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無力と全能

NO. 2269

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1892年8月14日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1890年2月16日、主日夜


「そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。『よくなりたいか。』病人は答えた。『主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。』イエスは彼に言われた。『起きて、床を取り上げて歩きなさい。』すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した」。――ヨハ5:5-9


 この男は、他の多くの者らとともに、この池を囲んで伏せっていた。御使いによって水がかき回されたとき、最初にその中に入れてもらうことができれば、癒されるだろうと望んでのことであった。そこで彼は長いこと待っていた。待っていたが、何の甲斐もなかった。なぜ彼は待っていたのだろうか? イエスがそこにおられなかったからである。イエスがおられない所では、人は待たなくてはならない。御使いと池しかない場合、あなたは待たなくてはならない。また、ひとりが祝福を受けても、多くの者は何の祝福も受け取れないかもしれない。しかし、イエスが来られたとき、そこには待つ必要がなかった。主は病んだ人々の間に歩き入ると、この男を見つけ出し、自分の寝床を取り上げ、歩いて家へ帰れとお命じになった。すると、彼はたちまち癒されたのである。

 さて、私はこの男が待っていたことをほめたいと思う。その忍耐と不屈さは感心なものである。だが、どうかあなたがこの男と同じ状況にあるとは思わないでほしい。彼が待ったのは、イエスがそこにおられなかったからである。あなたが待つことはない。待っていてはならない。今あなたに告げた通り、イエスはここにおられるからである。この男には待つ必要があった。先に述べたように、そこには御使いと池はあったが、それ以外に何もなかった。だがキリストがおられる所では、待っているべきではない。そして、今晩キリストを仰ぎ見る魂は救われる。たとい地の果て[イザ45:22]から仰ぎ見ようと関係ない。あなたは、いま仰ぎ見て良い。否、仰ぎ見るよう命令されている。「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です」[IIコリ6:2]。「御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない」[ヘブ3:15]。会衆席で、あるいは、向こう側の通路で、もしあなたが信仰によってイエスに――《いと高き方》の御座に着いておられる《生けるお方》に――目を向けるなら、あなたはたちまち治される。待っていることは、ベテスダの池では申し分なく良いことである。だが、私が耳にしたことがあるような、一部の人の云い回し、バプテスマの池の前で待っていることは、聖書にかなってはいない。そこで待つことなどどこにも記されていない。むしろ、こう記されているのである。「主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、あなたも救われます」*[使16:31 <英欽定訳>]。

 しかしながら、倦み疲れるほど待ってきたある人々、また、意気阻喪し失意に陥るまで種々の手段をたゆまず用いてきたある人々を助けるために、私たちはこの、ベテスダの池の無力な男の場合を眺めてみよう。

 I. この件について第一に注意したいのは、《救い主は、この病人の状況をご存知だった》ということである。

 私がこのことに言及するのは、ただ、《救い主》があなたの状況をご存知であると云いたいためだけである。イエスは彼が伏せっているのを見た。《救い主》がその御目をおとめになる対象は非常に多い。だが、主はこの男を、長いこと寝たきりの、三十八年もの間、無力であった男を見つめられた。それと同じく、イエスはあなたの一切の状況をご存知である。主は、今晩あなたがいる所で、あなたが無力なまま、望みなく、光なく、信仰もなしに伏せっているのをご覧になっている。主はあなたを見ておられる。私はあなたがこのことを真実であると感じてほしい。主は、あなたがどこに座っていようと、この群衆のただ中からあなたを抜き出される。主の目は頭の天辺から爪先まで、あなたを穴の開くほど見つめておられる。否、主は外側と同じように内側も眺めており、あなたの心の中にすべてを読んでおられる。

