NO. 2270
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「わたしは、裸の丘に川を開き、平地に泉をわかせる。荒野を水のある沢とし、砂漠の地を水の源とする」。――イザ41:18
注意すると、この節で主は二度、「わたしは〜する」、と云っておられる。そして、その点でこの節は、この章の残りと調和している。子どもたちは、家に帰ってから、調べてはどうだろうか? 神がこの章で何度、「わたしは〜する」、または、「あなたは〜する」とお語りになっているかを。この2つは、ほぼ似たり寄ったりの意味だからである。
いかに私は、神の「〜する」、また、「〜になる」で満ちた聖書箇所を大切に思っていることか! 神の仰せはすべて尊い。だが、神の「わたしは〜する」は、ことのほか尊い。詩篇には、おびただしい数の「わたしは〜する」がある。キリストの言葉にも、数々の素晴らしい「わたしは〜する」がある。私たちが神の「わたしは〜する」に至るとき、私たちは幾多の尊いこと、深遠なこと、神の民に慰めと力を施すことのただ中に没入しているのである。
私たちも、「私は〜します」、と云うことがある。だがそれは、神がそう云われるしかたにくらべると、はなはだ貧弱な云い方でしかない。人々は、「『〜せよ』は王の言葉」という。そのように、「わたしは〜する」は、《王の王》のことばである。何かを意志することを神の大権である。「わたしは〜する」と仰せになるのは神の主権的な権利である。いま読んだような、神の「わたしは〜する」で一杯の章に達するときには、しばし沈思黙考しても決して無駄にはならない。エホバの「わたしは〜する」が、必然的に意味していることを思い巡らすことである。
これは、熟慮とともに語られた「わたしは〜する」である。ヤコブは云った。「すべてのことは大昔から神に知られている」[使15:18 <英欽定訳>]。私たちは、あわてて、「私は〜します」、と云ってから、ゆっくり時間をかけてそれを悔やむ。私たちは、興奮や、思い込みや、抑えがたい欲望の下にあるとき、「私は〜します」、と云い、後になるとそれを非常に後悔し、ことによると、不誠実にも自分の約束を破るようなことをするかもしれない。だが、神は決して何かを無理矢理に語らされるようなことはない。神は全能であられる。神は決してあわててお語りにはならない。神は無限の閑暇をお持ちである。神は決して興奮や思い込みの下でお語りにはならない。それは、神に似つわかしくない。神のご目的は古のものであり、神の聖定は永遠からのものである。そして、その聖定の口である「わたしは〜する」は、知恵と思慮をもって語られることばである。さて、ある人があることを思慮深く、賢明に語るとき、あなたはその人がそれを、可能であれば実行するはずだと信じる。ならば、神がお語りになることについては、いやまさる信頼を持って良い。というのも、神は十分な熟慮もなしにお語りにならなかったからである。それゆえ、神が、「わたしは〜する」、と仰せになるとき、あなたは神がそれを成し遂げるだろうと確信して良い。
次に、神が、「わたしは〜する」、と仰せになるとき、神の決意は、全能によって支えられている。あなたは、「私は〜します」、と云うが、あなたは自分が約束したことを行なえない。あなたの意志は十分に良いものだが、その手立てが欠けているためにし損じてしまう。あなたは、「私はしますよ。ええ、しますとも」、と云う。だが、後になると、しおたれた様子でこう云う。「すみません。どうか分かってください。あの時はできると思っていたのですが、お約束したことはできなくなってしまいました」。さて、そのようなことは決して神には起こらない。神が語って、それを行なわないということがあるだろうか? 主にとって難しすぎることがあるだろうか? 特に、ご自分で行なうと仰せになったことについてどうだろうか? ならば、さあ、愛する方々。もし神が全能であられるとしたら、また、神が、「私は〜する」、と云われるとき神が全能であられると分かっているとしたら、私たちはそれを疑うことなどできない。というのも、永遠の力が、神の知恵のことばとともに出て行くからである。そして、そのことはなされるに違いない。しかり。なされないではいられない。もしそれが神の、「わたしは〜する」、でなかったとしたら、私たちがいだいていたであろういかなる疑いも、神にできないことはないことを思い出すとき、消え去ってしまう。
