《救い主》は彼らにこう思い起こさせておられる。彼らにいかなる信仰があろうと、彼らがそこに至るまでには長いことかかった、と。「あなたがたは今、信じているのか? 三年間わたしはあなたを教えてきた。三年間あなたがたの間で奇蹟を行なってきた。三年間あなたは私を見てきたし、わたしの中に御父を見てきたであろう。だが、こうした期間すべての後で、あなたはようやく小さな信仰に至ったというのか?」 おゝ! 方々。私たちには自分の信仰を誇るべき何の理由もない。というのも、私たちはそこに達するまで非常に長くかかったからである。私たちは、確かに今はキリストに信頼している。私たちの中の多くの者らが真摯にこう云えることを私は望んでいる。すなわち、私たちは、自分のすべてにおいて全く主により頼んでいます、と。私たちは神を信じている。その御子イエス・キリストをも信じている。だが、私たちから私たちの自己信頼を叩き出すまでは何箇月もかかった。私たちを絶望の中から引き上げるには何年もかかった。主が、ご自身の御霊の力によって、私たちの有するなけなしの信仰を作り出してくださるには、これだけの長年月がかかったのである。

 それから私たちの主は彼らに、さらにへりくだらせるような別のことを思い出させておられる。すなわち、彼らの信仰は、生ずるまでに長い時間がかかったのと同じく、消え去るのも非常にすみやかであろう、と。「あなたがたは今、信じているのですか」、と主は云われる。「見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています」。おゝ、愛する方々。ちょっとした困難が持ち上がり、予測もできなかった困難が起こる。すると、あなたの信仰はどこにあるだろうか? ちょっとした迫害、不信者の下らない冷やかし、不可知論者の皮肉があると、あなたの信仰はどこにあるだろうか? 多くの人々がこうなるではないだろうか? 気の置けない人々の中にいる間は、自分の信仰をほとんど自慢することができる。だが、回りの人々が一変すると、自慢するような信仰が彼らから全くなくなることは必定ではないだろうか? あれほど口達者だった人々が今や無口になる。そして、以前には羽飾りをきらびやかに飾った兜をかぶっていた彼らは、その兜を隠し、できるものなら自分の頭も隠してしまおうとする。彼らは、ひとたびは誇りとしていたお方を、今や恥じている。おゝ、方々。誇る者は、ただ、主を誇るがいい[エレ9:24]。信仰者は、決して自分が信仰を有していることを鼻高々にしていてはならない。そこに至るまでにいかに長くかかったか、また、いかにすみやかにそこから離れ去ることがありえるかを思い起こさせられるといけないからである。

 私たちの主の弟子たちは、この警告をあまり快くは受けとらなかった。彼らの中の誰ひとりその警告を受けとらなかったと思う。確かにペテロは受けとらなかったし、彼らの残りの者らもペテロと大同小異であった。ペテロはイエスにこう云った。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません」[マタ26:33]。また、「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません」[マタ26:35]。私たちは今晩こう云うかもしれない。「私たちの中で、これからキリストを裏切るような男は誰ひとりいません。この場には、これから心冷たくなるような女は誰ひとりいません」、と。それは、私たちのうぬぼれである。他の人々が行なったことは、いかに卑劣で卑怯なことであっても、私たちも行なうことがありえる。そのようなことはないと思うとしたら、それは私たちの高慢であり、私たちにそう考えさせるのは、私たちの高慢でしかありえない。それゆえ、私たちの《救い主》は、弟子たちに向かって彼らの危険に格別な注意を促すために、単に、「時が来ます」、云うのではなく、「見なさい。……時が来ます」、と云われた。主は、「見なさい」、によって、「見よ!」と云っておられる。古の著者たちが欄外に人差し指のしるし、あるいは、「注意せよ」の記号をつけて、ある特別のことに注意を促したように、《救い主》はここで、「見なさい!」、と云っておられる。「ここを見よ!」 「これを見よ」、と。あなたがた、自分の武具を身に着けたばかりの人たちは、勝利を得たものと考えている。「見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています」。