 池のそばにいたこの男に関して、イエスは、彼が長いことそうした状況にあったことをご存知だった。主は、あなたが待っていた年月を知っておられる。あなたは、母上に連れられて神の家に来たときのことを覚えている。思い起こせば、少年の頃には、いくつもの説教を聞いては、はっと驚かされたように感じた。そして家に帰り、自分の小さな寝室で神に向かってあわれみを叫び求めたものだった。だがあなたは、自分が受けた感銘を忘れてしまった。それは朝もやのようで、昇る朝日とともに消え去ってしまった。あなたはロンドンに上京し、一人前の男になったが、天来の事がらについては無頓着になった。先に受けた感銘はすっかり振り捨ててしまった。それでも、あなたはみことばが宣べ伝えられるのを聞きに来て、しばしば自分も祝福を受けられないかと半ば希望した。あなたはみことばを聞いたが、信仰はあなたが聞いたことと混ぜ合わされることなく、あなたは祝福を取り逃がした。それでも、あなたは常に、自分のもとに祝福が来るように願ってはいた。あなたは決して敬虔な人々を、あるいは、キリストのみこころのことを軽蔑できなかった。それらを自分のものとすることはできなかった。少なくとも、できないと思っていた。だが、あなたには常に、自分も神の民とともに数えられたいという断ちがたい未練があった。さて、主イエスはそうしたすべてのことを知っておられる。あなたが、みことばをただ聞くだけの者[ヤコ1:22]で、実行する人ではなかった長い年月のこと、また、時には感銘も受けるが、自分のより良い感情に背き、無頓着な生き方に戻って行った歳月のことを知っておられる。私の主はあなたについてすべてを知っておられる。私はあなたをこの会衆の中から抜き出せない。だが、思い出すがいい。私が今晩説教している間に、奇蹟が起こるであろう。人々の性質そのものを変えるような過程が、この建物の中で進行するであろう。というのも、キリストが宣べ伝えられ、その福音がはっきりと述べられ、祈り深い真剣さをもってそのことがなされるとき、それは無駄には終わらないからである。神がそれを祝福してくださるであろう。神は今晩、誰かを祝福してくださるであろう。その誰かが誰か、あるいは、その誰かが何百人いることになるかは、私には見当もつかない。だが、神はご自分のみことばを祝福してくださるであろうし、なぜ神があなたを祝福してくださらないことがあろうか? 神は、あなたがいかなる者で、どこにいるか、そして、何をしているかをはっりきご覧になっている。

 これに加えて、私たちの主は、このあわれな男の数々の失望をみなご存知だった。何度となく彼は、池のへりに最初に到達としようと苦闘し、幸いにも飛び込めるかと思った鼻先を、別の誰かが彼より先に池に入り、彼の希望は失われてきたのだった。別の者は、癒されて自分で上がってきた。それで彼は、重い吐息をつきながら自分の寝椅子に戻り、次に御使いが水をかき回すまでには長いことかかるだろうと感じた。そうなってさえ、彼は再び失望することだろう。彼は、自分が一切の希望を失ってしまった数多くの折を思い起こした。そして、ほとんど絶望しきって、そこに伏せっていた。さて、私には、この場にいる誰かが今晩こう云っているような気がする。「私の兄弟は主を見いだした。私とともにここに来た友人は主を見いだした。私の老母も栄光を受けるという確実な希望をいだいて死んだ。私にはキリストのもとに導かれた友人たちがいる。だが、私は今なおキリストから離れて生きている。特別礼拝があるとき、私は自分が特別に祝福されたかもしれないと思う。私は祈祷会に通ってきた。密室で自分の聖書を読んできた。そして、時にはこう希望することもあった。――ほんの小さな希望だが、それでも希望は希望だ。――『おそらく、そのうちに私も癒されるだろう』、と」。しかり。愛する方々。そして、私の主はこうしたすべてをご存知であり、あなたが今晩感じているあらゆる悲嘆に同情してくださる。口にされたこともないあなたの願いを聞いており、癒されたいというあなたの切望を知っておられる。

 さて、第二に、《救い主は、この男の願いを目覚めさせられた》。主は彼に云われた。「よくなりたいか?」 そこに彼は伏せっていた。私は、そうした、池のそばで伏せっていることについて説明するつもりはないが、それと同様の状態でこの場にいるあなたに、それをただ適用することにしよう。

 あなたがなぜこの場にいるか忘れないよう用心するがいい。神の家にやって来ながら、なぜやって来たか分からずにいることがないように用心するがいい。このことは私が何年も前に云ったことである。あなたは、救いを見いだそうという希望をもって礼拝所に来た。よろしい。あなたは出席し続けたが、まだ救いを見いだしていない。だが、あなたは今それを探しているだろうか? あなたは席に着き、説教や、祈りや、何やかやを聞くのが癖になっていないだろうか? あなたが出入りするのは、単に礼拝所に出席するためだけでしかない。《救い主》は、無力な男が、池のそばにいるからといって自己満足して伏せっているままにしておこうとはなさらない。しかり、しかり。主は彼に云われた。「あなたは、なぜここにいるのか? あなたには何か願いはないのか? 良くなることを望んでいるのか?」 話をお聞きの愛する方々。私は、あなたがこの問いに対して、「はい」、と云えることを望む。あなたが今晩ここにやって来たのは、あなたの罪が赦されるため、また、あなたの魂が天来の恵みによって更新されるため、また、あなたがキリストにお会いするためだろうか? だとしたら、その点から外れないでほしい。そして、やって来ては席につき、ただやって来て、やって来て、やって来て、やって来るという、そこの扉のようにはならないでほしい。蝶番で開いては閉じ、開いては閉じしても、これっぽっちも良くならない扉のようには。おゝ、単に宗教的な癖をつけるだけであってはならない! それは、あなたにとって儀式主義的な癖となるであろう。その儀式が、いかに単純であっても関係ない。あなたは、やって来ては出て行く。それで満足している。これは全く役に立たない。キリストはあなたの願いをかき立てようとして仰せになる。「よくなりたいか?」