さらに、神が、「わたしは〜する」、と云われるとき、私たちは、それが不変性によって証印を押されていることを思い出すべきである。私たちは変わる。常に変わりつつある。ちりと灰から作られている私たちは、変化し続けている物質でできている。こういうわけで私たちは、きょうは、「私は〜します」、と云い、本気でそうするつもりでいながら、明日には、「私は〜します」、などと云わなければよかったと思い、その翌日には、「私は〜しません」、と云う。あゝ! いかに多くの自殺が、人間の言葉を頼りにしたために起こることか! 不実な相手を信じてしまい、結局は裏切られてしまったからである。しかし、神は決してお変わりにならない。神は、きのうもきょうも、いつまでも、同じである[ヘブ13:6]。神の御口から出たことは、決して取り消されない。いったん神が、「わたしは〜する」、と仰せになるなら、それにより頼むがいい。神はなおも、「わたしは〜する」、と仰せになるし、天と地が過ぎ去ろうとも、それはやはり、「わたしは〜する」、であろう。神は、変化するにはあまりにも完璧であられる。というのも、完璧であるため、神は変わることがおできにならないのである。変わりやすい存在は、悪い方から良い方へ変わるか――その場合、以前の彼は完璧ではなかったのである――、良い方から悪い方へ変わる――その場合、後では完璧でなくなる――のである。だが、神は常に完璧であるため、常に同じであり、決して自分の言葉を撤回したり、ご自分の目的を変更したりなさらない。それゆえ、あなたは、変わらざる神の過つことなきことばを信じたくはないだろうか? あなたはそれにしがみつけるではないだろうか? そして、神が、「わたしは〜する」、と仰せになるとき、それがその通りになるとより頼めるではないだろうか?
さらにまた、神が、「わたしは〜する」、と仰せになるとき、それは忠実に実行される。神はその脅かしを遂行される。神は決して虚仮威しをしたり、実行するつもりもない脅し文句を口にしたりなさらない。そして、こと約束に関して云えば、こう確信して安んずるがいい。神は決して耳を喜ばせてから、人を欺くようなことはなさらない、と。もし神がそれをするつもりがなかったならば、神は、「わたしは〜する」、と云おうとなさらないであろう。永遠の忠実さが、永遠の知恵の宣言を実行する。神が嘘をつくなどということがあって良いだろうか? 神は、あなたのような人間だろうか? 神が欺くようなことがあるだろうか? 神が偽って約束し、それから自分のことばから逃れようとするだろうか? 絶対にありえないし、私たちもそうした考えによって神の御名を冒涜することを決してしないようにしよう。ならば、さあ、神の子どもたち。あなたがた、神を知っている人たち。もし神が、「わたしはあなたを助ける」、と云ったとしたら、神はあなたを助けてくださるであろう。もし、「わたしはあなたを強める」、と云ったとしたら、あなたを強めてくださるであろう。一筋の疑いもなく神を信ずるがいい。そして、「雄々しくあれ。心を強くせよ。すべて主を待ち望む者よ」[詩31:24]。
さて、こうしたことすべては、本日の聖句を導入するために述べたことである。ここには2つの、栄光に富む「わたしは〜する」がある。ここから、何がつかめるか見てみよう。主は云われる。「わたしは、裸の丘に川を開き、平地に泉をわかせる。荒野を水のある沢とし、砂漠の地を水の源とする」。
私は、この聖句を、多くの事がらに対する、一種の一般的な約束として適用しようと考える。そして、第一に、それを《聖徒たちの種々の試練》に対して適用したい。
まず最初に、彼らの現世的な試練を考察してみるがいい。神の民も飢えたり渇いたりすることがありえるし、大きな心痛をかかえることがありえる。あなたの米櫃は空っぽかもしれない。羊の群れが囲いから絶え果て、牛たちが家畜小屋からいなくなるかもしれない。だが、神はあなたを養うことがおできになる。あなたが水を求めても水はないが、神は裸の丘に川を開き、平地に泉を湧かせることがおできになる。摂理の神に不信をいだいてはならない。神の子どもたちの多くは、その最後のパンに至らされてきたが、飢えることはなかった。あの預言者がやって来たときには、一握りの粉とほんの少しの油しか残っていなかった女[I列17:12]のことを思い出すがいい。だがしかし、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。