 それゆえ、私は切に願う。兄弟たち。私は、あなたに対するのと同じく、私自身に対しても云うものだが、この、自分のもろさという教訓を学ぼうではないか。そして、たとい今晩は誠実にキリストに信頼しているとしても、各人がこう叫ぼうではないか。「私をささえてください。そうすれば私は救われることができましょう」*[詩119:117]、と。上下の桟敷席にいるあなたがた、また、一階の会衆席にいるあなたがた、また、あなたがたの中で最も経験を積んだ、また、最も確立されている人たち。あなたがたも、最近主を知るように導かれたばかりの人々と同じように、この祈りをささげようではないか。各人がこう叫ぼうではないか。「主よ。私を保ってください。私には私自身を保てないのですから!」、と。悲しいかな! 悲しいかな! 私たちは、旗手たちすら倒れるのを見てきた。そして、それが起こるとき、いかに一般の兵士たちは悲しみ嘆くことか! 巌のように立っていた者たちがよろめかされてしまう。神よ、私たちを保ち給え! 神のキリストよ。私たちをあなたの永遠の御霊によって保ち給え! アーメン。

 いま私は、この前置き的な考察から、あなたを引き離したいと思うが、しかしながら、ほぼ同じ考え方に沿いながらそうしよう。今晩、私たちは、まず第一に私たちの主から、主の試練を学ぼうではないか。「あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す」。第二に、主の確信を学びたいと思う。「しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです」。それから第三に、主の模範を学びたい。というのも、これらすべてにおいて、私たちは主の足跡に従うべきだからである。願わくは私たちが、もし私たちの主の試練を有するとしたら、主の確信をも有せるように。なぜなら、私たちは主の模範にならうものだからである!

 I. まず第一に、《私たちの主の試練》に注意するがいい。というのも、同様のことがあなたにも起こりえるからである。

 主はひとり残された。何と、この、主の回りにいた、また、主が語りかけておられる十一人の使徒たちであれば、確かに自分の主を置き去りにはしないに違いない! 彼らは確信しきっている。自分は、自分たちに向けられるどのような火にも耐え抜ける、と。だがしかし、彼らのうちひとりたりとも、その場に踏みとどまる者はいないであろう。彼らはみな主を見捨てて逃げ出すであろう。あの園で、主の護衛であった三人は眠り込み、残りの弟子たちも同じこととなるであろう。そして、主がピラトとヘロデの前にお立ちになるとき、彼らのひとりとしてそこにいて主を弁護しはしないであろう。誰ひとり主のために異議を唱えはしないであろう。

 この、疑いもない者たちは、自分たちがこれほど信じていたお方を置き去りにした。それでいながら、これほど自身満々に語ったとき、彼らは正直な者らでもあった。彼らの云ったことには、何の偽善もなかった。彼らは、そのすべてを本気で云っていた。彼らはひとりひとり本当に、主と一緒なら、牢であろうと、死であろうと覚悟はできているつもりであった[ルカ22:33]。自分の主を知らないと云うくらいなら、そうするつもりであった。彼ら自身の評価では、彼らは自慢しているのではなかった。本当にそうするつもりのことを云っているにすぎなかった。ここに、あなたの試練の苦々しさがある。あなたが困窮する時に、あなたの善良で、正直な友人たちはいなくなる、あなたの真の友人たちは脱力し、倦み疲れてしまう。あなたの歩調について行けなくなる。あなたが直面するよう召されている嵐には直面できずに、いなくなってしまう。悲しいかな、私たちの愛する主にとって、それは何たる悲嘆であったことか! これほど自信たっぷりであった彼ら、また、本当に誠意があった彼らは、だが、それにもかかわらず、散らされて、主はひとり残されてしまったのである。

 彼らは、また本当に主を愛してもいた。確かにペテロがこう云ったときの愛は、新しい愛ではなかったに違いない。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります」[ヨハ21:17]。彼は以前から自分の《主人》を愛していた。自分の主を知らないと云ったときでさえ、彼の心の中には、主に対する愛があった。他の弟子たちもそれは同じであった。彼らはみな自分たちの主を愛していた。だが、彼らはみな主を置き去りにしてしまい、あわれでひ弱な彼らは、戦いの日に退却した[詩78:9]。善良な友ら、愛に満ちた友らから捨て去られることは、私たちの心にとって嘆きである。はっきりとは分からないが、もし彼らが偽善者たちであったと確信できるとしたら、彼らがいなくなったことを、あなたはほとんど喜んで良いかもしれない。だが、彼らが心では真実であったこと、また、このようなあわれな者らが真実でありえる限りにおいて真実であったことを知っていればこそ、彼らがあなたを置き去りにする苦々しさは増すのである。あなたはこのことが自分の経験の中で起こるとき、何か思いがけないことが起こったかのように考える必要はない。キリストがこのようにひとり残されたからである。