 また、自棄的な無関心さを避けるがいい。私は、私の話を相当長いこと聞いていた、男二人と女ひとりの兄妹たちのことを覚えている。彼らは、非常な魂の苦悩の中にあったが、それと同時に、自分たちにはキリストを信じられないのだ、だから待たなくてはならないのだという考えをいだいていた。なぜそんな考え方になったのかほとんど分からないが、彼らは、全く年寄りになるまで待ち続けた。道徳的にこれほど善良な人々はいなかった。また、自分の聞くことに関心を寄せるという点では、これほど真面目な聞き手はいなかった。だが、彼らは決してそれ以上先に進まないように思われた。とうとう彼らは、このような状態に至った。彼らは、あたかもこう感じているかのようであった。それがなるものだとしたら、それはなるだろうし、ならないものなら、ならないだろう。だから自分たちにできることは、せいぜい、じっと黙って座り、静かに、辛抱強くしていることだけだ、と。永遠に失われるかもしれないという懸念の下で辛抱強くしている? 何と、私は、死刑囚独房の中にいる人間が、自分の絞首台の組み立てられる音を聞きながら、幸せで、辛抱強くしているとは思わない! 彼は懸念を感ずるに違いない。落ち着かなくなるに違いない。私は、あらゆる手を尽くして、この友人たちを落ち着かせようとした。だが、残念ながら、私の努力はほとんど何の結果も生じさせなかったのではないかと思う。《救い主》はこの男に云われた。「よくなりたいか? あなたは、自分が良くなろうがなるまいがどうでも良いといった無関心な様子に見える」。これほど悪い状態は見つからない。これは、扱うのが非常に困難である。願わくは神があなたを陰気な無関心から救ってくださるように。あなたが何らかの未知の運命にまかせて、破滅に漂い流れるままになっているような状態から!

 私は切に願う。あなたには、意志を起こす義務があることを思い出すがいい。キリストはこの男に云われた。「よくなりたいか? あなたは自分を良くすることはできない。だが、良くなりたいという意志を起こし、それを願うことはできる」。神の聖霊は、あなたがたの中の多くの人々に、そのみこころに従って、志を立てさせ、事を行なわせて[ピリ2:13]くださった。あなたは決して、あなたの意志に反して救われることはない。神はいかなる人をも、その襟首をつかんで天国まで引きずっては行かれない。あなたのうちには、神の主権的な恵みのみわざに進んで同意する思いがなくてはならない。そして、もしそれがあるとしたら、私はあなたに、今晩それを行使してほしいと思う。キリストがこの男にそれを行使するよう願われたのと同じように。「よくなりたいか? あなたには、そうなりたい願いが少しでもあるか? 癒されたいという願いや切望が少しでもあるか?」 私は、その火をかき立て、それを燃やしたいと思う。そして、もしそこに火花1つでも願いがあるとしたら、それに息を吹きかけ、聖霊がその上に吹いて、大きな炎としてくださるように祈る。パウロはこう云った。「私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがない」[ロマ7:18]。私の信ずるところ、この場には、救われたいと願っている人々が何人かいる。そのことゆえに、神に感謝すべきかな!