ケリテ川のほとりに座っていた人を思い出すがいい。幾羽かの烏が、朝になると彼のところにパンと肉とを運んで来、また、夕方になるとパンと肉とを運んで来たのである[I列17:6]。ことによると、あなたのためには何の奇蹟も行なわれないかもしれない。もしかすると神は何の奇蹟もなしにあなたを養われるであろう。そして、それがなされる限り、あなたは、そうした備えが摂理的なものであろうと奇跡的なものであろうと、等しく神を賛美するであろう。こうした約束を申し立てるがいい。「主に信頼して善を行なえ。そうすればあなたはこの国に住んで、まことに養われる」[詩37:3 <英欽定訳>]。「このような人は、高い所に住み、そのとりでは岩の上の要害である。彼のパンは与えられ、その水は確保される」[イザ33:16]。たとい現在のところ何もなくとも何であろう。ことによると、明日の朝には、主が裸の丘に川を開き、平地に泉を湧かせてくださるかもしれない。
確かに本日の聖句は、信仰者たちの霊的な経験において真実である。あなたは知っているだろうか? 時として、霊的な事がらが非常に低調になり、何の喜びも見いだせなくなり、希望がほとんどなくなり、自分自身の心をのぞき込んでも、すべては秋の日照りの後でからからになった大地のように乾燥しているかに思われるようなとき、それがいかなるものかを。あなたには何の力も、強さもなく、願いもほとんどない。あなたは座り込んで、こう云う。「私など神の子どもではないのではないだろうか。私は見捨てられたのだ。霊的に死んでしまったのだ」。それでも、あなたは一度も経験したことがなかっただろうか? 一時間もしないうちに、滔々たる大水の流れが解き放たれ、あなたの魂に感情が満ちあふれ、信仰、希望、喜び、愛で一杯になることを。戦車はその車輪を外されて、進むのが困難になっていた[出14:25]。だが今や、あなた自身が知らないうちに、あなたは民の高貴な人の車に乗せられていた[雅6:12]のである。あなたは、喜びのあまり躍り上がり、笑っている。主はあなたの捕われ人を帰し、あなたの口を笑いで、あなたの舌を喜びの叫びで満たされた[詩126:1-2]。そして、それをみな、突然にも行なわれる。神はその民のため事を行なうことがおできになる。彼らが求めてもいなかった素晴らしい事がらをさえ。
注意してみると、本日の聖句には水に関する四つの言葉がある。以前には何もかもが乾いており、渇いた者の飲むべき水が全くなかった。今や、あなたには川があり、泉があり、沢があり、水の源がある。この四つの言葉には違いがある。一番目は「川」である。「わたしは、裸の丘に川を開き」。早瀬の流れのような、力強い恵みの奔流が神から直接やって来るであろう。あなたのあわれな、死んだ、乾ききった心は、突如として、いのちの水が神の御座から直接あなたのもとにやって来たのを感じる。そこには、「泳げるほどの水」[エゼ47:5]がある。それ以前には何もなかった所が満ちあふれるようになる。
次の言葉は、「泉」であり、これは「井戸」とも訳せる。さて、井戸は人々が定期的に水を求めに行く場所である。それは、恵みの手段を表わしている。「あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む」[イザ12:3]。よろしい。さて、あなたは、ことによると、恵みの手段のもとに赴きながら、まだ慰めを得ていないかもしれない。あなたは説教者を非難することはなかったが、自分自身を非常に責めてきた。しかし、突如として神が現われ、その平地に泉を湧かせてくださる。今や礼拝は、あなたの元気を回復させるものでことごとく満ちている。今やあなたは喜んでおり、もはやこう云いながら帰宅することはない。「私は渇いていた。だが、主の家に行っても無駄だった。何の慰めも受けなかったからだ」。神に何がおできになるか見るがいい。神は、ご自分の御座から直接、恵みの川を流れさせることができ、恵みの手段を習慣的に用いることの中にも泉を湧かせることがおできになる。
しかし、第三の言葉がある。「荒野を水のある沢とし」。ここでは、あふれ出る豊かさのことが考えられている。神はあなたに非常に大きな喜びを与えることがおできになり、あなたはそのすべてを持ちきれなくなるであろう。そしてそれを、川岸にあふれ出る沢のようにするしかなくなる。神はあなたに非常に大きな熱心さを与えることがおできになり、あなたは自分がしなくてはならない働きにおいて、そのすべてを用いきることがほとんどできない。神は荒野を「水のある沢」にすると約束しておられる。神があなたにお与えになるのは、時たまの恵みの一滴ではない。乾いた場所が、永続的な沢となるまで満たしてくださる。