 主が、あらゆる者から置き去りにされたことに注意するがいい。「あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り」。「それぞれ」、すなわち、あらゆる者がである。試練が来るとき、ヨハネは残らないだろうか? 彼は、自分が頭をもたせかけた、あの愛しい御胸を思い出さないだろうか? ヨハネも行ってしまうのだろうか? しかり。「それぞれ」が、そうする。キリストがご覧になると、ご自分のそばに立つ者は誰ひとりいなかった。主は、ご自分に味方するただひとりの証人もなしに、告発者たちに立ち向かわなくてはならなかった。あらゆる者が去ってしまった。あゝ、これは実に試練であった! しかし、ひとりの真の友、ダモンのごとき者か、ピュティオスのごとき者が、死に至るまでも互いに対して忠実である場合、その試練はそれほど圧倒的ではない*1。しかし、否。それぞれの者は、自分勝手な道に向かって行き、キリストはひとり残される。人々の中で、キリストとともにどまる者はなく、主の最も親密な友であった者たちの、ひとりたりともそうはしない。

 彼らはみな何をしていたのか? よろしい。それぞれの者が自分自身の安全を求めていた。「あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り」。これは、利己主義と卑しさとの真骨頂ではないだろうか? 「それぞれ自分の家に帰り」。これこそ、キリストが、ご自分に従う者たちの中の最上の者らから受けた仕打ちであった。彼らは主を置き去りにして、それぞれ自分の所、自分の家に帰って行き、わが身の安全をはかり、自分の評判を守り、自分のいのちを保とうとした。「それぞれ自分の家に帰り」。こんな者どもがあなたの友なのですか? おゝ、イエスよ。人々を愛するお方よ。これが、あなたを愛する者らなのですか? では、時として、友人たちがあなたに気を遣ってくれるのは、彼らが彼ら自身に気を遣える限りにおいてでしかないことに気づくとしても何の不思議があるだろうか? 彼らはあなたを心に留めたいと思うが、そのとき、あなたの代償はあまりにも大きくなる。あなたは、あまりにも「高価な」友となる! あなたとの友情の代価が考察されなくてはならず、彼らの収入はそれに耐えられなくなるであろう。「それぞれ自分の家に帰り」。こうしたこともまた、《救い主》は感じざるをえなかった。

 そして、このことが起こったのが、キリストの特別な時だったことを思い出すがいい。「時が来ます」。キリストの時、暗闇の力[ルカ22:53]の時である。それこそ、彼らが主を置き去りにした時であった。主が彼らの友情を必要としなかったとき、彼らは主の非常に良い友人たちであった。彼らが、しようとしても何も主のためにできなかったとき、彼らは主に忠実に従う者たちであった。しかし、難儀がやって来た。今や彼らは、一時間でも、主と一緒に目を覚ましていることができたであろう[マタ26:40]。今や主と一緒に、烏合の群衆のただ中に入り、少なくとも大衆に抗して少数の声を差し挟むことができたであろう。だが、彼らはいなくなってしまった。この国の燕たちのように、最初の氷結が小川を覆うや否や、あっという間に姿を消してしまった。夏の青葉のように、この冬枯れの今、彼らはどこにいるだろうか? 悲しいかな、悲しいかな。友情よ。それが最も必要な時になくなってしまうとは! そして、それは、このとき、《救い主》のもとからなくなってしまったのである。