 「よくなりたいか?」 《救い主》がこの質問を発された理由はもう1つあると思う。それを私は1つの勧告にしてみよう。自分の救われ方について、一切の処方箋を捨て去るがいい。この問いは、「あなたは、あの池に入れられたいか?」、ではなく、「よくなりたいか?」、であった。あなたは、進んで神のしかた、キリストのしかたで救われようという気持ちになっているだろうか? ある人は云うであろう。「私は夢を見たいのです」。愛する魂よ。いかなる夢を求めてもならない。それは夢にすぎない。別の人は云うであろう。「私は幻を見たいのです」。愛する友よ。救いの計画の中には、幻を見ることについては何も定めがない。「私は声を聞きたいのです」、と云う人もいよう。よろしい。ならば、私の声を聞くがいい。そうすれば、聖霊なる神があなたに、そのみことばの御声を聞かせてくださるかもしれない、私を通して! 「しかし、私が求めているのは」――おゝ! しかり。あなたは求めている。あなたは自分が何を求めているか知らないのである。愚かな子どもが一時の気まぐれや、空想や、思いつきや、願いをいだくのと同じである。おゝ、あらゆる人々が、信じて生きるという単純な計画によって救われることを願うとしたらどんなに良いことか! もしこれが神の道だとしたら、あなたは何者だからというので、自分のために神が新しい道を作るべきだというのか? 少し前に、ある友人に対して私が救いの道を云い表わしたとき、彼女は私に向き直って、こう云った。「おゝ、先生。私のために祈ってください!」 「いいえ」、と私は云った。「あなたのために祈ることはいたしませんよ」。「おゝ! でも」、と彼女は云った。「どうして、そんなことを仰るんです?」 私は答えた。「私はあなたの前に十字架につけられたキリストをはっきり示しました。そして、キリストを信ずるようにあなたに願うのです。もしあなたがキリストを信じようとしなければ、あなたは失われることでしょう。そして、私は私は神があなたのために何か別の救いの道を作ってくださるよう祈りはしません。あなたは、もしキリストを信じようとしなければ、失われて当然です」。私はそう彼女に云い、後で彼女が、「おゝ、今は私にも分かりました! 私はキリストを仰ぎ見て、キリストに信頼します」、と云ったとき、私は云った。「今は私はあなたのためにお祈りしましょう。今は私たちはともに祈り、ともに歌うことができるでしょう。その必要があれば」。しかし、愛する方々。自分がいかにして回心すべきかに関して、自分勝手な考えを打ち立ててはならない。あなたは、同じしかたで回心した二人の人を見いだせるだろうか? 神が回心者たちをお作りになるしかたは、人間が鉄筆を大量生産し、百個一箱の中のものがみな同じように見えるようなやり方とは違う。否、否。むしろ、それぞれの場合において、そこには生きた人が創造され、そしてあらゆる生きた人、あらゆる生きた動物、あらゆる生きた植物は、同じ種類の他のものとはどこかしら違うものなのである。そして、神聖のみわざにおいても、あなたは画一性を探し求めてはならない。「よくなりたいか?」 さあ、あなたは罪の赦しを願っているだろうか? 新しい心と、ゆるがない霊を切望しているだろうか? だとしたら、それがいかに得られるかについて異論を唱えるのはやめて、キリストがあなたに行なうよう告げておられることを行なうがいい。

 「よくなりたいか?」 これは、あたかも《救い主》がこう云われたかのようである。「今は、これまで以上に真剣になるがいい。わたしは、あなたが良くなりたいと思っていることを知っている。よろしい。では、今晩、あなたがこれまで願っていた以上にそれを願うがいい」。あなたが有している意志を行使するがいい。それに力を込めるがいい。あなたは真剣に救われたいと思っている。今晩、もっと真剣になるがいい。確かにあなたにはキリストを見いだしたいという願いがある。よろしい。今晩は、あなたが自分の生涯の中でこれまでしてきた以上にキリストを見いだしたいと願うがいい。あなたは、あなたの人生の重要な切所に至っている。あなたは死の間際にあるのかもしれない。そうでないと、どうして分かろう? 最近、いかに多くの人々が突然死したことか! もしあなたが良くなりたければ、今晩良くなってほしい。私は切に願う。あなたが何か押し迫るものを感じ、あなたの長い遅延を終わらせるような何か、あなたにこう感じさせるような何かを感じることを。「私には、もはや無駄にできる時間はないのだ。のらくらしている暇はないのだ。私は今晩救われなくてはならない。恵みの大広間に立っている、神の大時計のかすかなチクタク云う音を聞かなくてはならない。それは、常に『今、今、今、今、今』と云っており、それ以外の音を立てていないのだ」。おゝ! 願わくは主が、その無代価の恵みによって、そうならせてくださるように!