四番目の言葉は、「水の源」である。これは、不断の清新さを示唆していると思われる。常に新しいもの――キリストについての新鮮な思い、聖なる奉仕における新しい楽しみ、来たるべき世の新しい展望、神との新しい交わりがあるのである。神は砂漠の地を水の源とすることがおできになる。神はそうすると約束しておられる。神の恵み深いことばに信頼するがいい。そうすれば、それは今でさえあなたの経験の中で実現するであろう。
私は、神の民がこの聖句をこのように、現世的な事がら、また、霊的な事がらに対する神の約束として用いてほしいと思う。おゝ! あなたがた、荒野にいて、索漠とした水気のない砂を見いだしている人たち。神のもとに行き、その約束を申し立てるがいい。神は、「わたしは〜する」、と云われたし、それを二度云われた。「わたしは〜する」を、あなたの両手でつかむがいい。そして、あなたの請願に対する平安な答えを受けとるまで、恵みの御座を後にしてはならない。「主よ。あなたの約束どおりに行なってください」*[IIサム7:25]。
さて第二に、私はこの聖句を別のしかたで用いようと思う。試練の中を通り抜けつつある神の民のためにではなく、《回心者たちの経験》に当てはまるものとして用いてみたい。神は、話をお聞きの愛する方々。あなたがた、最近回心したばかりの人たちのために、裸の丘に川を開き、平地に泉を湧かせてくださるであろう。あなたの荒野を水のある沢とし、砂漠の地を水の源としてくださるであろう。
主が語りかけておられるこの人々とは誰だろうか? よろしい。彼らは悩んでいて、貧しい人々である。「悩んでいる者や貧しい者が水を求めても」[イザ41:17]。神は霊的に豊かな人々のためには大したことをなさらないであろう。つまり、あなたがた、自分の内側で富んでおり、豊かになった、乏しいものは何もない人たち[黙3:17]。あなたがた、自分で自分の欲する一切の恵みを作り出している人たち。あなたがた、自分自身の腕に頼り、自分自身の善良さにいけにえをささげる人たち。神のうちには、何もあなたに与えるものはない。その恵みは、悩んでいる者や貧しい者のためのものである。今晩この場にはそうした人々が何人かいると思う。彼らは、この場にいる何の権利もないかのように感じている。ほとんど座席の下にもぐり込み、身を隠してしまいたいと感じている。それほど卑しく感じ、それほど砕かれている。愛する方々。あなたのためにこそ神は川を開き、泉を湧かせてくださるのである。
いつ神はそうしてくださるだろうか? 彼らが神に求め始める時である。「悩んでいる者や貧しい者が水を求め」る時である。あなたは、自分で神を求めもしないときに、神があなたを祝福してくださると期待できるだろうか? あなたの願いは、すっかり目を覚ましていなくてはならない。あなたは神を切に慕い求めていなくてはならない。心の中でこう叫んでいなくてはならない。「私は、私の神に立ち返ります。その御手からあわれみを求めます。私が神の子どもになれるよう、神に乞い願います」。そのとき、主は川を開き、泉を湧かせることをお始めになるであろう。
しかし、それがいかなる時かは、さらに言及されている。それは、単に彼らが求め始める時というだけでなく、彼らが沈黙のうちに嘆願し始める時である。この言葉に注意するがいい。「その舌は渇きで干からびるが、わたし、主は、彼らに答える」*[イザ41:17]。しかし、彼らは喋れなかった。彼らの舌は、渇きのためにしなびて、干からびていた。それでも、主は、「わたしは彼らに答える」、と云っておられる。よく回る舌は、祈りが下手である。ある人が心の中で祈るとき、その人はしばしばモーセのようになり、口が重くなる[出4:10]。罪意識の下にある罪人は、ほとんど一言も語ることができない。口は凍りつくが、魂は雪解けとなること、これが私たちの欲することである。というのも、神は、「わたし、主は、彼らに答える」、と云っておられるからである。「私は祈れません」、とある人は云うであろう。あなたが祈れないことを私は嬉しく思う。神は、あなたの舌が干からびている今、あなたに答えてくださるであろう。あなたは階上の自室に行き、十五分ほども、それなりの祈りをささげることを常としていたかもしれない。だが今や、あなたが寝床の傍らに膝まずくとき、そこには切れ切れの呻きと涙しかない。神は今あなたに答えてくださる。あなたの舌が干からびるとき、また、あなたの心が祈り始めるとき、神はあなたに答えてくださる。「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」[詩51:17]。