 主は、また、あらゆる絆に違反して置き去りにされた。主を置き去りにしたこの人々は、主のそばに立つと誓っていた。彼らは主に、ご一緒に死にますと約束していた。彼らは主のえり抜きの同伴者たちだった。主が彼らをガリラヤの小型漁船から召し出し、ご自分の弟子とされた。この者らは主の使徒たちであり、主の新しい御国の主要人物であった。彼らは座に着いて、イスラエルの十二部族をさばくことになっていた[マタ19:28]。この者らを、主はご自分のものとして贖い出しておられた。この者らは、主の現われの日に、主のご栄光にあずかることになっていた。ある人に結びつけられていた、いかなる人々にもまして、彼らはキリストに結びつけられていた。だがしかし、彼らは主をひとり残していった。愛する方々。あなたの同胞たちの恩義を当てにしてはならない。それは、この世ではごくまれなものである。彼らのためにあなたが行なえば行なうほど、そのお返しは少なくなる。私は今、同胞たちに悪意をいだく者として語っているのではなく、悲しいかな! 多くの場合に、それが事実であると知っているのである。そして、もしあなたがそうした目に遭わないとしたら、あなたはそのことについて神に感謝して良いし、なぜ自分は規則の例外なのかと不思議がって良い。もしあなたが、次第にこの世で落ちぶれて行き、過ぎた日々にあなたが助けてやった者たちの助けを必要とするようになるとしたら、彼らは通例、一番最後にあなたの助けとなり、真っ先にあなたを踏みにじることであろう。確かに、私たちの主イエス・キリストの場合、主に最も近しく、最も多くを負っていた者らは、主から逃げ去ってしまったし、主は彼らから何の援助も受けられなかった。それは、「それぞれ自分の家に帰り」、であった。そして、彼らは主をひとり残して行き、主がその無慈悲な敵どもから縛られ、打たれ、牢に投ぜられ、死に至らされるままとした。

 これが、私たちの主題の第一の区分、私たちの主の試練である。もう一度云うが、同じような試練はこの場にいるある人々にも起こることがありえる。それは、信仰の大胆な擁護者たちにしばしば起こってきたし、彼らは、しばしば孤塁を守らざるをえなかった。だが、それは、それを耐えるように召された者にとって、鋭利で、厳酷な試練である。

 II. 第二の項目として、もっと明るい話をすることにしよう。それは、《私たちの主の確信》である。主は云われる。「わたしをひとり残す時が来ます。……しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです」。

 さて、着目してほしいのは、キリストの確信とは、御父が主とともにおられるという確信であり、この確信が主をご自分の目的から離れずにいさせたということである。見るがいい。弟子たちは逃げて行く。彼らはみな散らされ、それぞれ自分の家に帰って行く。キリストもいなくなるだろうか? 否。ヨハネ、ペテロ、ヤコブ、トマス、そして残りの者らはみな、いなくなった。キリストはいなくなっただろうか? 否。そこに主は立っておられる。彼らは主をひとり残した。だが、そこに主はおり、なおもご自分の目的を守っておられる。主は救うために来たのであり、お救いになるであろう。主は贖うために来たのであり、贖いになるであろう。主は世に勝つために来たのであり、世に勝つであろう。彼らは主をひとり残した。主を自分たちとともに連れては行かなかった。主は決して臆病者ではなかった。ご自分の目的から決して逃げ去りはしなかった。主の御名はほむべきかな! 主は、あらゆる者がご自分を見捨てて逃げてしまった、かの恐ろしい時にも堅く立っておられた。これは、主の確信が神に置かれていたからであった。

 次に着目したいのは、神に対するこの確信は、単に主にそのご目的を保たせただけでなく、その試練の見通しにおいても主を支えたということである。それがいかに記されているか注意するがいい。「わたしをひとり残す時が来ます。……しかし、わたしはひとりではありません」。キリストは、「わたしはひとりになることがないでしょう」、とは云っておられない。それは真実であった。だが、主は、「わたしはひとりではありません」、と云われた。わたしは、神の子どもの経験を現在時制で読むことを非常に嬉しく思う。神の種々の賜物、恵み、約束を現在時制で読むことを非常に嬉しく思う。「わたしはひとりではありません」。「主は私の羊飼い」である。それと同時に、「私は、乏しいことがありません」。「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます」[詩23:1-2]。主はすべてのことを今、私のために行なっておられる。ほむべきキリストはこう云われる。この苦難の間中、神がご自分と一緒におられる見込みが、また、いま神がご自分とともにおられる臨在が、その苦難を前にしているご自分の慰めなのだ、と。あなたがた、今朝この場にいた人は、私たちがこの聖句からいかに悲しい講話を行なったか知っているであろう。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」[マタ27:46]。私が今晩の講話にこの聖句を取り上げたのは、それが今朝私たちが考察したものの対照物だからである。というのも、私たちの主は弟子たちに向かって真実こう云うことがおできになったからである。「しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです」。