 このようにして、見ての通り、《救い主》は、池のそばにいたこの男の願いを目覚めさせられた。第一に、主は彼の状況をご存知であった。次に、彼の願いを目覚めさせてくださった。

 さて、第三に、《救い主は、この男の苦情をお聞きになった》。これが彼の云ったことである。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです」。

 こうした人々の何人かは、親切な友人たちに恵まれていた。回り持ちで見張りを行ない、水がかき回された瞬間に、自分たちの患者を持ち上げ、彼を水につけてやったのである。この男は、友人たちをみな失っていた。三十八年も病んでいるうちに、友人たちはひとり減り、二人減りして、誰ひとりいなくなってしまっていた。そこで彼は云った。「私には、池の中に私を入れてくれる人がいません。いかにして池になど入れましょう?」 それと同じく、数多くの人々はこうした状況にある。彼らは助けを求めている。私は、マントンにいたとき、何人かの友人たちをキリストに導くという喜びを得た。だが私が彼らと離れてロンドンに戻らなくてはならなかったとき、彼らは口々に私に云った。「先生。あなたなしで、私たちに何ができるでしょうか? 私たちには、もう正しい道に導いてくれる人が誰もいなくなります。誰も私たちを教えたり、私たちの反論に答えたり、私たちの疑いを解消したり、私たちの心の不安を聞いたりしてくれる人がいなくなってしまいます」。

 あなたがたの中のある人々がそのようなことを云うのも無理はないし、私も、助け手がひとりもいないのは深刻な事態であると認めなくてはならない。こうした事がらにおいて、誰からも助けてもらえないというのは、大きな痛手である。時として、もしもある友人が説教の後でやって来て、一言親切な言葉をかけてくれるとしたら、それは説教そのものよりも大きな善を施すことであろう。多くの悩める人々は、長いこと牢獄の中にいたが、もし何らかの親切な友人がその兄弟に、天来の約束を思い出させていたとしたら、もっと早くに解放されていたはずである。そうした約束は鍵のように働き、牢獄の戸を開くのである。私も、熱心なキリスト者の友がいることは大きな助けであるという点であなたに同意する。そうした人は、あなたが困難に遭うとき乗り越えさせ、あなたが自分ひとりでは行くことのできない水辺へと、あなたをかかえ下ろし、あなたを池につけてくれるからである。確かに、あなたがそうした友をひとりも有していないとしたら、それは確かに大きな損失である。そして、あなたは非常に気の毒な人である。あなたは村に住んでいて、そこでは誰ひとり霊的な事がらについてあなたに話をしてはくれない。あるいは、あなたが集っている教会では、あなたは養われない。あなたには、誰も慰めてくれる人がいない。結局において、罪人たちがキリストのもとに行こうとするとき本当に助けとなる人はあまり多くない。そうしようとする一部の人々はあまりにも賢すぎ、別の人々はあまりにも薄情すぎる。恵みの学び舎で特別に訓練を受けない限り、本当に助けになるようなしかたで他の人々に同情するすべを学ぶことはできない。私は、ここである人がこう云っているような気がする。「私には、話をすることのできる母がいません。家族の中にキリスト者は誰もいません。助けを求めに行ける人が誰もいません。だから私は、今の自分がいる所で行き詰まっているのです」。

 よろしい。助け手には非常に大きな価値がである。だが、私は云いたい。助け手には、あなたが考えているほどの価値はない。私の知っているある人々は、主を求めている間、おびただしい数のキリスト者の助け手たちがいたが、その誰ひとりとして本当には彼らの助けにはならなかった。もしあなたが地上の助け手たちに頼り、彼らが不可欠だと思うとしたら、神は彼らの努力を祝福されず、彼らはあなたにとって何の役にも立たなくなるであろう。残念ながら、多くの求道者は、善良で真面目なキリスト者たちに対してすら、ヨブが友人たちに云ったことを云わざるをえないではないかと思う。「あなたがたはみな、煩わしい慰め手だ」[ヨブ16:2]。結局、人があなたの魂の問題においてどれほど大きな助けができるだろうか? いかなる人も、あなたに信仰を与えたり、赦罪を与えたりすることはできない。いかなる人も、あなたに霊的ないのちを与えたり、霊的な光すら与えることはできない。たといあなたを助ける人がひとりもいなくとも、覚えておくがいい。あなたは、人間を重大視しすぎて、キリスト者の助け手に頼りを置きすぎることがありえるということを。どうかこのことを思い起こしてほしい。残念ながら、一部の信仰告白者たちは、少し助けを受けすぎたのではないかと思う。彼らはある説教を聞き、それによって本当に感銘を受けた。すると、ある者が愚かにも彼らに向かってこう云うのである。「それが回心ですよ」。それは決して回心などでは全くなかった。その友人はさらに云った。「さあ、前に進み出なさい。そして、信仰告白をなさい」。それで彼らは前に進み出て、自分がまるで持ってもいない信仰を告白した。それから、ひとりの友人が云った。「さあ、これこれの集会に来なさい。教会に加わりなさい。さあ早く早く」。それで彼らは導かれ、導かれ、導かれていったが、その間、真の内的ないのち、あるいは、上から与えられる霊的な精力を全く有していなかったのである。彼らは単に、歩行器をつけた幼児のようなもので、ひとりで歩くことができない。願わくは神があなたを、他人頼みの信仰から救ってくださるように! ある人々が持っているのは、一種の差し掛け信仰で、誰か他の人によりかかっているのである。支えが取り外されるとき、差し掛け小屋には何が起こるだろうか? 長年ずっとあなたを助けてくれた善良な老婦人が死んでしまう。そのとき、あなたの信仰はどこにあるだろうか? 教役者がこれまでのあなたを進めさせてくれていた。あなたは鞭打ち独楽のようであり、その教役者はあなたを回転させ続ける鞭のようであった。彼がいなくなるとき、あなたはどこにいるだろうか? そうした種類の信仰は決して持たないようにしてほしい。助け手は非常に価値があるが、覚えておくがいい。状況によっては、キリスト者の助け手でさえ妨げとなりえるのである。