しかし、ここで言及されている時は、それよりずっと悲嘆に暮れたものである。この人々は絶望的な苦悩の中にあった。こう云い足されている。「悩んでいる者や貧しい者が水を求めても水はなく」。「私の恵みの日は過ぎてしまった」、とある人は云うであろう。一体誰がそんな嘘八百をあなたに告げたのかと思う。あなたが生きている限り、あなたの恵みの日は過ぎてはいない。そうしたことを信じてはならない。というのも、――
「ともしび燃える ことやめぬ間(ま)は、
いかに悪しかる 罪人(もの)も帰りえん」からである。「あゝ、でも!」、とある人は云うであろう。「私はあわれみを探しに行ったのに、何もなかったのです」。そうあなたは考えている。今こそ天来の介入が起こるべき時である。あなたが水を求めてもそれがなかったとき、神はあなたのために川を開いてくださるであろう。あなたも覚えている通り、エリヤのしもべはカルメル山の頂に上り、海の方を眺めたが、預言者のもとに戻ってきて、「何もありません」、と云った。しかしエリヤは云った。「七たびくり返しなさい」。そして、七度目に彼は、「あれ。人の手のひらほどの小さな雲が海から上っています」、と云った[I列18:43-44]。人が、「何もありません」、と云うとき、神がやって来られ、すぐにそこには何もかもがあるようになる。神は無から世界を造られた。そして、新しく造られた者[IIコリ5:17]も無からお造りになる。あなたが無のもとに立ち戻るとき、神がすべてのものへとやって来られる。被造物の最果てが《創造主》の端緒である。私は今晩、この言葉をあなたに非常に穏やかに語っているように思われるかもしれない。だが、私の内側には、深い確信がある。私の思い描く、この場にいるある人々は、自分の経験のどん底に達してしまっている。彼らは絶望している。自分の身の裡に死刑宣告を感じている。今こそ神が介入なさる時である。というのも、いかに本日の聖句が言葉を差し挟んでいるかに注意するがいい。「彼らが水を求めても水はないとき」*、そのとき神は仰せになる。「わたしがそうする。彼らには何もできない。だが、わたしが裸の丘に川を開き、平地に泉を湧かせる」、と。あなたに必要なのは、天来の介入である。あなたに必要なのは、神が天を裂いて降りて来られ[イザ64:1]、あなたをお救いになることである。そして神は、その御子という形ですでに降りて来ておられる。イエス・キリストは、その大いなる、神の介入であり、主が来られたのは、恵みの川を開き、救いの泉を掘るためであった。
この聖句の約束は、また、多種多様な立場にある人々にも関係している。ある人々は裸の丘にいる。あなたは、山々の頂そのものに上りつめてしまっており、神もそこではあなたに達することができないと思い込んでいる。だが、神は仰せになる。「わたしは、裸の丘に川を開く」、と。山の頂上に川があるとは不思議なことである。だが神はそうすることがおできになる。いかに高くあなたが上ってしまっていても、神はあなたに達することがおできになる。あなたがたの中の他の人々は、平地にいる普通の罪人たちである。「よろしい」、と主は仰せになる。「わたしは平地に泉を湧かせよう」。あなたは、丘の頂上にいるときも水を見いだす。それを求めて平地まで降りて来なくても良い。また、もしあなたが平地にいるとしたら、あなたは水を求めて山に上らなくて良い。それは、ただあなたがいる所にやって来るであろう。私はその考えを非常に嬉しく思う。ある人々は、キリストを見いだすためには長い道のりを進まなくてはならないと考えているように思われる。私の云い古しの例話を用いれば、わが国の鉄道会社は、通常、駅を町から半哩ないし二、三哩離れた所に作る。それで、あなたは辻馬車か乗合馬車に乗らなければ、そこに着くことができない。だが、私たちの主イエス・キリストは、罪人がいるそば近くに駅を作られた。いま列車に乗り込むがいい。一等客車があなたの目の前にある。あなたは、切符を手に入れるために半時間も走って行く必要などない。というのも、この路線は「無料」だからである。「いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい」[黙22:17]。それはその人の足元を流れているからである。山の上にいようと平地にいようと関係ない。