 私たちの主の宣言は、見かけ上は矛盾していた。主は神に向かって、「どうしてわたしをお見捨てになったのですか」、と云わなくてはならなかったではないだろうか? ならば、いかにして主は、「父がわたしといっしょにおられる」、と云いえたのだろうか? それは間違いではなかった。そして、今朝の説教の中で私が示そうとしてきたように、神は主を、《律法賦与者》および律法の《執行者》たる、その公式の職務においては、お見捨てになったが、その一方で、主に対するその人格的な関係においては、お見捨てにならなかったし、お見捨てになることがありえなかった。御父は主とともにおられた。おゝ、このことを堅く守ることは、キリストの側においてほむべきことではないだろうか? 主は、御父がご自分と一緒におられることを知っておられる。別の意味では御父から見捨てられたと感じるときでさえ、そうであることを知っておられる。愛する方々。たといあらゆる人があなたを置き去りにしようと、また、神があなたを捨て去られたように見えようと、それでも、神に対するあなたの信頼を守り抜くがいい。神がご自分の民を見捨てることがありえるなどと信じてはならない。夢にも思ってはならない。それはありえない。神は決してご自分の民をお見捨てになったことがない。そうすることはありえないし、決してそうはなさらない。御父はイエス・キリストと一緒におられる。主が、「どうしてわたしをお見捨てになったのですか」、と云わざるをえなくなると知っておられるときでさえ、そうである。

 それでも、確実に真実であったことに、御父は、キリストがひとり残されたときキリストとともにおられた。いかにして御父は、そのとき主とともにおられたのだろうか? 愛する方々。御父がキリストをご覧になっていなかったときでさえ、あるいは、主に微笑みや、慰めの一言もお与えになっていなかったときでさえ、それでも御父は主とともにおられた。いかにして、そうだったのだろうか? よろしい。御父は、その永遠の目的と契約に関して主とともにおられた。御父と主は、人間たちの贖いのため、また、選民の救いのために、ともに契約を結んでおられた。また、その御手を組み合わせて、この天来の目的、永遠の契約を実行しようと互いに誓約しておられた。私はアブラハムがイサクとともにモリヤの山に向かう箇所を思い出す。そこでイサクはいけにえとしてささげられることになっていた。こう書かれている。「こうしてふたりはいっしょに歩き続けた」[創22:8]。そのように、この《永遠の父》とその《愛する御子》とは、神がご自分の御子を死に引き渡そうとしておられたとき、同じことをされたのである。そこには、目的の不一致は何もなかった。御父と御子はご一緒にお進みになった。キリストのみわざのすべては御父のみわざであったし、御父はその中で御子を最後の最後までお支えになった。

 贖罪の計画と方法において、御父と御子はご一緒におられた。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」[ヨハ3:16]。だが、イエスは、実に、ご自分をお捨てになったほどに、世を愛された。贖罪は御父の賜物だったが、御子のみわざであった。主は、受けた苦しみすべてにおいて、こう云うことがおできになった。「御父はこのことにおいて、わたしとともにおられる。わたしは御父の栄光を現わし、御父を満足させることを行なっているのだ」、と。主は、ひとりきりで牢や死に向かわれたのではない。すべてのことにおいて、主は御父を喜ばせることを行なわれたし、御父はそのすべてにおいて主とともにおられた。