 さて、話をお聞きの愛する方々。詰まるところ、こういうわけである。あなたは今晩、イエスを相手にしなくてはならない。そして、イエスを相手にするとき、あなたには「いかなる人も」必要ない。あなたが相手にしなくてはならないのは、いかなる池でも御使いでもない。あなたは主イエスご自身を相手にしなくてはならない。かりに、あなたを助けてくれる人が誰もいないとしよう。だが、イエスがここにおられるとき、あなたに誰が必要だろうか? 人は、あなたを池に入れるためには必要だが、あなたをキリストに紹介するためには必要ない。あなたは自分でキリストに話しかけて良い。自分で自分の罪を告白して良い。何の司祭も必要ない。あなたの魂と神との間にはひとりの《仲保者》が必要だが、あなたの魂とイエスとの間には、いかなる仲介者も必要ない。あなたは、今いる所で、また、今のあなたのままで主のもとに行って良い。いま主のもとに来るがいい。あなたの状況をお告げするがいい。主にあわれみを懇願するがいい。主は私の助けを必要とされない。カンタベリー大主教の助けを必要とされない。いかなる人の助けも必要とされない。主だけが、あなたの状況に対処できる。ただ、あなたの状況を主の御手にゆだねるがいい。そして、そのとき、あなたにいかなる助け手もいなかったとしても、あなたは突っ伏して、そのことを思い悩む必要はない。というのも、主は、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになるからである[ヘブ7:25]。

 さて、これはみな非常に平明な話である。だが、私たちが最近必要としているのは平明な話である。私は、人々をキリストのもとに導こうと努めない限り、日曜日に説教した気がしない。多くの高貴で崇高な教理を私は語りたいと思うし、多くの深淵で陶酔するような経験を描写したいとは思う。だが、私はしばしばそうした事がらを放り出し、ずっと平凡な事がらから離れないようにしなくてはならないのを感じる。それは平凡な、だが、キリストに代わって人々を説得し、彼らが人から目を離し、種々の儀式から目を離し、自己から目を離し、イエスご自身を明確に、直接に相手にするようにさせるために、ずっと役立つ事がらである。というのも、そこにはいかなる人の必要もなく、確かに引き伸ばすべき何の必要もないだろうからである。

 これが、私のしめくくりの点である。《救い主は、この男の状況に完全に対処された》

 この無力な男には、助けとなる人が誰もいなかった。だがキリストは、誰がいなくとも、彼をお救いになることができた。この男は、非常な苦痛を感じなくては動くことができない。這わなくては水辺に行けない。だが、そこでは全く這う必要がない。一吋も動く必要がない。その男を癒す力は、そこに立っておられたキリストのうちにあった。罪人たちを救い、助けなき者を助けるべく神からの任命を受けていたキリストのうちに。どうか思い起こしてほしい。救う力は、そして、その力のすべては、救われた人のうちにはなく、お救いになるキリストのうちにあるということを。云わせてもらえば、救いとは進化である、と云う人々を私は否定したい。人間の罪深い心の中から進化しうるものは、みな罪であり、罪以外の何物でもない。救いは、イエス・キリストによって神が無代価で与えてくださる贈り物であり、その働きは超自然的なものである。それは、主ご自身によってなされる。また、主にはそうする力がある。その罪人がいかに弱く、否、罪の中でいかに死んでいようと関係ない。神の生きた子どもとして私は今晩こう云うことができる。――