しかり。そして、その約束をさらに異なるものとするために、主は云われる。「わたしは荒野を水のある沢とする」。あなたは、荒野を見たことがあるだろうか? 砂と石で覆われた、見渡すばかりの広大な平原である。私は、小規模なものではあったが、そうした荒野を横切ったことがある。そこには何の牧草も、緑もなく、ただ未開の荒涼たる地があるばかりで、何も生えていなかった。水の流れの類は何もなく、水一滴すらどこにもなかった。神はあなたを、そうした不毛の、干からびた土地のようなものであると描き出し、あなたを水のある沢とすると仰せになる。あなたがいかなるものであれ、いかに不毛であれ、いかに無価値であれ、神はその恵みによってあなたを、それとは正反対のものに変容させることがおできになる。そして、「砂漠の地」、長いこと乾いていた土地、そして常に乾いたものであり続けるであろう土地が、「水のある沢」となる。神は、あなたのうちに恵みの泉を作ることがおできになる。それは、たちまち水かさを増し、泡立っては、あなたが永遠の御座に着くまで、決して止まることがない。
一言で云えば、いかなる状況も、神が変えられないほど悪いものではありえないということである。いかなる罪も、神がお赦しになれないほど大きなものではありえない。私たちの人生のいかなる衣も、キリストが白くできないほど汚れたものではありえない。こうしたことをあなたに告げられることを私がいかに嬉しく思っていることか! もしこの場にいるあらゆる罪人がそれを信じて、ありのままの自分でイエスのもとに行き、キリストを信頼して自分にとってのすべてとなっていただくとしたら、いかにいやまして私は幸いになることか! この点について私は、いかに尊いものであっても、今晩はこれ以上詳しく語ることができない。なぜなら私は、もう1つのことを述べることで神の民をかき立てたいからである。
愛する方々。この聖句は《神のために労する人々、あるいは、働き人たち》に関して真実である。
この場で私が語りかけている人々の中には、こう云っている人がいるかもしれない。「私が働いている所は、非常に悪い場所です。私は人々を来させて福音を聞かせることができません。聞こうとする気持ちが全くないように思われます」、と。それは現代においては、大いに真実である。なぜかしら、人々はここにはやって来て、常にここにはやって来る。だが、わが国の多くの教会や会堂を見るがいい。何と、その多くでは、人々よりは空席の方が多く、不滅の魂よりは蜘蛛の方が多くいる! それはみじめな務めである。ある人は私に云う。「お分かりでしょう、先生。私たちは労働者向けの講演会を開きました」。別の人は云う。「私たちは《日曜午後の気さくな集い》を催しました」。別の人は、一組の洋胡弓奏者たちに演奏させておかなくてはならなかった。だが、そうしたすべてにもかかわらず、人々はやって来ない。安っぽい音楽や、日曜演奏会を好む一部の者たちは、そうした手段によって引きつけられるかもしれない。だが、人々はそのようにして神を礼拝するよう引き寄せられるものではない。もちろん、そうである。もし彼らがそうした種類の音楽を欲するとしたら、自分で洋胡弓を弾けるではないだろうか? そうした様式の事がらの中には、人々を礼拝所に来させる何物もない。まさに今、わが国の人々の上には、彼らをかたくなにする何かがのしかかっているように思われる。人々は礼拝所に来ようとしたがらない。しかし、愛する方々。説教をやめてはならない。働きをやめてはならない。あなたがた、魂が救われることを切望している人たち。というのも、神は突如として、ご自分の家に対する愛、福音を聞きたいという熱心さを与えることがおできになるからである。神は砂漠の地を水のある沢とし、裸の丘に川を開くことがおできになる。ただ、すべての教役者は昔ながらの福音を宣べ伝えるがいい。熱心に宣べ伝えるがいい。単純に宣べ伝えるがいい。そうすれば、人々は再び戻って来るであろう。神が彼らを連れて来て聞かせるであろう。神は常にそうしてこられたし、なぜもう一度そうされないことがあるだろうか?