 神のすべての聖定は、キリストの後ろ盾となっていた。それは聖なる書に書かれているが、キリストのほか誰がそれを読むべきだろうか? そこに書かれているすべてのことは、キリストを支えるものとして書かれている。運命の書の中にある、ただ1つの聖定たりとも、キリストの栄光のために働かないもの、キリストのみ思いに従っていないものはない。十字架の背後にあったのは、単に十二軍団の御使いたち[マタ26:53]だけでなく、御使いたちの神もまた、そこにおられた。ともに働いて《創造主》の目的を果たすことになるのは、単なる《摂理》の諸力だけでなく、《摂理》の神、無限のエホバがイエスと結束しておられた。それで主は、死ぬために出て行くときも、こう仰せになることができたのである。「わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです」。これは栄光に富む真理ではないだろうか? 私たちの主キリストはひとりきりではなかったのである。地上的な同伴者に関する限り、イザヤによって書かれた言葉は文字通りキリストによって発されたと云えた。「わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ」[イザ63:3]。人はそれぞれいなくなった。だが神は常に主とともにおられた。

 その時以来、神がキリストとともにおられたことは明白にされてきた。神はその証明として、主を死者の中からよみがえらされた。御父はまた、ご自分が御子とともにおられる証明として、ペンテコステにおいて聖霊を遣わし、様々なしるしと不思議を伴わせてくださらなかっただろうか? イエスはおひとりではない。それ以後の、人々に罪を確信させ、彼らをイエスを導くことにおける聖霊のあらゆるみわざは、主がおひとりではない証拠である。愛する方々。キリストが天に上げられた日以来の、《摂理》のあらゆる歴史は、主がおひとりではないことを証明している。おひとりであると? このキリストがおひとりであると? 何と、野の獣たちが主と連合しており、軌道上にある星々が主のために戦っているのである。歴史のあらゆる出来事は、時間と余裕を与えさえすれば、主の御国を来たらせるであろう。彼方にある巨大な《摂理》の車輪は、そのあらゆる回転によって、主の勝利の戦車を、主の敵どもの首根っこの上に、近く、また、いや近く引き寄せるはずである。今でさえ、信仰によって私たちは、「御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました」[ヘブ2:9]。

   「見よや、聖徒ら。光輝(はえ)ある眺めを、
    今や、目にせよ 『悲しみの人』を。
    戦いの場より 勝ち得て来たる
    きみにあらゆる 膝はかがまる。
    冠ささげよ、冠ささげよ。
    冠ぞ 勝者の額にふさわしき」。

 イエスはあらゆる力と知恵との焦点であられる。神は主とともにおられる。そして、来たるべき日に、主はその栄光のうちにお現われになる。神の子らの間における、主の千年期支配の中で、主がおひとりでないことは見てとられるはずである。また、主が御父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来られるとき[マタ8:38]、そのとき主は、さらに大きく力を込めて、こう云うことがおできになるはずである。「わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです」。そして、主がかの大きな白い御座[黙20:11]に着き、人類を分割し、ご自分の友を右側に、敵を左側に置いて、反逆者どもには永遠の御怒りを宣告し、信仰者たちには天国をお開きになるとき、そのとき全世界はこの《ナザレ人》がおひとりではないことを知るのである。ひとりであると? 私は、そうした考えを笑い飛ばさなくてはならないような気がする。天地のすべて、今あるものと後に来るもの、時間と永遠、いのちと死とのすべては主とともにある。人々は主を見捨てるかもしれないが、主はおひとりではない。