   「わがいのち ならぬいのちに、
    また、わが死には あらぬ死にこそ、
    われは賭(か)けたり、永久(とわ)のすべてを」。

あなたがた、救われたいと思う人たちも同じことをしなくてはならない。あなたは、自己から目を引き離し、神が人の子らの《君主》また《救い主》として高く上げられたお方を、真っ直ぐに仰ぎ見なくてはならない。そのキリストは、この男の状況に対処された。というのも、主は彼に必要だったいかなることも、彼のために行なうことがおできになったからである。主はあなたの状況に対処してくださる。話をお聞きの愛する方々。主は必要なことを何でもあなたのために行なうことがおできになるからである。地上と天国の門との間で求められるいかなることであれ、主に与えられないものはなく、必要ないかなる助けも、主が喜んで差し出そうとなさらないものはないからである。というのも、主は、天と地における一切の権威をお持ちだからである[マタ28:18]。

 次に、主は、あなたが主に願い求める以上のことをあなたのために行なうことがおできになる。このあわれな男は、キリストに何1つ願い事をしなかった。ただ、目を上げて、池のそばに伏せっていただけであった。たといあなたが今晩、祈れないかのように感じているとしても、たといあなたに、言葉にならない必要があるとしても、たとい何かが必要なのにそれが何かをあなたが分からなくとも、キリストはそれをあなたに与えることがおできになる。あなたは、自分が何を必要としているか、それを得るときに分かるであろう。だが、ことによると今は、そのあわれみによって主は、あなたの必要すべてをあなたに知らせることはなさらないかもしれない。しかし、肝腎な点は、主が「私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方」[エペ3:20]だということである。願わくは主がそれをあなたのうちで今晩行なってくださるように! この無力な男の治癒から慰めを得、希望をいだき、こう云うがいい。「なぜ主が私を癒さないわけがあろうか?」、と。

 さて、キリストがお働きになるしかたは、非常に特異なものである。主は1つの命令によって働かれた。それは、あなたや私が選択したであろうしかたではない。また、一部の名ばかりのキリスト者たちが賛成するしかたでもない。主はこの男に向かって、「起きよ」、と云われたのである。彼は起きあがることなどできない男だった。「床を取り上げよ」。彼は床を取り上げることなどできない男だった。「床を取り上げて歩け」。歩く? 彼は歩けない男だった。私は何人かの反対者がこう云うのが聞こえるような気がする。「あの説教者は人々に向かって、『信ぜよ』、と云う。彼らは信じられないのだ。彼は彼らに、『悔い改めよ』、と云う。彼らは悔い改められないのだ」。あゝ! よろしい。私たちの主が私たちの模範である。そして、主はこの男に――起き上がることも、床を取り上げることも、歩くこともできない男に――こう云われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい」。これが、ご自身の天来の力を行使する主のしかたであった。そして、それこそ、キリストが今日、人々をお救いになるしかたである。主は私たちにこう云うに足るだけの信仰を与えてくださる。「干からびた骨よ。主のことばを聞け」[エゼ37:4]。それらは聞くことなどできない。「神である主はこう仰せられる。干からびた骨よ。生きよ!」*[エゼ37:5]。それらは生きることなどできない。だが、それらは現実に聞き、現実に生きる。そして、私たちが信仰によって行動し、一見すると馬鹿げた、筋の通らないものと見える命令を発している間に、キリストのみわざはその命令によって行なわれるのである。主は、太古に闇の中でこう仰せにならなかっただろうか? 「光よ。あれ」、と。何に向かって主は、その力のことばをお語りになっただろうか? 闇に向かってである。無に向かってである。「すると光ができた」[創1:3]。さて、主は罪人に語りかけ、こう仰せになる。「信じて、生きよ」、と。すると罪人は信じて、生きるのである。神が望んでおられること、それは、ご自分の命令への信仰を有する、ご自分の使者たちが、罪人に向かって、彼には従う力がなく、道徳的に失われ、破滅していることを知らせることである。だが、それでも、永遠の神の御名によって、こう云うことをも望んでおられるのである。「主はこう仰せられる。起きて、床を取り上げて歩け」、と。主イエス・キリストの御名によって、あなたがたはみな信ぜよ。悔い改めよ。回心せよ。バプテスマを受けよ。これが、キリストの御力が人の子らへと出て行くしかたである。主は、あの片手のなえた人に向かって云われた。「手を伸ばしなさい」[マタ12:13]。すると、彼はそうした。また、主は死人に仰せられた。「出て来なさい」[ヨハ11:43]。すると彼らは現実に出て来た。主が命令されることには、力を与えることが伴っている。そして、主の命令が忠実に宣べ伝えられるところでは、主の力がその命令とともに出て行き、人々が救われるのである。