他の人は云うであろう。「私には話を聞こうとする人々がいます。ですが、そこには何の感情もないのです」。よろしい。私も凍りついた泉のような場所で説教することがいかなることか知っている。私がその人々に話をするとき、彼らは大群の彫像のように見える。彼らをかき立てること、感動させることは全くできない。定期的にやって来る聴衆はみな、石になり、無感動になりがちである。だが、おゝ! あなたがた、善を施そうとしている人たち。人々が石になったように見えるからといって、決してやめてはならない。それでも、あなたの働きを続けるがいい。たとい福音の槌がきょうはその岩を砕かないとしても、それが砕かれるまで叩き続けるがいい。昔の聖ポール大寺院が、今の建物を建てるために取り壊されなくてはならなかったとき、クリストファー・レン卿は、何百年も立っていた巨大な城壁をいくつか動かさなくてはならなかった。それで彼は破城槌と、おびただしい数の人々を繰り出し、その城壁を破壊するため懸命に働かせた。確か彼らは二十四時間立て続けにそうしたが、そこには崩れようとする何の徴候もなかった。その城壁はそれほど堅固に建てられており、私たちの現代の壁とは全く別物だったのである。その構造物は、岩のようであり、動かせなかった。だが、その破城槌は打ちつけ、打ちつけ、打ちつけ続け、叩いては叩き、殴っては殴って、とうとう、その塊全体が豆腐のように震え始めた。ほどなくして、その巨大な城壁は倒壊していった。あなたは、十分長く行ない続けるだけで良いのである。そうすれば、同じことがあなたの働きにおいても起こるであろう。その城壁に対して最初に打ちつけた何回かの打撃は、無駄になったのではない。それらは、他の打撃の備えをしていたのであり、その構造物全体が崩壊する状況を至らせつつあったのである。そして、それがなされたとき、それは倒れた。そして、それはひどい倒れ方であった[マタ7:27]。:懸命に働くがいい。兄弟たち。懸命に働くがいい。神が裸の丘に川を開き、平地に泉を湧かせることを確実に感じながら、そうするがいい。神は荒野を水のある沢とし、砂漠の地を水の源としてくださるであろう。
「よろしい」、とある人は云うであろう。「私たちの場所で必要なのは、牧会活動そのものが供されることなのです」。しかり。それこそ、私たちが至る所で必要としていることである。もし教役者自身が乾いているとしたら、何がなされるべきだろうか? 彼に難癖をつけて、彼のもとを去るべきだろうか? 否。愛する方々。もしその人が神の人だとしたら、その人のために祈り、主が砂漠の地を水のある沢としてくださるまで決して休まないようにするがいい。私たち、あわれな定命の者で、神が説教者となるよう召してくださった者たちは、絶望的に自分の会衆たちに依存している。私も、私たちがまず第一にあなたがたにより頼んでいるとは云わない。私たちが何にもまして依存すべきは神である。だが、祈りと愛に満ちた、熱心で、目を覚ましている信徒たちは、教役者の目を覚ましておくものである。そして、信徒たちが減少し、彼らの中にいのちがなくなっていくとき、時として説教者たちの方も乾いていくことがある。私は、マシュー・ウィルクス氏が説教者たちを洋筆にたとえたとき、こう云ったのを覚えている。彼らの中の何人かは、ボタボタと撥ね水をとばすが、他の者たちは全く何の痕跡も残さない。「そうした者らをどうすべきだろうか?」、と彼は云い、自分で自分の問いにこう答えた。「彼らが墨に浸されるよう主に祈るがいい」。私たちは、あらゆる洋筆が神によってもう一度、墨に浸されるよう祈らなくてはならないと思う。おゝ、またしても聖霊のバプテスマがあり、より大きな天来の力が彼らに着せかけられるとしたら、どんなに良いことか! そのとき私たちが語り出せば、神は裸の丘に川を開き、荒野を水のある沢としてくださるであろう。
しかし、やはり必要とされているのは、助け手たちの上にも同じ祝福が下ることである。もし助け手たちが半分眠っているとしたら、説教者は何をすべきだろうか? 教会は何をすべきだろうか? きっちりと規則正しく、だが何の霊性もなしに自分の義務をこなしている《日曜学校》教師たち。日曜版の新聞を配って歩くのと同じようなしかたで小冊子を配布している人たち。――なぜなら、彼らには、人々の魂に対する何の愛もないからである!―― 何のいのちも霊的な力も持たない執事たちや教会役員たちがあちこちを歩き回る結果は何だろうか? 私はある場所で説教していた時のことを良く覚えている。そこは、霊的にはすさまじく死んでいる場所だと告げられていた。私は精一杯説教した。そして、後で講壇から降りてくると、二人の執事が牧師室の戸の外に腕組みをして立っていた。