 III. さて、私は第三のこととして、《私の主の模範》をいくつかの教訓としたいと思う。手持ちの時間が尽きかけているため、これらについての教えはごく手短なものとしくてはならない。

 最初に、他の人々が屈するときも忠実であることを学ぶがいい。あなたはキリスト者だろうか? キリストに信頼しているだろうか? キリストを愛しているだろうか? ならば、決して主を見放してはならない。「おゝ! しかし」、とある人は云うであろう。「潮は今や逆向きに流れているのです」。兄弟よ。流れさせておくがいい。流れ去ったなら、それはなくなってしまうであろう。私は、死者の中からよみがえられたお方を信じる。そのお方の義によって、私は義と認められ、そのお方の血によって私は雪よりも白く洗われるのである。「しかし、哲学者たちは、それが科学的でないと告げています」。ならば、私は非科学的になろう。そして、非科学的であることを誇りとしよう。「おゝ、ですが深遠な思索家たちによれば、これは進歩と首尾一貫していないそうです!」 よろしい。ならば進歩と首尾一貫しないままでいさせよう。「おゝ、ですが全世界がそれを否定しているのです!」 では全世界はその分だけ一層悪いものなのである。世界がそうしたければ、真理を否定させておくがいい。アタナシオスが、「Athanasius contra mundum」、すなわち、「アタナシオス対世界」と云ったとき、それは彼の気宇広大さであった。そして、あらゆるキリスト者はこうした気宇を持てるし、持つべきである。この《書》は真実だろうか? どんな田吾作どもが、それを真実でないと云おうとそれが何か! 田吾作どもがそう云いたければ、そう云わせておくがいい。だが、この本は真実であり、あなたはこれを固守するがいい。もし聖霊なる神がキリストに信頼するようあなたを教えてこられたとしたら、キリストに信頼するがいい。他の人々が何をしようと関係ない。何と? あなたは他の人々の鼻息をうかがいながら生きているのか? あなたは頭数を数えて、それから大人数の側とともに跳ぶのだろうか? それがあなたの生き方だろうか? 何と、確かにそのような人に救われる値打ちはほとんどないに違いない。その人は人間だろうか? それとも、後先を見なければ跳べない猫っ子だろうか? 否。もしあなたが人間なら、また、キリストを信じているなら、キリストのために立ち上がるがいい。

   「立てよ! いざ立て、イエスのため!
    汝ら十字架の 兵士らよ!
    主の御旗をば 上(え)に掲(あ)げよ、
    そは敗北(まく)ること つゆもなし。

    勝利(かち)より勝利(かち)へと 進み行く
    主は軍勢(つわもの)を 率(ひ)き給い、
    諸方(よも)の敵をば 打ち負かさん、
    キリストが主と なる日まで。

   「立てよ! いざ立て、イエスのため!
    喇叭(らっぱ)の音に 馳せ参じ、
    大争闘(おおいくさ)へと 乗り出せよ、
    主の栄光(ほまれ)満つ この日にぞ。

    大丈夫(ますらお)ならば 主に仕え、
    無数(さわ)なす敵軍(あだ)に 立ち向かえ。
    危機には高めよ 汝が勇武、
    討てや、力を いや増して」。

そして、多くの者らが身を翻すとき、あなたは、いやまして大胆に、また、確信をもって立つがいい。そのような時には、あなたの確信と大胆さがいやまして必要とされるからである。あなたの主は、あらゆる者から見捨てられたときも、ご自分の壮大な使命を放棄なさらなかった。あなたの生涯のわざと、あなたの信仰とを捨て去ってはならない。たとい他のすべての者らがそれらを捨て去るとしても関係ない。

 次に、あなたの《主人》とともに、神がすべてを満ち足らすお方であることを信じるがいい。こう記されているではないか。「あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。……しかし、わたしはひとりではありません」。――なぜか? 「あなたがたの半分は忠実な者であり続けるからです」? 否。「あなたがたの中の三人は私から離れずにいるからです」? 否。「父がわたしといっしょにおられるからです」。おゝ、私たちの数え方は本来あるべきしかたではない。あなたに立ち向かう者らは百万人である。神はあなたの味方だろうか? よろしい。ならば、あなたの方が多勢なのである。結局において、百万など、一の後に零がたくさんくっついただけのものではないだろうか? 神に信頼するがいい。そして何百万には好きな道へ行かせるがいい。神は十分であられる。かの学苑で語っていた人は、語るうちにあらゆる者が去って行き、プラトンしか後に残らなかったことに気づいた。それでも彼が語り続けていると、ある者が云った。「語り手よ。あなたにはプラトン以外の聴衆がいないではないか」。「プラトン以外の聴衆がいない?」、と彼は云った。「プラトンは五十人の演説者にとって十分である」。そのように、まことに、もしあなたに神以外の助け手が誰ひとりいなくとも、今のあなたの持ち場に立っているがいい。というのも、神はあなたにとって十分なだけでなく、あらゆる忠実な者たちにとって十分であられるからである。彼らがいかに弱くとも関係ない。