 しめくくりに、もう1つのことを述べよう。従順において、力は与えられる。この男は、きっとなって主に反論して、こう云いはしなかった。「起きろですと? それはどういう意味です? あなたは友だちのように見えましたが、私をからかうためにここに来たのですか? 起きろですと? 三十八年間ここに伏せっていたのですよ。だのに、あなたは『起きよ』と仰る。あなたは、この三十と八年の間、そうできるものなら私が喜んで起き上がろうとしなかった時が一分でもなかったと思うのですか? 『起きよ』、そしてあなたは、『床を取り上げよ。敷き布団をかつげ』、と仰る。私にどうしてできましょう? 私はこの三十八年の間、小袋1つも持ち上げたことがないのですよ。だのに、あなたは私の下にあるこの布団をかつげと仰る。あなたは私を物笑いの種にしているのですか? そして、歩く? あなたは、『歩け』、と仰る。おおい、病人仲間の皆の衆。この人が私に歩けだとさ! 私は、ほとんど指一本も動かせないというのに、この人は私に歩けだとさ!」 このように彼は、この一件を論じ尽くせたはずだし、それは非常に筋の通った議論であったであろう。また、《救い主》は、むなしい言葉を語ったとの罪を宣告されていたであろう。

 このように語る代わりに、キリストが、「起きよ」、と仰せになるや否や、彼は起きようという意志を起こした。そして、起きようと意志し、起きる動きを起こし、彼自身も驚愕したことに、実際に起き上がった。彼は起き上がり、かがみ込むと、自分の寝床をくるくると丸めたが、その間ずっと驚嘆に満ちていた。寝床を丸めて、ひょいと肩にかつぐ間にも、彼のからだのあらゆる部分は歌を歌っていた。自分でも驚いたことに、彼は自分の足腰の関節が動くことを見いだし、寝床をかついで歩き去ったのである。奇蹟は完全であった。ちょっと待った。おい、止まれ! こっちへ来てくれ! なあ、あんたには、こんなことが自分でできる力があったのか? 「いいえ。私ではありません。私はここに三十八年間伏せっていました。私には、あの『起きよ』ということばが私のもとにやって来るまで何の力もありませんでした」。「しかし、あんたはその通りにしたのか?」 「おゝ! そうです。見ての通り、私はそうしました。起き上がりました。寝床を丸めました。そして、歩いて行きました」。「しかし、あんたは、何かの力で無理矢理に動かされてたはずだ。それが、あんたの足や手を動かしていたんだろう?」 「とんでもない! 私はそれを自由に、朗らかに、喜んで行ないました。無理矢理させられたですって? 失礼ながら私は、自分にそうできたと考えると両手を打ち鳴らしますよ。私は、あの古ぼけた寝床に戻って、そこにもう一度伏せりたくなどありません。いやですとも」。「なら、あんたは何をしたんだ?」 「いやあ、私には自分が何をしたかほとんど分からないのです。私は、あの方を信じました。そして、あの方がお告げになったことを行ないました。すると、不思議な、神秘的な力を感じました。ただ、それだけのことです」。「さあ、それを説明してくれよ。回りにいるこの連中全員にさ」。「とんでもない!」、とこの男は云う。「私は、これこれこうだったということは知っていますが、その説明はできません。ただ1つのことだけ知っています。私は足なえであったのに、今は歩けるということです。私は無力だったのに、今の私は自分の寝床をかかえることができます。私はそこに伏せっていたのに、今では真っ直ぐに立っているのです」。

 私は今晩あなたに救いを説明できない。それがいかにして起こるか説明できない。だが、私は覚えている。私が、これまで世に生を受けたいかなる罪人にもまして絶望しきって会衆席に座っていた時のことを。私は説教者が、「キリストを仰ぎ見て、生きよ」、と云うのを聞いた。彼は、私に向かって云っているように思われた。「見よ! 見よ! 見よ! 見よ!」 それで、私は仰ぎ見て、生きた。その瞬間、私の罪の重荷はなくなった。私はもはや不信仰によって不具になってはいなかった。私は恵みによって救われた罪人として帰宅し、今に至るまで主を賛美している。そして、――

   「血潮したたる みきずの流れを
    信仰により 仰ぎ見しより
    贖いの愛こそ わが調べなり、
    今より後も 死ぬるときまで」。

私はいま感銘を受けている。今晩は、これほど多くの人々が、この福音の命令にそのまま従おうとしているのである。「信じて、生きよ。主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、あなたも救われます」。おゝ、そうするがいい! そして、神には栄光が、あなた自身には平安と幸福が永遠にあらんことを! アーメン。アーメン。

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無力と全能[了]

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