だらけきった様子で、扉によりかかっていた。私が彼らに、あなたがたが執事かと尋ねたところ、彼らは、「そうです」、と答えた。それで、私は云った。「ここで教会をしていても何にもならないようですな」。彼らは、「ええ、全く」、と答えた。私は云った。「私は、その原因が分かると思いますよ」。「原因がお分かりになるですと?」、と彼らは尋ねた。「ええ」、と私は答えた。「右の方を見ても、左の方を見ても、その原因が見えますな」。私は、この兄弟たちが私の評言を好んだとは思わない。だが、それと同時に、それが彼らの心に深々と突き刺さった矢であったことを知っている。というのも、彼らはそれ以後、非常に異なる人となり、神がその場所を祝福されたからである。ある教会に、ひとり眠たげなキリスト者がいるだけで、大きな危害がもたらされる。ある種の仕事においては、ひとりの人が眠り込むだけで、物事全体のあらゆる仕組みが齟齬を来たすような仕掛けになっている。そして、私の信ずるところ、それは神の教会においても大きく当てはまることである。あなたは、たくさんの男たちが長い列を作って、順繰りに煉瓦を放り投げているところを見たことがあるであろう。かりに彼らのひとりが眠り込んだとしたらどうなるだろうか? 彼の回りには途方もない量の煉瓦が積み上がるであろう。だが、その一個たりとも列の最後まで行き着かないであろう。私たちの間でも、ひとりの教会員が眠り込んでいることがある。私は、五、六個の煉瓦を彼に投げつけてやりたくなる。だが、そうしてはならないと思う。彼が働きの全体を止めているとしても関係ない。彼が眠っているせいで、何の善も施されていない。ある人は、「私はその兄弟を知ってますよ」、と云うであろう。それは誰だろうか? 彼を突っついてもかまわないだろうか? あなたの腕をこう曲げて、[自分で自分を叩いている様子をしながら]彼をそっと突っつくがいい。そのとき、あなたは正しい人を打つことになるであろう。私は何も驚くまい。もしあなたが目を覚ますとしたら、ことによると、それは教会内で最も眠たげな人々のひとりの目を覚まさせることになるかもしれない。いずれにせよ、こうした事がらは誰か他人に回すよりも、自分自身に突きつけた方が常に良いものである。他人になり代わって説教を聞くのは決して良くない。聖書の訓令はこうである。「自分自身に……よく気をつけなさい」[Iテモ4:16]。
私は切に願うが、この教会の全会員が、もしその誰かが砂漠の地のようになっている場合、水のある沢となるように。そのとき、私たちは、全会衆に通ずる1つの変化を探し求めて良いであろう。人々は叫び声を上げるであろう。「救われるためには、何をしなければなりませんか?」[使16:30] そこには、魂について話してやる必要のある、たくさんの人々がいることであろう。私たちは、非常に多くの人々が救われることになるため、毎月毎月、教会を拡大することに困難を覚えることになるであろう。それから、近隣の地域全体が変革されるであろう。神が恵みの生きた泉を湧き上がらせておられる生きた教会は、すぐにそれが位置している砂漠を、全く異なる地域に変えることであろう。私たちの中の誰かが住んでいる、あらゆる近所には恵みに満ちた働きが必要である。そして、そうした働きの大きな必要が、この地域を取り巻いている。かつては、その逆だったものだが! そして、ロンドンのいかなる部分を見ても、キリスト者が血の涙を流さずに済むような所がどこにあるだろうか? あなたは、この大きな町を通り過ぎながら、その常に増し加わりつつある罪や、その減少しつつある神への恐れを理由に、心悩まされ、愕然とさせられずに済む者があるだろうか? おゝ、愛する方々。こうした事がらは、今のまま済ませてはならない。大いなる、あわれみの神によって今すぐ何か善良で偉大なことがなされない限り、何か悪い事がらがそこから出てくるであろう。私的にも公にも、神に叫び求めよう。その恵みの御腕を延ばしてくださるように懇願しよう。そして、私たちの祈りとともに、大いに努力し、各人が他の人をキリストに導こうとし、こうした時が来るまで決して休眠しないようにしよう。――
「選びの種族(たみ)みな
御座かこみ、会わん、
主の御恵みの わざたたえ、
み栄えたかく 告げ知らせん」。神があなたがた全員を祝福し給わんことを。キリストのゆえに! アーメン。
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イザヤ41章における2つの「わたしは〜する」[了]
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