 次に別の教訓を学ぶがいい。外見上はどうあれ、神により頼むことである。あなたは極貧だろうか? 弱っているだろうか? 中傷されているだろうか? 神の最も重い鞭で打たれているだろうか? それでも、あなたの主がなさった以上に、神に反抗してはならない。主は、「父がわたしといっしょにおられる」、と云われた。たとい、「どうしてわたしをお見捨てになったのですか」、と云わざるをえなかったとしてもそうされた。神を見ることができないときも、神を信じるがいい。神が微笑んでおられないときも、神を信じるがいい。神が渋面になられるときも、神を信じるがいい。神が打つときも、神を信じるがいい。神が殺すときも、神を信じるがいい。というのも、ヨブとともにこう云うことこそ、何にもまさる絶頂だからである。「神が私を殺しても、私は神を待ち望もう」*[ヨブ13:15]。ご自分の好まれる通りに行なうことが神の分であり、神が何をなさっても神を信頼することが私の分である。私は神に抱きついて、「わが神。わが神」、と云う。感じとれる喜びが何も感じられず、信仰によって歩まざるをえないとしても、そうである。

 最後に、真理と正義のために堅く立ち、苦闘しつつある神の子どもよ。あなたの苦難が長くは続かないことを期待するがいい。あなたは、キリストがこれをどのように云い表わされたか、注意しているだろうか? 「見なさい。……時が来ます」。それは時である。ひと時である。「見なさい。……時が来ます」。それは一年ではない。兄弟よ。一年ではない。一箇月ではない。一日でもない。ひと時である。「時が来ます」。キリストにとって、十字架にかけられたとき、それは確かに長いひと時であった。だが、主は、あの血の汗から十字架の死に至る一切の期間を、「ひと時」と呼ばれた。何日間かを何時間かに縮めるのが信仰の役割である。そのことを思い起こすのが、今晩のあなたの役割である。たといあなたがキリストのために苦しみ、また、孤立しなくてはならないとしても、それは、ほんのひと時でしかない。それがひと時でしかなかったとき、いかに喜んで私たちは待ってきたことであろう! それがひと時でしかないと知ったとき、いかに朗らかに私たちは暗闇の中を進んできたことであろう! 私たちの試練は、ひと時でしかない。もう一時間もしないうちに、私たちの中のある者らは、文字通り、神とともにいることになっているかもしれない。だが、私たちがそうなるにせよならないにせよ、私たちはやはりこう歌えるであろう。――

   「疑い、危険(あだ)の よし阻(はば)むとも、
    最果ての天国(くに) 甘くするのみ。
    喜悦(えみ)や悲嘆(なやみ)は 降りかかるれど、
    みそばのひと時 みな埋め合わせん」。

しかし、たとい文字通りに一時間ではないとしても、いかに長大な迫害の統治も短いものでしかない。それは、私たちがひとたび故郷に着けば、たちまち終わる。乳と蜜の流れる国で過ごす中のある日、かのせせらぎの1つの傍らに座って、こう云うことになるとき、それは陽気な休暇を味わう助けとなるだろうと思う。「思い起こせば、誰それは私を見捨てていったが、私は、自分が知り、信じていた通りの信仰に堅く立ったものだ。彼らはみな私を見捨てていったし、それは、その時には耐えがたく思われた。だが、私の孤独は長くは続かなかった。それはじきに終わった。そして、主が、『よくやった。良い忠実なしもべだ』、と仰せになったとき、それは、ひと時とも思われなかった。ほんの一瞬のことと思われた。あるいは、夜に蝋燭が吹き消されたが、少し煙がゆらいで、再び火が灯る、そのくらい短い暗闇の時でしかなかった」。そのように、天国では、私たちがキリストのために何の苦しみも受けなかったかのように思われるであろう。殉教者は、かの火刑柱から灼熱した戦車に乗り込むはずである。そして、天国に行き着くとき、その人は、自分の《主人》を眺めるこの上もない喜びによって、自分が焼き殺されたことなど忘れてしまうはずである。それはひと時でしかなく、私たちはかの黄金の御座の前で会い、かの硝子の海[黙15:2]のほとりに立ち、永遠にこう歌うのである。「キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン」[黙1:5-6]。

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(訳注)

*1 シュラクサイ王ディオニュシオスに死刑を宣せられたピュティオスの身代わりに、友のダモンが一時入獄し、ピュティオスが約束を守って出頭して二人は許されたという。[本文に戻る]

 

ひとりだが、ひとりではない[了]

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